May 31, 2005

リビング・暮らし・living

遠藤周作強化月間に先立ち、ジャンルを再び変更。
今度はどこかって?
住まい・暮らし・・・

だって、「学び・教育」でほかのブログを見たら、まさしく学び・教育の世界なんだもの。これから自分が受験しようとか英語を勉強しようとか。なんか場違いなものを感じてしまい、変更を決意。

かといって、「本・書評・文学」のビジネスライクな雰囲気もつらいものがあるし、第一わたしは不景気なところに身を置きたくないのである。わたしが鬱地獄へ突入したら誰が責任を取ってくれるのだろう?

「日記・ブログ」にしようかと思ったんだけど、上位ブログのエロチックな雰囲気についていけそうにない。かといって、「出産・育児」だとあまりにもストレートすぎて、逆に育児ストレスがアップしてしまいそうになる。これではいかん。

それで無理やりこじつけのように、「住まい・暮らし」にする。livingってなんかいいよね・・・響きが。

考えてみれば、ひねもすを詠うだけならそれも一つの暮らしだし、あれこれ本を読むのも暮らしだし、何かを学ぶのも家族のことを考えるのもすべて暮らし・・・これから人生の下り坂をひたすら歩こうというわたしにはこの手のジャンルがちょうどよいのではないかと。怠惰に暮らすもよし、まじめに暮らすもよし、何をしていてもひねもすは過ぐ。

投稿者 Blue Wind : 04:52 PM | コメント (0) | トラックバック

May 29, 2005

え・・・・・まさか・・・・・・・

神父さんのサイトへ行ったら・・・・・・アフィリエイトのバナーとコーナーが。(パタッ)
あれをやれって言うの〜?
だから、・・・・・・ぶちぶちぶちぶち(←文句)
よのなか1円の金でも稼ぐのはたいへんなのら・・・・・・・(パタッ)

投稿者 Blue Wind : 01:41 AM | コメント (0) | トラックバック

May 28, 2005

遠藤周作 11冊

本屋で4冊、アマゾンで7冊(モーリヤックを含む)、遠藤周作の著書合計11冊を購入。

購入の次第はこうである。
ぐたという活字中毒者が、これだけはわたしに読ませたいとのたまう記述を発見。しかもその記事には書評のくせに書評が書かれていない。それでは遠藤周作を読んだことのないわたしにはちんぷんかんぷんではないか!

そのため、スーパーへ行くついでに本屋へ寄りその本を探す。あいにく見つからない。そこでほかの本を立ち読みをするうちに、彼女が何を言いたいのか少し理解できたため、遠藤周作を4冊選んで買っていた。(手が・・手が勝手に、こら!でも料金支払いました)

そこでついでに本屋で見つからなかったために、その本をアマゾンで検索することになる。以前から高いから迷っていたモーリヤックも発作で買った。ネットで検索しヴァカンスの予約を済ませたために、パンフレット予約との差額を考えるとわたしがそれくらいの贅沢をしても赦されるというものである(たぶん)。

*****

正直に語れば、わたしはある種の宗教問答には飽き飽きしている。誰が仏教徒でクリスチャンでモスリムでもそれがわたしに何の関係があるというのだろう?神道も仏教も神仏思想もアニミズムもその他諸々宗教心理学でもそれがわたしに何の関係があるというのだろう?

例えば、仏教。わたしはお釈迦様が好きである。なんか文句ある?
空・・・・すべてのものが空。
やがて、心以外が空。(ややこしい)
四苦。悟り。菩提樹。美しい。
般若心経も昔は諳んじていたし、写経までやらされた。

それでいてどうしてわたしがイエス・キリストを愛するのか、あえてここでは書かない。

日本の仏教が形骸化したと言われるのは江戸時代らしい。幕府の政策の一つに寺檀家制度というものがあり、先祖の供養をしない人たちは皆クリスチャンと断定された。明治に至っては、皇室から一切の仏具が排除され、その伝統は今でも続いているらしい。

つまり、政府が宗教に関与するとろくでもないことになるという見本のような有様で、それが今日まで続いているような気がするくらいだ。

どうして江戸時代の人たちがクリスチャンと思われたくなかったのか・・・そして、そのことが仏教そのものにまで影響を及ぼしていくこととなったのか・・・さらに時代背景もあるのでしょうけど、科学の進歩により、さらに精神よりも物質に幸福を求める社会思想の流行により、宗教そのものが形骸化していくこととなる。日本だけが例外ではないだろう。

人間が素朴な信仰を失った瞬間、どんな宗教に属していようとも無意味である。それは仏教だから、キリスト教だから、という問題以前の問題であり、わたしにつまらない宗教問答を仕掛けてくる人たちはむしろ形骸化したものに癒しを求めているのではないかと思うことが多い。生活であり、文化であり、スピリチュアルな部分よりも慣習やしきたりの中から異臭を嗅ぎ分けるかのように議論に持ち込みたがる。

だから、そういう時には一切の問答をやめるべきだということをこれまでの経験から学んだ。つまりは、本当に宗教について話し合いたいのなら沈黙しましょう、と言いたい。互いに沈黙した中でお話し合いができた時、その時には本当の意味で何かを察知し、互いに互いの心の中を理解することができるような気がする。

イマジネーションとして、静かなイエスさまと静かなお釈迦さまが対話している瞬間を想い描けばそのことが少しは理解いただけるのではないかと。静かな沈黙と瞑想の中で、彼らの出会いにおいて、言葉など必要かどうか・・・気持ちが通じる、心が通じる、沈黙こそが議論であり、そこには愛と慈しみと悟りの静けさだけが存在している。

それは書きすぎかもしれないけれども、あえてつまらない議論が必要なのはそのような静けさを持たないからだとわが身を振り返り反省することしきり。

話を江戸時代に戻せば、結局は、宗教を制度のようにしてしまうことにより、聖職者よりも権力者の都合が優先されていったということなのではないかと。そして、その傾向はますます明治時代には強まり、日本は戦争へ突き進むこととなる。本当の意味での信仰や宗教を求めるより、人間を神と祭るようになる。王を神と同一視する姿勢がいかに危険なものであるか、実は背徳の匂いすら感じてしまうのはわたしだけだろうか。

つまり、何が悪であったのか・・・・神の目から見て悪ということがどういうことなのか、聖書にもはっきり書かれている。そのことに対して誰かが何かを語る必要性すら感じていない。つまり、今や天皇制そのものが形骸化したものになりつつあり、形骸化したものに宗教性を求めても無意味である。

*****

おそらくは、天皇制を持ち出したことですでにバカバカしいと思った人たちも多いのではないだろうか?

宗教が形骸化するということは、この「バカバカしい」という感覚そのものかもしれない。それでいて占いとかね・・・自分の先祖だけは大切にしようという姿勢とかね・・・もしかするとそういう姿勢もある種の権力構造の中で発生した出来事の一つなのかも。

というわけで、カトリック作家だからという理由でわたしはその作家の作品を読もうと思ったことはない。ただ、読むのであれば何を言わんとするのか、何のために書かれたものなのか、その作品を書こうとした原動力はどこにあるのか、せめてその程度まで把握できる程度までは読んでみたいものである。

今、本当に読みたいのはシモーヌ・ヴェイユのほかの著作物なんだけど、ちょっと寄り道する意味もあり、ちょっとの寄り道にどのくらいの時間が掛るのか・・・・今年のヴァカンスのゆくえ次第。果たしてわたしはビーチで何を読んでいるのでしょうか。それにより、その年を振りかえるのもわたしの楽しみの一つである。

投稿者 Blue Wind : 06:25 AM | コメント (0) | トラックバック

May 27, 2005

なんかね・・

もう忘れてしまっているよね・・・ブルーカラーとかホワイトカラーという言葉。忘れているどころか若い人たちなどは知らないかもしれない。ブルーカラーというのは主に肉体労働者のことで、ホワイトカラーというのは知的労働者のこと?

シモーヌ・ヴェイユを読んでいるうちに思い出す旧い言葉。ブルジョアジーとか労働者階級とか。それに変わって台頭してきたのが知識人という言葉。何もかもが今の時代には嘘っぽい。生産性とか労働力という言葉はロボット産業を生み出し、そのうち人間が必要なくなるかもしれないと言われていたのはいつの頃だろう。ブルジョアの代わりに今はセレブって言うの?知らんわ・・

実家が裕福で、広告代理店勤務⇒カウンセラー⇒花屋の親父と転職して、一番儲かっているのが花屋らしい。
さてさて・・・あなたならどーする?

家業を継ぐ?
⇒親父が元気でかったるい。

広告代理店に勤める?
⇒やっぱ、都会のサラリーマンはつまらない。親も戻って来いとうるさい?

カウンセラーになる?
⇒毎日、病気の人を相手にしている苦労。想像を絶する苦労があります。

花屋になる?
⇒毎日かわるがわる美人の主婦が外車で1万円くらいの花を買って行く。フラワーアレンジメント教室。一人で気ままな稼業。

なんかね・・・

投稿者 Blue Wind : 12:18 AM | コメント (0) | トラックバック

May 24, 2005

花が花なら花でよし

アメリカのテロ対策にはうんざり。
うんざりと語りながらも、今年の夏はグアムへ行くことにした。せっかくだから、「米国政府による外国人渡航者からの生体情報読み取り措置」がどんなものなのか知りたいでしょ?入国審査の際、顔写真と指紋が撮られるという実に評判の悪いテロ対策。ハワイだとその間にウクレレ演奏までしているというし、たかがグアムと思っていてもやっているらしい・・・(笑)

なんか、こうね・・・・数年の前のハワイ。
プールサイド。
娘は子ども用のプール、ほかの子たちと一緒。
親は暑いのでプールの裏の木陰に座っていたところ、監視員のおばさんにきつく叱られたことを思い出す。

親が子どもの傍から離れるのは児童虐待に相当するらしく、おおげさでおおげさで、わたしの感覚からすれば腹が立つ。あー、ここは日本じゃないんだなーってしみじみ感じた。

これが日本ならね・・・子どもが群れており、その傍に数人おとなが一緒に座っており、そうなると少しくらい親が離れていてもまずは叱られるということはないですからね。大抵は子どもは子ども同士で遊んでいるし、これが本当の幼児で子どもから目を離すと何をするかわからない年齢ならともかく、そろそろ小学校の高学年になろうという子どもをずっとつきっきりで見張っているというのは考えられない。

そういう状態が中学になっても続くらしい。アメリカでは15歳未満の子どもの傍から保護者が離れるとそれだけで児童虐待で罰せられる。学校のすぐ傍に住んでいても、親が毎日送迎しなくてはならないという噂は聞くけれども、なかなか実感が湧かない。

大昔、初めてハワイへ行き、ほとんど同じ場所に座っている時、小学生くらいのアメリカ人の男の子がやって来て、とても礼儀正しいのに驚いた。要するにボディボードをどこで借りたのか知りたいらしく、それを質問しにやって来た。親なんていなかったけどな・・・その時には。おそらくはビーチのどこかに座っていたのだろう。今だったら罰せられてしまうのだろうか・・・その子の親は。

それに比べるとアジアンビーチは平和。少なくても法律で罰せられることはない。子どもにもやさしい。リゾートなんだからそれが当たり前だろう。なのに、このところのアメリカ領のヒステリックさを考えると、リゾートへ行ってまで育児のストレスを感じるというのはなんなんだ。

子どもが子どもだけで学校へ行けるだけでも喜ばないといけないのだろうか。それでいて、アフガニスタンの子どもたちが遠くまで歩いて子どもたちだけで水を汲みに行っている写真を眺めると、どっちが平和でないのかわからない気分に陥る。

いずれにせよ、中学生になっても娘のことをわたしはプールサイドで見張っていないとダメなんだろうか・・・ただでさえ日影の椅子はゲットが難しいというのに、せっかくキープしても燦々と暑い中で6倍の紫外線を浴びながら子どもを見張らないとならないとは・・・(泣)

ヨーロッパではEU加盟国の人たちなら国際線でも国内線のよう。ペルージャ空港でも税関でトランクまで開けさせられたのはわたしくらいのもので、見渡せばあんな田舎に夜遅くに飛行機で到着するのは地元の人たちばかり。それがアメリカの空港だったら、顔写真と指紋の採取まで?

インターナショナルな感覚って一体何なのだろう?

結局は、日本にいたらせいぜい大阪とか東京とかそういうローカルな感覚の違いについて感じる不満が、せめて言葉が通じるだけでもありがたいと思えるようになることだろうか。いや・・・その手の違いについて鷹揚になることかもしれない。

空は空だし、太陽が太陽ならかまわない。それ以外は、それなりに何かが存在しているとしか思えない。花は花だし、海が海なら喜ばなければ。オージーに「あれは海ではない」と海を見て言われたのには参ったが・・・(正解は、bayだそうです。おおまじな話)

投稿者 Blue Wind : 10:23 PM | コメント (0) | トラックバック

May 10, 2005

青春の一部

----大学を出て後悔しているか?

ぜんぜん。
行ってよかったと思っている。

----大学院を出て後悔しているか?

ぜんぜん。
苦労してよかったと思っている。

----その後、それが役に立っていると思うか?

残念ながら、研究で飯を食っているわけではないので、大して役に立っているとは思えない。

******

⇒トラステへのトラバ: お題 「大学へ行こう。」

わたしが大学を決めたのではなく、大学がわたしを決めた。というのは、心理学科がある大学ならどこでもよかったんだけど、今ほど数がなく、どこも競争率が高かった。だから実際のところ受かればどこでも、というのがわたしの率直な感想。(一体、いつの時代の話だ・・)

しかも、当時は臨床心理士(カウンセラー)の資格もなく、心理学科を出ても専門を生かした仕事というのはなかった。卒業後は普通に就職するか、どこかの病院で心理士をする人が多かった。わたしは研究をしたかったので進学した。

大学というのは研究をするところ。だから、特に社会に出て役に立つところではない。でも、医学部を卒業しないと医師国家試験を受けられないなど制約があることも多く、理系は仕事に直結すると言うし、のらくらと女子大へ行って何になるんだという気がしなくもない。

それでいて、縁談となると女子大が有利になることもある。閨閥というのもあるくらいだから。それでいて、わが家の場合にはあまり関係がない。

******

----何のために大学へ行くの?

研究するため。
遊ぶため。
友達をつくるため。
恋人をつくるため。
自由な時間を確保するため。
資格を取るため。

----ふざけてる?

大真面目。
社会へ出るという表現は好きではないけれども、社会に出るということは制約が多くなるということだし、わずかにでも自由な時間が確保できるのは学生くらいのものではないかというのがわたしの時代の世論だったんだけど、今はどうなのだろう。しかも結婚して子どもができるとさらに制約が多くなる。このため学生時代くらいは自由に青春を謳歌したい、というのも世論だった。

----学問のすすめ。

食べていくことだけ考えるような人生より、わずかでもそういう苦労から解放されている時間は大切。人生、どうにかなるだろうというマイペースさもあの時代に培った。就職するのなら専門学校へ行く方が有利なのではない?少なくても即戦力にはなる。

それにもかかわらず大学へ行くのは、曲がり道に強くなるためである。順風満帆なんてことはめったにないのだから・・・

やっぱ、卒業後の生活が価値観を分けているのかもしれない。学んだ学問により人生観まで変わってしまうと言うし・・・

----今からまた大学へ行きたい?

ぐわっ、もういいです。わが家はもう世代交代。ただし、娘が大学へ行く頃になったら院に復学するかも。オーバードクターを含めるとまだ3年遊べるし・・・いきなり娘の先輩になったりして。おちびに言わせると、

「お母さん、それだけはやめてぇーーー!」

母はつおい・・・

投稿者 Blue Wind : 01:26 AM | コメント (0) | トラックバック

May 09, 2005

スキル・賞罰・コミュニケーション。そしてブロガー

ブログ読者が何を考えているかということを自分に置き換えて考えてみる。

今日、わたしはブログペットが消えているのを発見し、これが今の方法では10日に一度更新しなければならないことを思い出す。そこで、のぶさんのブログ を来訪する。どうやったら普通にメニュー欄に設置できるかを相談するため。

そこで、不思議な記事 を発見する。どうやら日常生活で叱らなければならないことがあり、それについて書いているようだ。

正直言って、具体的に書いてあるわけじゃないから、何が言いたいのかよくわからない。それでも叱るという行為について考えたことが書いてあるらしい。そこでわたしはこれをネタにしようと思う。

・・・・・・・・・・・わたしにとってはそれがすべてだなあ・・・ブロガーとは。

わたしが、「のぶさん」について知っていることは、CSSについて詳しいということと、関西人であるということと、20代後半ということがどこかに書いてあったので実際にはそれくらいの知識しかない。それでも何も困らない。

わたしがのぶさんに要求しているのは、ブログペットのメニュー欄への設置方法である。どうしてそういうことが要求できるのかわからないけれども、「誰か知っているなら教えてほしい」というのがネットだと勝手に思っているので質問を書き込む。もしかするとそのうち記事がアップされるかもしれない。(義務ではない)

次に、わたしは自分が要求されたわけではないけれども、どうして近頃叱るのが流行らなくなったのかネタにしようと思う。それは記事を読んだからである。

*****

どうして叱るのが流行らなくなったかというと、学習理論の研究によるところが大きい。例えば、サルに、褒める(+)、叱る(−)といった刺激を与え、どちらが学習成績がよいかを比較する。あるいは、これに報酬(+)を組み合わせ、餌を与えたり、褒めたりすることにより、学習結果を比較する。その結果、褒めたほうが学習成績が良いということ、さらに理論的にはプラマイ0になったとしても褒めたほうが結果が良いらしく、これにより叱らない学習というのが推進されるようになった。

それではどうして叱るのだろうか?

叱るというのは負の刺激であり、学習効果には関係ないらしい。いわば賞罰で考えれば罰に相当する。罰を与えることは直接学習成績にはよい結果を残さない。それでいてアグレッシブな刺激は攻撃反応を喚起させ、どうも感情面を刺激するようである。怒ったり怒られたり、といった攻撃場面における抑制力や行動ということを学習しているのかも? 当たり前のようでいて、やってよいことわるいことを学習するということと、技能などのスキルを学習することはまったく違う。明らかに危険であるとか、攻撃場面であるとか、そういうシグナルは叱るという行為に含まれている。でも、スキルを学んだりすることには含まれない。

そうやって考えると、ストレッサーを与えるというのは、場で期待される学習とは違った行動を学習しているのかも。単に実験で期待される学習効果と、おおよそそれ以外の学習効果とは別個に考えられるため、もしかすると一つ与えて一つ失っている可能性すら考えられる。

少人数制教育と関係あるかどうかは知らないけど、グループのまとまりが一番よいのは15〜16人とされ、これはコホートと呼ばれる。軍隊がこの数の編成をするのはそのせいらしい。(実際のところは知りませんが、軍隊のことは・・・)

その次に、厳しい乳母のいる孤児院とやさしい乳母のいる孤児院の子どもたちの発育の比較研究とか?
叱咤激励とは言うけれども、これが鬱には致命傷になりかねないとか?

あれにこれにと書きたいことが出てくる。
それでいて、どうやってそれを書いていってよいのか迷う。わたしの日常生活ではないから・・・こういった研究がありますよ、と書くことと、わたしの日常雑感を書くこととはまったく違う。

ブログってなんでもありいだから難しい。

投稿者 Blue Wind : 05:13 PM | コメント (0) | トラックバック

鉄道のない街

わたし、今回、JR西日本の事故のニュースを眺めて、鉄道のない生活について考えてしまった。というのは、わたしはつくばに住んで以来何年も鉄道のない生活をしているけど、まるで不便を感じたことがない。

軽自動車2台でも1人に1台クルマが必要な土地柄だけど、その反面スクールバスもあるし、都内へも高速バスが1時間に4〜5本出ている。上りは渋滞が酷いのでありがたくないけど下りのバスは速い。鉄道と違って東京駅から市内までノンストップで1時間。

このほか成田空港や羽田空港にも1時間に1本バスが出ている。所要時間は渋滞によっても違うけど、下り路線なら、成田まで1時間、羽田まで1時間半。実際にはクルマを利用するけど・・・空港へは。

送迎バスというのが発達していて病院へもバスが出る。筑波大の中には学バスというのが走っているらしい。わたしは利用したことはないけど、誰でも乗れるらしいので小学生が通学に乗っているという噂もある。バスがないと学内を徒歩で回るのは無理でしょう・・・あの大学は。わたしはいまだに迷子になる。

去年の小学校の運動会では校庭へのクルマの乗り入れが禁止になったため、路線バスを2台借りて学区を巡回。20分に1台くらいの割でどちらかのバスが巡回しているので、結構、便利だった。子どもは歩いて通学しているのだから歩いて行けないことはないけど、なんせ遠い。赤ちゃんを連れていたり、運動会のお弁当などを運ぶことを考えたらバスやクルマがないと不便。しかも送迎バスではなく路線バスなので、自由に自宅と学校を往復できるし・・・帰りは子どもたちも一緒にバスに乗って帰って来た。

徒歩、自転車、自動車、バスというのが市民の通勤・通学の足。

要するに、人口が多いからバスでは足りず鉄道が発達する。あんな事故がありしばらく電車には乗りたくないと思っても乗らないと生活ができない。考えただけで憂鬱になる。結局、職場なんだよね。つくばみたいに職場が市内にあると、その近所に家を建てたり、徒歩や自転車で通勤する人もいるし、学生にしたところで結構遠くまで自転車で遠征する。脚力が違う。

うちのダンナでも職場が近くなったらお昼は家に戻ってきて軽く食べてからまた出勤とかね・・・ヒマな時には。でも、5分で戻って来られるというのはどうなんだろう・・・主婦にとっては。考えてしまう。朝も娘より後に家を出るし、飲み会の時も一度家に帰ってきてから出かける。

のんきなんだよね・・・家が近いということは。結構、家でウダウダしている。

トーマスクックを眺めて、「ほかに電車はないの?」と思うのは日本人だけなのかもしれない。インフォで訊いても「電車はたくさんあるから」と言われる。「そんなこと言ったって、せいぜい1時間に1本か2本しかないじゃない?」って思うのも日本人だからなのかも。座れないということはないし、少し混むようなら臨時便が出るし・・・

遠くへ遠くへ毎日毎日・・・ラッシュとか?女性専用車両とか?あーあ。変な国。

たまにショッピングや行楽へ行くのとはわけが違う。かといって職場の近くが住むに快適とも言えない都市環境。公園や子どもの遊び場が少ない。クルマは多いし、人も多い。快適を買うためにはコストが掛る。

もう、そういう時代じゃないよね・・・いい加減。

大学も郊外に移転しているし、いい加減、企業も官庁も郊外に移転しないと。通勤や通学が楽になるだけで、人生に費やす余分な時間が削減できそうな気がする。

なんで文句言わないのだろう・・・不思議だ。

投稿者 Blue Wind : 02:19 PM | コメント (0) | トラックバック

May 06, 2005

思想のない人々

短歌を詠もうと思ったのだけれど、もう今の若い人たちに、「これが教育なのよ」と語っても通じないことに気が付く。

民主主義国家には民主主義教育があり、軍事国家には軍事国家の教育があり、共産圏には共産圏の教育があり、そうやって社会がつくられている、ということをもはや彼らに語っても無理なのかもしれない。算数を勉強したり、外国語を学ぶことが教育なのではなく、思想そのものがあって社会というものが形成されているということを誰も彼らに教える人たちがいないのかもしれない。もはや、親も家族も学校も、社会のすべてが同じ価値観を持ち動いている。実はそれが教育によりつくられたものであるという自覚がないままに生きていくしかないのだろうか。

どうしていち先生がパリへ行かなかったのか・・・愛国心とは何か・・・そして、戦後間もなくはまだ生まれてから一度も財布というものを持ったことがなく、物を買うためにはお金が必要だということも知らない人たちが存在していたこと。ありとあらゆる点で、いろいろなことが変わってしまったのだということ。それすら知らずに一つのイデオロギーの中で生きていくしかないのだろうか。

かといって、わたしはほかの思想が素晴らしいとは思ってはいない。

ただ、単に学んだり学習するということと、国家単位の教育とを一緒に考えている人たちがあまりにも多いことに、わたしはかすかな不安を覚える。

わたしは父が大正生まれで、母が昭和の生まれ。年寄りっ子でもあり、彼らの受けた教育がまるで違うためにその狭間で悩むことも多々あり、日本国憲法と大日本帝国憲法の狭間に苦しみながら教育を受けてきたような思いがするくらい彼らの思想や価値観は違っていた。

何気ない日常の中で、思想や教育の違いというものを感じ、さらに時代が進むに従い、新しい価値観や社会情勢というものの中で、何が正しいとか間違っているという前に黙っていることすら学んだ。それは戦後間もなくの教育を受けた人たちが使う民主主義という言葉が酷くエゴイスティックさを包括し、自分勝手に物事を推し進めることが民主主義であると勘違いしている人たちが数多いたことにも因るのかもしれないし、実際のところわたしにはよくわからない。

何が正しくて間違っているのかは後世の歴史的判断に任せないといけないらしく、天皇制とは一体何かとか、それがどうして否定されつつ今日まで続いているのかとか、もはやそういうことはわたしには関係ない。戦後の民主主義がどういうものであったか、それが少しは洗練されたものになったのか、社員は就業時間を離れても社員なのか、責任とは何か、モラルとは何か、ありとあらゆるものがもはやわたしにはどうでもよいことのように思える。

わたしは戦争を知らない世代である。

そして社会はそういう世代により、再び変容しようとしているかのように思えるから不思議だ。

投稿者 Blue Wind : 11:25 PM | コメント (0) | トラックバック

May 05, 2005

無駄なミサイル、無駄な予算

もっと真面目に考えないとダメなのかもしれなけど、とうとう中国の反日デモは鎮圧されたようで、今さらながら国家が本気になったらそういうものなのかもしれないという諦めが。インターネットにしたところで、結局、閲覧禁止になってしまえばサイトは無いも同然。危険地帯には武装兵。これで本当に反日感情や抗日運動が消えたわけではないでしょうけど、とりあえず中国政府の対応を見て日本政府が怒る理由は無くなった。

その一方で、北朝鮮はまたミサイルの無駄遣い?
これもね・・・わからん。わたしの理解の範疇を越えている。これが日本だったら国民は怒るような気がするけど、どうなんでしょう。経済制裁に腹を立ててミサイルを飛ばす?気持ちはわからなくもないけど、ミサイルだってタダじゃないだろうに・・・って考えるわたしはせこいのだろうか。

よくね・・・感情が暴発し、怒りに震えている人たちに語るとき、案外有効なのが、「経済を考えろ」という言葉らしい。夫婦喧嘩で皿を割る前に皿の値段を考えるとか、離婚の場合の慰謝料や生活費のことを考えるとか、上司と喧嘩して仕事を辞めたくなった場合にその後の転職や生活のことを考えるとか、あれにこれにと煩雑さを考えると大抵の人たちは冷静になってしまう。

それが素晴らしいかどうかは別として、人間に理性的判断をもたらしているのがその手の話なのかもしれない。

3年後には北京オリンピックを控え、中国では着々と準備をしている。もし何かあってオリンピックが開催されなくなればその経済的損失は莫大だし、楽しみにしている人たちもがっかりする。中国を世界中に向けてアピールする機会を失う。それどころか国際的な信用も失うかもしれない。そういうリスクを政府が無視するとは思えない。

まじに、北朝鮮で開催されたワールドカップ最終予選のイラン-北朝鮮で観衆が暴徒化したために、北朝鮮で開催されるはずだった日本-北朝鮮が観衆のいない第三国で開催されることになった。国際サッカー連盟の制裁は厳しい。安全面が最優先であるという見解は、サッカーだけではなくこれだけテロが多発している時代だから当たり前なのかもしれない。

自爆テロ、か。
自分が死んでもかまわない人たちなのだから説得のしようが無い。

憲法第9条の改正についても、わたしは反対派。これ以上軍事予算を増やされるとして、その予算はどこから出るのだろう?なんか、もう、いい加減にしてほしいと思う。日本を守ってくれているのが平和憲法ではなくアメリカの軍事力の脅威だったとしてもそれが何だと言うのだろう。結局、アメリカ軍が日本から撤退し、その分、日本政府が軍事費を増強し、徴兵制を復活させた場合を想定した場合、その予算はどこから出るのだろう?考えただけで憂鬱になってしまう。拳銃の弾だってタダではない。それをおもちゃのように子どもが撃つわけ?ミサイル飛ばしたり、軍事演習をしたり、そういう費用はどこから捻出されるわけ?

