April 03, 2005

鈴の音

パパさまが天に召された。不思議な感覚。去年、娘とアシジへ行ったときには、まだ議会に参列なさっていたようで、わたしはイタリア語がまったくわからないのに、テレビのニュースでイタリア議会を眺めていた。日本のような国会の中継という感じではなく、パパさまがこうおっしゃっている、ということが議会以上にイタリア人にとっては大切なことらしく、それは議会が何を決定してもパパさまが言うことのほうが・・という子どもっぽい感覚にも似ている。

おそらくは、政治や政治家に失望すれば、パパさまなのかもしれないし、この2つのバランスがイタリアっぽく、町のあちこちに教会はあり、通りにはシスターやファーザーが歩いている。朝になれば鐘の音、昼にも夕暮れにも鐘の音、一日中どこかで鐘の音が聴こえる。いわばすべてが町の一部であり、生活であり、信仰というものを持たない人たちでも鐘の音には反応する、という雰囲気かもしれない。

大学時代、パパさまの来日のポスターが貼ってあった。シスターたちは慌しく、学生も、洗礼を受けた熱心な人たちが一緒に会いに行った。とてもウキウキとした感覚で、かんちゃんが本当に幸せそうに微笑んでいるのを見て、わたしは不思議な気がしたものだった。(これは来日直後の様子らしい。朧な記憶。)

信仰が日常的にあるということは、神の愛が日常的に溢れているということであり、学内へ一歩入るとそれが当たり前になる。それでいて、学外へ出ると、まるで空気が変わるように何かが変化する。そういう切り替えをまるでスイッチをオン・オフするように行う。それでいて、一人と二人とでは何かが違い、神の愛を通した関係というのは学外でも続く。

永遠の父がいるために、わたしたちは永遠に子なのである。

普通は両親が亡くなれば、自分もまた親であり、子を育てているため、親である意識のほうが強くなる。でも、永遠の父の前では、わたしたちは誰しも子であり、いつまでも子で生きている。神の前では誰でも子であり、わたしはいつも子なのである。パパさまが身近に感じられるのは、永遠の父がいるからであり、永遠の父の前ではわたしの寿命を星の寿命と比較するようなもので、すべてのことがどうでもよくなってしまう。

わたしは、このところずっとパパさまを愛せなかった。それはあほブッシュと一緒に写っている写真を眺めたせいかもしれないし、どこか世俗的な匂いがして好きになれなかった。飛行機に乗ればパパさまのグラビア、ホテルに泊まればパパさまの絵皿が飾ってある。さらにそれがイタリアのテレビ放送と重なり、ローマへも行かなかったくらいだ。

よく分からないけれども、『法王』(教皇が正式)というのはそういうものらしい。いや、本当は違うのかもしれない、ということを今になって少し感じた。どうしても皇室外交のイメージがあるために、わたしはどこか屈折したシーンを眺めるように何かを眺めていただけなのかもしれないと思う。

わたしは、どこか重苦しい戦後の社会というものの変遷を実はよく分かっていない。気がつけば、あるのは不景気な世の中であり、世界経済であり、イデオロギーであり、国連であり、組織は発展し、戦争は相変わらず発生し、いつの間にかうさん臭いのは宗教とばかりにすりかえられている。いやな世の中だ。

わたしの頑なさは20世紀のひずみから出てきているのかもしれず、不思議なことに、今回わたしはパパさまの死に少し驚き、僅かながらでも悲しみを伴っていることがショックでもある。愛は尊く、広くあまねき、空や空気のように存在している。愛は風という言葉。

ルカによる福音書 6. 43-45 実によって木を知る

「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

実によって木を知る。自分の悪しき心の出所も何となく理解したと同時にわたしにはまだまともさが残っている。おそらくは要らない情報が多すぎるのかもしれない。一体わたしは何をしているのだろう。ごくありふれた日常を過ごしているだけ。

そして再び鈴が鳴る。本当に鳴った。何の音だろう・・・偶然だろうか。テレビだろうか・・・偶然。

愛は永遠。

投稿者 Blue Wind : April 3, 2005 11:21 PM | トラックバック
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