January 15, 2005

地域と時代と環境と世代

どうして話が急に詩の世界からミステリーに飛んでしまったかと言えば、鬱々と生きるの死ぬの自然災害だのボランティアだの憂鬱になりそうな話を考えるより、一気にミステリーを読んでしまうほうがさっぱりすることもある。

子どもの頃に読んだ小説は、科学的捜査などない時代の話が多いから、大抵、名探偵や名警部が登場し、鮮やかな推理により難事件を解決する。
そこから少し時代が上がると、社会派の作家とかね・・・
コーンウェルにまでなると、犯罪につきものの動機とか心理などというものも科学的な捜査の一部に過ぎない。しかも、未解決事件の多いこと多いこと、ドラマは終わらない。

トリックや推理という要素に加えて、殺人事件が発生すれば、大抵の場合、犯人には動機があるはず。
その昔、松本清張や森村誠一などは、捜査官の地道な捜査が犯人を追い詰め、追い詰められていく犯人の心理やリアクションが次の犯罪につながったり・・・犯人の内面性なども描いていたような気がいたします。

ところが、世の中に猟奇的事件が数多発生するようになると、どうも犯人の動機の追及よりも、どうやって犯人を探し当てるか?みたいな感じ。
この前、森博嗣の小説を読んだんですけど、あそこまでになるとまるで動機が理解できない。自分的にはそれなりに楽しめたんだけど、それをたまたま遊びに来た友人に貸したら、ほとんど読まずに戻って来た。仕事と家事と子育てで、少しでも休みがあれば寝ていたい・・・そうなると、忙しすぎて小説は退屈なのかも。

それにしても、犯罪に動機のある時代はまだマシだった。推理小説でも、何となく読者が納得できる程度の動機は与えられていた。怨恨、金、恋愛のもつれ、欲望。
今は、なんて言うか、児童を狙った犯罪でも動機がイマイチわからないような事件もめずらしくない。そうなると、子どもの送迎にしても神経を尖らす。

さっきテレビでやっていた数値によると、阪神淡路大震災で、レスキュー隊に助けられた人730人程度に対して、近所の人に助けられた人は2万人。しかも、レスキューの人が語るには、そういう救助の情報にしても、近所付き合いがある人ならその家の中に誰がいて、誰が助けられていないかということもわかるけど、隣近所の付き合いのない界隈では、隣に誰がいるのかもわからないからどうにもならない。

そういえば、都会で一人暮らしなどをしていた頃は、それこそ挨拶する程度で隣の人とも顔を合わさない、階が違えば誰が住んでいるのかもわからない。それが普通だった。わたしはまだマシだったかも。
つくばはどうなんだろう。子どもがいるから、近所付き合いもしているし、自治会にも入っている。だから、災害の際の物資の援助などは自治会ごとになされるために、数には入っているのだと思う。だけど、近所の学生用のマンションやアパートとなると、まるきり誰が住んでいるのかもわからない。学生には学生同士のコミュニケーションがあるから、さほど心配はないのかもしれないけど、考えてみれば不思議。
それでいて、つくば市でもちょっと入ると、生まれてから死ぬまでほとんど同じ人たちが暮らす地域が広範囲に広がる。そこが本当に素晴らしいのかどうかまでは実のところわからない。

同じ日本でも、南国は放り出しても死なないらしい。ところが北国は放り出せば死ぬ。

何が言いたいのかというと、仮に5年以内に自分の住む地域に大規模な自然災害が発生したとして、その時に必要なのは数の少ないボランティアやレスキューではなく、隣近所の助け合いなのだと思うのです。でもなぁ・・・裏が一人暮らしの教授の家で隣に学生マンション・・・ってなったらどーなんでしょう。家で静かにネットやっていたり、子どもの相手していたり、たまには本など読んでいるほうが平和ではないでしょうか・・・

投稿者 Blue Wind : January 15, 2005 10:51 PM | トラックバック
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