April 15, 2005

試練

『愛に努力は不要か?』というトラバをいただきまして、あっさり語れば恋は盲目だから誰かを好きだと誰かが語ればそれが恋だとしか語れない。好きな人とずっと一緒にいたい、結婚したいと思うのはごくありふれた感情だと思うし、それでいて感情が縺れれば英国王室の三角関係を眺めるようなもので、だったら最初からチャールズはカミラと結婚していたらよかったのに、とすらわたしは単純だから思ってしまう。

若くて美しい妃はダイアナだけど、婆さんになっても一緒にいたいと思ったのがカミラだった。どうして結婚しなかったかといえば、家柄とかプリンセスとしての素養とか国民の人気とか、いろいろな点でカミラさんがおのれを知っていたからとしか思えないし、国民が興醒めするほど長い期間おふたりは不倫関係にあった。

それに終止符を打ち、結婚したことが素晴らしいと、わたしは素直に思うのです。

いろいろな試練があり、それを克服したのは愛の力でしょうし、ふたりの関係が一過性のものではなかったからにすぎない。

わたしはカトリックの影響が強いので、離婚を禁じているカトリックの教えにより、離婚したことのある人はカトリックの教会で式を挙げることができないし、結婚する前には結婚講座にカップルで出席し、ふたりの気持ちが変わらないこと、結婚とはどういうことか、などを一通り学んでから式を許されました。そして、神の結びつけた関係は消えることはない、と。

結婚はとても長い月日を共に過ごすわけですから、途中でたくさんの試練が待っているかもしれません。気持ちが醒めるかもしれません。それでも離婚が許されていないとなったらどうでしょう? 結婚する前によく考えるのではないでしょうか?

信仰というのもそういうもので、途中でいくつもの試練が待っている。泣き言もあるし、つらい思いもある。それでも自分は神を愛している、神に愛されている、そのことに気づくまでにはいくつもの試練があります。その試練を努力と呼ぶのならば、大いに努力が必要なのが愛なのかもしれない。

それに比べたら、男女の関係の努力はささやかなものに感じることがあります。

不倫に疲れて結婚したくなる、というのも本能なのかもしれないけど、結婚に疲れて不倫しているというのもどこか中途半端な関係であり、そのことが誰をも本当の意味で幸せにしない。それにも疲れて終止符を打ち、新しい人生を模索することも人間なら当たり前なのかもしれないし、結局、愛の砂漠は続いていく。

投稿者 Blue Wind : April 15, 2005 12:41 AM | トラックバック
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