May 06, 2005

思想のない人々

短歌を詠もうと思ったのだけれど、もう今の若い人たちに、「これが教育なのよ」と語っても通じないことに気が付く。

民主主義国家には民主主義教育があり、軍事国家には軍事国家の教育があり、共産圏には共産圏の教育があり、そうやって社会がつくられている、ということをもはや彼らに語っても無理なのかもしれない。算数を勉強したり、外国語を学ぶことが教育なのではなく、思想そのものがあって社会というものが形成されているということを誰も彼らに教える人たちがいないのかもしれない。もはや、親も家族も学校も、社会のすべてが同じ価値観を持ち動いている。実はそれが教育によりつくられたものであるという自覚がないままに生きていくしかないのだろうか。

どうしていち先生がパリへ行かなかったのか・・・愛国心とは何か・・・そして、戦後間もなくはまだ生まれてから一度も財布というものを持ったことがなく、物を買うためにはお金が必要だということも知らない人たちが存在していたこと。ありとあらゆる点で、いろいろなことが変わってしまったのだということ。それすら知らずに一つのイデオロギーの中で生きていくしかないのだろうか。

かといって、わたしはほかの思想が素晴らしいとは思ってはいない。

ただ、単に学んだり学習するということと、国家単位の教育とを一緒に考えている人たちがあまりにも多いことに、わたしはかすかな不安を覚える。

わたしは父が大正生まれで、母が昭和の生まれ。年寄りっ子でもあり、彼らの受けた教育がまるで違うためにその狭間で悩むことも多々あり、日本国憲法と大日本帝国憲法の狭間に苦しみながら教育を受けてきたような思いがするくらい彼らの思想や価値観は違っていた。

何気ない日常の中で、思想や教育の違いというものを感じ、さらに時代が進むに従い、新しい価値観や社会情勢というものの中で、何が正しいとか間違っているという前に黙っていることすら学んだ。それは戦後間もなくの教育を受けた人たちが使う民主主義という言葉が酷くエゴイスティックさを包括し、自分勝手に物事を推し進めることが民主主義であると勘違いしている人たちが数多いたことにも因るのかもしれないし、実際のところわたしにはよくわからない。

何が正しくて間違っているのかは後世の歴史的判断に任せないといけないらしく、天皇制とは一体何かとか、それがどうして否定されつつ今日まで続いているのかとか、もはやそういうことはわたしには関係ない。戦後の民主主義がどういうものであったか、それが少しは洗練されたものになったのか、社員は就業時間を離れても社員なのか、責任とは何か、モラルとは何か、ありとあらゆるものがもはやわたしにはどうでもよいことのように思える。

わたしは戦争を知らない世代である。

そして社会はそういう世代により、再び変容しようとしているかのように思えるから不思議だ。

投稿者 Blue Wind : May 6, 2005 11:25 PM | トラックバック
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