武器は高いから売れば儲かる。それでいて買うとなったら高い。それでいて、何のためにそういう予算を使わないといけないのか理解に苦しむ。

イラク戦争だって、戦争は損にもかかわらず実行するのは石油の利権が絡んでいたからではない?日本が派兵しているのも結局石油の利権確保のため。

中国で日本製品の不買運動が起こったとして、これに対して日中関係が悪化すれば日本が中国に対して行っている技術援助は無くなるだろう。つくばにもたくさんいるよ・・・中国人研究者。大抵は国費でやって来ている。学費の高い私立幼稚園にも多い。えっちらおっちらお母さんが自転車で送迎。そこが日本人とは違うだけで、教育に対する熱心さでは適わない気がする。

というわけで、それが政治なんだろう。

そういう政治や社会情勢に振り回されて、あれにこれにと人の価値観も人生観も、子どもたちの教育も変わる。歴史の教科書一つにしたところで書かれている内容が微妙に違う?そういうことを考えると、主観的判断というのはむしろ客観的判断を凌駕する気がするくらいだ。

仮にそれがわたしの主観的判断だったとしても、理屈を凌駕してわたしは案外日本国憲法が好き。特に前文。

これがアメリカ軍の置き土産だとしても、実はそういうことはどうでもいい。要するに、誰が言っても正しいことは正しいし、素晴らしいことは素晴らしい。

あらゆる面で憲法第9条の改正には反対である。


⇒トラステへのトラバ : お題 「憲法第9条」

優位差とバランス

近頃は、大脳機能局在説が流行っているため、すぐにこれを応用していこうという姿勢が加速しても無理はない。ところが実際には脳梁によりつながれているため、左脳と右脳の働きは密接に関連し、どちらも不可欠なものである。しかも、脳は発達するものであり、任意に与えられた環境因子よりも、ごく日常的な生活あるいは生活環境により与えられる刺激のほうが遥かに重要であることは語るまでもない。

中には水頭症により大脳皮質がほとんどない少年が数学においては天才的な才能を見せたとか、脳の可塑性を考慮すると、ある特定部位の能力だけを高めようという姿勢こそがマニュアル化教育のようで、現代日本の思考様式を物語っているかのようだ。

大雑把に語ると、左脳は言語が優位、右脳は視空間が優位と言われている。あまりにも大雑把すぎて、この複雑な世界を簡単に語るのは概念を説明するようなもので、かなり難しい。

例えば、りんごのイラストを瞬時に提示し、それが左右どちらかの空間に現れたかにより言えたり言えなかったりする。つまり、正面向かって右側に現れれば”りんご”と言えるし、左側に現れたら”りんご”と言えない。実験が語っているのはこれだけのこと。

右側にイラストが提示された場合右目で見る。その情報刺激は左脳により処理される。従って、左脳で処理された情報のみ、言語によりアウトプットできる、ということがこの実験から分かる、ということなんですが・・・

でも、目でも利き目があるし、右利き左利きというのは手だけではない。だから、特殊な実験下でもたらされた事実だけがすべてとは語れない。

似たような例を挙げると、右半分にりんご、左半分にレモンが描かれたイラストを提示し、「何が見えましたか?」と問えば、「りんご」と答えるのに対し、「何が見えたか、同じものを選んでください」と問えばレモンのイラストを描かれたものを選ぶ。

つまり被験者は、言語で問えばりんごが見えたと答え、見えたもの(形状)で問えばレモンが見えたと答える傾向が高い。

このことから、左脳は言語が優位、右脳は視覚情報が優位と括られる。が、しかし、通常は、りんごならりんごを見ているため、何気ない日常の中では意識されることはない。「何?」と訊かれて「りんご」と言語で答えるなら左脳が働いているのでしょうし、それでいて実際に形状を知覚しているのは右脳のため、イラストの絵と同じものを選ぶといった行為で機能しているのが右脳だからといって、それが何だというのだろう。

このほか、目をつぶってりんごを触り、「それがどういう形をしているか?」と想い描く力も右脳ということになる。それを言語で語るには左脳が働いているのだろうか。ややこしい。実際には、右手で触っても左手で触ってもりんごだと分かるし、右目で見ても左目で見てもりんごだと分かる。そうなると記憶の問題とかね・・・右脳と左脳が脳梁でつながれており、さらに複雑な脳の情報処理を考えると、局所的に偏った志向にはなにやら胡散臭いものすら感じてしまう。

ところが、個人差というのもあり、言語機能にしても右利きの人と左利きの人とではどちらにその中心があるかもばらつきがあり、実際には脳に障害が発生してその機能が失われて初めて分かることも多い。さらに、空間視能力では男子のほうが女子よりも発達していたり、言語能力では女子のほうが発達していたり性差も報告されており、一概に何が素晴らしいとも語れない。

さらに、こういった偏りが思考パターンの違い、価値観の相違、人格の違いにまで及ぶとなると、能力というよりも認知パターンのスタイルと語ったほうが適切ではないかと。

人間というのは複雑な生き物で、脳はさらに複雑な構造を持ち、右脳・左脳といった発想で語るにはいささか無理があるのではないかと。特定部位を刺激し、その能力を高めるというのは、実際には特定のスキルを育てているということで、能力と言ってしまうのは言いすぎのような気がするのだけれど、どうなんでしょうね。

用語の使い方自体が少々意味がずれているのかもしれない、トラステと・・・この手の記事を書くのは難しい。


⇒トラステへのトラバ : お題 「右脳開発で能力UP!」

投稿者 Blue Wind : 01:19 PM | コメント (0) | トラックバック

May 03, 2005

ゆとり教育は国民に対する教育サービスの低下にすぎない

「学び・教育」にジャンル変更して、一発目の教育ネタ。
トラステのお題 : 「ゆとり教育をどう思う?」

あっさり語ればこの国に、仕事よりゆとりがほしいと思っていらっしゃる方がどれくらいいるのか知りたい。正確に語れば、ゆとりという言葉に含まれたニュアンスは、生活のゆとり、こころのゆとり、その他諸々ゆとりのある暮らしへの関心である。

余暇をどうするかとか、ショッピングや買い物、その他わたしの場合は昼寝をゆとりと呼んでいるけれども、そもそもがそういうゆとりという概念が教育に持ち込まれること自体がおかしい。へん。

考え方としては、わたし的には週休2日制で、学校の連休も増えたし、家族で過ごす時間、友達と過ごす時間を考えるとゆとりがあるほうがいい。でも、それは去年くらいから少しずつ変化し始め、「夏休みくらい家でのんびりしたい」という娘の言葉に象徴される。それまでは学校から帰ってきたらランドセルを放り出し、公園や友達の家に遊びに行ってしまうのが普通だったのに、高学年になるに連れて、逆に家でのんびりしたがるようになる。ふしぎ。

一つには、高学年になると習い事や塾で忙しくなる子が増え、学校の行事でも運動会や合唱コンクールに向けての居残り練習などで4時くらいまで学校がある。そうなると親は送迎しなければならない。子どもにしてみれば学校が終わったと思ったらすぐに塾とかね・・・平日はやたらと忙しい。

それでいて、教科書はうすぺらになっていく一方で落ちこぼれのいないクラスということで家での宿題は増える。土曜日がお休みになったせいで、そのうすぺらな教科書をこなすだけでも大変らしい。

幼稚園のほうがよほどゆとりがあった。

冗談ではなくて、体育や英語の専門教師がいて、さらに付属のピアノ教室へ通わせると先生が勝手に園内のお教室に連れて行ってくれる。自宅の前までバスが来てくれるので、親はほとんど何もすることもないし、給食も制服もあるし、1人でさせるのと違って皆でするから娘も遊びの延長にレッスンがあるという感じ。

それが公立の小学校へ通うようになると、何もしてくれないから習い事をするなら自分でやらなければならない。できればいろいろな側面で教育が学校でなされていたほうがよほどゆとりを感じる。つまり、今のゆとり教育は国民に対するサービスの低下である。

できればもっと授業時間を増やし、今は一部でしか行われていない英語のレッスンや選択教科の増加など小学校のうちから国でも多様で質の高い教育サービスを実施してほしい。なんで個人負担であれこれやらないとダメなのか理解できない。生徒のニーズに合わせた授業編成とかね・・・放課後のグループ・レッスンとか。学校が終わってそれから・・というほうが遥かにゆとりがない。正直に語れば、親の所得によっても子どもが受けられる教育量が変化しているのを感じる。

だから、このところ私立に人気が集まる傾向が高い。理由はそのほうが経済的にも安いかららしい。例えば、中学から一貫性の場合、5年間で高校までのカリキュラムを終了し、高校3年は受験のための専門教育期間になる。公立へ通ってさらに塾やら予備校やらへ通うより、そのほうが時間的にも予算的にも余裕がある。さらに、スクールバスがあるし、芸術系の進学にも力を入れている学校も多い。質の高い教育内容を安価で、ってなると今は私立か? いずれにせよ、学校でやってくれたほうが移動がない分、親も子も楽だ。

結局、ゆとり教育というのは教育のサービスの低下としか思えない。子どもの教育にもっと力を入れるほうがまともな政府じゃないか?

投稿者 Blue Wind : 04:21 PM | コメント (0) | トラックバック

明治から昭和にかけて

風邪薬の話を書こうと思ったわけじゃない・・・ダメだ、ボケてる。
ダジャリスト☆ぐたのところからネタをかっぱらって戦後GHQの話を書こうと思ったんだっけ・・・とは言うものの、わたしの世代でもすでにGHQって言われてもピンと来ない。ましてや、うちの娘になると平成生まれだからそういう言葉があることも知らないかもしれない。

たまに思うんだけど、議論は悪魔を呼ぶし、寡黙は天使を連れてくる・・・って。

中学生の頃、無言実行ではなくこれからは有言実行の時代だと説教していた先生がいた。それから数十年の月日を経てわたしは思うのです・・・やはりオリジナルのほうが素晴らしいのではないかと。つまり有言実行よりも無言実行のほうが遥かに値打ちがあるような気がします。

なんでも議論という姿勢はかつての日本にはなかった。この国ではむしろ以心伝心とか、黙って気持ちを伝え合う文化を大切にしていた気がする。それがいつから変化したかといえば、戦後だろうな・・・ジャパニーズ・スマイルがどうたらこうたらとか。大きなお世話。微笑みの国タイは素晴らしいと思ってしまう。かといってマレーシアのように愛想はないかわりにやたらと親切な国というのもあるし、やはり文化の違いなんだろう。

聖書にも書いてあるではないか・・・人間が互いに理解できないようにするために、神が言葉を混乱させ聞き分けられないようしたと。そうしないと人間は悪いことばかりするかららしい。どうして言葉が一つで、皆が理解し合えるほうが悪いことをするようになるのか不思議だけど・・・(詳しくは、創世記11. 1-9 「バベルの塔」)

善いことをするときには、神を信じてすすむだけ。悪いことをするときほど、皆で話し合うものなのかも。わからん・・・

*****

ぐた家から拾ってきたネタは、これである。
⇒『占領下で日本にはなぜ反GHQ地下運動はなかったか?』

これはたしかに不思議・・・

理由はいくつかあるんでしょうけど、明治維新以来富国強兵とばかりにやたら突っ走ってきて、それまでの鎖国のツケを支払おうとしていたような時代が長かった。政策だから仕方がない。日清・日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦。何のために戦争をしていたかと言えば、ひたすら富国強兵のため。

だから、よく考えてみると、第二次世界大戦ではアメリカが参戦したのは日本の真珠湾攻撃以降であり、あれがなければアメリカが正式に参戦するなんてことはなかったかもしれない。たしか、それまではイギリスやフランスを相手に戦争していたはずなんだけど、実際の舞台はアジア・太平洋。日本軍がヨーロッパまで遠征していたという記憶はない。こうなるとどこが敵なのか分からない。

つまり、列強がアジアの覇権をめぐって対立していたから戦争になったわけで、シンガポールのラッフルズ・ホテルも日本軍の占領下だった時代もあるし、それこそ東南アジア、グアム・サイパン、満州、韓国、ハワイなどなど日本軍の侵略はひたすら軍部により進められていった。

アメリカの参戦により、原爆が投下され日本は敗戦を迎えた。

最初から反米意識が高まりアメリカに対して宣戦布告したのなら反GHQ組織というのも理解できるのだけど、日本の場合はそうではなく、アメリカというのはどちらかというとダークホースで、意識にもなかったのではないかと。世界が入り乱れて戦争をしていると、本当の敵がどこなのか分からなくなる。憎しみを持った戦争というより、ひたすら富国強兵の延長線上に敵がいた、というのが事実に近いのかもしれない。

だから、敗戦を迎え、食糧難は続いていたし、富国強兵どころかその日食べるものすら窮乏しているわけだから、一気に「何のために戦争していたのか分からない」、「政府は嘘つき」みたいな感情が噴出す。「ほしがりません、勝つまでは」を合言葉に、戦争に勝てば裕福になると信じて戦っていたわけだ・・・大多数の人たちは。(果たして、国民は騙されていたのだろうか?誰に?何のために?)

というわけで、戦後、占領軍であるGHQの指導の下に明治以来の富国政策が推進され、食糧難からも解放され日本は経済成長を遂げた。・・・・・・・地下組織ねぇ・・・・・・・あるわけないじゃない、やっぱ。

根底は、島国根性とか、鎖国とか、もっぱら自国の文化に自信が持てなくなった頃から何かが変わり始めたような気がする。

投稿者 Blue Wind : 05:02 AM | コメント (0) | トラックバック

May 02, 2005

リセット

風邪をひいてしまったようで、喉が痛い。
声が出ない。
一生懸命に大声を出しても掠れ声。
つらい。

29日にジャンルをお引越しして、30日は逆にランキングが上がったくらいなのに、1日になったらガーンと下がった。そして、今日は再び上昇している。ということは今表示されているランキングというのは昨日の朝7時までのアクセス数の結果? ほとんど一昨日の結果が反映していることになるのかも。

それと累積で決定しているのかな。今まで、リセットの意味が分からなかったんだけど、ユニークユーザー数の累積ということなら何となく分かる。だから、月末になるにつれ、ランキングの順位が動かなくなるというのはそういうことなのかもしれない。日替わりアクセス数のランキングではないから。

・・・・・・・・・数字があれば分析してみたくなるというのはクセ。

今回、ジャンルを発作で変更した。

最初は、「日記・blog」か「住まい・暮らし」に変えるつもりだった。短歌を含めて日常生活などを書くというのはそういうことなのではないかというか・・・そこをどうして強引に「学び・教育」にしてしまったかというと、一つには物品販売にはあまり関係がなさそうなジャンルだったということと、少し目立たないところが気楽でよかったのではないかということと、自分が30歳まで学生をしていたせいか、何となく「本・書評・文学」で感じていたごつごつとした異物感が、このジャンルにしたとたん消えているのを感じている。

それと心理学科というのは文学部に設置されていながらどちらかというと理系に近く、何度も繰り返して書いてきたかもしれないけど、文学や哲学のノリを嫌う。わたし個人としては心理学系のブログをつくる意志はないので、そんなことはどうでもいいとは思いつつ、雰囲気というか、相性というか、居心地の良さというのはどうしてもあるような気がする。

かといって、教育というジャンルにも実はあまり興味はなく、広義で考えれば、一つ一つの事象が学びだと思ってしまえば死ぬまで勉強。覚えなければならないことはたくさんある。本を読んで書評を書くといったようなアウトプットではなく、自分自身がまだまだアクティブに学び続けなければならない。そういう学びへの欲求だけがわたしを支えているような気がするし、いささかうんざりするようなサイバー社会においてもどうにか我慢して駄文が続いているのも、常に新しい刺激がもたらされるからかもしれない。

いずれにせよ、最終的にはインスパイア・・・

それを一生懸命に理屈で語ろうとするから疲れる。物事には流れがあり、何かをするのにいちいち理由を探していたら何もする気がなくなってしまう。

うんざりしたら、リセット。
また0からの出発。

投稿者 Blue Wind : 10:42 AM | コメント (0) | トラックバック

April 28, 2005

混濁

4ヵ月半前にアメブロにブログをつくって、いきなりアマゾンのアフィリエイトが使えることになり、意味不明のまま便乗。アフィリエイト自体をうさんくさいイメージで捉えていたために、それが奨励されるのが不思議だった。

わたしが最初に無料サーバにサイトをつくった頃は、広告バナーを貼るのも違反行為だったし、クリック募金ですら広告に相当するという理由で禁止されていた。商売をやるなら有料を使うというのが常識。

それがいつからでしょう・・・・ブログでアフィリエイトをするのは当たり前みたいになり、この前、アマゾンで一括して買った本を今度は6がけくらいでなら売れると知り、複雑な心境。今までだったら本棚の飾りになってしまっていた本とか、処分したいけど古本屋へ持って行っても1冊100円に叩かれてしまう専門書の類を考えると自分で出品したほうが賢い気がする。リサイクル感覚なんでしょうか・・・でも、正直、自分で梱包して発送するのはかったるい。

この4ヶ月半の間に、うちのブログから買ってくれたのはきのこさんだけです。

最初、「はあ?」という感じだったんだけど、アマゾンからメールが届き、ポイントが113円分ついていたので、ようやくアフィリエイトを実感した。

きのこさま、ありがとうございます!

ただし、1500円分になるまで商品券にはならない。本好きな人たちだったら買っては売り、ブログで紹介してアフィリエイトを貯め、さらにまた本を買う。本好きな人たちが集まってそういう循環が出来上がるとすごく効率がよいのかも。友達同士の本の貸し借りとは違うけど、それはそれで今の時代を感じる。

それでか。

なんで、「本・書評・文学」を、「本・書評」と「文学(創作)」に分けてほしいのか。

わたしは全然そういう意味とは違い、賞を狙っていく姿勢や叱咤激励が辛かったこともあるし、常に売ることを主体とした作家の生活臭を知るにつれ、パタッと倒れこむような重苦しさをそれとなく感じ、できれば「本・書評・文学」のジャンルからの逃避行を鬱々考えながら月末を通過している。

印税を稼ぐより、アフィリエイトで儲けたほうが儲かるかもしれない、とたまに思う。実際にはうちのブログではまるで売れないけど。でも、はっきり言って、わたしは今のところ生活には困っていないようで・・・しかも、大抵の場合、一生懸命に記事を書く時間があるなら、パートへ行く方が遥かに確実に賃金に変わる。

それでも何もしないより何かしているほうがマシという気がするし、たまにきのこさんみたいに間違えて?買ってくださる奇特な人もいらっしゃるし、記事をあげておけば検索で来訪してくださる人も増えるし、それを考えるとそういう時代なのかも。

とは言うものの・・・・これがまたネットの世界のイネガリテを煽るようで・・・・・なんか疲れる。

グチを羅列すれば、「一生懸命、アフィリエイトを奨励する義理もないし、カトリックを布教する責任もない。記事を書くのも仕事ではないし、結局は書きたいという能動的な衝動が発生しないかぎり、わたしはぼぉ〜っとしているだけ。たまに何かやればトラブるし・・・・価値観の相違は免れない」など。

とりあえず、アメブロに、トラックバックでも禁止IPアドレスが使えるようにならないかと要望を出したところ、次のようなお返事が。

*******************

cherrynut様

アメーバブログ運営局です。
ご連絡ありがとうございます。

現在の法律ではネット上でのスパム行為、嫌がらせ行為を禁止、抑制する
法律がなく、当アメーバブログでも、該当者が間違いなくアメーバブログユーザーで
ある場合には、該当者に注意、警告を行えますが、明らかでない場合には
対処が出来ないのが実情であります。
その為、コメントなどに共通IDなどを採用するよう検討しております。
また、トラックバックへの禁止IPアドレスも検討しておりますので
何卒ご了承ください。

もし、今後下記行為が頻発されましたら、トラックバックも一時
非公開にされますようお願いいたします。
尚、下記行為者への対処と致しましては無視をして、
コメント、トラックバックを削除されますようお願いいたします。
その行為に対応をされてしまいますと、その行為が
頻繁になる虞がございます。
何卒ご了承ください。

今後もcherrynut様を含め、全てユーザーの皆様に、
十分ご満足いただけるようなサービスの提供に一層努めてまいりますので、
何卒ご理解ご了承いただきますようよろしくお願い申し上げます。

アメーバブログ運営局
-------------------------------------------
人気ブログを作って、賞金ゲット!
Ameba Blog http://ameblo.jp/

アメーバブログ運営局 Mail: info@ameblo.jp
-------------------------------------------


----- Original Message -----
> 返信ありがとうございます。
>
> > トラックバックにも禁止IPアドレス機能は
> > スパム行為等を含めた迷惑行為への対応の手段として、
> > お考えなさっているのでしょうか。
>
> 書き込み禁止にしたら、今度は連日してTBが飛んできます。
> 「意見が違う」かららしいのですが、
> 誹謗・中傷を書き込まれたため、禁止IPアドレスに追加し、
> 「自分のブログに書いてください」
> と伝えたら、今度は連日してTBです。
> サイバー上のトラブルは解決不可能なことが多いです。
> ブロックあるのみ。
>
> よろしくお願いいたします。
>
>
> ----- Original Message -----
> From: "アメーバブログ運営局"
> To: < *** >
> Sent: Tuesday, April 26, 2005 2:38 PM
> Subject: [101295-2]Re:【アメーバブログ運営局より】[お問い合わせ:アメーバブ
> ログへの要望]
>
> > cherrynut 様
> >
> > アメーバブログ運営局です。
> > この度はアメーバブログをご利用いただきまして
> > まことにありがとうございます。
> >
> > 貴重なご意見をいただきましてありがとうございます。
> > ご意見を活かせるよう、運営局にて検討させて頂きます。
> > さて、一つお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。
> > トラックバックにも禁止IPアドレス機能は
> > スパム行為等を含めた迷惑行為への対応の手段として、
> > お考えなさっているのでしょうか。
> > 上記の他に、御理由等ありましたらご連絡ください。
> >
> > cherrynut様を含め、皆様が気持ちよく当サイトを楽しんでいただけるように
> > サービス、ルールについて日々改善していくよう努めて参ります。
> >
> > 今後とも、アメーバブログをどうぞよろしくお願いいたします。
> > それでは、失礼いたします。
> >
> > アメーバブログ運営局
> > -------------------------------------------
> > 人気ブログを作って、賞金ゲット!
> > Ameba Blog http://ameblo.jp/
> >
> > アメーバブログ運営局 Mail: info@ameblo.jp
> > -------------------------------------------
> >
> >
> > ----- Original Message -----
> >> アメブロID: cherrynut
> >> URL: http://cherrynut.ameblo.jp/
> >>
> >> いつもお世話になっています。
> >> トラックバックにも禁止IPアドレス機能が使えると助かるのですが・・・

**************

こういう点では、すごく対応が速いよね・・・・アメブロは。
慣れているのだろうか・・・

投稿者 Blue Wind : 01:48 AM | コメント (0) | トラックバック

April 27, 2005

メモ

眠い
あたまのなかの糸がふくざつにもつれあっている

宗教戦争の時代に戦争を終結させた一人の若者
聖フランシスコ
カトリック
パパさま
スルタン

ポルチウンクラ
シモーヌ・ヴェイユ
ユダヤ人
カトリック

北海道
アイヌ
木彫りの熊
民族
東京の夏の一人のアイヌ人の死

ロシア
北方領土

馬のいる暮らし
岩見沢のばんば

いろいろ書きたいことがありすぎて今日のわたしは寝ることにする

投稿者 Blue Wind : 02:13 AM | コメント (0) | トラックバック

April 26, 2005

鬱は魚

鬱は魚だからね・・・黙って眺めているしかない。あ、あっちいったな、こっちいったな、って。忘れていると餌がなくなって浮んでいる。

酷いと共食いとか?

だからほどほどに餌をあげて、ほどほどに水をとりかえて、後は放っておく。

ご機嫌なら、すいすい泳いで美しい姿を見せてくれる。

投稿者 Blue Wind : 01:35 AM | コメント (0) | トラックバック

April 25, 2005

インターネットを始めて知ったこと

インターネットを始めて知ったこと。
人を殺したいと思っている人たちがたくさんいるということ。
自殺したいと思っている人たちがたくさんいるということ。
鬱病で本当にリストカットがやめられない人たちがたくさんいるということ。

それで、「神に感謝」とか、「神を愛します」と、うれしそうに語る人たちにたまらなく苛々するらしく、やたらと誹謗・中傷が多くなる。つまり、不幸のおすそわけらしい。
正直に語れば、そんなものは要らない。

最初の頃、神父さんのサイトへ来訪したとき、「僕は人を殺したいと思っています」と書いてあって驚いた。
最初の頃、カウンセラーのサイトへ来訪したとき、「借金返せ」と書いてあって驚いた。

普通のサイトならありえない。

結局、癒しがほしいだけなので、カウンセラーのサイトだとメールが1日20通。大抵はそういう死にたいとか恋愛がうまくいかないとか、その他諸々心の傷について書かれている。そういう場合、レスを書かないで2,3日放っておくと、「解決しました」と再びメールが届くらしい。

そういう世界なんだよね・・・

神父さんやカウンセラーでなくても、この人なら何となく分かってくれそうだと勘違いされてしまうと、やたらと精神状態の悪い来訪者のアクセスが増える。相談のメールも増えるだろう。

はっきり言うけど、わたしはそういう人たちが嫌いだ。
来訪しないでほしいと書くとますます荒れる。
本人も分かっているだろうけど、例えば、鬱は移る。特有の不安や不愉快さがあり、たちまち自分が誰からも相手にされなくなるのではないかという怯えが走る。つまり、見捨てられ不安。

病気なんだろう。

と語ったら、きちんと治療を受けている人とそうでない人とを一緒にしないでほしいとメンヘラーに言われた。きちんと自分の病気に立ち向かっている人とそうでない人とを一緒にしてはいけないらしい。どこが違うかというと、自分で自分の病気を理解しているかどうか、薬でコントロールしているかどうか、その他諸々まったく違うらしい。

放っておくに限る。

投稿者 Blue Wind : 09:06 AM | コメント (0) | トラックバック

April 22, 2005

膀胱炎型の電話魔

⇒ネタステへのトラバ : 「電話魔の女の欲望とは」 (あれ?ネタステのお題ってニュースじゃなかった??)

■長電話魔

もー、男と女はこれっだけは違う!!と、のたうちまわるほどの違いを感じるのは電話。

今の人たちはどうなんでしょう・・・携帯があるからますますなのかな、と思いつつ、メールとかね・・・相手に負担をかけない手段というものもあるために、そんなに被害を互いに与え合うほどの電話魔ってさほどいないような気がするんだけど、単なる楽観なんでしょうか・・・?

女の世界にどっぷりはまっていると、電話魔などという悲鳴は少ない。

結婚してからはあるよ。子どもがいてちょっとでも目が離せないとか、少しでも眠りたいという時間に長々電話が掛ってくると、半ばヒステリックになるくらい腹が立つ。

それでも若い頃、友達同士で旅行に行った日には、よくもまあ、だらだらこんなに話が続くものだと思いながら睡眠不足にのたうちまわり、どちらかが眠るまでしゃべりっぱなしなんてことはざらだった。結婚してからもどういうわけか、姑の愚痴になると延々と話が続いてしまう。あーでもないこーでもない、と。話す手段が電話になったからといって、それがなんだと言うのだろう。

つまり・・・・・・自分が話すことにより、カタルシス。精神の浄化。話してすっきり、泣いてすっきり、怒ってすっきり。とにかくすっきりするために話す。どうして話すとすっきりするのか分からないけど、心の中にもやもやしたものを抱えているより、それをアウトプットすればすっきりするのは心の排泄みたいなもので、いわば生理現象でさえある。 もやもやをストックしておけるほどキャパがない、心や腹に。

それを男に求めても無駄だと知ったのは、いつからだろう・・・なんか違うらしい。

一番腹が立つのは、長話に付き合ってくれないということより、話の途中で解決策などを持ち出されること。心の中で叫ぶ。「そーじゃないのよ、そんなことを言われたいわけじゃない、ただ話したいだけ、分かってほしいだけ、このー、あんぽんたん、なんてデリカシーのない人なのかしら」って。

どっちが身勝手かは分からないけど、どうも違う種類の人間だということを痛感する。

■膀胱炎型の電話魔

わたしはこれにはあてはまらないけど(たぶん)、これで嫌がらせをしたことはあります、10代の頃。すんごく腹が立って、ずっと電話し続ける。向こうが怒って受話器をあげっぱなしにしても懲りない。116(だっけ?忘れた)へ電話して、「ずっとお話中のサインが出るんです。調べていただけませんか?」とコールする。すると、「受話器が外れているみたいですね、少し待ってください」と言われる。つまり、電話局から発信音を出してもらう。数回これを繰り返し、電話局のお兄さんに嫌そうな声を出されたのでやめた。

一つには嫉妬ね。否定されても疑惑が湧き出てきてしまえば、電話を切っても不安になる。このため、電話をしてたまたま通じなかったりすると、「どこに掛けていたのよ?」という具合に詰め寄る。特にそれが長電話だった場合などはことさら怒る。「まあ!わたしと話すのは面倒そうにしているのに、どうしてほかの人とは長電話するの?」みたいに。すると大抵は遠方からめずらしく友達が来ることになったからとか、親からとか、もっともらしい理由がある。たしかにそうやって言われてしまえば、その気持ちも分からなくはない。

が、しかし・・・・
いつでもいいという具合に後回しにされるのが許せない。

******

というわけで、長電話というのは女の習性のような気がするけど、頻繁に電話しないと気がすまないというのは、「精神的に未熟で、独占欲のかたまり、相手を支配しようとしている」という説は本当のような気がします。

が、しかし・・・・あえて言わせてもらうと、最初は誰でもそういうもののような気がするけど。そういう時に相手が幼稚だと喧嘩になるだけのことで、相手が精神的にマチュアな人の場合には自然と直るだろうし、それがいつまでも続くのなら、恋愛観や男性観そのものが狂っているのだとも思う。

まあ、一生やってろ、というカップルもいますけど・・・

相性ってあるからね。

投稿者 Blue Wind : 11:15 PM | コメント (0) | トラックバック

April 21, 2005

もう始まってしまっている

カトリックもどうなってしまうのでしょうか。わたしには詳しいことは分からないけれども、コンクラーベは保守と革新の一騎打ちみたいな形で、保守が勝ったとしか思えない。一つ分かっているのは、ヨハネ・パウロ2世よりも遥かに保守的な教皇が誕生したということ。欧州へのトルコの加盟を許さないとか、アメリカの政治にも干渉する教皇というのはすごい。

わたしはね・・・教皇というのは、教えを説くのがお仕事だから、革新的であるよりも保守的であるほうが、こんな時代だからこそ望ましいような気がしている。ほかのキリスト教ですら否定するという姿勢はさらにすごすぎる。

でも、勝手に聖書に書かれてあることを改ざんされるよりも、正統派なら正統派として正統派の神学者が教皇になるのは良いことなのかもしれない。

女性に対しても厳しい。まあ、聖書に書かれていると言われてしまえばその通りなのかもしれないし、軽やかに微笑んでいるだけのほうが世の中は通りやすく、知らん顔しているのが一番だと思うことが多々あり、要するに、説教してほしいわけ、教皇には。

例えば、イラク戦争の時だってそうだった。アメリカ世論ですら、ブッシュは神学を学ぶべきだと言う。ビシッとね、大統領に言えるのは教皇くらいだもの、がんがん言ってほしい。従軍牧師の姿を見たら、わたしなんかは背筋がゾッとするので、一緒にされたらいやだった。カトリックの国は反戦の姿勢を貫いているというのに・・・

同じキリスト教でもそれだけ違うのだもの・・・せめて、カトリックだけでも正統な道を歩んでほしいという期待はあり、それがブーイングの対象だとしても、そういうものなんだから諦めるしかない。それでも懲りずに説教するのが教皇であり、今の時代は教師ですらどこかそういう権威も権限もないことを考えると、ますます保守へ走るのも無理はない。

それでいて、考えてしまう。こんなにも保守的でよいものかどうか・・・

結局は、保守と革新の対立は続いていくのかもしれないし、それもまた時代なのかもしれない。

カトリックもいくつも宗派があるし、わたしは敷島の人だから、何となくピンと来ない。何かあれば聖書を開く。神さまとだけお話する。いろいろな人たちがいろいろ言うのは当たり前のことだし、意見が対立し、喧嘩しないことだけが平和というわけでもないらしいし、結局、調和のある社会というのが望ましい。一方がバリバリの保守ならば、革新派はさらに革新の方向を極めていくのかもしれないし、分離しそうでしないところがカトリックなのかもしれないし、本当に分離するなんてことがあるとは思えない。

そういう時代なのかもしれない・・・今は、21世紀。そして、新しい千年紀の始まりでもある。もう始まってしまったのだから引き返せない。

投稿者 Blue Wind : 01:04 PM | コメント (0) | トラックバック

April 20, 2005

ベネディクト16世

ベネディクト16世

ベネディクト16世

投稿者 Blue Wind : 07:10 PM | コメント (0) | トラックバック

合目的的読書について

⇒トラステへのトラバ: おすすめ読書術

いわば読書というのはわたしにとっては単に生活だったから持ち歩いてまで読んでいたわけで、その習慣は変わらず、今でも足下に100冊くらいの本をダンボールの中に種分けし朝からフットワーク軽く日課をこなしている。

今は、そのダンボールの中の本の多くが歌集や詩集、辞典の類に変わっただけで、そのほかにも語学関係やガーデニング、聖書が4冊積まれている。これだけの本を昔は何がどこにあるかインデックス化され記憶されていたのに、近頃ではすっかり怠惰になり何がどこにあるのか現物を見ないと分からなくなっている。

■これだけの量をつないでいるのは、目的意識

目的意識なしの読書は不毛な活字で目を潰すようなものである。一つの読書により得た知識が干渉刺激となり、次の読書を妨げる。時間と精神に余裕のある人なら別かもしれないけど。

■本は目次から読む

その昔、わたしが家庭教師から学んだ読書術というのは、「本は目次から読め」というものだった。よく考えたら、必要なことは必要な手続きにより順番に並んでおり、目次に目を通せば大体何が書かれているか分かるようになる。重複した内容が多いせいかもしれない。

■必要とはどういうことかというと、熱意である

例えば、旅行へ行く前の1週間で簡単な挨拶と5W1H系の質問と、数字を覚える。それによりコミュニケーションが随分変わる。そうなると一夜漬けをするように語学にのめる。

■集中して読む

ランダムに読んでいるようで、似たような分類に位置する本を手当たり次第読んでいく。それにより脳の働くスピードをアップすることができるようで、例えば、歌集なら歌集、詩集なら詩集という具合に読みこんでいく。一つに限定するよりも数冊を常に読み比べるくらいがちょうどいい。そうしないと逆に持続力が低下するような気がする。
小説などの場合は、同じ作家の作品を飽きるまで読む。

■携帯する

どこへ行くにも一冊以上は持ち歩く。

■興味のないものは後回しにする

必要性を感じても興味の持てないものは放置しておく。これにより多くの未読本が常に発生することになるので絶対におすすめしたくないけれども、興味のないことにエネルギーを費やすには人生は短すぎる。このため、インデックスを押さえておくということが一層重要になる。

