February 07, 2005

保安官

kitchenさんのところでは、安城市の乳児殺傷事件について、警察の意義について語っていたけど、わたくし的には警察では足りないのは昔からわかっているお話で、欲しいのはむしろ保安官。仮釈放についての論議よりも、犯人がどういう境遇にいるかよりも、防犯のほうが遥かに重要課題。個人でボディガードと契約したり、警察官の数を増やしたり、というよりも、地域の安全を守るのは自警意識しかないような気がする。

おかげでこちらはただでさえ育児は大変だなぁ・・と思っているところに、今回のように赤ちゃんが殺されるみたいな嫌な事件が発生すると、要らないストレスが発生してしまうし、どこへ行くのも娘を送迎しなければならない。

それでもうちの近所はまだマシなのかもしれない。何かあれば誰か連絡くれるし・・・

例えば、小学校へ入ったばかりの頃、「まほちゃん、ココスの前を渡ってましたよ〜」という電話。

ランドセルを背負ったままで勝手に歩道を渡り、わが家とは反対方向。信号もない。
とりあえず何もなかったから「ごめんなさい・・」で終わったけど、せめて、信号機のあるところを渡れと思ってしまう。それ以前にランドセルを家に置いてから友達の家には遊びに行け、とかね・・・幼稚園の頃は家の前まで園バスが来てくれたから楽だったけど、小学校へ入ると基本的ルールから教えないとダメになる。

子どもばかりを叱っていてもダメなわけで、地域ぐるみで子どもの安全を確保しなければならない。その後、おちびが渡った歩道のところには、「学童多し」の看板が立てられた。子どもを犯罪から守るのは、おとなの目。

が、しかし・・・

一番困ったのは、「まほちゃん、知らない男の人と遊んでいるわよ〜、おなかの上にのっかったり・・」という電話。

この時には、ぶったまげて慌てて公園へ行った。

すると・・・たしかに、知らない人と遊んでいるんだけど、その人、赤ちゃんを遊ばせているついでに、おちびの相手をしてくれているだけで、正直、やばい印象はない。それでも心配なので、微笑みながら近づき、「どうも」と挨拶をして娘を迎えに来たフリをして帰って来た。

後でおちびに訊いたら、「キョーコちゃんのお父さん」って言っていた。その時、キョーコちゃんはいなかったけど、たぶんお父さんが一人で下の子を連れて公園で子守してたんだろう。でも、日頃見かけないから、わからない。最初からキョーコちゃんのお父さんだとわかっていたら、「いつもお世話になりまして」と挨拶していたと思う。

電話くれたほうも親切なんでしょうけど、まるで誘拐されかねない勢いで電話くれても困る・・・それでも知らん顔されるよりマシ・・・でも、子どもたちに訊いても、お母さんの顔は知っているけどお父さんの顔は知らないらしい。ならばなおさらわたしや電話をくれた人が知るはずもない。

危険な人とそうでない人をどうやって見分けたらよいのだろう。

ぴりぴりしてしまう。
都会だったら、なおさらかも・・・

********

神父さんのお言葉の中に、次のようなものがあります。

「創世記は、二つのことを明快に教えています。つまり、人間は、神によって生きる者とされたけれども、神からの独立を求めて神から離れてしまった、という事実です。
創世記が、人間の創造と罪の原点を描くのは、歴史的な事実として表現するためではなく、神と人間との関係の基本的な教えをはっきりと伝えるためです。」

その後、マタイの福音書では、イエスがさまざまな悪魔の誘惑に打ち勝ったという話。創世記において一人の人の罪によりすべての人間が罪とされ、イエス・キリストの罪への贖いよりわたしたちの罪は赦された。

ひらったく語ると、子どもを犯罪から守るのも正義感。人間が犯罪に陥らないためにも正義感。悪に打ち勝たなければならない。

わたしたちが求めているのは、犯罪に陥った人間がどういう人間であるかというより以前に、治安の回復と一人一人の正義感の達成。

こんなことを書いているより、保安官になれと言いたい(笑)。それと、原罪と贖い。わたしよか酷い聖書の読みかたしてる・・・あーあ。

140円への道のりは険しい・・・

投稿者 Blue Wind : February 7, 2005 04:15 AM | トラックバック
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