March 15, 2005

情報価値を考える

今日はホリエモンを応援しようと思ったのですが、あえて考えるならば、どうして報道が値打ちがあるのか、ということもそろそろ真面目に考える必要性があるのかもしれないとも、ウダウダ考えています。

わたしは、自分のブログ記事を書く際、論文を書くみたいにどこから突っ込まれても困らないように下調べをしたり慎重になったり事実のみを記述していこうという姿勢はありません。それよりも案外楽しんで書いている。もちろんこの記事もそうです。

どうしてそういういい加減さに対応できるようになったかというと、記述ではなく描写の世界では受け手の内面世界までコントロールすることは不可能だと悟ったからかもしれません。ネットでよく言われるのは、行き違いとか勘違いとか、言葉のやりとりによる情報伝達の曖昧さによる妄想の発生とかね・・・同じ言葉でも言い方によってニュアンスが変化するのは当然だし、両者の関係性によっても変化します。言葉って生き物だから・・・

でも、電子の世界に限らず、文字の世界というのはあくまでも文字の世界であり、多くを読者のイマジネーションに頼りながら描写や人物像というのも構成されてしまう。だから、そのテキストがどんな人が書いたか、なんてことが読者に理解できないのは当たり前。

女でも自分のことを僕と書いていれば、その作者は男なのかと勝手に勘違いしてしまっても無理はない。

ところが、ネットの場合、活字と違ってある意味コミュニケーションがある分、テキストが身近に存在し、だからこそ文章そのものより、その書き手に対しての興味が発生するのを抑えることはできない。

映像の世界でも、フィクションとドキュメンタリーは違う。実話を元につくられた映画だとしてもどこかイマジネーションの域を出ないというのは、人間がつくるわけですから宿命とも言えるかも。

ただ、受け手に対する責任という姿勢ではどうなんでしょう。これがテレビだとアナウンサーの言い違い・読み間違え・その他諸々視聴者の意見が数秒後に鳴りまくるという話を聞いたことがあります。もちろんそれが報道でなければもっと違うのかもしれないし、同じ報道でも最初からいい加減だと思っているような週刊誌のネタについてあれこれ詮索しても始まらないことを読者は暗黙のコンセとして持っている気がします。

それと、情報伝達ということで考えると、情報の変容というのはどうしても避けられない。最初の人から100番目の人まで伝わり、それが最初に戻ってくると同じ話だったのにまるで気が付かないとかね・・・それくらい変容してしまう。そういう意味で、ネットというのはかなり危険な世界。

それに対して、どうやってインターネット・ユーザが対応していくか?という点に関しては、これまたわからないです。未知なる世界。発信源がわかっていれば苦情も出せるかもしれないけど、そもそも民間伝承のようなこの世界に責任を求めても無理な気がするし、だからといって、今のテレビやら新聞から吸収した情報がすべて事実に立脚していると信じている人たちも稀な気がしますし、どうなんでしょう。

政府のメルマガを読んでいるし、2回くらいアンケートや意見を送信したことがあります。自分としては直接政府と有権者が意見交換できる場としては未熟かもしれないけど、マスコミ報道を通した接し方よりも幾分ましだと思っているし、ほかの人たちの意見も眺めることにより、フィードバックされるものもある。何も言わないよりも何か言いたい時もある。

ライブドア対ニッポン放送・フジテレビということを、単なるマネーゲームとして捉えるか、インターネット対マスコミという図式で捉えるか。結局は決着をつけるのは世論なのかもしれないし、その世論ですらネット世論とマスコミ報道とでは幾分ニュアンスに違いがあるというのがライブという感じで面白い。

心情的には、それでも60%くらいはホリエモンに味方しています、今日は・・・

投稿者 Blue Wind : March 15, 2005 11:17 AM | トラックバック
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