風に吹かれうつらうつら声すればはや幾年のめぐりゆく子ら
連休に入りて予定をかんがえる夏日の夜におもいはせらむ
まるぼうず垣根にならぶ紅カナメ連休おわる頃葉いづるらむ
紅カナメ気まぐれに立つわが庭は一本の樹の伸びゆくばかり
昼下がりカーテン揺るる窓際はまばゆい庭にくらゆみゆく春
あらくさのうすき顔色しづもれば芝のびゆかむあはれ爪先
それぞれの休みの顔のならびたるゆきかう人ら若葉みゆる陽
オトくんのとびだす数のふえる日は柵の向こうに休日の人
ひねもすのわかれゆく葉の舞いたれば紅きカナメの東陽のごと
やれやれ・・・・サッカーのサポーターには困ったものです。もちろん全部が全部そうではないんでしょうけど、サッカーが原因で暴動や喧嘩が起こり、それが傷害事件にまで発生するなんて。
⇒ 『乱闘サポーター無期限入場禁止 23日柏サポーター敵陣襲撃事件』
アメブロはヴェルディのスポンサーらしく、リニュの混乱と同時にサポーター心理も手伝ってかnattoさん がしばらくライブドアに移転し、一時はどうなるかと思ったけど、どうにか落ち着かれたようでよかったです。わたしはそこまでサッカーに興味がないから、誰がどこのチームのサポーターだろうとスポンサーだろうとどうでもいい。
それでもnattoさんの『ポジティブ生活』はジャンル1位だったこともあり、わたしも結構ネタを回していただいて助けていただいたと思っています。チーム・カラーというわけではないんでしょうけど、どこのサーバでもブログ自体は似たようなものなのにアメブロとライブドアは少し雰囲気が違うと思いました。
それと同時に、サポーター同士の乱闘に関してもサッカーファンとそうではない人たちとはずいぶん受け止め方が違うような気がします。わたし自身は、「共闘型」のゴール裏の人たちの群集心理は好きじゃないです。本人たちはそれが楽しいのかもしれないけど、どうもバイオレンスというのは・・・
実際、サッカーが原因で戦争に突入したことを考えると、軽んじてはいけないような・・・
ネットでもたまに熱くなってしまう人たちがいて、正直、わたしが知らない間に来訪者同士が喧嘩に近い議論をしていたことがあります。速攻で削除しちゃえばよかったと思っています。でも、まあ、一応は来訪者ですから・・・・
でも、甘かったね。やはり無視するべきだった。なんか、自分のブログが荒されているようで気分が悪い。喧嘩するなら外でやってくれ、と思う。トラックバック一つにしても飛んできてうれしいと思う人もいれば、怒る人もいるわけで、中にはいきなり荒れて書いてくる人もいる。
正直言って、迷惑。
コメントを書かないという理由で怒っている人もいた。めったにいないけど。マナーが悪いらしい。
わたしとしては、気に入らないなら黙って削除すればいいのに、そういうことをあえて相手方に書きに行く方がよっぽどマナーが悪い。できれば、ネットとはいえ関わり合いになりたくない。そういう認識のずれはサポーター心理のようなもので議論していても始まらない。
あえて思い出すなら、結構、nattoさんのところがジャンル1位になった時も、すったもんだしていたような・・・スパムがどうたらこうたら賞金がどうたらこうたら・・・1万円だか3万円だかでしょ? 何も血相変えて怒るほどの金額ではないような気がする。読者登録がどうたらこうたらとか、コメントだのTBだのと。周囲のほうが熱くなるんだよね、不思議と。
そのうち、アメブロ自体がランキングの基準を変えたので今はそういう意味では静かになったけど、ちまたでは今でもいろいろ誤解やトラブルの原因になっているような気がする。
でも、分からないな・・・
世の中はイネガリテの坩堝。不平不満の発散に付き合うほど愚かなことはない。
でも、賞金を出すのもアメブロだし、サーバの運営もアメブロ。だからアメブロのスタッフが運営しているブログが荒れるのは仕方がない。でも、ユーザには関係のない話だと思うんだけど。今回、ほとほと認識の違いというものを感じて、うちのブログは個人的に趣味で運営しているブログなので、カラーが合わないと思ったら当然ブロックするよね。荒らされたくないから。
あれって誹謗・中傷じゃないか?
まあ、どうでもいいか。あほらしい。
あれって何かって?
まあ、そのうち消えるだろう。というか、消えてほしい。
どこにでもうざい来訪者っていうのはいるものだ。
興味のある人はこちら⇒ ■
サッカーのゴール裏の人たちのことを考えると、ネットは乱闘にならないだけマシか?
あれが誹謗・中傷だと思うかどうかも人によるのかも。
来ないでほしい。
来月から、ジャンルを変更しようと思う。理由は簡単。毎日本屋ばかり行ってたら飽きるでしょ?あっさり語ると飽きてしまった。もっと普通にニュースやサウンド、映画や日常、その他諸々知的好奇心を刺激するような記述の羅列を眺めているほうが気楽になってしまったから。
久しぶりに村松恒平さんのメルマガが届く。わたしは無料版しか申し込んでないので有料版に移行した間に何が発生したのか知らないけれど、村松さんの入院と共にいつのまにか有料版は廃止になったそう。というわけで、ぽつりぽつり無料のメルマガが再び配信されるようになった。(⇒ 『文章が上達する学校』 )
今週のネタは、「記事と文芸」について。(秘伝-通算166号)
質問者は編集/ライター。
小説を書いているほうが楽しいし、仕事に自信が持てないという悩み。
村松氏のお答え: 「ドライブが好きだからといって、タクシー運転手になって楽しいとは限らない」
もーね、だから村松さんのメルマガが好きなのよ。その時々にわたしのムーディでわがままな悩みにマッチしたメルマガが届く。こういうのは単なる偶然だから、電子文字にも相性ってあるのかもしれない。
記事と文芸の違いは、わたしでも分かる。
わたしは案外文学少女だったせいか、メタファーをちりばめたような文学的な表現を好む。そういう傾向は文学部出身者にはよくあるようで、わたしだけがスペシャルではない。でも、論文を書くようになると疎まれる。「小説でも書けば?」というのは揶揄である、少なくてもわたしにとっては。褒めてくれるならいいんだけどね、揶揄なのよ。バカにしてる。満足に論文一つ書けないのかとか、酷い論文ですね〜って笑われるわけです。そういう世界だからね、仕方がない。
例えはいいけど、喩えはダメなわけ。
最初の頃はともかく、わたしの脳は次第に論文カキコに汚染されていき、今では逆にわたしのほうがダラダラとした小説的文章に堪えられない。
「あんた、いったい何が言いたいのよ!」という具合に苛々してきてしまう。
「だったら読むな!」と思うでしょ?
その結果、途中で未読本として放り出す。
とてもじゃないけど、脳が優雅にストーリーを追えない。この傾向は2時間以上画面の前に座ってストーリーを眺めているのが苦痛という理由で映画を観ないことにも似ている。その2時間を確保するのが苦痛。映画館なら途中で出るのもつまらないので座っているかもしれないけど、家だとダメ。そのくせ観る時には3本くらいまとめて観ている。
切り替えなんだと思う。
今日は、映画を観よう、という気構えがないと落ち着いて座っていられない。昔は同じ映画を座る席を替えたりしながら前に座ったり、後ろに座ったりスクリーンそのものを楽しんでいるくらいのゆとりがあったというのに、近頃だんだん短気になっていく自分を感じる。特に何が忙しいわけでもないのに時間が足りないような気がしてくる。
そういう中で、まるで本屋の店員のように年中書籍の話ばかり眺めていると、その世界から逃げ出したくなるほうが普通ではないだろうか?
本が好きでも本屋の店員になって楽しいかどうかは分からない。書くのが好きだからといってライターになって楽しいかどうかは分からない。書きたいことを自由に書くためにはその一歩手前に身を置くくらいがちょうどいい。ドライブを楽しむためには、タクシーの運転手になるべきではない。客を乗せるというのはそういうことだ。
それでも仕事が楽しくてたまらないという人たちは幸せだ。
作歌なら作歌、文章なら文章という具合に学び屋は楽しい。ここはしばし学生気分に浸り、そういうノリでやっていきたい。どこが違うかというと、ビジネスの話ならほかでやってよ、という気分かな。アフィリエイトなどを考慮し、今の時代は売れたら紹介手数料というのが出版物の値段に含まれるようになったらしい。消費税が上乗せされて、アフィリエイトが上乗せされて、それでいて利の薄い世界。そういうことを知りたいかな・・・知れば知るほど本を買うのが嫌になる。わたしが天邪鬼なんだろうか・・・
というわけで、ブログってるだけならほかのジャンルへ行きたい。
今回、ブログペットを設置してみて分かったこと。
(1) 約6割が検索からの来訪。(割合: google 47%, yahoo 29%, その他12%)
(2) 約2割がブックマークからの来訪。
(3) 約1割がリンク先からの来訪。
(4) 残り1割: 3%がping送信先、2%がランキング、その他5%がトラックバックやご紹介いただいたブログ記事からの来訪。
このように眺めると、まだ設置したばかりでサンプル数は少ないけど、アメブロのジャンル・ランキングからの来訪は1人だけだ。新着記事からが7人、あめまにゅやトラステからが5人。その数字が多いか少ないかは比率の問題であり、実際には検索、ブックマーク、リンク先からの来訪がほとんど。
そうやって考えてみると、文学系の来訪者は半数以下かもしれない。一番役に立っている記事が雨風呂改造編みたいだし・・・毎日2割以上の来訪者がカウンターの設置や背景画像を固定するために検索で来訪してくださっているらしい。
このほか、青木さやかとか奥菜恵とか谷川俊太郎とか、固有名詞系の検索も目立つ。次がケータイ短歌、詩集とかね。残りはわたしの想像を超えているので分析できない。定義とか雨とか・・・
月末を迎え、ジャンルを変更しようかどうか迷っている。
ネットは検索社会だからね・・・今回ほとほとそのパワーを思い知りました。
特にアメブロのブログ検索は侮れない。
ところで、ブログ内検索って使えるようになったのかしら・・・?
ブログにあるやつ・・・
こんな裏ワザが必要なんて・・・
最初、embedのタグを使えば簡単に設置できるという記事を発見したのでその通りにやってみた。ところが、禁止タグに指定されているため動かない。
記事をサーフィンしているうちに、embedが禁止タグに追加されたのは今月の16日だということを知る。さすがアメブロ、どこに情報網があるのかと思うくらい対応が速い。それでもブログペットが設置されているブログがあるのですから諦めない。
そこでようやく、minimini Blogさんの記事 を発見しました。
裏ワザは考えたらダメです。書いてある通りにやらないと。
考え方としてはMyClipに追加した記事に新着マーク(newなど)が入るので、そのマークを無理やりブログペットにしてしまおうという発想。すごいですね。だから簡単なようでいて、面倒です。
(1) アメブロの編集画面を開き、プラグインにMyClip を設定する。
(2) ブログペット に登録する。
(3) ブログペットのコード生成をMyClipの表示設定に貼り付ける。
(4) MyClipにClipを追加する。(一つも記事を追加していなかったために表示されませんでした、最初^^;)
(5) 余裕があれば、CSS編集で、プラグインの文字の大きさやマージンを変更する。
<例>
/*plugin*/
.plugin{
text-align: center;
margin-bottom: 20px;
font-size:11px;
}
一番簡単なのは、アメブロのプラグインでブログペットが使えるようになることなんですけど、とりあえず誰かがやっていたら真似したくなるのはウェブの王道なので。たぶん。
とは言うものの、ブログペットって何のために設置するの?(←何も考えてない・・・)
おおお・・・・アクセス解析が使える・・・・リンク元URLとか検索キーワードとか。メッセージも送信できるし、うさぎがおしゃべりするだけじゃないんだ。知らなかった。
もっとあれこれするのかもしれないけど、まだ分からない。しかも、10日間で設定してあるので、その都度更新しないと消える・・・
静かなる田舎暮らしも退廃に包まれゆくか建設ラッシュ
駐車場立体化して建ち並ぶ無機質な箱ふえゆくばかり
風薫る季節になればあちこちに若葉マークの危険な香
走らない走らせないか死角にもなってないのに対向車をり
駐車場そろそろ出るかおそろしき若葉マークは前みて走る
うつろわば毎年変わる同じ顔また新しき学生歩く
八重桜深いピンクの花咲けば端午の節句ちかづく並木
鯉のぼりだらんと落ちて葉隠れに身をさらしたり隣家花咲く
アザレアの濃くも紅ざっくりと濃くもなりゆくみどりに落つる
蒲公英の生き残りたる春の庭明日はどうなる風まかせかな
根掘るため100円ショップ出かければ鎌も鋏も箒も売られ
学生の歓迎会にたちかわる連休の客よちよち歩き
せわしなく春に堰かされまったりと自転車の音運び来ぬ風
爪のなか土落としては土の入る春はせつない泡立つ野草
枯れ薄風に吹かれて空き地にぞ身をこごめたる新陳代謝
春風に背を押されつつあゆみゆくうつろう街に違う猫おり
白猫の消えた庭寝る灰色の見知らぬ猫も猫は猫かな
人変わり猫も変わるか春の街とどまる景色そのままにあり
うちの近所は、空き巣被害やコンビニ強盗などが結構多い。コンビニ強盗は東南アジア系の窃盗団という話なんだけど、学生街でもあり、外国人が多い土地柄でもあり、いつの間にやらスーパーが24時間営業になり、レストランや大型店舗が乱立するようになったせいか、便利は便利なんだけどセキュリティには案外気を使う。
もともとは研究所と住宅というコンセプトのブロックなのに、不景気で研究所用地も売れ残っている。そのため国際会議場やホテルを建設できるように条例を変えるというので、住民側が怒ってこの前まで市議で揉めていた。
つくばエキスプレスがこの夏に開通する。駅周辺はマンションの建設ラッシュ。一日で完売。
つくばって職住接近ですごくのんびりしていたところで、デパートを歩いていても知り合いと出くわす。友達が働いている。子どもを連れて立ち話。そういうのどかな世界だったのに、次第に街の雰囲気も変わり始めた。
去年、家の鍵が壊れたので、イスラエル製の鍵にした。輸入住宅なので、うちの家のドアに付けられるのはアメリカ製かイスラエル製。このうちピッキング防止機能が付いているのはイスラエル製の鍵だというのでそちらに変えた。
冗談抜きに、昼寝をしていたらオトくん(ミニチュア・ピンシャーのオス)が吠えるので玄関へ出たらドア越しに帽子を被ったサングラスのおじさんが見えた。ドアにガラスが填められているために誰が来たかシルエットで分かる。インターフォンが鳴ったので出ようとしたとたん何事もなかったかのようにその男は去って行った。
そんなことを考えると、娘一人では心もとない。オトくんがいるのといないのとでは安心感が違う。
オトは小さいし、普段は猫のようにおとなしいけど、いざとなると吠えるし噛むし、寝ていたと思ったら急に起き上がり外敵に立ち向かう。完璧に番犬気質。家の中で飼っているだけなので、わたしでさえひょいって持ち上げられるほど小さいのに、それが誰か来ると豹変してしまう。そんな時に制止しようとしたら噛まれる。わたしも3回噛まれた。
それでも最初の頃みたいにドアを飛び出してまで、ということはなくなり、昔だったらドアをカリカリ開けるのも一苦労だったけど、今はせいぜい後ろで吠えているだけになった。吠えるのをやめさせることはど〜っしてもできない。
散歩の時にはおとなしい。でも、ダンナが連れて行く時には公園中を走り回るのに、わたしが一緒の時にはどういうわけかわたしの足下にくっついて座っている。その代わり植木の手入れしているおじさんには吠え掛かるし、近所の人と立ち話をしていても吠えるし、困ったヤツである。要するに、番犬だから、手綱を引いているのはわたしなのに、オトにしてみればわたしを守っているらしい。わたしのほうがつおいと思うんだけど・・・気のせいなんだろうか。
来客の時には、2階に閉じ込めなければならない。それでもわたしが気づくよりオトのほうがずっと早いので、これが一苦労。
でも、うちのダンナが言っていたけど、犬を飼うと高血圧の人は血圧が下がるというデータがあるらしい。わたしが怒る前に勝手に吠え掛かってくれたら、飼い主はぼぉ〜っとしているだけだから気楽なのかも。ちなみにわたしは低血圧なんだけど。不思議なことに猫ではダメだというから、高血圧の人は犬を飼うべきかも。犬は飼い主には忠実だからね。
というわけで、番犬でもあるし、愛犬でもあるし、多少の粗相を我慢すれば健康面でも精神面でも安全面でも犬がブームになるのは当たり前のような気がする。
イネガリテ吹く風のごとく見送れば日当たりさえも喧嘩の坩堝
太陽は照りゆくばかり野の原にのせゆく家の重なるやうに
トラブルの蔓延したる人いきれ避けて陽は射す影のびゆく樹
偶像にさしゆかむとすほとぼりは幾世紀のちわかつ想念
根を切れば大樹立ち枯れ境界は土の中にぞふりおろす斧
4ヵ月半前にアメブロにブログをつくって、いきなりアマゾンのアフィリエイトが使えることになり、意味不明のまま便乗。アフィリエイト自体をうさんくさいイメージで捉えていたために、それが奨励されるのが不思議だった。
わたしが最初に無料サーバにサイトをつくった頃は、広告バナーを貼るのも違反行為だったし、クリック募金ですら広告に相当するという理由で禁止されていた。商売をやるなら有料を使うというのが常識。
それがいつからでしょう・・・・ブログでアフィリエイトをするのは当たり前みたいになり、この前、アマゾンで一括して買った本を今度は6がけくらいでなら売れると知り、複雑な心境。今までだったら本棚の飾りになってしまっていた本とか、処分したいけど古本屋へ持って行っても1冊100円に叩かれてしまう専門書の類を考えると自分で出品したほうが賢い気がする。リサイクル感覚なんでしょうか・・・でも、正直、自分で梱包して発送するのはかったるい。
この4ヶ月半の間に、うちのブログから買ってくれたのはきのこさんだけです。
最初、「はあ?」という感じだったんだけど、アマゾンからメールが届き、ポイントが113円分ついていたので、ようやくアフィリエイトを実感した。
きのこさま、ありがとうございます!
ただし、1500円分になるまで商品券にはならない。本好きな人たちだったら買っては売り、ブログで紹介してアフィリエイトを貯め、さらにまた本を買う。本好きな人たちが集まってそういう循環が出来上がるとすごく効率がよいのかも。友達同士の本の貸し借りとは違うけど、それはそれで今の時代を感じる。
それでか。
なんで、「本・書評・文学」を、「本・書評」と「文学(創作)」に分けてほしいのか。
わたしは全然そういう意味とは違い、賞を狙っていく姿勢や叱咤激励が辛かったこともあるし、常に売ることを主体とした作家の生活臭を知るにつれ、パタッと倒れこむような重苦しさをそれとなく感じ、できれば「本・書評・文学」のジャンルからの逃避行を鬱々考えながら月末を通過している。
印税を稼ぐより、アフィリエイトで儲けたほうが儲かるかもしれない、とたまに思う。実際にはうちのブログではまるで売れないけど。でも、はっきり言って、わたしは今のところ生活には困っていないようで・・・しかも、大抵の場合、一生懸命に記事を書く時間があるなら、パートへ行く方が遥かに確実に賃金に変わる。
それでも何もしないより何かしているほうがマシという気がするし、たまにきのこさんみたいに間違えて?買ってくださる奇特な人もいらっしゃるし、記事をあげておけば検索で来訪してくださる人も増えるし、それを考えるとそういう時代なのかも。
とは言うものの・・・・これがまたネットの世界のイネガリテを煽るようで・・・・・なんか疲れる。
グチを羅列すれば、「一生懸命、アフィリエイトを奨励する義理もないし、カトリックを布教する責任もない。記事を書くのも仕事ではないし、結局は書きたいという能動的な衝動が発生しないかぎり、わたしはぼぉ〜っとしているだけ。たまに何かやればトラブるし・・・・価値観の相違は免れない」など。
とりあえず、アメブロに、トラックバックでも禁止IPアドレスが使えるようにならないかと要望を出したところ、次のようなお返事が。
*******************
cherrynut様
アメーバブログ運営局です。
ご連絡ありがとうございます。
現在の法律ではネット上でのスパム行為、嫌がらせ行為を禁止、抑制する
法律がなく、当アメーバブログでも、該当者が間違いなくアメーバブログユーザーで
ある場合には、該当者に注意、警告を行えますが、明らかでない場合には
対処が出来ないのが実情であります。
その為、コメントなどに共通IDなどを採用するよう検討しております。
また、トラックバックへの禁止IPアドレスも検討しておりますので
何卒ご了承ください。
もし、今後下記行為が頻発されましたら、トラックバックも一時
非公開にされますようお願いいたします。
尚、下記行為者への対処と致しましては無視をして、
コメント、トラックバックを削除されますようお願いいたします。
その行為に対応をされてしまいますと、その行為が
頻繁になる虞がございます。
何卒ご了承ください。
今後もcherrynut様を含め、全てユーザーの皆様に、
十分ご満足いただけるようなサービスの提供に一層努めてまいりますので、
何卒ご理解ご了承いただきますようよろしくお願い申し上げます。
アメーバブログ運営局
-------------------------------------------
人気ブログを作って、賞金ゲット!
Ameba Blog http://ameblo.jp/
アメーバブログ運営局 Mail: info@ameblo.jp
-------------------------------------------
----- Original Message -----
> 返信ありがとうございます。
>
> > トラックバックにも禁止IPアドレス機能は
> > スパム行為等を含めた迷惑行為への対応の手段として、
> > お考えなさっているのでしょうか。
>
> 書き込み禁止にしたら、今度は連日してTBが飛んできます。
> 「意見が違う」かららしいのですが、
> 誹謗・中傷を書き込まれたため、禁止IPアドレスに追加し、
> 「自分のブログに書いてください」
> と伝えたら、今度は連日してTBです。
> サイバー上のトラブルは解決不可能なことが多いです。
> ブロックあるのみ。
>
> よろしくお願いいたします。
>
>
> ----- Original Message -----
> From: "アメーバブログ運営局"
> To: < *** >
> Sent: Tuesday, April 26, 2005 2:38 PM
> Subject: [101295-2]Re:【アメーバブログ運営局より】[お問い合わせ:アメーバブ
> ログへの要望]
>
> > cherrynut 様
> >
> > アメーバブログ運営局です。
> > この度はアメーバブログをご利用いただきまして
> > まことにありがとうございます。
> >
> > 貴重なご意見をいただきましてありがとうございます。
> > ご意見を活かせるよう、運営局にて検討させて頂きます。
> > さて、一つお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。
> > トラックバックにも禁止IPアドレス機能は
> > スパム行為等を含めた迷惑行為への対応の手段として、
> > お考えなさっているのでしょうか。
> > 上記の他に、御理由等ありましたらご連絡ください。
> >
> > cherrynut様を含め、皆様が気持ちよく当サイトを楽しんでいただけるように
> > サービス、ルールについて日々改善していくよう努めて参ります。
> >
> > 今後とも、アメーバブログをどうぞよろしくお願いいたします。
> > それでは、失礼いたします。
> >
> > アメーバブログ運営局
> > -------------------------------------------
> > 人気ブログを作って、賞金ゲット!
