January 16, 2005

せめて、わたしくらい姑さんの味方しないと・・・(って何が?)

神戸の震災が来て、ほかの年取った医者仲間は落ち着くまで大阪とか有馬でのんびりしていたそうです。だってお金あるから・・・
ところが、おじいさん、その時、教育委員長してたんです。
そうなると、いくら自分の家が焼けたからといって、神戸中の学校が避難所になっているわけですから、毎日毎日ファックスが届く。しばらくは義姉のところにいたけど、忙しい。水がないから水汲み、エレベーターも動かない。毎日毎日手続きでおっそろしいほど歩いたり・・・そのうち、癌。
そしたら、お払い箱。(←このセリフは姑さんです)

うちのダンナは、毎日毎日奴隷のようにこきつかわれ、ぼろぼろ。まだ医者になって3年目くらいだった。あれだけ救命救急の果てまでやっていたら、そりゃ悪口言われないです。いや・・・これが東京や神戸みたいに医者の多いところだったらまた事情が違ったと思うんです。ところが、当時は僻地手当てが出ていたし、防衛大からも結構来ていたし・・・茨城ってそういうところ。
サッカーで有名な鹿島でも、自分が死んだら無医村になるからと80歳の女医さんがまだ勉強会へ参加してがんばっている。
うちのダンナは数年前に、運良く結核になったのでいのち救われました。それでも排菌していなかったので、感染はしない。となると、結核でもまだ使おうとする・・・信じられない世界。とりあえず、勤めて初めて大学を出て、家から一番近い病院で仕事しています、今。近頃ようやく体の具合も落ち着いてきたばかり。

人間らしい生活したい。

10年は長い。
でも、あっという間だった。

震災後、家族で一番最初に神戸へ行った時、ポートアイランドからバスに乗り、神戸の街並みを眺めた。高速道路は倒れていたし、皆マスクして歩いていた。芦屋の駅で、いきなり十本の指に高価な指輪をしているおばさんを眺めた時には驚いた。まあ・・・身に着けていれば・・・
電車の景色は、新しい家並み。それでも山は変わらない。
帰り、六甲アイランドから最後の貨物フェリーが空港まで行くというので、それに乗った。
中はがらんどう。階段を上り、乗組員のための休憩室みたいなところへ行く。
そこからデッキ。鉄棒みたいな柵があるだけだった。おそろしい・・・
でも、貨物船は揺れない。
静かに六甲の山並みを眺めていると、震災があったことが嘘のような静けさだった。
海の上から神戸を眺めると、とても綺麗。
海はきらきら光っているし・・・
実際には、埃まみれ、建設ラッシュ。

うちのダンナ、神戸で就職決まっていたのに、6年生で留年して、しばらく神戸へ戻ってくるなと言われていた。それがなかったら、わたしも娘も被災して死んでいたかもしれない。

現実喪失というか、震災の時、テレビの画面で燃えている神戸を眺めていたとき、娘はまだ1歳3ヶ月だった。おおげさではなく、娘を抱っこしながら震えが来た。
テレビを消して、娘を連れてつくばを歩くと、街中に神戸の募金箱。うちにも神戸へ送ってくれといって送金がきていたので郵便局へ。なんか、悲しかった。あまりにも外が平和すぎて。うちは貰う側なんだなって少し思った。
そのうち、見慣れた駅がテレビに映し出され、まるで風景が変わっていた。虚しかった。

結局、古今東西いつの時代も、人も変わるし、街並みも変わるけど、山や海は変わらない。

変わらずに在るものさがし尊べばきらきら光る海と六甲

それでもまだ神戸は山を削るのだろうか・・・
復興か・・・・・
茨城だったら、ありえない、と思う。筑波山を削って霞ヶ浦を埋め立てる、なんて。
そういうささやかなことに癒されている、今。

投稿者 Blue Wind : January 16, 2005 03:05 AM | トラックバック
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