■本屋で本のタイトルをチェックする

それはいわば黙読のようなもので、常にタイトルを記憶しておけば役に立つこともある。特に知らないキーワードが集中して並んでいるときには、買わないまでもパラパラめくっておく。とりあえず、どんな内容が書かれているのかくらいはその場で理解しておきたい。もしかすると必要になるかもしれないから。

■その本との関わりを明確にする

つまり、短く書いてもダラダラ書いても言いたいことは一つだったりする。このため、何が言いたいかをチェックしながら読む。それによりかなり難解な単語の並んだ本でも楽に読めるようになる。

■美しい言葉を拾う

知識を拾いたいのなら、出て来る用語を覚える。が、しかし、それ以外のストーリー系の書籍については知識よりも言葉を拾う。不意に脳裡に浮ぶようなインパクトのある言葉。それが脳を広げてくれることもある。

* 昨日、このお題でトラバっていたのに気がつかなかった。そういえば、書こうと思って不意に思いついて記事の内容を変更したような・・・・もう忘れている。近頃ボケが激しい。

投稿者 Blue Wind : 11:22 AM | コメント (0) | トラックバック

April 19, 2005

本との出会いは人との出会い

ぐた家を例の如く徘徊していると、今日のテーマは”本漁り”じゃござんせんか!
わたしはおんな漁りはしたことないけど、本を漁り、それでいてこのところ失望続きに悩んでいる現状を考えると、誰かわたしに「この一冊」をズバッとお勧めしてくれないかと思ってしまう。

でも、大抵の場合、ぐたさん! 
あなたの勧める本よりあなたのぼやきを読んでいるほうがわたしには面白い。

結局、本との出会いは人との出会いのようなもので、既知の世界から未知の世界への脱却への道であり、若い頃には好きな作家の小説はほとんど読み漁っていたものだし、ネットを始めて長続きしている友達はわたしの知らない世界をたくさん知っている友達のような気がするし、それでいて結局わたしは大抵の書物を眺めるよりも、「コヘレトの言葉」を読んでいるほうが楽しいことに気がついてしまった。

ほんと、それだけ・・・すべてが聖書にあることに気がついたのは、わたしがババアになったからでもあるし、それを超える書物が何もないことが不思議であり、「古今東西人間なんていつの時代も変わらない」というのがわたしの文学的ぼやきでもあるし、それに対する答えを見つけるために、人はたくさんの言の葉を必要とし、それでいて旅人がいつかは故郷へ戻るようにサウダーヂは聖書。

中谷さんは読んだことはないけど、結局、バタイユを連想してしまうし、バタイユといえばマグダラのマリア、マグダラのマリアと言えば、結局、古今東西ってことになってしまう。聖書には人間の悪がたくさん書かれており、そういう意味で完璧な人間はありえない。逆に語れば、聖書があるから人間は悪を知るのであり、善がなければ悪もなく、知らなければ通過していってしまうだけの出来事に翻弄されながら、似たような人たちが似たような人生を送るのが歴史。

神さまとお話しているほうが、人間とお話しているよりずっと面白い。だって全知全能だもの。

姑さんが近頃小説を読んでもつまらないと言う。そりゃそうだろう・・・彼女の年になれば、小説よりも実話のほうが遥かに面白い話が落ちている。長生きするってそういうことかも。姑さんの噂話は好きではないけど、それでいていまだに「へぇー」ってなる話も多いのも事実。それでいてやり直しがきかないのが人生なので、違う人生を楽しみたいのなら、読書でもするしかない。それでいて読みたい本もないらしい。

詩編 35. 28 「わたしの舌があなたの正しさを歌い、絶えることなくあなたを賛美しますように。」

心が衰弱すると、神の賛美がいかにたくさんのエネルギーが必要かを知るようになる。子どものような人でないと天国へ入れないという意味が何となく分かるようにもなり、わたしは弱いので、強い人たちとの出会いを求めている。癒しがほしいのはわたしのほうであり、そうなると巡礼へ行くしかない。そうなると、いたずらに人との出会いを求めるよりも、良書との出会いのほうがマシになる。それでいて、良書との出会いは人間以上に難しい気がする今日この頃・・・

やっぱ、聖書でも読むしかないでしょう。あと、古典。

投稿者 Blue Wind : 04:14 PM | コメント (0) | トラックバック

政府は政府だし、わたしはわたし

⇒トラステへのトラバ: 中国問題

正直に言って、中国の反日感情というものは今に始まったことでもないのに、どうして今の時期にデモが発生したのか、わたしにはそちらのほうが不思議だった。一つには日本の常任理事国入りが気に入らないということもあるんでしょうけど、インターネットでの呼びかけに応じて人々が集まったというのだから、ますます驚いた。

そうやって考えてみると、決して悪い風潮でもないような気がする。大いに活発に議論してほしいし、中国が主張するように、日清戦争以来中国に戦争を仕掛けてきたのは日本なんでしょうし、その事実を日本政府が国民に隠しているということはないと思う。大陸への進出だろうと侵略だろうと、大いにわが国の列強入りまでの苦労の歴史を教科書にも書くべきである。そして、それに対して、日本政府は常に謝罪を声明してきたことも中国人は知るべきである。

靖国参拝に関してはどうなんでしょうね・・・首相が参拝するのが気に入らないのか、戦犯を祭っているのが気に入らないのか、わたしは実はあまり興味がないので、宗教は自由だし、個人の自由ではないかと思っている。国民の義務と言われたら、わたしにはいささか釈然としない気持ちはあるものの、国のために命を落とした人たちのことを考えれば、政治家だからこそ参拝するのが当たり前のような気がするけど。

歌人をしていると、それだけで右翼と思われるらしい。でも、わたしは一般的な日本人であり、右翼でも左翼でもなく、実際問題そういうことにもいささかうんざりしながら歌人をしている。

よく考えてみたら、中国のほうから日本を攻めてきたのは、元の時代?

となると、今の時点で日本と中国がすぐさま戦争を始めるということでもなさそうだし、中国のデモ隊が海を越えて日本にやってきているわけでもないし、あくまでも中国の国内の問題のような気がするんだけど、どうなんでしょう・・・

民間はね・・・やばいなら引き揚げてくるべきだと思うし、そこまで酷くないのならしばらく我慢して模様眺めをするしかないのかもしれないし、外務省はお仕事ですからがんばってもらわないと。冷たいようだけど、おおげさな記事に便乗するように憲法改正とかね・・・やたらとナショナリズムを刺激するような姿勢は改めたい。

もう時代が違うような気がする。

結局、政府は政府だし、わたしはわたし。聖書を読んで昼寝しているほうがマシだ。

投稿者 Blue Wind : 04:29 AM | コメント (0) | トラックバック

April 16, 2005

マザーテレサの祈り----長崎市の爆心地に立って

永遠の父よ
ミサにおいてキリストの苦しみと受難に一つに結ばれて----
たくさんの人たちが受けた原爆の痛みと苦しみをあなたにささげ
日本やすべての世界の人たちが主にまもられ
ふたたび日本やすべての世界の人たちが
たくさんの恐れや破壊、不安を国々に与えた核の痛みと苦しみに
さらされませんように。
主よ、わたくしたちを憐れみください。

(1982.4.26 午後3時)

投稿者 Blue Wind : 05:32 PM | コメント (0) | トラックバック

April 15, 2005

試練

『愛に努力は不要か?』というトラバをいただきまして、あっさり語れば恋は盲目だから誰かを好きだと誰かが語ればそれが恋だとしか語れない。好きな人とずっと一緒にいたい、結婚したいと思うのはごくありふれた感情だと思うし、それでいて感情が縺れれば英国王室の三角関係を眺めるようなもので、だったら最初からチャールズはカミラと結婚していたらよかったのに、とすらわたしは単純だから思ってしまう。

若くて美しい妃はダイアナだけど、婆さんになっても一緒にいたいと思ったのがカミラだった。どうして結婚しなかったかといえば、家柄とかプリンセスとしての素養とか国民の人気とか、いろいろな点でカミラさんがおのれを知っていたからとしか思えないし、国民が興醒めするほど長い期間おふたりは不倫関係にあった。

それに終止符を打ち、結婚したことが素晴らしいと、わたしは素直に思うのです。

いろいろな試練があり、それを克服したのは愛の力でしょうし、ふたりの関係が一過性のものではなかったからにすぎない。

わたしはカトリックの影響が強いので、離婚を禁じているカトリックの教えにより、離婚したことのある人はカトリックの教会で式を挙げることができないし、結婚する前には結婚講座にカップルで出席し、ふたりの気持ちが変わらないこと、結婚とはどういうことか、などを一通り学んでから式を許されました。そして、神の結びつけた関係は消えることはない、と。

結婚はとても長い月日を共に過ごすわけですから、途中でたくさんの試練が待っているかもしれません。気持ちが醒めるかもしれません。それでも離婚が許されていないとなったらどうでしょう? 結婚する前によく考えるのではないでしょうか?

信仰というのもそういうもので、途中でいくつもの試練が待っている。泣き言もあるし、つらい思いもある。それでも自分は神を愛している、神に愛されている、そのことに気づくまでにはいくつもの試練があります。その試練を努力と呼ぶのならば、大いに努力が必要なのが愛なのかもしれない。

それに比べたら、男女の関係の努力はささやかなものに感じることがあります。

不倫に疲れて結婚したくなる、というのも本能なのかもしれないけど、結婚に疲れて不倫しているというのもどこか中途半端な関係であり、そのことが誰をも本当の意味で幸せにしない。それにも疲れて終止符を打ち、新しい人生を模索することも人間なら当たり前なのかもしれないし、結局、愛の砂漠は続いていく。

投稿者 Blue Wind : 12:41 AM | コメント (0) | トラックバック

April 13, 2005

21世紀的本音伝達無責任世界

久しぶりにホリエモンの声を聴く。つまりテレビを観ていたわけではなく、テレビから勝手に流れてきた声が耳に入った。怒っているわけでもなさそうだ。怒っているという解説のアナウンスが入っていたけど・・・記者に説教しても無意味だろう・・・たぶん。ホリエモンの語る、「あなたたちは」という表現は取材記者に向かってのたまっていたわけで、一般の視聴者を意識しているわけでもなさそう。

つまり、「一般の視聴者に対しては、自分のブログで書く」と言いたかったらしい。そうなると視聴者という表現ではなく、読者と言うべき。

視聴者というのは、2つに分類される。つまりは、能動的にその情報を知りたいと思っている人々と、わたしのように受動的に聴いている者と。すでに、構えが違う。このことは意外と重要で、少なくてもネットの場合、読者というのは受動的に存在しているわけではなく、むしろ能動的に存在しているため、そのことに慣れていると、取材記者に話すのもいささかうんざりしてきても人間なら当たり前。だったら、ホリエモンのブログの記事を読むかと訊かれても、株価には興味がない。自分がライブドア株を持っていれば別かもしれないけど・・・

わたしが興味を持ったのは、ライブドアの株価ではなく、「自分のブログに書きます」と言い切ったホリエモンのことば。

自分の言いたいこと、伝えたいことを他人を媒介として伝達するより、自分のことばで語れるほうがどれほどマシか。受け取り方によっては、「もうあなたたちは必要ない。帰ってくれ」と言っているかのようであり、少しも怒っていなくても怒っているかのようにマス・コミ側の人たちが感じたとしても無理はない。

怒ってはいないのである。だって、言いたいことがあるのなら、自分のブログに書けばいいのだもの。

・・・・・・・・逆に、取材記者のほうはどうなんだろう。そのことに対して何か言いたくても、書けない。もしかすると書けるのかもしれないけど、公共性ということを考えると、記者の意見を記事にしたところで、そういうノリはいささか週刊誌のようで、面白いかもしれないけど、いささか信憑性の欠如を常々感じるわたしとしては興醒めの観を否めない。

*******

怒りと言えば、『怒りブログ。』で、「ネットでは本音が見えない」という記事があったが、インターネットは一方通行社会であり、確かに感情や情動などを伝えるには適していない。が、しかし、本音という部分では逆に顔が見えない関係性だからこそ本音が見え隠れしている世界でもある。

ついでにもっと書いてしまえば、中国の反日デモこそ本音の見えない世界だろう。教科書問題がどうたらこうたら、謝罪がどうたらこうたらと、このところ日中関係の悪化が懸念される。でも、その話は以前からずっとあったことで、これに対しては国内でも世論の分かれるところ。

が、しかし・・・・

どうして、今になってデモが発生するのか、というところがわたしには理解できない。このところ、日本からの企業進出が活発になってきているのが原因なのかもしれないし、それを受容するか否かは中国政府の責任である。その怒りの矛先が日本大使館というのはどうも納得がいかない。

もはや、デモや暴力行為に頼る時代ではない。それは以前からずっと感じていることで、やっぱ、あれが悪かったのではないかと日本政府も反省するべきである。つまり、自衛隊のイラク派兵問題。

そうなると、いたずらに「反日」ということばを書くのを控えるべきである。そういう意味では、わたしも「反日」かもしれない。

・・・・・・・・・・・どっちにしろ、もはやわたしは、「民間レベルで」という欺瞞が嫌いである。

一つ分かっているのは、国際世論というのはアメリカだけのものではなく、リチャード・ギアがなんで日本に来てまで、わざわざ反中感情を煽るような発言をして帰ったか、ということすら、わたしはうんざりなのである。単純明快に考えて、単なるイデオロギー戦争なら、20世紀で終わりにするべき。

次のアメリカのターゲットが北朝鮮となる可能性を考えると、中国が日本に対して危機意識を持つのは当然だろうし、それに対してヨーロッパがさりげなく中国を支援しているところがさらに不可思議な世の中。

アメリカと中国が喧嘩したら?

知らん・・・・

投稿者 Blue Wind : 12:45 AM | コメント (0) | トラックバック

April 10, 2005

美音さんにトラバろう!

⇒この記事は、bion18さまへのトラバです。コメントが500字以内なので・・・

日頃、トラバ用の記事を書いても、めったに引用したりしないのですが、bion18さんの語り口調が面白いので、一部引用させていただきます。

あるT大学病院では、専門外来を100以上作っているというお話を聞きまして、

「専門外来」というのは、どちらかといえば慢性疾患の患者さんのためにあることが多いです。初診の人と慢性の人とでは当然診察時間や検査に違いがあるのは当たり前だし、大体、大きな病院の外来はやたらと混むために、担当医の専門領域の患者さんのために一般の外来とは別に設けているようです。そのほうが患者さんもあまり待たないで済むし、最初から症状が分かっていれば初診でも専門の医者に掛ったほうがいいですよね。が、しかし・・・・100以上とは、さすがというべきか。

たとえば 「口臭外来」。
「ほとんどが “歯周病” が原因ですが、心の問題も深刻です・・・」
何言っているんですか!?
体の中がドロドロ、ベタベタに汚れているから、臭うんじゃないですか!

どれもまったくその通りなのだと思うのですが・・・
嗅覚というのは、一番鈍感な感覚なんです。大抵は、一番早く順応してしまい、最初は臭くてたまらないと思っている匂いでもすぐに気にならなくなってしまうように出来ています。特に、自分の体臭や口臭などは、どんな人にでもあるのが当たり前だし、本人は気にならないものです。だから、逆に語ると、本人が自分の体臭や口臭が気になるということは異常なんですよね。他人に言われて気になるようになった、というのなら分かるのですが、実際にはすぐに忘れてしまいます。それが、ある日突然誰かに言われたわけでもなく気になりだしたら止まらなくなった、というケースは心の問題を疑うべきです。

体全体を診ることができない医者がいかに多いか、ということです。

いかに多いか、ではなく、ほとんど全身を診れる医者(ジェネラリスト)なんていないかもしれないですね、日本の場合は。内科から婦人科、耳鼻科、皮膚科などに転向する医者はいるけど、なかなかその逆はいないみたいだし、アメリカみたいにスペシャリストからジェネラリストみたいなステップアップもないし・・・

医療システムもそうで、ほとんどが小さな診療所から紹介状を持って大きな医療機関へ行くというのが政府の方針でもあるらしいし、医療のレベルに応じて患者さんを振り分けようとしています。つまりは高額医療を減らして国全体の医療費への負担を減らすということかもしれないし・・・

でも、医療として考えると、アメリカみたいに熟練のジェネラリストに最初に掛り、そこで疑われる疾患に応じてスペシャリストのところへ行くというほうがナチュラルですよね。でも、ジェネラリストになるということは相当熟練が必要で、いくつもの専門を究めた人でないと無理かもしれません。

人の体は、一つです。
体を100コにも分けていたら、それこそ毎日のように病院へ行き、その度に違うことを言われ、
結局根本的な原因も分からずに、だらだら疲れて、ゆううつになり、辛い思いをしながら、
大量の化学薬品を飲みながら、息を引き取ることになるのです。

これは、本当にそうやって思います。「だらだら疲れて、ゆううつになり、辛い思いをしながら、大量の化学薬品の飲みながら」死にたくないです。たしかに美味しいトマトを食べていたほうが元気になるような気がします。

さて!

人気blogランキングに登録したのに、どうやってリンクを貼ってよいのか分からないという質問をいただきましたので、お節介かもしれませんが・・・・

・・・・・・・・記事が長くなったので、以下の文は別に記事にしました。

          ⇒「人気blogランキング」のバナーの貼り方

投稿者 Blue Wind : 02:49 AM | コメント (0) | トラックバック

April 04, 2005

ライン

パパさまの記事を読んでいるうちに、古今東西のキリスト教徒の罪をすべて背負うくらいタフではないと生きていられない、ということを知る。よく分からないけれども、ほかの宗教では考えられない点がそこだ。仏教徒やイスラム教徒が罪を犯し、そのせいで誰が一身に責めを受けるのだろう。大統領や総理大臣にしたところで、任期が終われば仕事は終わるけれども、終身制というのは逃げ場がないことに気づく。

クリスチャンというか、ほかの人たちのことは知らないけれども、わたしの場合、どうしてこんなに毒を浴びなければならないのだろうと思うのがキリスト教であり、「ならばあなたたちは一つの罪も犯したことがないのか?」と、イエスさまの言葉を思い出す。たまにね・・・なんでクリスチャンというだけで、あーでもないこーでもないとほかのクリスチャンの話題をふられるのか懐疑的になる。そーじゃないか?

わたしは日本人に生まれ、われらの先祖がやったことなのか?

ってなことまで、クリスチャンというだけであれこれ毒を撒かれる。考えてみれば不思議な話だけれども、異邦人に布教するというのはそういうことらしい。もともとがユダヤ人の中の問題であり、そこに異端児であるイエスが宗教改革を起こし、その結果、殺されたという図式はどうだろう?

でも、その記述だけでもすでに間違いがある。イエスは6時間で亡くなった。普通ならありえない。人間のたくましさを考えると、磔刑により多少出血したからといって、6時間で亡くなるということはすべての外科的手術を否定するものであり、現実的ではない。近頃、喉に痰取り用の孔を開けられ、胃に直接チューブを差込み栄養を摂取している母の姿を眺めていると、ますますそのように確信してしまう。

人間というのは、そんなに簡単に死ぬものではない、と。

たくさんの奇跡・・・

「わたしを信じることができないのならば、わたしの行った奇跡を信じろ。」

残念ながらわたしはその時代に生きていたわけではないけれども、今でも不思議な奇跡は存在し、もっと不思議なのは、聖キアーラの腐らない遺体を眺めても、うちのダンナのセリフはこうだ。

「たしかに不思議だけど、僕は信じないよ。」

つまりは、これまでにあまりにもたくさんの奇跡と思われていたことが、ある意味科学的に説明される時代になったために、彼はそういう奇跡と信仰とが結びつかない。

それはそれで当たり前のような気がしてしまう。そうなると、みことばの実践とばかりにたくさんの言葉が舞い、キリスト教をベースとしたセラピーや人はいかに生きるべきかなど、倫理や道徳といった問題にまで派生する。

そうなると、文化だとか風習やしきたりなどなど、やたらと脳の可塑性を無視した議論が活発となり、いささかうんざりしてきてしまう。何かどこかが歪んでいて、本末転倒のような愚かしさ。それで、なんとか教ではこーだけど、なんとか教ではこーだ、という具合に比較する人たちも現れる。もうだんだん何かどこかが狂っていく。

実際、そういうことと自分とが何の関係もないことを知っている。知っているからこそ毒を撒かれる。それでいて、そうやって撒かれた毒に精神が麻痺していく。

神さまとだけお話せよ、とか、素朴な信仰、というのはスピリチュアルな問題で、茨にがんじがらめにされた話ではない。

一つ分かっているのは、神さまもパパさまも政治家じゃないってこと。人間の罪そのものを赦すために、人間はあれこれと方略を考える。もしかすると戦争すらその一部ではないかと思うくらいだ。そして、どんどん罪は重ねられ、罪ということと賠償ということがいっしょくたの観念になってちまたにあふれ出すらしい。

きっちりとしたラインがある。

聖と俗をいっしょくたにするからわけが分からなくなる。

使徒言行録 11. 19-30 アンティオキアの教会

投稿者 Blue Wind : 02:09 PM | コメント (0) | トラックバック

April 01, 2005

雨風呂離乳ブルース

今日はどうしたってお疲れモード。慣れたら少しは変化するだろうか。せっかく書いてもまた消えるのではないかと、編集しながら書くことに慣れていないせいで、すごくめんどーな気分。

しかも、重い。

コメントも飛ぶし、編集画面を切り替えようと思ってもシステム・エラーの表示が出てしまうし、こんなことならタグを睨みつけながら書いたほうがマシかもしれない。

一番めんどーなのが、<br>と<p>が両方表示されてしまうということで、どっちにしろ<br>を使わないと改行できないのだから、<p>は必要ない。要するに打ち込んだタグ通りサイバー上に表示されないのが原因だし、そうやって両方入れて書いているうちに改善されたら、今度は過去記事を編集するのが非常にかったるくなる。

いつも、これ。

1クリックでデザインを変更できるのはよいけれど、結局旧いスキンと新しいスキンとの背景色が変わっただけで、こんなんだったらカラータグなんて使わなかったほうがよかった、ということになる。だから使わない。

わたしはかなり大雑把だから気にならないけど、お気に入りのブログを毎日巡回している人は大変かもしれない。気分の問題なのよね・・・自分のパソコンのお気に入りを順番に巡回するように、アメブロのリンクを使っていると、今度は表示数が限られているために、何となく大変になったような気がする。

スタイルシートが使えるようになったからといって、わたしはメニュー欄の幅を変えられない。テキストは微妙に移動するのだけれど、大元の大きさが背景色となって変化してくれない。『風マニア』のタイトルをクリックしてもトップページへ飛べない。これを改造しようと思っても分からない。ほかのスキンと比較してみたけど、結局、よく分からなかった。

画像を埋め込むタグ?

忘れた・・・

HPだったら、いちいちテーブルタグを使って画像の位置を決めたり、レイアウトまで考えるけど、なんでインスタント・ブログでいちいちそんなことまでしないといけないんだ?

一気にお引越ししようと思う人の気持ち分かる・・・新しいデザインで、簡単に更新できて・・・で、アメブロはこのまま置いておけば更新情報くらいは届くし、どこのサーバを借りても結局は関係ないよね・・・

なんか疲れるな・・・

もともと機械が嫌いなの、あたし・・・

あーやだ。

*********

改行の仕方?
「Shiftキー」+ 「Enterキー」を押すそうです。
アメブロ離乳情報によると。

投稿者 Blue Wind : 11:49 PM | コメント (0) | トラックバック

March 30, 2005

あーもーがっかり〜!

昼寝しようか、アイスコーヒー飲もうか、迷いながらサーフィンしているうちに、「ん? 新しいジャンル? 関西??」 

Luluさんのところで発見しました。

なんで、関西だけが独立ジャンルなんだ? お笑いと一緒にしろ!! なんでつくばは無いんだ? つくばブロガー単独首位を狙います!!(無いっちゅーの)

関西人だけはどこで暮らしていてもどういうわけか関西県人会などを結集し、うちのダンナでもいまだにそーいうあほなノリあります。なんででしょうね? 昔から不思議なんだけど、あれだけ都会でも関西は村落なんだなーっと感じることが多々あり、偶然だけどうちの裏の家も関西出身だし、隣も実はご主人が京都育ちだという・・・せまい、せまい。つくばは関西人多いから、気をつけないと。(なにを?)

冗談抜きに、アメブロの新しいジャンルが発表されたというので見に行ったら、もう何とも言えないくらいがっかり〜、しました。馬券が外れた時くらいのがっかり度はあります。

今度こそ、このウザイ「本・書評」から解放されて、もっと詩とか文芸とかさ〜、そしたらわたしもお引越しして〜って思っていました。頭の上に重石を載せられている気分がうまく言えない。

初っ端からだもの・・・書店の閉鎖が相次ぐとか出版業界の不況とか。それとあたしとどーいう関係があるんじゃ!って思いながら、そーいや近頃あまり本を読まないしなーと反省しながらも、足下にも家にも本だらけで未読本は多いし、これが消えたらもっと家が広くなるだろーとか、あれにこれにと悩みはつきない。

そのくせ、カズマ・ブログはジャンルが恋愛だし、単に活字や出版ということなら、「本・書評」というのはまるきり意味がないことも知っている。いっそのことこのジャンルを閉鎖して、すっきりくっきりとかね・・・

ところが・・・

「本・書評・文学」になっている。

こだわり、なんだろうな。以前、某歌人に短歌はセカンド・アートでいいって言ったら、その後出るわ出るわ岡井先生の出版物など片っ端に。一種プライドの問題なのかもしれないし、文学という宗教があるのかと思うくらいどこか何かが違う。

わたしなりのアメーバ・ショックというのがあって、某社長のブログで、「ざけんじゃねーよ、こんなんは誰でも書けんだよー」って調子で記事がアップしてあったのを見て、ヒマな主婦ブロガーのわたしは恐怖におののいてしまった。

その後、某作家のブログで、「社長の書き物という点においては・・云々」という記述を眺め、「きゃーーーーーっ」って思ってしまった。

たしかにあまた出版物のある中で、純粋な意味で文学と言えるものは限られている気がする昨今。そういえば、かつて佐藤春夫さんの新聞記事の抜粋をネタにその手の違いについて書いた記憶が・・・アメブロガーになって以来、そういう話題からは次第に遠のいてしまっている。

優雅に文学などを語らう時代じゃないのさ、今は。世の中銭・銭・銭で慌しく、あの店もこの店も閉店したとたんにコンビニに変わっていたり・・・そのコンビニでさえ潰れて携帯ショップに。どんどん変わるからついてゆけない。

今さらあたくしの年で、なんでノウハウを買わないとあかんねん、っていっつも思うのよ。特にパソコン関係の本を買うのはおバカという気がする。検索したらいくらでもその手の情報はタダでゲットできるというのに。

それにしても本屋から専門書と参考書の類を外したジャンル分けを連想してしまう。特に雑誌コーナー。ファッション・芸能・占いというのがお笑いと関西に変わっただけ?

それにしても占い師ってすごいな。昨日、細木数子さんの番組を観ていてそのように。他人に不幸を告げる瞬間の威風堂々としたところが素晴らしい。まあ、占い師なんて良いことばかり言っていても儲からないからね。不幸を告げるところに値打ちがあるのかも。

「じゃ、先生、どーしたらいいのでしょう?」

ってなるし・・・

すごい世界。

今の時代・・・・小説読んで、「じゃ、先生、どーしたらいいのでしょう?」っとはならん。政治家になるならプロレスラーのほうが向いていそうだし・・・

にしても、音楽にジャンル変更しても似合わないよね。歌人なのにさ。あーあ。

投稿者 Blue Wind : 04:09 PM | コメント (0) | トラックバック

March 29, 2005

集中力の欠如は続く・・・

塾へ行っている娘を迎えに行くまでのこの時間、短歌を詠むか、駄文をアップするか迷う。近頃ではちょっとしたヒマつぶし感覚で記事をアップすることが多い。娘が春休みのせいか、どうも集中力を欠く。

集中力が欠如するとどうなるか?

(1) あれ?ヘンだな・・・敬語がやけにアンバランスに使われている?? (めんどーだから直さない)
(2) せっかく今日は調子がいいと思いながら短歌を詠んで、いざアップしようと思いながら画像を選んでいるうちに、間違えて編集画面を消してしまった。当然、短歌もパア〜。がっくりしたけど、それでも悔しいから詠む。でも、気が乗らないせいか、そぞろ。
(3) 日頃から脈絡なく書き始め書き終わるため、やたらと駄文が長くなる。
(4) ネタ探しに対する集中力を欠く。

今もね・・・ちまちま時計の針を眺めながら娘からの電話を待っている。どうも落ち着かない。こういう時に歌を詠めと言われても、集中できない。時間があるなしにかかわらず、集中力というか、静けさというか、そういうところが和歌を詠むには大切な気がして、気が散ると自然と詠めなくなる。真夜中に家族が寝静まった頃が一番落ち着く。なのに春休みなので、ちまちま娘が邪魔するし、ブログを読みたがるので、「ふっ、読んでも分からないだろー」という姿勢で書いているようだ、わたくしは。(甘い?)

********

アメブロ・リニュへ向けて秒読み段階?(計算しないけど、めんどーっちー)

一番気になるのが、ジャンルの変更。事前のお知らせ記事によると、既存のジャンルの分化という方向で増やされるようで、実際にはノン・ジャンル的「日記・blog」というジャンルに集中しているのを拡散するのが狙いのような気がする。

ちなみに、「本・書評」だったら、「本」と「書評」に分かれるのだろうか? そんなバカな・・・それより、「アダルト」というカテゴリーをつくれと思ってしまう。どうやって見ても18禁というようなブログは、特殊カテゴリーに分類するべきである。

春休みだからなおさらそうやって思うのかもしれないけど、おやじの当たり前と主婦の当たり前は違うようだし、結局A◎Lが日本ではかなり悪評を被ったのは記憶に新しくもないけど新しいような気がする。知らないでうっかり加入するとまるでテレクラと勘違いしているような人たちが徘徊しているため、にっちもさっちも行かなくなる。A◎Lに言っても無駄だったし・・・「お客さまの責任」なのだそう。

ブログは単なるテキスト社会だから、関係ない?

