March 30, 2005

あーもーがっかり〜!

昼寝しようか、アイスコーヒー飲もうか、迷いながらサーフィンしているうちに、「ん? 新しいジャンル? 関西??」 

Luluさんのところで発見しました。

なんで、関西だけが独立ジャンルなんだ? お笑いと一緒にしろ!! なんでつくばは無いんだ? つくばブロガー単独首位を狙います!!(無いっちゅーの)

関西人だけはどこで暮らしていてもどういうわけか関西県人会などを結集し、うちのダンナでもいまだにそーいうあほなノリあります。なんででしょうね? 昔から不思議なんだけど、あれだけ都会でも関西は村落なんだなーっと感じることが多々あり、偶然だけどうちの裏の家も関西出身だし、隣も実はご主人が京都育ちだという・・・せまい、せまい。つくばは関西人多いから、気をつけないと。(なにを?)

冗談抜きに、アメブロの新しいジャンルが発表されたというので見に行ったら、もう何とも言えないくらいがっかり〜、しました。馬券が外れた時くらいのがっかり度はあります。

今度こそ、このウザイ「本・書評」から解放されて、もっと詩とか文芸とかさ〜、そしたらわたしもお引越しして〜って思っていました。頭の上に重石を載せられている気分がうまく言えない。

初っ端からだもの・・・書店の閉鎖が相次ぐとか出版業界の不況とか。それとあたしとどーいう関係があるんじゃ!って思いながら、そーいや近頃あまり本を読まないしなーと反省しながらも、足下にも家にも本だらけで未読本は多いし、これが消えたらもっと家が広くなるだろーとか、あれにこれにと悩みはつきない。

そのくせ、カズマ・ブログはジャンルが恋愛だし、単に活字や出版ということなら、「本・書評」というのはまるきり意味がないことも知っている。いっそのことこのジャンルを閉鎖して、すっきりくっきりとかね・・・

ところが・・・

「本・書評・文学」になっている。

こだわり、なんだろうな。以前、某歌人に短歌はセカンド・アートでいいって言ったら、その後出るわ出るわ岡井先生の出版物など片っ端に。一種プライドの問題なのかもしれないし、文学という宗教があるのかと思うくらいどこか何かが違う。

わたしなりのアメーバ・ショックというのがあって、某社長のブログで、「ざけんじゃねーよ、こんなんは誰でも書けんだよー」って調子で記事がアップしてあったのを見て、ヒマな主婦ブロガーのわたしは恐怖におののいてしまった。

その後、某作家のブログで、「社長の書き物という点においては・・云々」という記述を眺め、「きゃーーーーーっ」って思ってしまった。

たしかにあまた出版物のある中で、純粋な意味で文学と言えるものは限られている気がする昨今。そういえば、かつて佐藤春夫さんの新聞記事の抜粋をネタにその手の違いについて書いた記憶が・・・アメブロガーになって以来、そういう話題からは次第に遠のいてしまっている。

優雅に文学などを語らう時代じゃないのさ、今は。世の中銭・銭・銭で慌しく、あの店もこの店も閉店したとたんにコンビニに変わっていたり・・・そのコンビニでさえ潰れて携帯ショップに。どんどん変わるからついてゆけない。

今さらあたくしの年で、なんでノウハウを買わないとあかんねん、っていっつも思うのよ。特にパソコン関係の本を買うのはおバカという気がする。検索したらいくらでもその手の情報はタダでゲットできるというのに。

それにしても本屋から専門書と参考書の類を外したジャンル分けを連想してしまう。特に雑誌コーナー。ファッション・芸能・占いというのがお笑いと関西に変わっただけ?

それにしても占い師ってすごいな。昨日、細木数子さんの番組を観ていてそのように。他人に不幸を告げる瞬間の威風堂々としたところが素晴らしい。まあ、占い師なんて良いことばかり言っていても儲からないからね。不幸を告げるところに値打ちがあるのかも。

「じゃ、先生、どーしたらいいのでしょう?」

ってなるし・・・

すごい世界。

今の時代・・・・小説読んで、「じゃ、先生、どーしたらいいのでしょう?」っとはならん。政治家になるならプロレスラーのほうが向いていそうだし・・・

にしても、音楽にジャンル変更しても似合わないよね。歌人なのにさ。あーあ。

投稿者 Blue Wind : 04:09 PM | コメント (0) | トラックバック

ひとやすみ

塾が休みだというだけで、のんびりしてしまう。それにしても、塾の先生っていつお休みしているんでしょうね? たまに電話が掛かってきても夜10時くらいで、おそらくは毎年受験が終わって一息ついている頃に1週間くらいヴァカンスがある程度? 今は小学校のほうがお休みばかりだから、やけにその違いを感じてしまう。

娘も慣れてしまえば塾友というのがいるらしく、お迎えに行くと友達とのんびり待っている。小学校へお迎えに行くより、しゃきっとしているような・・・気のせいかな。

たまに、「お母さん、食べる?」とコンビニで買ってきたらしいスナックを後ろから差し出されても、「運転中!」って言うしかない。走行中に話しかけられるほうがマシってことが分からないんだよね・・・おちびには。交差点で右折ランプをちかちかさせている時ほど話しかけてくる。こっちはクルマが途切れるのを待っているから、一番危険。たしかにクルマは停まっているが・・・まあ、渋滞していることも多いからそうなのかも。信号が右折に変わってからのんびり曲がってもよいのだし・・・それでも後続車がいると気になる。

娘はいつも授業が終わって、家に電話して、コンビニへ行って買い物をするらしい。たまに送迎バスつきの塾へ変えてやろうと思うんだけど、本人にしてみればそれだけは嫌だと言う。

たしかになぁ・・・集団生活というのは学校だけで充分のような・・・毎朝決まった時間に皆と登校し、一人下校は禁止されているので毎日誰かと帰ってくる。ちょっとお母さんが迎えに来たとか、帰りにコンビニへ行くとか、規則でがんじがらめの学校生活よりも塾のほうが楽しいのかも・・ある意味。

娘もだんだん使い分けというのを覚えてきて、学校には学校用のパーソナリティがあるらしい。親から見ると、それは普段の娘とはいくぶんかけ離れているために、よぉ〜っく疲れないな〜っと感心する。集団生活に適応するためには、それくらいのノウハウは必要なのかもしれない。

春になると、わたしは毎年夏のヴァカンスのことを考え始める。大抵は、ダンナの休みのことがあるから間際にならないと決まらない気もするけど、それでも旅行の計画は考えているだけで楽しい。

今年は・・・

塾。

分かっているから、去年は長めに旅を。それでも去年は去年だし、今年は今年。夏期講習は大切だよなぁ・・・夏が過ぎたら学校行事が多くて勉強なんてしているヒマないし・・・

それにしても、仕事の好きな人たちが多いのには驚く。

----家にいて退屈しないか?

しない。

毎日好きなサウンド聴いて、うだうだしている。皆があくせく働いている時に昼寝をしているほど幸せな気分はない。

タンザニア!

