April 14, 2005

無知の未知

わたしは、うたに関してはかなり淡白である。「気をつけていること・・・、気をつけていること・・・」と何度も繰り返し、気がつけば何もないことに気がついた。気をつけていることが何もない。それこそ自由奔放で、好き勝手な時期を経て、無知を良いことに無恥に遊んできた。最初は返歌のやりとりが主体で、わたしが一人で詠むことができるようになったのは、石川啄木の傍若無人がとても快適なことを学んだからでもあるし、そうやって一つずつ覚えていったことはたくさんあるけれども、実際にうたを詠むときは、相変わらず気ままである。

大昔、といっても作歌歴が21世紀に入ってからなので、そんなに昔の話でもないけれども、わたしは「1首1秒」を好んでいた。ひらめきだけ。一瞬にしてひらめいたものがすべて。その後にうたのよしあしなどを考えるようになればよろしいのかとも思ったけれども、いわば歌人は一人の世界であると常々思っているせいか、石川啄木の傍若無人を好む。

気持ちいいぞ〜、トラ歌人。

酔っ払って詠んだことはないと思うけど、うたを詠む時にはトラになる。詠みたい放題好き勝手傍若無人。うたの世界は毒があることも平気。その毒を好む人たちが多いことにも気がついた。そして、聖書を開く。毒を撒かれることにも慣れているせいか、毒を飲むことにも慣れているのかもしれない。もちろんことばの毒という意味で。鋭い一言。わたしはそういう残虐さも好きだ。

それでいて、詠んだらさっさと忘れてしまう。

そこが自分でも淡白だと思わざるを得ない。むしろ自分の中の毒を吐き出すために詠っていた時期も長い。時間的には短いのかもしれないけど、気がつけばうたの数だけは増え、流れすらある。自分の好みも明確に変わっており、初期の頃のうたを眺めると、これはたしかにうたではない。それでいてうたであり、そのうち気が向けば自選を繰り返しながら練り上げることもあるだろう。

アマゾンで注文した本がすべて揃った。

最初が釈超空、次が馬場あき子、そして今日、斉藤茂吉、中条ふみ子、葛原妙子。もう一冊は現代短歌大辞典。ボックス付きの本が3冊も混じっている。古書が2冊。まさしく食わず嫌いの世界。わたしは本当に感じたのである。これらを読まないのは単なる歌人としての食わず嫌いだけであると。今の風潮は、単に表面的なことに捉われすぎていて、口語であるとか、新しい風潮であるとか、すべてがどうでもよくなってしまった。

そういう些細なことに捉われるより、わたしは自由を好む。

わたしにとっては、古い体質がどうたらこうたらとか、形とか、型とか、そういったことさえどうでもいい。概念歌が終わったと誰かが書けば、終わったと言い切れるほどこの世界が浅いものかどうか・・・わたしにはまだ始まったばかりに思える。釈超空から宗左近へ飛んでみれば、それが俳句だろうか、短歌だろうか、一行詩であろうか、と悩むことほど滑稽。

本当の意味で表層的なのは、型や形式ではなく、深さを省みない姿勢。透明感や概念の広がり。つまりは、ベクトルの違いは大きい。短歌に限らず、アート、特に音楽には2つのダイナミクスがあるように常々感じる。つまりは吸引されるようなベクトルと、自分のほうへ入り込むような感覚と。情動を凌駕すれば透明に吸引されてゆくし、情動を入れ込めれば、そこには胸を打ち、心を動かされるものがある。そのどちらを好むかはその人次第であり、マライア・キャリーが好きな人たちもいれば、DEDEが好きな人たちもいるだけの話であり、自分的にはその時の気分だとしか語れない。

まだ始まったばかりであり、毎日が新しい。誰かがそれを古いと言う。でも、わたしにとっては無知の領域であり、無知は罪である。未知なる世界へ。わたしにとっては未知の世界。何だか一人でみんなと違った方向へ向かっているかのようで、今は周囲を省みる余裕はわたしにはない。あるのは未知なる世界であり、誰かには見慣れた世界であっても、初めて訪れる者にとっては新奇な世界なのである。少しレトロな短歌を新奇と感じるわたしは未熟な歌人。それでも、わたしの年になると、すでに未熟であることが新鮮であり、結構それが楽しいとまで言い切れる。

投稿者 Blue Wind : April 14, 2005 12:27 PM | トラックバック
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