> > Ameba Blog http://ameblo.jp/
> >
> > アメーバブログ運営局 Mail: info@ameblo.jp
> > -------------------------------------------
> >
> >
> > ----- Original Message -----
> >> アメブロID: cherrynut
> >> URL: http://cherrynut.ameblo.jp/
> >>
> >> いつもお世話になっています。
> >> トラックバックにも禁止IPアドレス機能が使えると助かるのですが・・・
**************
こういう点では、すごく対応が速いよね・・・・アメブロは。
慣れているのだろうか・・・
昨日、娘の担任の家庭訪問があり、3年生の時と同じ先生。この3年の間に、家の中の様子はほとんど変わらず、壁紙が汚れたとか、家具が壊れたとか、テレビが新しくなったとか、庭の様子が変わったとか、おそらくは咄嗟のうちにわたしの脳裡の中がぐるぐる回った。
考えてみればこの家に住んで8年以上経ったわけだし、去年の暮れ、隣の家も少し改装していたようだし、わが家もそういう時期なのかもしれない。
今日はやたらお天気がよく、ずっと庭のドアを開け放している。朝から草刈などをし、労働のせいか少し眠い。それでも懲りずにネットをしているという・・・日課とは恐ろしい。本当は、旗持ち当番だったので何となくそのままドライブしてガーデンセンターへ行きたいようなお天気だったのだけど、さすがに朝はどこも開いていない。
すかさずダイレクト・メール。(メルマガのこと)
これ、欲しいですよね・・・うつらうつらしながら、ぼぉ〜っとしているうちに勝手にロボットが家の中をお掃除してくれるなんて。ただし、拭き掃除やワックス掛けまでやってくれそうな形なので、もう少し待つとそういうタイプが出るかもしれない。そういうのってタッチの差だから。
ついでにサーフィン。
お気に入りのラタンのソファを娘に壊されて、座ると抜ける。修理しようかと思ったんだけど、よく考えたら修理やカバーを買うよりソファごと買い換えたほうが安い。時代が違うんだろう・・・なんか悔しくもありうれしくもあり、複雑な気分。
そこで見つけたのが、このコーナーソファ。色違いもある。雰囲気も形もよいし、気に入ったのはよいけど、納期に3ヶ月かかる、とある。気の短いわたしがそんなに待てるだろうか・・・3ヵ月後は夏休み。予定は未定。
迷う。
違うサイトだけど、どこに置くのだろうと思いながら、何となく座りたくなるような雰囲気。いっそのこと部屋の模様替えをしてしまうとか。
ネットで買い物するのは航空券くらいだと思っていたんだけど、このところ何となくカタログを眺めるようにサーフィンしている。
眠い
あたまのなかの糸がふくざつにもつれあっている
宗教戦争の時代に戦争を終結させた一人の若者
聖フランシスコ
カトリック
パパさま
スルタン
ポルチウンクラ
シモーヌ・ヴェイユ
ユダヤ人
カトリック
北海道
アイヌ
木彫りの熊
民族
東京の夏の一人のアイヌ人の死
ロシア
北方領土
馬のいる暮らし
岩見沢のばんば
いろいろ書きたいことがありすぎて今日のわたしは寝ることにする
⇒トラステへのトラバ: 「あの本の文庫化が待たれる!」
最初、このお題を見たとき、「はあ?」って思った。
本というか、小説の好きな人たちって、そういうものだということを初めて知る。
わたしは、文庫以外で小説などの類を買うという習慣がない。つまり、大抵は文庫でしか買わない。文庫化されるのを待つというより、そういうものだと思ってきた。しかも、読んだら捨ててしまうために、小説は僅かしか手元にない。
読んだら捨てるという習慣は母のせいである。文庫は虫が発生しやすいために、古くなる前に誰かにあげたり、捨ててしまう。つまり、文庫というのは雑誌みたいなものらしい。
それなのにどうしてハードカバーの小説がわが家にあるのかというと、コープで注文して買っていたから。
推理小説以外の小説を最後に買って読んだのはいつだろう・・・おそらくは、渡辺淳一の『失楽園』か、トールキンの『指輪物語』。思い出せない。それ以後、文庫で数冊とハリーポッターを買ったけれども未読のまま積んである気がする。大抵はコープか、成田空港で購入したもの。
どうしてコープを利用していたかというと、割引があるのと、話題の本が多いということと、現実問題、子どもを連れて本屋へ行くのは酷くためらわれ、狭い通路に立ち読みの人たちの背が並びすぐにぶつかるし、ベビーカーは邪魔だし、万が一子どもが触って本によだれがついたらどうしようとか、親が本を選んでいるうちに子どもが本を破いていたらどうしよう・・・とか、子連れにとっては本屋は鬼門である。
それと、夥しいほどの育児書を読み、生まれたら今度は絵本を買い、自分のために本を買ったり読んだりすることがめっきり減った。あっさり語れば、のんびり本を読む時間が出来たのは、娘が幼稚園へ行くようになってからである。いただく本もシュタイナー教育とか、教育関係の本が多くなる。でも、そういう時間の大半は、子どものための通販カタログなどを眺めているうちに終わってしまった。
やがて、仕事を始める人が増え、この辺りには庭のある家が多いので、ガーデニングの本がメインで並んでいる本屋も多い。生活の楽しみは読書から旅行や週末のガーデニングに変わり、旅行記や写真集を買うようになる。
旅行へ行くときには、哲学書か詩歌集を持って行く。強烈な太陽の下で本を読んでも頭の中に入らない。だから少しずつ含みのある文字を好むようになる。歩き回るような旅では夜は疲れてビールを2,3本飲んだら寝てしまう。
まるで異国の出来事のようだ・・・文庫化を待つ、というのは。
落雷にしずまりかえる昼さがり家庭訪問春の嵐ぞ
歩きつつ要点話す先生は車の中でシナリオを描く
要点は春の嵐か音のない二階の吾子と犬も寝をりぬ
落雷の消えゆくばかり澄み渡りいつもの午後の落陽(おちび)は伸びる
一人の子みつめ育てつ教室はすぎゆく子らの足音のせて
あつまれば重ね並べる机椅子あまねく子らのうつろいゆかば
マスゲーム眺めるやうに子ら歩く一人の吾子と子らといふ吾子
教室も校庭も子らあつまりつ一人あまねくみそらひろがり
ドラマって一人みつめつ進みたる光のやうだ、子らあつまりぬ
ブログ名を変えた。理由は、ペンネームの意味を理解したから。
幸田さんはいつも「風マニアさん」と呼ぶ。いつもと呼べるほどコメントを残したかどうか記憶にはないけれども、それも一つの「あれ?」って感じるような印象で記憶の片隅に残る。ペンネームそのものがブログ名というのもありいなんだろうかと、いつも不可思議な気持ちでいた。
屋号。
すなわち、ペンネームというのは屋号らしい。店があれば店の名前が屋号でしょうし、芸人さんならそのまま芸名が屋号。だからペンネームというのは確定申告欄にあるように、一つの屋号であり、組織や会社名と大して変わらないことに気づく。
例えば、田中先生が田中医院を開業し、患者さんが「田中さん」と呼べば田中さんは田中医院そのものであり、院長のことだけではなくもっと広いイメージで使っている。院長は田中先生。「田中さん」は田中医院であり、一つの屋号。
というわけで、屋号「田中医院」、院長「田中太郎」というのがペンネームの由来だということを理解したために、世界観がぐるりと変わってしまい、患者さんにとっては院長の名前には興味はなく、ただ「田中さん」という屋号があればよいことに気がついてしまった。
ということは、ペンネームというのは集合名詞なのかもしれない。
インターネットを始めて、サイト名をつける。ハンドル名を使う。そのうちいくつか複数のサイトやブログを運営するようになる。それでもすべて自分が管理人なので、サイト名やブログ名はいわばタイトルみたいな感じ。作家がいて作品にタイトルをつける。作家の名前は変わらない。でも、タイトルは可変なもの。
そのうち結社や歌壇では本名を使っているために、次第にハンドル名を使うのがだるくなる。これはうまく説明できないけど、非常に疲れる。一人で複数の名前を使いこなせるほどわたしは器用ではない。
しかも、そのうち筆名を考えなければならなくなるとすると、やたらと気が重くなる。
そこにね・・・・「風マニアさん」
ピンと来た。さすがに鈍感なわたしでも・・・
というわけで、ブログ名を変更した。作品のタイトルとしてなら「風マニア」でもかまわないけれども、筆名としては変だ。娘の名前をつけるとき、わたしは本当はまぽちゃんと付けたかったのだけど、皆が反対するのでまほにした。漢字が同じなら読みかたは自由ではないかというのがわたしの主張だったのだけど、あまりにも変だと言われ、素直に直す。
ロックバンドでもあるまいし、マニアさんとは呼ばれたくない。
マリアさんと呼ばれることにもそれなりに抵抗がある。でも、友達の洗礼名を眺めるとマリア・ソフィアとかエリザベトとかね・・・マリア・ソフィアさんは2人いる。となると、わたしが洗礼を受けると、マリア・ソフィアになる可能性もあり、世の中がマリアさんだらけだということを知っているわたしとしてはマリア・ソフィアよりも風マリアのほうが自分っぽい。
そういうわけで、屋号を「風マリア」に変更。
自分で税金を払うという発想が欠如した人生のために、歌集を出版すればしたなりに赤字でも確定申告の手続きから逃れられないことを考えると、筆名というのはそういう手続きのために存在することを知る。
それとどう言ったらいいのだろう・・・今までは、わたしという人がいて、そのパーツとして歌人というわたしが存在していた。でも、筆名をつけるというのは、いわば独立宣言のようなものであり、わたしという人に依存しない歌人が独り歩きすることになる。それが作品を世に送り出すという気分なのかもしれない。
わたしは、白石として作品を世に送り出すのではなく、風マリアとして作品を選ばなければならない。歌壇は、歌人としての力量世界であり、一度読んだ歌を読みたくないとまで言われたことがある。常に新しい歌を詠み続ける力量を試される。つまり、個の世界。
でも、集合名詞として世界を描いたとき、風マリアを構成するのはわたしという個人ではなく、作品である。
・・・・・・・・・・そんなことを考えていたら、歌が詠めなくなるのではないだろうか。
いずれにせよ、2万首までは遠い。来月までに9000首。ちょっと今のペースではきついな。わたしの世界ではなく、風マリアの世界を構築すること。課題。きつい。難しい。いやになるかも。わからん。なんでもいいや・・・おおげさ。おばか。直らん。直そう。今。今、今。今は今。今。(ヒマではない。)
鬱は魚だからね・・・黙って眺めているしかない。あ、あっちいったな、こっちいったな、って。忘れていると餌がなくなって浮んでいる。
酷いと共食いとか?
だからほどほどに餌をあげて、ほどほどに水をとりかえて、後は放っておく。
ご機嫌なら、すいすい泳いで美しい姿を見せてくれる。
インターネットを始めて知ったこと。
人を殺したいと思っている人たちがたくさんいるということ。
自殺したいと思っている人たちがたくさんいるということ。
鬱病で本当にリストカットがやめられない人たちがたくさんいるということ。
それで、「神に感謝」とか、「神を愛します」と、うれしそうに語る人たちにたまらなく苛々するらしく、やたらと誹謗・中傷が多くなる。つまり、不幸のおすそわけらしい。
正直に語れば、そんなものは要らない。
最初の頃、神父さんのサイトへ来訪したとき、「僕は人を殺したいと思っています」と書いてあって驚いた。
最初の頃、カウンセラーのサイトへ来訪したとき、「借金返せ」と書いてあって驚いた。
普通のサイトならありえない。
結局、癒しがほしいだけなので、カウンセラーのサイトだとメールが1日20通。大抵はそういう死にたいとか恋愛がうまくいかないとか、その他諸々心の傷について書かれている。そういう場合、レスを書かないで2,3日放っておくと、「解決しました」と再びメールが届くらしい。
そういう世界なんだよね・・・
神父さんやカウンセラーでなくても、この人なら何となく分かってくれそうだと勘違いされてしまうと、やたらと精神状態の悪い来訪者のアクセスが増える。相談のメールも増えるだろう。
はっきり言うけど、わたしはそういう人たちが嫌いだ。
来訪しないでほしいと書くとますます荒れる。
本人も分かっているだろうけど、例えば、鬱は移る。特有の不安や不愉快さがあり、たちまち自分が誰からも相手にされなくなるのではないかという怯えが走る。つまり、見捨てられ不安。
病気なんだろう。
と語ったら、きちんと治療を受けている人とそうでない人とを一緒にしないでほしいとメンヘラーに言われた。きちんと自分の病気に立ち向かっている人とそうでない人とを一緒にしてはいけないらしい。どこが違うかというと、自分で自分の病気を理解しているかどうか、薬でコントロールしているかどうか、その他諸々まったく違うらしい。
放っておくに限る。
近所のスーパーで沖縄フェアをしており、わたしは今、「サーターアンダギー」という沖縄ドーナツを食べながらこれを書いている。幸田さんの小説を読むのはこれが初めてである。ブログのほうにはニュースネタを拾いに伺っているけれども。
正直、『てぃんさぐぬ花』を一気に通読できるか、横目でスクロール・バーを眺め、自信がなかった。電子出版という形で読むのも初めて。まあ、読み終わらなくても時間が終わるわけでもないし分けて読めばいいや、と思いながら、一気に読んだ。
短編小説が一枚のページに収まるということを知る。
小説というよりも詩を読んでいるような感覚でことばがゆきすぎる。
会話。
いくつも出没する国。
そして、沖縄。
もっと書いてほしいのはログハウスの中の様子。
そして、言いすぎないアメリカの帝国主義。
語りすぎないところが小説なのかもしれないし、わたしは沖縄へは行ったことがないので、ガイドブックで眺める地名を想い描きながら、当たり前のことだけど、沖縄の基地が阿見町の自衛隊とは違うことを知る。阿見の自衛官は仕事をさぼるのが好きで、軽い怪我をすると喜ぶ。右手に包帯を巻きながら、病院の喫茶室でウェイトレスをナンパしている茶色服の自衛官。無防備に道路沿いに並んだ戦車。慣れてしまえばそれも田舎町の風景の一つであり、のどかささえ漂わせている。
米軍基地・・・
「サーターアンダギー」は、ごく普通のドーナツ。
それがどこか沖縄という気がした。
アホな客神と思えとこの国は脅迫のごとくゆがみゆくみち
神になるそがために金集めるとゆとりのやうな鬱憤の腹
農家だに売る米食まぬ流通は空に舞い立つ刈穂の稲に
教会の布切れの山眺めては牡丹の花を肩に載せよと
サックリフィス、シーーッ!マイクの声聞こえ沈黙の間に人流れゆく
いつまでも苛立つ人ら見さげては神と呼べとは虚ろ商ふ
戸を閉せばかごとの渦は吹く風の押し黙るまで飽きずに叩く
谷風の集まり吹かば春の野は形あるもの破壊せしバケツ
凶暴に吹き荒れるかな春嵐朧月浮ぶ麗かな宵
狂へればみすごすこともかたき根のフェンスに絡む蔓花咲けり
地は虚ろ乗り越えてゆく根を切れば木の枯るるまでかごと実りぬ
著者: お客様行動研究会
タイトル: アホな客
アメブロにもブログがあり、楽しませていただいています。
⇒ 『アホな客の迷惑日記 お客さんもう帰ってくれ・・・・・』
日本だと「お客様は神様」という臭いセリフがあり、店員のほうが我慢しなければならないケースが多いけど、そういう国ってめずらしい。客のほうが苛々しながら待つなんていうケースが当たり前になってしまうと、長い列を文句も言わずに並んでいる人たちを尊敬のまなざしで見てしまう。
ファーストフードや量販店に慣れていると、「いちげんさんお断り」という世界に驚く。関西ではめずらしくもないらしく、店が客を選ぶ世界も多い。今は不景気だからそんなことも言ってられない?
たまに思うけど、もしわたしが店員になったら、絶対に客を区別すると思う。好きな客と嫌いな客を平等に扱うほどの不平等はない。大抵の店には、お得意様とか上客というのがあり、当然、ほかの客とは待遇が違う。
あっさり語るけど、お客様が神様だったらいちいちつまらんことで怒ったりしないでしょうに。お客様が神様ではないから商売が成立するわけで、笑顔も水もタダではない。
■テキスト・ブロガーの特徴
・ テキスト系のブログを回り、そのうちツッコミを入れたくなる記事にだけコメントする。
・ コメントしきれない時には、記事にしてトラバる。
・ 記事をアップし、検索を利用しながら類似記事を探してトラバる。
・ 実名、筆名、プロフ、写真など、テキスト・ブログであることを示唆。
正直、あまり愛想がよくないかもしれない。記事だけ書いている管理人も多いし・・・レスをつけないところも多い。
■友達ブロガーの特徴
・ コメントでのやりとりが中心。
・ 勝手にトラバられたり、リンクされたりすると怒る。
・ レスがあるとかないとか気にする。
正直、こじんまり友達リスト的お付き合いだけを望むのであれば、TB機能を使わずコメントだけにするなど、なるべくランダムに記事が集まるようなトラステなどに記事を飛ばさないようにするべきだと思う。
基本的に、発信基地は自分のブログである。読者は記事を読んでいるのであり、自分の顔を見てお話してくれているわけではない。それがネットの特徴。ネットは一方通行社会。個々のやりとりを望むのであれば、メールやその手のサイトがあるし、そっちを利用するほうがベター。
■テキスト・ブロガーと友達ブロガーの中間
・ 基本的にテキスト・ブログなんだけど、コミュニケーションがないとつまらない。記事をアップする気になれない。
アメブロはコミュニティとしての機能があるため、比較的ほかのサーバよりもコミュニケーションが活発。いずれにせよ管理人は王さまなので、管理人次第なんだろう。それでもコミュニティにいることに意義があるらしい・・・
うち?
うちのブログの場合、『風マニア』は中間ブロガーです。わけがあって、コメントもTBも機能していないブログもあります・・・
著者: 谷川 俊太郎
タイトル: 詩集 谷川俊太郎
谷川俊太郎の6冊の詩集、75年の「定義」
「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」から、
80年代の「コカコーラ・レッスン」、
90年代の「世間知ラズ」までを掲載。
谷川俊太郎の散文詩を読みながら、空白が気になる。空白があるから詩なのだそう。本当にそうなのかどうかは分からないけど、リズミカルな詩の流れを追いながらパラパラとページをめくる。なんなんだ、この世界は。柘榴が降ってきちゃったりして。大真面目な顔をして空から柘榴を降らせるのが詩人なのかもしれないと、クソマジメに読んでみた。パラパラと。
柔道の谷 亮子がフランスで挙式し、彼女がクリスチャンなのかどうかわたしは知らないけれども、柔道の世界チャンピオンがクリスチャンでも驚くに値しない。
日本社会という制約の中にいると、文化として宗教を受け止めている人たちが多いことに気づく。スピリチュアルな世界においては、一切の制約は虚しい。わたしは日本人で、案外、日本人としてのプライドも高いし、愛国心もそれなりにあるかもしれない。それでいて、わたしはクリスチャン。日本の文化を否定することは自分や祖先を否定することであり、わたしにはそういう気持ちはない。
仮にわたしが生まれる時代が違って、丸髷を結っていたとしても、十二単を着ていたとしても、わたしはクリスチャン。精神は自由。天皇制を否定するわけでもないし、神道や仏教を否定しているわけでもない。ただ、神は人間よりも高いところにおり、唯一の存在であるとスピリチュアルに感じているだけ。つまり、天皇よりも、教皇よりも、大統領よりも、あらゆる世俗の権力を凌駕して絶対的存在としての神を思う。
それは思想という生やさしいものではなく、いわばスピリチュアルな世界の領域であり、理屈を凌駕して存在している。だから、それを言葉で表そうとすると、わたしのつたなさでは語りつくせないというだけのことであり、言葉を虚しく感じたとき、それをアウトプットするのに適していたのが詩の世界なのかもしれないし、どうしてそれが短歌という定型詩の世界なのか、わたしに分かるわけがない。
ただ、短歌という定型の狭い世界において、精神は自由ではないかと感ずることが、わたしには自分の置かれた何かをそれにより一層感じ入っているにすぎないように思うことがある。枠組みがあり、わたしはある種の制約の中に生きている。でも、精神は自由。
わたしの生きている世界や、物理的に存在している自分という存在とそれを取りまく環境とを考えた場合、そのどこに神がいらっしゃるのか懐疑的かもしれない。それでいて、それらのものを凌駕し、ひたすらスピリチュアルな自分を感じたとき、わたしはそこに神の存在を強く感じてしまう。
果たして、わたしはそれをどうやって伝えたらよいのだろう?
わたしに何ができるだろう?
無力。
いささか手続きに基づき、実験結果を述べるように語れたらどんなにかすっきりするだろう。理路整然と語る。わたしが少し『精神の自由』について書き始めたばかりの頃、そういうことを試みていたことがある。でも、それはもはや過去のことであり、真理に近づくにつれ、それが酷く虚しく、この「真理」という日本語ですらわたしには何やら汚染された言葉のようで使うのが嫌いである。何かほかに適切な表現がないものかどうか思索することもある。
それでいて、わたしにはその手の適切な表現を考える能力が欠如しており、共通の用語として存在しているものをどうこう語っても意味がない。誰かが勝手に歪曲し、使っていたとしても。
そういうもどかしさすら、ある瞬間消えてしまう。
混沌とした世界から光が出ように。
すべての思考と感情が停止したような真っ白な瞬間。
静かな愛。
言葉のない対話。
イザヤ書 30. 18-26 救いのとき
それにしても20人に1人が国際結婚とは・・・1クラスに2人と考えれば普通のような気もするけど。国際結婚でなくても海外に赴任している家族の多さを考えると、子世代になると日本に戻ってくる気がないとかね。いずれにせよ、気のせいかもしれないけど、嫁さんを連れてくるより、お嫁に行っちゃうパターンのほうが多い。
ダンナの従姉もオーストラリアから戻ってくる予定はない。本人の仕事のこともあるけど、ダンナが日本では働けないかららしい。日本人と結婚したって、今は親の世話などする時代ではないから、結局、遠くに住んでいるのなら海外も国内も大して差がない気がする・・・親にとっては。それでいて一人娘だというのに・・・先にお墓を買ってしまったのを深く後悔しているらしい。1人になってしまったら親のほうが娘の傍に行くしかない。
かく言うわが家だって娘が将来隣に家でも建てて住んでくれるなら話は別だけど、大抵は仕事の都合でどこに住むかも分からないし、それでいて少子化の影響で子どもの奪い合いになることを考えると、今から憂鬱になる。一人娘なんだから・・・と思っても、一人っ子が多いからお互いさまとばかりに幼稚園の運動会へ行っても親や祖父母の数のほうがずっと多いことを考えると、日本人と結婚するのはやめて海外で暮らしていてくれたほうが気楽な気がするほど。
大体、結婚式のことを考えただけでも憂鬱になるではないか・・・日頃付き合いもない親戚とか、やたら長生きしている人たちを招いて何になるというのだろう。出席してほしくもない上司に仲人を頼んだり・・・葬式の次に面倒なのが披露宴。2人だけで海外で挙式というのがどうして流行るのか理解できる。それでいて、結婚となると相手方というのがあるから、勝手に決められない。
だんだんサマンサのママの気持ちが分かるようになっていってしまう。困った。娘と孫だけいればいいのよね。婿は留守がちがいいし、婿の実家からは遠く離れているほうがいいし、それでいて娘とはいえ、一緒に住むのはつらい。独身だったらかまわないけど、結婚したら別の家庭だもの。
娘を留学させる時には気をつけよう。婿を拾ってくる可能性が高い。娘の結婚と同時に改宗してしまうという一発逆転もありいか?