え・・・毎月ガイドを2回するだけで食べていけちゃうの〜?
だったら、何のために働くのかよーわからん。

日本はすごいよなぁ・・・毎日朝から晩まで働いて、その上にまだ不景気だとか失業だとかあれこれ気にしながら生きているのが普通らしい。それでは足りずに老後だの年金だの、とやっている。

投稿者 Blue Wind : 02:01 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 球児には地元の子らのつどふかと遠くの園は埋め尽くす庭

目を閉じてまどろむなかれ春の夜はめまぐるしくも文字(もんじ)流れる
春の陽はすこしなつかし青き日のわだちのうへをあるく想ひ出
桜には花だに揺らす春の風葉の生ひ茂るひかり待ちつも

陽だまりに自転車ならびすくすくとゴーカート走るコースのやうに
陽の中におしすすみゆく背中には開放感を乗せゆくか子ら
まぶしげに自転車漕いでゆくみちはいづこへつづく春休みかな
すくすくと葉の生い茂りぼんぼりをかそけく揺らすあらくさの庭

すこしずつ見あぐるやうな水仙は首を揃へて森の香に生(あ)れ
かしぐまでならびゆく花今日もまた鮮やかな黄を覗かせている
少しずつ濃くなりゆくか春の花わたぼうしにぞ飛びゆく風に
おとづるる春の匂ひを待つ風も身を潜めたり弥生の終はり

桜なら今が描き頃一筆にちりばめた花ぱつと散らせと
微笑んで咲いてるやうな一本の気の早い木はいつ散るのだらう
陽だまりは一つの景色つくりだし桜の花をつくりだす道
歩道には待ち合わせする吾子の立つ勢いの手に時を覚えり

カーラジオ断片の声聴こえては甲子園すら終わりゆく負け
球児には地元の子らのつどふかと遠くの園は埋め尽くす庭
子らの夢ちかくも春はカーラジオ深深としたまどろみのみち
うららかに過ぎてゆかんかこの春は水仙の花顔を揃えり


人口が少ないっていいね、何となく。

投稿者 Blue Wind : 01:17 AM | コメント (0) | トラックバック

ジモティ

本日の駄文2つ目。明日は娘の塾がお休み。やっと送迎から解放される。

いや、その言い方は正しくない。学校があっても娘が戻って来たら結局送迎しているわけで、春休みがスペシャルというわけではない。が、しかし、生活時間帯が微妙に変化するため、昼寝を日課としているわたしは昼寝ができないせいで夜が眠くて困る。

----夜が眠いのは当たり前じゃない?

誰だ、そういう愚問を発しているのは。なんせ10年以上に渡って午後出勤ではなく午後から登校するのが日課だったせいで、わたしは6時間くらいゆとりをもってフレックスタイムを長らく生きてきた。真夜中になると目がようやく覚める気がするくらい何かが違う。

それがやたらと眠いのだから、昼も夜も中途半端に朦朧としている上に、クルマを運転するためにうっかり眠れないというブレーキが意識の底にあるらしく、どうもすっきりしない。少なくても眠れる以上は不眠症というわけでもなく、旅行へ行くと早寝早起きになるから不思議。時差ボケしているせいだろうか? いや、時差がほとんど無くてもそうだから、結局、怠惰というものも一つの生活リズムになるらしい。

一つ覚えているのは、行きのカーラジオで「常総学院」という単語が聴こえてきた。娘に、「甲子園?」って訊いたら、「お母さん、知らないの?」とバカにされた。もうそんな季節かと思っているうちに、娘を迎えに行く途中、6対5で負けたというニュースを聴いた。

もう一つ覚えているのは、どういうわけか一本だけ民家の庭に桜が咲いていたということ。ほかの桜の木はまだ開花していないのに(たぶん)、その家の桜の木はすでに満開だった。

さらにもう一つ覚えているのは、あの自転車2台のツーリングは邪魔だなーと思いながらクルマを走らせていたら、娘がS中の子たちだと言う。制服を着ているわけでもないし、自転車にマークでも入っているかと思ったら、そのうちの一人がなんとか君のお兄さんという話だった。わたしには仮に娘の同級生だったとしても後ろ姿では判別できないだろう。

昼間のんびり娘とドライブしていると、何となく娘のほうが物知りのような気がしてしまう。娘が常総学院へ行って、甲子園へ応援へ行くというのもそれなりに悪くないかもしれない(娘の志望校ではありませんが・・)。わたしは女子校だったので、甲子園には行ったこともなければ、縁も無い。ダンナは地元に近いために、高校生の頃一度だけ甲子園でカチワリ売りのバイトをしたそう。でも、一つも売れなかったらしい。想像しただけで笑えた。

* カチワリというのは、氷のことらしいです。見たことはありません。

投稿者 Blue Wind : 12:07 AM | コメント (0) | トラックバック

March 29, 2005

集中力の欠如は続く・・・

塾へ行っている娘を迎えに行くまでのこの時間、短歌を詠むか、駄文をアップするか迷う。近頃ではちょっとしたヒマつぶし感覚で記事をアップすることが多い。娘が春休みのせいか、どうも集中力を欠く。

集中力が欠如するとどうなるか?

(1) あれ?ヘンだな・・・敬語がやけにアンバランスに使われている?? (めんどーだから直さない)
(2) せっかく今日は調子がいいと思いながら短歌を詠んで、いざアップしようと思いながら画像を選んでいるうちに、間違えて編集画面を消してしまった。当然、短歌もパア〜。がっくりしたけど、それでも悔しいから詠む。でも、気が乗らないせいか、そぞろ。
(3) 日頃から脈絡なく書き始め書き終わるため、やたらと駄文が長くなる。
(4) ネタ探しに対する集中力を欠く。

今もね・・・ちまちま時計の針を眺めながら娘からの電話を待っている。どうも落ち着かない。こういう時に歌を詠めと言われても、集中できない。時間があるなしにかかわらず、集中力というか、静けさというか、そういうところが和歌を詠むには大切な気がして、気が散ると自然と詠めなくなる。真夜中に家族が寝静まった頃が一番落ち着く。なのに春休みなので、ちまちま娘が邪魔するし、ブログを読みたがるので、「ふっ、読んでも分からないだろー」という姿勢で書いているようだ、わたくしは。(甘い?)

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アメブロ・リニュへ向けて秒読み段階?(計算しないけど、めんどーっちー)

一番気になるのが、ジャンルの変更。事前のお知らせ記事によると、既存のジャンルの分化という方向で増やされるようで、実際にはノン・ジャンル的「日記・blog」というジャンルに集中しているのを拡散するのが狙いのような気がする。

ちなみに、「本・書評」だったら、「本」と「書評」に分かれるのだろうか? そんなバカな・・・それより、「アダルト」というカテゴリーをつくれと思ってしまう。どうやって見ても18禁というようなブログは、特殊カテゴリーに分類するべきである。

春休みだからなおさらそうやって思うのかもしれないけど、おやじの当たり前と主婦の当たり前は違うようだし、結局A◎Lが日本ではかなり悪評を被ったのは記憶に新しくもないけど新しいような気がする。知らないでうっかり加入するとまるでテレクラと勘違いしているような人たちが徘徊しているため、にっちもさっちも行かなくなる。A◎Lに言っても無駄だったし・・・「お客さまの責任」なのだそう。

ブログは単なるテキスト社会だから、関係ない?

