April 19, 2005

本との出会いは人との出会い

ぐた家を例の如く徘徊していると、今日のテーマは”本漁り”じゃござんせんか!
わたしはおんな漁りはしたことないけど、本を漁り、それでいてこのところ失望続きに悩んでいる現状を考えると、誰かわたしに「この一冊」をズバッとお勧めしてくれないかと思ってしまう。

でも、大抵の場合、ぐたさん! 
あなたの勧める本よりあなたのぼやきを読んでいるほうがわたしには面白い。

結局、本との出会いは人との出会いのようなもので、既知の世界から未知の世界への脱却への道であり、若い頃には好きな作家の小説はほとんど読み漁っていたものだし、ネットを始めて長続きしている友達はわたしの知らない世界をたくさん知っている友達のような気がするし、それでいて結局わたしは大抵の書物を眺めるよりも、「コヘレトの言葉」を読んでいるほうが楽しいことに気がついてしまった。

ほんと、それだけ・・・すべてが聖書にあることに気がついたのは、わたしがババアになったからでもあるし、それを超える書物が何もないことが不思議であり、「古今東西人間なんていつの時代も変わらない」というのがわたしの文学的ぼやきでもあるし、それに対する答えを見つけるために、人はたくさんの言の葉を必要とし、それでいて旅人がいつかは故郷へ戻るようにサウダーヂは聖書。

中谷さんは読んだことはないけど、結局、バタイユを連想してしまうし、バタイユといえばマグダラのマリア、マグダラのマリアと言えば、結局、古今東西ってことになってしまう。聖書には人間の悪がたくさん書かれており、そういう意味で完璧な人間はありえない。逆に語れば、聖書があるから人間は悪を知るのであり、善がなければ悪もなく、知らなければ通過していってしまうだけの出来事に翻弄されながら、似たような人たちが似たような人生を送るのが歴史。

神さまとお話しているほうが、人間とお話しているよりずっと面白い。だって全知全能だもの。

姑さんが近頃小説を読んでもつまらないと言う。そりゃそうだろう・・・彼女の年になれば、小説よりも実話のほうが遥かに面白い話が落ちている。長生きするってそういうことかも。姑さんの噂話は好きではないけど、それでいていまだに「へぇー」ってなる話も多いのも事実。それでいてやり直しがきかないのが人生なので、違う人生を楽しみたいのなら、読書でもするしかない。それでいて読みたい本もないらしい。

詩編 35. 28 「わたしの舌があなたの正しさを歌い、絶えることなくあなたを賛美しますように。」

心が衰弱すると、神の賛美がいかにたくさんのエネルギーが必要かを知るようになる。子どものような人でないと天国へ入れないという意味が何となく分かるようにもなり、わたしは弱いので、強い人たちとの出会いを求めている。癒しがほしいのはわたしのほうであり、そうなると巡礼へ行くしかない。そうなると、いたずらに人との出会いを求めるよりも、良書との出会いのほうがマシになる。それでいて、良書との出会いは人間以上に難しい気がする今日この頃・・・

やっぱ、聖書でも読むしかないでしょう。あと、古典。

投稿者 Blue Wind : April 19, 2005 04:14 PM | トラックバック
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