考えよう。
それにしても、日本人の血を引く外国人がたくさんいるというのも不思議だ。そのうち法律も変わるかもしれない。
千年を一日(ひとひ)と数ふあなたにはうすぺらな灯のうすら灯りか
パラダイスひろがる海の青ければ冷たさだけがわかつ光や
五月雨にさらさるる葉の待つここちひろがる光かをる息吹を
十字架の栄光はまた光るらむ万葉のまえふる星のまえ
散りゆかば消えし宇宙の藻屑にもなれぬアジアの身をこごむ春
透きとおる陽の輝きは雲のうえしづかに燃ゆる空将のごと
マラナタとくちぶえ吹けば春風は萌ゆるみどりにいのちをあたふ
グローリアス、ずっとむかしの春風も運んできたかみちしるべあり
ぬばたまの闇のつづくかしきしまはいつの日にやら陸の乾上り
どうしても思い出せないことがある。それはいつ日のとまどいなのか。
百合の花もはや筑波にみられぬがいつ伝わるや猪は知らずに
庭のすみ百合ののびゆく濃いみどり夏まで春は輝くものぞ
水のあるしきしまの四季かがやけば桜散るらんそして咲く春
八重桜ぽつりぽつりと過ぎ去った桜のうたを今ことほげと
少しずつ希望の光輝けば闇は来るらん耐えられぬ夜
めぐりゆく地球の音の聞こえない静かな光輝くばかり
めぐみさえ忘れてすごす大地にも枯れた薄はまだたたずみし
秋風の吹く頃なれば枯れ薄燃ゆる夕陽に身をさらすらん
いのちあたふされど息吹のくりかえす実りのぶどう蔓のかげろふ
サルビアの勝手気ままに葉を伸ばす芝生も今は少しずつ春
高麗の芝に覆われわが庭はアジアの百合のひっそりと夏
朝からか戦後保証を伝えては60歳になったか戦後
年金と医療費削り戦後かな病床の淵デモは歩きぬ
翻弄す澪つくしあれ反戦は反日の旗ふる人らのデモ
南北がひとつになるか反日はそも悪しきなきアジアの平和
イデオロギーわかつ国あれアジアにはみなしごのごと忘らるる川
敷島は海を隔てし今もなお姿変わりぬ泪のやうだ
貧富の差かくも広がるアジアには日の丸みては忘れまじとは
抗日の勃発せしもみごうては少し弱まる日の丸の旗
ちっぽけな島国なんだ敷島は見放してくれほのうるわしき
揺すらるる大地のやうに今日もまた連なる尾根は波をさえぎり
あとすこし鎖国してれば彼方より届かぬ便り明治の前に
ふりかえる過去はありなむ今日もまた感情伝ふ不可思議な波
カプセルを沈めてしまえ海の底震える大地起き上がるまで
彼方より不幸の波の押し寄せる砂浜の色運びぬアジア
厳しくも海風の声飛沫あぐる砂浜のみちほとりつづきぬ
少しずつ解散するか日の丸はことのは隔て聞くこと難く
朝廷の弱まりゆくか万葉のタイムカプセル拾わんと舟
⇒ネタステへのトラバ : 「電話魔の女の欲望とは」 (あれ?ネタステのお題ってニュースじゃなかった??)
■長電話魔
もー、男と女はこれっだけは違う!!と、のたうちまわるほどの違いを感じるのは電話。
今の人たちはどうなんでしょう・・・携帯があるからますますなのかな、と思いつつ、メールとかね・・・相手に負担をかけない手段というものもあるために、そんなに被害を互いに与え合うほどの電話魔ってさほどいないような気がするんだけど、単なる楽観なんでしょうか・・・?
女の世界にどっぷりはまっていると、電話魔などという悲鳴は少ない。
結婚してからはあるよ。子どもがいてちょっとでも目が離せないとか、少しでも眠りたいという時間に長々電話が掛ってくると、半ばヒステリックになるくらい腹が立つ。
それでも若い頃、友達同士で旅行に行った日には、よくもまあ、だらだらこんなに話が続くものだと思いながら睡眠不足にのたうちまわり、どちらかが眠るまでしゃべりっぱなしなんてことはざらだった。結婚してからもどういうわけか、姑の愚痴になると延々と話が続いてしまう。あーでもないこーでもない、と。話す手段が電話になったからといって、それがなんだと言うのだろう。
つまり・・・・・・自分が話すことにより、カタルシス。精神の浄化。話してすっきり、泣いてすっきり、怒ってすっきり。とにかくすっきりするために話す。どうして話すとすっきりするのか分からないけど、心の中にもやもやしたものを抱えているより、それをアウトプットすればすっきりするのは心の排泄みたいなもので、いわば生理現象でさえある。 もやもやをストックしておけるほどキャパがない、心や腹に。
それを男に求めても無駄だと知ったのは、いつからだろう・・・なんか違うらしい。
一番腹が立つのは、長話に付き合ってくれないということより、話の途中で解決策などを持ち出されること。心の中で叫ぶ。「そーじゃないのよ、そんなことを言われたいわけじゃない、ただ話したいだけ、分かってほしいだけ、このー、あんぽんたん、なんてデリカシーのない人なのかしら」って。
どっちが身勝手かは分からないけど、どうも違う種類の人間だということを痛感する。
■膀胱炎型の電話魔
わたしはこれにはあてはまらないけど(たぶん)、これで嫌がらせをしたことはあります、10代の頃。すんごく腹が立って、ずっと電話し続ける。向こうが怒って受話器をあげっぱなしにしても懲りない。116(だっけ?忘れた)へ電話して、「ずっとお話中のサインが出るんです。調べていただけませんか?」とコールする。すると、「受話器が外れているみたいですね、少し待ってください」と言われる。つまり、電話局から発信音を出してもらう。数回これを繰り返し、電話局のお兄さんに嫌そうな声を出されたのでやめた。
一つには嫉妬ね。否定されても疑惑が湧き出てきてしまえば、電話を切っても不安になる。このため、電話をしてたまたま通じなかったりすると、「どこに掛けていたのよ?」という具合に詰め寄る。特にそれが長電話だった場合などはことさら怒る。「まあ!わたしと話すのは面倒そうにしているのに、どうしてほかの人とは長電話するの?」みたいに。すると大抵は遠方からめずらしく友達が来ることになったからとか、親からとか、もっともらしい理由がある。たしかにそうやって言われてしまえば、その気持ちも分からなくはない。
が、しかし・・・・
いつでもいいという具合に後回しにされるのが許せない。
******
というわけで、長電話というのは女の習性のような気がするけど、頻繁に電話しないと気がすまないというのは、「精神的に未熟で、独占欲のかたまり、相手を支配しようとしている」という説は本当のような気がします。
が、しかし・・・・あえて言わせてもらうと、最初は誰でもそういうもののような気がするけど。そういう時に相手が幼稚だと喧嘩になるだけのことで、相手が精神的にマチュアな人の場合には自然と直るだろうし、それがいつまでも続くのなら、恋愛観や男性観そのものが狂っているのだとも思う。
まあ、一生やってろ、というカップルもいますけど・・・
相性ってあるからね。
名つく前に花は咲きたり赤い実を誰が呼ぶものぞりんご売るらん
車寄せ土手乗り越えて山の崖少しおりればふきの傘並ぶ
みめぐみの海泳ぐ魚ふくろいれまま泳ぐ魚子ら眺めをる
道はできフォルム麗し美しく水辺の街のたたずむばかり
変わりゆくフォルムをるか街の灯の共に住まへる人ら歩みつ
ベクトルを少し斜めに傾けて異国の灯かり乱反射する
今日もまた地震おとづる海溝をまたぎ敷島どつぷり浸かる
驚きぬ揺れることさえ不可思議に驚く人らに驚きぬ星
流れ星今日も死んだかあの星は何願うてはあははとわらう
この星も流れてゆくか宇宙へとわれら息づくいづこの星へ
ひねもすを揺られて大地たたずめばそういうものだ、われらが星は
集まりて生きるしかなくつくられてなお喧嘩する素直な蟻は
あの蟻は英雄なのか一匹でコップのジュース目指しているが
寡黙にぞ照り輝けばぎこぎこと軋む物音春風は吹く
春風は吹くと思わば黙りこみ地に臥す草もすっくといでし
ラテン語をおおげさなまで区切り謂いつけたしのごと音は流れり
風のごとく吹かば寡黙な風の音流るるやうな星消ゆる日々
太陽は今日も輝ききらきらと葉の揺れている春の一日(ひとひ)に
かなしけれ言の葉のなき悲しみは寡黙な渦に身をほころばせ
野の花の黄色に目覚め雪景色忘れちまつた子らの足音
光あれきらきらとした光あれ記憶の砂の落つる野原は
ひとひらの桜の花の散りゆかばともに臥す日も花の散るらん
青い空広がる日々は砂の音かすかに落ちる日々すごしゆく
われ生るか変はらぬ海に浮ぶ雲うつろはばまたいつもありなん
A to Z いつもありなん彼方にぞすっくといでし白雲のごと
在る夢のまぼろしと呼ぶ大地にも花咲く丘は共にあるらん
われ失くも在る夢のごと大地には綻ぶ音の響き渡らん
A to Z 水の中にもA to Z われ知らずとも君は生るらん
言の葉のむなしきを知る夕べかな調べの音に消ゆる想ひす
泡立てば耳を奏でる騒音も電子の文字に見え隠れする
ふっつりと A to Z のみちのりを初めにみゆることのはゆれる
ことのはの消えてしまうか丘のうえ生れこしイエス死の消えゆかば
永遠にくりかえさるるZまではふふむ息さえもらすため息
静かなるいのちのみちにほのかをる風の運びぬ季節はめぐる
炎(ほむら)いづ日の出のこみち永遠はくりかえさるる星めぐるみち
破滅へと向かいいづるか人のみち咲ける花さえ微笑んでいる
微笑んで死ねというのか十字架はやすけき愛の鐘の鳴る丘
生れこしも永遠のいのちのめぐりゆく露光たる今にありしも
雲雀わらうこみちのように微笑んであなたのもとにいづる天国
遠い日の記憶のやうな輝きは微笑むちごのミルクの匂い
めぐりゆくページのやうなうすぺらなひねもすの花A to Z へ
不思議なことに
わたしたちは生きています。
愛の息しづかに消えゆ丘のうえ夢みるやうに連なる尾根に
青い屋根小さな光見渡せば裾野いっぱいオリーブ畑
風に吹かれ石垣のうえ座りこむ見渡すばかり青い空かな
大空を旋回するか鳩の群れ飛び込む孔はいく世紀積む
風に吹かれ風に融けゆき風のなか飛びまわる鳩ひらひらと羽
ふうわりと羽を飛ばすか石垣にいったりきたり風の吹く道
空高く羽を飛ばして舞い上がる落ちては羽はふうわりと道
吹きあぐる風の音さえ灼熱はふうわりとした日影に消ゆる
喉の渇く道すがら石厚くあり冷んやりとした木陰のベンチ
バスの中青い椅子から降りたてば明るい石の積まれた世紀
乗り越えて歩いてみたい線路際プラットホームはまばゆいばかり
春雷のまばゆきひざし轟きぬ雲間切れゆく天使の梯子
すみわたるまばゆき光夕まぐれわれは昇りき天使の梯子
あの梯子昇ってゆかば透きとおる淡き青空陽はまぶしくも
落雷はぱらりぱらぱら脅かして小学生の走り出す笑み
斜め傘あたま隠して走り出す落雷の音つぎつぎ落つる
オレンジの透きとおる陽の直光の突き刺すやうに窓辺暮れゆく
あらくさの泡立つやうに輝けばふわふわと原踏みつ歩きぬ
朝露に軍手とおりぬぐしょぬれの痛みのやうな冷たい手先
少しだけ硬直したか指先はキー打ちもろき暗き画面に
バケツなか放り込んではあらくさの重なり具合春の重みか
気まぐれな落雷の音遠のけばしづかな落ち日葉隠れの森
カトリックもどうなってしまうのでしょうか。わたしには詳しいことは分からないけれども、コンクラーベは保守と革新の一騎打ちみたいな形で、保守が勝ったとしか思えない。一つ分かっているのは、ヨハネ・パウロ2世よりも遥かに保守的な教皇が誕生したということ。欧州へのトルコの加盟を許さないとか、アメリカの政治にも干渉する教皇というのはすごい。
わたしはね・・・教皇というのは、教えを説くのがお仕事だから、革新的であるよりも保守的であるほうが、こんな時代だからこそ望ましいような気がしている。ほかのキリスト教ですら否定するという姿勢はさらにすごすぎる。
でも、勝手に聖書に書かれてあることを改ざんされるよりも、正統派なら正統派として正統派の神学者が教皇になるのは良いことなのかもしれない。
女性に対しても厳しい。まあ、聖書に書かれていると言われてしまえばその通りなのかもしれないし、軽やかに微笑んでいるだけのほうが世の中は通りやすく、知らん顔しているのが一番だと思うことが多々あり、要するに、説教してほしいわけ、教皇には。
例えば、イラク戦争の時だってそうだった。アメリカ世論ですら、ブッシュは神学を学ぶべきだと言う。ビシッとね、大統領に言えるのは教皇くらいだもの、がんがん言ってほしい。従軍牧師の姿を見たら、わたしなんかは背筋がゾッとするので、一緒にされたらいやだった。カトリックの国は反戦の姿勢を貫いているというのに・・・
同じキリスト教でもそれだけ違うのだもの・・・せめて、カトリックだけでも正統な道を歩んでほしいという期待はあり、それがブーイングの対象だとしても、そういうものなんだから諦めるしかない。それでも懲りずに説教するのが教皇であり、今の時代は教師ですらどこかそういう権威も権限もないことを考えると、ますます保守へ走るのも無理はない。
それでいて、考えてしまう。こんなにも保守的でよいものかどうか・・・
結局は、保守と革新の対立は続いていくのかもしれないし、それもまた時代なのかもしれない。
カトリックもいくつも宗派があるし、わたしは敷島の人だから、何となくピンと来ない。何かあれば聖書を開く。神さまとだけお話する。いろいろな人たちがいろいろ言うのは当たり前のことだし、意見が対立し、喧嘩しないことだけが平和というわけでもないらしいし、結局、調和のある社会というのが望ましい。一方がバリバリの保守ならば、革新派はさらに革新の方向を極めていくのかもしれないし、分離しそうでしないところがカトリックなのかもしれないし、本当に分離するなんてことがあるとは思えない。
そういう時代なのかもしれない・・・今は、21世紀。そして、新しい千年紀の始まりでもある。もう始まってしまったのだから引き返せない。
結局、レールのある人生しか知らない人たちに、わたしの父のことを説明するのはいつも困難である。気がついた人もいるかもしれないけど、わたしの実家はゴルフ場を経営していた。ちょうどゴルフの大衆化の時代に便乗し、潰れかけたゴルフ場の経営権を買い取り、商売を始めた。たまたまそれが成功したために、全国に父がプロデュースしたゴルフ場やスキー場は多い。天職ってあるんだろう・・・北海道の片田舎出身の父にとって、山は熟知した世界でもあり、子どもの頃からの遊び場であり、雪が降ればクローズしてしまうゴルフ場が多い中、雪を熟知している父は朝からスコップを持って自ら穴を掘り、根雪を溶かす。このため、ますます繁盛した。
母は根っからの都会育ちのため、山には住めない。田舎で土地の人たちを相手に地方名士の奥さんをしていられるタイプではない。考えただけで憂鬱になるらしい。このため下界に降りて仕事をしていた。
今日は朝から庭の雑草と格闘し、そういえば札幌の家の庭も相当荒れていたことを思い出した。母に庭仕事なんてできるわけがない。母が札幌を逃げ出したのは、雪が原因である。毎朝の雪かきという重労働に耐えられなかったのが原因かもしれない。それと根っからの江戸っ子のために、東京から離れるのがいやだったのかも。
父にも普通に生きていた時代もあり、兄弟の中で1人だけ大学を出ていない父は、最初は田舎の役場に勤めていたそう。すぐ下の叔父さんは子どもの頃から秀才で北大を特待生で卒業し、あそこの3姉妹は上2人が東大卒、3人まとめて東大の大学院まで出ている。このため父の代の学歴コンプレックスはわたしの代にも続いている。今でも、敗戦後すぐの昭和天皇の全国行脚の時に拝謁した子どもということで、叔父のほうが地元では有名人。父は学校をさぼって山で昼寝していた。
大体、父のようなわがままなやつが田舎の役場に勤めていられるわけがない。結局、上司と喧嘩して飛び出し、札幌へ。その次には敗戦後ということもあって、祖父も亡くなっていたし、東京の祖母の実家を頼って上京し商売を始めた。父の話を書くだけで、小説を書けそうな気がするくらい波乱万丈で面白い。でも、時代も大変な時代だったし、何度か商売にも失敗し、とにかくオール・オア・ナッシングみたいな性格だから、サラリーマンなんてとてもやれる器ではないし、ひたすら商売あるのみ。金こそすべて。どちらかといえば体育会系のタフさがあったから、続けていられたのかも。
そんな風に考えると、母は母で平凡なサラリーマンの奥さんができるタイプではなかったし、男勝り。姉妹ばかりで、兄弟がいなかったせいで、男の子のように育てられた。
わたしの親は変な人たちだったけど、案外、普通の家庭に育っている。父なんてまるきり保守的で、かなりまともなのである、言うことは。どこで人生が狂ってしまったのだろう・・・やっぱ、大学を出ていなかったせいなのかもしれない。いや、金がないとか元々興味がないというのなら別なんでしょうけど、そういう家庭ではなく、わりに教育熱心な家庭だったらしい。朝からお経聞いてるとかね・・・(あーなんなんだ) だから、わたしは叔父さんたちの説教が大嫌い。つまらん。それが勉強もしないで学校さぼってばかりの父はおばあちゃん子で甘やかされたせいで、学歴がない。そういう劣等感があったから、一発逆転的人生を歩むことになっただけ。
調和のとれた人生に憧れる。
・・・・・・・というわけで、わたしはそれなりに学歴はあるのに、ちゃらんぽらんに生きている。普通の主婦といえば聞こえはいい。
自分で商売するだけなら、学歴も資格も要らない。なまじかそういうものがあるから何もできないのかもしれないと、たまに思う。それでいてわたしは働いたことがない。がんじがらめの保守でもないし、それでいて改革派でもないらしいし、宙に浮いたまま加齢している。
やっぱ、研究室で切り貼りしていたり、家でおとなしくうたを詠んでいるくらいしか生きる道はないのかもしれない。もうババアだからなんでもいいけど。
ごみ出しに
三羽カラスと
目があった
私はそれを
我慢できない
ごみ出しの時間になると、三羽のカラスが電柱にとまっているんです。
待つなよ・・
* ケータイ短歌への投稿。
付け句募集ということで、上の句がわたし、下の句はお題。
今度からお題が変わると募集のお知らせが届くようになったのでしょうか・・・
時深ししづまりかへる時計にぞ振り子は揺れるあわぬ刻み針
一声を「あいつら」といふ反日もかみあわぬまま背に暮るる山
白黒を決着つけしサッカーも黄金のとさか走りをる芝
おまぬけはふるき時代のたまものと窓に立ちたるをとめのにあふ
雨のまどからすの糞のとけゆかば走るみちにはとけゆく光
大胆にくるまのうえを飛ぶからす朝の電柱とまりぎにして
まっぴらだすったもんだのかけごえに遠吠えするも犬のごときか
イデオロギー高尚すぎて鐘の音つきて燃え出す紙幣のやうに
ごみのやまほしいというか物好きなイデオロギーのかけごえを聞く
列強になつちまつたか敷島は日本の旗のまんまるおめめ
馬鹿にしてバカになつてもバカバカし怒るからすはかあかあと鳴く
退廃はものゆくだるく永劫の背老いた人のあゆむ山坂
信号に時間の無駄を感づれば吾子も立派なしきしまの人
せつかちにせつつかれては夜の道をそろそろ走る信号をみし
わたしの父は活字に人生を求めるタイプではなかったので、朝起きると軽く何かを食べ(柑橘類が好きだった)、ハーフを回り、お風呂に入り、それから仕事。そうしないと低血圧だから体調が悪いらしく、それが日課だった。
たまの休日、めずらしく家にいる日に父が観るテレビといえば、ゴルフ、競馬、天気予報、野球、相撲、格闘技、スポーツニュース。たまに、バラエティ。趣味は麻雀。億単位の仕事を爺さんたちが賭ける。それが社交であり娯楽だった。競馬が好きで、当然馬主。
それでいてふさぎこんでいる時もあり、そういう時には発作で旅に出る。わたしの学校にまで迎えに来る。いつも突然。
父は1ヶ月のうち数日くらいしか家にいなかった。いつも仕事で飛び回っていて、母も仕事をしているし、その分父が家にいる日には、絶対的な権限で呼び戻された。家族で過ごす時間というのは貴重であり、その時には学校も仕事も関係なく、どうしてあんなにわがままなのか不思議だったけど、旅行で飛行機に乗る日は必ず4人で乗ることになっていた。そうしないと飛行機というのは墜落するものであるという恐怖が父にあるために、いたたまれなくなってしまうらしい。
こよなく自由を愛し、こよなく家族を愛し、それでいていつもたくさんの人たちに囲まれているのが好きで、家族からすれば厄介な父だった。晩年は癌ということもあり、病院にいることが多かったけど、すぐに脱走する。着替えてタクシーに乗り、近くのギャンブル場へ行く。病人に思われるのがいやなので、病院の裏手でいつも歩く練習をし、それが終わると点滴の管をつけたまま院内を歩き回る。実際、着替えてしまうと病人には見えず、病室から職場に電話をする。医者の言うことなんて聞かない。看護婦がブスだと気に入らない。病人なのにポマードを使っているので、薬物が検出されてしまうらしい。
あんなにわがままな男をわたしはほかに知らない。
それでいて考え事をしている時に話しかけても反応しない。何やらこむずかしいことを考えていることは分かったけれども、そういう時の父には話しかけないことである。子どもが好きで、小動物が好きで、娘は着飾っているのが好きで、美しいものが好きで、美味しいものが好きで、オシャレな人だった。例えば、ネクタイよりスカーフを好むような・・・それが嫌味でないところが父のセンスのよさだった。
・・・・・・・・・・・・・・なかなか父のような男はいないのよね。ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの。ためいき。
⇒トラステへのトラバ: おすすめ読書術