だったら、ぐたさんに訊いてみよーとなる。キャパってあると思うのよね。官能小説、性的描写ってことと、単なるエロゲロとの違いには。以前、ひたすら性器を描写した短歌を詠み、それを編集長にボツにされたとか、風俗嬢シリーズとか、わたしから見たらテリトリーが違うために気にもならないことが、文学とエロゲロの違いが分からないという具合に悩んでいる歌人がいた。

心理学も臨床系になると、どこにラインがあるのか分からないし、結局、目的意識の違いがラインになるような気もするけど、テーマやジャンルっていうのはそういう目的意識の端的表現の一つ。

だったら、「短歌とエッセイ」と副題を入れている以上、それについての記事をアップしろと言われても、しょせんわたしはヒマな主婦ブロガーですからせめて自分のブログくらい好きなことを書かせろという気分に陥ってしまう。

あーでもない、こーでもないと独り言は続く。

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それともう一つ。

ランキングの「表示/非表示」を選択性にしてほしいというメールを書いたところ、アメブロ運営局から「そういう要望が多いので検討中」というお返事が届いた。で、その結果、ランキングそのものに「参加/不参加」を選択できるようになったらしい。

これってラインが難しい。

わたしはアメブロ・ランキングのほかに別のランキングにも登録しているから、そういう意味ではランキングに参加しているほうがアクセスアップにもなるし、この世界露出が大変だからブログの宣伝になるのなら参加しているほうがよいに決まっている。

ところが、アメブロって賞金が掛かっているからややこしい。僅かなことでも金が絡むとそういうものなのよね。かといって微妙に貰えそうにないラインを徘徊しているところがさらに微妙で、ランキングのページで2枚目とか3枚目になってしまうとランキングそのものに値打ちがないから参加であろうと不参加であろうと実はブログの運営にも何の影響もない。

あ、タイムリミット。そろそろお出かけの準備をせねば・・・

リニュが終わってから、のんびり考えるか・・・

投稿者 Blue Wind : 03:30 PM | コメント (0) | トラックバック

2つの相反する言葉の羅列

ブログに限らず、どうして書くかと言われれば、「書きたいから・・」としか答えられない。何かテーマがあるわけでもなく、目的があるわけでもなく、ネットを始めたのも気まぐれなら、短歌はいわば冗談で詠み始めただけだし、単に日常生活における息抜きというか、子育てに追われて、それでいて一人の時間が欲しかっただけなのかもしれないし、飽きっぽいのに今でも続いているほうが不思議。

それでも無目的に始めたはずが、いつのまにやら歌集を出そうとか、2万首までは詠もうとか、それはそれで一つ生活の励みとして存在している。

IDのcherrynutというのは造語。昔から使っていたRindoというハンドル名は、メヒコ民謡のシェリート・リンドをもじったもの。意味は分からないけど歌える曲の一つで、三拍子の民謡というのがとてもめずらしかったせいか、わたしは初めてこの曲を聴いた時、意味もなく感動した。なんて美しいのだろうと・・・

数年の月日を経て、その曲が、「美しい空」という意味だということを教えてもらった。

メールやチャットにも飽きて、HPのつくり方を知らなかった頃、BBSをレンタルして日記を兼ねて使っていた。今にして思うと、その使い方はどことなくブログっぽく、BBSをまるでHPをリンクするようにリンクしてくれたり・・・「HPをつくったらURLを知らせてください」とよく言われた。そのBBSの名前が、「新しい風の部屋」だった。当然、当時は短歌とは無縁だったから偶然というのは不思議だ。

それで、話をIDに戻すと、Rindoのほかにcherrynutというのも「シェリート・リンド」をもじったもの。早口で何回か繰り返すと、その意味が分かるかも・・・

こういうのは不意に脳裡の浮ぶから、自分でもよく分からない。でも、「風マニア」でもそうだけど、2つの相反するものを組み合わせるのは好きだ。「風」と「マニア」はまったく方向性が逆で、cherrynutもそう。cherryはさくらんぼ、nutはナッツ。決してさくらんぼの種という意味ではない。単にまったく違ったものの組み合わせ。

こういう芸当ができるのは言葉だからにすぎず、実際には存在しないのに言葉は存在し、わたしは不意に組み合わせただけなのに、風(短歌)のマニアという意味なのだろうとか、さくらんぼの種なのだろうとか、おそらくは深く考えることなく通りすぎてしまうイメージのようなもの。付けた本人でさえ意味がないのだから、もともとは何の意味もない言葉。

それでいて、そういう2つの相反する感覚というのは自分の中には常に存在し、ノラクラと平凡で当たり障りなく存在する自分と、生育環境に培われたせいか、すでに外界や環境からは独立して頑固なまでにマイペースな自分がコアとして存在し、常にその2つのバランスを気にしながらわたしは生きている。

普通ってどういうことなのか、たまに戸惑う。適齢期とか結婚ラッシュとか、それすらわたしにはどうでもよいことだったのは、わたしが子どもの頃に交通事故に遭い、歪んだ骨盤が無意識のうちにわたしを蝕んでいたのかもしれないし、それが外見だけでは分からないところが何とも厄介なところだった。

例えば、普通に友達同士のリズムで歩こうと思えば歩けるし、実際、わたしは歩くのが速かった。でも、走ると遅い。靴の減り方が左右違う。ふくらはぎの内側が幽かに麻痺している。すべて誰も気にしない程度の障害であり、この程度では完治として扱われるだけ。たまに母がナーバスになっていただけかな・・・せっせと整体治療を受けたり、歩き方を練習したり・・・

この前眼鏡屋さんで、「首を傾けるのはクセですか?」と訊かれ、ドキッとした。クセならクセで、今はそれに合わせてレンズをつくるらしい。おそらくは単に座っていても骨盤が歪んでいるため、無意識のうちに体のバランスを取っているうちに、こういうクセがついてしまったのかも。そうなると、わたしの真直ぐというのはすでに傾いた世界らしい。

本人すら気がつかないであろうことが、不意にちょっとしたことで知らされる。

大きな不幸よりも、小さな不幸というのがとても厄介。震災のように大きな不幸だと書いていても分かりやすい。でも、個人のまったく些細な不幸というのは他人に理解されないところの補聴器のようなもので拡大されて響くわりには他人には伝わらない。

黙っていてもどうということのないことでも、他人の当たり前と自分の当たり前が微妙に違い、他人の当たり前により破壊される自分の当たり前を提示することはそれなりにわたしには意義があるのかもしれない。

・・・・・・・それにしても、ますます分かりにくく書いていません?>わたし

世の中、眠れない人たちが多いからええのんよ。

投稿者 Blue Wind : 12:03 AM | コメント (0) | トラックバック

March 28, 2005

生まれて死んで、普通に生きて

わたしは、母が仕事をしていたのがすごく恥ずかしかったんです。時代が違うと言われてしまえばそれまでなんだけど、わたしの子どもの頃には、母親が働いているというはとてもめずらしく、離婚したとか、独身とか、経済的な理由で共稼ぎとか、学校の先生とか、限られた理由で仕事をする人たちが多かった。

「父と母は喧嘩ばかりしていた」と書いて思い出したのは、大雑把に言えば、母がキレる理由は、父に、「少しは母親らしいことをしろ」と言われた時だったと思います。

慣れていたけど、母親が酔っ払って帰ってくるのが一番いやだった。父は逆に体質的にアルコールを一滴も受け付けず、それで付き合いと言えば麻雀などのギャンブルが多かった気がする。飲めないのだから仕方がない。弟もそうで、本人は、「コーラ飲んで酔っ払うから」と笑ってごまかすくらいアルコールがダメ。

それなのに、母はお酒に強く、接待だの会社の女の子を連れて飲んできただの、どこかの会社の営業みたいなノリで帰ってくる。普通だったら離婚のような気がするんだけど、父が文句言っても、「じゃあ、あなたが死んだらどーするの?」と平気で切り返す。

普通じゃないわけさ・・・

つまり、普通の家庭のお母さんたちがちょっと家事の合間にパートに行くなどというノリではなく、小さくても自分の会社を経営しているわけですから、日々是闘い。

もーいやでいやで・・・

父じゃないけど、母が離婚するって喚いても、わたしが平気で父と残ると言い切ったとしても何も困らない。だってお手伝いさんにお給料を払えばいいわけでしょ?(父が・・) それなら母親なんていなくてもいいし、わたしにはわたしの生活があるし、勝手に離婚するならすれば?みたいなノリ。

