May 06, 2005

他愛もない時代

このところ風邪をひいていて、頭がぼぉ〜っとする。それでいて何となく暑いので半袖を着ている。それでいて夜の道をとぼとぼ3人でレストランに向かって歩いていたら、よせばいいのにそういうときに限って歩いていくことになり、向かいから来た犬を連れている人がわたしをギョロリとした目で眺める。あちらは厚手のジャケットを寒そうに羽織り、わたしは半袖で震えている・・・そりゃ互いに目も合うだろう。

クルマだったら半袖でもジャケットでも別に気にしない。店の中に入ってしまえば寒いわけでもないし・・・でも、さすがに歩きだと寒かった。途中で家に帰りたくなったけど、我慢しながら歩く。歩いた結果目当ての店は満席の札。

だから午前中に予約を入れたらよかったのに・・・と思いながら、うちのダンナにしてみればたかが学生街のレストランだと思ってバカにしている。GWだからこそ予約で一杯。お好み焼き屋の前も、学生のグループがずっと席が空くのを外で待っている。仕方がないのでとぼとぼとひきかえし、別のレストランへ入った。そこもほぼ満席状態。

GWだというのに旅行へ行くわけでもないとなると、せいぜい食事に行くくらいだろう。それと新歓の季節なのでどこも学生が多い。この時期を過ぎてしまうと、大抵どこの店もがら空きになる。レストランの隣の席では、カップルが勉強していた。混雑したレストランというのは実は学生が試験前にたむろしていたりするから混んでいるだけのこともある。

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ジャンルを変更して、1週間が経過。
少しずつブログの内容も変わりつつある。わざとではないんだけど、何となく気分が違うから、としか語れない。視点なんだろうな・・・例えば国家という大きな流れの中で考える教育と、日常的に発生する出来事と、同時進行で考えるには個人差がありすぎる。その昔日本でも学生運動があり、国家と学生が衝突していた時代もある。おそらくはわたしはその頃に生まれたのかもしれないし、医者や研究者でも当時の流れの中にいた人たちも案外多いけど、もう遠い夢のようだ。いざ反日デモを観察し、それに対する中国政府の姿勢などを観察していると不思議な気分に陥る。

日本の学生が日米安保に反対し、学生運動。東京オリンピック。
わたしの子どもの頃には、日の丸的悲壮感が漂っていたオリンピック。
選手が悲壮なまでに日の丸を背負っていた時代のことを考えると、あれは何だったのだろう、という気がする。

去年の夏はイタリアのテレビでアテネオリンピックを観ていた。日本の選手がほとんど映らない。それどころかイタリアの場合はイタリア人選手しか映さないのではないかと思ってしまうくらいわかりやすい。考えてみたら、世界の祭典とは言うけれど、実際には報道とはナショナリズムとコマーシャリズムの権化。今までそういうことを意識したことはないけれども、日本にいたら日本人選手の活躍のニュースばかりなんだろう。それが当たり前だから気が付かないだけのことで。

日本のテレビは・・・・と言えば、今はJR西日本の事故の話題ばかり。

正直に語れば、ニュースを見ているより親子で休日をのんびり庭仕事をしているほうが楽しい。もう何年も鉄道のない街で暮らしていることに気が付いた。その代わり台風や雪の日になれば大抵は交通事故のためにパトカーが停まっている。

スーパーが24時間営業になって2ヶ月が経過したらしい。この前初めて行ってみたけど、案外客がいる。レジや入り口にガードマンがびったり張り付いている。そこがコンビニとは違う。店内は賑やかな音楽が流れ、店内放送がいつもと変わらずに流れている。それでいてどこかものものしかった。夜中でも客が多いレンタル・ショップとはそこが違う。おそらくは防犯カメラがフル稼働しているのだろう。それでも真夜中に主婦が何の衒いもなく買い物に行けるんだから治安はよい。

鉄道と真夜中のスーパーとどちらが危険だろう・・・わからない。

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で、再び、ジャンル変更の感想。

文学は個の世界だから・・・主人公の誰某さんがどうしたこうしたの世界。多くは、他人の人生の間借りだ。それだけで足りなくなると歴史的背景の説明が長く続く作品もある。その時代の人たちにとっては理解できない感覚だけど、後世になってしまうとそれがどうして必要なのか理解できる。だってわからないもの・・・もはや過ぎてしまった時代や出来事は。仮に同じ人間が違う時代に生きていれば違う人生や価値観を持って生きているかもしれないし、人生そのものも変わってしまったかもしれない。

でも、まあ、親には親の人生があるし、そのまた親にも親の人生があるし、そうやって考えると自分の子孫が仮にいるとして、その子たちがどこでどうやって暮らしているのか想像もつかない。ババアとしてはまだ見ぬ子たちが無事にハッピーに生きていってくれたらよしとしませう。10代も遡ると何万人も子孫がいる計算になるけど・・・昔は特に子沢山だし・・・

教育というのは・・・社会をつくり出すものであり、政策の一部。そこが塾や寺子屋とは違う。学ぶだけなら学校は要らない。それでいて自分の受けた教育に値打ちがあったのかどうかいまだに懐疑的だ。それでいて大して不幸でもないのだから、それはそれでよしとしますか・・・

つまり・・・・同じわたしという人のことでも、書いていて何となく気分が違う。それが教育と文学の違い。

投稿者 Blue Wind : May 6, 2005 01:25 PM | トラックバック
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