いわば読書というのはわたしにとっては単に生活だったから持ち歩いてまで読んでいたわけで、その習慣は変わらず、今でも足下に100冊くらいの本をダンボールの中に種分けし朝からフットワーク軽く日課をこなしている。
今は、そのダンボールの中の本の多くが歌集や詩集、辞典の類に変わっただけで、そのほかにも語学関係やガーデニング、聖書が4冊積まれている。これだけの本を昔は何がどこにあるかインデックス化され記憶されていたのに、近頃ではすっかり怠惰になり何がどこにあるのか現物を見ないと分からなくなっている。
■これだけの量をつないでいるのは、目的意識
目的意識なしの読書は不毛な活字で目を潰すようなものである。一つの読書により得た知識が干渉刺激となり、次の読書を妨げる。時間と精神に余裕のある人なら別かもしれないけど。
■本は目次から読む
その昔、わたしが家庭教師から学んだ読書術というのは、「本は目次から読め」というものだった。よく考えたら、必要なことは必要な手続きにより順番に並んでおり、目次に目を通せば大体何が書かれているか分かるようになる。重複した内容が多いせいかもしれない。
■必要とはどういうことかというと、熱意である
例えば、旅行へ行く前の1週間で簡単な挨拶と5W1H系の質問と、数字を覚える。それによりコミュニケーションが随分変わる。そうなると一夜漬けをするように語学にのめる。
■集中して読む
ランダムに読んでいるようで、似たような分類に位置する本を手当たり次第読んでいく。それにより脳の働くスピードをアップすることができるようで、例えば、歌集なら歌集、詩集なら詩集という具合に読みこんでいく。一つに限定するよりも数冊を常に読み比べるくらいがちょうどいい。そうしないと逆に持続力が低下するような気がする。
小説などの場合は、同じ作家の作品を飽きるまで読む。
■携帯する
どこへ行くにも一冊以上は持ち歩く。
■興味のないものは後回しにする
必要性を感じても興味の持てないものは放置しておく。これにより多くの未読本が常に発生することになるので絶対におすすめしたくないけれども、興味のないことにエネルギーを費やすには人生は短すぎる。このため、インデックスを押さえておくということが一層重要になる。
■本屋で本のタイトルをチェックする
それはいわば黙読のようなもので、常にタイトルを記憶しておけば役に立つこともある。特に知らないキーワードが集中して並んでいるときには、買わないまでもパラパラめくっておく。とりあえず、どんな内容が書かれているのかくらいはその場で理解しておきたい。もしかすると必要になるかもしれないから。
■その本との関わりを明確にする
つまり、短く書いてもダラダラ書いても言いたいことは一つだったりする。このため、何が言いたいかをチェックしながら読む。それによりかなり難解な単語の並んだ本でも楽に読めるようになる。
■美しい言葉を拾う
知識を拾いたいのなら、出て来る用語を覚える。が、しかし、それ以外のストーリー系の書籍については知識よりも言葉を拾う。不意に脳裡に浮ぶようなインパクトのある言葉。それが脳を広げてくれることもある。
* 昨日、このお題でトラバっていたのに気がつかなかった。そういえば、書こうと思って不意に思いついて記事の内容を変更したような・・・・もう忘れている。近頃ボケが激しい。
たおら今重なるやうな機織はユーカリ模様見知らぬ故郷
鶴の声ロートレアモン不可思議なくらがりのパリ地球はまるい
渡り鳥国をこえゆく一声に砂利道走る突発の夢
どこまでも空広くあれ釧路にぞ一本道のゆるりとつづく
おおぞらがまるいと知るかみちつづく長き平野の草原の馬
スタリオンいきづく馬のすくなさも長生きを知るキングの輸入
大相撲のこったのこった草原に馬立ちあぐり組み手かわせり
草原を駆け出す馬に手綱なし走れ走れと走れ生れ馬
われのこと覚えているか母馬になつてしまつて微笑む宝珠
たおやかにゆきすぎる風ながき道汝追うわれも一児の母に
サウダーヂゆきすぎてみるまるい空吹きすさぶ風息の濃い草
ぐんぐんと空に向かってゆくやうな風のこみちは土間のある家
雪景色忘れちまつた草原の冷たい息は夏のおとづれ
さわさわと騒ぎまくるかポプラの木並んで夏は葉隠れの夢
そういえば、近頃、ブロードバンドの普及で、”課金地獄”という言葉を聞かなくなった。それこそわたしがネットを始めたばかりの頃----2000年問題が解決して2日目----には、ユーザ同士、挨拶代わりに課金地獄のことが話題になることも多かった。わたしの場合、プロバイダは1ヶ月無料だったので課金自体はタダだったけど、電話代がそれなりに請求が来たため、泣いた。
それでもわたしの場合は大したことがなく、翌月からはテレ放題に切り替えたので、地獄とまでは語れない。でもわたしより以前からやっていた人たちは、それこそ毎月の請求が10万円以上というのもざらだったし、どうしてそこまでしてネットにのめりこむのか不思議だったにもかかわらず、ヘビーユーザの数はうなぎのぼり。
パソコンだって昔は役立たずの箱のくせにやたらと金食い虫。高い。ソフトも要る。どーにもならん。それでも必要と言う言葉が脳裡にあって、わたしはPC98シリーズからのユーザでもある。今でも飾ってある。途中、マックは消えた。ノートだけでも4台ある。ネットをやり始めてまだ5年少々の間にわたしは初代から数えて6代目のパソコンを使っている。(その理由は省略。旧い機種をサーバに使うという案はどうなったのだろう・・・>わたし)
それでも、ネット自体は浅いので、パソコン通信の時代からネットをしている人たちの、「長文失礼します」という言葉はわたしには無縁である。(たまに書くけど・・)
時候の挨拶の代わりに、「長文失礼します」とか、「長くなってすみませんでした」とか、「読んでくださってありがとうございます」とか、そういう一言が添えてある人たちはネットが長い。理由は簡単。まじに高かったから。つまらない駄文に高額な出費を余儀なくされるのがネットであり、アップする側もおバカだけど、それを読むほうもおバカかもしれない。
従って、「サイバーの無駄遣い」という言葉も覚えることになった。
だってね、課金に10万円以上支払うことを考えたら書籍のほうがずっと安価。それでも、質問すれば答えてくれる人がいるのがネットであり、そういう親切心に対し、礼を言うのは当たり前だろう。
あっさり言うけど、わたしには今でも駄文コンプレックスというのがあり、なんでこんなつまらないことを書いて、それを読みにきてくださる人たちがいるのか、今でもたまに不思議になることがある。
でも、それがネットなんだなーっと気がつくにつれ、あまり気にならなくなってきた。考えてみたら、10万円分の書籍を買えば、それを1ヶ月以内に読み終わるかどうか自信がない、時間もない。それくらいずっしり内容があることが多い。なのに、初期の頃のユーザは何が楽しくてネットをしていたのか、わたしには分からない。
だってね、よく考えてみたら、一緒に食事に行ったりお話したり、リアリズムに存在する友達のほうがずっと楽しいかもしれないよ? なのにどんどん増える友達リスト。そのうちそれがほとんど電子文字の羅列にすぎないことも理解したけど、それにしても不思議な世界が電子の世界。人によっては幽霊と言う人もいれば、それが新しい時代のコミュニケーションだと言う人もいるし、それに慣れたらそれが当たり前になるから不思議。(今はその手の代物は使っていませんが・・)
一つ分かっているのは、最初はすごく抵抗のあったこの世界にも次第に目が慣れるに従い、「長文失礼します」の礼儀正しさよりも、「なんでこんなに重いのよ〜」って書くほうが多くなってしまったということ。前者は読んでくださっている人に対する礼儀であり、後者はサーバへの不満である。
こうやってわたしは少しずつ機械と人間とがごっちゃになってゆく・・・
ぐた家を例の如く徘徊していると、今日のテーマは”本漁り”じゃござんせんか!
わたしはおんな漁りはしたことないけど、本を漁り、それでいてこのところ失望続きに悩んでいる現状を考えると、誰かわたしに「この一冊」をズバッとお勧めしてくれないかと思ってしまう。
でも、大抵の場合、ぐたさん!
あなたの勧める本よりあなたのぼやきを読んでいるほうがわたしには面白い。
結局、本との出会いは人との出会いのようなもので、既知の世界から未知の世界への脱却への道であり、若い頃には好きな作家の小説はほとんど読み漁っていたものだし、ネットを始めて長続きしている友達はわたしの知らない世界をたくさん知っている友達のような気がするし、それでいて結局わたしは大抵の書物を眺めるよりも、「コヘレトの言葉」を読んでいるほうが楽しいことに気がついてしまった。
ほんと、それだけ・・・すべてが聖書にあることに気がついたのは、わたしがババアになったからでもあるし、それを超える書物が何もないことが不思議であり、「古今東西人間なんていつの時代も変わらない」というのがわたしの文学的ぼやきでもあるし、それに対する答えを見つけるために、人はたくさんの言の葉を必要とし、それでいて旅人がいつかは故郷へ戻るようにサウダーヂは聖書。
中谷さんは読んだことはないけど、結局、バタイユを連想してしまうし、バタイユといえばマグダラのマリア、マグダラのマリアと言えば、結局、古今東西ってことになってしまう。聖書には人間の悪がたくさん書かれており、そういう意味で完璧な人間はありえない。逆に語れば、聖書があるから人間は悪を知るのであり、善がなければ悪もなく、知らなければ通過していってしまうだけの出来事に翻弄されながら、似たような人たちが似たような人生を送るのが歴史。
神さまとお話しているほうが、人間とお話しているよりずっと面白い。だって全知全能だもの。
姑さんが近頃小説を読んでもつまらないと言う。そりゃそうだろう・・・彼女の年になれば、小説よりも実話のほうが遥かに面白い話が落ちている。長生きするってそういうことかも。姑さんの噂話は好きではないけど、それでいていまだに「へぇー」ってなる話も多いのも事実。それでいてやり直しがきかないのが人生なので、違う人生を楽しみたいのなら、読書でもするしかない。それでいて読みたい本もないらしい。
詩編 35. 28 「わたしの舌があなたの正しさを歌い、絶えることなくあなたを賛美しますように。」
心が衰弱すると、神の賛美がいかにたくさんのエネルギーが必要かを知るようになる。子どものような人でないと天国へ入れないという意味が何となく分かるようにもなり、わたしは弱いので、強い人たちとの出会いを求めている。癒しがほしいのはわたしのほうであり、そうなると巡礼へ行くしかない。そうなると、いたずらに人との出会いを求めるよりも、良書との出会いのほうがマシになる。それでいて、良書との出会いは人間以上に難しい気がする今日この頃・・・
やっぱ、聖書でも読むしかないでしょう。あと、古典。
⇒トラステへのトラバ: 中国問題
正直に言って、中国の反日感情というものは今に始まったことでもないのに、どうして今の時期にデモが発生したのか、わたしにはそちらのほうが不思議だった。一つには日本の常任理事国入りが気に入らないということもあるんでしょうけど、インターネットでの呼びかけに応じて人々が集まったというのだから、ますます驚いた。
そうやって考えてみると、決して悪い風潮でもないような気がする。大いに活発に議論してほしいし、中国が主張するように、日清戦争以来中国に戦争を仕掛けてきたのは日本なんでしょうし、その事実を日本政府が国民に隠しているということはないと思う。大陸への進出だろうと侵略だろうと、大いにわが国の列強入りまでの苦労の歴史を教科書にも書くべきである。そして、それに対して、日本政府は常に謝罪を声明してきたことも中国人は知るべきである。
靖国参拝に関してはどうなんでしょうね・・・首相が参拝するのが気に入らないのか、戦犯を祭っているのが気に入らないのか、わたしは実はあまり興味がないので、宗教は自由だし、個人の自由ではないかと思っている。国民の義務と言われたら、わたしにはいささか釈然としない気持ちはあるものの、国のために命を落とした人たちのことを考えれば、政治家だからこそ参拝するのが当たり前のような気がするけど。
歌人をしていると、それだけで右翼と思われるらしい。でも、わたしは一般的な日本人であり、右翼でも左翼でもなく、実際問題そういうことにもいささかうんざりしながら歌人をしている。
よく考えてみたら、中国のほうから日本を攻めてきたのは、元の時代?
となると、今の時点で日本と中国がすぐさま戦争を始めるということでもなさそうだし、中国のデモ隊が海を越えて日本にやってきているわけでもないし、あくまでも中国の国内の問題のような気がするんだけど、どうなんでしょう・・・
民間はね・・・やばいなら引き揚げてくるべきだと思うし、そこまで酷くないのならしばらく我慢して模様眺めをするしかないのかもしれないし、外務省はお仕事ですからがんばってもらわないと。冷たいようだけど、おおげさな記事に便乗するように憲法改正とかね・・・やたらとナショナリズムを刺激するような姿勢は改めたい。
もう時代が違うような気がする。
結局、政府は政府だし、わたしはわたし。聖書を読んで昼寝しているほうがマシだ。
大粒の雨に濡れては水滴のフロントガラスなお汚れいづ
空からか鳥の糞さえみっつ降るいまいましきはパラパラの雨
本降りになってしまえば明日の朝なまけて春は目を覚ますかな
ドライヤー吹きつけてゆく窓ガラスもはや曇りも雨も闇空
曇天を肩に背負っているやうな肩こりのする目の霞む春
こうやつて時間ばかりがセイフティ反日モードは日清の麺
今さらに比べてみても大地さえ広がるならば敷島の海
ヴァチカンのビデオ眺める昼下がりアメリカ訛りの神父さまかな
選挙にも似た声のするジーザスを褒め称えては耳ふさがりぬ
すなおって静かにすごす昼下がりおもてに出たい犬の爪音
パラパラと石をめがけて大粒の雨をかぶりぬ色褪めた芝
はらはらと降るなら降るで家のなかしづもりをれば鳥の糞落つ
反日を怒ってみても子に伝ふ水面の泡は一滴の雨
やらなければならないこともそれなりにあるし、やりたいこともそれなりにあるし、何をやるにも時間が足りないという気がするのに、ヒマだ。要するに、怠惰な気分に浸っているからヒマがあるような気がするだけだし、気力に満ちあふれれば時間は足りない。
タスクというわけではないけれども、次から次へとやろうと思えばステップは続く。中学の頃、そういう怠惰なことを言い出したら、いきなりシュトルムの詩集を渡された。わたしはリルケのほうがよかったのに、なんでだろう・・・リルケは友達のほうに行き、わたしにはシュトルムだ。それ以来、わたしはシュトルムが嫌いになった。
シュトルムが嫌いになったのではなく、シュトルムを渡されたことが気に入らなかっただけ。だから、結局、読まないうちに紛失してしまった。
はたまたこういう怠惰な気分の時に、めがねをきらりん☆とさせて、いきなり彼女は黒板にラッセルの『西洋哲学史』を書き出した。「ふふん、これくらい高校生なら読んでいて当然よ」と言わんばかりの小憎たらしさにあのえこひいきの権化を考えると、わたしは読みたくもないのについ全4巻のラッセル卿の書籍を本屋で取り寄せた。読んだら結構面白かった。
大学へ行き、文学部だし、文学少女なら文学を専攻すればいいのに、わたしが一番面白かった教養課程の授業は人間生物学。生理心理学とかね・・・屈折したまま精神物理学。嫌いな統計。嫌いなパソコン。あれにこれに嫌いだ、苦手だと喚きながら次第にのめりこんでいった。
結婚したくない、子どもは要らない、医者は嫌い、あれにこれにと嫌いなもののオンパレードの中、嫌いな方向へ人生は進んで行った。
考えてみたら筑波もそうかもしれない。大学受験の頃、ドライブがてらつくばに来た時、こんな田舎で大学生活を過ごしたくないというだけの理由で、その後大学院の受験すらやめることにしたにもかかわらず、気がつけば住み着いている。
ちょっとした気まぐれなのよね・・・いつも。
短歌も単なるイメージの問題なのかもしれないけど、まるきり嫌いだった。いやだいやだと思っていると、どうも磁石のように反対の極へ惹きつけられるかのよう。これではいけない。でも、好きなことだけやっていると飽きてくるし、ネガティブな刺激はそれなりに活力にもなる。
バランス感覚なのかもしれない。
偏食というわけではないけれども、好きなものしか入れないおでんがまずいように、それなりに嫌いなものを入れるから味が出る。それでいて、姑さんはいつもわたしに言う、「好きなことをやれていいね」と。嫌味でもあるし、本音でもあるし、羨ましいのかもしれないし、憎たらしいのかもしれない。
ネットも好きで始めたわけでもなく、CGIなんて半ば強引に覚えさせられた。教え方が上手だったのかもしれないけど、あっという間に覚えてしまった。ただし、初歩的知識だけ。自分でプログラムは書けない。うっかり怠惰な気分でいると、次から次へとタスクを積みたがる人たちが多いので気をつけねば。
旧約聖書の続きもまだ読んでいないし、読もうと思っている歌集も多いし、それでいて怠惰に支配され、またCSSをいじって遊んでいる。最初は分らなくても、てきとーにいじっているうちに、何となく分るようになる。極めて少ない言語。ただし、それがどのように表示されるのかは慣れとしか思えない。線の太さや色は特にそう。
とりあえず、今やりたいことをやろう。覚えたいことはガーデニングだけど、近頃、雑草を抜くのも下手だということを自覚し、もっと手際よくやってみたいのにどうもうまく行かない。道具の使い方が下手なのかも。なんでも経験だよなぁ・・・庭のことはまるで分からない。失敗続き。育ちすぎた木や草花を去年はまとめて処分しなければならなくなったのはわたしの無知が原因。あんなに育つとは思わなかった。
人生は知らないことだらけ。分からないことだらけ。それでいて怠惰に負けそう。創作はつらい。活字は重い。ブログも重い。(のは、サーバのせいだ)
今日も一日が終わるのが早そう。定年退職者の気持ちが少し分かる怠惰な朝。それでいて、まだやらなければならないことは多いらしい。よかった。
皆さんが(って誰に言っているのだろう・・)、どのように思われているかわたしには分りませんが、短歌の基本は写実だと言われています。そして、”私”の世界。我の世界と言うべきか、このことがほとほと嫌になるほどのしかかってくるとは思いませんでした。
あの?枡野浩一さんですら、厳しく書いています。「顔に似合わない歌を詠むな」って。つまり、歌にしたほうがかっこいいってことなのかもしれないし、自分の顔、つまり自分の生き様と相談してから歌を詠め、ってことで、そこが小説などとは違う点です。
昨日から中城ふみ子さんを読み始め、わたしの読み方は気まぐれなので、その時折々の気分でページを送っています。
どこが違うかと言うとね、作家は自分が不倫もしていないのに不倫の話を書くこともできるでしょう。ですが、そんなアホなことをするやつは少なくても歌人じゃない。(と、わたしは思います)
俳句が出る前は違ったのかな・・・やけに写実にこだわる姿勢というのは禅の影響なのかもしれないし、そこのところ国文学に明るくないわたしには詳しいことは分りません。小説にはプロットがあり、登場人物がいます。そして、それがそれぞれに3Dとして存在している。つまりはフィクション。作家がそれぞれの人物の気持ちになり勝手に書いたり行動させたりしているのかもしれません。
が、しかし・・・・
短歌は違います。あくまでも私の世界であり、私の世界を写実に詠む。これが近代における短歌の基本です。
「源氏物語」は小説なので、作中の人物が詠んだことになっている歌も紫式部の創作です。そういう点において、和歌もフィクションであり、そういう歌のあり様ももしかするとありいなのかもしれませんが、現実問題として、わたしが自分を歌人であると称している以上、フィクションを短歌と称してよいか責任は持てません。
わたしの今日や昨日の生活において、娘の給食係用のマスクを買いに行ったついでに、深夜のコンビニの立ち読み族に対してどのように感じたかを詠んでしまった、というのもそれなりに写実。今の世相。たぶん。
どうせだったら美しい世の中に住みたい。
つけたしに「文学」の文字(もんじ)眺むれば本は売るもの?あめぶろテーゼ
購買部せつつくなかれ写真集堂々として電子は踊る
書店にぞ片隅にあれエロげろは堂々として電子に変はる
レンタル屋2階は大人ステップは店員のためあるやうなもの
コンビニに立ち並びたる立ち読みのずらり並んだ深夜の真顔
やまとくに堂々として並びたるエロげろをポルノと呼ぶもおさなき真顔
飴玉を一つあたへる大人にはなれぬ稚児立つコンビニの棚
おばかさんおさるさんだね立ち読みす深夜の窓に並んだ顔は
著者: 下川 純一郎
なんだかうちのブログにはまったく合わないネタだと思いながら、不意に思いついたのでアップする。うちの娘が、「ロンドンハーツ」が好きで(あの番組がそういう名前だと知ったのは、実はこの写真集を検索したからである)、わたしが最初にあの番組を見たのは、例の如く青木さやかの沖縄編。たしか、恋人コウジのご両親に会いに行くという企画だったような・・・
東京から沖縄まで手土産持ってえっちらおっちら普通さを装い、将来は沖縄に住んで、そこから仕事に通って・・・という具合におおまじめに話している姿が笑えるというのが切ない。
次の企画が写真集??
