January 27, 2005

ごみ箱

子どもの頃に、ご飯を残すと、「これはお百姓さんが一生懸命につくったんだから残しちゃダメ」というセリフを言っていたのは誰だろう。母だろうか、祖母だろうか、それとも学校の先生だろうか、もはやわたしには記憶がない。

今だったらなんて言うのだろう・・・飢餓に苦しんでいる子どもたちのことを考えて語ったりするのだろうか?

大昔、姑さんが、飛行機の中でインド人と一緒になり、機内食をまるで残さず食べているのを見て呆れたという話をしていた。彼女の場合は、しゃぶ肉3枚でお腹一杯になってしまうというくらい少食の人だから、とてもじゃないけど旅行の際にそんなには食べられない。

で、その時に、「インドだといまだに餓死者がいますから・・・」って言ったら、露骨にいやな顔をされてしまった。一緒にいた義父ですら、ギクッとした顔をしていたのが印象的だ。
ちょうど時代はバブルで、日本は飽食の時代。忘れているようでいて、あの世代は本当に、つまり机上の空論ではなく、戦後の食糧難を知っている。

今は・・・・どうやってダイエットしようかと考えているのが普通なのかもしれないと、ハワイのメイン通りを歩き、ますます体格のよくなったアメリカ人を眺めているとしみじみ感じたりする。ヨーロッパはともかく、アメリカやカナダへ行くと、まるで自分がこびとになってしまったような気がする。残すなと言われても、無理・・・・

説得力がないんだよなぁ・・・
例えば、どこかのブログに新聞販売店の話が書いてあった。そういえば朝日奨学金とか、あったような記憶がある。岐阜の大学に通っている人が、1年間だけ東京で過ごすためにそれを使って専門学校へ通っていたような・・・

そういう話と、わたしが新聞を毎月捨てに行くのが大変だから取らないという話とどういう関係があるのか理解できないでしょ? その程度のことなら、新聞販売のシステムそのものを変えてしまえばよいだけのことだし、タウン情報誌などは当然どこも無料。だってほとんど広告しか載っていないもの・・・掲載する側が支払うのは当たり前だろう。こちらとしては、要らないからどんどん捨てて行くしかない。いざ新聞を取っても、本紙よりも多い広告の山。しかも、そのほとんどが要らない情報。引っ越してきたばかりで、地元の情報に疎いというのならともかく、バーゲンチラシを眺めるよりもほかにすることがあるのではないかなって思うのはわたしの勝手だろう。

だから、働く人がどうたらこうたらというのは関係ないのではない? だって、働いているのは新聞販売店の人たちだけではないのだもの・・・

売る側には売る側の論理というものがあるらしく、一生懸命につくったものを捨てるとは何事だと言われても、大抵の人たちは困るだろう。大抵の物品は捨てることを前提としてつくりだされる。

小波ハロさんのブログに、面白い記事。面白いかどうかはわたくしの主観によるものなんだけど、一つの作品をつくるまでにはとことん捨象し続けなければならない。

自分の場合、書いて書いて理屈が飽和した瞬間にポロって言葉が出る。気が付いたらそれが詩や短歌になっていった。

・・・・・・・ということは、わたしは自分を捨てるために書いている。

あっさり語ると、わたしの屁理屈はわたし自身のためのごみ箱。こういうモードで駄文を書いても、歌を詠んでもすっきりするはずものなく、よく考えたら人様に晒す必要性など何もないのである。

が、しかし・・・・正直に語ると、そういうごみ箱ほど人は漁りに来るものらしい。これはわたしがサイトを運営するようになってからの率直な感想。

実際に歌集を出版するとなると、9割は捨てろと言われる。わたしの場合、数が多いからもっとかもしれない。毎日毎日捨てるために書いている。

投稿者 Blue Wind : January 27, 2005 04:45 PM | トラックバック
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