「なんであたしがあんたについて家を出ないとダメなのよ?」

って平気で母に対して思っていました。

母親ってバカだからね・・・子どもはいつも自分のモノだと勝手に考えている。母親らしいことなんて何もしなくても、そういうところは女なんだよね・・・わたしだってわが子は自分のものだと思っているし、それが正義だと思っている。だって産んで育てているのはわたしなんだから。

正直、娘が幼稚園くらいになり、「お父さんとお母さんとどっちが好き?」と訊いて、「同じくらい」と言われた時にはわたしはかなりぶんむくれた。それまでは、「お母さん!」って言っていたのにと思ったら裏切られた気がしたほどだ。

こうしたわたしの不平はどこか時代錯誤のようでいて、逆に今の時代では多すぎて問題にもされにくいような気がしている。わたし自身はもしかすると子どもが産めないかもしれないという不安を抱えていたから、特に結婚したいとも思っていなかったし、子どもも欲しいとも思っていなかったため、淡々と自分のことをやるように自立の道を模索していた。

が、しかし・・・

自己実現とか、家事や育児が嫌いとか、仕事のほうが楽しいというのであれば、やはり結婚などするべきではなく、世の中にはそういう人たちもいる、ということで終わってほしい。

こーね・・・なんであたしのほうが少数派なわけ?

ジェンダーがあーたらこーたらなんてどーでもいいです。わたしは生まれ変わっても女に生まれたい。悔しかったらわたしみたいに一度も働いたこともなくのほほんと生きていってみろと言いたい。全然平気なのよね・・・ダンナが日銭を稼いでくるのは当たり前だと思っているし、昔からデートで割り勘なんてヤツとは2度と付き合わなかったし・・・へいちゃら。

分からないな・・・これが仕事をしているのが少数派だったら、わたしも仕事しているかもしれないし、単に天邪鬼だと言われてしまったらおしまい。

なんでまたこんな記事を書こうと思ったかというと、『NEET』にコメントをいただいたから。日教組の指導方針とわが家の指導方針が違っていたからといって何を気にしろというのだろう?

結局、子どもを持って考えるのは、男の子でも女の子でもどうにか親から独立して家庭を持って子どもを育てられるように、というのが最終目標。もちろんそうはならないかもしれない。それでも、人間も生物である以上、親っていうのはそういうものなんじゃないかと。なんで、こんなにややこしいのだろう・・・

投稿者 Blue Wind : 03:19 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 その夕べ麗かな陽の森のうえ消えるともなくドア閉したるは

イースター通りすぎたと雨の日の昨日の春の茫洋を思ふ
天国は消され築かれ春の陽の幻のごと空につづくか
まどろみは春のものかと枯れすすき杞憂の原に身をやつし立つ
水仙は雨に濡れてぞ輝きを淡くもひかり濃くも背みどり

今のこと怒っているか吾の手は電子儚く歌を消すべし
あの歌はこの歌はなど惑うなら少しは記憶もどりゆくかな
あの過去は静止しているされど今消えてしまつた歌は戻らぬ

杞憂すら待ち望みたる桜色すぎゆかば春イースターゆく
その夕べ麗かな陽の森のうえ消えるともなくドア閉したるは
背に受くしまばゆき夕陽すみとおる背に受くし春昨日は去りし

麗らかにまぶしき春は車だに置きざりにして遠のく景色
何もかもこじつけるとも理屈とも不満とさえも思えぬ夕べ
雨の音聴こえもせぬが道をゆく車の音の絶えることなく
昼下がり緑深まる雨の音もうどうだつて春じゃないかと


画像を選んでいるうちに間違えて、歌を消してしまった。
電子文字なんて嫌いだーーーーーっ!!!!
詠めない、悔しい、それでも詠む、負けない、苛々。

ま、いっか。
諦めよう。
運命だ。

投稿者 Blue Wind : 02:02 PM | コメント (0) | トラックバック

年の差カップル、反対!反対!!反対!!!

⇒トラステに参加: 「年の差なんて」

何を怒っているんだ?>あたし

とにかく、両親が年の差カップルだったので、子は大変だった。たしか16歳くらい離れていたような・・・忘れたさ、もう。

何が困ると言って、父と母の言うことはまるで正反対。で、結局、「パパの言うことはもう古いのよ」で終わり。喧嘩しても母が自分から譲るなんてことはなかったですね。自称スカーレット・オハラの母はとにかく勝気で男勝り。

ある日、父がまた例のごとく母と喧嘩したとき、母が気が強いとぼやくので言ってやった。

「パパは顔で結婚したんだから、性格のことなんてとやかく言うべきではないわ」

ぽかんとした顔していましたね・・・父は。

まあ、その反動があってか、わたしは父には非常に甘やかされて育ったせいで、実は父親っ子である。大抵は母がヒステリーを起こし、離婚するとか出て行くとかやる。しまいには眠いのに起こされ、「うるさいなー、わたしはパパと残るから。じゃあね」と言って寝てやったら、さすがに反省したようだ、母も。

仲が悪いわけではないのだけれど、すぐに喧嘩するわけ。大抵は父が折れて終わるんだけど、機嫌が悪いとなかなかそうはいかないでしょ? そうなると母のヒステリーが始まる。年が離れているから、母にも甘えがあると思うのね。

わたしは、そういう親に振り回されて育ったせいか、子どもの頃からどこかませていたかも。どっちも子どもなのだもの。それぞれに価値観は違うし、世代間ギャップはあるし、どちらの言うことを聞いてよいのかマジに悩む。

しかも、年が離れているから、すぐに父が死んだ後のことまで喧嘩の種になるし、実際、心臓が少し悪かったせいか父は40代にしていつ死んでも不思議はなかった。実際には癌で亡くなったけど。それにしても父が亡くなった時、わたしは院生だし、弟は大学生だし、母が大黒柱にならなければならない。

母にも危機意識があり、そうなるとわたしはとても母には厳しく育てられた。いつでも一人で生きていけるようにというのが使命だったらしい。そうすると父が怒って甘やかす。「俺は死なん(=俺を勝手に殺すな)」ってことなんだろう。

弟の目はさらに厳しい。

これは後日弟から聞いたのだけど、中学生くらいの時に父と喧嘩しそうになり、その時、本気で倒そうと思ったら倒せることに気がついたんだって。傍から言われるのではなく、男同士ってそうなんだろうな。父は年寄りだし、弟は体も大きくなってきている。それ以来、自分の父親が世間よりも年寄りで、おじいさんという気がして、がっくりきたらしい。実際、わたしは父と弟が喧嘩しているのを見たことがない。

わたしから見た父というのは、いつもタフな人だったから、その話を弟から聞いた時、「ほおおお・・・」とやたら感心した。

一番つらかったのは母かも。

50代半ばで未亡人となり、その10年後には自分も発作。配偶者を亡くしたショックと子どもたちが独立していく寂しさと、その他諸々いろいろな心労が祟ったのかもしれない。しまいには誰の言うことも聞かなくなり、弟の言うことだけ。それでいて弟が結婚するとなったらヒステリーを起こし、無理やり別れさせたり・・・やることなすことめちゃくちゃだった。

よく考えたら、そういう話は年の差カップルだけではないのかもしれないけど、どうしても負い目というのがあって、親の年を訊かれるのもいやだったし・・・子どもの頃は。どこが違うのかよく分からない。でも、ほかの友達のお父さんやお母さんとは何となく違うような気がして、家族の誰もが母よりもむしろ父に気を使っていた記憶がある。一人浮いてしまわないように。そのくせ、運動会などがあると、父はいつも一等だった。

自然に加齢して、「年取ったなー」という感覚の中に、自分はまだ若いと言わんばかりの使命を持った父が混じっていると、自慢の父なんだけど、何となく負い目を感じてしまう。

あらゆる面において、わたしは「普通」に憧れて育ったのかもしれない。

投稿者 Blue Wind : 12:11 AM | コメント (0) | トラックバック

March 27, 2005

事故と衝動と桜ブルー

ダメだ・・・すっかり生活リズムが狂ってぼーっとしている。おちびが春休みに入り、ずっと家にいる。今日なんて、なんでダンナまでいるんだろうって思ったら日曜日?