だったら、ぐたさんに訊いてみよーとなる。キャパってあると思うのよね。官能小説、性的描写ってことと、単なるエロゲロとの違いには。以前、ひたすら性器を描写した短歌を詠み、それを編集長にボツにされたとか、風俗嬢シリーズとか、わたしから見たらテリトリーが違うために気にもならないことが、文学とエロゲロの違いが分からないという具合に悩んでいる歌人がいた。

心理学も臨床系になると、どこにラインがあるのか分からないし、結局、目的意識の違いがラインになるような気もするけど、テーマやジャンルっていうのはそういう目的意識の端的表現の一つ。

だったら、「短歌とエッセイ」と副題を入れている以上、それについての記事をアップしろと言われても、しょせんわたしはヒマな主婦ブロガーですからせめて自分のブログくらい好きなことを書かせろという気分に陥ってしまう。

あーでもない、こーでもないと独り言は続く。

********

それともう一つ。

ランキングの「表示/非表示」を選択性にしてほしいというメールを書いたところ、アメブロ運営局から「そういう要望が多いので検討中」というお返事が届いた。で、その結果、ランキングそのものに「参加/不参加」を選択できるようになったらしい。

これってラインが難しい。

わたしはアメブロ・ランキングのほかに別のランキングにも登録しているから、そういう意味ではランキングに参加しているほうがアクセスアップにもなるし、この世界露出が大変だからブログの宣伝になるのなら参加しているほうがよいに決まっている。

ところが、アメブロって賞金が掛かっているからややこしい。僅かなことでも金が絡むとそういうものなのよね。かといって微妙に貰えそうにないラインを徘徊しているところがさらに微妙で、ランキングのページで2枚目とか3枚目になってしまうとランキングそのものに値打ちがないから参加であろうと不参加であろうと実はブログの運営にも何の影響もない。

あ、タイムリミット。そろそろお出かけの準備をせねば・・・

リニュが終わってから、のんびり考えるか・・・

投稿者 Blue Wind : 03:30 PM | コメント (0) | トラックバック

2つの相反する言葉の羅列

ブログに限らず、どうして書くかと言われれば、「書きたいから・・」としか答えられない。何かテーマがあるわけでもなく、目的があるわけでもなく、ネットを始めたのも気まぐれなら、短歌はいわば冗談で詠み始めただけだし、単に日常生活における息抜きというか、子育てに追われて、それでいて一人の時間が欲しかっただけなのかもしれないし、飽きっぽいのに今でも続いているほうが不思議。

それでも無目的に始めたはずが、いつのまにやら歌集を出そうとか、2万首までは詠もうとか、それはそれで一つ生活の励みとして存在している。

IDのcherrynutというのは造語。昔から使っていたRindoというハンドル名は、メヒコ民謡のシェリート・リンドをもじったもの。意味は分からないけど歌える曲の一つで、三拍子の民謡というのがとてもめずらしかったせいか、わたしは初めてこの曲を聴いた時、意味もなく感動した。なんて美しいのだろうと・・・

数年の月日を経て、その曲が、「美しい空」という意味だということを教えてもらった。

メールやチャットにも飽きて、HPのつくり方を知らなかった頃、BBSをレンタルして日記を兼ねて使っていた。今にして思うと、その使い方はどことなくブログっぽく、BBSをまるでHPをリンクするようにリンクしてくれたり・・・「HPをつくったらURLを知らせてください」とよく言われた。そのBBSの名前が、「新しい風の部屋」だった。当然、当時は短歌とは無縁だったから偶然というのは不思議だ。

それで、話をIDに戻すと、Rindoのほかにcherrynutというのも「シェリート・リンド」をもじったもの。早口で何回か繰り返すと、その意味が分かるかも・・・

こういうのは不意に脳裡の浮ぶから、自分でもよく分からない。でも、「風マニア」でもそうだけど、2つの相反するものを組み合わせるのは好きだ。「風」と「マニア」はまったく方向性が逆で、cherrynutもそう。cherryはさくらんぼ、nutはナッツ。決してさくらんぼの種という意味ではない。単にまったく違ったものの組み合わせ。

こういう芸当ができるのは言葉だからにすぎず、実際には存在しないのに言葉は存在し、わたしは不意に組み合わせただけなのに、風(短歌)のマニアという意味なのだろうとか、さくらんぼの種なのだろうとか、おそらくは深く考えることなく通りすぎてしまうイメージのようなもの。付けた本人でさえ意味がないのだから、もともとは何の意味もない言葉。

それでいて、そういう2つの相反する感覚というのは自分の中には常に存在し、ノラクラと平凡で当たり障りなく存在する自分と、生育環境に培われたせいか、すでに外界や環境からは独立して頑固なまでにマイペースな自分がコアとして存在し、常にその2つのバランスを気にしながらわたしは生きている。

普通ってどういうことなのか、たまに戸惑う。適齢期とか結婚ラッシュとか、それすらわたしにはどうでもよいことだったのは、わたしが子どもの頃に交通事故に遭い、歪んだ骨盤が無意識のうちにわたしを蝕んでいたのかもしれないし、それが外見だけでは分からないところが何とも厄介なところだった。

例えば、普通に友達同士のリズムで歩こうと思えば歩けるし、実際、わたしは歩くのが速かった。でも、走ると遅い。靴の減り方が左右違う。ふくらはぎの内側が幽かに麻痺している。すべて誰も気にしない程度の障害であり、この程度では完治として扱われるだけ。たまに母がナーバスになっていただけかな・・・せっせと整体治療を受けたり、歩き方を練習したり・・・

この前眼鏡屋さんで、「首を傾けるのはクセですか?」と訊かれ、ドキッとした。クセならクセで、今はそれに合わせてレンズをつくるらしい。おそらくは単に座っていても骨盤が歪んでいるため、無意識のうちに体のバランスを取っているうちに、こういうクセがついてしまったのかも。そうなると、わたしの真直ぐというのはすでに傾いた世界らしい。

本人すら気がつかないであろうことが、不意にちょっとしたことで知らされる。

大きな不幸よりも、小さな不幸というのがとても厄介。震災のように大きな不幸だと書いていても分かりやすい。でも、個人のまったく些細な不幸というのは他人に理解されないところの補聴器のようなもので拡大されて響くわりには他人には伝わらない。

黙っていてもどうということのないことでも、他人の当たり前と自分の当たり前が微妙に違い、他人の当たり前により破壊される自分の当たり前を提示することはそれなりにわたしには意義があるのかもしれない。

・・・・・・・それにしても、ますます分かりにくく書いていません?>わたし

世の中、眠れない人たちが多いからええのんよ。

投稿者 Blue Wind : 12:03 AM | コメント (0) | トラックバック

March 28, 2005

生まれて死んで、普通に生きて

わたしは、母が仕事をしていたのがすごく恥ずかしかったんです。時代が違うと言われてしまえばそれまでなんだけど、わたしの子どもの頃には、母親が働いているというはとてもめずらしく、離婚したとか、独身とか、経済的な理由で共稼ぎとか、学校の先生とか、限られた理由で仕事をする人たちが多かった。

「父と母は喧嘩ばかりしていた」と書いて思い出したのは、大雑把に言えば、母がキレる理由は、父に、「少しは母親らしいことをしろ」と言われた時だったと思います。

慣れていたけど、母親が酔っ払って帰ってくるのが一番いやだった。父は逆に体質的にアルコールを一滴も受け付けず、それで付き合いと言えば麻雀などのギャンブルが多かった気がする。飲めないのだから仕方がない。弟もそうで、本人は、「コーラ飲んで酔っ払うから」と笑ってごまかすくらいアルコールがダメ。

それなのに、母はお酒に強く、接待だの会社の女の子を連れて飲んできただの、どこかの会社の営業みたいなノリで帰ってくる。普通だったら離婚のような気がするんだけど、父が文句言っても、「じゃあ、あなたが死んだらどーするの?」と平気で切り返す。

普通じゃないわけさ・・・

つまり、普通の家庭のお母さんたちがちょっと家事の合間にパートに行くなどというノリではなく、小さくても自分の会社を経営しているわけですから、日々是闘い。

もーいやでいやで・・・

父じゃないけど、母が離婚するって喚いても、わたしが平気で父と残ると言い切ったとしても何も困らない。だってお手伝いさんにお給料を払えばいいわけでしょ?(父が・・) それなら母親なんていなくてもいいし、わたしにはわたしの生活があるし、勝手に離婚するならすれば?みたいなノリ。

「なんであたしがあんたについて家を出ないとダメなのよ?」

って平気で母に対して思っていました。

母親ってバカだからね・・・子どもはいつも自分のモノだと勝手に考えている。母親らしいことなんて何もしなくても、そういうところは女なんだよね・・・わたしだってわが子は自分のものだと思っているし、それが正義だと思っている。だって産んで育てているのはわたしなんだから。

正直、娘が幼稚園くらいになり、「お父さんとお母さんとどっちが好き?」と訊いて、「同じくらい」と言われた時にはわたしはかなりぶんむくれた。それまでは、「お母さん!」って言っていたのにと思ったら裏切られた気がしたほどだ。

こうしたわたしの不平はどこか時代錯誤のようでいて、逆に今の時代では多すぎて問題にもされにくいような気がしている。わたし自身はもしかすると子どもが産めないかもしれないという不安を抱えていたから、特に結婚したいとも思っていなかったし、子どもも欲しいとも思っていなかったため、淡々と自分のことをやるように自立の道を模索していた。

が、しかし・・・

自己実現とか、家事や育児が嫌いとか、仕事のほうが楽しいというのであれば、やはり結婚などするべきではなく、世の中にはそういう人たちもいる、ということで終わってほしい。

こーね・・・なんであたしのほうが少数派なわけ?

ジェンダーがあーたらこーたらなんてどーでもいいです。わたしは生まれ変わっても女に生まれたい。悔しかったらわたしみたいに一度も働いたこともなくのほほんと生きていってみろと言いたい。全然平気なのよね・・・ダンナが日銭を稼いでくるのは当たり前だと思っているし、昔からデートで割り勘なんてヤツとは2度と付き合わなかったし・・・へいちゃら。

分からないな・・・これが仕事をしているのが少数派だったら、わたしも仕事しているかもしれないし、単に天邪鬼だと言われてしまったらおしまい。

なんでまたこんな記事を書こうと思ったかというと、『NEET』にコメントをいただいたから。日教組の指導方針とわが家の指導方針が違っていたからといって何を気にしろというのだろう?

結局、子どもを持って考えるのは、男の子でも女の子でもどうにか親から独立して家庭を持って子どもを育てられるように、というのが最終目標。もちろんそうはならないかもしれない。それでも、人間も生物である以上、親っていうのはそういうものなんじゃないかと。なんで、こんなにややこしいのだろう・・・

投稿者 Blue Wind : 03:19 PM | コメント (0) | トラックバック

March 26, 2005

洗練されたブログ?

今時、インターネットが匿名だと信じている人たちなんているのだろうか? 今日もヒマな主婦ブロガーであるわたしは記事のネタを探すために徘徊する。すると・・・

きらり〜ん、と目に入ってきたのが、慶長さんの『ブログでクビになった人びと』という記事。どうしてこの手の話になると、自分がウキウキしてしまうのか不思議。アメブロは社長も社員もブログを書いているし、ごまちゃんねるによると社長の奥さんまで書いていた? ということは社員の家族がブロガーしていることもあるでしょうし、世の中のネット・ユーザがどの程度バカ正直に自分の所属を書いているか懐疑的だ。

それでいて、以前どこかの女医さんが酔っ払って医局の話を書いたら、それこそ大問題になり、クビになったんじゃなかったっけ? わたしなんて無責任だから、「よくやった!」と思う反面、ダンナとちらりと目が合い、「あ、わたしのブログは短歌のブログですから・・・」と笑ってごまかす。

もともとが匿名で書いていたし、それなりに毒舌系の日記を書いていたから、自分でもかなり低空飛行をしているような気もする。それでいてネットの毒に慣れてしまうと、わたしの書いていることなんて海の中の一滴。書きたいことは山ほどあるけど、結局は書けないですね・・・なかなか。

以前、ダンナが職員の忘年会か新年会で、近頃では院内禁煙が徹底しているために普段ヘビースモーカーといえども職場では一切吸わない人たちが多いため、うなぎ屋に座ってタバコ吸いたいなーと思いながらタジタジと周囲を見回していたわけですよ、彼は。その時、いきなりぷわ〜っと煙があがったのを見て、やたらと感心していたことがある。

なんかね・・・うなぎ屋の宴会場だよ? 灰皿もたくさん置いてあるでしょう。お酒も出たかもしれません。なのに、大の男がタバコ一本吸うために周囲を見回し、喫煙所を探すがごとくタジタジしているという・・・高校生じゃあるまし・・・それがうちのダンナだけではなく、雰囲気というの? 皆が皆そういう雰囲気で、ここは一つくだけた席だから、ということで誰かが音頭でも取らないとどうにもならないのでしょうね。

分かるような分からないような・・・

それでね、その時にぷわ〜っとやり始めたのが、病院の女性カウンセラーだったらしい。あ、もうその瞬間、その場で何があって何が起こってなんでそうなのか、すぐにピンと来ました。同時に、その話をどうして彼がわたしに言うのか、最後まで聞かなくてもすぐにピンと来た。

商売だから・・・

その後、場の緊張が解けて、自然とわいわいがやがやその日の宴会は無事に終了したのでしょう。たかだかタバコ一本のことで生きるの死ぬのという時代ですから、そういうストレスと喫煙とどっちが健康に悪いか、地球に孔が開いてからのんびり考えよう・・・

******

今日は、本当は最初に長野智子さんのブログのネタから書き始めようと思っていたんだけど、途中で変更。実際問題、こちらはプロではないから書こうと思えば書き放題にも書けるけど、それでもどの程度まで書いていいのかなーということはどこかを手本にしなければならないわけで、yaplogだけじゃないけど、あちこちのブログを提供しているサーバをサーフィンしているうちに見つけた。

一つ感じたのは、やはりアメブロとの違いでしょうか・・・落ち着いているもの、雰囲気が。自然体っていいですよね。その中で、数ヶ月前にホリエモンに取材した時の話が書いてあるのだけれど、どこかエピソディックで洗練されている。

それにしても、ホリエモンの欲しかったのが単に「知名度」だとすると、それはすでに達成された観はある。が、しかし、正直、一昔前だったら企業イメージというの?それなりに企業のイメージというのがとても重要だった気がするのに、マイナスイメージすら商売にしてしまう時代なのかな・・・と、ちょっと感じました。

それね・・・ライブドアだけの問題だったらいいのだけれど、インターネット・ユーザとして考えると、ネットは匿名だからとか、危険だからとか、ネガティブ・イメージばかりが先行してしまいそうで、実際、そういうところはあるし、それでも数年前に比べればかなりマシになった気もするし・・・それでいて分からないな、今でも。

でも、何となくよい雰囲気だと思いませんか? 今はフリーとはいえ、かつてのフジテレビのアナウンサーとホリエモンとの会話。ちまたに、「ライブドア対フジテレビ」みたいなタイトルが蔓延する中で、何となく洗練されているような気がしたのですけど。

投稿者 Blue Wind : 03:45 PM | コメント (0) | トラックバック

March 24, 2005

ポルノより悪影響かも

おちびが風邪の引き始めで学校をお休みし、一緒に昼寝したせいか、いつまでも起きてテレビを観ている。それはそれでわたしはミニモニもマギー審司も昨日まで知らなかった人間だから、彼女が何を観ていようが気にもならない。

ところが・・・

「・・・・・美容師なのにナイフで手首を切るなんて・・・・・・」

あーたらこーたらリスカ(リストカット)の話がテレビから聴こえてくるではないか! 時計を見たら、もうこんな時間とばかりに夜は更けて、ポルノより悪いだろうと思いながらおちびを寝かせる。

わたしは血に弱かったし、初めて臨床系のテキストで全身傷だらけの自傷行為の患者の写真を見たとき、ゲロゲロ〜っとなってしまった。「なんでそんなことをするんだろう?」というのが率直な感想だったし、そういう点でわたしは案外まともに育った。

昨日、ホリエモンが再び勝ち、ニッポン放送やフジテレビの経営陣の情けないインタビューなどを見ていると、あたかもインターネットは素晴らしいかのように思えるけど、これの弊害も考える必要性もある。

一つはね・・・・リスカの写真を自慢げにサイトにアップするのをやめろ! そういう神経も普通は理解できないでしょ? わたしも理解できなかったのだけれども、あれは一種の不幸自慢らしい。

狂気から上位概念まで徘徊していると、いささかどのような話にも驚かなくなってしまっている自分が情けない。近頃では、リスカの話を聞いても、「バンドエイドでも貼っておきなさい」としか語れない。

「骨までいっちゃったのよ」
「で?」
「先生が、それでも縫うかどうか訊くの」
「へー。でも切り方が上手だと縫わないほうが痕が綺麗かもね」
「先生もそう言ってた」

よく考えたら、われながらなんちゅー会話しているんだろうとは思うんだけど、慣れって恐ろしい。第一、中学生くらいにリスカが始まってしまったら、そりゃなかなか治らないし、鬱病でも発症してしまったら次には首吊り?

もう、普通だったら勘弁してほしいとなるだろう。

一つには顔が見えないということと、ノーギャラということと、責任ないよなーと勝手に思っているということから、以前だったらあたふたするようなケースでもまったく驚かなくなってしまった。

でも、正直な感想として、娘にはそういう世界に踏み込んでほしくないという気持ちはある。死ぬということは大それたことで、少しでもそういうことを考える人はヘンだとか、大変な悩みを抱えているとか、そういう世間通常の幻想を抱いたまま成長してほしい。

なのに、なんなんだ、あのテレビは。

近頃、簡単すぎるのよ。リスカを始め、自殺とか、その他諸々の自傷行為を含めてそういう情報がちまたに蔓延し、メンヘラーには申し訳ないけど、それがあまた無関係な人々にさえ伝染しているのではないかと思うと、わたしはかなり恐怖を覚える。

大昔、シャンソンで発禁になった歌があるそう。わたしは一度だけ聴いたことがある。どうして発禁になったかというと、戦後の暗い時代、希望を失った若者がその曲を聴いて自殺してしまうという事件が相次いで発生したかららしい。鬱って移るからさ・・・

『暗い日曜日』だったかな・・・もうすでにタイトルも覚えていないけど、わたしにはどうしてその曲を聴いて、次々に自殺したくなったのか理解できなかった。それはそれで時代背景が違うということもあるでしょうし、すべての人たちがそういう反応を示すわけでもない。

近頃、書籍でもその手の話は平気だもんね・・・ネットなんかしていたらもっと平気になってしまう。カラッと明るい陽射しの中で子どもは育てたい。

投稿者 Blue Wind : 01:31 AM | コメント (0) | トラックバック

March 22, 2005

ブログは書くもの

百聞は一見にしかずというくらいだから、わたしはいつも思うのです・・・活字中毒者って何なのかなって・・・短歌でも他人の歌を読むより自分で詠むほうが遥かに面白いし、旅もうだうだ考える前に飛行機に乗ってしまえって思う。

コンサート情報、映画情報を眺めるより、不意に飛び込んでみるのも楽しい。チケットがないって? それがどういうわけか大丈夫なのよね・・・ダフ屋は禁止しているけど、当日どうしても来れなくなってしまった友達の分のチケットを売っている子もいるし、当日券というのも結構あったりするから無理に前売りにこだわる必要もない。

洋服も本もCDも、そう。その時の気分で、偶然というものに惹かれながらゲットするほうが情報誌や雑誌を眺めるより遥かに楽しい。恋愛小説を100冊読むより、自分で恋愛しているほうが遥かに実があるような気がするんだけど、どうも世の中考えすぎや妄想癖がちまたに蔓延し、いざそういうノウハウが実践で何も役に立たないことに気が付かない人たちが多い。

それにしても、男の2人連れというのは気持ち悪い。仕事とかたまに出くわしたとか、そういうニュアンスならともかく旅は道連れとばかりに男同士で旅している人間を見ると、わたしはついせせら笑う悪い癖がある。いっそのことホモならまだ許せる。

ブログもそうかな・・・あれこれ考える前にとりあえずつくってから考えても遅くはない。近頃、ブログのためのノウハウ書も売っているらしく、あんなもん買うより自分でつくれって思うわたしはすごくまともだ。

不意にネットを始めて、試行錯誤と知識のなさとジャンキーの襲来にはいささか苦労した観はあるものの、結局、全部ネタにして自分のネタのなさを武器にしてしまった。つまり、わたしが知らないことはほかにも知らない人がいるということだろうし、タグ一つにしてもソースの見方にしても知らない人はいまだに知らないわけだし、それとてわたしは自分でプログラムが書けるほどの知識はないけど、今のところ何も困っていないみたい。

一生懸命に日記を書くより、ある日BBSに酷い荒らしが登場し、そうなると日記のヒット数が20〜40でもどういうわけか600以上のアクセスがあったり・・・つまり、荒らしさまのおかげでBBS見物者が増え、わたしが無理に苦労しなくても自動的にアクセス数はうなぎのぼりだった。なんなんだ・・・この世界。

それでも、それを放置しておくわけにはいかないので、せっせと荒らしを削除することがサイトの更新だったりして・・・それはそれで非常につまらなかった。(当たり前か・・)

ちょっとこのところのアクセス数を眺めると、ちまちまおちびのことを書いたほうがアクセス数が伸びる。一つには、書いちまうと自分がすっきりするということもあるし、いくつかの視点からちまちま書き直すとそれはそれでフィードバックもあるし、さらに自分の気が付かない盲点というか、「あ、なんだ、そういうことだったのか」みたいな感じで、自分的には書いてすっきりする上にコメントもらってもっとすっきりみたいな調子で、ブログって値打ちあるなーと感じた。

読者?

読者って何なのかな・・・わからないです。ジャンルを決める際も、どうして「本・書評」にしたかと言えば、「詩・小説」みたいなジャンルが無かったからだし、テーマを固定してしまうと来訪者のニーズを考えるようになるから自分がつまらない。ただ、来訪者のニーズという点で、このジャンルに居座ることの値打ちは、駄文が長くても文句言われないことかな・・・

近頃の教育の変化の影響か、うちの娘でもまったく活字に興味無さそうなところがあるし、そうなるとひたすらビジュアル的な刺激のほうが面白いらしい。文字を眺めなくても画像を眺めているだけである種の情報がゲットできることを楽しんでいるようでもあるし、そうなるとせっかく駄文を書いてもつまらない。

だったら最初から活字を読め、というスタンスのこのジャンルのほうが気楽だ。

投稿者 Blue Wind : 01:32 AM | コメント (0) | トラックバック

March 15, 2005

情報価値を考える

今日はホリエモンを応援しようと思ったのですが、あえて考えるならば、どうして報道が値打ちがあるのか、ということもそろそろ真面目に考える必要性があるのかもしれないとも、ウダウダ考えています。

わたしは、自分のブログ記事を書く際、論文を書くみたいにどこから突っ込まれても困らないように下調べをしたり慎重になったり事実のみを記述していこうという姿勢はありません。それよりも案外楽しんで書いている。もちろんこの記事もそうです。

どうしてそういういい加減さに対応できるようになったかというと、記述ではなく描写の世界では受け手の内面世界までコントロールすることは不可能だと悟ったからかもしれません。ネットでよく言われるのは、行き違いとか勘違いとか、言葉のやりとりによる情報伝達の曖昧さによる妄想の発生とかね・・・同じ言葉でも言い方によってニュアンスが変化するのは当然だし、両者の関係性によっても変化します。言葉って生き物だから・・・

でも、電子の世界に限らず、文字の世界というのはあくまでも文字の世界であり、多くを読者のイマジネーションに頼りながら描写や人物像というのも構成されてしまう。だから、そのテキストがどんな人が書いたか、なんてことが読者に理解できないのは当たり前。

女でも自分のことを僕と書いていれば、その作者は男なのかと勝手に勘違いしてしまっても無理はない。

ところが、ネットの場合、活字と違ってある意味コミュニケーションがある分、テキストが身近に存在し、だからこそ文章そのものより、その書き手に対しての興味が発生するのを抑えることはできない。

映像の世界でも、フィクションとドキュメンタリーは違う。実話を元につくられた映画だとしてもどこかイマジネーションの域を出ないというのは、人間がつくるわけですから宿命とも言えるかも。

ただ、受け手に対する責任という姿勢ではどうなんでしょう。これがテレビだとアナウンサーの言い違い・読み間違え・その他諸々視聴者の意見が数秒後に鳴りまくるという話を聞いたことがあります。もちろんそれが報道でなければもっと違うのかもしれないし、同じ報道でも最初からいい加減だと思っているような週刊誌のネタについてあれこれ詮索しても始まらないことを読者は暗黙のコンセとして持っている気がします。

それと、情報伝達ということで考えると、情報の変容というのはどうしても避けられない。最初の人から100番目の人まで伝わり、それが最初に戻ってくると同じ話だったのにまるで気が付かないとかね・・・それくらい変容してしまう。そういう意味で、ネットというのはかなり危険な世界。

それに対して、どうやってインターネット・ユーザが対応していくか?という点に関しては、これまたわからないです。未知なる世界。発信源がわかっていれば苦情も出せるかもしれないけど、そもそも民間伝承のようなこの世界に責任を求めても無理な気がするし、だからといって、今のテレビやら新聞から吸収した情報がすべて事実に立脚していると信じている人たちも稀な気がしますし、どうなんでしょう。

政府のメルマガを読んでいるし、2回くらいアンケートや意見を送信したことがあります。自分としては直接政府と有権者が意見交換できる場としては未熟かもしれないけど、マスコミ報道を通した接し方よりも幾分ましだと思っているし、ほかの人たちの意見も眺めることにより、フィードバックされるものもある。何も言わないよりも何か言いたい時もある。

ライブドア対ニッポン放送・フジテレビということを、単なるマネーゲームとして捉えるか、インターネット対マスコミという図式で捉えるか。結局は決着をつけるのは世論なのかもしれないし、その世論ですらネット世論とマスコミ報道とでは幾分ニュアンスに違いがあるというのがライブという感じで面白い。

心情的には、それでも60%くらいはホリエモンに味方しています、今日は・・・

投稿者 Blue Wind : 11:17 AM | コメント (0) | トラックバック

March 10, 2005

メディア茶番

わたしね、ホリエモンのしていることが素晴らしいとは思ってはいないけど、あのようなキャラがいても悪くないとは思っている。キャラとしてはまるでアニメの主人公のようで・・・

球団のオーナーになることに失敗し、次なる手として経営権騒動。ラジオ放送をやりたいのなら、自分で放送局をつくればいいのに、わざわざフジを怒らせるようなことをして喜んでいる。
しかも、フジのほうのキャラも相当かも。共同出資みたいな形になれば、当然、オーナー同士が話し合う必要性はいつかはあるでしょうに、フジにしてみれば「ライブドアなんて相手にしないよ〜♪」という姿勢。おとなげない。

誰かが街頭インタビューで、「単なるマネーゲームのようで嫌だ」と答えていたけど、ボスキャラ同士の戦いを見ているようで面白い。今のところどこの会社も倒産の話は出ていないので、やれるだけやってほしいというのが率直な感想。下手な野球の試合なんかより、よっぽど面白いわ。

はあ〜、それでいてあの破廉恥プロデューサーは何なのかしら?

愛人に貢ぐために、1億円相当の制作費の使い込み? NHK・・・これじゃ、受信料を支払えと言われてもお断りしたくなるのも無理はないとばかりに、今回はかなり厳しいね。しかも、NHKの伝統らしいから・・・使い込みは。

しかも、家は離婚した奥さん名義になっており、これではNHKもどうすることもできない。

このところ、メディアの茶番劇が続いているせいか、どうもコメンターも歯切れが悪い。民放だとNHKの話題になるとウキウキするのに、どうもホリエモンの話となると本当は何も語りたくないのではないかという雰囲気がオーラのように出ている? 悪口言いたくないよね・・・公共の電波で。

政治家の悪口だったら、おっそろしいほど盛り上がるくせに、今の時代はどーなっているんだか・・・結局、飽きてるのよね・・・野球もつまらないし、いつも似たような時間帯に似たような番組が並んでいるだけだし、使い込みがNHKの伝統?

なんか、飽きたのよ・・・そういう茶番劇に。

投稿者 Blue Wind : 09:29 AM | コメント (0) | トラックバック

March 09, 2005

NEET

今日は、何に興味を持ったかと言えば、NEET(Not in Employment, Education or Training)。「まるでわたしのほうがNEETだわ・・」などと思いながら、朝からNEETな人たちやその家族のブログをサーフィンしたり、関連記事を読んでいる。

NEETの定義は、「学生でもなく、就業者でもなく、求職「活動」もしておらず、主婦(主夫)でもないという者をさす。」

かろうじて主婦をしているから、わたしの場合はNEETではない。それと年齢的に15-34歳を若年層として定義しているために、わたしの場合それにも当てはまらない。ほっとすると同時に、わが家にはNEET予備軍のような娘がいる。

それでも学校へ行ってるせいか、ケーキ屋さん→お絵かきさん→美術の先生、という具合に、小学生でも具体的に将来への展望を考えるだけマシな気がする。正直に語れば、一人娘なのでさっさと結婚して子どもを3人くらいそそくさと産んでほしい。

わたしの場合、自分が就労意欲のある人間ではなかったせいか、どうしても娘にも甘くなりがち。その昔には、「家事手伝い」という便利な用語があり、ダンナの姉の場合、結婚が決まっていたために大学を卒業してもスイミング教室で水泳のコーチのバイトをしていたり、家の手伝いをしていただけ。フリーターとも違う。その鬱憤があるせいか、逆に40歳を過ぎてから働いている。

わたしの目から見れば、今の時代は就労意欲がありすぎの人たちが多い。スキルアップ、キャリアアップとばかりに転職を繰り返したり、卒業すれば何が何でも就職しないと罪悪のような雰囲気。

一方で過剰なまでに意欲的な人たちが鬱々としながら存在し、もう一方で何もする気がなさそうな無業者たちがさらに鬱々しながら存在している。少数なら話題にもならないのでしょうけど、いつのまにやら52万人もNEETが存在する以上、無視するわけにもいかないらしい。

が、しかし・・・

本当の意味でNEETに腹を立てているのは、いやな仕事を我慢しながら続けている人たちらしい。わたしの場合、子どもが幼稚園に入ったら無性に仕事がしたい時期もあったけど、小学校へ入ったら急に何もしたくなくなった。育児があまりにも大変だったので外の空気を吸いたくなっただけなのかもしれないし、それでも選択の余地があるだけマシだ。主婦の特権かも。

実際、大学卒業後、1年間はNEETだった。院へ合格したから救われたけど、していなかったらわたしは何をしていたか自分でも自信がない。就職したことも就職活動をしたこともないまま加齢してしまった。

義姉の場合、誰も批判しなかったけどな。「家事手伝い」というのが一つの常識のように存在していたのかもしれないし、いざ娘がNEETと呼ばれたら、正々堂々と「家事見習い中?と言いなさい」と、わたしは言いそうだ。

息子だったら?

家から追い出す。

投稿者 Blue Wind : 11:01 AM | コメント (0) | トラックバック

March 08, 2005

ホリエモンのテレビ・インタビュー

ホリエモンのテレビ・インタビューを見る。

歯切れが悪い。言いたいことがありすぎて、要領を得ない人の特徴。実際、数分の間にインタビューを受けて、その間に何を語れと言うのだろう? 大抵は、問われたことに対して答えるだけで精一杯ではないだろうか・・・

しかも、テレビの視聴者というのは、株のことも理解していない人が多いので、投資家に説明するようには語れないらしい。そりゃそうだよね。だったらそんな番組にどうして出るのか、そちらのほうが不思議。

自社の宣伝になるから・・・なんだろうな。

ネットを始めたばかりの頃、仙台にメル友がいて、いきなりメルアドがライブドアになった。その時、無料プロバイダとか、ライブドア・セットのことを知る。要するに、パソコンとプロバイダがセットになったプランニング。

ライブドアと言えば、わたしには、いまだにその頃の印象しかない。それが数年の間にこんなに急成長するわけだから、それだけインターネットに対する脅威というのが、逆にテレビ局の側に過剰にあることに気づく。

アナウンサーの古館さんが、「私達がこんなにがんばっているんですから」と語っていたのが本音なんだろう。数年後にはテレビは必要なくなる?

