今日は節分なのに、すっかり忘れて豆がない。去年も翌日に安くなった豆を食べて終わった気がする。興味がないってそんなものなのかも。毎年、子どもが小さいからという理由で、義理でやっていたような気がする。
イスラム教の断食は麗しい。なんでそんなことをするのか不思議だったんだけど、要するに、自分が断食することにより、それを貧しい人たちのために施す。そういう精神のあらわれが断食らしい。
自分が食べることにより福を得、撒いて退治。節分。------世の中にはいろいろな慣習がある。
ところで、人間はどうやって狂気に立ち向かうのだろう?
この前、新井素子さんの小説のあらすじを読んだだけでさわさわさわ〜っとしてしまったわたしだけれど、実際問題、サイコホラーというのは人間の狂気の世界でしょ? このところ平穏に過ごしているために、急にそういうのをふられると悩む。
西武のツツミさんとか、ビンラディンとか、金がありすぎてもどこか狂気に満ちあふれているし、権力が人間を腐敗させるのかもしれないし、かといって金がないから犯罪や売春に走るというのも世の常らしいし、できればそういうものに汚染されたくないと思って生きるのが普通の人生だろう。
でも、普通の人間のさわさわさわ〜っとした狂気が存在しているのも事実だし、このところの日本社会の様子を観察すると、気が付かないうちに狂気やバイオレンスの匂いが充満しているのを感じたりする。だからこそ、治安の悪化を懸念する人たちが増加。
第一、戦争なんて、狂気そのものではないだろうか?
こういう狂気を打ち破るには、善しかないらしい。
悪には善を、愛をもって戦う。
が、しかし・・・・・
nattoさんのところでよく出て来る地域通貨のお話・・・・実際のところ、わたしは詳しいことは知らない。でも、チャリティやボランティアを賃金換算する感覚は、実はわたしは大嫌いなのである。(すんません、nattoさん)
そもそもご奉仕というのは、イスラム教で言うところの断食のようなもので、自分が何らかの報酬を得るためにするものではなく、むしろ愛他的行為。日頃、エゴイズムに満ちあふれながら暮らしているため、それから来る膿を少しでも軽減させることが狙い。とすると、そこに報酬が発生するとなると、本質的に何かが変化することになる。
例えば、この前イタリアを旅して何となく感じたのは、乞食という行為に悪びれたところの無さ。
駅前、歩道、教会の入り口、地下鉄、車内、彼らはいたるところに座っている。しかも、毎日同じ場所。
電車の中でもジプシーの演奏が始まる。
ジプシーでなくても、「現在、失業中です。しかも妹が病気で困っています。僕にお金をください。ありがとう」と書いた紙をいきなり車内で配り出し、その紙を回収しながら小銭を集めている青年もいた。
でも少しも悪びれた様子がない。渡すほうもあっさりしている。
路上に座っている足に障害を持つ男に道を尋ね、チップを渡している人もいた。
こんなに裕福な国なのになぁ・・・と、イタリアを眺める。でも、そういうことはあまりガイドブックには書かれていない。そのくせ、バリ島のミンタミンタ(乞食)の話はよく出て来る。不思議。
乞食とは違うけれども、昔、寄付を募っている人たちのためのサイトを見たことがある。「先月夫を亡くし、4月には子どもが生まれるのにお金がありません。善意を期待します」という内容の記事に対し、実際にいくらいくら集まったとか。「誰某さんから420ドル寄付がありました」みたいな感じで。
お金に困っている人たちがダイレクトに読者に訴える不幸自慢サイト。
何となくそういうサイトがあること自体が不思議な気がしたけど、それに対して実際に結構な金額の寄付者が現れるということも不思議だった。
文化差と言ってしまえばそれまでだけど、日本だったらお金ではなく仕事がほしいと言うのが普通なんだと思う。中には働けない事情のある人たちも多いにもかかわらず。働かざるもの食うべからずか?
互いに助け合うという感覚にも、何となく文化差が存在しているような・・・
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ここで突然、ツルゲーネフの『乞食』。
通りを歩いていると・・・・乞食に呼びとめられた。
よぼよぼの老人である。
赤くただれた、涙っぽい眼。青ざめた口びる。
毛ばだったぼろきれ、うみくずれた傷ぐち。
・・・・・・・・
おお、貧苦に虫ばみつくされた不仕合せな男。
彼は赤くむくんだ、きたならしい手を、わたしにさしのべた。・・・・・うめくように、つぶやくように、お助けをと言う。
わたしは、ポケットというポケットをさがしはじめた。・・・・・・財布もない、時計もない、ハンカチ一枚ない。・・・・・何ひとつ持って出なかったのだ。
乞食は待っている。・・・・・さしのべたその手は、力なく揺れ、わなないている。
途方にくれ、うろたえたわたしは、ぶるぶるふるえる汚い手を、しっかり握りしめた。・・・・・
「わるく思わないでおくれ、兄弟。わたしは何も持っていないのだよ。」
乞食は、ただれた眼で、じっと私を見た。青ざめたその口びるを、うす笑いがかすめた。------
そして彼は、わたしの冷たくなった指を握りかえした。
「結構ですとも、だんな」と、彼はささやいた。
「それだけでも、ありがたいことです。------それもやはり、ほどこしですから。」
わたしはさとった。わたしのほうでも、この兄弟からほどこしを受けたことを。(神西 清訳)
* 谷川俊太郎編 『<愛の詩集』より。
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深いな・・・
まだ大学に入ったばかりの頃、わたしはその日、日比谷公園にいた。もしかすると高校生の頃かもしれない。ベンチに座って売店で買ったパンかスナックを食べようとしていたら、浮浪者がやってきて、近くのごみ箱を漁っている。
すごく逡巡したのを覚えている。
一番よいのは、差し出すこと。でも、出来なかった。怖い。目つきはどんよりとしているし、頭はぼさぼさ、上から下まで路上生活者。正直、傍に来られただけで怖かった。
迷った挙句、パンを・・・そうだ、パンだった・・・ごみ箱の中にそっと置いて、急いでその場を逃げ出した。その後のことは知らない。
それでね・・・・・初めてツルゲーネフのこの詩を読んだとき、チキン肌になった。
それでね・・・節分だからはっきり言うけど、この豆まきという悪しき慣習をやめたら、日本はもう少しまともな国になるかも。
投稿者 Blue Wind : February 3, 2005 11:38 PM | トラックバック