これもねー、青木さやかがグラビア系を相手にもっと売ってやろうという意気込みが好き。決して美人じゃないし、どちらかというとモヒカンが似合うめずらしい日本女性でもあるし、日頃色気のないところが逆に”女”という気がして、結構、注目度が高い。
わたしはこの写真集を見たわけではないから、書評などとても書けないし、それでいてもしかするとテレビのほうが美しく映っていたかもしれない。それはうまく説明できないけど、撮影が進むに従い、次第に表情が柔らかくなっていくのを見ていたからかもしれないし、結局、女らしさというのはそういうちょっとしたしぐさや表情なんだと思う。
名前だけが連呼され、表にはなかなか出てこないけど、彼氏がよっぽどイイ男なんだろう。青木さやかが売れない頃から付き合っていて、彼女が売れっ子になってしまい、ホストやヒモと比較されている。そりゃないだろって思うんだけど、世間ってそういうもの。それでもそういういやらしさがない。売れない芸人の彼女を影から支えてきた男。度量なんだろうな・・・ある程度荒稼ぎしたら、あとは沖縄でのんびり生活するとかね・・・
浮き沈みの大きい芸能界で、不意に姿を消したら二人でのんびり沖縄でハッピーに暮らしているとか・・・そういう幻想がよく似合う。
このところ連日して外食をゲットしている。理由はおちびの塾の居残り。それと、ミエルがまだペットショップにいるので、会いに行くのを理由に何となく・・・
金曜日がおちびの学校の創立記念日だったせいか、3連休ボケしている可能性も高い。
ところが、昨日も今日もミエルは留守だった。予防接種のためか、具合が悪いのか、あれこれ訊こうと思ったけど、担当の人も留守だったので何となくほかの犬の顔を見ている。マリがいた頃からずっと売れ残っている柴犬がいる。そろそろ1歳になろうというのに、まだ売れない。あんなに大きくなってきていると、あの狭いケージの並んだ中にいるのはさすがにかわいそうになる。相変わらずチワワなど人気のある犬種はすぐに売れてしまうというのに・・・
木曜日、娘を学校へ迎えに行く途中、娘の友達が一人で歩いているのが見えた。その話を娘にすると、「ふ〜ん」と言っていただけ。世の中どーなっているのだろう。わたしにはよく分らなかったけど、とりあえず娘にジャージを買ってあげる約束なので、そのまま娘と近所の店へ。
本当なら、その子は3人、ないしは2人で歩いている予定なのだけれど、1人で歩いていた。いきなり人間関係がややこしくなってしまったので、逃げているのかもしれない。休日、連日してその子のところへおちびが遊びに行っている。
グループのほかの子たちはどうしたのだろう・・・そのうち1人は年中親が迎えに来ているために、めんどーになり親に頼んでいるのかもしれない。一人っ子の特徴。何となくトラブルはノラクラ回避しようという・・・
というわけで、わたしも娘を迎えに行っている。
つくば理系社会は、子どもの世界までそんなふう。結局、トラブルがかったるかったらそれをいかに回避し、マイペースをキープするか?ということしか考えない。塾で遅くなった娘をダンナと一緒に迎えに行き、ミエルに会いに行きがてらそのまま食事をして帰ってくる。
結局、家庭の中が平和だったら、外のことは関係ないのかもしれない。
われゐるやネオンのやうな画面にぞ見ゆる名前のうつろはば汝(なれ)
セーターを掻き瑕だらけに立ちあぐるオトの爪切る曲がりゆく時
ぽつぽつと芝うえ映えるみどりかなあらくさ萌ゆる春恥ずかしむ
鎌の苦手ほりおこす土ぬきたれば左手で草つかみをる吾
利き手すら役に立たぬか不器用なつちしごとにも慣れんとす、無駄
いづる春めでてうれしきあらくさは点点模様芝にえがきつ
掻き瑕をテラスドアにぞ立ちあぐるオトと風とがひといきに来る
永遠の父よ
ミサにおいてキリストの苦しみと受難に一つに結ばれて----
たくさんの人たちが受けた原爆の痛みと苦しみをあなたにささげ
日本やすべての世界の人たちが主にまもられ
ふたたび日本やすべての世界の人たちが
たくさんの恐れや破壊、不安を国々に与えた核の痛みと苦しみに
さらされませんように。
主よ、わたくしたちを憐れみください。
(1982.4.26 午後3時)
麗。さまが作家デビューということで、お祝いにトラバりませう。小説は読んだことはないんですけど、このところ時代は女流官能小説作家へと傾きつつあるのかも。男が書く女ではなく、女が女を書く。自分的にはそのほうがナチュラルな気がするし、斬新かもしれないな。
官能に花は散るらむさくら葉もくれなひかをる落つる秋にぞ
けものみち君の呼びたるふくろうのたたずむ夜は白白と月
太陽はまっぴらだよとけものみち夜をみまもりぬ白糸の雨
けものみち吐く息熱くしづもれる夜空に浮ぶおぼろ月数寄
紅に染まりゆく葉の萌えいづる春のはな散るみじかき縁
花影に葉の伸びゆかば透かし陽のゆびさき透ける血いろくれなふ
⇒トラステへのトラバ: 好きな本との出会い
(驚いたことに、「本・書評・文学」にもお題がある。いつからだろう・・・誰か知っていたらおしえてほしい。)
わたしは小学生の頃、絵を描くことが好きだった。でも、それは人知れず描くのが好きだったというだけで、学校の授業で、鉛筆で下書きして色をつけるというやり方に対しては一種の拒否反応があるような好きになり方だった。授業中、シタジキへのいたずら、コンテや木炭を使ったデッサン、水彩色鉛筆、重ね塗り、そういったパステルで漠とした絵を描くのが好きだった。
それがある日突然絵が嫌いになる。
絵が嫌いになったのではなく、酷く絵を描くことがいやになった。ささやかなことがきっかけ。授業でスケッチをしている時、わたしはどうしても校舎の窓が黒く見えてしまい、いざ色をつけるとどうしても黒しか描けない。不意に友達の絵を見たとき、皆が水色で塗っていたのを見て、わたしはそれ以来絵が描けなくなってしまった。
それでいて、そういう沸沸とした欺瞞はくすぶり、わたしは色彩に興味を覚え、どうしてわたしには黒にしか見えない世界を皆が水色で描くことができるのか、そのことへの沸沸とした不満がわたしをその後視知覚の研究へ向かわせることになった。
わたしの疑問は生きるに必要のない疑問のようで、学校では誰も教えてくれなかった。せいぜい外国語を少し学ぶようになり、言語の世界もまたそのように概念により定められており、同じ言葉であっても違うものをイメージしているようであり、そういう完璧な合致というものがないのはどうしてだろう、とか、誰も答えてくれそうにない質問の答えを求めるために、わたしは多くの書物をサーフィンしていただけのような気がする。
ちょうど高校生の頃だろうか・・・・教科書で中原中也の詩を読み、相変わらず退屈まみれの授業への不満からか、御茶ノ水の本屋さんをサーフィンしていた時、思潮社の現代詩読本1「中原中也」を見つけた。わたしの手元にあるのは、1980年の発行だからすでに廃刊になっている。その時には想像もしていなかったけれども、この本はわたしの宝物である。
中也の詩のみならず、中村稔、大岡信、北川透の座談会から始まり、鮎川信夫、大岡信、飯島耕一、北川透、岡井隆、谷川俊太郎、小林秀雄等の論考や追悼、萩原朔太郎、高村光太郎、中原思郎等のエッセイが集められている。より詳しい年譜。そして、どういうわけか、中也の日記の抜粋が記事の合間に含まれている。
当時は詩人という職業は無かったために、家族を抱え、中也が就職の面接へ行った時のエピソード。
確か昭和十年の頃だったと記憶します。当時兄は、東京牛込市ヶ谷谷町の中原岩三郎という親戚の家の離れに借家住いをしていました。この人は日本放送協会の創立者の一人とかで、放送局に就職するようにすすめました。中也は生まれて初めて就職のための履歴書を書きました。そして、当時の文芸部長の小野賢一郎氏に面接することになりました。初対面です。その時の模様を、後で私が小野さんから聞いたところによって一カットを録音してみましょう。
中也はいいました。
「小野さん、僕に月給取りになれなんて、随分世界は残酷です。母や女房にしても僕に死ねというんでしょうか」
そこで小野さんがいいました。
「放送局に顔を出すだけでいいんです。月給だけは上げますから、でないと、御家族の方も大変心配していらっしゃいますから」
中也が答えました。
「僕は気紛れなことは出来ない性分です。矢張り魔がさしたんです。履歴書を書くなんて、危うく地獄へ転落するところでした」
かくして就職はおジャンです。
(中原思郎『兄中原中也のおもい出----現実生活と詩生活』より)
現実の生活と、生きるに必要ない世界と。それらの間を行ったり来たりしなければならない。「そんなことでは生きていけない」というセリフを、わたしは幾度聴いて育っただろう。自分の子ども時代を振り返ると、どこかぽっかり心に空洞を抱えたままそれがわたしを支配しており、それをいかに具現化していくか、ということがわたしに課せられた課題だった。
中也の詩のリズム・・・・七五調。
このすずろなる物の音に
希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。(中也『春の夜』より)
中也の詩のリズムが七五調だから何だというのだろう・・・
彼が絶対的孤独の中でのたうちまわっていたからといってそれが何だというのだろう・・・
中也の「日記」
1927年6月20日
私は、私に、
甘えてはならぬ。
神様を、試みてはならぬ。
1936年6月20日
詩の分析は、殆んど無意味だ。技巧論といふものは、凡そ蓋然的たらざるを得ぬ、
分る人には分り、歌へる人には歌へるといふことは、当今の如き啓蒙的時世にあつては実に口惜しい限りのことに思へる。
Fantaisie は詩の全部ではあるまい、それはさうだろうが然しファンテジイのないものはすべて詩ではない。寧ろファンテジイは詩の中心部だ。
イメッジしかない詩といふものはない。イメッジだけを羅列した不分明な詩みたいなものといふものはある。
詩はまづ、詩でなければならない。----分り切ったことだと云はば云へ。詩に思想が必要だなぞと云つて生な理論を詩の形で語る奴等があんなに多いのをどうしてくれるのだ?
自分自身であれ。
愚痴が動機で考へることは、しやうもない。
怠けてゐたい時怠けてゐられることは立派なことではあるまいか。
詩に埋め尽くされた中也の脳裡。「詩は俺の生理現象なんだ」と言う中也の脳裡。それがいささか現実離れしたものであったとしても、事実なんだから仕方がない。脳の中が詩に埋め尽くされているだけ。それ以外は地獄らしい・・・それで、詩を通して、彼はいつも神様とお話していた。
誰も分かってくれないから。
人に理解を求めるのが間違っていると、わたしは常々思うのだけれども、実際問題、現実的な生活のことなどを言われた場合、昔の人たちは侮蔑、軽蔑、俗人には分らないという気持ちを露にしていたところがすごすぎる。わたしは孤独にのたうちまわりたくないので、埋め尽くされた脳裡と現実生活とには別のシナプスが形成されているように思う。
『愛に努力は不要か?』というトラバをいただきまして、あっさり語れば恋は盲目だから誰かを好きだと誰かが語ればそれが恋だとしか語れない。好きな人とずっと一緒にいたい、結婚したいと思うのはごくありふれた感情だと思うし、それでいて感情が縺れれば英国王室の三角関係を眺めるようなもので、だったら最初からチャールズはカミラと結婚していたらよかったのに、とすらわたしは単純だから思ってしまう。
若くて美しい妃はダイアナだけど、婆さんになっても一緒にいたいと思ったのがカミラだった。どうして結婚しなかったかといえば、家柄とかプリンセスとしての素養とか国民の人気とか、いろいろな点でカミラさんがおのれを知っていたからとしか思えないし、国民が興醒めするほど長い期間おふたりは不倫関係にあった。
それに終止符を打ち、結婚したことが素晴らしいと、わたしは素直に思うのです。
いろいろな試練があり、それを克服したのは愛の力でしょうし、ふたりの関係が一過性のものではなかったからにすぎない。
わたしはカトリックの影響が強いので、離婚を禁じているカトリックの教えにより、離婚したことのある人はカトリックの教会で式を挙げることができないし、結婚する前には結婚講座にカップルで出席し、ふたりの気持ちが変わらないこと、結婚とはどういうことか、などを一通り学んでから式を許されました。そして、神の結びつけた関係は消えることはない、と。
結婚はとても長い月日を共に過ごすわけですから、途中でたくさんの試練が待っているかもしれません。気持ちが醒めるかもしれません。それでも離婚が許されていないとなったらどうでしょう? 結婚する前によく考えるのではないでしょうか?
信仰というのもそういうもので、途中でいくつもの試練が待っている。泣き言もあるし、つらい思いもある。それでも自分は神を愛している、神に愛されている、そのことに気づくまでにはいくつもの試練があります。その試練を努力と呼ぶのならば、大いに努力が必要なのが愛なのかもしれない。
それに比べたら、男女の関係の努力はささやかなものに感じることがあります。
不倫に疲れて結婚したくなる、というのも本能なのかもしれないけど、結婚に疲れて不倫しているというのもどこか中途半端な関係であり、そのことが誰をも本当の意味で幸せにしない。それにも疲れて終止符を打ち、新しい人生を模索することも人間なら当たり前なのかもしれないし、結局、愛の砂漠は続いていく。
わたしは、うたに関してはかなり淡白である。「気をつけていること・・・、気をつけていること・・・」と何度も繰り返し、気がつけば何もないことに気がついた。気をつけていることが何もない。それこそ自由奔放で、好き勝手な時期を経て、無知を良いことに無恥に遊んできた。最初は返歌のやりとりが主体で、わたしが一人で詠むことができるようになったのは、石川啄木の傍若無人がとても快適なことを学んだからでもあるし、そうやって一つずつ覚えていったことはたくさんあるけれども、実際にうたを詠むときは、相変わらず気ままである。
大昔、といっても作歌歴が21世紀に入ってからなので、そんなに昔の話でもないけれども、わたしは「1首1秒」を好んでいた。ひらめきだけ。一瞬にしてひらめいたものがすべて。その後にうたのよしあしなどを考えるようになればよろしいのかとも思ったけれども、いわば歌人は一人の世界であると常々思っているせいか、石川啄木の傍若無人を好む。
気持ちいいぞ〜、トラ歌人。
酔っ払って詠んだことはないと思うけど、うたを詠む時にはトラになる。詠みたい放題好き勝手傍若無人。うたの世界は毒があることも平気。その毒を好む人たちが多いことにも気がついた。そして、聖書を開く。毒を撒かれることにも慣れているせいか、毒を飲むことにも慣れているのかもしれない。もちろんことばの毒という意味で。鋭い一言。わたしはそういう残虐さも好きだ。
それでいて、詠んだらさっさと忘れてしまう。
そこが自分でも淡白だと思わざるを得ない。むしろ自分の中の毒を吐き出すために詠っていた時期も長い。時間的には短いのかもしれないけど、気がつけばうたの数だけは増え、流れすらある。自分の好みも明確に変わっており、初期の頃のうたを眺めると、これはたしかにうたではない。それでいてうたであり、そのうち気が向けば自選を繰り返しながら練り上げることもあるだろう。
アマゾンで注文した本がすべて揃った。
最初が釈超空、次が馬場あき子、そして今日、斉藤茂吉、中条ふみ子、葛原妙子。もう一冊は現代短歌大辞典。ボックス付きの本が3冊も混じっている。古書が2冊。まさしく食わず嫌いの世界。わたしは本当に感じたのである。これらを読まないのは単なる歌人としての食わず嫌いだけであると。今の風潮は、単に表面的なことに捉われすぎていて、口語であるとか、新しい風潮であるとか、すべてがどうでもよくなってしまった。
そういう些細なことに捉われるより、わたしは自由を好む。
わたしにとっては、古い体質がどうたらこうたらとか、形とか、型とか、そういったことさえどうでもいい。概念歌が終わったと誰かが書けば、終わったと言い切れるほどこの世界が浅いものかどうか・・・わたしにはまだ始まったばかりに思える。釈超空から宗左近へ飛んでみれば、それが俳句だろうか、短歌だろうか、一行詩であろうか、と悩むことほど滑稽。
本当の意味で表層的なのは、型や形式ではなく、深さを省みない姿勢。透明感や概念の広がり。つまりは、ベクトルの違いは大きい。短歌に限らず、アート、特に音楽には2つのダイナミクスがあるように常々感じる。つまりは吸引されるようなベクトルと、自分のほうへ入り込むような感覚と。情動を凌駕すれば透明に吸引されてゆくし、情動を入れ込めれば、そこには胸を打ち、心を動かされるものがある。そのどちらを好むかはその人次第であり、マライア・キャリーが好きな人たちもいれば、DEDEが好きな人たちもいるだけの話であり、自分的にはその時の気分だとしか語れない。
まだ始まったばかりであり、毎日が新しい。誰かがそれを古いと言う。でも、わたしにとっては無知の領域であり、無知は罪である。未知なる世界へ。わたしにとっては未知の世界。何だか一人でみんなと違った方向へ向かっているかのようで、今は周囲を省みる余裕はわたしにはない。あるのは未知なる世界であり、誰かには見慣れた世界であっても、初めて訪れる者にとっては新奇な世界なのである。少しレトロな短歌を新奇と感じるわたしは未熟な歌人。それでも、わたしの年になると、すでに未熟であることが新鮮であり、結構それが楽しいとまで言い切れる。
mihoさまへ、久しぶりのトラバ短歌
去年(こぞ)の夏失せてしまつた腐り木の欠片もつちに春はもどり来
朽ちる板朽ちる荒れ庭咲く花の色さえ朧止まり木も消ゆ
薔薇・ざくろ・梨の白花・ミモザ生(あ)れ芝のりこえて水仙の葉だに
光刺す鋭さ暮るる庭先の尖った枝にあつまる茜
ボサノバを聴いていた日はつかのまの雪を見ていた記憶うすらひ
芝草をかすることなく逝きすぎた窓辺に立ちつ凍へるマリア
媒体を君によするかわれの色萌ゆるみどり葉ひかり芽のうへ
とおる色ふかぶかとしてひかりひかるとらへる時はいつがまぶしき
君がうへ想ひよするが波の音われ聴きたしもかげろふ紫苑
馬のあし細々としてどつしりと砂を蹴る蹴る朝の砂浜
タイの海かげろふばかり津波すらのみこむばかりあしもとの道
あまりにも難しい質問なので・・・考えているうちに、それも歌にしてしまいました。
茫洋とことのはの海ながむればつづりもむなしくりかへす波
平成17年4月13日、母が70歳になる。感無量。
忘れもしない平成11年11月11日、母の発作。即日入院、脳のオペ。一時期は死ぬかと思っていた。いや、一時期どころか、その後数年は危篤を繰り返し、それが落ち着いたのは去年くらいから。
平成11年12月、娘がインフルエンザ。続いてわたしに感染。(これでどうにか家庭を思い出す)
平成12年1月2日、ネットを始める。(意識が朦朧とし無気力・パニックの中、何となく)
感無量だよなぁ・・・・あの時点で、母がこんなに長生きするなんて誰が想像していただろう。しかも、植物に近い状態。つまり脳が半分死んでいる。だから、動けない。自分では何もできないに等しい。
平成16年10月13日、母がつくば市に転院。つまり、わが家の近所にやって来る。春に転院の予定が肺炎などを併発し、移動できる状態ではなくなったため、秋になった。それ以来不思議なことに母の容態は変わらない。一度だけ、弟の嫁さんが見舞いにやって来た翌日、目が充血し、いきなり高血圧で再発の疑い。でも、その後落ち着いている。笑っちゃいけないけど、あんなに意識が欠如した状態でもそうなんだなーって思った。生きているってそういうことかも。
☆
平成17年4月13日、母のお誕生日だというのにネットで夜更かし、見舞いに行き損なった。少々罪悪感に苛まれながらも娘は帰って来るなり泣いて話し出すし、その話を速攻でブログのネタにしている母なのである・・・わたくしは。
夜、塾へ行っている娘からの電話を待っていると、ペットショップから電話があり、ミエルがようやく来たとのこと。ミエルというのは娘が付けた名前。意味は知らない。ミニチュア・ピンシャのメスの赤ちゃん。去年の12月に感染症で死んだマリちゃんの代わり。マリちゃんの死は、どういうわけかわたしがアメブロにブログをつくるきっかけとなった事件。
そして、雨上がりのポストの中には、馬場あき子の歌集が入っていた。
母の誕生日だというのに、おちびにはミエル、わたしには歌集。さっき弟からメールが届き、無事を確認する。少し花粉症が出ているけど、仕事も家庭もそこそこ順調。この、「そこそこ順調」になるまでが大変だったことを考えると、健康って大切。
塾へ迎えに行くと、娘はすっかり元気になり、ミエルに会いにそのままペットショップへ。結局、夕飯の買い物をし損ねたため、そのまま外食をゲットし、3人でウキウキ帰ってきた。ミエルが家にやって来るのは、2回目の予防接種が済んでからで、今はまだ接種前だから1ヶ月以上先のことになる。
祖母は64歳で亡くなり、母もほぼ同じ年の同じ時期に似たような発作。それを考えると、わたしも64歳の同じような時期に発作に倒れる可能性が高い。母の姉妹は母よりも元気だから、それを考えるとおかしな話なんだけど、直系というのは何となく気になるものである。まあ、そこまで無事で元気で生きられるという保証なんてどこにもないんですけどね・・・わたしが。
それでも、母があのような状態でも、何となく70歳まで生きてくれるとわたしもその年までは生きられるのではないかという気がしてくるから不思議だ。世の中の平均寿命はどんどん延びているというのに、なんたる低次元の話。それでいて短命の家系というのは辛い。
父なんてもっと酷かった。代々長男が40代で亡くなっている家系の長男で、実際には生まれてすぐに亡くなった子がいたらしいので、順番で言えば次男なのかもしれないけど、大昔のことで父は長男として育てられ、時代背景が戦争と被っていたから、父のどこか破瓜的な傾向は色濃くわたしにも影響を及ぼしている気がすることがある。
呪縛・・・・・
そういうことは弟のほうがもっといやかもしれない。だって彼は長男だから・・・・が、しかし・・・・何とか無事に生き抜くしかないような・・・・子どもの頃から体が弱かったのは弟のほうで、体力はわたしなどより遥かにありそうなのに病気がち。
とりあえず、うちの母でも70歳まで生きられたので、よしとしますか・・・
このところ連日して、娘の友達から電話が掛ってくる。娘もそういう年頃になったのだと不可思議な気持ちでいたところ、原因が判明した。
女同士のグループ内における確執。
かんべんしてえ・・・
1年生から1クラスしかない。わたしから見たら、同じクラスの同じ連中。どこが違うのか分からない。それでいて、6年生になり、自然とグループができ、娘のグループは5人らしい。そのうち娘を抜かして3人はわたしもそれなりによく知っている。でも、もう一人の子はよく知らない。どうやらそのよく知らない子が原因らしい。その子がいきなり、娘のことがむかつくと言い出し、ややこしいことになっている。
あのね・・・この前は、HちゃんとSちゃんが絶交していて、今度はYちゃんがMちゃんと絶交したいと言い、HちゃんとYちゃんは仲良し、HちゃんはMちゃんとも仲良し、それで間に入ってHちゃんが悩んでいる。この前までHちゃんとSちゃんが絶交していて、間に入っていたのはMちゃん。もう一人、Aちゃんがいて、HちゃんはAちゃんと絶交していて、その時もMちゃんは別々に付き合いがあるためにのらくら。
こうやって書くと、わたしには分かるけど、読んでいる人たちには分からないだろう・・・
要するに、これがずっと続いていくのだからたまらない。
雨の中、帰ってきた娘にひととおり話を聞く。泣いている。途中で帰ってきたダンナに事情を説明し、塾へ送り出した。
塾へ行けば塾の友達がいるし、中学へ行けば中学の友達ができるだろう・・・
さっきポストを覗いたら、別の中学へ進学した娘の仲良しから手紙が届いていた。おそらくは何か相談したのだろう・・・
ひとりっ子だから、めったに喧嘩しない。気がつけば、親としてはこういう事態は初めてかもしれない。逆のケースには慣れている。つまり、娘の友達の誰其ちゃんがどうたらこうたらという話題には。逆に、娘が当事者というケースには慣れていない。おそらくは、娘も酷く戸惑っているのが分かる。
で、本人にどうしてほしいかと尋ねたら、「もう6年生だから、きちんと話し合って、自分で解決して・・・」という答えがリプライ。分かっているなら、親が口出しすることもない。そんなことより、もっとほかにやることがあるのではないかと思ったけど、小さな世界にいると毎日がその話題で埋め尽くされ、明日も皆で放課後話し合うことになっているらしい。(早く帰って来い!)