正直、わたしはこういうことでもなかったらテレビを観る習慣がすでに欠如している。新聞も読まない。その昔、レコードやビデオのレンタル屋がちまたに出来始めた頃の騒動を思い出す。その結果、著作権がどうたらこうたら、レンタル開始までの猶予期間の設定など、今ではそういう話も聞かなくなった。

CDが発売された時だって、大変だった。レコード針が製造中止になり、場所食い虫だったオーディオがコンパクトになった。どんなに高価なものでも、機械はいずれは古くなってしまう。その手の代物をゲットするには、今はネットのほうが都合がよいらしい。皮肉。

実際、インターネットがどうたらこうたら、と聞いても、「またか・・」という印象しかない。

反面、わが家はケーブルテレビなので、僅かでもテレビ電波を受信するために支払っている。国立の研究機関が妨害波を出しているらしく、電波障害地区に指定されているせいだ。普通のテレビアンテナでは受信できないらしい。このため、受信料に関しては、10年間は通常の10分の1くらいの価格。補助金が出ている。その後はインターネット並に支払わなければならなくなる。

普通は、NHK以外、テレビの受信はタダと思っているでしょう? スカパーなどの有料放送を除いて。うちは、お金払って受信してるのよ・・・つくばに来て以来。腹が立つったらありゃしない。なんで、あんなくだらないものにお金を払わないとダメなのか。

テレビとネットとどちらを選ぶかと問われたら、わたしはネット。同じ料金なら。それで、趣味やニーズに合わせて有料放送を個人で契約するほうがベターだと思っている。有料だといいよ・・・映画からサッカーからK1から、内容も豊富だし・・・

民放テレビが赤字になって、申し合わせたように有料化になった場合、どれだけの視聴者が残るのか、わたしにはわからない。

投稿者 Blue Wind : 11:42 PM | コメント (0) | トラックバック

March 02, 2005

ランキング気にしないバナー

トラックバック記事をサーフィンしているうちに、こんなバナーを発見してしまいました。

  ■ 配布元: 『主夫の馬鹿話』

直リン禁止ですよ〜♪

ギャンブルと一緒で1人で熱くなる分にはどうでもいいような気がするんですけど、アメブロの場合、今までトラックバックやらコメントやら読者登録やらややこしくて、何となくお返ししないといけないような気分がしてしまうし、逆にトラバろうと思ってもスパムと言われたら嫌だな・・・と思ってしまうし、案外、神経を使うんですよね、使っていないようでいて・・・

この際だから、自分を救うためにしっかり貼ります。

ネットでまで気を使いたくない・・・

え・・・今度、アクセス数?
もういいや・・・

投稿者 Blue Wind : 10:28 AM | コメント (0) | トラックバック

March 01, 2005

「今の若い連中」

わたしも40歳を越えて、そろそろ使ってもいいと思うのよね・・・「今の若い連中は」という言葉。今まではどちらかと言えば自分が言われる側だったけど、一度使ってみたかった。

「今の若い連中」というのは、どちらかと言えば他人さまのお子さまたちのことだから、子育て中の身分につき、実はあまり使いたくない言葉。自分が言われるのは平気だけど、自分の子が言われると親の責任のような気持ちになってしまう。

それと、歌壇なんていうのは80歳を過ぎてもまだ現役の世界だし、20代や30代なんてほんのひよこ。わたしは30代で作歌を始めたから、まだまだ若手の部類に入るらしい。それでも大学時代から作歌をしている人たちなら、そろそろ作歌歴20年になるわけで、決して若いとは思えない。

それでもいきなり、「中条ふみ子は・・・」などと言われてしまうと、ちょっと怖い。40歳を過ぎて彗星のように歌壇に現れた有名な歌人。中条ふみ子賞というのもあるらしく、この世界においては、まだまだわたしは「今の若い連中」と呼ばれる側かもしれない。

が、しかし・・・

あちこちで、日本の学生の学力の低下ややる気のなさ、就職難などがささやかれると、「今の若い連中」に無関心でいられないのも子育て中の身分だから仕方がない。

親としては、ありがたいよ。少子化の影響で受験は楽になっているし、学校を卒業したら勝手に生きていってくれると思っているから。結婚が早かった人たちは(ってそれが普通なのかもしれないけど・・)、クラス会へ行っても、大抵、最初の子どもはすでに中学生、高校生になっており、短大を出てすぐに結婚した人の場合、大学生とかね・・・

一方で、いまだに独身とか子どもがいない友達も多い。

ママ友というのは子どもの年齢で偏りやすいから、子どもの年齢が一緒でも年下もいれば年上もいる。格付けも子どもの学年に比例するような気がする。わたしより年下でもすでに子どもの年齢が遥かに上で、何人も育てていたりすると敬語を使う。実際、ソンケーするでしょう。大変だもの。

それでいて・・・

裏の奥さん、50歳くらいで亡くなって、わたしより10歳くらい年上だったからパワーが違う。わたしより上の世代は女の子で早稲田に進学したりするとそれだけで就職や結婚が難しいと言われて育ったと思う。仕事をしたいのなら一生独身でもかまわないとか、そういう世代だった。

わたしは、母がずっと仕事をしてきたせいか、逆にそういう意味での制圧はなかった。同世代のサラリーマンの何倍もの年収を稼いできた人だから、それなりに豪快だった。彼女にダンナがいて子どもがいるというと、大抵の人たちは驚いたそうだから、保護者会に彼女が現れるのがわたしは嫌だった。母と比較されるのはもっと嫌だった。わたしまで色眼鏡で見られてしまう。

それでもなんと言うか・・・わたしにはわたしなりのこだわりというものがありまして、心理学科・・・それなりに当時はめずらしかった。だから、単なる大学入試でも倍率20倍とか酷いと40倍とかね・・・そんな感じ。臨床心理士という資格が出来たのもわたしが院に入ってからで、少しだけほかの人たちとは違ったことをしていたはず。

なおかつ遠慮がちに言えば、わたしの代ではまだ短大のほうが人気があり、4年制はあまり人気がなかった。なおかつ大学院へ進学するというと、当時は全国で女性の院生が1万人しかいない時代。

というわけで、ささやかながら、わたしは新し物好きだったかもしれません。

---- で、「今の若い連中」に何が言いたいの?

はあ・・・遠慮がちに申し上げれば、あなたたちすでにジジ臭くババ臭いです。

投稿者 Blue Wind : 11:13 PM | コメント (0) | トラックバック

3つの落陽

nattoさんのところで、「今までで感動した景色ベスト3を教えてください!」という質問。

美しい風景や壮大な景色はたくさんあるけど、感動というと落陽の瞬間でしょうか・・・

思いつく順に3つ。

◎バリ島ジンバランビーチの大きくて真っ赤な夕陽、黄金の波。

◎島根県宍道湖のほとり、三保神社から眺めた幻想的な落陽。
霧の中のような不思議な風景だった。

このどちらも黄金の水面に青やピンクが漂っているという・・・不思議な色の世界。

◎アシジの”シスター・ムーン、ブラザー・サン”。
落陽の時間、空は昼と夜とにわかれ、左に満月、右に落陽。

アシジの丘では、音のない落雷にも驚いた。
何気ない低い山脈が続くだけの景色なんだけど、実はどこまで広いのかわからない。

短歌?

もう何首も詠んでいるにもかかわらず、どうやっても表現できない。
死ぬまでに、これ!という歌が詠めたらハッピー☆

投稿者 Blue Wind : 04:53 PM | コメント (0) | トラックバック

老化現象?

完璧ボケてる。
もともと固有名詞が弱い上に、ますますボケてる。
やばいなぁ・・・
まあいいや。

世代交代か?

ということで、ボサノバと言えば、わたしにとってはいつまでもジョアン・ジルベルト、ナラ・レオン、スタン・ゲッツ&ジョアン・ジルベルトあたりがボサノバで、その他諸々同じラテンでもサンバ系は好きではないし、このほかにはラモン・レアルの『二人と海』が定番。

ジョアン・ジルベルトの娘Bebelがベベルなのかべべールなのか、はたまたベベウかジジウでも関係ないことが判明してしまった。

ぐたさん、ごめんよ〜(泣)。

罪滅ぼしに、『Bossa Nova 海を見て』(手元のCDは『海を見ていた午後』)を見つけて借りてきたのはいいけど、これならユーミンのほうが・・・

ちなみに、短歌もボサノバも21世紀になってからなのよね・・・わたしの場合・・・急にノスタルジーに目覚めてしまったということは、これも一つの老化現象なのでせうか・・・

以下、わたくしが日々親しんでいるCDをご紹介。
これからボサノバを聴こうと思っている人に是非聴いてほしいのは、『ゲッツ=ジルベルト』、ナラ・レオンの『美しきボサノバのミューズ』。

これを聴かないで人生を終えるなんて寂しい。




アーティスト: スタン・ゲッツ&ジョアン・ジルベルト, アストラッド・ジルベルト, アントニオ・カルロス・ジョビン, トミー・ウィリアムス, ミルトン・バナナ
タイトル: ゲッツ=ジルベルト



アーティスト: ジョアン・ジルベルト
タイトル: 三月の水



アーティスト: ジョアン・ジルベルト
タイトル: ジョアン 声とギター



アーティスト: オムニバス, エリス・レジーナ, アントニオ・カルロス・ジョビン, ナラ・レオン, ロニー・リストン・スミス, シド・ラミン, ミッシェル・ルグラン
タイトル: カフェ・アプレミディ〜クレモンティーヌが選ぶボサノヴァ



アーティスト: ナラ・レオン
タイトル: 美しきボサノヴァのミューズ <完全盤>



アーティスト: ラモン・レアル, ベアトリス・ビノッティ, アナ・ラーン
タイトル: Clube da Chave

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February 26, 2005

恋なんてサルでも出来る代物

ヘンな言葉だと思ってしまう、「友達以上、恋人未満」なんて。きちんと分けないと。

こういうけじめをどこで覚えたかというと、ケンブリッジの夏。仲が良くても友達は友達だし、その代わり恋に落ちたらまるで隠さないヨーロピアンに囲まれているうちに、それが当たり前だと感じるようになった。

男女で一緒に旅行していて、同室になっても友達は友達。誰もそれを不思議に思わないところがすごい。きわめつけが、パリのディスコ。友達同士でパリへ行くことになり、ついでにパリを案内してもらう。

「ジャン・・・あなたって人は・・・連れがいるというのにナンパしてるの?」

日本人なら、グループで来ていてその中に女性がいるなら、その時くらいはナンパを控えると思うのに、パリジャンは違う。一緒に来ていたジャンの友達のパリジェンヌたちは素知らぬ顔。当たり前なのね・・・

逆に考えると、そういう all or nothing 的なところが快適になるから不思議。

それにしても話し方まで違うもの。表情も違う。
いつもの彼はいかにもクールで鼻持ちならないパリジャンという感じなのに、数分後には、わたしが彼女はてっきりジャンの彼女だと勘違いしてしまうくらい、いい雰囲気。紹介してもらおうと思って、ジャンに声をかけたら、あっさり彼女は去って行った・・・ごめんよ〜(泣)。

その後、日本に戻って来て、すべてがバカらしくなった。

恋というのはひと目で始まり、4年で飽きる。そして、いわば発情だと考えれば、その期間が終われば勝手に通り過ぎる。それを繋ぎ止めているのがつまらない駆け引きなのかもしれないし、不毛。

大抵は、性に目覚める年頃に恋を覚える。そうなると性的魅力がすべてだもの、迷っている余地はない。もし好きな人が出来たなら、互いに性的な魅力を高め合うように努力するべきである。失恋しても、どうせ恋ならどこにでも落ちているものだと思え。

問題は、その先でしょ?

恋は誰にでも出来るけど、建設的な関係は誰とでも、というわけには行かない。

だから、いつも「ノー」と言う姿勢と勇気が必要になる。恋なんてサルでも出来る代物。相手なんてどうでもいいのかもしれない。だから、本当に誰かを好きになりたかったら、この部分を冷静にクリアするべきなのかも。

大抵は、恋が始まると、自分のほうを向いていてほしいものだけれど、前を向かせよう。2人で睨み合っていたらどうせつまらないことで喧嘩になるだけ。そうなる前に、2人で同じ方向を見る勇気を持つ。

友達か恋人かなどとつまらないことを考えるのなら、あっさりそんな関係は終わらせたほうがマシ。どうやっても何かどこかが足りないから友達なんでしょうし、そういうのは惰性とか仮に肉体的つながりがあったとしても何か一つ足りない関係。要するに、本当に好きではないけど、仮好き状態?

TPOなのかもしれないな・・・性的魅力もないのに精神だけで恋をゲットするのは無理。それでいて、性的魅力だけでは退廃的怠惰な関係しか生まれない。恋=発情、単なる生理的現象、悲しいから泣くのではなく泣くから悲しくなるのと同じようなカラクリなのかもね。

そんなものだとさっぱり整理すると、ようやく恋愛にたどり着く。

それにしても、友達以上、恋人未満・・・
恋愛一つ満足に出来ない時代なんだろうか・・・あーやだやだ。


* トラステへのトラバです。

投稿者 Blue Wind : 12:26 AM | コメント (0) | トラックバック

February 24, 2005

ゴリラ君・・・・

ゴリラ君、またこんなことをしている。
君のしていることは、立派なセクハラなんだけど、どうやったらそれを理解してもらえるのか・・・そのうちゴリラ財団がゴリラ撲滅財団になってしまったとしたら君のせいだということがまだわからない?
職員の女性に胸を見せろと迫った挙句、断るとぶんむくれて手が付けられなくなる?
それが原因で、職員のほうがクビになるなんて・・・
こんなことなら世の中からゴリラがいなくなったほうが平和。

シンガポール動物園のサルのほうがまだマシだろう。少なくても彼らはおとなしく檻の中に入っている。通りかかる女性に発情しても、誰も彼らの顔も隠せないし、パンツをはかせるわけでもない。それこそ職務怠慢で動物園を訴えようかと思ったけど、熱帯では何が起こるかわからない。

人間に恋をするなら、人間になれって思う。
ゴリラ君、あなたにはまだ愛や恋や人生の奥深さがわからない?

わたしがあなたに我慢しているのは、神さまに地球を愛せと言われるからにすぎない。本当だったら諸悪の根源を根こそぎ絶やしたい。ゴリラが絶滅するのはそのセクハラ根性にある。なのに、まだ保護しろと言う。

世の中から、ゴリラが消えたら少しはまともな世の中になるような気がする。

たまに思うんだけど、プラトニックラブというのは、ゴリラが人間に恋するようなものなのかもって。

少しは女性に対する配慮とかね・・・やさしさ、思いやり、愛、礼儀正しさ、その他諸々、少しは学んだらどお? 人間の女性に接するのならばそれなりの振る舞いが必要だということを保護されているうちに学んだらどお?

ゴリラが滅んだら、あんたのせいよ?
わかる?

わたしがこんなに口を酸っぱくして言っても無駄なのかも・・・
こうやってゴリラは滅んで行くんだわ・・・
そのうち人間が怒り出して、本当に絶滅してしまうかもしれない。それでも誰かまだわたしを保護してくれるだろうか・・・いや、保護されたとしても一人では子孫は残せない。

神よ・・・
どうしてわたしはゴリラに生まれてしまったのでしょう・・・

* 「うそ日記」へのトラバ。つまらないものを書いてしまった。

投稿者 Blue Wind : 09:41 PM | コメント (0) | トラックバック

射手

小学生の頃、わたしはちょっとした占い師だった。星占い、手相、易、トランプ、タロット、姓名判断、その他諸々その手の類が大好き。

まだ幼児の頃、ほかの人たちにはとても愛想のよい可愛い子どもなのに、父の親友であるその人に対してだけは顔を見るだけで泣いてしまうというわけのわからなさ。もう名前も顔もわたしは覚えていない。後日、彼の詐欺的行為により、母が父の死後も苦しめられたことを考えると、子どもの直感というのは恐ろしいと母がよく言っていた。そんなもんさ。

ところが・・・・

さあ、いざ青春時代に突入し、自分の恋を占う。まるで当たらない。
大事な人生の岐路を迎えて、あれこれ悩む年頃。
そういう時に限って、何も当てにならない。

それでいて、直感ってあるんだよ。
インスピレーションというか・・・
最初にダンナに会った時、全然相手のことも知らないし、互いにほかに好きな人がいたし、第一、まったくわたしの好みではない。それでいて、何となくわたしはこの人と結婚するかもしれないと思った。

こういう軽いノリってうまく説明できない。

一方で、もっともらしく悩み続けている自分がいて、もう一方でぱっぱらぱっぱら何も考えない自分がいる。最後にはぱっぱらなわたしが勝つ。勝つとか負けるとか、そういう次元とも違うのかもしれないけど、わたしの場合、悩んだり苦しんだりしたことは全然うまく行かない。全然うまく行かないから苦しむのかもしれないけど、それにしても努力もむなしい。

そのくせ、直感がやってきた時には、逃げても逃げてもそこにはまる。

占いと言えば、星占いだと、わたしはいて座だけどアセンダントはおとめ座。このことにどういう意味があるのか、もはや何十年も昔の話なので忘れてしまった。だけど、一つ覚えているのは、外見はおとめ座で、性格がいて座という話。

それにしても酷い組み合わせのような気がしている。おとめ座のバリアの中から、矢を放つ。

投稿者 Blue Wind : 12:03 AM | コメント (0) | トラックバック

February 19, 2005

天然ブルー

時間というのは不思議なもので、わたしがインターネットを始めたのは2000年1月2日。ちょうど2000年問題が終わり、ダンナが新しいパソコンを買ってきたのがきっかけだった。それまでのパソコンと違っていたのは、プロバイダの案内がたくさん画面に現れたこと。一緒にもらってきたパンフなどを眺めながらプロバイダを選ぶ。そのうちAOLが一ヶ月無料と書いてあったのでその場で接続してみた。

今にして考えたら、AOLだからわたしはネットにはまってしまったような気がする。そのうち違うプロバイダを経由したほうが安くなるとなるとそのようにし、そのうちケーブルの接続の速さを考えたら、電話代も要らなくなるとばかりにブロードバンドが普及する前に乗り換える。実質的には数ヶ月くらいだったのかな・・AOLは。

自分でサイトをつくるようになってからは、BBSにレスを書いて遊んでいた。AOLだとすぐにオフ会に誘われる。子育てのサークルみたいなノリの出会い系。でも、濃いんだよね・・・正直。PTAの集まりに参加するのとちょっと違っていたのは濃いということかも。

育児ノイローゼで入退院を繰り返す元子役、軽くはシングルマザー・ファーザー、夫の不倫、妻の不倫、夫の不倫の子を引き取って育てている妻、いきなり7人の子持ち、離婚したいけどどうしよう・・とか。ヤンママ、ギャルママ、写真を送ってもらったら、子どもなのに髪の毛が赤い・・・とか。

チャットの画面だけ眺めていると、とてもまともな会話。今日、どこどこへ行ってきたとか、公園で何があったとか、他愛もない話。それでいて一歩踏み込むと深い。できれば踏み込む前に逃げ出すべきなのかもしれない。

そういうところだから、一度荒れ出すと止まらなかった。

それで、しっかりと鬱と見捨てられ不安を移され、仮鬱状態が始まる。普段はパソコンの電源をオフにしてしまえば終わる。でも、桜ブルーの季節にはそういうわけにはいかない。毎年、桜の咲く季節になると、原因不明の鬱に襲われる。

これがいつから始まったのか、わたしにはわからないけれども、春はどこか出会いと別れの季節だし、新しい環境に慣れるまでそれなりに時間の必要な自分のせいだと勝手に思っていた。桜の花が散り、ゴールデンウィークを迎える頃にはケロッと治ってしまっている。

わたしは生活面においてクリスチャンではないので、イースターを祝うという習慣がない。ところが、自分の精神状態を観察すると、受難の季節に突入するととたんに鬱が始まり、桜の季節には外を歩くのもつらいほどの鬱に襲われながら桜の散るのを眺める。そして、忘れた頃にケロッと治る。去年はそれが梨の花の咲くイースターの晩だった。

ネットを始めて、毎日、日記を書くようになり、恐らくは神父さんのサイトを来訪するうちに、まるで暗号のような鬱の符号に気が付いてしまった。

本当の意味での信仰というのがどういうものなのかわからない。実際、八重桜が咲いていたり、北海道の5月頃に咲く桜の花を見ていても綺麗だとしか感じない。でも、わたしが桜ブルーと呼ぶのは、わたしが生きている場所で咲く桜の花の咲く季節がたまたま十字架の季節だということなのかもしれない。桜の咲く季節になると急に憂鬱になってしまう。

となると、愛が冷え、この鬱々とした気分も自分にとっては歳時記のようなもので、毎年毎年繰り返される行事のような気がしてしまう。春が来て、花が咲き、不思議なことに梅雨の季節には静かに時が流れ、夏を迎える。お休みの季節には、人はウキウキしているほうが普通らしい。

こういう鬱々した気分を吹き飛ばすために、お花見があるのかもしれないし、それすらつらく感じられるほどの桜ブルー。いずれにせよ、時間が解決してくれることのほうが遥かに多い。いずれにせよ、人生における桜ブルーは終わっていることを神に感謝しよう。早く秋が訪れますように。となると、今はようやく梅雨が終わって日照り続きの夏ってことか。それもせつない。

投稿者 Blue Wind : 02:45 AM | コメント (0) | トラックバック

February 15, 2005

義理チョコはスパム?

どうしてこの季節この話になると右往左往するのだろうと、おおげさなまでに愛に飢えたる社会を感じるようになる。オリジナルはこちら
おそらくはまだクリスチャンへの迫害の多かった時代のローマで、修道士バレンタインは、牢屋に入れられ、そこから一生懸命に愛の言葉を鳩にたくして飛ばし続けた。どんなにつらい状況下でも神さまへの愛を失わず、神への賛美、友への愛の言葉、励ましを獄中で書いていたバレンタイン。
それがいつしか、聖バレンタインと呼ばれ、彼のお誕生日には愛の言葉や贈り物を交わす習慣が出来上がっていった。

それが20世紀後半の日本に伝わると、チョコレート会社がその話を利用する。しかも! もっとすごかったのは、この日を勝手に女性から愛を告白する日に変えてしまったところかも。これがね・・・ヘンな話、チョコレートを交換しあうとか、恋人たちの日みたいな感じだったら、ここまでいびつにこの話が成長することはなかったと思うの。

そうやって考えてみると、それまでは女性は常に受身で、自分から愛の告白やプロポーズをするなんてことは無かったのかも。それが時代が変わると、nattoさんは、社長さんからこんなギフト。なんでわたしにはくれないんだろうって思ったら、バレンタインディだった・・・

そうやって社長さんからボーナスを貰えない人たちは、ミチルさんの手作りマドレーヌ? マドレーヌのお返しが割烹料理・・・

うちのような普通の家庭では、父さんが貰ってきたチョコは子どものおやつ・・・そりゃ数が減るよなぁ・・・w それでも飲み屋さんに行って、チョコレートを貰ってこないだけマシなのかも。

でも、よく考えたら、わたしは本命にチョコレートなんて差し上げたこと無いです。とても若い頃、一度だけチョコを渡す練習?をさせていただきましたが・・・
それではどうやっていたか??

う〜ん・・・・・

わたしね・・・お誕生日が12月なんです。そうするとプレゼントいただくでしょ? それで本命というか、彼氏ですね・・・そうなると・・・毎年、お礼にセーターを編んでいました。子どもの頃から編み物が好きなんですよ。特技。

それでね・・・・今となっては単なるアレなんですけど、どうしてうちのダンナにつかまってしまったかと言えば、あの人は会うと必ずわたしの編んだセーターを着ているんです。しかも毎日着たきりスズメ。そうなるともともと編み物が趣味だったので、毎年コツコツ編むのが習慣になっていった。だってほかのセーターを着ないのだもの。

愛の深さが違うね・・・
オシャレでかっこいい人はたくさんいたけど、なんて言ったらいいのかわからない。デートの時にオシャレな人や店やその他諸々面白い人たちはたくさんいたんでしょうけど・・・急に何もかもがバカらしくなってしまった。

義理チョコ、か。

そだそだ・・・本題だ。

義理チョコはスパムか?

愛に飢えたる季節は大変なのよ・・・あちこちで今度はスパム騒動が発生する。義理なら要らないって人と義理でも喜ぶ人と世の中ははっきり分かれているらしい。
これってどこかトラックバック騒動にも似ていてつらいものがある。いつかはやられるだろうと思っていたら、わたしのもう一つのブログから勝手に誰かにトラックバックを飛ばされていたようだし、どうしてそういうことができるのかはわからない。でも、どうしてそういうことをするかというと、単なる嫌がらせなんだと思う。愉快犯?

自分的には、本当のスパムというのは数分毎にすべての記事に投稿されるスパムコメントとか、明らかにサイトやブログの運営を妨害する意志のあるもの。
ところが、今のご時世はちょっと違っていまして、義理トラバや義理コメントまでスパム扱いされかねない。
ネットってね、検索記事だけしか読まないとか、関連ページしか読まずにサーフィンするなんてことはざらだし、それでもまったく気にならない人と、そういういちげんさん的な来訪を嫌う人とがいて、ややこしい。

「NO SPAM ≠ 義理ならいらねぇよ」

なんてね・・・ちょっと考えてしまいました。

なんか、世の中が殺伐としていてつらい・・・

ちなみにうちのブログは義理でも何でもウェルカム〜♪
コメント・トラバ・読者登録。
お返ししないかもしれないけど・・・^_^;

投稿者 Blue Wind : 04:27 PM | コメント (0) | トラックバック

愛と恐怖

恐怖のバレンタインディを無事に終了し、娘と一緒にダンナが貰ってきた義理チョコを平らげ、「今年は一個か」と文句を言う・・世の中が不景気になって以来、義理チョコすら減った。

かく言う自分がチョコレートをあげたのはいつが最後だったか、まるで記憶にない。昨年か一昨年かはたまたもっと前に、娘がお父さんにあげたいというので買った記憶があるけど、昔からチョコが嫌いな人なので結局娘の餌になってしまう。
というわけで、チョコレートケーキもチョコアイスも嫌いな人と付き合い出して以来、わたしはチョコを買う習慣が無くなってしまった。もちろん自分やおちびのおやつには買うけど・・・

考えてみたら、この時期には特にチョコは買わない。
だって貰ってくると思っているから・・・

となると、まるきり関係のなさそうな人たちのために義理チョコなんて買わないでしょ?

それでいて、この季節のプレッシャーというのかしら・・・チョコが欲しいわけではなく、何と言ったらいいのかわからないけど、人気のバロメーターというか、さすがに一つも貰えなかったらショックな人たちが巷に溢れていることを知る季節。

その昔には、弟が貰えなかったらかわいそうだなぁ・・とか、弟の家庭教師はもっとかわいそうだなぁ・・とか、自分の家庭教師は顔で選んだから貰えないということはなさそうだったけど、あげたらうれしそうだった。

それが次第に、あげる人のない淋しさに変わっていく。

やっぱ、せっせとバレンタインに向けて、セーターやマフラーを編んでいるくらいじゃないとね・・・

一度だけ、思春期に男の子を呼び出したことがある。でも、本音を語ると全然好きではなかったと思う。でも、彼なら大丈夫だろうというか、そういうのはカンとしか語れない。

案の定、指定した本屋さんの前に淡淡と現れ、借りたノートを返すようにチョコレートを渡した。

見事にそれだけ・・・

後になってから、損したような気がした。

あ、思い出した!
今日は父の命日!!

バレンタインかぁ・・・ろくな思い出ないな。
臨終、大喧嘩、その他諸々。

食い物の恨みは恐ろしい・・・
女の嫉妬はもっと恐ろしい・・・

*********

聖バレンタイン's Dayには、獄中から愛のメッセ。
そっちのほうがいいや。

投稿者 Blue Wind : 01:37 AM | コメント (0) | トラックバック

February 13, 2005

トラックバックとコメントの違い

コメントというのは、素直にコメントです。そのブログの記事についての感想、誤植の指摘、ブログ作者へのメッセ等に使うことが多いです。

これに対して、トラックバックというのはIT用語辞典 e-Words によれば、「ウェブログ(ブログ)の機能の一つで、別のウェブログへリンクを張った際に、リンク先の相手に対してリンクを張ったことを通知する仕組みのこと」だそうです。

ひらったく語ると、これのネタ元は、ペキンガーさんなので、当然この記事は後でペキンガーさんにトラックバックしようと思っています。つまり、ネタ元の記事があり、そこからこの記事を書いたよ、ってことを相手先に通知すると同時に、そこのブログの読者にも関連記事として来訪してもらうことができます。

自分のところへトラックバックが飛んできた時にも、関連記事であればトラックバックを返します。それにより関連記事の相互リンクが出来上がり、一種の簡易リンク集みたいな機能を発揮します。

************

そのほかに、自分の書いた記事と関連がありそうな記事を見つけた時にもトラックバックを送信することが多いです。例えば、ライブドアの記事を書いた時にはどこがネタ元というわけではなかったのですが、自然と飛ばし飛ばされるトラックバック。時事ネタというのはそういうものなのかも。

ここで困るのが孫ネタみたいな感じかな・・・例えば、ペキンガーさんがトラックバックについての記事を書く際にネタ元になった記事があるわけで、わたしもそれを読んでいるんですけど、それをそのままネタにするかどうかは、今これを書きながら迷い中。それでいて、一応はトラックバックを送信しようと思っています。関連記事なので・・・

もっと言ってしまえば、そこからまたトラックバックをサーフィンし、その記事が自分の記事と関連がありそうならば、当然トラックバックを送信するでしょう。

************

あっさり語れば、わたしがコメントよりもトラックバックのほうが好きな理由はここにあります。

コメントというのは、そこの記事にだけ有効であり、その場限りと言ってしまえばそれまでのことで、自分的にはライトな感覚で書いています。それに比べて自分で記事を書けば、それが関連記事を呼ぶし、検索にも引っかかります。

重さが違うよなぁ・・・・何となく。

ただ順番として、自分の記事が先で後から関連記事を探す場合と、ネタ元があってそれに対して関連記事を書く場合とがあり、どちらかというと後者のほうが正統派のブロガーということなんでしょうか?

************

それとは別に、アメブロだと記事に質問やアンケートが書いてあって、それについての回答をトラックバックで集めていたり、短歌でも投歌用としてトラックバックを利用しているブログもあります。つまり、広くあちこちから意見等を求める時に利用するケースもあるということでしょうか・・・

トラックバック・ステーションもあるし・・・
つまり、お題を決めて関連記事を集めることにより、ユーザー同士の記事交流が図れるような場所。

************

それと、いくつか複数の記事に対して似たようなコメントを書きたい時などにもトラックバックを利用しています。だって、いちいちあちこちに同じようなコメントするのもめんどっちー。すみません・・・

************

それと、返歌についてもトラックバックを利用しています。これは、自分の歌は自分のブログやサイトにアップする、ってことなんでしょう。それでいて、返歌だから・・・トラックバックする。普通の記事のトラックバックの場合と同じかな・・そういう意味では。

投稿者 Blue Wind : 02:20 AM | コメント (0) | トラックバック

February 12, 2005

メリー・ザ・娼婦

そりゃないでしょ、Natさん!

というわけで、チャールズ皇太子とカミラさんの再婚のニュースをネタに記事でも書こうと思いながらサーフィンしていると、.Nat Zoneでは『30-34才独身男の3割は童貞』という記事。しかも、18-34歳の独身男の半分以上が彼女も異性の友人もいない? その陰で、増加する不倫?

はあ〜〜〜、情けなか〜〜〜(泣)
少子化の本当の原因は、↑これだったりして・・・

短歌でも不倫の歌の多いこと多いこと・・・一昔前なら驚きもしたかもしれないけど、近頃では、「そのネタは飽きた」とか、「あんただけじゃないのよ」というドライな批評すら。

それよか、こういう記事を『ダイアナ・トリビュート』を聴きながら書いているあたしって・・・昨年か一昨年に、行きつけのレンタルショップで中古CDの払い下げをしている中で見つけた。まだ聴いていなかったのを思い出す。

わたしは・・・一夫多妻とか不倫というのは無理だな。ダイアナ妃ではないけれども、精神的にそういうダメージには耐えられそうにない。何がダメージかというと嫉妬という以前に、恋愛観・結婚観そのものを支えているのが、自分が必要とされている感覚だもの。好きとか嫌いとかそういうこと以上に、自分が必要とされている感覚の欠如そのものに耐えられない。

そんな苦労をするくらいなら、さっさと離婚して・・・生活費だけ送ってくれたらいいや。(←これ言うと、目がつりあがるんだよ〜、きゃきゃきゃっ) 家も子どももわたしのもの、ついでに生活費を送ってもらって、ハワイで年下の彼氏とかね・・・鬱々家庭にしがみついているよりそっちのほうがいいような気がする。

本気でそうやって考えていると、男というのはずるい気がする。計算するんだろうな・・・あれこれ。まずは、子どもを失うリスク、今は若くてもしょせんババアになる女、そういうリスクを背負ってもいいと思えるようなイイ女がうちのダンナのようなくたびれた中年を本気で相手にするだろうか? 
で、家族に捨てられ、女に捨てられ一人になってしまうことを考えると、鬱々し始め、「まほ〜」ってなるんだろう。信じられるのは娘だけか? が、しかし・・・父親にしがみつかれるといやなので冷たい娘。ありゃ不倫は無理だね・・・うちのダンナは。

そこで、メリーさん?