あーもーダメだ。

春休みだというのに塾の春期講習。去年の秋から通わせているからどうもペースが合わない、塾と。3月から6年生の講座が始まり、春期講習も通常授業らしいし、日曜日まで授業なんだもの。これなら送迎しなくてもよい分、学校のほうがマシだと思ってしまう。

しかも!

午後になり娘を迎えに行こうと思ったら車がない。一瞬盗まれたかと思って昼寝していたダンナを起こす。それでも娘を迎えに行くほうが先決だと思って、ダンナの車に乗る。

乗っている途中で思い出した。

ファミレスに置いてきてしまったことを。お昼、友達の家から慌てて戻ってきた娘にケロッグを食べさせ(時間がないっちゅーの)、慌てて飛び出し、ダンナはすでに午前中娘にフラれて一人でボウリングへ行った帰りに食べてきたと言うし、わたしもあまりにも眠いのでおちびを降ろしてからそのまま近所のファミレスへ。

その後、わたしは、今日はあたたかいな〜とぼぉ〜っとしたまま歩いて家に帰ってきたらしい。

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衝動買いって何なのでせう?

わたしはあまり事故は起こさないのだけれど、それでもつくばに来て2回経験している。一度は若葉マークにカーブでぶつけられた。あんたが下手なのよって言ってもまるで通じないんだもんね、学生ってヤツは。こちらは路肩に車半分乗り上げて停止しているのに、道の真ん中を走行してきた。2度目は去年。この話はすでに何度か書いている。アメブロにつくる前か・・・忘れた。どちらも大した事故じゃない。

うちのダンナは事故が多い。いや・・・事故でないものも多い。例えば、駐車場に置いておいただけなのに車が破損していたとか、いたずらされたとか、タイヤがパンクし気がつかないで走っていたらどうも車体にまで影響がいってしまったとか。そのほかに当たり屋にやられたとか、普通の事故まで含めると、怪我がないのが不思議だ。しかもあれだけ事故ってるくせに免許はゴールドなのよ。世の中どーなっているのかしら。(え・・・事故じゃないって?)

どっちにしろ車を修理に出したり、買い替えたり、慌しい。だからね・・何かあったら買い替えようと思っているうちに何もないときにはないのね。当たり前か・・・

それで、車が盗まれたと思って、明日から困るなーっと思いながら、警察やら買い替えやらあれこれめんどーだなーって思いながらぼっーっと運転しているうちに、急にファミレスに置いてきてしまったことを思い出した。

このところ、内緒の話だが(書いたら内緒にもならん・・)、車の買い替えをしばしやめて、歌集を出そうかと考えている。が、しかし・・・歌集なんて儲からないし、なんで出すのか自分でもよく分からない。こんなのネットで充分だよなーっと思いながら、それなら春だしいっそのこと気分よく新車に乗り替えよう・・とかね。

そのどちらも衝動が足りないせいで買えない。

例えば、これがマタニティ・ブルーに揺られている時など、いくらベビー・グッズを買っても教材を買ってもそんなものは単なる気休めにすぎないと知りつつも、その瞬間だけはすっきりするので、それはそれでバカだなーと思いながらも値打ちがあったのかもしれない。次第に娘が成長し、なるようになるみたいな気分になると、そういう衝動買いも自然と消える。

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それにしても、結婚が一種の衝動買いだと思っている人たちって結構いるんですね。よく、結婚は勢いって語る人もいるけど、何となく理解した。

こーね・・・何がすごいって、やっぱり結婚ラッシュというのがあって、酷いと1度しか会ったことがないのにそのまま結婚しちゃったり、相手がアメリカに転勤が決まっているからといっていくらなんでも・・ってわたしの感覚からすれば不思議だったんだけど、いまだに離婚しないし、普通にやっている。いきなり招待状が届いたと思ったらアメリカでやるから来いと言われて怒っている人もいた。パワーが違うよね。

かと思えば、すごい大恋愛で結婚したはずなのに3年後にはしっかり離婚していたり・・・

こういうのは人生観かも。恋愛なんて結婚してからでいいって人もいれば、惰性で結婚した頃には倦怠期だったり、世の中って分からん。特に男女のことは。

かと思えば、不思議な日記を付けてる人がいて、訊いてみた。「○○さんは、今年の10月頃に結婚してくださいという話なので会ってみたが、お断りした」とか、不思議でしょ? 一体この人は何を書いているのだろう・・・とか。しかも男性の日記なのですよ。そしたら、結婚相談所のサイトを教えてくれた。

つまり・・・「いつ頃に結婚したい」という具体的ニーズがあって、なんでそんなことが必要なのかわたしにはよく分からないけど、人生には予定というものがあり、その予定の中に結婚があり、できればその時期なら都合がよい、とかね・・・

就職の相談してるみたいで・・・不思議な世界だった。

*******

事故とか衝動とかね・・・
縁起の悪い話だ。
そろそろ桜ブルーが始まりそうだ。いや、すでに突入しているのだらうか・・・分からない。

投稿者 Blue Wind : 06:03 PM | コメント (0) | トラックバック

March 26, 2005

ベビー・グッズ

⇒トラステへのトラバ: 「やってしまった! 衝動買い!」

わたしはバカだ、なんてバカなんだろう・・って、のたうちまわって後悔するのはベビー・グッズのような気がする。もう、こればかりは書いていたらキリないわ。

よせばいいのに、妊娠中には巨大ピーターラビットのぬいぐるみを抱え、電車に乗って帰ってきたら出血してしまったり、まだやっとつかまり立ちしたばかりなのに翌日トイザラスへ行って買ってしまった三輪車とか。部屋の中で誰が三輪車を乗るんだよー!って思いつつも待っていられない。で、結果的にほとんど三輪車なんて乗らずに補助輪付きに進んでしまった。後日その三輪車は家の前にあまりにも違法駐車が多いので防止用に置いておいたらある朝消えていた。

まだまだある。サンプルだけ・・って思ったのに買ってしまったディズニーの英語教材とか、全然使わないで終わった七田シリーズとか、これは衝動買いではないけれども妊娠中に無理やり実家から運んだピアノとか。結局ほとんど使わないのにその後2回も引越しし、その都度深い後悔を繰り返し、あげく娘はピアノが嫌いで・・・親は泣く。

ベビーカーだって生まれる前に買ってしまったA型。ほとんど使わずあまりにも邪魔なのでその後B型を買い、どういうわけかエチオピアに転勤するから貰ってくれと言われて違うタイプのベビーカーも引き取り、電車での移動に不便だという理由で背負子型のベビーカーまで買ってしまった。あーあほあほあほ。

ほかのことではあまり衝動買いという意識のないままに衝動買いをしているせいか、買ってしまったものはとりあえず諦めることにしているんだけど、なんせ気が短いからね・・・パソコンだっていつも衝動買いに近い。1週間待てば2万円安くなると知りながらも使いもしないテレビ機能付きのパソコンを買ってしまったり・・・お持ち帰りじゃないと絶対にイヤなのよ。

逆に語ると、普段ぼーっとしているから、あまり購買欲求というものが無い。それが娘のこととなると、どーしてあんなにバカなのだろうと思うくらいますます気短になってしまう。

今?

