February 11, 2005

こっぱみじんこ

倦みの中に突入することは無意識に赤い財布を持たないようになることで、もっと倦みの中へ突入しそうだと思う時には、いただいた高価な赤い財布ですら他人に差し上げようと思ってしまう。つまりは、不幸をもたらすものを誰かにあげてしまおう、いささかそれに未練があったとしても縁起が悪い、悪そうだという理由でそれを手放そうとする。

そこに、あっけらかんと赤い財布を持って買い物をしている人たちを見る・・・

なんか、こういうことの繰り返しのような気がする。

そこでサルは再び・・ではなく、人は再び自分も赤い財布を持とうとし、誰かにあげてしまったことを深く後悔する。貪欲になるならなるで最初から他人に渡すべきではなく、それでいてそれは縁起が悪いと潜在意識がささやけば、実際のところ、自分にとっては有害な代物なのかもしれない。他人の価値観を信じるか、自分のカンを信じるか、それにも個人差があり、その基準すらもしかすると個の成り立ちすら支配している可能性すらある、となったら、どちらを選択するかは自分という人を客観的に測る基準にもなってしまう。

ライブドアがどーなろーが、株がどーなろーが、金融がどーなろーが、実はまったく興味がない。まったく興味のないことに興味のあるフリをするのはいわば社交上の問題であり、コミュニティというところに位置する以上、そういう配慮が求められる。従って、うちのダンナに至っては興味もないのに仕事のためにつまらないネタを探す。無口なのに饒舌になるというのは、合目的的行動が裏側にあるからで、人間を弛緩に導くためにはそういう他愛のなさが必要。職人というのは合目的的な行動のため動く代物らしい。

今回、北朝鮮は偉いと思いました。負けを予測していたせいか、日本での試合はまったくあちら側には報道されていないというニュース。実際問題、もっと大変な社会問題が山積しているはずなのに、サッカーにどれほどの価値があるのかあの国ではどうやって国民に説明するつもりなのだろう。それ以上に、実際問題、イタリアの女性はサッカーには興味がないらしい。そりゃそうだろう・・・何となく。自分が興味がないということにどうしてこんなに言い訳が必要なほど世の中が倦んでいるのかこれまた不幸の坩堝。

何が不幸といえば、幸福と倦みとの違いを履き違えながら生きることかも。倦んだ一日を無事に終了。あーつまらなかった。賦活なき神経細胞。

投稿者 Blue Wind : February 11, 2005 01:11 AM | トラックバック
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