昨日、娘が不意に言う、「お母さんにはネットの友達がいていいね」って・・・
わたしにはその意味がよく分からなかったけど、今日、娘の話を聞いているうちに理解した。学校でむしゃくしゃしても、ネットでもしていればネットで「あーでもない、こーでもない」と話せる? が、しかし・・・ネットでも変わらないんだよね。一度トラブれば、ネットのほうが解決の方策がないことをわたしは知っている。
毎日学校へ行って、トラブっては友達同士で話し合い、家に帰ってきては泣き出して、ケロッと忘れてテレビ観て、明日朝起きれば学校へ。足りなければ電話に手紙、ほかの友達・・・これに足りなければそのうちネットとか?
それより、晩御飯、どうしませう・・・買い物にでも行くか。近頃、夜更かししすぎ・・・昼寝しすぎてまだ買い物していまへん。
図書館の貸し出し本を読むやうに釈超空の眼空走りぬ
しつとりとつまることばのうた書きは切れはしのうえ濁音は消ゆ
しんみりとみつまたのみち咲く花のふさふさとしたここち知るべし
わかれみち咲く花の名を訊きたしも君はいづこへ名をしづめたり
春や春。桜の花の散りゆかば花の散るみちダウンを羽織り。
夜の花、ぼんぼりのやうまるまって、すこしずつ散る。寒さもどり来。
オトくんの見えない朝はしづかなり。布団のなかにもぐりこむ犬。
猫なのか、と言いたくもなる寒がりの犬も震える桜の季節。
しんみりとクローンのやうなマリちゃんはもどらない犬。イエスさまのとこ。
誕生日、母の見舞いはどうするか、こころ走りてメールは来ない。
七十も重ね生きたかわが母は春を知らずにうんうん唸る。
冷えすぎの部屋の寒さにおどろきぬ。ただ雨が降る。それだけなのに。
白髪の皇太子には灰色の妃の似合う、あといく歳か。
密葬を見ているやうな挙式にぞいくたびか夢大空が月
桜にぞ罪はなかりき。花嫌ふわれの青き日もどりきぬ、雨。
躯にぞ布かれて春がやって来た。遠まわりして、静かな雨。
死に絶へた躯のみちをたどるやうたどたどしわれの心は
念を知る。呼ぶことだまを省みる、しらべのやうだ、ちいさな背中。
おぼろげに月が呼んだかかのひとをひときわ白く光る。汀の。
久しぶりにホリエモンの声を聴く。つまりテレビを観ていたわけではなく、テレビから勝手に流れてきた声が耳に入った。怒っているわけでもなさそうだ。怒っているという解説のアナウンスが入っていたけど・・・記者に説教しても無意味だろう・・・たぶん。ホリエモンの語る、「あなたたちは」という表現は取材記者に向かってのたまっていたわけで、一般の視聴者を意識しているわけでもなさそう。
つまり、「一般の視聴者に対しては、自分のブログで書く」と言いたかったらしい。そうなると視聴者という表現ではなく、読者と言うべき。
視聴者というのは、2つに分類される。つまりは、能動的にその情報を知りたいと思っている人々と、わたしのように受動的に聴いている者と。すでに、構えが違う。このことは意外と重要で、少なくてもネットの場合、読者というのは受動的に存在しているわけではなく、むしろ能動的に存在しているため、そのことに慣れていると、取材記者に話すのもいささかうんざりしてきても人間なら当たり前。だったら、ホリエモンのブログの記事を読むかと訊かれても、株価には興味がない。自分がライブドア株を持っていれば別かもしれないけど・・・
わたしが興味を持ったのは、ライブドアの株価ではなく、「自分のブログに書きます」と言い切ったホリエモンのことば。
自分の言いたいこと、伝えたいことを他人を媒介として伝達するより、自分のことばで語れるほうがどれほどマシか。受け取り方によっては、「もうあなたたちは必要ない。帰ってくれ」と言っているかのようであり、少しも怒っていなくても怒っているかのようにマス・コミ側の人たちが感じたとしても無理はない。
怒ってはいないのである。だって、言いたいことがあるのなら、自分のブログに書けばいいのだもの。
・・・・・・・・逆に、取材記者のほうはどうなんだろう。そのことに対して何か言いたくても、書けない。もしかすると書けるのかもしれないけど、公共性ということを考えると、記者の意見を記事にしたところで、そういうノリはいささか週刊誌のようで、面白いかもしれないけど、いささか信憑性の欠如を常々感じるわたしとしては興醒めの観を否めない。
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怒りと言えば、『怒りブログ。』で、「ネットでは本音が見えない」という記事があったが、インターネットは一方通行社会であり、確かに感情や情動などを伝えるには適していない。が、しかし、本音という部分では逆に顔が見えない関係性だからこそ本音が見え隠れしている世界でもある。
ついでにもっと書いてしまえば、中国の反日デモこそ本音の見えない世界だろう。教科書問題がどうたらこうたら、謝罪がどうたらこうたらと、このところ日中関係の悪化が懸念される。でも、その話は以前からずっとあったことで、これに対しては国内でも世論の分かれるところ。
が、しかし・・・・
どうして、今になってデモが発生するのか、というところがわたしには理解できない。このところ、日本からの企業進出が活発になってきているのが原因なのかもしれないし、それを受容するか否かは中国政府の責任である。その怒りの矛先が日本大使館というのはどうも納得がいかない。
もはや、デモや暴力行為に頼る時代ではない。それは以前からずっと感じていることで、やっぱ、あれが悪かったのではないかと日本政府も反省するべきである。つまり、自衛隊のイラク派兵問題。
そうなると、いたずらに「反日」ということばを書くのを控えるべきである。そういう意味では、わたしも「反日」かもしれない。
・・・・・・・・・・・どっちにしろ、もはやわたしは、「民間レベルで」という欺瞞が嫌いである。
一つ分かっているのは、国際世論というのはアメリカだけのものではなく、リチャード・ギアがなんで日本に来てまで、わざわざ反中感情を煽るような発言をして帰ったか、ということすら、わたしはうんざりなのである。単純明快に考えて、単なるイデオロギー戦争なら、20世紀で終わりにするべき。
次のアメリカのターゲットが北朝鮮となる可能性を考えると、中国が日本に対して危機意識を持つのは当然だろうし、それに対してヨーロッパがさりげなく中国を支援しているところがさらに不可思議な世の中。
アメリカと中国が喧嘩したら?
知らん・・・・
インターネットばかりしている場合じゃないと思いながら、何となく遊んでいる。
気がつけば今日もまたこんな時間。
少しずつ、あーしよう、こーしよう、なんでこれがこんな風になっちゃったんだろう・・・
などと思いながら、あっという間に時間が過ぎる。
しかも・・・
アメブロがトラックバックもping送信も使えない状態からようやく回復したらしく、何となくホッとした。
と思ったとたん、リニュ以後に書いてきた記事の表示が変わっている・・・
いや・・・今までが勝手に<p> </p>が自動的に記事に追加されていたのがおかしかったわけで、今さら全部の記事を直すわけにもいかないし、まったりした雰囲気が出て、それはそれで・・・・
考えてみたらブログなんだから、これくらい行間が空いて書いている人たちは多いし、それを考えれば、そうやって書いてきた人たちのほうが行間が2倍になって大変なんじゃないかなーって思った。
でも、どうも記事の表示が狂っているのはうちのブログだけかもしれないと、何となく不安になる。
どうでもいいかなーというか・・・・あくまでも、鷹揚で怠惰な気分じゃないとネットなんかやっていられない。
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娘を塾へ迎えに行ったら、女の子たちが3人で立ち話をしていた。雨が降っているというのに明るい。
よく見ると、そのうちの一人がうちの娘であり、もう一人は幼稚園の頃に一緒だった子。最初は気づかないくらい変わっている。よく見れば当時の面影はあるものの、すっかり顔が細い。あと一人の子は、わたしはまったく知らない子だけど、何となく雰囲気がみんな似ている。
つまらないことだけど・・・
塾って楽しい、という気がした。
雰囲気なのよね。体育のある日はジャージで通学しているせいか、ジャージにランドセル、黄色い帽子の世界。それでもうちの娘はオシャレなので、ジャケットくらいは・・・・って思うのだけど、雰囲気なのよ。男子がいるから暗いのだろうか・・・
旗持ち当番で交差点に立って、子どもたちの集団を眺めていると、いかにも小学生という集団が通り過ぎる。班長が黄色い旗を持ち、下級生の世話をしながら並んで通学して行く。
そういう地味な世界を見慣れたせいか、小学生とは言え、女の子がきゃいきゃい騒ぎながら立ち話をしていると、華やかな雰囲気がある。
それがよいかどうかは別として、やっぱ、うちの娘は、理系や国立のあの根暗な雰囲気に混じって座っているべきではないと思ってしまう。それこそ女子大でも行って、友達ときゃいきゃい言っているほうが似合う。華やかさなんだろうな・・・不思議なことに、それが親の楽しみでもある。
なんか、分かるなぁ・・・・
息子は自転車、娘はお父さんが送迎。実際に、年も近いのに小学校から大学まで姉弟で同じ学校へ行くことになってしまったうちの近所の人の子ども等に対する差別待遇を眺めると、気分の問題だとしか語れない。同じ大学へ通っているのに、娘は遠いからと下宿させ、息子はどんなに遠くても自宅から通え、というくらい差別がある。で、結局、息子は授業をさぼって家でゲームをしているらしい。
そうなると、ゲームをやるのなら、わざわざ下宿させる必要性はない。
親の選択は正しいのかも・・・
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アメブロのランキングを表示する。
理由その1: 画面に色が少なくて、寂しい気がした。出来れば暖色系の画像が出てほしいけど、寒色系でも同系色になるからよしとしよう。
理由その2: アメブロガーの会員証のようなもので、あれがないとアメブロという感じがしない。コミュニティなんだから、何か分かち合うものがないと話題が偏る。
理由その3: あれがないとブログを改装するのに夢中になり、逆にネットをする時間が長くなってしまった。こんなことではいけない。少しは読書をしないと。(「読書」ではなく、「家事」と書くべきか。)
でも、実際問題、活字から遠ざかっているのも事実だし、このところヒーリング系の本が多いし、詩集に歌集に写真集となると文字数が少ないわりにエネルギーを消費する。そのアウトプットがどういうわけかダラダラとした駄文につながるという悪循環を何とかせねば・・・
逆なのよね・・・
理屈に飽和すると歌が出て来たはずが、今は逆の状態。
これではいけない。哲学書でも読むべきだろうか・・・あー、なのに、アタマの中はタグに埋められていく。しかも、まるで分かってないところが、われながらすごい。
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(* 原因が判明。わたしが勝手にmarginを入れたかららしい。)
宗 左近は素晴らしい。
全宇宙を映して白い夢 大満月 (宗 左近)
勝手に、返歌する。
道しるべつかんだように眠る夢 夢の中では道ひとつだけ
白い路地、月にもあるの? 白世界 地球の海は青いのです。
満月は青い空にも小宇宙 白い夕暮れ 浮んでる月
アシジにも浮んでいたよ大満月 あまりにひかり山の外灯
山の裾 外灯ともる大宇宙 地球のあかりに慣れすぎてるの
著者: 宗 左近
タイトル: いつも未来である始原
娘が出発したと思ったら、地震が発生。
最初のうちは震度4くらい、次に横揺れが大きくなり震度5?
パティオ・ドアが開閉すると音が鳴るように吊るしてある金属製の風鈴がずっと鳴っていた。
比較的ゆっくりとした揺れだったので、物が落ちたり倒れたりということはなかったけれども、船酔いするかと思った。
船酔い型の地震。
アマゾンで本を注文した。
実は、これが初めて。
理由は簡単・・・
古書でないと手に入らないから。
一昨日の晩、近所の本屋で馬場あき子さんの『短歌その形と心』を買ってきた。まだ第一章しか読んでいない。だって本屋の袋から出したのが、ついさっきなのですもの。買い物の途中で本屋へ寄り、そのまま忘れていた。(一晩眠っていたわけである・・その本は。)
近頃のわたしは、どうも変だ。
作歌に身が入らなくなったのも、さっき気がついたんだけど、ちょうどアメブロのリニュの直前に、アップしようとしていた歌が消えるという事故があり、それが原因らしい。しかもそれは紛れもなく自分の責任なのである。画像フォルダを消そうと思っただけなのに間違えて編集のページを消してしまった。しかもそういう時に限って、記事のコピペもしていない。
そう、その時、わたしはとても気分よく詠んでいて、気分よく画像を選んでいた。
それが、一気にパア。
それはどうでもいい。
問題はそこから先で、わたしは消えてしまった歌を思い出そうとして、どうにか再び詠み始めた。それでいて、どれもこれも指先に力が入らないかのように、違う。うまく説明できないけど、何かどこかが違う。
今までも、似たような歌をいくつも詠んでいる。
それでいて、そのどれもが違う歌。どうして違う歌だと分かるかと言えば、CGIを使っているから。二重投稿を禁止しているため。
ウェブで詠んだ歌はすべて記録してカウントしている。
それはとっても便利な機能だと思っていた。
それでいて、歌を消してしまったことにより、わたしは軸が狂ったように言葉を捉えられない。どこが違うと言われても困る。何かどこかが違うとしか語れない。こういうのは鋭利な刃物のような感覚で、鋭利な時間の中で生みだされるか否かにより、何かどこかが違ってしまうことはよくある。
それが、しばらく続いていた。
そこで、本屋へ行った。
近所の本屋に置いてあるのはほとんどが入門書で、ちらほら歌集が混じる。俳句のほうが種類が多いのが特徴。そうやって考えると、俳句のほうが人気があるのかもしれない。だけど、わたしは短歌のほうが好きだ。どこが違うかと言えば、形なのかもしれない。もしかすると、若干、心も違うのかもしれない。わたしには俳句の心得はないものだから、その違いが掴めない。
短歌の形式というものは、すらすら出て来たものであって、わたしはそのフォルムが単純明快なくらい好き。575では物足りないのである。
入門書には、馬場さんの少女時代の歌やいわば青春時代の歌の話が書かれている。育った時代、育った気持ち、何を感じ、何を詠みたかったのか、歌に添えて書かれている。第一章を、わたしはあっという間に読み切った。それは目で文字を追うという感覚ではなく、むしろ目の前で馬場さんがお話されているのを一言も聞き漏らさないように覚えておこうという気持ちに似ている。
本なのだから、いつでも読めるし、聞き漏らすという発想はおかしい。それでいて、それはさらさらとお話を伺っているかのようで、わたしはメモを取りながら授業を聞いている学生の気分に浸ってしまった。つまりは、それくらい馬場さんの入門書にはわたしの知りたいことが書かれており、ある程度自分が作歌を続けてきて、その上での共鳴共感がたくさんあることに気がついた。
それで、馬場さんの歌集を含めて、葛原妙子さんとか釈超空、斉藤茂吉、というラインで歌集を探す。古い歌集はすでに手に入らないものもある。そこで古書を検索し、かろうじて見つける。
本というのは出版社に在庫があるというのが当たり前だと思っていた。でも、歌集の場合は仕方がないのかもしれない。それでいて、近頃の出版状況を考えると、出版社は在庫を置きたがらないらしく、オンデマンドでもない限り、すぐに幻の出版物になってしまう。著作権というものがあるために、没後50年は著作権が存続し、すぐに再販されるということも考えられない状況を考えると、舞い散る言の葉というのはウェブだけではなく、活字のほうがもっとがんじがらめ・・・
第一章: 少女時代の歌、青春時代の歌、教師時代の歌、そして馬場あき子さんが第一歌集を出すまで。短歌とともに能の世界がある。一貫して歌人としての目がある。不思議なことに、わたしは馬場さんの言葉を読んでいるうちに、情景が広がり始めた。おそらくはささやかな言葉の選択の中に、そういう情景を思い起こさせるものがあるのかもしれない。さらに、57577の世界はもっと短く、一つの言葉で歌が生きたり死んだりする。
一つの言葉で歌が生きたり死んだりする!?
もはや、詩の世界というのはそういうものであり、さらに短い日本の詩。わたしには、その一言がないために死んでいる歌があまりにも多すぎる。分かってはいる。分かってはいるけれども、わたしは生きるとか死ぬとか言う前に2万首を詠む。どうしてそうなのかは、実は明確な理由はない。ただ、そうしないとわたしには歌人としての魂が未熟なままで終わってしまいそうな気がするからとしか語れない。
わたしは最初から歌人だったわけではなく、ある日突然歌人になってしまったために、いまだに自分が歌人であるという自覚が薄く、脳がそれを拒む。それでいて、そうやって頑なになってしまった自分というものを、もっと原初の世界へ向かわせるのが短歌であり、どうしてそうなのか、まるで懐かしい世界の出来事を思い出せないままに語らなければならないようなまどろこしさがあるため、とにかくその靄を打ち破るために、わたしは域値を2万首に設定している。
それだけ詠んでいると、まるで気が乗らない時でも詠むし、無意識のうちに歌が浮ぶこともあるし、楽しくて仕方がない時もあるし、お天気のようにその日によって歌が変化することに気がつく。
気分よく没頭したいものである・・・せめて、作歌の時間くらいは自分というものに。
こころなか沁みゐるやうに馬場あき子ふいに読みいづ舞ふさくら花
立ちどまれさくらの散るを待つやうな一片たりとも落つるものかと
みちゆかば慣れたさくらは微笑んでいまが盛りと一片もなく
公園の踏みしだかるる舞ひ桜享楽といふまなこのせゆく
遺す歳(とせ)いまをうたふといつの日かまなこつむれるおのれ視づ底
絡みあふ小さな針の向こふにはちくんと刺した脳とてのひら
突かれてかすかな痛み脳のなか生みいづやうな言の葉の舞ふ
いくえにも脳を掠める言の葉を吸い込むようだ麗かな春
⇒この記事は、bion18さまへのトラバです。コメントが500字以内なので・・・
日頃、トラバ用の記事を書いても、めったに引用したりしないのですが、bion18さんの語り口調が面白いので、一部引用させていただきます。
あるT大学病院では、専門外来を100以上作っているというお話を聞きまして、
「専門外来」というのは、どちらかといえば慢性疾患の患者さんのためにあることが多いです。初診の人と慢性の人とでは当然診察時間や検査に違いがあるのは当たり前だし、大体、大きな病院の外来はやたらと混むために、担当医の専門領域の患者さんのために一般の外来とは別に設けているようです。そのほうが患者さんもあまり待たないで済むし、最初から症状が分かっていれば初診でも専門の医者に掛ったほうがいいですよね。が、しかし・・・・100以上とは、さすがというべきか。
たとえば 「口臭外来」。
「ほとんどが “歯周病” が原因ですが、心の問題も深刻です・・・」
何言っているんですか!?
体の中がドロドロ、ベタベタに汚れているから、臭うんじゃないですか!
どれもまったくその通りなのだと思うのですが・・・
嗅覚というのは、一番鈍感な感覚なんです。大抵は、一番早く順応してしまい、最初は臭くてたまらないと思っている匂いでもすぐに気にならなくなってしまうように出来ています。特に、自分の体臭や口臭などは、どんな人にでもあるのが当たり前だし、本人は気にならないものです。だから、逆に語ると、本人が自分の体臭や口臭が気になるということは異常なんですよね。他人に言われて気になるようになった、というのなら分かるのですが、実際にはすぐに忘れてしまいます。それが、ある日突然誰かに言われたわけでもなく気になりだしたら止まらなくなった、というケースは心の問題を疑うべきです。
体全体を診ることができない医者がいかに多いか、ということです。
いかに多いか、ではなく、ほとんど全身を診れる医者(ジェネラリスト)なんていないかもしれないですね、日本の場合は。内科から婦人科、耳鼻科、皮膚科などに転向する医者はいるけど、なかなかその逆はいないみたいだし、アメリカみたいにスペシャリストからジェネラリストみたいなステップアップもないし・・・
医療システムもそうで、ほとんどが小さな診療所から紹介状を持って大きな医療機関へ行くというのが政府の方針でもあるらしいし、医療のレベルに応じて患者さんを振り分けようとしています。つまりは高額医療を減らして国全体の医療費への負担を減らすということかもしれないし・・・
でも、医療として考えると、アメリカみたいに熟練のジェネラリストに最初に掛り、そこで疑われる疾患に応じてスペシャリストのところへ行くというほうがナチュラルですよね。でも、ジェネラリストになるということは相当熟練が必要で、いくつもの専門を究めた人でないと無理かもしれません。
人の体は、一つです。
体を100コにも分けていたら、それこそ毎日のように病院へ行き、その度に違うことを言われ、
結局根本的な原因も分からずに、だらだら疲れて、ゆううつになり、辛い思いをしながら、
大量の化学薬品を飲みながら、息を引き取ることになるのです。
これは、本当にそうやって思います。「だらだら疲れて、ゆううつになり、辛い思いをしながら、大量の化学薬品の飲みながら」死にたくないです。たしかに美味しいトマトを食べていたほうが元気になるような気がします。
さて!