この前から学校のジャージが小さいと文句言われているんだけど、めんどーだからまだ買いに行っていない。

投稿者 Blue Wind : 11:20 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 水仙の淡い黄色の咲く庭はぼんやりとした太陽の色

春休み春期講習始まれば年度がわりのひと月はやく
水仙の一つ離れて咲く花の植へてもゐない球根を思ふ
水仙のふくらむつぼみ並びてはさやちかづきし花見の季節
桜より水仙の花少しだけ早くも咲くかつゆざむを思ふ
このうえに広がる空の青い陽はつらなるクルマ増えゆかんとす

激情を電子の文字にながめてはクリックせぬは知らぬ世間か
天蓋に蔽われている電子文字うつらうつらと雨漏りを知る
ほのぐらき夢深む底のてのひらにちぐはぐとしたつらがまえ得ず
神経を賦活させるかパソコンの伝ふかごとも脳裡飛びをり

水仙の淡い黄色の咲く庭はぼんやりとした太陽の色

淡き色染井吉野の広がれば八重の桜はまだ春を待ち
さくらさくら花の色さえうつろはばながき春日はいつ終はるだらう
偕楽園梅の開花のお知らせがしづしづ伝ふ茨城ラジオ
春の陽の渋滞のみちまどろめばこころおどろき信号変はる

投稿者 Blue Wind : 09:22 PM | コメント (0) | トラックバック

洗練されたブログ?

今時、インターネットが匿名だと信じている人たちなんているのだろうか? 今日もヒマな主婦ブロガーであるわたしは記事のネタを探すために徘徊する。すると・・・

きらり〜ん、と目に入ってきたのが、慶長さんの『ブログでクビになった人びと』という記事。どうしてこの手の話になると、自分がウキウキしてしまうのか不思議。アメブロは社長も社員もブログを書いているし、ごまちゃんねるによると社長の奥さんまで書いていた? ということは社員の家族がブロガーしていることもあるでしょうし、世の中のネット・ユーザがどの程度バカ正直に自分の所属を書いているか懐疑的だ。

それでいて、以前どこかの女医さんが酔っ払って医局の話を書いたら、それこそ大問題になり、クビになったんじゃなかったっけ? わたしなんて無責任だから、「よくやった!」と思う反面、ダンナとちらりと目が合い、「あ、わたしのブログは短歌のブログですから・・・」と笑ってごまかす。

もともとが匿名で書いていたし、それなりに毒舌系の日記を書いていたから、自分でもかなり低空飛行をしているような気もする。それでいてネットの毒に慣れてしまうと、わたしの書いていることなんて海の中の一滴。書きたいことは山ほどあるけど、結局は書けないですね・・・なかなか。

以前、ダンナが職員の忘年会か新年会で、近頃では院内禁煙が徹底しているために普段ヘビースモーカーといえども職場では一切吸わない人たちが多いため、うなぎ屋に座ってタバコ吸いたいなーと思いながらタジタジと周囲を見回していたわけですよ、彼は。その時、いきなりぷわ〜っと煙があがったのを見て、やたらと感心していたことがある。

なんかね・・・うなぎ屋の宴会場だよ? 灰皿もたくさん置いてあるでしょう。お酒も出たかもしれません。なのに、大の男がタバコ一本吸うために周囲を見回し、喫煙所を探すがごとくタジタジしているという・・・高校生じゃあるまし・・・それがうちのダンナだけではなく、雰囲気というの? 皆が皆そういう雰囲気で、ここは一つくだけた席だから、ということで誰かが音頭でも取らないとどうにもならないのでしょうね。

分かるような分からないような・・・

それでね、その時にぷわ〜っとやり始めたのが、病院の女性カウンセラーだったらしい。あ、もうその瞬間、その場で何があって何が起こってなんでそうなのか、すぐにピンと来ました。同時に、その話をどうして彼がわたしに言うのか、最後まで聞かなくてもすぐにピンと来た。

商売だから・・・

その後、場の緊張が解けて、自然とわいわいがやがやその日の宴会は無事に終了したのでしょう。たかだかタバコ一本のことで生きるの死ぬのという時代ですから、そういうストレスと喫煙とどっちが健康に悪いか、地球に孔が開いてからのんびり考えよう・・・

******

今日は、本当は最初に長野智子さんのブログのネタから書き始めようと思っていたんだけど、途中で変更。実際問題、こちらはプロではないから書こうと思えば書き放題にも書けるけど、それでもどの程度まで書いていいのかなーということはどこかを手本にしなければならないわけで、yaplogだけじゃないけど、あちこちのブログを提供しているサーバをサーフィンしているうちに見つけた。

一つ感じたのは、やはりアメブロとの違いでしょうか・・・落ち着いているもの、雰囲気が。自然体っていいですよね。その中で、数ヶ月前にホリエモンに取材した時の話が書いてあるのだけれど、どこかエピソディックで洗練されている。

それにしても、ホリエモンの欲しかったのが単に「知名度」だとすると、それはすでに達成された観はある。が、しかし、正直、一昔前だったら企業イメージというの?それなりに企業のイメージというのがとても重要だった気がするのに、マイナスイメージすら商売にしてしまう時代なのかな・・・と、ちょっと感じました。

それね・・・ライブドアだけの問題だったらいいのだけれど、インターネット・ユーザとして考えると、ネットは匿名だからとか、危険だからとか、ネガティブ・イメージばかりが先行してしまいそうで、実際、そういうところはあるし、それでも数年前に比べればかなりマシになった気もするし・・・それでいて分からないな、今でも。

でも、何となくよい雰囲気だと思いませんか? 今はフリーとはいえ、かつてのフジテレビのアナウンサーとホリエモンとの会話。ちまたに、「ライブドア対フジテレビ」みたいなタイトルが蔓延する中で、何となく洗練されているような気がしたのですけど。

投稿者 Blue Wind : 03:45 PM | コメント (0) | トラックバック

解放とファッション

⇒トラステに参加: My Graduation

卒業式の思い出なんて、ろくなものがないですね。好きな先輩がいて第2ボタンを貰ったとか、これでお別れだわ、みたいなしんみりしたものは何もないし、ただひたすら「ザ・解放」とばかりに解放感に浮かれているだけみたいな記憶が幽かにあるだけマシかもしれない。

大学なんて、実際問題、無事に卒業できるかどうか、卒論を提出した後まで心配していたし・・・理由? 出席日数が足りているかどうか心配な科目というのがありまして、このため普通は2年次までに終わっている語学というものを4年生になってもやっていた記憶が・・・どうせ院浪人すると分かっていたら、留年したほうがよかったかも。

それでも角帽かぶってカラスをまとった時はそれなりにうれしかった。

これといって大して自慢するようなものが何もない大学だったけど、カラスを着せてくれるというのは値打ちがあったような気がします。しかも、大学なのに制服があり、入学式も卒業式もその他諸々の大学行事には必ず制服を着用していました。

学長さまや学部長さまのご挨拶となると、普通は眠くなるような気がするのですが、必ず、「ハッ」とか、「ぎょえ」となるセリフが混じっているところが特徴でしょうか・・・

入学式: 「あなたたちは選ばれてここにいるのです。」 
神さまに選ばれたのだそうです・・・シスター里見だったかな・・・

卒業式: 「今までここで学んだことをすべて忘れなさい。そしてそれをすべて子に伝えなさい」 
シスター内山だったと思います。学んだことを役立てるというのなら普通なんですけど、忘れろと力説された時には少し驚きました。

修士号の授与式に至っては、以前少し書いたかもしれないけど、父の告別式と前後していたために家族は出席してくれなかったし、当時彼氏だったダンナが写真を撮ってくれただけ。それでもいち先生の服を着て、金色のコサージュをビシッと高く襟元につけていただいて、それなりに黒服でエレガントにキマッテイタと思います。

え・・・卒業式ってファッション・ショー?

