パパさまの記事を読んでいるうちに、古今東西のキリスト教徒の罪をすべて背負うくらいタフではないと生きていられない、ということを知る。よく分からないけれども、ほかの宗教では考えられない点がそこだ。仏教徒やイスラム教徒が罪を犯し、そのせいで誰が一身に責めを受けるのだろう。大統領や総理大臣にしたところで、任期が終われば仕事は終わるけれども、終身制というのは逃げ場がないことに気づく。
クリスチャンというか、ほかの人たちのことは知らないけれども、わたしの場合、どうしてこんなに毒を浴びなければならないのだろうと思うのがキリスト教であり、「ならばあなたたちは一つの罪も犯したことがないのか?」と、イエスさまの言葉を思い出す。たまにね・・・なんでクリスチャンというだけで、あーでもないこーでもないとほかのクリスチャンの話題をふられるのか懐疑的になる。そーじゃないか?
わたしは日本人に生まれ、われらの先祖がやったことなのか?
ってなことまで、クリスチャンというだけであれこれ毒を撒かれる。考えてみれば不思議な話だけれども、異邦人に布教するというのはそういうことらしい。もともとがユダヤ人の中の問題であり、そこに異端児であるイエスが宗教改革を起こし、その結果、殺されたという図式はどうだろう?
でも、その記述だけでもすでに間違いがある。イエスは6時間で亡くなった。普通ならありえない。人間のたくましさを考えると、磔刑により多少出血したからといって、6時間で亡くなるということはすべての外科的手術を否定するものであり、現実的ではない。近頃、喉に痰取り用の孔を開けられ、胃に直接チューブを差込み栄養を摂取している母の姿を眺めていると、ますますそのように確信してしまう。
人間というのは、そんなに簡単に死ぬものではない、と。
たくさんの奇跡・・・
「わたしを信じることができないのならば、わたしの行った奇跡を信じろ。」
残念ながらわたしはその時代に生きていたわけではないけれども、今でも不思議な奇跡は存在し、もっと不思議なのは、聖キアーラの腐らない遺体を眺めても、うちのダンナのセリフはこうだ。
「たしかに不思議だけど、僕は信じないよ。」
つまりは、これまでにあまりにもたくさんの奇跡と思われていたことが、ある意味科学的に説明される時代になったために、彼はそういう奇跡と信仰とが結びつかない。
それはそれで当たり前のような気がしてしまう。そうなると、みことばの実践とばかりにたくさんの言葉が舞い、キリスト教をベースとしたセラピーや人はいかに生きるべきかなど、倫理や道徳といった問題にまで派生する。
そうなると、文化だとか風習やしきたりなどなど、やたらと脳の可塑性を無視した議論が活発となり、いささかうんざりしてきてしまう。何かどこかが歪んでいて、本末転倒のような愚かしさ。それで、なんとか教ではこーだけど、なんとか教ではこーだ、という具合に比較する人たちも現れる。もうだんだん何かどこかが狂っていく。
実際、そういうことと自分とが何の関係もないことを知っている。知っているからこそ毒を撒かれる。それでいて、そうやって撒かれた毒に精神が麻痺していく。
神さまとだけお話せよ、とか、素朴な信仰、というのはスピリチュアルな問題で、茨にがんじがらめにされた話ではない。
一つ分かっているのは、神さまもパパさまも政治家じゃないってこと。人間の罪そのものを赦すために、人間はあれこれと方略を考える。もしかすると戦争すらその一部ではないかと思うくらいだ。そして、どんどん罪は重ねられ、罪ということと賠償ということがいっしょくたの観念になってちまたにあふれ出すらしい。
きっちりとしたラインがある。
聖と俗をいっしょくたにするからわけが分からなくなる。
使徒言行録 11. 19-30 アンティオキアの教会
投稿者 Blue Wind : April 4, 2005 02:09 PM | トラックバック