May 28, 2005

遠藤周作 11冊

本屋で4冊、アマゾンで7冊(モーリヤックを含む)、遠藤周作の著書合計11冊を購入。

購入の次第はこうである。
ぐたという活字中毒者が、これだけはわたしに読ませたいとのたまう記述を発見。しかもその記事には書評のくせに書評が書かれていない。それでは遠藤周作を読んだことのないわたしにはちんぷんかんぷんではないか!

そのため、スーパーへ行くついでに本屋へ寄りその本を探す。あいにく見つからない。そこでほかの本を立ち読みをするうちに、彼女が何を言いたいのか少し理解できたため、遠藤周作を4冊選んで買っていた。(手が・・手が勝手に、こら!でも料金支払いました)

そこでついでに本屋で見つからなかったために、その本をアマゾンで検索することになる。以前から高いから迷っていたモーリヤックも発作で買った。ネットで検索しヴァカンスの予約を済ませたために、パンフレット予約との差額を考えるとわたしがそれくらいの贅沢をしても赦されるというものである(たぶん)。

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正直に語れば、わたしはある種の宗教問答には飽き飽きしている。誰が仏教徒でクリスチャンでモスリムでもそれがわたしに何の関係があるというのだろう?神道も仏教も神仏思想もアニミズムもその他諸々宗教心理学でもそれがわたしに何の関係があるというのだろう?

例えば、仏教。わたしはお釈迦様が好きである。なんか文句ある?
空・・・・すべてのものが空。
やがて、心以外が空。(ややこしい)
四苦。悟り。菩提樹。美しい。
般若心経も昔は諳んじていたし、写経までやらされた。

それでいてどうしてわたしがイエス・キリストを愛するのか、あえてここでは書かない。

日本の仏教が形骸化したと言われるのは江戸時代らしい。幕府の政策の一つに寺檀家制度というものがあり、先祖の供養をしない人たちは皆クリスチャンと断定された。明治に至っては、皇室から一切の仏具が排除され、その伝統は今でも続いているらしい。

つまり、政府が宗教に関与するとろくでもないことになるという見本のような有様で、それが今日まで続いているような気がするくらいだ。

どうして江戸時代の人たちがクリスチャンと思われたくなかったのか・・・そして、そのことが仏教そのものにまで影響を及ぼしていくこととなったのか・・・さらに時代背景もあるのでしょうけど、科学の進歩により、さらに精神よりも物質に幸福を求める社会思想の流行により、宗教そのものが形骸化していくこととなる。日本だけが例外ではないだろう。

人間が素朴な信仰を失った瞬間、どんな宗教に属していようとも無意味である。それは仏教だから、キリスト教だから、という問題以前の問題であり、わたしにつまらない宗教問答を仕掛けてくる人たちはむしろ形骸化したものに癒しを求めているのではないかと思うことが多い。生活であり、文化であり、スピリチュアルな部分よりも慣習やしきたりの中から異臭を嗅ぎ分けるかのように議論に持ち込みたがる。

だから、そういう時には一切の問答をやめるべきだということをこれまでの経験から学んだ。つまりは、本当に宗教について話し合いたいのなら沈黙しましょう、と言いたい。互いに沈黙した中でお話し合いができた時、その時には本当の意味で何かを察知し、互いに互いの心の中を理解することができるような気がする。

イマジネーションとして、静かなイエスさまと静かなお釈迦さまが対話している瞬間を想い描けばそのことが少しは理解いただけるのではないかと。静かな沈黙と瞑想の中で、彼らの出会いにおいて、言葉など必要かどうか・・・気持ちが通じる、心が通じる、沈黙こそが議論であり、そこには愛と慈しみと悟りの静けさだけが存在している。

それは書きすぎかもしれないけれども、あえてつまらない議論が必要なのはそのような静けさを持たないからだとわが身を振り返り反省することしきり。

話を江戸時代に戻せば、結局は、宗教を制度のようにしてしまうことにより、聖職者よりも権力者の都合が優先されていったということなのではないかと。そして、その傾向はますます明治時代には強まり、日本は戦争へ突き進むこととなる。本当の意味での信仰や宗教を求めるより、人間を神と祭るようになる。王を神と同一視する姿勢がいかに危険なものであるか、実は背徳の匂いすら感じてしまうのはわたしだけだろうか。

つまり、何が悪であったのか・・・・神の目から見て悪ということがどういうことなのか、聖書にもはっきり書かれている。そのことに対して誰かが何かを語る必要性すら感じていない。つまり、今や天皇制そのものが形骸化したものになりつつあり、形骸化したものに宗教性を求めても無意味である。

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おそらくは、天皇制を持ち出したことですでにバカバカしいと思った人たちも多いのではないだろうか?

宗教が形骸化するということは、この「バカバカしい」という感覚そのものかもしれない。それでいて占いとかね・・・自分の先祖だけは大切にしようという姿勢とかね・・・もしかするとそういう姿勢もある種の権力構造の中で発生した出来事の一つなのかも。

というわけで、カトリック作家だからという理由でわたしはその作家の作品を読もうと思ったことはない。ただ、読むのであれば何を言わんとするのか、何のために書かれたものなのか、その作品を書こうとした原動力はどこにあるのか、せめてその程度まで把握できる程度までは読んでみたいものである。

今、本当に読みたいのはシモーヌ・ヴェイユのほかの著作物なんだけど、ちょっと寄り道する意味もあり、ちょっとの寄り道にどのくらいの時間が掛るのか・・・・今年のヴァカンスのゆくえ次第。果たしてわたしはビーチで何を読んでいるのでしょうか。それにより、その年を振りかえるのもわたしの楽しみの一つである。

投稿者 Blue Wind : May 28, 2005 06:25 AM | トラックバック
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