いいえ、決してそういうわけではないのですが、それにしてもダンナの大学の卒業式にも姑さんと一緒に出席したんですけど、あれは一体なんなんだ? 紅白の垂れ幕に田舎臭いおばさんたち・・・医学部というものを少し理解できたような気がしました。アハハ・・・・(汗)

うちの近所の大学の卒業式も、あれはダメですね。貸衣装の袴や振袖まじりで、娘の卒園式の保母さんたちのほうがまだ垢抜けている気がするくらい、なんなんだ、あれ、の世界。かく言うわたしもだんだんめんどーになってくるという・・・

いかん、いかん・・・卒業式というのは子どもだけではなく、親にとっても晴れ舞台でないとあかん。

こう・・・なんというか・・・例えば、女子校とか女子大だと卒業式って感動がないわけ。卒業式の後にフィアンセとドライブとかね・・・あーあ。親と食事というのが一般的か? となると、お別れムードなんてないわね。ある意味、つまんないかも。

投稿者 Blue Wind : 01:51 AM | コメント (0) | トラックバック

March 25, 2005

【トラバ短歌】 デスノート

澤山くん's 癒し系ブログへのトラバです。

ふふみゆくしたたりゆくか雨のおとつよき風ふきもはやもう春
デスノート、「デスの音」かな、ですますはわたくしですか、デストロイヤー。
シュルレアルおもいつくままふらふらと手をのばしゆく刻まれた肉
シュルレアルどうしてピカソちがふのと尋ねてみてよ洗礼の絵に
ふわふわとそら昇りゆくおめでとう真実をみし鏡の世界
デスノート笑みししづかにパラダイス永遠のいのちのつむがれゆかば
死は姉妹フランシスコの寝顔には泣く人の身のたちつくす木々

死の音にふふみたる雨空はもう忘れちまつた木霊の夢に

投稿者 Blue Wind : 03:43 PM | コメント (0) | トラックバック

増殖リニュか?

インターネットは相変わらず検索社会で、ヒット数を稼ぎたかったら時事ネタや検索に引っかかりやすいキーワードを入れながら書かなければならない。あー、なんてめんどーなのだろう・・・

短歌のブログだからね・・・だったら短歌だけアップしていたらよいか?と言えば、なかなかそういうわけにもいかず、記事数が増えたら有利になるというのは一つにはそういう検索上位の問題があり、アメブロにつくったばかりの頃は、アメブロだというだけでユーザは不利益を被っていたのを思い出す。(ほんとか?)

昨日、アメブロリニューアルのお知らせが出て、雨風呂ミステリーを更新しようと思ったけど、あまりにも眠いのでやめた。一つには、リニュの日がエイプリル・フールというところが何ともいやな予感がするし、ジャンルが増え、自分でカスタマイズできるとなると、それはそれでカスタマイズ解説ブログが登場し、コミュニケーションは活発になるものの、幾度同じことをしてきただろうと思ったら何となく退屈してしまった。エイプリル・フールにジャンル変更するには、うちのブログはシリアスすぎる。

この世界の特徴は機械を操作しなければならないということであり、それでいて道具を扱うのは人間。改造にも初級からプロ級まであり、なんせ個々に当たり前が違う上に、好き嫌いもあるだろうし、登録だけしてまったく更新の意志のないブログも多いし、それでいてコミュニティ内の関心事を知りたければいくつかのブログを回れば充分な気がしてしまうくらい狭い。

しかも、管理人の管理スタンスというものがあり、マメに管理人がチェックしているブログなら普通にコメントも書ける。ところが、放置に近いブログや有名人ブログ、あるいはイベント系ブログにコメントやトラバを残すと何やら荒らしとまではいかないものの2ch系の来訪者の襲撃があったり、ファン心理というの? なかなかやばいなーという気がする。全部がいっしょくただからね・・・治安が悪くなりそう。

奥菜恵?

わたし、初めて気がついた。あの時のIT関連企業の社長というのがアメブロ・フジタだということに。ネットでも話題になったし、どこか鬱々した奥さんとクソマジメな?IT人間との組み合わせがネットっぽいなーという印象で、どうしてそこがネットっぽいかと言えば、日頃機械相手をしているせいか、ヘンに色っぽさというものに機械的過剰反応があり、それでいてそれもまた箱の中の出来事という具合で、ネットにはネットウケするキャラというのがあって、そこがドンピシャだったような記憶がある。

サイバー文化って難しいよね・・・

普通だったら一目で分かるはずの情報がない分、どこか過剰を要求されるし、情報なら情報の羅列、バラエティ・エロゲロの写実化、奇異なものへの好奇心、文化という水準で語れば逆に数世紀くらいタイムスリップしてしまったくらい未熟であり、幼稚。そういう幼稚さがあって、リアルとは違った意味でのサイバー社会が構成されてしまう。しかも、それが無視できないほど潜在性をもって社会を動かしていくとか?

とりあえず、No.1ブログサービスを目指すらしいので、そのうち100万人のユーザが徘徊する可能性もあり、それでいて迅速な情報伝達網を考えると、大変なことになるね・・・うまく説明できないけど。それでいてこのローカルな感覚・・・世の中からテレビ放送が無くなるということはしばし無いかもしれないけど、重要度という点で何かが変化している?

******

追記1: あちこちの記事をサーフィンしているうちに・・・画像の容量のお話が・・・これが増えていたらいいですね。それと・・・あまりにも自由度が高くなるということはアメブロっぽくないなーと。なんか、いつまでもインスタント・ブログというイメージが強くて。

追記2: アメブロガー友の会?(ウソウソ・・) マスコミでカズマ・ブログが取り上げられたり、奥菜さんがテレビ出演したりすると、アメブロ全体のアクセス数が高くなるみたいなんです。だから、アメブロ指数というのがあって、個々のブログにアクセス数が増えたからといって、それが必ずしもランキングには反映しない? わっかりにくいよね、うんうん。

投稿者 Blue Wind : 12:27 PM | コメント (0) | トラックバック

March 24, 2005

【短歌】 外界のくずれゆくかな晴れの日はわがみ消えにしそは残りしか

濃厚に陽のとまりゆくジムノベディふかふかとした雲脳は霧張る
くずれゆく形のなかに形ありマン・レイ・ピーチみっつの背中
明るくも陽のとまりゆく時間にはまばゆさだけがとけこみし夢
ぽっかりと声なき声の空間は唖の悲鳴あり胸底のおと
胸底の悲鳴の音の周波数誰が測りしかとまった日の出
煌々とひとりの世界照らしゆけこころみちゆけ耳しかば春
外界のくずれゆくかな晴れの日はわがみ消えにしそは残りしか

曇り空ゆくえしらずの雲雀なり真夜中の声聴こえたはずが
真からの暗闇知らず育ちたる都会のあかり地球のあかり
おゝ鳴けよ小鳥のおとづるる気まぐれな雨今はやみたる
くぐもったクルマのドアの閉まる音いづこへゆくかスプレーのみち