この前、咲蓉子さんのブログで、『さよならメリーさん』の話を見つけた。パンパンと言うの? 米兵専門の娼婦。メリーさんクラスになると若い頃は将校のオンリーさんとか、いわゆる高級娼婦の部類だったのだろう。そうなると食べ物のない時代に食べ物を与えられ、お金もあり、美しく着飾り、普通の日本人が入れない所にも出入りする特権。それでいて寂しい晩年、か。

奥さんや恋人というのは、娼婦ではないな・・・妾や愛人とも違うな・・・

どこが違うのかわからないけど、明らかにどこか何かが違う。世の中には子どものいないカップルも多いし、今は籍を入れずに一緒に暮らしている人たちも多いし、要するに関係性の違いとしか語れない。

チャールズ皇太子とカミラさんの場合、どうなんでしょうね。不倫というより、すでに青春時代から恋は始まり、それがいまだに続いているわけでしょ? だったら最初からカミラさんと結婚していたら誰も不幸にならなかったのに。美貌でも若さでも人気でも圧倒的にダイアナさんのほうが魅力的なのにねぇ・・・

まあ、いいや。ここはあまり捻くれて考えず、ある意味、チャールズ皇太子を支えていたのはカミラさんだったのかもしれないし、そういう意味では、真の配偶者というのがダイアナ妃ではなくカミラさんだったということが不幸の始まりだったのだろう。

結局は、心のつながりの問題なのかも。メリーさんは、誰も信じることができなかったから娼婦だったのだよ、あっさり語れば。

投稿者 Blue Wind : 03:41 PM | コメント (0) | トラックバック

February 11, 2005

こっぱみじんこ

倦みの中に突入することは無意識に赤い財布を持たないようになることで、もっと倦みの中へ突入しそうだと思う時には、いただいた高価な赤い財布ですら他人に差し上げようと思ってしまう。つまりは、不幸をもたらすものを誰かにあげてしまおう、いささかそれに未練があったとしても縁起が悪い、悪そうだという理由でそれを手放そうとする。

そこに、あっけらかんと赤い財布を持って買い物をしている人たちを見る・・・

なんか、こういうことの繰り返しのような気がする。

そこでサルは再び・・ではなく、人は再び自分も赤い財布を持とうとし、誰かにあげてしまったことを深く後悔する。貪欲になるならなるで最初から他人に渡すべきではなく、それでいてそれは縁起が悪いと潜在意識がささやけば、実際のところ、自分にとっては有害な代物なのかもしれない。他人の価値観を信じるか、自分のカンを信じるか、それにも個人差があり、その基準すらもしかすると個の成り立ちすら支配している可能性すらある、となったら、どちらを選択するかは自分という人を客観的に測る基準にもなってしまう。

ライブドアがどーなろーが、株がどーなろーが、金融がどーなろーが、実はまったく興味がない。まったく興味のないことに興味のあるフリをするのはいわば社交上の問題であり、コミュニティというところに位置する以上、そういう配慮が求められる。従って、うちのダンナに至っては興味もないのに仕事のためにつまらないネタを探す。無口なのに饒舌になるというのは、合目的的行動が裏側にあるからで、人間を弛緩に導くためにはそういう他愛のなさが必要。職人というのは合目的的な行動のため動く代物らしい。

今回、北朝鮮は偉いと思いました。負けを予測していたせいか、日本での試合はまったくあちら側には報道されていないというニュース。実際問題、もっと大変な社会問題が山積しているはずなのに、サッカーにどれほどの価値があるのかあの国ではどうやって国民に説明するつもりなのだろう。それ以上に、実際問題、イタリアの女性はサッカーには興味がないらしい。そりゃそうだろう・・・何となく。自分が興味がないということにどうしてこんなに言い訳が必要なほど世の中が倦んでいるのかこれまた不幸の坩堝。

何が不幸といえば、幸福と倦みとの違いを履き違えながら生きることかも。倦んだ一日を無事に終了。あーつまらなかった。賦活なき神経細胞。

投稿者 Blue Wind : 01:11 AM | コメント (0) | トラックバック

February 10, 2005

雨風呂っぽい・・

あのさぁ・・・・・もしかすると、そんなことを考えてしまうのはわたしだけかもしれないけど、実録鬼嫁日記を読んだ後に、渋谷で働く社長のblogの『うそ日記』という記事を読んだ。

これって・・・・・・なんか・・・・・・・嘘でもいいから書き続けろ!

って言われているような気がした。

投稿者 Blue Wind : 09:45 PM | コメント (0) | トラックバック

いきなりライブドアのお話

ライブドアの快進撃は留まるところを知らない。(と思う)
この前、夕刊マダムさんのところに飛び、初めてライブドアが証券会社まで設立していることを知る。もともと株には興味がないけど、小口の取り引きなどを眺めていると、儲からないなら儲からないなりにお米やらお醤油やら送ってくれるような会社の株を買ったほうがマシだもんなぁ・・などと主婦根性が働く。

かといって、いちいち窓口に行くのもかったるいし、第一、去年の交通事故の相手が証券マンで、えれぇ柄が悪かったことを思うと、とてもじゃないけど、あんな世界には飛び込みたくない。でも、ネット銀行を利用して、ネット株ならこうやって暇にしている間に取り引きできるのか・・と魅力を覚えたりする。売れもしない歌集の話よりも、こちらのほうがマシだろうか。

それでいて、年中ダンナあてに株の勧誘の電話。それを考えると、うんざり。あの人たちって仕事中でも平気で電話してくるからね・・・そういう世界なのかもしれないし、とてもじゃないけど、暇でなかったら遊んではいられないだろう。

しかも!

大抵は、奥さんに内緒で・・・というのが常套句らしい。あーあ・・・

そういうせこい話に比べると、筆頭株主になるというのはさっぱりしていて気持ちがいい。ニッポン放送がフジテレビの筆頭株主で、ライブドアがニッポン放送の筆頭株主なわけ? なんてややこしいのでしょう。それでも、ネットユーザとしては見もしないつまらないテレビ放送を流されるより、ライブ感覚でテレビを利用するほうが面白い。

テレビを観ながら、番組にアクセスし、買い物するとか? 電話だったら昔からよくあるけど、それがインターネットとなるとますます簡単。低コスト。いちいちポストへ投函したり、お金を振り込んだりする時代ではない。そういうのをスピーディに処理してくれたほうが楽。

それと少しは関連があるのかもしれないけど、このところのアメブロのサーバメンテって一体何をしているのだろう・・・もしかすると、密かに広告表示数をひたすら増やしているとか?(まさかね・・)

一気に利用者が増える一方で、近頃、元気のない作家ブログ。理由は、アメブロのトップページを眺めると何となくわかるかもしれない。もしわたしがプロのライターだとしたら、無償で提供される上位ランキングのブログのネタを眺めているほうが特定のライターが書いた雑誌よりも値打ちがあるような気がする今日この頃・・・なんせ、利用者数が違う。最初から金銭契約して書いているのならともかく無償ではやっていられないだろう。

しかも、書籍と違うのは、質問を書いておくと、不思議とリアクションがあったりすることで、一人一人の知識には限界があるけれども、インターネットは無限大。ブログだけ見ていてもわからないでしょ?もちろん・・・

テレビのコメンテーターという人たちがするコメントと、ネットをサーフィンして眺めるコメントと、どこにどういう遜色があるのか近頃ではまるでわからない。

それでいて、専門というのは専門として君臨しているわけで、どこが違うかといえば、それは皆一緒なのよね。例えば、メンヘル系のブログでどこかの書籍からパクッてきたようなネタが書かれているとするでしょ? でも、実際には入門書程度なんだと思う。だって、ブログだから・・・それでもアクセスする人たちがいるってすごいと思った。

結局、ディープな世界にはなりきれないけれども、ちょっとその辺の雑誌を買うつもりならネットで十分な気がする。

自分の場合、短歌は素人だから、その辺からライトにネタを拾って書ける。何も参考文献を集めているわけでもない。歌を詠むだけなら知識など要らない。それでいて、ネットだからとバカにしていると、とんでもないしっぺ返しもある。

それにしても・・・
なんで、短歌の話から次第に逸れていくのだろう・・・・そこがコミュニティなのかも。

投稿者 Blue Wind : 10:57 AM | コメント (0) | トラックバック

February 07, 2005

「僕は大きくなったら」

今日は、よいお天気。
カウンセラーになって刑務所に勤め、氏家容疑者みたいな人たちの相手しているより、聖書でも読んでいるほうがマシだろう・・・
こういう時に泣いているのは被害者の親や家族だけではなく、大抵は加害者の親や家族も死にそうな思いをしているはず。ところが、当の本人は何を考えているのかわからない。「ほら、母さん、僕は生まれてこないほうがよかったんだよ」とかね・・・わからん。「どうせ、自分なんか」とか、「死ね」とか、そういうことしか考えていないのではないかと思ってしまう。愛に飢えたる世界は壮絶。

考えるのやめよう。汚染されそうだ。

残酷なようだけど、ここでマーフィの法則。すごく簡単なことなのに、それがなかなかできない人間というもの。氏家容疑者クラスになると、あたまの中の人生が「死んだほうがよい」ってことなんだろう。誰にそういう風に思いこまされたのか、わたしにはそっちのほうがいやだわ・・・・考えるの。
子どもは普通に、親から大切にされて育ってほしい。万が一、親から大切にされているという気持ちになれなくても、神さまはあなたを愛している、ということを、こういう場合には語らなければならないらしい。

マーフィの法則というのは、シンプルなのよ・・・「自分の人生は自分の思い描いたとおりになる」っていうだけ。よいことを思えばよいことが起きるし、悪いことを思えば悪いことが起こる。潜在意識との語らい。

あっさり語ると、自分の潜在意識と正しくお話するためには、神さまとお話するようなもので、静かにならないとお話できません。一人でいる時間や就寝前が効果的なのかもしれないし、ふと我に返る瞬間とかね・・・与えられたものを素直に受ける気持ちがないとなかなか受け入れることができない潜在意識。

マーフィによると、潜在意識を活用するには6つの原則。

\簑个肪僂困しがってはいけない。 
言葉は肯定的にしなさい。 
つねに現在進行形で語ること。 
い茲ち杼をすること。 
シり返しなさい。 
Π貎余里埜譴蠅けなさい。

子どものように無邪気にね・・・「僕は大きくなったら」の世界。ややこしく考えない。無邪気になること。

*********


ほんで、今度は何だって・・・・
セーターを後ろ前に着てしまうのは、マーフィが悪いって?

違います。着る前にきちんと前後ろを確かめないあなたが悪いのです。


■関連書籍

著者: しまず こういち
タイトル: マーフィー 値千金の1分間―J.マーフィー名言集489

投稿者 Blue Wind : 03:16 PM | コメント (0) | トラックバック

保安官

kitchenさんのところでは、安城市の乳児殺傷事件について、警察の意義について語っていたけど、わたくし的には警察では足りないのは昔からわかっているお話で、欲しいのはむしろ保安官。仮釈放についての論議よりも、犯人がどういう境遇にいるかよりも、防犯のほうが遥かに重要課題。個人でボディガードと契約したり、警察官の数を増やしたり、というよりも、地域の安全を守るのは自警意識しかないような気がする。

おかげでこちらはただでさえ育児は大変だなぁ・・と思っているところに、今回のように赤ちゃんが殺されるみたいな嫌な事件が発生すると、要らないストレスが発生してしまうし、どこへ行くのも娘を送迎しなければならない。

それでもうちの近所はまだマシなのかもしれない。何かあれば誰か連絡くれるし・・・

例えば、小学校へ入ったばかりの頃、「まほちゃん、ココスの前を渡ってましたよ〜」という電話。

ランドセルを背負ったままで勝手に歩道を渡り、わが家とは反対方向。信号もない。
とりあえず何もなかったから「ごめんなさい・・」で終わったけど、せめて、信号機のあるところを渡れと思ってしまう。それ以前にランドセルを家に置いてから友達の家には遊びに行け、とかね・・・幼稚園の頃は家の前まで園バスが来てくれたから楽だったけど、小学校へ入ると基本的ルールから教えないとダメになる。

子どもばかりを叱っていてもダメなわけで、地域ぐるみで子どもの安全を確保しなければならない。その後、おちびが渡った歩道のところには、「学童多し」の看板が立てられた。子どもを犯罪から守るのは、おとなの目。

が、しかし・・・

一番困ったのは、「まほちゃん、知らない男の人と遊んでいるわよ〜、おなかの上にのっかったり・・」という電話。

この時には、ぶったまげて慌てて公園へ行った。

すると・・・たしかに、知らない人と遊んでいるんだけど、その人、赤ちゃんを遊ばせているついでに、おちびの相手をしてくれているだけで、正直、やばい印象はない。それでも心配なので、微笑みながら近づき、「どうも」と挨拶をして娘を迎えに来たフリをして帰って来た。

後でおちびに訊いたら、「キョーコちゃんのお父さん」って言っていた。その時、キョーコちゃんはいなかったけど、たぶんお父さんが一人で下の子を連れて公園で子守してたんだろう。でも、日頃見かけないから、わからない。最初からキョーコちゃんのお父さんだとわかっていたら、「いつもお世話になりまして」と挨拶していたと思う。

電話くれたほうも親切なんでしょうけど、まるで誘拐されかねない勢いで電話くれても困る・・・それでも知らん顔されるよりマシ・・・でも、子どもたちに訊いても、お母さんの顔は知っているけどお父さんの顔は知らないらしい。ならばなおさらわたしや電話をくれた人が知るはずもない。

危険な人とそうでない人をどうやって見分けたらよいのだろう。

ぴりぴりしてしまう。
都会だったら、なおさらかも・・・

********

神父さんのお言葉の中に、次のようなものがあります。

「創世記は、二つのことを明快に教えています。つまり、人間は、神によって生きる者とされたけれども、神からの独立を求めて神から離れてしまった、という事実です。
創世記が、人間の創造と罪の原点を描くのは、歴史的な事実として表現するためではなく、神と人間との関係の基本的な教えをはっきりと伝えるためです。」

その後、マタイの福音書では、イエスがさまざまな悪魔の誘惑に打ち勝ったという話。創世記において一人の人の罪によりすべての人間が罪とされ、イエス・キリストの罪への贖いよりわたしたちの罪は赦された。

ひらったく語ると、子どもを犯罪から守るのも正義感。人間が犯罪に陥らないためにも正義感。悪に打ち勝たなければならない。

わたしたちが求めているのは、犯罪に陥った人間がどういう人間であるかというより以前に、治安の回復と一人一人の正義感の達成。

こんなことを書いているより、保安官になれと言いたい(笑)。それと、原罪と贖い。わたしよか酷い聖書の読みかたしてる・・・あーあ。

140円への道のりは険しい・・・

投稿者 Blue Wind : 04:15 AM | コメント (0) | トラックバック

February 06, 2005

酸欠日記

正直な感想として、ダンナと娘がボウリングへ出かけて行ったその間に、洗濯機に働いてもらい、好きなサウンドを聴きながらブログを更新しているほうが、あくせくあくせく出版社を儲けさせるために働くよりも幸せな気がしている。

仮に歌集を企画出版したとしても、1冊につき入ってくる印税はせいぜい缶ジュース1,2本程度。とすると、最低でも毎月1000冊は売れてくれないと生活できない。通常、自費出版の歌集が500部くらいとすると、発行して10日で完売するくらいでないとプロの歌人としてはやっていけないことになる。ほんとか?

もういいや・・・・ってなるあたしは普通の人なんだと思う。

それでいて、わたしはボウリングへは行かない。あれをやると、しばらく指が震えてキーボードが打てなくなるから。普通の動作だったら平気なんだけど、ボウリングをして帰ってきて、キーボードを打とうとすると手がかじかんでしまって動かない。正直、わたしは打つのが速い、と思う。ほとんど話すスピードで打っている。変換がスムーズにいけば・・・

プロではないけれども、なんと言ったらよいのだろう・・・
要するに、歌人なんだよね・・・

昨日はとても快調で、娘のお絵かき教室の待ち時間にもカフェで歌を詠んでいた。朝から歌、外でも歌、それくらい詠んでいた。持って行った詩集の余白に、せっせと書き込む。結構、混んでいて、隣に人が座っていたりすると恥ずかしい。途中で止めようと思ったんだけど、浮んだら書いておかないと同じ歌には二度と出会えない。そうなったら、やけっぱちかも。

それに、仮に出版したとしても、わたしは自分のサイトに、「買ってください」とは書けない。宣伝はするかも。アメブロでさえ、プロフィール欄にハイパーリンクを貼っておける。(でも、正直な感想として、売るのは業者の仕事ではないか?こういうことをおおっぴらに書いてよいのかわからないけれども、あちこちの作家ブログを眺めるたびに、情けないなぁ・・って思うのである。なんかお仕事間違えているよな・・世の中、どうなっているんだろう・・)


森村桂さんはよかったなぁ・・・なつかしい。中学生の頃、よく読んでいた。

お父さんが作家で、すごく貧乏だったらしい。それでいて学習院へ通っていたから、その時代の話が面白おかしく書いてあった。一番印象に残っているのが、クッキーを焼くのに奮発してバターを使ったのに、友達に最初からマーガリンだと思われて、すごくショックだったという話。わたしにはわからないけれども、当時はきっとバターが高級品だったんだなと思った。

そして、ニューカレドニアの話。『天国にいちばん近い島』というタイトルだったと思う。映画にもなったのよね・・・たしか今でも旅行会社のパンフの宣伝に書いてあったりする。

今のわたしの感性では、その話はニューカレドニアというよりもタヒチやイースター島くらい遠い。いつかは行ってみたいけど、時間とお金に余裕があり、帰りの飛行機が飛ばなくて一週間滞在が延びても平気にならないとなかなか行けないところ。

今は昔になってしまったその話も、今でも潜在意識の中に眠っている気がする。自分を未知なる世界に駆り立てるようなパワーがあった。そのパワーの源は、よろこび。クッキーにマーガリンの学習院時代の生活から、いきなりニューカレドニア。目の前に広がる透明な青い海。不思議な人たちとの出会い。ストーリーは忘れてしまったけど、その中で森村さんがわたしたちに伝えたかったことがわたしにもはっきり伝わったのだと思う。

中学生の頃に読んだ小説。そういえば、結婚してお金がない頃でも旅行だけはしっかり行っていたなぁ・・・ほかのものは我慢できても、これだけは我慢できないことの一つかも。酸素欠乏的人生だから仕方がない。


それでは、本題。
1400円の本を売って140円の儲けにしかならないのなら、作家が直接140円で売ればいい。そのためにはどうしたらいいのか、誰か知っていたら教えてほしい。

⇒有料メルマガ。
⇒無料メルマガ、広告収入。

どれもこれもなぁ・・・
ダンナの小遣いを節約していたほうが効率的かも。

投稿者 Blue Wind : 11:44 AM | コメント (0) | トラックバック

February 03, 2005

ツルゲーネフと節分

今日は節分なのに、すっかり忘れて豆がない。去年も翌日に安くなった豆を食べて終わった気がする。興味がないってそんなものなのかも。毎年、子どもが小さいからという理由で、義理でやっていたような気がする。

イスラム教の断食は麗しい。なんでそんなことをするのか不思議だったんだけど、要するに、自分が断食することにより、それを貧しい人たちのために施す。そういう精神のあらわれが断食らしい。

自分が食べることにより福を得、撒いて退治。節分。------世の中にはいろいろな慣習がある。


ところで、人間はどうやって狂気に立ち向かうのだろう?

この前、新井素子さんの小説のあらすじを読んだだけでさわさわさわ〜っとしてしまったわたしだけれど、実際問題、サイコホラーというのは人間の狂気の世界でしょ? このところ平穏に過ごしているために、急にそういうのをふられると悩む。

西武のツツミさんとか、ビンラディンとか、金がありすぎてもどこか狂気に満ちあふれているし、権力が人間を腐敗させるのかもしれないし、かといって金がないから犯罪や売春に走るというのも世の常らしいし、できればそういうものに汚染されたくないと思って生きるのが普通の人生だろう。

でも、普通の人間のさわさわさわ〜っとした狂気が存在しているのも事実だし、このところの日本社会の様子を観察すると、気が付かないうちに狂気やバイオレンスの匂いが充満しているのを感じたりする。だからこそ、治安の悪化を懸念する人たちが増加。

第一、戦争なんて、狂気そのものではないだろうか?

こういう狂気を打ち破るには、善しかないらしい。
悪には善を、愛をもって戦う。

が、しかし・・・・・

nattoさんのところでよく出て来る地域通貨のお話・・・・実際のところ、わたしは詳しいことは知らない。でも、チャリティやボランティアを賃金換算する感覚は、実はわたしは大嫌いなのである。(すんません、nattoさん)

そもそもご奉仕というのは、イスラム教で言うところの断食のようなもので、自分が何らかの報酬を得るためにするものではなく、むしろ愛他的行為。日頃、エゴイズムに満ちあふれながら暮らしているため、それから来る膿を少しでも軽減させることが狙い。とすると、そこに報酬が発生するとなると、本質的に何かが変化することになる。

例えば、この前イタリアを旅して何となく感じたのは、乞食という行為に悪びれたところの無さ。
駅前、歩道、教会の入り口、地下鉄、車内、彼らはいたるところに座っている。しかも、毎日同じ場所。
電車の中でもジプシーの演奏が始まる。
ジプシーでなくても、「現在、失業中です。しかも妹が病気で困っています。僕にお金をください。ありがとう」と書いた紙をいきなり車内で配り出し、その紙を回収しながら小銭を集めている青年もいた。
でも少しも悪びれた様子がない。渡すほうもあっさりしている。
路上に座っている足に障害を持つ男に道を尋ね、チップを渡している人もいた。
こんなに裕福な国なのになぁ・・・と、イタリアを眺める。でも、そういうことはあまりガイドブックには書かれていない。そのくせ、バリ島のミンタミンタ(乞食)の話はよく出て来る。不思議。

乞食とは違うけれども、昔、寄付を募っている人たちのためのサイトを見たことがある。「先月夫を亡くし、4月には子どもが生まれるのにお金がありません。善意を期待します」という内容の記事に対し、実際にいくらいくら集まったとか。「誰某さんから420ドル寄付がありました」みたいな感じで。
お金に困っている人たちがダイレクトに読者に訴える不幸自慢サイト。
何となくそういうサイトがあること自体が不思議な気がしたけど、それに対して実際に結構な金額の寄付者が現れるということも不思議だった。

文化差と言ってしまえばそれまでだけど、日本だったらお金ではなく仕事がほしいと言うのが普通なんだと思う。中には働けない事情のある人たちも多いにもかかわらず。働かざるもの食うべからずか?

互いに助け合うという感覚にも、何となく文化差が存在しているような・・・


********

ここで突然、ツルゲーネフの『乞食』。


  通りを歩いていると・・・・乞食に呼びとめられた。
  よぼよぼの老人である。
  赤くただれた、涙っぽい眼。青ざめた口びる。
  毛ばだったぼろきれ、うみくずれた傷ぐち。
  ・・・・・・・・
  おお、貧苦に虫ばみつくされた不仕合せな男。
  彼は赤くむくんだ、きたならしい手を、わたしにさしのべた。・・・・・うめくように、つぶやくように、お助けをと言う。
  わたしは、ポケットというポケットをさがしはじめた。・・・・・・財布もない、時計もない、ハンカチ一枚ない。・・・・・何ひとつ持って出なかったのだ。
  乞食は待っている。・・・・・さしのべたその手は、力なく揺れ、わなないている。
  途方にくれ、うろたえたわたしは、ぶるぶるふるえる汚い手を、しっかり握りしめた。・・・・・
  「わるく思わないでおくれ、兄弟。わたしは何も持っていないのだよ。」
  乞食は、ただれた眼で、じっと私を見た。青ざめたその口びるを、うす笑いがかすめた。------
  そして彼は、わたしの冷たくなった指を握りかえした。
  「結構ですとも、だんな」と、彼はささやいた。
  「それだけでも、ありがたいことです。------それもやはり、ほどこしですから。」
  わたしはさとった。わたしのほうでも、この兄弟からほどこしを受けたことを。(神西 清訳)

* 谷川俊太郎編 『<愛の詩集』より。

********


深いな・・・

まだ大学に入ったばかりの頃、わたしはその日、日比谷公園にいた。もしかすると高校生の頃かもしれない。ベンチに座って売店で買ったパンかスナックを食べようとしていたら、浮浪者がやってきて、近くのごみ箱を漁っている。

すごく逡巡したのを覚えている。

一番よいのは、差し出すこと。でも、出来なかった。怖い。目つきはどんよりとしているし、頭はぼさぼさ、上から下まで路上生活者。正直、傍に来られただけで怖かった。

迷った挙句、パンを・・・そうだ、パンだった・・・ごみ箱の中にそっと置いて、急いでその場を逃げ出した。その後のことは知らない。


それでね・・・・・初めてツルゲーネフのこの詩を読んだとき、チキン肌になった。

それでね・・・節分だからはっきり言うけど、この豆まきという悪しき慣習をやめたら、日本はもう少しまともな国になるかも。

投稿者 Blue Wind : 11:38 PM | コメント (0) | トラックバック

再び訪れるつもりなら自由な旅がいい

アメブロのトラ・ステへのトラバです。

お題: 「パックにするかバックパックにするか」

純粋な意味で、バックパッカーとは言えないかもしれないけど、わたしは個人旅行派。一部例外を除いて。

例外を先に挙げると、サイパンは、どうやってもパックでないと逆に高くてどうにもならなかった。グアム・サイパンの場合、仮に航空券がタダだとしても、ホテル代が高い。それを考えると、パックツアーに申し込んでも大抵は空港〜ホテル間の送迎だけであとはフリーなので、そういう意味では不満もないです。ならば安いほうがいいに決まってる。

それと、近頃では間際に予約するならパックの売れ残りが、その場で手続き完了なので楽です。特に、ハイ・シーズンは個人で予約しようとするとホテルに満室を言い渡されることが多いし、人気のあるホテルなんて特にそう。航空券でさえ買えない。それが不思議なことに、日程の1週間前くらいでもパック・ツアーだと予約ができてしまうという・・・しかも、ハイ・シーズンの場合、料金も個人で予約するよりも特別に高いというわけではないから不思議だ。

バリ島も2度目は間際予約。航空券が買えなかったので諦めていたら、どういうわけかパックならまだ予約できるという・・・ハワイもそういうことがあった。子どもが小さくて、オフ・シーズンに旅行に行けるのなら個人で手配するほうがいいに決まっているけど。しかも、コースを指定して、クレジットカードを提示すればその場で決定。物足りないくらい楽。

にもかかわらず、個人旅行派。ただし、子連れなので、あらかじめ日本で予約できるものは予約しておく。例えば、ヨーロッパの大都市やバリ島の場合、まずホテルが満室になるなんてことはないけど、今はネットで予約できるし、そのほうが現地で申し込むよりも安いし、確実。人気のあるホテルは予約しておかないと一杯になってしまう。が、しかし・・・オーバーブッキングされて、隣のホテルを案内されたこともあるけど・・・

でも、本音を語ると、子どもが一緒でなければバックパックのほうがいい。例えば、レンボンガン島へ行った時、ガイドブックにも載っていないバンガローを見つけた。一瞬、バリ島へ戻りたくなくなったけど、そういうわけにもいかない。

セストリ・レバンテ(リビエラ海岸)へ行った時も、あの界隈はいくらでもホテルがあるにもかかわらず、日本でゲットできる情報も予約も限られている。バックパッカーの流れに乗って、途中下車してその日の宿を決めるほうが楽かもしれない。

でも、予約するほうがよいこともある。ホテルが送迎してくれたり、自分の場所ができると言ったらヘンだけど、歴然としてそういう差はある。ビーチ・チェアーやレストランの席すらいつでも指定席。毎日、同じ人たちが隣に座っている。見知らぬ土地だからこそ、そういうことにささやかな安心感を感じたりする。そうやって毎年同じような人たちが同じ席に座るようになる。

一つわかっているのは、パック・ツアーで申し込むと2度とその土地へ行こうという気にはなれないということ。わたしの場合・・・

投稿者 Blue Wind : 11:52 AM | コメント (0) | トラックバック

つまらなすぎる質問に答える

世間知らずの特徴は、誰かに尋ねることを恥としないところである。世の中すべての人たちが自分の知らないことを知っている、と思い込んでいる。それがたとえ5歳の子どもであってもわたしにとっては未知の世界を知る存在。ありとあらゆる人たちがわたしの知らないことをたくさん知っている。

これに対して、苦労をなさっていると思い込んでいる人たちの特徴は、自分は誰にも理解されないことを知っていると頑なに思い込んでいるところにある。だから、彼らはいつも地面とお話をしたがる。その苦労を大地に描こうとする。血反吐を吐くという感覚で。

わたくしには常にそのどちらの面も存在しているとうぬぼれることが多々ある。そして常に恥と誹謗・中傷を浴び、ある時には誰かを傷つけたとかわけのわからないことを言われたり、親が死んでもざまあみろ。

たまに思うんだけど、どうせ話すのなら愚痴は空に向かって言うほうがいい。

下を向いて話せば、自分が言われる側になってしまう。上を向いて話せば、誰かが聞いてくれるような気がする。だから、お話するときには、常に相手が何でも知っていることを前提に話す。

********

作家のモトギさんのブログで、例の如くアンケートか? 

◎ 生活できる金と自由と、あなたはどちらが大切ですか?

なんてつまらない質問なのだろう・・・
「大切」なのは、自由に決まっているではないか。
言いたいことも言えないくらいなら何のために生きているかわからない。それとは別に、spiritual freedom なしに一人の人も生きてはいけない。精神は自由である。

高尚に語れば、マタイの福音書 10. 9-10 かも。イエスは十二人の使徒たちに汚れた霊に対する権能を与え、その際、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」と語っている。

これを普通の主婦にたとえてみよう。わたしは生まれてから賃金を得るための労働らしきものをほとんどしたことがない。だけど、働く者が食べ物を受けるのは当然である。とは言うものの、ラテーノだから働くのは好きではないけど。

つまり、すべてを賃金換算しようとするからおかしくなる。でも、働いたことがないとね、必要なときに必要なものがあれば生きていけることを知る。同じようなものを1万円で買うか500円で買うかの違いもあるわけだし・・・もっと言ってしまえば、「あ、それ要らないの?ありがとう〜♪」

金は使えば無くなるけど、精神の自由は消えない。どっちが大切かなんて・・・あーあ。


*********

質問変えるなよ・・・・モトギ・・・・・さん。

◎ 「マトモな生活ができる金がない生活」と、「マトモな自分を保てるだけの自由がない生活」とでは、あなたはどちらがツライですか?

マトモを定義できないあたし。どろっぷあうと。
日本と北朝鮮とどの程度違うのか、誰か知っていたら教えてほしい。
Si, si, si prego!!