人気blogランキングに登録したのに、どうやってリンクを貼ってよいのか分からないという質問をいただきましたので、お節介かもしれませんが・・・・
・・・・・・・・記事が長くなったので、以下の文は別に記事にしました。
「人生は、25歳から30歳までに自分が何をしていたかによって決まる」という言葉をどこで見つけたのか、わたしはすでに覚えていない。でも、もしかするとこれは正しいような気がしてしまう。
臨界期というのがあって、脳の発達にも臨界期があり、その時期に適切に刺激が与えられないとその部位が発達しない。大抵は、視覚などの機能という点では乳児の頃なんでしょうし、3歳にもなれば、その頃の親子関係がその後の親子の雛形になるような気もするし、10歳にもなれば、その頃の社会との関係がその後の対人関係や自分のスタンスというものの雛形になってしまう。
個体というのは面白くて、自己中心的な世界から次第に親など身近な人たちとの世界、さらに外の世界へ向けて関わり方を覚え、さらに、「同じ」ということを認識するほうが、「違う」ということを認識するよりも早く発達するらしい。「これとこれは色が同じ」というほうが、「これとこれは色が違う」と思うより簡単なのね。
・・・・・・・ダンナの点けたテレビがうるさくて、これ以上は書けない。
・・・・・・・・・・・・仕方がないので、サウンドを流す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・リビングにテレビ2台とCDとピアノとカシオトーンのある生活を何とかしてほしい。これで、どうやって歌を詠めというのだろう・・・それでいてどんな劣悪な環境にも負けないように脳を鍛えなければならない。
すっかり何を書こうと思ったのか忘れてしまった土曜日の午後。
あ、そだそだ・・・ハロさんのブログへ飛び、すごく前に残したコメントのレスを眺めているうちに思いついたネタだった。
若いっていいよなーって思ってしまう。主婦が社会人かどうかの議論はおいておき、要するにいわゆる狭義での「社会人」という枠に放り込まれ、将来がどうたらこうたらとか、後悔しないかどうかとか、あれこれ迷っているらしい。
それで不意に思い出した。
結局、25歳から30歳くらいまではそういう状態が続き、それが終わると何かが定着しはじめ、40歳を過ぎたらすっかり出来上がってしまう。
ということは、そういうことを考えるのは30歳までで、人生の残り時間が減るに従い、だんだん怠惰になっていってしまう。つまり、自分が今やっていることを変えるのがいやになる。いやになるにもかかわらず、変わらなければならない状況になれば変わらざるを得なくなるけど、それは後悔とか不安というものではなく、いわばおとなの落ち着きの中で何かが決定されているために、もはや選択の余地さえないような気がするから不思議だ。
考えてみれば、わが家はいつもこんな調子。わたしが今よりも若かった頃、ワープロを持ち歩き、ちまちま打ち込む。めちゃくちゃ重かった。それでもパソコンよりは落ち着く。ダンナのところで打っていると、あの人は日頃家の中で勉強するという習慣がないために、大抵はテレビかゲームをしている。
そういうおバカな習慣がどこで形成されたのか・・・・25歳から30歳までの間にわたしが何をしていたかが、今のわたしの生活を考えたら理解できそう。結局、外側のことなんだよね・・・研究をしていたとか、結婚したとかということは。行動という点で考えると、身分はともかくやっていることはほとんど変わらない。生活という意味で。
本は・・・・何と言うか・・・・次の実験どうしようかなーとか、何やろうかなーとか、そういうネタ探しのためにあったような気がするし、ついネタを探すという習慣も何年経っても変わらない。不意に思いついて、それを現実に置き換えるのがとても大変。被験者をどうするかとか、装置はどうするかとか、結局、やりたいことがあってもそれを実際にやろうとすると、あれにこれにと時間と予算と気力が必要になる。それで、大抵の時間を外回りに費やさなければならなくなり、不毛な時間がたくさんあり、そういう時間にさらにネタを思いつくとキリがなくなる。
ある意味、困難を克服するというパワーが気力なのかも。
それにしても、一つ気がついた。脳内の生活音を消すためにサウンドがあり、生活音を加えるためにテレビがある。一人暮らしの頃、テレビなんて観ないと思って最初買わないでいたら、やけに静かすぎて寂しい。そこで仕方がないので小さなテレビを買い、点けっ放しにしておいた。人の話し声もしないところに、ずっと一人でなんていられないよね。気配もないようなところなら、もっとつらい。
わたしの記事に脈絡がないのは、生活の中で気ままに書いているからで、一生懸命にまとまりのあることを書かねばならないというスタンスはない。本気で記事を書くのなら、余分なことを削除して、どこかの文献から拾ってきた資料を並べるべき。
が、しかし・・・・
思考の羅列と経過を並べておくほうが、面白い。
おーやだ、あーやだ、何でこんなものをつくってしまったんだろう・・・『実験会場ブログ』。近頃、ブログの改造にはまってしまっているために、ブログの雰囲気が破壊されていることにはうすうす気がついていた。そのうちストップするから、まあいいかな・・・と思って。
甘かった。
最初は海で、次は花で、今度は黒スキンのスタンダードなブログをつくろうと思っている。春には春の、夏には夏のブログというか・・・せっかくだから、1クリックでスキンを変更して遊ぶ。タグさえつくっておけばコピペするだけだもの。
外はよい天気だというのに、一体わたしは何をしているのだろう。
それでも、のんびりサウンドを聴いて、家の空気の入れ替えをしながら、画面に向かってパチパチ打っているのは明るい雰囲気で、それはそれでとても気分がいい。
ブログを改造するというのは、考えてみたらセーターを編むのと似たような感覚。網目記号があって、そのとおりに編むと模様が浮き上がる。こればかりは実際に編んでみないと大きさも柄の雰囲気もつかめない。もちろん雑誌に書いてあるとおりにやっていれば似たものは出来上がるけど、使っている糸の太さや色によっても雰囲気が変わるし、サイズを微妙に変更するとさらに雰囲気が変わってしまう。
大雑把に言えば、型紙があって袖と身頃のカーブが接着すれば細かいことはどうでもいい。それでいて、青い糸で編むか、イタリア系のカラフルな糸で編むかによっても、網目記号のパターンが同じでもまったく違ったものに仕上がる。当たり前のようでいて、特にカラフルな糸なんて編んでみないとその糸の雰囲気もつかめないし、サンプルの小さいものを眺めても、実際に編んでみるとまるでイメージが違ったりすることも多い。
編み物の魅力は、想像と実際とが微妙に違うことかもしれないし、糸を見ただけでセーターのデザインまでイメージできてしまう人はすごいと思う。裁縫も似たような感じなのだろうか・・・わたしはやらないから分からないけど。針は雑巾を縫うだけで充分なような・・・針が嫌いなので・・・
編み物の場合は、ぼぉ〜っと手を動かしているだけで作品が完成する。特にアタマを使う必要もなく、時間だけが過ぎて行く。何もしていなくても手を動かしているだけで何かが出来上がるというのは、不毛な時間に少しは意義を見出せるような気がして、昔からわたしは編み物が好きだ。特に、苛々している時には最適。
ブログもそういう感じなのかもしれないな・・・何かをしようと思っても何も出来ないような無力感がある時、何となく不毛な時間が過ぎて行くような時のヒマつぶしには向いている。
こう・・・何かをしようと何かするのではなく、不毛な時間の羅列が形になっていくのが面白い。それがまるで編み物のようだと感じるわたしには、実際、ブログというのはそういうものなのかもしれない。
要するに、楽しい。
あれにこれにと、次はどういう風にカスタマイズしようか考えているだけで楽しい。ウキウキする。CSS編集なんて要らないと思っている人たちも結構いることに気がついた。わたしの場合、単にカスタマイズして遊ぶなら自分のブログがあるし・・・アメブロは借り物だから、実際にはそこまでやる必要性はない。それでいて、スキンのタイプがいろいろあるから、細かいところを眺めてみたり・・・「あれ、これはどうやっているのかな?」とか。
CSSを覚えたいわけではなく・・・あれこれデザインを変えるのが楽しい。
デザインを変えるだけなら、特に余分な知識は必要ないと思う。そのうちCGIのプログラムを自分で書きたいと言っていた人がいたけど、そういう気持ちも分からなくもない。それでいて、わたしは自分用のスキンをいくつか考案するほうが、今のところもっと楽しい。
いずれにせよ、どんなささやかなことでもやりたいことがあるうちは幸せだ。
今の目標は、スキンをいくつかつくることと、短歌を2万首詠むこと。そういえば題詠マラソンのほうもまだ何もしていない。まいったな・・・時間はあるから、と思っているうちにあっという間に1ヶ月以上過ぎている。10ヶ月あるから、のんびり・・・
それにしても、ブログが2つになると、いちいちログインしなおさないとならない。なんか、かったるい。
⇒『Myリコメンド』の「本をおすすめして5000円げったー」
締め切り 4月10日12:00
biasさんに本をおすすめすると、そのうち2名に商品券をくださるそうです。
(個人でこういう企画する人もいるんだね〜☆)
それでは、わたくしのおすすめです。迷うよね・・・『レ・ミゼラブル』でも読んでウルウル泣けとか、キャロル・アドリエンヌの『人生の意味』などを読んで、「本当の自分とは何だろう」とかね・・・でも、あまりにもメジャーすぎるのと、近頃、自分があまり活字というものに魅力を感じないので、見ても読んでも寝ながらでも楽しめるところを。読んでいないのなら、オリバー・サックスの『色のない島』もおすすめなんですが・・・
迷ったけど・・・
著者: 林 完次
タイトル: 月の本―perfect guide to the MOON
ミステリアスな月を、神話、科学、詩など、さまざまな角度から語っている写真集。地上から見た月だけではなく、月面写真、イラスト、天体図など視覚的に多角的に楽しめる。
しかも・・・
林さんの月にかける情熱というか、マニアックな部分が、一層、月をドラマティックに表現しているような気がする。ぼーっと見ているだけでも、引き込まれるよーな美しい写真でもあるけど・・彼の月を観察し、考察し、それを素直に表現しようとしているところが好きかな・・・
『太陽と月は夫婦であった。
太陽は夫、月が妻、どちらも最初の頃は、
夜も昼もいっしょに輝いて、地上を照らしていたと伝えられる。
ところが、ある時、月が人間たちをながめて、言いだした。
「人間というのは、どう考えても存在価値がない。
せっかく智恵を与えられていながら、
それを悪用して悪いことばかりしている。
あんなものを地上に住まわせておくのは、もったいない」
月があまりに腹を立てるので、太陽はそれをなだめて口ぞえした。
「それはいくらなんでもかわいそうだ。彼等だって、
他の動物と同じように生きていく権利がある。
確かに悪いこともするが、いいこともしているではないか」
それでも月は耳をかさない。とうとう、地上の人間を一人残らず殺して
ほろぼしてしまおうとさえ考えた。
太陽はこれを知って、止めさせようと決心した。
月を呼びつけ、はげしく叱りつけたという。
「人間をぜんぶ殺すなどと、とんでもないことをするやつだ。
お前のような情なしは、昼間光っている必要はない!!
夜の世界だけに追放だ!!
暗ければ人間もよく見えないから腹も立つまい」
こうして、月は夜の世界だけに光るようになったとさ。(PERU)』
(「世界の月伝説」より)
こんな逸話がたくさん書かれています・・・
月を見ながら、古今東西いろいろな人たちがいろいろなことを考えてきたのかと思ったら、感慨深い。そして、今と昔がクロスオーバーしつつ、それでいて月はいつまでもミステリアスさを失わない。
* 引用にタグを入れました。やり方?⇒ 『放置 blog ?(仮称)』 を見て、<p style=" "> 〜 </p> に要素を押し込みました。記事を直すだけでも時間が・・・(泣)
昨日までの冷たい風が嘘のやう晴れわたる空澄みわたる風
キャンドルを下から燈す春桜すこしずつ花広がりゆかば
冷たさと明るさのゆく陽のみちは慣れない春にとまどふ桜
公園の小さな桜伸びゆかば吾子育ちゆくとおりゆく風
パパさまは「かくあれかし」とつぶやいてみそらに舞ひし白い雲あれ
みそらにぞゆく雲あらば白白と光さしたる澄みわたる風
少しずつ芽を吹く桜花びらの舞い散るまでは彼方のみそら
たましひのゆく雲あるかみそらにはふわふわとした愛の吹くみち
月さえも青いおそらに浮んでる大きな顔をのぞかせる窓
ご返歌☆mihoさまへ
遅咲きと言われし桜手折り来て明日を迎える息子緊張(mihoさま)
桜木を手折る背丈に伸びゆかば春の新芽は子らの声聴く(しらいし)
ご返歌☆湖南さまへ
こひこころ あればたくさんの 歌をよむべし
言霊の不可思議なるわざ(湖南さま)
恋文になぞらへうたふ歌詠みの羽のはえたるこころはうさぎ(しらいし)
⇒トラステへのトラバ: 「愛」とは何ぞや?
「愛することは少しずつ死んでいくこと」というセリフは、モーリヤックの小説の中に出て来た言葉。わたしの記憶は定かではなく、たしかモーリヤック著作集第4巻の中に収録されていた小説に出て来たと思う。『愛の砂漠』だったかな・・・すでにタイトルもストーリーも忘れたのに、この言葉だけは深く心に残っている。
モーリヤックは人間の醜悪さを描くのが上手。それでいて神の愛を深く感じる不思議な作家。わたしは数年も前から読もうと思っているのに、まだ第1巻を読めない。数年どころか、どれくらいの月日を経ただろう。
愛というのは、むしろ受容的なものであり、愛されたら素直に受けるもの。それがどんなにか難しいことか。
ちょっとした誰かの親切とか、さりげないやさしさの中に愛はある。人のやさしさや思いやりを素直に受けられる人は幸せ。愛を学ぶ必要がない。
恋というのはむしろ相手に向かっていく感情である。誰かを好きになるというのはそういうことであり、相手を自分のものにしたいというベクトルは生きるための能動的な姿勢であり、命への姿勢。
ところが、愛は少しずつ死んでいくこと。少しずつ死を受け入れるように静かな世界。ごく自然にそこにあり、それでいてあまりにもありふれているために、ごく自然に受け入れられなくなるほど、人間は頑なになる。死を受け入れることを考えてみれば分かるだろう。それを素直に受け入れられる人たちがどれくらいいるだろうか。
愛するというのは、受け入れること。ごく自然に、生きることも死ぬこともすべて受け入れること。
そのどちらも難しいと感じるならば、すでに愛を受け入れることは難しく、愛を求めて徘徊しなければならない。生きるために恋をし、恋のために苦しむ。
著者: F. モーリヤック, 遠藤 周作, Francois Mauriacタイトル: モーリヤック著作集
* Amazonで検索したんですけど、すでに古いものは廃刊になってしまったのでしょうか。びっくりするくらい高い著作集が出てきました。
アメブロの恐怖のリニューアルにも慣れ始め、世の中にはどんなことにも慣れがあることを感じ始める。大体、ネットを始めて以来いつもこの調子だ。何もないことのほうがめずらしい。
今回のアメブロの一番の失敗は、時期、かもしれない。もう少しゆっくり準備してからリニューアルをすればいいのに、いつも突然何かを始める。こういう傾向はアメブロだけではなく、ホリエモンにしたところであんなに大騒ぎしていたはずが次第に妥協点を模索するべくやってしまった後にあれこれ対策を考えているのではないかと思うくらいだ。
まじにホッとしたわけ。
昨日からずっとブックマークの編集ができないとばかりに探すけど、ずっと見つからない。素材屋さんは基本的にリンクウェアだからリンクしなければならないというのにブックマークが編集できないというのは致命的。
小さな画像の場合は記事ごとにリンクを貼っている。それは最低限度どこから借りているか混乱しないための配慮。そうしないと自分でどこから借りた画像か分からなくなるし・・・とりあえず、記事ごとにリンクが貼ってあれば逆にブックマークよりも分かりやすいのではないかと。特に複数のサイトから借りている場合は。
でも、壁紙となるとそういうわけにもいかない。それで仕方がないのでプロフ欄にリンクを貼る。貼った後に、「デザインと機能→サイドバーの設定→ブックマーク」という具合に非常に分かりにくいところにブックマークの設定箇所があるのを見つけた。ついでにこちらにもリンクする。
最初からそうやっておけばよかったのに、『Four seasons』は『読書感情文』から飛んで、そのうち飽きるかなと思ってブックマークにはリンクしないでおいた。理由は、アメブロのブックマークの投稿数が限られているから。少ない。このため記事欄に直接リンク。それが次第に日々使うようになっていっただけ。
(ほら、これだけでもアメブロへの苦情が2つ。ブックマークの編集箇所の問題とリンクできる数が少ないこと。)
素材屋さんはすぐに閉鎖したり移転することが多いので大変。その理由はまちまちかもしれないけど、一番多いのが素材屋さん同士のトラブルらしい。素材屋Aが素材屋Bから借りてそれを加工すれば新たに著作権が素材屋Aに発生するために、直リンクやパクリ(リンクしないで自分の作品であるかのように、とか)より、そういう著作権がらみのトラブルのほうが実際には深刻らしく、長続きしないところが多い。
2次配布は大変。素材屋さんによって考え方が違うためにもっとややこしい。友達のサイトのバナーの文字いれすら禁止しているところもある。わたしは自分でBBSのアップを覚え、それを友達に貸す。それだけでも混乱するから画像を使わないでほしいと言われたことがある。こちらは自分で使わないから他人に貸すだけであって、おおげさすぎだとは思った。が、しかし・・・その時に素材屋さんによって大盤振る舞いのところもあること知り、それ以来、そういうサイトから素材を借りることにしている。メジャーは細かいことは気にしないらしいので。第一、その画像を見ただけでどこから借りたのかすぐに分かるし・・・
『NOION』は、どこか忘れたけど、CGIスクリプトを配布しているサイトで見つけた。自費出版で使う等を含めてOKというスタンスなので、CGIみたいな改造するケースには向いている。もちろん画像自体が気に入っていることもあるけど、以前からお世話になっています。
『おしゃれ探偵』も同じケース。やはりCGIスクリプトを配布しているサイトで見つけた。後から本当に探偵事務所がやっているサイトだと知り、少し笑った。探偵ってよっぽどヒマなのかなぁ・・と思って。美しい風景を眺めている時間があるというのは素晴らしい。何気ない街の風景とか空や海の写真が探偵のイメージと結びつかない。仕事って面白い。お仕事の合間に撮影したものを貸し出しているらしい。
『梓のホームページ』は、わたしにしてはめずらしくイラスト系。写真を加工した素材が好きなんだけど、ここの場合はそれにイラストが組み合わされてオリジナルな感性。最初、やたらと濃いとか言われたけど、それが快感になるから不思議。まあ、遊び心ですな。
ブログには使えないけど、『Moon & Back Graphics』もお気に入り。
ソースをコピペするだけで速攻で同じページが出来上がる。今はシンプルなページが多いけど、以前はもっと凝ったページもあり、ここでフレームをたくさん使ったソースを見て自分で改造したりして、いろいろ覚えた。タグだけを覚えるのと違って実践的なほうがよく分かる。機械語は世の中で一番シンプルで幼稚だからかも。曖昧さがないし・・・
以前は、『Moon & Back Graphics』は、人気画家のイラストを扱った素材も多かったんだけど、このところ減った。それでも質は衰えない。さすが老舗。
画像のトラブルがいろいろ発生していた時、どういうわけか神父さんのサイトにここのウェブのURLが貼ってあったので驚いた。つまり、無償で誰でも借りられたらトラブらないトラブルというのが世の中にはあるということを知った。
わたしの場合、好きな素材屋さんというのは素材が素晴らしいというだけではなく、個性があり、長続きしていること、どんなトラブルにも柔軟な姿勢を持っていること、かな。お気に入りの素材屋さんはまだまだほかにもたくさんあるけど、せっかくお借りしても神経がピリピリするようでは落ち着かない。無償の世界だからこそ、余計に管理人さんの性格まで気にしなければならないのかも。
細かいことにこだわらない、というのは素晴らしい。
春風の冷たさのあり夜風には黒きダウンを羽織り歩きぬ
ゆるやかな流るる風のおとづれは戸を閉すやうに春に届かず
雑巾を今に縫いおる夜更けには朝の始まり遠く近くと
夏の朝すぐに夜は明け短かければ春のおとづれ朝は遠のき
老いというやすらぎもある死のみちはこころしづもり迎えるこみち
若き日はもうくたくただ。坂道を登ることさえかたき囀り。
こころだにくたくただった若き日に戻りたいのかあな驚きぬ
しづもれた腕に抱かるるおさなごに戻りゆくやうな老いといふもの
すこしずつ春おとづるる花の香を待ち焦がれたる冷たき朝に
黄金の低き日の出は冬ですか。低き夕陽もまた冬ですか。
太陽の低きひねもすゆるりとし高きひねもす陽を追い求む
陽に染まり黄昏るるみちすぎゆかば永久のふるさとあまねく夜空
にこやかに顔をそろえた水仙はお行儀よきさま覗かせてゐる
雨風呂の改造に飽きてきても、いじって遊んでいるうちに娘の新学期が始まるらしい。いきなり、「お母さん、ぞうきん、ない?」って訊かれても夜だし困る。今はぞうきんはコンビにでも売っているらしいので買いに行こうかと思ったけど、これからちくちく縫おうか迷う。
なんか、ババ臭い話だ。
それでいて、ダンナの人間ドックの結果を眺めていてもうれしくない。どうしても治療の必要な病気はないけど、軽い緑内障とか、足の血栓とか、その他諸々お酒の飲みすぎによる疾患がちらほら。本人も飲酒の量を減らせばよいということが分かっていても、なかなか重大なことにならないと習慣というのは直らない。
それにしても、血栓というのはいやですねー。ある日突然、足を切断とか? 今は大丈夫でも将来的にそういう可能性がある、というだけでも、わたしなら憂鬱になる。憂鬱になるために人間ドックを受けるのだろうか?
こうやって次第に50代、60代と生きていればどこかに病気を抱え、毎日その日のことをやるだけで精一杯になっていくのかもしれない。わたしは意外と丈夫で、入院したのは娘を出産した時くらいだし、日頃から医者にも行かず薬も飲まない。よほどのことがない限り薬を飲まないせいか、なんでもよく効く。
ダンナに言わせると、ストレスは良くないという。それでいて何がストレスかは人によって違うから、ある人は仕事を辞めたらストレスになるらしいし、ある人は仕事がストレスだと言うし、結局、自分をストレスから守れるのは自分しかいないことになる。だって他人には分からないもの。
それにしても、ダンナの人間ドックの結果もストレスだし、いきなり夜中にぞうきんを縫わなければならないのもストレスかもしれないし、それでいてわたしはこの前手芸屋さんを覗いて、ちらほら春夏物のセーターの雑誌や毛糸などを眺めながらストレスを解消した記憶がある。
ある人はアメブロのリニュが非常にストレスだと語るし、それでいて改造でストレスを発散している人もいれば、逆にタグの羅列を眺めるだけでストレスになる人もいる。よく考えてみれば、最初から1クリックでブログが完成するようなスタンスは何も変わっていないにもかかわらず、選択肢が増え、それを楽しんでいる人たちもいれば、落ち着かない人たちもいる。
自分的には、落ち着かないからあれこれいじって遊んでいるうちに、それもまたわたしのストレス発散。これで、システムエラーが出なければもっとパチパチ変えるのだけれど、途中で出来なくなるから逆にストレスを感じる。何となく密集された世界という感じがして、疲れた。プラマイ0。
それでも無意識のうちにあれこれ改造しているうちに、わたしがつくると結局同じようなデザインになってしまう。HPでもブログでも似たような感じ。写真も素材屋さんで借りているのだから、それを考えると背景を借りるほうがノーマルという気がして・・・
それにしても、足を切断するというのは可哀想だ。しばらく治療に専念して、今は義足も良くなっているから普通に歩行は出来るようになる。ある意味、静かな人だから、そうなったらそうなったでごく自然にそれが生活になっていってしまうのかもしれないし、その頃にはおじいさんだから仕方がないという諦めも出て来るのかもしれないし、結核の時でもそうだったけどマイペースなんだろうな。
いや・・・それでわたしが何を考えたかというと、娘の送迎が終わったら、今度はダンナの送迎が始まるのかもしれないと。どちらの足か知らないけど、そうなった場合運転できるのかどうかとかね。特殊なクルマがあるから大丈夫なのかもしれないけど。(←自分が倒れるという発想がない)
まあ、40歳を過ぎたらいつ死んでもおかしくないような気がしてくるから不思議だ。死は姉妹。日本語にすると少しニュアンスが違う。
『ポジティブ生活』が暫定的にお引越しされたようです。こういうのを見ると、すぐにわたしもつくってみようかと思ってしまう。ネット・ユーザってそういうものなのよね・・・どこのブログ・サーバでも、結局、幽霊ブログをたくさん抱えているのは、わたしのようなちゃらんぽらんユーザが多いからだと思う。(それとスパム登録?)