----はみだしながら普通の生活を送るためにはどうしたらよいか?
普通に生きることである。
皆がやってるようなことをやり、精神は自由。そんだけ。

投稿者 Blue Wind : 01:29 AM | コメント (0) | トラックバック

February 02, 2005

今って昔なんだな・・

すごいな、ぐたさん。わたくしにはカズマさまより、あなたのほうがすごすぎる。

さっき、ランキングが表示され、ジャンル・ランキングへ飛ぶ。すると、トップがぐたさんの『読書感情文』。最初、気がつかなかったのよね。とりあえず、読者登録しているブログなので、更新情報が入れば飛ぶし・・・

さてはともあれ、おめでとうございます。

しかも、ぐたさんのところはアーカイブがプルダウン式だから、気がつかなかったけれども2003年10月からアメブロ・ユーザーをしているのか・・・そんな昔からアメブロがあるなんて、まるで知らなかった。きちんと無駄のないように整理された冷蔵庫の中を連想してしまう。うちの冷蔵庫のように賞味期限が切れないと捨てられないとばかりに要らないものが並んでいるのとは何となく感性が違う。主婦ってつまらないところから、つまらないことを連想してしまう。

昨日はネタ的には豊作だった。

常連化して何が面白いって、リアクションがあるところかもしれないし、ひや〜っとするような記事がアップされていたりするところかも。王さんのところは、新井素子さんの『ハッピー・バースディ』。はっきり言って、ブック・レビューと著者へのインタビューを読んで、それだけでさわさわ〜っとなってしまった。
新井素子さんって読んだことがない。SFやホラーは苦手。しかも、『ハッピー・バースディ』のストーリーが普通の主婦が主人公のサイコホラー。偶然の出会いにより人生が狂わされていく話らしい。それだけでもさわさわ〜ってしてしまうのに、新井素子さんの写真を見て、彼女に普通の主婦の話を書いてほしくないと思ってしまうわたし・・・キャラがすごい。
しかも、わたしと一緒で、一人の時間帯でないと書けないらしく、夜中に一人で登場人物になりきって書いている? あー怖い。

今ね・・・・ちまたにブスがいないと思わない?

なんで急にそんなことを思ったのかは、ご想像にお任せします。

ツボヤキさんのところも、読んでないようでちゃんと読んでいるわたし・・・このところ、年下の彼氏の話の映画が連続している。
昔、『エル』というタイトルのフランス映画を観ろと友達に言われてビデオを借りてきたことがある。息子の恋人が自分の親友だったら?と考えるべきか、大学教師と教え子の恋愛と考えるべきか、中年の濃い4人か5人くらいの女性がテーマの映画だったと思う。
でも、『エル』ならともかく、『マザー』? ここまでくると、近頃、高齢者の恋愛話もめずらしくなくなってきた日本のほうが視聴者がいるかもね、イギリスより。あっさり語ると、年取ってひとりぼっちになって息子にしがみついている親より、うちの叔母さんみたいに60歳を過ぎたら結婚しようかな、って言っているほうが子どもは楽らしい。でも、息子と娘は違うかもしれない。わからん・・・

それと、日本だと高齢者の恋愛は、恋愛そのものではなく、介護や財産のほうがネタ的に興味の対象になりそうなところが気持ち悪い。奥さんの権利ってものすごく強いし・・・例えば、わたしがこのように駄文を書いている間、うちのダンナさんは働いているわけ。それでいて、収入の半分はわたしのものだと主張する権利があるらしい。年金も払わなくてもいいし、貰うだけだし、ダンナに何かあっても遺族年金はあるらしいし、昔、それを個人で年金保険に加入した場合を計算したら、毎月の掛け金だけで家がもう一軒買えそうなことに気づき、慄いた。

ということは、近頃、結婚したがらない女性が多いらしいけど、それは実に不経済だからやめておいたほうがいいかもしれないとしか語れない。結局、関係性の問題なんだろうな・・・気遣いや生活への配慮、精神的な負担。老後の生き甲斐とか? 若いうちからそういうつまらないことを考えているからダメなのかも。

久しぶりにHotwired Japanへ飛んだら、スタイリストの高橋靖子さんのブログを発見。原宿のセントラル・アパートの話が書いてあって、つい読んでしまった。わたしがこちらへ来て、あの界隈を歩いたのはいつが最後だろう。わたしの記憶では、その時、青山から渋谷に向かい、無性につまらなさを感じたのを覚えている。マンションの空き部屋、空きテナント、ブティックがコンビニ。その後、知っている店の閉店の話題が相次ぎ、気がつけば、墓場のような街へは戻りたくなくなった。千葉一雄って言ってももしかすると今は誰も知らないかもしれないけど、あの界隈にいた人たちなら愛するいち先生のことを知っているかもしれない、と何となく思った。竹下通りのカキ氷屋さんとかさ・・・今は昔。

ノスタルジーって悪くないよね・・・

投稿者 Blue Wind : 12:58 PM | コメント (0) | トラックバック

シンプルな人たち

それにしても嫌な時代。人生にまで勝ったの負けただのうるさい。そもそもそうやってシンプルにスムーズに行かないところが人生の魅力であり、面白さだと思っていた。

はてはて・・・

でも、そういう複雑な発想をどこでゲットしたのか、わたしにはわからない。

昨日、母のいる病院へ行き、紙おむつや吸引手袋を売店で購入。その際、いつもだったら気にも留めない雑誌や文庫本のコーナーを見る。病院の売店だから、そんなにたくさんあるわけもなく、駅を使う生活をしていないせいか、病院の売店以外の売店を覗く機会なんてわたしの日常生活にはない。

びっくりしましたね・・・まるで知っている本がない・・・
かろうじて2,3冊くらいかなぁ・・・読んだことのある、あるいは彼方昔に読んだと思われる書籍。雑誌も病院のせいか医療関係が多く、ああなるとスーパーの雑誌スタンドのほうがまだマシ。雑誌のタイトルくらいは見たことがあるものが並んでいる。文庫となると、書籍名どころか著者名すらほとんど知らないものが並んでいた。

それではわが家は本のないさっぱりとした家庭なのだろうか?

いやはやいやはや、こんなものは捨ててしまえ、と思うような本や、どういうわけか同じガイドブックが2冊以上あったり、娘のために買った読みもしない絵本の類、趣味の本、それを越す専門書、小説、語学、近頃では短歌関係の本や雑誌、ネタになりそうな写真集、昔だったらどんなに乱雑であっても頭の中に索引を含めてライブラリーが存在していたのに、今ではそういうものすら役に立たない現物主義。どうにもならん。不経済とは思いながら、本置き場のために一部屋余分に必要。今は家のことを考えて、まとめて置かないようにしているために、ますます混乱している頭の中。本というのは物理的に邪魔にならないようにどこかへ積んでおけばよい。だけど、何がどこにあるのかさっぱりわからない近頃のわたし。

子どもの頃、大抵の少女マンガは読んでいた。週刊やら月刊、臨時増刊、あれにこれにと読んでいた。そのほかに学校の図書室の本はかたっぱしから読んでいた。仕方なく読む本がないと親に言ったら、買いたい放題に本屋で買った。それこそ理解のできない外国文学まで含めるとおそろしい。その中でどうしても読めなかったゲーテの『ファウスト』。好きだったランボー詩集。どうして好きだったのか覚えていない。

これに加えて、いわゆる学習書とかね・・・きりが無い。中学へ行けば、これに音楽や映画、ファッション系の雑誌が加わる。わたしの部屋はいつも乱雑で、規則正しかった。朝、わたしが学校へ行くと、お手伝いさんが来て、部屋中の本をベッドの上に載せる。掃除機をかけるため。わたしが帰宅すると、ベッドの上の本をまた足下に戻す。そのうち、積んでおけるところならどこへでもという具合に小さな飾り机があったのだけれど、いつのまにかそこも本置き場にされていた。

高校へ行くようになると、これらに加えて、受験用の参考書の数が夥しいほどになり、それだけでは飽き足らず、専門書を買ってきて読むようになった。とりあえず、進学したい学科があるのならそうするべきじゃない? ついでに西洋哲学史、西洋史。学校の授業より面白い生物学や化学の専門書。でも、多くが入門書。そのほかに政治・宗教、なんでもありいだった。要するに、受験勉強に飽きると読んでいた専門書。この反動で、大学へ入ってからは、推理小説や恋愛小説など短時間で読めるものに集中した。ぱっぱらぱっぱら読み捨てる。

大学院へ入ったら・・・・・やめておこう。インデックスになってしまう頭の中。

すべてを読むなんて不可能だから、本は常に目次から読み、アブストラクトから拾うようにする。そうしないと人生がいかに短いかを知ることになる。しかも、誰も教えてはくれないから・・・もはや、誰かが知っているとか、関連書籍や文献があると期待してはいけない。誰に訊いてもわからないことを前提に突き進んでいく。

不毛だ・・・

たまに思うのだけど、日本人は活字中毒者が多い。それでいて、彼らはどうやってそれをアウトプットしているのだろう? インプットされたものは出さなければ溜まってしまう。死に絶えていくだけの神経細胞。それでいてかなりのクセとバイアスを持ち樹状突起は伸びていくらしい。そうなると、もはやわたしはわたしに逆らえない。不毛な知識が干渉刺激としてわたしの未知なる知識の吸収や新たなる思考過程の形成を阻害する。もはやわたしはこれまでなのだろうか?

パタッ。

こうさぁ・・・・どうやったらそうやってシンプルな発想ができるのだろう? まるで人生をオン・オフで締め括っているかのようなシンプルな発想。こうやれば勝てる、これは負け。なんてシンプルなのだろう。こんな発想がまかりとおるのは、そういう構造にしてしまっているからだ、何かが・・・・その何かが何なのか、誰か知っていたら教えてほしい。

詩編 100. 1-5


* 活字の捨て方・・・・わっかるっかなー。

投稿者 Blue Wind : 02:17 AM | コメント (0) | トラックバック

January 31, 2005

騒々しい静けさ

昔どこかのサイトで、お客様苦情係のネタを読んだことがある。面白かったのは内容よりも数値。100人が同じ苦情や不満を感じたとして、それを実際に苦情係に持ち込むのはせいぜい4人くらいまでらしい。逆に考えると、自分が不満に思い口にすれば、その25倍以上同じことを感じている人たちがいることになる。

2月からランキングが復活するということで、あちこちで目にするアメブロへの不満。アンケートまでやっているところがあるのかぁ・・・と思い、一瞬便乗しようと思ったけど辞めた。アンケートってつまらない。それよりもブロガーとしては自分のブログに記事を書く。そして、それを関連記事にトラックバックしていく。かっこいい〜☆

それにしてもね・・・雨風呂ミステリーの記事は、保存版かもしれない。これだけは旧くなってもちまちまあちこちへ飛ばせる。なんでだろ?毎日1600くらい新規登録があり、昨年の12月11日に風マニアをつくって約7週間で5万ブログが増殖したことになる。ほとんどがスパム登録だと思うんだけど、それにしてもすごい。

そのせいか検索すると、あまりにも重いという苦情が一番多い。その次に、ランキングの謎とランキングのパンク状態への不満。その次が、自分でカスタマイズできないこと?

わたしもね・・・年中、デザインを変えて遊んでいました。とうとう今のシンプルスキンになってしまった。それでいて、せめてもう少しカラーバリエーションがあればいいのに、って思ってしまう。どうやっても気に入らないのだもの。常連ブログと同じデザインというのも抵抗あるでしょ?なんでかな・・・たまたま飛んだブログやアクセス数の多いブログと同じでも気にならないのに、よく行くブログだと真似したみたいでいやだなーって思ってしまう。

シンプルならシンプルなりに、どこかこれは自分のブログであるという雰囲気がないと自分が落ち着かない。ということはどのデザインもまるで借り着しているみたいで落ち着かない。

それでいてアメブロに定着しつつあるのは、コミュニティだからだと思う。もちろんアメブロ以外のサーバのブログからもTBが飛んできたり飛ばすこともある。でも、一番大きな理由は更新情報が届くことかも・・・巨大な連絡網のような気がする。それでいて、どこに網を仕掛けて置くかで自分のブログの雰囲気すら変化しそうで怖い・・・

アメブロの雰囲気が嫌いで移転するブログも多いのも事実だし、自分的にはこういうがちゃがちゃした雰囲気も嫌いではない。でも、** Blue Wind ** は続いていく。あれくらい隔絶しながら細々とした存在があるから、アメブロが面白い。逃げ場があるってなんかいい。

投稿者 Blue Wind : 11:42 PM | コメント (0) | トラックバック

January 30, 2005

右翼対左翼的翼のない旅

茶道の家元と杉山明を比較するほうがどうかしているような気がするのだけれど、どうしても比較してしまうわたしという人。

ネタ元は、NINABLOGさん

「氷の微笑」で寄付1億円 10分足らず、賛同相次ぐ

せっせとODAの増額について討論していたんだろうな・・・そこに女優のシャロン・ストーンが立ち上がる。「うだうだ言ってないで、自分で出したらいいじゃないの」的ジェスチャー。皆の金だから話し合う必要があるわけで、個人で出すなら関係ない。

NINABLOGさんみたいに学者としてタンザニアに関わる人たちに、いきなりシャロン・ストーンになれって言っても無理だよなぁ・・・全然お仕事違うもの。しかも学生だったらなおさら。政府に意見書を提出したり、世論を取りまとめていくのも大変だろう。

わたしだったらどうするかというと、それを日記のネタにしたり、神父さんのサイトで歌を詠んでいたりする。

かつて、学生時代。わたしには何の力も無い。社会は遠いところに存在し、わたしとは無縁だった。院に入ったばかりの頃、1年間ほとんど大学へ行かなかった。原因は嫌な教授がいて、何かが原因で、聖心をクビになったらしい。それを恨んでいるのか、わたしにも嫌がらせ。もちろんわたしだけにではない。ほかの学生に対しても、荒れ方がすごかった。

我慢していたんだけど、ある日、臨床系の合宿へ行き、わたしは切れた。あったまにきて、その教授にワインをぶっかけた。その結果、わたしは殴られ、登校拒否状態。その時には、院を辞めようかと思った。

ところが・・・・・ある日、登校してみると、今度はその教授が人間ドックへ入るという理由で、半年くらい休職していたという事実を知る。まだ、セクハラという言葉すら無い時代の話。これがわが母校聖心だったら彼はクビだ。学生を殴るなんてとんでもない。院生は彼の奴隷ではない。

世の中、多いわけさ・・・この手の類の人。今はすでに時効となり、わたしの修士論文の副査がその教授であり、一瞬嫌がらせされたらどうしようかと思ったけど、その後博士後期過程に無事に進学できたことを考えると、話は終わっていたのだろう。

わたしが男だったら院をクビになっていたと思う。悲しいけど、それも現実だ。男とはそうやって鍛えられていくものらしい。よく知らんけど。サルがサルを育て、ボスになろうと頑張る。サル社会。

そういう中で、シャロン・ストーンはさっぱりしてるよなぁ・・・たしかに。

が、しかし・・・・

国際学会へ行きたいのなら、自分でせっせと論文を書くより、ダンナに連れて行ってもらった方が楽。もっとはっきり言えば、海外旅行したいだけなら自分の金で行く方がもっと楽らしい。

香港。

ダンナの仕事にくっついて娘も一緒。バーゲンシーズン。買い物。わたしは買い物が好きではないので、めったにふらふらしない。でも安かったから。

ダンナが研究がメインだった頃は、わたしもどちらかと言えば、パーティでもラフな格好。セーターとジーパンとかね・・・ほかの人たちが着飾っていても知らん顔。

ところが、ある日、気まぐれに香港で仕入れた服を着て出かけた。ダンナの友達の開業医の忘年会だったかな・・・忘れた。そこの先生の奥さんたちと話している分にはかまわない。でも、正直な話、医者の奥さんでも看護士さんをしていた人は、職員のグループに座っている。その直後、奥さんが職場復帰したい(看護士に戻りたい)ということでご主人と喧嘩になり、間もなく離婚。

で、ある日、今の職場の看護士さんにダンナが言われたらしい・・・

「白石先生、本当は叶姉妹のようなタイプが好きなんじゃないですか〜?」って・・・

あのなぁ・・・・わたくしは、とても地味でおとなしい人間なのである。たぶん。あの世界、どこで誰がつながっているかわからん。「あなた、わたしに会ったことがあるんですか?」って言おうかと思ったけど、よく考えたらわたしの知らない人。

歌人をしていてもね・・・歌壇というのは茶道の家元的イメージのような気がする。それでね、例に引用して申し訳ないんですけど、実際にお会いしたことないし、枡野浩一さんというと杉山明をイメージしてしまう。なんなんだ・・・

要するに、単なるイメージなのだと思う。

わたしはね・・・おとなしい人なの。たぶん。なんか抵抗があるのです。ネット歌人ということで、すぐに比較される田口ランディ。まったく違うタイプの人間だと思うよ。ブログ・テキストしか拝見したことないし、それもごく一部なのでわからないけれども、性格が違う。(と思う)

平和活動にしても、わたしの場合、静かだもの。せいぜい、平和への祈りとか、近頃ではシスターたちも平和運動のデモに参加しているというので、せいぜい機会があれば娘の手を引いて、後ろに混じって歩いているだけだと思う。

なんか愚痴っぽいな・・・近頃。
『氷の微笑』も友達にタダ券もらったから行ったし・・・新宿。大昔だろう。あーあ。

投稿者 Blue Wind : 01:22 AM | コメント (0) | トラックバック

January 28, 2005

杉山明の魅力〜名前まちがってたらごめんよ〜〜

ごめんなさい、杉山さん、わたしはあなたの名前も書籍もアメブロにブログつくるまでまったく知りませんでした。ラーメンズと言われてもまったく知りません。単なるブログ読者ですぅ。

でね、すぐにネタにしてしまう。

一読者であるわたくしは、杉山氏のことをこうやって説明するときに使ったりします。

「・・・・例えば、杉山明さん。彼はお金も無さそうなのに世界中を回ったのよ〜、すごいわ〜。え・・・麻薬の売人? ・・・・・こわい。そーね・・・そこまではできないわ。でも、人間、誰でもやろうと思えばできるのではないかしら?」

何のために例えに引用するかというと、欺瞞に対してである。だって、いやでしょ? 「りんどさん、自慢しないでください」といって、嫌がらせされたことがあるから・・・知らない人に、ネットで。何が自慢なのかは知らない。だけど、比較すれば、「この不景気な時代にあちこち旅行へ行きやがって」と怒る人もいるかもしれないし、逆にわたしは普通の人なのでそんなにマニアックに旅にだけ人生を費やしているわけでもなく、要するに言い訳の一つに杉山明の存在がある。

ほんでね、もう一つ言い訳させて。

わたし、友達のコンサートって行ったことないんです。本当は心の底から応援しているんです。でも行かない。

でも、ある日、彼女に言われた。

「幕が上がる瞬間、今でも誰もいない夢を見る。でも、しらいしさんだけはいるの」って・・・

一度も行ったことないのよ?

応援、か。

投稿者 Blue Wind : 12:26 AM | コメント (0) | トラックバック

January 27, 2005

ごみ箱

子どもの頃に、ご飯を残すと、「これはお百姓さんが一生懸命につくったんだから残しちゃダメ」というセリフを言っていたのは誰だろう。母だろうか、祖母だろうか、それとも学校の先生だろうか、もはやわたしには記憶がない。

今だったらなんて言うのだろう・・・飢餓に苦しんでいる子どもたちのことを考えて語ったりするのだろうか?

大昔、姑さんが、飛行機の中でインド人と一緒になり、機内食をまるで残さず食べているのを見て呆れたという話をしていた。彼女の場合は、しゃぶ肉3枚でお腹一杯になってしまうというくらい少食の人だから、とてもじゃないけど旅行の際にそんなには食べられない。

で、その時に、「インドだといまだに餓死者がいますから・・・」って言ったら、露骨にいやな顔をされてしまった。一緒にいた義父ですら、ギクッとした顔をしていたのが印象的だ。
ちょうど時代はバブルで、日本は飽食の時代。忘れているようでいて、あの世代は本当に、つまり机上の空論ではなく、戦後の食糧難を知っている。

今は・・・・どうやってダイエットしようかと考えているのが普通なのかもしれないと、ハワイのメイン通りを歩き、ますます体格のよくなったアメリカ人を眺めているとしみじみ感じたりする。ヨーロッパはともかく、アメリカやカナダへ行くと、まるで自分がこびとになってしまったような気がする。残すなと言われても、無理・・・・

説得力がないんだよなぁ・・・
例えば、どこかのブログに新聞販売店の話が書いてあった。そういえば朝日奨学金とか、あったような記憶がある。岐阜の大学に通っている人が、1年間だけ東京で過ごすためにそれを使って専門学校へ通っていたような・・・

そういう話と、わたしが新聞を毎月捨てに行くのが大変だから取らないという話とどういう関係があるのか理解できないでしょ? その程度のことなら、新聞販売のシステムそのものを変えてしまえばよいだけのことだし、タウン情報誌などは当然どこも無料。だってほとんど広告しか載っていないもの・・・掲載する側が支払うのは当たり前だろう。こちらとしては、要らないからどんどん捨てて行くしかない。いざ新聞を取っても、本紙よりも多い広告の山。しかも、そのほとんどが要らない情報。引っ越してきたばかりで、地元の情報に疎いというのならともかく、バーゲンチラシを眺めるよりもほかにすることがあるのではないかなって思うのはわたしの勝手だろう。

だから、働く人がどうたらこうたらというのは関係ないのではない? だって、働いているのは新聞販売店の人たちだけではないのだもの・・・

売る側には売る側の論理というものがあるらしく、一生懸命につくったものを捨てるとは何事だと言われても、大抵の人たちは困るだろう。大抵の物品は捨てることを前提としてつくりだされる。

小波ハロさんのブログに、面白い記事。面白いかどうかはわたくしの主観によるものなんだけど、一つの作品をつくるまでにはとことん捨象し続けなければならない。

自分の場合、書いて書いて理屈が飽和した瞬間にポロって言葉が出る。気が付いたらそれが詩や短歌になっていった。

・・・・・・・ということは、わたしは自分を捨てるために書いている。

あっさり語ると、わたしの屁理屈はわたし自身のためのごみ箱。こういうモードで駄文を書いても、歌を詠んでもすっきりするはずものなく、よく考えたら人様に晒す必要性など何もないのである。

が、しかし・・・・正直に語ると、そういうごみ箱ほど人は漁りに来るものらしい。これはわたしがサイトを運営するようになってからの率直な感想。

実際に歌集を出版するとなると、9割は捨てろと言われる。わたしの場合、数が多いからもっとかもしれない。毎日毎日捨てるために書いている。

投稿者 Blue Wind : 04:45 PM | コメント (0) | トラックバック

January 25, 2005

「あなたにとっての世界三大料理は?」

1.バンクーバーの寿司
2.ケープパンワの屋台の手羽
3.カルチェラタンのカフェの洋梨のシャーベット・ホットチョコレートがけ

* トラ・ステのお題「あなたにとっての世界三大料理は?」へのトラバ。


【解説】

1.バンクーバーと言えば、サーモン。この頃ではスーパーでも見かけるようになったけど、まるで味が違う。バンクーバーのお寿司は日本で食べるより安くて美味しかった。特に、サーモンは絶品。

2.ケープパンワはプーケット島の南海岸。モンスーンの時期でも遊泳できるほど波の穏やかなところ。今回の津波でもあまり被害が無かったらしく、ホテルも通常通り営業しているそうです。
夕暮れ時になると岬にバイクに乗った若者が集まり、地元のサウンドが流れ出す。屋台がたくさん並んでいて、3時を過ぎると車で買いに来る地元の人たちやホテルのゲストが集まり出す。手羽だけ売っている屋台があり、ジューシーで甘いチキン。想像以上に美味しかった。潮風の中で食べるから、なおさらなのかな・・・

3.洋梨のシャーベットに目の前でホットチョコレートをかけてくれる。ゾッとするほど美味しかった。店内は学生で一杯で、友達に連れて行ってもらった。座るなり勝手に4人分オーダーされて驚いたけど、通じないフレンチで説明されるより食べたほうが早い。


実は、サーモンの刺身も、チキンの手羽も、洋梨のシャーベットも好きではないけれども、好きではないにもかかわらずここまで美味しいと深く脳に記憶が刻まれているようです。

それにしても、日本人ほど雑食はいないような気がする。うちの近所でもインターナショナルにレストランが並ぶ。それってもしかすると世界規模で考えると稀な出来事なのかも。

投稿者 Blue Wind : 11:50 PM | コメント (0) | トラックバック

連れ

わたしの友達は、独身だったり子どもがいない人が多い。類は友を呼ぶというか、気が付けばそういう感じ。だから、いまだにお仕事をしている人も多い。同窓会へ行くと、自然と2つのグループに分かれてしまう。

無意識に使ってしまった・・・「いまだに」という言葉。

仕事をしている人たちも2つのグループに分かれるらしい。つまりは、能動的に仕事を選択しているグループと、受動的に仕事をしているグループ。
能動的に仕事をしている人たちは、それこそ結婚していても仕事が生活のメインだし目標でもある。
受動的に仕事をしているタイプは、永久によりよい男と人生をゲットしようとするタイプと、働かざるを得ない立場にあるから働いているタイプに分かれる。

それとは別に、最初から、「しなくてもすむ苦労はしない主義」者も多い。最初からという表現はヘンかもしれないけど、最初からそうだとしか言いようがない。
「さっさとお見合いでもすれば〜?」などとこちらが思うような人に限って、「結婚ではなく、恋愛をしてみたい」と言う。中には、「見合いまで残っているような男なんて」と言いながら、自分だって残っていたりする。
「なんでお見合いなんてする必要があるの?」などとこちらが思うような人は、「見合いも恋愛も変わらない。それに恋愛結婚だって他人が驚くような結婚をする人は稀でしょ?」とまで言われたことがある。

なんで突然こんなことを思い出したかというと、娘が、「お母さん、負け犬って知ってる?」などと訊くから。てっきり普通の負け犬の話だと思ったら、生意気にも違う。30歳になってもまだ独身の女性のことだと言われた。

腹が見せられない、つまり、ウィークポイントを見せられない、という意味では当たっているのかも。素直になれない、負けず嫌い、その他諸々、たしかに主婦というとバカにされることが多いからね・・・それと、恋愛ごっこ。

が、しかし・・・・
あまりにも楽なので辞められない。
くたばれと言われても辞められない。

それでいて、男は連れの女で価値を測られる生き物らしい。

人生観とか価値観とか、男とは本音を言わない生き物である。でも、連れの女はそういう情報の垂れ流し。窓の外をぼっけーっと眺めていても退屈しない。

パソコンの画面を眺めているのと、カフェに座っているのとどっちが退屈しないだろう・・・大声で話し出す男の二人連れがいないだけパソコンのほうがマシかも。

投稿者 Blue Wind : 03:13 AM | コメント (0) | トラックバック

January 23, 2005

その頃のわたし・・

9.11の日記?

CGIの記録によると、at 2001 09/11 18:55、次のような投稿。

**********************

『銅版色の空』

気が付けば、台風も通過したみたい・・・
銅版の反射のように空一面が少しオレンジがかった黄金色。
大きな夕陽。
大きな虹。
やっぱり、台風の去った空は輝いて見える。

などと詩人モードに浸りながら、今日は台風で小学校がお休み。
娘は退屈していたし、結局、お絵かき教室へ・・・
こんな日は来てる子も少ないかと思ったら、やっぱり皆考えることは一緒なのね・・・
ほとんどの子が出席していたみたい。
まだ火曜日だというのに、娘がずっといると、週末のよう・・・

それにしても、あんなに大きな虹を見たのは何年ぶりだろう・・・

***************************

この後にダンナが帰ってきて、テロのことを知る。
世の中がテロが発生して大騒ぎしているというのに、わたしは何も知らなかった。そして、お絵かき教室の帰りに、東の空に地面から立ち昇るような巨大な虹。信号待ちをしている時間に皆が窓を開けて眺めていた。娘が、「お父さんにも見せてあげたい」と言ったほど、美しい虹だった。

その直後くらいからかな・・・サイトに嫌がらせが発生し始めたのは。今ではめずらしくなくなったクリック募金のサイトのバナーを貼っていたら、それだけでサイトが消えたこともある。サーバ側の言い分としては、「広告バナーに相当する」とか、「戦争を思い出すようで嫌だという苦情があった」とか。

当時は、虹が見えても神父さんのところ、サイトが見えなくなっても神父さんのところ、という具合に報告に行っていた気がする。

わたしは、9.11テロというと、娘と眺めていた巨大な虹を思い出す。後になってから、それがとても幸せなことだと思った。何となく神さまから、「みこころのうちにとどまっていなさい」と言われた気がした。

それと同時に、わたしはごく普通の人なので、戦争というと、ジョン・レノンの『イマジン』を思い出してしまう。世の中から宗教なんてものがなくなればいいのに、って思ったりもする。ジハードと敷島(日本)がどういう関係があるんだと思ったら気分が悪くなる。実際には何の関係もないらしい。なのに、アメリカ・・・猿ブッシュ。一番悪いのは、ビンラディンかもしれないと思って、どういうわけか、テロのことはテロリストに訊け、というわけではないけど、オウム(アレフ)の上祐さんのサイトを見つけたので、9.11テロの3日後にはそれもサイトのネタにしていた。

でも、実際にはどうなんだろう・・・・アメリカはビンラディンを逮捕する機会はいくらでもあるのに逮捕しないという噂だし、彼を裁判するのが嫌らしい、サウジアラビアもアメリカも。ゲリラが怖いのか、利権が絡むから嫌なのか、それとも次の選挙が怖いからか、そこのところはわたしにはわからない。今回、ブッシュが再選できたのも数日前にビンラディンのメッセが公開されたからだと思うのは、わたしの考えすぎだろうか?

あっさり語るけど、政治と宗教はまるで違う。

かつて、宗教戦争の時代を考えると、神父さんによれば、それは暗黒の時代なのだそうだけど、いかにもという気がする。逆にそれを終結させたのが、アシジの聖フランシスコと教えられ、去年の夏にはとうとうアシジまで行ってきてしまった。

冷静に考えれば、自衛隊がイラクへ行っているのは、宗教とは何の関係もない話なのである。憲法9条が改正されようとしているのも宗教とは何の関係もない話なのである。昨日、こひつじさんのサイトへ行ったら、アメリカ人の宣教師のダブルスタンダードに怒っていた。つまり、一方で反戦を唱えながら、イラク戦争やブッシュを支持しているというスタンスが気に入らないらしい。それでいて、反戦デモにシスターたちが歩いているというお話。
わたしね、大学時代、一つも赤缶が並ばなかった大学ということで、自慢している教授がいらして、そうやって考えると、そういう校風だったと思う。微笑みながら軽やかに、の世界。

基本的に、ノン・バイオレンス。暴力で報復しても始まらない。悪には善をもって戦えというのが、今年の回勅らしい。パパ様の年頭のご挨拶? どうも、こう、わたしは現人神というのを連想してしまうので、カトリックのそういうところも苦手の一つなんだけど、せっせと反抗しながらも、このように素直に従ってしまう。なんでだろう・・・

いずれにせよ、一つわかっているのは、アメリカが戦争をやめれば少しは世の中が平和になるということをアメリカ人が自覚するべきということかも。元アメリカ兵が、「どうしてアメリカがこんなに嫌われるのかわからない」と奥さんに語っていたそう。

今までアメリカがどこに爆弾を落としてきたか、地図にしるしをつければ少しは理解してくれるような気がするのだけれど、残念ながら、彼らは正義のために行っているという意識しかないのかも。だから罪の意識がない。ヒーローが悪者を退治するのは当たり前という感覚しかない。

よくもわるくも、幼稚、だ。それがアメリカのよいところでもあり、わるいところでもあり、知能が高く知性の欠如した社会のような気がする。

こんな記事、書きたくないな。

投稿者 Blue Wind : 03:05 AM | コメント (0) | トラックバック

January 19, 2005

本能かも・・・

こういう気分の時には、クレモンティーヌくらいがちょうどいい。

臨床系のさっぱりしているところは、大抵のことは、「何らかの理由で子どもの頃に親の愛が足りなかったんだよ」で終わるところ。これは素晴らしい。

何が・・・?

世の中、多すぎ。おおげさなヤツ。

自分が何のために生きているのかわからない、自分が何のために生まれてきたのかわからない、どうせ自分なんて・・・
とか。

そういう人に限って、こう言う。

「僕の奥さんは普通だから、ほっとする。」

ほえ?
何をもって普通と語っているのか、たまによくわからないこともあるけれど、大抵はそうやって感じるらしい。

そうやって言われたら、自分が普通でないと思っている女は、たちまち怒り出す。

どういう意味で普通と思っていないかはまちまちなんでしょうけど。仕事に生きているとか、ちょっとご病気とか、深い悩みがあるとか、ダンナがかなり年下だとか、子どもがいないとか、あれにこれにと理由はまちまち。

ネットをやって一番多かった質問が、仕事を棒に振って後悔しなかったかとか、ダンナに食わせてもらっていて不満はないかとか、かな。大抵は、中途半端に若い女医さんとか、大学に勤め始めたばかりとか、高学歴の女性に多い。
皆、恋人はいるんでしょうけど、なかなか結婚に踏み切れない。特に遠距離恋愛とかね・・・仕事を優先させようとすると、困るのはそれ。

そういう時には、見栄を張って言うわけではないけれども、「亭主の顔を見たら腹の立つことでも、子どもの顔を見たら許せる」とか、「この子さえいなければ・・ってマタニティ・ブルーの時にはおんおん泣いて、それでまた罪悪感に苛まれておんおん泣いて、今にして思ったら自分でもバカみたいだった」とか。

ダンナには仕事がある。
なんであたしが家で子どもと二人きり・・・
世の中に取り残されたみたいで悲しかった。
そのくせ、子どもを誰かに奪われたくない・・・
総理大臣の代わりでさえ世の中にはいくらでもいるだろうけど、この子の母親はわたししかいない・・・

全知全能感に満ちあふれ、愛という名の暴力。

なんて言うんだろう・・・・
それこそ命がけで産んだのよ?
その間、・・・つまり、わたしが死にそうに苦しんでいる時、ダンナは助産婦さんと世間話をしていたのよ?
あー、あれは一生忘れない。

そんなことを思いながら、頭にきてお皿を投げようとした時、わたしは気が付いた。
「あ、これは叔母ちゃまが買ってくれたやつだからやめよう。こっちはスーパーで買ったグラスだからいいわ」って瞬時に判断している自分に・・・
なんか、ヒステリーの絶頂にありながら、すごく冷静な自分が悲しかった。

投稿者 Blue Wind : 10:02 AM | コメント (0) | トラックバック

January 17, 2005

インスタント・コミュニケーション

震災から、10年・・・なんか疲れたな・・・このネタは。
などと思っていたら、アメブロのランキングの表示が変わっていることに不意に気が付く。今朝までの登録者数が55599だって・・・おそろしい。
たしか、わたしが去年の12月11日に登録した時点では、29000くらいだったような気がする。少なくても3万には達していなかったような・・・
単純計算でも2万5000くらい増えているのだもの、これではパンクしても無理はないような。一日に600〜700くらいの新規登録があった計算になる。でも、それくらい普通だよね・・・ネットだもの。

1時間に28人、約2分に1人?
こうやって駄文を書いている間にも新規登録が・・・

それでいて、アメブロからのアクセス数は意外に少ないような気がする。アクセス解析がほとんど使えない状態だからよくわからないけど。そうなると、ランキングから来てくれる人が大半なのかもしれないし、gooがパンクしているから、そのうちまたサイトが消える可能性が・・・
アメブロにつくったから、** Blue Wind ** へのアクセス数が減るかと思ったら、想像していたほどでもなく、相変わらずあちらは寡黙な世界。今、この記事はアメブロで書いています。

一人で詠むときは、** Blue Wind ** を使い、コミュニケーション用にアメブロとgooがある。

結局、ネットってそういう世界なんだよね・・・
インスタントのほうが、コミュニケーションが活発になる。そうやってジャンキー社会は構成されて行く。

投稿者 Blue Wind : 05:56 PM | コメント (0) | トラックバック

January 16, 2005

自己観察と他者

わたくしが不意にミステリー小説の話などを急に書くものだから、メンヘラーまるやむ氏から次のようなご指摘がありました。

鬱→本を手にとる気も無い。
躁→パトリシア・コーンウェルを5分で読んだ気になってしまう。

・おそらくはわたくしの意味不明なメモからの推測だと・・・


◎ わたしのメモ

→躁: ミステリーを読みたくなる。
→鬱: 短歌を詠みたくなる。


このメモの正体は、正確には自分の精神状態を示したものではありません。何と説明したらよいのだろう・・・つまり、鬱や躁は移るものなのです。そうやって移った精神を観察しながら、相手の精神を観察するというワザを、臨床系のトレーニングによって獲得しているために、仮にネットといえども、こうやって不思議な気分をメモしておくわけです。

現実には、躁がトリガーとなって急にミステリーを読み出した、という出来事は現在のところありません。だけど、どういうわけか何の理由も脈絡もなしに不意にミステリーが読みたくなったというのは本当でして、ミステリー小説のブログを読んだとか、本屋さんに行ったとか、そういう背景文脈が何もないにもかかわらず、急に奇妙なことを考えてしまう。

そこで、ピンと来る。
つまり、何者かの電波が飛んできたのだ、と。

今回の場合、具体的には誰とは言えないんですけど、おそらくは躁の人たちのブログをサーフィンしているうちに急にそうなってしまったので、「→躁: ミステリーを読みたくなる。」というメモを書いておいただけ。

何度も繰り返すけど、ネットだと顔が見えないでしょ? 実際には相手がどういう状態なのかは、まったくわかりません。面談しないとわからないそう。
それでも、ちょっとしたことなんですよ・・・自分が振り回されているような気がしたとか、狐につままれた気分がしたとか、闇雲に腹が立ったとか、嫉妬を感じたとか。そういう場合には、大抵、メンヘラーの人たちを相手にしていることが多い。
最初からそうやって書いておいてくれたらいいのだけれど、中にはいろいろな人格を装いやってきたりすると、ますます混乱したり・・・
それが、ワザとではないらしい・・・
だから困る。
中には、複数の端末を使い、複数のプロバイダと契約し、メルアドなんてすぐにつくれるし、サイトだっていくつもつくっていたりすれば、ますます相手を特定することは困難になります。
でもね・・・・そういうことをする人間が案外世の中にはたくさんいそうでいない。それと、どうしてもクセってある。思考のバイアスとか。慣れてくると、いくつハンドル名を変えても何となくピンと来る。
気配というか、人格というか、物事の着想というか、必ず固有のクセがある。

そこで、実際にはそういう人たちが、どういうご病気で、現在どういう状態なのかわからないために、自分を観察するわけです。
急に寂しさを感じたら鬱かもしれないし、急にパトリシア・コーンウェルが読みたくなったら躁とか。
あくまでも、わたし個人のバイアスが入っているために、普遍性はないけど、何となくそのときの独特の気分やムードを記しておくと後で役立つこともあったりして・・・(ないほうがいいけどね)


でも、実際、わたしはミステリーやパズルがこよなく好き。ちょっとこの辺に関しても考えてみたい気もした。なんでっかなー、ってね・・・

投稿者 Blue Wind : 11:29 PM | コメント (0) | トラックバック

January 15, 2005

地域と時代と環境と世代

どうして話が急に詩の世界からミステリーに飛んでしまったかと言えば、鬱々と生きるの死ぬの自然災害だのボランティアだの憂鬱になりそうな話を考えるより、一気にミステリーを読んでしまうほうがさっぱりすることもある。

子どもの頃に読んだ小説は、科学的捜査などない時代の話が多いから、大抵、名探偵や名警部が登場し、鮮やかな推理により難事件を解決する。
そこから少し時代が上がると、社会派の作家とかね・・・
コーンウェルにまでなると、犯罪につきものの動機とか心理などというものも科学的な捜査の一部に過ぎない。しかも、未解決事件の多いこと多いこと、ドラマは終わらない。

トリックや推理という要素に加えて、殺人事件が発生すれば、大抵の場合、犯人には動機があるはず。
その昔、松本清張や森村誠一などは、捜査官の地道な捜査が犯人を追い詰め、追い詰められていく犯人の心理やリアクションが次の犯罪につながったり・・・犯人の内面性なども描いていたような気がいたします。

ところが、世の中に猟奇的事件が数多発生するようになると、どうも犯人の動機の追及よりも、どうやって犯人を探し当てるか?みたいな感じ。
この前、森博嗣の小説を読んだんですけど、あそこまでになるとまるで動機が理解できない。自分的にはそれなりに楽しめたんだけど、それをたまたま遊びに来た友人に貸したら、ほとんど読まずに戻って来た。仕事と家事と子育てで、少しでも休みがあれば寝ていたい・・・そうなると、忙しすぎて小説は退屈なのかも。

それにしても、犯罪に動機のある時代はまだマシだった。推理小説でも、何となく読者が納得できる程度の動機は与えられていた。怨恨、金、恋愛のもつれ、欲望。
今は、なんて言うか、児童を狙った犯罪でも動機がイマイチわからないような事件もめずらしくない。そうなると、子どもの送迎にしても神経を尖らす。

さっきテレビでやっていた数値によると、阪神淡路大震災で、レスキュー隊に助けられた人730人程度に対して、近所の人に助けられた人は2万人。しかも、レスキューの人が語るには、そういう救助の情報にしても、近所付き合いがある人ならその家の中に誰がいて、誰が助けられていないかということもわかるけど、隣近所の付き合いのない界隈では、隣に誰がいるのかもわからないからどうにもならない。

そういえば、都会で一人暮らしなどをしていた頃は、それこそ挨拶する程度で隣の人とも顔を合わさない、階が違えば誰が住んでいるのかもわからない。それが普通だった。わたしはまだマシだったかも。
つくばはどうなんだろう。子どもがいるから、近所付き合いもしているし、自治会にも入っている。だから、災害の際の物資の援助などは自治会ごとになされるために、数には入っているのだと思う。だけど、近所の学生用のマンションやアパートとなると、まるきり誰が住んでいるのかもわからない。学生には学生同士のコミュニケーションがあるから、さほど心配はないのかもしれないけど、考えてみれば不思議。
それでいて、つくば市でもちょっと入ると、生まれてから死ぬまでほとんど同じ人たちが暮らす地域が広範囲に広がる。そこが本当に素晴らしいのかどうかまでは実のところわからない。

同じ日本でも、南国は放り出しても死なないらしい。ところが北国は放り出せば死ぬ。

何が言いたいのかというと、仮に5年以内に自分の住む地域に大規模な自然災害が発生したとして、その時に必要なのは数の少ないボランティアやレスキューではなく、隣近所の助け合いなのだと思うのです。でもなぁ・・・裏が一人暮らしの教授の家で隣に学生マンション・・・ってなったらどーなんでしょう。家で静かにネットやっていたり、子どもの相手していたり、たまには本など読んでいるほうが平和ではないでしょうか・・・

投稿者 Blue Wind : 10:51 PM | コメント (0) | トラックバック

January 14, 2005

メンヘル語の解読は難しい

えっ、・・・・って何が「えっ、」なのか読む人にはわからない。でも、「えっ、」って思ってしまう。

メンヘル系のブログをサーフィンしているうちに、「その先生二人の共通点は、目を見て話してくれるということなんです」という記述を発見。ぐわっ、・・・・何が「ぐわっ、」なのか、きっと読んでいる人たちにはわからないと思う。

ネットにメンヘラー・・・つまり、うちのダンナなどがプシコと呼ぶ人たちが多いことは、ネットをやって1年半くらい過ぎたあたりからイヤというほど学んだ。最初からそうやって明記していあるサイトやブログは案外安全だということも学んだ。特にネットは顔が見えないし・・・

ちなみにうちのダンナは内科の医者なので、基本的にプシコに好かれ、プシコが嫌いな人です。どういうわけか好かれやすい医者とまったく寄り付かない医者といるらしく、「この人なら話を聞いてくれる」、「この人ならわかってくれそうだ」と思われるタイプは大変かもしれません。
大抵は、看護婦さんはとてもサバサバしていますから、何とかしてくれるらしいのですが、うちのダンナなんて酷いですからね・・・内科に来る患者の8割はプシコだと思っているらしい。風邪という病名はない、風邪に効く薬はない、など言いながら風邪の季節には風邪の患者は多く、薬は処方されるし・・・わけわからん、彼の言うことも病院というところも。

アメブロではありませんが、某サイトの日記ははちゃめちゃだった。大抵は、どこまでが事実で、どこまでが妄想なのかわからない。それでね、某大学病院の精神科医の悪口が書かれていて、内容ははちゃめちゃだし、どこまで事実かわからないし、でもこれ、ここまで書いていいのかなーって思った。
大したことじゃないんですよ・・・診察中にいきなり医者にカルテを投げつけられたとか。
でもそれをうちのダンナに言ったら、「それくらいやりかねないなー」で終わり。
いや・・・・それ、ほかの科でやったらまずいだろうけど、精神科ならいいわけ?ってちょっと思ったけど、言うのやめた。

こーねー、なんて言ったらよいのでしょう・・・
たまに思うんだけど、医者、ヘンな人多いです。カウンセラー、自分を何とかしてから働け、って思うことが多いです。
要するに、職業的バイアスというのがあって、どこか当たり前の基準が違う。
でも、10年以上の月日が経過して、ダンナの友達なんですけど、彼はやはり病気ではなかったんだな、って思うこともあります。つまらないことなんですよ・・・大事な試験の日の前、どーっしても眠れないからとどこから手に入れたのか知らないけどハルシオンを飲み、お昼まで寝てしまって1年を棒に振ったとか。大体、試験の前に眠れないからといってそんなものを飲むだろうか?それだけで、わたしからすればちょっと狂ってるって思ったんですけど、「えっ、ハルシオン飲んでも眠れないのー?」などという話を聞くと、なんかどこまでがまともなのかわからなくなります。
もっとヘンな人がいて、せっかくお見合いで理想の奥さんに巡り合って結婚。そこまでは幸せな話なんですけど、ちょっと違っていたのは新婚旅行にバイアグラを持っていったらしいんです。その結果、奥さんに野獣と呼ばれて、その奥さんは別れた元彼のところに逃げ込んでしまったそうです。
これも、なんと語っていいのかわからない。日頃、自分が処方する側だとして、実際には飲んだことはないのかもしれないお薬・・・薬のことなら薬学の人たちのほうがずっと詳しいのでしょうけど、それにしてもなんなんだろう・・・この宇宙が反転してしまうような世界の基準は。

大学の頃からを含めると、いささかそういうヘンな世界に10年以上いて、結婚してからもなんか不思議な人たちとの関わりが多い。いささかでも自分のほうがヘンかもしれないと思ったら、環境を変えてしまう。
例えば、学生街。一晩中の明かり。
例えば、つくば。やたらと高学歴社会。そうなると、わたしが普通です。

何が普通か、実はよくわかっていない?

でも、あなたのほうが実はヘンかも。

あれこれ考えると、世の中全般、グレーゾーンで生きている人が普通なのかもしれないと思いつつ、なんかまだ自分のほうがまともだよなーと思いながら、メンヘル系のブログを読んでいるわたしってヘンかも。
ヘンでもね、一つにはダンナにもしものことがあったら働かなくてはならないという実際的な理由もあるから、わたしは救われる。
臨床、昔から嫌い。まるきりシモネタの世界。下品。うざい。
ちょっと普通の神経ではつらいような・・・
でも、世の中にそういう病の人たちがいるからこそ、食べていける可能性が高い。でも、この人ならタダ、あいつは5万と思いながら読んでいたりして・・・
誰かが言っていたけれども、カウンセリングは心の風俗・・・友達はタダとかね。そういうことがわかりたくないけれども、わかってしまうネット。
ノーギャラ、か。

でもさ・・・顔も見たことないのに、いきなり、「アンタの目を見て話せって?」って思ってしまうあたしは、カウンセラーには向かない。
どーやって考えても、今の生活は幸せとしか思えない。よね?

* この記事の意味、どれくらい通じる人がいるのだろう・・・

投稿者 Blue Wind : 12:39 AM | コメント (0) | トラックバック

January 11, 2005

うつそみ

人生における孤独と絶望、か。
鬱。
大抵は、その人個人の問題であって、他人にはどうでもいいような話ばかり。世の中の大多数の人たちはそういうハードルをあっさりクリアし、生活に埋没していく。ある意味、欝は贅沢病とも言われている。

大抵は、生きている実感がわかない、自殺、リスカ、その他諸々。あまりにも幸せすぎて、幸福の絶頂で死んでしまう人たちもいるし・・・そこが不思議でしょ?
これが仮に他人にわかりやすい理由なら、わかりやすい。例えば、中高年の自殺に多いのが、リストラや生活苦が原因での自殺。そういう目に見えてわかりやすい理由なら、不安も理解できる。
ところがそれに混じって、たまに変な自殺がある。家族もいて友達もいて、仕事も順調、他人からみれば実にうらやましい限りの人が突然自殺したりする。これって本人でないからわからないけれども、あまりにも幸せすぎて、不安に勝てなくなってしまったのかもしれない。

↑こういう話、カウンセラーに言うでしょ?そうするとあっさり、「死んでもいいんだよ」となる。

↑こういう話、医者に言うでしょ?すると、「夜中はやめてほしいよ。人手が少ないから」で終わる。

つまり、農薬を飲んだと連れてこられて、胃洗浄やなにやら救命救急でやるわけですよ。そうすると、世の中には死にたくもないのに苦しんでいる人たちがたくさんいるというのに、どうして自ら死にたいと言う人たちのために無意味な時間を割かなければならないのかわからない。大抵は、狂言とも違うんでしょうけど、胃を洗浄したら終わり。中には発見が遅れて間に合わない人もいるけど。

↑こういう話、神父さんに言うでしょ?すると、「神の愛を知る人たちに鬱はない」となる。

要するに、人間にすがりつくからダメなわけで、神さまは見捨てないから。ヨブ記でも読んで、何となく最後の望みを神に託す。そういう人たちは案外明るい。

わたし?

案外、普通の人だから、「あ、まただ」って思うだけ。
大抵は、今日もまた普通の生活が続いていくだけ。毎日夥しい人たちが生まれて死んで、気が付けば地球上には60億人以上の人たちが浮かんでいるらしい。世界のあちこちで不幸な出来事が発生し、この間まで新潟と書かれていたと思ったら今はそれがスマトラに変わっている。

胃洗浄するみたいに精神にも洗浄液があったらいいのに、ってたまに思う。トラウマ?ほいほい、それならこれで・・みたいに。

「死は姉妹」か。
ポルチウンクラはいいぞ。座っただけで、死がある。
無の世界というか、無我の世界というか、不思議な眠り、瞑想が訪れる。それが「死」らしい。そうやって考えると、恐ろしいはずの死が恐怖とは無縁なできごとだということが不思議だ。
ってことは、恐怖や不安を含めて、いろいろな思考や感情も実は肉体が出没スポットということが納得できる。
自分ではそれが精神だと思っているけど、そういう精神は実は肉体の一部であり、本当の精神というか自分はまた別に存在している。だから、本当の自分である精神が破壊されない限り、陽はまた昇る。

今は、月。うつそみ。

投稿者 Blue Wind : 02:26 PM | コメント (0) | トラックバック

January 10, 2005

かんたん☆カウンター&アクセス解析☆設置情報のまとめ

テンポラリーに、風マニア(わたしのブログだろう・・)に『カウンター設置』というテーマを置いておきます。

もしかするとすでに必要ない気がするけど、新規でアメブロにブログをつくって、「どうしてわたしにはカウンターがないのだろう?」とスタッフに問い合わせのメールを書く人もいるかもしれないし・・・

うちのブログの場合、きっちんさんの『Cook New'S@就職活動ホップ編』で情報を拾い、『麻・雀・生・活』を読み、タグに「?dummy=.gif」を挿入すれば、アメブロにもカウンターおよびアクセス解析が表示されるということを知りました。

その後、Natさんから文法的には「&dummy=.gif」が正しいという指摘があり、ちぃさんの『プチ大家族の日常。プロフに6人載せました(謎』はとてもわかりやすく完成度が高い記事。

これでようやく誰でもかんたんにカウンターとアクセス解析を設置できるかもしれません。おためしあれ。

投稿者 Blue Wind : 05:09 PM | コメント (0) | トラックバック

他愛のなさ

これは以前わたしがほかの人たちによくしていた質問。

「どうしてガイアックスにサイトをつくっているの?」

大抵は、アクセスアップのためだとか、コミュニケーションがあったほうがいいから、という答えが戻ってくる。

「なんでアンタがこんなところにいるの?」

つまり、サーバは自前、自分でプログラム書いたりサイトをつくることくらい朝飯前にもかかわらず、どこにでもいるアングラ系の住人。

アメブロユーザー以外の人たちにしてみれば、アクセス解析やカウンターがつけられないというアメブロならではの奇妙な現象に気が付かない。この狭い世界で、ユーザーが何を怒り、何を不満に思い、何に達成感を持っているか、ということはユーザーでなければ理解できない。

----そんなところで何しているの?

遊んでいる。


***************

神父さんの足跡を見つけて、サイトへ。
パクったシスターの写真は、『Pacem in Terris』。おそらくは地上の平和とか地上の平安という意味かもしれない。『Pax in Terra』という言葉と混同している可能性があるけど、イタリアで御ミサに参加して以来、すこぶるアバウト。

もしかすると、神父さんご自身が撮影なさったのかもしれないし、わたしが鬱々するのはそういうことではなく、例えば、友人からの年賀状。正確には喪中の葉書。内容は喪中の葉書なんだけど、画像が新年のご挨拶。そこに英語と日本語で、詩編の56;16が添えられている。でも、わたしの聖書では、詩編の56;17。

訳語を比較しながら、喪中葉書の訳のほうが美しいと思ってしまう。聖書に著作権があるのが気に入らないのなら、英語の聖書を買い、必要なところを自分で訳せばいい。古今和歌集の口語訳みたいに、それを無償でウェブに提供するほうがつまらない歌を詠んでいるよりよほど世のため人のためのような気がしてしまう。

自分にたくさんの時間が残されているのならば、むしろそういうことをやるべきである。ヒマなんだから・・・どうせ。

が、しかし・・・・
問題は、どうしてわたしがそういうことをしなければならないのだろう?ということにある。


年賀状、か。
そりゃ大昔に比べたら数は減ったかもしれないけど、今のほうが実がある。いつまで経っても大昔のニックネームがその世界では生きていて、マイペースな癒し系の人たちばかりが残っている。


****************

----いや・・・だから、どーしてアメブロみたいなところで遊んでいるの?

マリが死んだから。

投稿者 Blue Wind : 02:03 AM | コメント (0) | トラックバック

January 08, 2005

アンニュイ

アクセス解析というのは、サイトの管理者にとっては案外重要な代物である。ホスト名、IPアドレス、リンク元URL、検索のキーワードは基本かもしれない。ブラウザやOSの情報については、プロではないから気にしない。
昨日はロボット検索がやって来ており、これによりうちのブログもページ検索に引っかかりやすくなるかも。

が、実際にはその日の気分で書きたいことを書いているだけなので、アメブロ・ユーザーには関係のない話題という気がしなくもない。それに、javascriptが使えないために、肝心のリンク元URLやアクセスページがわからない。検索から飛んできてくれても、検索キーワードがわからなければ意味はない。

どうしてそういうことを気にするのかというと、世の中の一般的なサイトというのは、ほとんどの来訪者が幽霊が当たり前。その中でごく僅かな人たちだけがコメントやBBSなどに足跡を残していってくれるだけ。これでカウンターもなかったら、せっかく一生懸命に記事を書いても、もしかすると誰も読んでくれていないかも・・というアンニュイな気分に陥る。

ああ、まただ。この辺で画像でも貼ろうと思って「画像の追加/削除」をクリックすると勝手にログアウトされていることを知る。すでに慣れたので、その画面から再びログインし、元の画面を消さず、かつコピペしておく。
「決定」をクリックする前にも、必ず記事をコピペしておく。
CGIはつらい。

でも、アメブロ・ユーザーのすごいところは、必ず記事を読んでいるというところかも。それが同じコミュニティであってもガイアックスとは違う。ガイアックスはアクセス数ばかり高くても、実際には素通りしていく来訪者のほうが多い。そうやってログジャンプしながらカキコ友達というか、BBSを通してのコミュニケーションが中心だから、わたしのようにプロフも載せていないと、今では昔からの来訪者がほとんど。

そうやって”常連さん”がいるということにより、ウェブの心理的過疎から救われることも知っている。アクセス解析派にとっては、お気に入りから来訪してくれる”IPアドレス”が常連さんなんだろうし、アクセス解析などに興味のない人は、BBSにカキコがあるとかないとかそういうことが重要になるだけの違いだ。

コミュニティ内にいる良さは、自分でアクセスアップの苦労をしなくてもよいことかも。案外、記事をアップしたりトラバを飛ばすだけで来訪者がある。だから、昨日こわごわカウンターをつけて、もしかするとほとんど来訪者なんてないのかもしれないなーと思っていたら、想像していたよりもページビューが多いので安心した。
この手のサイトなんて、基本的に一日3人くらい常連さんが来訪し、20人くらい通りすがりの来訪者がいれば御の字。だって、短歌のブログですもの、ほほほ。

逆にコミュニティの悪さは、トラブルが多いことかも。もちろんサーバ自体がダウンすることもあるでしょうし、ユーザー同士のトラブルもあるかもしれない。しかも、ブログの管理者の上に、サーバの管理者がいて、そちらから提供されるデータ、例えばランキングやアクセス数を眺めながらブログを管理しなければならない。

なおかつ、以前は使えたという情報もあるスクリプトもいつの間にか使えなくなっている? つまりは、誰かにそうやって行動を制限されているのであり、ある意味、慣れた人たちにとっては不満も多い。

このところ人気blogランキングのほうも、pingの送信が表示されないことが多いし、アメブロのランキングも壊れているし、せめてカウンターくらいないとね・・・どこか風穴がないと鬱憤は溜まる。


■追記

アクセス解析とカウンターとを別々に設置すれば解決するのか?
誰かおしえて。


*アメブロ用の記事。

投稿者 Blue Wind : 09:57 PM | コメント (0) | トラックバック

狭きわが世界

アメブロで、デザインスキンが追加されたというので、またパチパチとブログを模様替えして遊ぶ。自分でデザインを決めたブログは全然いじらないくせに、1クリックで替えられるとなると気楽。

すると、サーバが混み合っているというので、途中でストップ。
怖かった〜。
『ニュースの天才』のスキンでストップしてしまった。

日頃、ニュースなんて信じないわ、などと思っている自分でも、あえてニュースを捏造していくジャーナリストがいるなんて想像するだけで怖い。テキストが書き手が期待した通りに伝わるなんてことはありえないし、断定を避けた書き方、言い方をしなければ議論は負けてしまうとばかりに、婉曲な表現を用いるようにしている自分としても、メディアは怖いと思ってしまう。

報道というのは基本的に一方通行だし、それが事実であるかどうか確認できないようなニュースほど好奇心が煽られる。しかも、それが伝達されていくうちに自然に歪む。それが人間。情報伝達。

個人間なら、それが嘘とか誤解で許されることでも、ジャーナリズムとなったら許されるわけもなく、それでいて文字に躍らされる。

その中間にあるのが、インターネット・ジャーナリズムかも。つまり、メディアとしてのネット。以前、ニュース・サイトの管理人がぼやいていたけれども、勝手に記事を引っ張ってきてよいのかどうかとかね・・・そういう時代もあったわけで、ハイパーリンクというのは実に簡単にネタをパクれるわけで、新聞社のサイトの記事をハイパーリンクで自分のサイトのネタにしてしまえる。

一生懸命にどこかの記者が記事を書く。それを簡単に自分のサイトのネタにする。しかも、あっちからもこっちからも引っ張ってこれる。

一番怖かったのは、当の本人から過去ログの削除依頼がBBSに書き込まれているのを見たとき。最初、冗談だと思った。でも、そうではなく、ニュースは実名が書かれるため、ニュースの記事は一定期間が過ぎるとサイバーから削除される。ところが、そのネタをアップしている個人のニュース・サイトの場合、それが過去ログとして保存されているために、いつまでも検索するとそのニュースが引っかかるらしい。
他人からすればすぐに忘れてしまうようなことでも、当の本人にしてみれば、上司がたまたま検索をしてその記事を発見してしまい、それが理由でせっかく見つけた仕事を解雇されてしまったので、すぐにログをサイバーから削除してほしいという内容だった。インターネットにおけるわいせつがらみの事件で、実際には書類送検で終わったらしい。だから、前科とも違うんでしょうけど・・・

そんなことを考えると、短歌は気楽だ。

投稿者 Blue Wind : 01:02 AM | コメント (0) | トラックバック

January 07, 2005

文字が小さすぎるの

世の中が・・というか、おそらくはアメブロ・ユーザーだけだろうけど、ランキングの不表示についての不満の嵐の中、とりあえず1ヶ月更新をさぼってもランキングは据え置きなんだな〜などと思っているわたしは、マイペース。

最初から、オートマティックとは思ってなかったし・・・
ほかのジャンルならともかく、「本・書評」の場合、どーしてもまじめに書評を書いているブログの順位が優先されることにも気が付いていたし、そもそも商売なんてそんなもの。

「20375」ミステリーについては、どこかのブログに、最初の2ヶ月は下駄を履かせてくれるという記事があったので、おそらくは3ヶ月を過ぎてまったく更新の意志のないブログなどを下位に捨てて新規を優先させるために、一番最初に表示されるランキングの数字なんだと勝手に推測している。
だって、ブログをつくった翌日には少なくとも最下位ではなかったし、そちらのほうが不思議だった。アクセス数もいい加減で、ランキングにはあまり関係ないという噂も飛び交っていたし、これなら自分でアクセス解析をつけられるようにしてくれたほうが親切。

もしかすると、ランキングそのものも廃止されるかもしれないし・・・

わたしは、すでにサーバというものを信じていないので、アメブロにブログをつくっても自分で借りている有料サーバでアップしているブログをやめるつもりはない。ローカルへ落としておかないと・・・

それくらいタダ・サーバには苦労させられた。ある日突然サイトが見えなくなったり、URLが変更になったり、酷いとサーバごと全廃とかね。自分でつくっているサイトですら、リンクの張替えほどかったるいものはないし、リンク先へいちいちURLの変更のお知らせをするのもめんどーだし、CGIを利用しているところは、それこそページ保存しておいてもそれをさらに自分で編集するとなると大変な苦労。

それと、年末年始とゴールデンウィークはどうしてもヒマな人間に攻撃されやすいし、うちのサイトなんてタグもろくすぽ知らないうちから、ジャンキーには襲撃されていた。パスワード盗まれたり・・・そのうちアメブロでもやられるかもしれない。

なんでっかなーと思ったら、要するに、単なる愉快犯。

皆で大騒ぎするのが楽しいのかもしれないし、そういうのを眺めているだけで楽しいらしい。


もっと面白いのが、スタッフブログ。

トラバをずっと読んでいき、不満たらたらを眺め終わったとたん、「あなたもアメーバブログでブログをつくりませんか?」

ひとりで結構ウケテしまった。


そだそだ・・・・本題だ。

新しいデザインにしようと思ったけど、やめた。なんであんなに文字が小さいわけ?

いや・・・以前、ガイアックスで文字が大きすぎると思っていたら、今はバリア・フリーだから文字は大きい方がいいって、ある主婦のユーザーに言われた。自分的にはスクロールが長くなると、どうしても重くなるし、そういう意味では文字は小さい方がよいのだけれど、たとえば短歌の来訪者って若い人たちよりそれなりの方たちのほうが多い可能性が高い。

ということは、今でもきっと小さすぎると思う。
だからといって、いちいちタグを使うというのもめんどー。

1クリックで文字を拡大できるようなタグつくってよ、せめて・・・

ちなみに、今、パソコンで文字の大きさを最大にしているのだけれど、記事の文字の大きさは変化しないような気がする。


*アメブロのスタッフ・ブログへのトラバ。

投稿者 Blue Wind : 03:30 AM | コメント (0) | トラックバック