やっぱ、自分で使ってみないとその使い勝手が分からないし、つくってみて気に入らなくて放置しているブログが今の時点で4つある。
一つは、ウェブリーで、これは自由度が低いのと記事の羅列がとてもつまらなかったので捨てている。楽天プラザなんてつくっただけでデザインが気に入らず、一度も更新していない。gooは、旧ガイアックスの全廃に伴い簡易gooに移転したら自動的にできてしまったブログ。こちらは改造までしたのに、一度も使っていない。プロフィール欄がどうもいまいち気に入らなかったのと、ノリがgooなんで、gooは2つ要らないなーというのが率直な感想。
ココログは、わたしの場合、お昼のニフ会員でもあるために(旧フォーラムへ参加するために加入した)、たしかサイトまでアップしてあるような気がする。でも、そのうちニフを解約しようと思っているので、あることも忘れている。
絶対に使いたくなかったのが、はてなダイアリー。これって短歌をアップして、そこにハイパーリンクのアンダーラインが入ったら歌人としては情けないでしょう。普通の記事なら便利な機能でも、わたし的には見栄えが悪いのでやめた。
ヤプログもそれなりに可愛かったのでスキンを探したけれども、何となく気に入ったものがないのでやめた。
そうなると、エキサイトかライブドアかアメブロくらいしか選択肢がなかった気がする。
で、結局、一番ユーザの少なそうなアメブロを選択した。タレントのブログがないというのも選択した大きなポイント。ちょっと有名人のブログとなると2チャネラーの温床となる。そのノリで自分のブログを襲撃されたらかなわん。ガイアではかなり苦労したため、テキスト主体のブログにこだわろうと思ったら、アメブロがとても都合よく思えたわけである。
実際、わたしはアメブロにお引越ししてきて以来、ネタに困ることもなくなった。いくつかお気に入りブログをサーフィンするだけでその日のネタが決まる。検索してまでネタを探す気はない。それは、やたらと重いとか、ぐったりするランキングとか、リニュ被害とはまったく関係のないお話。更新情報が届くというのは素晴らしい。
自分でMovable Typeを改造してつくっているブログもあるけど、まじにスパムコメントが一日に2000個くらい飛んでくるようになったら、管理しきれないもの。ひたすらアクセス禁止に徹するしかない。
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ハイパーリンクを貼るのがつらいので、もっと詳しいことを知りたければ、ネタの使いまわしで申し訳ないけど、『まあ、待て。ブログを借りるならここを読め。』が参考になるかも。
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結局、インターネット・ユーザというのはわたしみたいなノリが普通なのではないだろうか?
雨風呂雑感として、一つ感じたのは、「書く」とか「読む」とか、それが一体何なんだろう?ということかも。実際にブログを書いて、それを出版してというノリがほかのブログ・サーバであるかどうかは分からないけれども、それがアメブロの良さでもあり悪さでもある。
ウェブはもともと無償提供の世界で、だからこそわたしみたいにタグの一つも知らなかったにもかかわらず、いろいろなことを誰かに教えてもらいながら覚えてきた人たちも多い。一人で読書して覚えるというノリではない。
先日の『あめまにゅ』の記事に対して、みんな(ネット・ユーザ)が怒るのは、簡単に言うとそういうこと。ネット・ユーザ同士のコミュニケーションなら、「タグを知りたいなら、こういうサイトがありますよ〜」っとかね、せめてその程度の親切心や人情を見知らぬ誰かのために持つのがネットである。それがいきなりこういうブログができるところも変だし、普通だったらサポートBBSとかね・・・質問をアップしておけば誰かが答えてくれるみたいなほうがインターネットでは普通だ。通りすがり的に知らない人たちの情報交換により支えられている。
『怒りブログ。』に怒りを発信してどうなるんだろうと思うんだけど、売ることを離れてユーザを考えてもらえないかなーってたまにC社には思う。
わたしは本を購入するには目的によって手段が違うために、本というのは基本的に店頭にはないものだと思っている。だから、わざわざ大きな書店にまで足を運ぶということはそういうことで、その点ではインターネットは便利なツールだと感じている。
ありふれたものは店頭でいいわけさ・・・例えば雑誌や人気作家の新刊本とかね。どこの書店にでも置いてあるようなものは、気楽に散歩がてら店を覗けばいい。そういうのは駅の売店を覗くようなものであり、本をわざわざ取り寄せる、という世界ではない。
なんで取り寄せるかというと、必要だから。文献を探すのと同じような感覚。文献にしても自分のところで手に入らなければ図書館で検索してもらい、紹介状をもらってほかの大学の図書館へ行った記憶もある。国会図書館とかね・・・わたしは、割に現物主義だったからその手の苦労は少なかったかもしれないけど、本というのはそういうものだという意識がある。
それと、店頭売りとを一緒に考えるのは変な気がする。
どこのブログ・サーバが使いやすいよ〜っていうノリは、どちらかというと店頭売りの感覚に近い。
パパさまの記事を読んでいるうちに、古今東西のキリスト教徒の罪をすべて背負うくらいタフではないと生きていられない、ということを知る。よく分からないけれども、ほかの宗教では考えられない点がそこだ。仏教徒やイスラム教徒が罪を犯し、そのせいで誰が一身に責めを受けるのだろう。大統領や総理大臣にしたところで、任期が終われば仕事は終わるけれども、終身制というのは逃げ場がないことに気づく。
クリスチャンというか、ほかの人たちのことは知らないけれども、わたしの場合、どうしてこんなに毒を浴びなければならないのだろうと思うのがキリスト教であり、「ならばあなたたちは一つの罪も犯したことがないのか?」と、イエスさまの言葉を思い出す。たまにね・・・なんでクリスチャンというだけで、あーでもないこーでもないとほかのクリスチャンの話題をふられるのか懐疑的になる。そーじゃないか?
わたしは日本人に生まれ、われらの先祖がやったことなのか?
ってなことまで、クリスチャンというだけであれこれ毒を撒かれる。考えてみれば不思議な話だけれども、異邦人に布教するというのはそういうことらしい。もともとがユダヤ人の中の問題であり、そこに異端児であるイエスが宗教改革を起こし、その結果、殺されたという図式はどうだろう?
でも、その記述だけでもすでに間違いがある。イエスは6時間で亡くなった。普通ならありえない。人間のたくましさを考えると、磔刑により多少出血したからといって、6時間で亡くなるということはすべての外科的手術を否定するものであり、現実的ではない。近頃、喉に痰取り用の孔を開けられ、胃に直接チューブを差込み栄養を摂取している母の姿を眺めていると、ますますそのように確信してしまう。
人間というのは、そんなに簡単に死ぬものではない、と。
たくさんの奇跡・・・
「わたしを信じることができないのならば、わたしの行った奇跡を信じろ。」
残念ながらわたしはその時代に生きていたわけではないけれども、今でも不思議な奇跡は存在し、もっと不思議なのは、聖キアーラの腐らない遺体を眺めても、うちのダンナのセリフはこうだ。
「たしかに不思議だけど、僕は信じないよ。」
つまりは、これまでにあまりにもたくさんの奇跡と思われていたことが、ある意味科学的に説明される時代になったために、彼はそういう奇跡と信仰とが結びつかない。
それはそれで当たり前のような気がしてしまう。そうなると、みことばの実践とばかりにたくさんの言葉が舞い、キリスト教をベースとしたセラピーや人はいかに生きるべきかなど、倫理や道徳といった問題にまで派生する。
そうなると、文化だとか風習やしきたりなどなど、やたらと脳の可塑性を無視した議論が活発となり、いささかうんざりしてきてしまう。何かどこかが歪んでいて、本末転倒のような愚かしさ。それで、なんとか教ではこーだけど、なんとか教ではこーだ、という具合に比較する人たちも現れる。もうだんだん何かどこかが狂っていく。
実際、そういうことと自分とが何の関係もないことを知っている。知っているからこそ毒を撒かれる。それでいて、そうやって撒かれた毒に精神が麻痺していく。
神さまとだけお話せよ、とか、素朴な信仰、というのはスピリチュアルな問題で、茨にがんじがらめにされた話ではない。
一つ分かっているのは、神さまもパパさまも政治家じゃないってこと。人間の罪そのものを赦すために、人間はあれこれと方略を考える。もしかすると戦争すらその一部ではないかと思うくらいだ。そして、どんどん罪は重ねられ、罪ということと賠償ということがいっしょくたの観念になってちまたにあふれ出すらしい。
きっちりとしたラインがある。
聖と俗をいっしょくたにするからわけが分からなくなる。
使徒言行録 11. 19-30 アンティオキアの教会
パパさまが天に召された。不思議な感覚。去年、娘とアシジへ行ったときには、まだ議会に参列なさっていたようで、わたしはイタリア語がまったくわからないのに、テレビのニュースでイタリア議会を眺めていた。日本のような国会の中継という感じではなく、パパさまがこうおっしゃっている、ということが議会以上にイタリア人にとっては大切なことらしく、それは議会が何を決定してもパパさまが言うことのほうが・・という子どもっぽい感覚にも似ている。
おそらくは、政治や政治家に失望すれば、パパさまなのかもしれないし、この2つのバランスがイタリアっぽく、町のあちこちに教会はあり、通りにはシスターやファーザーが歩いている。朝になれば鐘の音、昼にも夕暮れにも鐘の音、一日中どこかで鐘の音が聴こえる。いわばすべてが町の一部であり、生活であり、信仰というものを持たない人たちでも鐘の音には反応する、という雰囲気かもしれない。
大学時代、パパさまの来日のポスターが貼ってあった。シスターたちは慌しく、学生も、洗礼を受けた熱心な人たちが一緒に会いに行った。とてもウキウキとした感覚で、かんちゃんが本当に幸せそうに微笑んでいるのを見て、わたしは不思議な気がしたものだった。(これは来日直後の様子らしい。朧な記憶。)
信仰が日常的にあるということは、神の愛が日常的に溢れているということであり、学内へ一歩入るとそれが当たり前になる。それでいて、学外へ出ると、まるで空気が変わるように何かが変化する。そういう切り替えをまるでスイッチをオン・オフするように行う。それでいて、一人と二人とでは何かが違い、神の愛を通した関係というのは学外でも続く。
永遠の父がいるために、わたしたちは永遠に子なのである。
普通は両親が亡くなれば、自分もまた親であり、子を育てているため、親である意識のほうが強くなる。でも、永遠の父の前では、わたしたちは誰しも子であり、いつまでも子で生きている。神の前では誰でも子であり、わたしはいつも子なのである。パパさまが身近に感じられるのは、永遠の父がいるからであり、永遠の父の前ではわたしの寿命を星の寿命と比較するようなもので、すべてのことがどうでもよくなってしまう。
わたしは、このところずっとパパさまを愛せなかった。それはあほブッシュと一緒に写っている写真を眺めたせいかもしれないし、どこか世俗的な匂いがして好きになれなかった。飛行機に乗ればパパさまのグラビア、ホテルに泊まればパパさまの絵皿が飾ってある。さらにそれがイタリアのテレビ放送と重なり、ローマへも行かなかったくらいだ。
よく分からないけれども、『法王』(教皇が正式)というのはそういうものらしい。いや、本当は違うのかもしれない、ということを今になって少し感じた。どうしても皇室外交のイメージがあるために、わたしはどこか屈折したシーンを眺めるように何かを眺めていただけなのかもしれないと思う。
わたしは、どこか重苦しい戦後の社会というものの変遷を実はよく分かっていない。気がつけば、あるのは不景気な世の中であり、世界経済であり、イデオロギーであり、国連であり、組織は発展し、戦争は相変わらず発生し、いつの間にかうさん臭いのは宗教とばかりにすりかえられている。いやな世の中だ。
わたしの頑なさは20世紀のひずみから出てきているのかもしれず、不思議なことに、今回わたしはパパさまの死に少し驚き、僅かながらでも悲しみを伴っていることがショックでもある。愛は尊く、広くあまねき、空や空気のように存在している。愛は風という言葉。
ルカによる福音書 6. 43-45 実によって木を知る
「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
実によって木を知る。自分の悪しき心の出所も何となく理解したと同時にわたしにはまだまともさが残っている。おそらくは要らない情報が多すぎるのかもしれない。一体わたしは何をしているのだろう。ごくありふれた日常を過ごしているだけ。
そして再び鈴が鳴る。本当に鳴った。何の音だろう・・・偶然だろうか。テレビだろうか・・・偶然。
愛は永遠。
春咲かぬ桜を待ちつしづごころ散るや桜は召さるる天に
世にふるや遠の報せのめぐりゆくせまき地球におどろきもせぬ
げにあらやすこしおどろくわが身かな海瀬わたりぬ鳥を思はぬ
背景に壁紙を使うと、文字が読みにくいと文句を言われたことがある。それでも何となくうすらぼんやりしたところが自分のブログという気がしてくる。
最初はまったくちんぷんかんぷんだったのに、目が自然と機械語に慣れるようで、うすらぼんやりいじっているうちにずいぶん改造したような・・・やっとアメブロから解放されたようで、カスタマイズはなかなか気分がいい。
でも、スキンによって、できることとできないことがあり、今回は思い切って背景に壁紙を使っているスキンに変更してからばっさり切り込んでいった。以前のスキンもそれなりにアメブロ・スキンの中では気に入ってはいたのだけど、何となく自分っぽさがなく、いつまでもお仕着せのような気がしていた。
一度やり方を覚えてしまえば、素材屋さんからアイコンなどを借りてきてもいいし、そうなると大元のスキンがどれなのか、パッと見ただけでは分からないかも。
この記事は、実験中・・・
画像を使わないとどういう風に表示されるのかな、と思って。
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わたしに分かる範囲内のことで、ご質問があればトラックバックでお願いします。ご参考になるかどうか分かりませんが、記事にしてトラバらせていただきますので・・・よろしくお願いします。
あめまにゅの『CSSを編集する』はまったく参考になりませんが、それなりに役立つトラバもありそうです。
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『風マニア』がアメブロのリニューアルの影響で、すっかり遊び道具になりつつある・・・
カテゴリー増やしてわけてわからない記事のゆくえを目と手で追いつ
ランキング止まったままで変わりゆくお勧めブログjavascript
Shiftキーあることを知るブログ記事frontpageを思ふここちする
目の前の編集画面わがブログすっきりくきりシンプルスキン
真っ白なブログ憧るるデフォルトのPlain Jane懐かしんでは
いつのまにログアウトなりわたくしは気づかぬうちに追い出されてる
飛ぶ記事を飛ぶ言の葉の逃げ場かな電子の散りしミモザ葉のごと
■ご返歌
打ち込みしタグの苦労をプログラマ見ざる聞かざる日光の猿(biasさま)
あんぐらに陽のかをり嗅ぐ電子文字さくら前線横浜ラジオ(しらいし)
☆
そんなこと聞いてないヨと居直られ
「オマエがボケ」だとそっとつぶやく(ヤシマさま)
言わざらば棚に隠したぼたもちは化石となりて暮らしつたふれ(しらいし)
☆
この年で 今夜もタグを 悩みつつ打ちつうたれつ 日々修行。(limeginさま)
ユーミンをなつかしんでるあなたつてつりめのにあふタグつかひかな(しらいし)
☆
久しぶりにご返歌しているような・・・
そういえば、トラバろうと思ってもどこの記事にトラバってよいのか迷いますね。
飛ばす記事いづこにとどく迷いみち迷子のやうに本当に消ゆ
ping送信が届いていないんです・・・このところ。
あーゆーーつ。
少しずつ書き記したる無意味さを永久に問うては散る言の葉は
これでもか、これでもかって羅列するふぞろいな文字うつろわば春
失くしたキー不意に現るジーパンの後ろポケット何日眠る
ドラクエをやっているほうがマシだよと機械相手になにつぶやくか
短歌にはポツポツとしてあらわれる大きな文字がよくにあふかな
一首詠み、改行のタグ加えてる。まどろこしさがすぎゆくばかり。
もともとはひとりごちたる歌詠みはのんびりとした画面がにあふ
勢いのあしき羅列の浮ぶとき希望のひかり夕まぐる雲
人類は機械つかって猿(えん)になり遠回りしてタグを打ち込む
今日はどうしたってお疲れモード。慣れたら少しは変化するだろうか。せっかく書いてもまた消えるのではないかと、編集しながら書くことに慣れていないせいで、すごくめんどーな気分。
しかも、重い。
コメントも飛ぶし、編集画面を切り替えようと思ってもシステム・エラーの表示が出てしまうし、こんなことならタグを睨みつけながら書いたほうがマシかもしれない。
一番めんどーなのが、<br>と<p>が両方表示されてしまうということで、どっちにしろ<br>を使わないと改行できないのだから、<p>は必要ない。要するに打ち込んだタグ通りサイバー上に表示されないのが原因だし、そうやって両方入れて書いているうちに改善されたら、今度は過去記事を編集するのが非常にかったるくなる。
いつも、これ。
1クリックでデザインを変更できるのはよいけれど、結局旧いスキンと新しいスキンとの背景色が変わっただけで、こんなんだったらカラータグなんて使わなかったほうがよかった、ということになる。だから使わない。
わたしはかなり大雑把だから気にならないけど、お気に入りのブログを毎日巡回している人は大変かもしれない。気分の問題なのよね・・・自分のパソコンのお気に入りを順番に巡回するように、アメブロのリンクを使っていると、今度は表示数が限られているために、何となく大変になったような気がする。
スタイルシートが使えるようになったからといって、わたしはメニュー欄の幅を変えられない。テキストは微妙に移動するのだけれど、大元の大きさが背景色となって変化してくれない。『風マニア』のタイトルをクリックしてもトップページへ飛べない。これを改造しようと思っても分からない。ほかのスキンと比較してみたけど、結局、よく分からなかった。
画像を埋め込むタグ?
忘れた・・・
HPだったら、いちいちテーブルタグを使って画像の位置を決めたり、レイアウトまで考えるけど、なんでインスタント・ブログでいちいちそんなことまでしないといけないんだ?
一気にお引越ししようと思う人の気持ち分かる・・・新しいデザインで、簡単に更新できて・・・で、アメブロはこのまま置いておけば更新情報くらいは届くし、どこのサーバを借りても結局は関係ないよね・・・
なんか疲れるな・・・
もともと機械が嫌いなの、あたし・・・
あーやだ。
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改行の仕方?
「Shiftキー」+ 「Enterキー」を押すそうです。
アメブロ離乳情報によると。
せっかくコメントを書いたのに、どうやらまた飛んでしまったらしい。アメブロが重いと感じる理由は大抵コメントを書いた時のような気がする。
----こらこら、他人の恋愛話までネタにするのか?
する!
それくらいじゃないと毎日更新するなんて不可能・・・
というわけでnattoさん、ごめんなさい。わたくしはちゃんとコメントを書いたんですが、アメブロが・・・・(^_^;)
今は地球が狭くって、わたしが遠距離恋愛を諦めた時代とは違う。今にして思うと、no realityと言われた理由が理解できる年頃になってしまった。好きでも、no reality。それは本気だとか本気ではないということではなく、わたしはとりあえず大学は卒業していたものの無収入。あちらはドイツの高校生。インターネットも当時はタッチの差でポピュラーではなく、せいぜいエアメールを書くくらいでしょ?
一緒にしたら悪いか・・・
でも、結婚はできないが恋はできる年齢。それでいて、no reality。わたしは親が金出してくれないと渡欧できない。今の時代より渡航費も高かった気がする。あちらは親が仕事で日本に来るとき、ビジネス・チケットをエコノミー2枚に分割してもらうとか、そういう情けなさだった。
その後、ドイツには大学へ入る前に兵役検査があることも知ったし、彼が運良く兵役を免れ、その後ミュンヘンを離れ、少し遠くの大学へ行くことになったことまでは知っている。今にして思うと、あれは一体何だったのだろう・・・みたいな不思議な恋だった。
ちょうど時を前後して、友達がイギリスへ行くことになった。ロンドンに転勤になってしまった元恋人を追うため。行く前にはウキウキしていたようだけど、結局は向こうへ行き、1ヶ月で現実を知り、別れることになった。結婚まで決まっていたのに、仕事の都合があるからと、結局、彼は一人でロンドンへ行くことになった。仕事の都合があるのは彼女のほうも同じ。つまり、彼女にしてみれば、そんなに簡単に退職できないから時期を変えてほしいというだけのことが、人生を変えてしまったらしい。
タイミングなんだろうな・・・
その後、二人は別々の人と結婚して・・・というケースは叔母さん。叔母は40歳で未亡人となり、叔父さんの遺言で、恋愛はいくらしてもかまわないけど再婚はダメと言われている。
彼氏はいるのである。それが大昔に結婚を考えた人だというから驚き。そのうち、ビジネス・パートナーとなり、不倫だ。
「・・・だって、不倫でしょ?」
って叔母さんに言ったら、怒ったのなんのって・・・
「私の年になったら誰でも結婚してるのよ!」
と、切り替えされた。
もうかれこれ20年近くなるけど、叔母はまだその彼氏と付き合っている。「60歳を過ぎたら結婚しようかな・・」って、この前従妹の結婚式で久しぶりに顔を合わせたら言われた。敵?は、まだわたしの言ったことを覚えているのだろうか・・・
この手の話題は尽きない。なんでかというと、一度軌道から外れてしまうと、実は結婚というのも一つの生活であり、なんていうか、生活の外にあればあったなりに通過してしまうものらしい。
それでいて、アモールのおばさんの愚痴を考えると複雑な心境。
アモールのおばさんというのは、わたしが学生時代に入り浸っていた喫茶店のママで、母と同い年。若い頃に離婚し、わたしより5歳上の娘がいる。娘が結婚してから自分も再婚し、しかも同居している。このため、孫にとっては血のつながらないお祖父さんがいることになる。
が、しかし・・・生まれたときからお祖父さんなんだから、孫からしてみたら祖母が再婚して祖父がいるということは理解できない。しかもめちゃくちゃなついている。
ここまではハッピーエンドみたいでしょ?
ところが、娘さんからしてみたら義理の仲だからそりゃ大変。だったら別居したらいいのに親からすれば孫が可愛いから譲らない。年中、母子で喧嘩しているくせに、今度は寝たきりになったら娘に迷惑が掛かると言い出し、「なんで再婚なんてしてしまったんだろう」と後悔している。他人の世話までわが子がしなければならないということに、深い負い目を感じるらしい。
ヘンな家族。
まあ、じいさんが他人なら婿も他人だし、他人は他人同士、孫を挟んで仲がいいらしい。わけ分からん。
恋愛と結婚と家族、というのはまったく違うカテゴリーらしい。