はらはらと寝てしまったよ枯れ草はもはやそれまで春は来やらぬ
桜路はいまだ来やらぬ十字架の青空の色覆へる雲よ

投稿者 Blue Wind : 03:04 PM | コメント (0) | トラックバック

ポルノより悪影響かも

おちびが風邪の引き始めで学校をお休みし、一緒に昼寝したせいか、いつまでも起きてテレビを観ている。それはそれでわたしはミニモニもマギー審司も昨日まで知らなかった人間だから、彼女が何を観ていようが気にもならない。

ところが・・・

「・・・・・美容師なのにナイフで手首を切るなんて・・・・・・」

あーたらこーたらリスカ(リストカット)の話がテレビから聴こえてくるではないか! 時計を見たら、もうこんな時間とばかりに夜は更けて、ポルノより悪いだろうと思いながらおちびを寝かせる。

わたしは血に弱かったし、初めて臨床系のテキストで全身傷だらけの自傷行為の患者の写真を見たとき、ゲロゲロ〜っとなってしまった。「なんでそんなことをするんだろう?」というのが率直な感想だったし、そういう点でわたしは案外まともに育った。

昨日、ホリエモンが再び勝ち、ニッポン放送やフジテレビの経営陣の情けないインタビューなどを見ていると、あたかもインターネットは素晴らしいかのように思えるけど、これの弊害も考える必要性もある。

一つはね・・・・リスカの写真を自慢げにサイトにアップするのをやめろ! そういう神経も普通は理解できないでしょ? わたしも理解できなかったのだけれども、あれは一種の不幸自慢らしい。

狂気から上位概念まで徘徊していると、いささかどのような話にも驚かなくなってしまっている自分が情けない。近頃では、リスカの話を聞いても、「バンドエイドでも貼っておきなさい」としか語れない。

「骨までいっちゃったのよ」
「で?」
「先生が、それでも縫うかどうか訊くの」
「へー。でも切り方が上手だと縫わないほうが痕が綺麗かもね」
「先生もそう言ってた」

よく考えたら、われながらなんちゅー会話しているんだろうとは思うんだけど、慣れって恐ろしい。第一、中学生くらいにリスカが始まってしまったら、そりゃなかなか治らないし、鬱病でも発症してしまったら次には首吊り?

もう、普通だったら勘弁してほしいとなるだろう。

一つには顔が見えないということと、ノーギャラということと、責任ないよなーと勝手に思っているということから、以前だったらあたふたするようなケースでもまったく驚かなくなってしまった。

でも、正直な感想として、娘にはそういう世界に踏み込んでほしくないという気持ちはある。死ぬということは大それたことで、少しでもそういうことを考える人はヘンだとか、大変な悩みを抱えているとか、そういう世間通常の幻想を抱いたまま成長してほしい。

なのに、なんなんだ、あのテレビは。

近頃、簡単すぎるのよ。リスカを始め、自殺とか、その他諸々の自傷行為を含めてそういう情報がちまたに蔓延し、メンヘラーには申し訳ないけど、それがあまた無関係な人々にさえ伝染しているのではないかと思うと、わたしはかなり恐怖を覚える。

大昔、シャンソンで発禁になった歌があるそう。わたしは一度だけ聴いたことがある。どうして発禁になったかというと、戦後の暗い時代、希望を失った若者がその曲を聴いて自殺してしまうという事件が相次いで発生したかららしい。鬱って移るからさ・・・

『暗い日曜日』だったかな・・・もうすでにタイトルも覚えていないけど、わたしにはどうしてその曲を聴いて、次々に自殺したくなったのか理解できなかった。それはそれで時代背景が違うということもあるでしょうし、すべての人たちがそういう反応を示すわけでもない。

近頃、書籍でもその手の話は平気だもんね・・・ネットなんかしていたらもっと平気になってしまう。カラッと明るい陽射しの中で子どもは育てたい。

投稿者 Blue Wind : 01:31 AM | コメント (0) | トラックバック

March 23, 2005

【今日の短歌】 道端のこぶり水仙並んではわが庭の花いまだ咲かぬか

雨の音とまった気持ち沈みゆくつちの色さえ春に覆わる
道端のこぶり水仙並んではわが庭の花いまだ咲かぬか
水仙の驚く顔の待ちどおし庭はすっかり芝に覆われ
夢の中沈んだままに春は来ぬあなたの知らぬ夏は過ぎたと

ドラクエの醜悪顔を倒すにはすぎゆく時間みじかすぎると
こじんまりひねもすはゆき少しずつ変わりゆくかなまわりゆく日日
冬よりも凍えてしまふ春の夜にひさびさに飲む珈琲の熱
春待てば冷たい雨のおとづるる期待はずれに泣かさるる夜
少しずつ変わりゆくかとひねもすは春めいた風雨を運びぬ


なんで今日はこんなに寒いのだろう・・・

投稿者 Blue Wind : 06:11 PM | コメント (0) | トラックバック

古典を愛する人たち

久しぶりに短歌系のトラックバックをいただき、われに返る。「あ、いけない、風マニアは短歌のブログだったわ〜♪」←反省しろ、反省!

とは言うものの、自分の目から見た社会というか、それがささやかなローカルな社会であったとしても今の時代の影響は避けられず、学校というのは子どもたちにとってはそれなりに大切な人格形成の場でもあるので、決して軽んじるわけにはいかないと思うのです。

でも、正直な感想として、先生は年中研修で留守だし、文部科学省の指導方針というものを理解するために先生はもちろん親も昔とは大幅に変化してきている何かを察知するために必死なのは事実です。

細かいことなんだよなぁ・・・例えば、「先生の話をよく聞くようにするためにはどうしたらよいか?」とか。すると、テキストの文字数が減り、先生の話を聞かないとわからないシステムに改造され、指導方針としてそれが取り込まれる。このほかには、ゆとりや余暇という点で週休二日制、連休の増加、カリキュラムの減少。もっと言えば、子ども同士で呼び捨てにさせないとかね・・・じゃれあいから来る喧嘩や虐めを防止するためらしい。

反面、習熟度別(能力別だろう・・正確には)学習とか、英語や体育の専門教師の導入とか、落ちこぼれを無くすという大義名分のもとに、次から次へとニーズに応えてくださるのはよいのだけれど、実際にはきちんと道徳教育のできる先生はいないし、足りない分はスクールカウンセラーの導入とかね・・・わたしから眺めた学校というのは、理屈や理論ばかりが先行するばかりで、ハートのある先生が少なくなったような気がする。

いや・・・先生の質が変化したというのではなく、指導方針というものがあれば、それに対して忠実であることも一つ良い教師としての評価なのかもしれないし、分かっちゃいるがわたしはすでに先生とお話するのがいやだ。親同士の話もどこか欺瞞に満ちあふれている。

昨日お絵かき教室の先生と話したら、今度は絵を通して道徳教育まで含めた人格形成をする場を育成したいのだそうです。かなり具体的で、NPOとしての活動を始めるらしい。つまり、そういうことを誰もやらない、やれない時代だから、誰かがやらなければならないから、やろうと思ったらしい。子どもが好きってすごい。愛がある。

わたしは一人の母親ですからね・・・

ややこしいことはアタマの片隅に置いておき、自分のことをやるしかないなーと、正直、わが子のことだけでも精一杯かもしれない。特に誰が決めたというわけでもなく、赤ちゃんの頃からお絵かきしているような子で、小学校へ行くくらいからすでに本人がお絵かきさんになりたいという希望を持つ子で、それでいてどこか引っ込み思案で、親や周囲に迷惑をかける子ではないけれども、正直、今の学校教育の中でどうやって娘の感性を保護しようかとアタマを抱えています。

そういうときの相談相手がお絵かき教室の先生だったり、アート関係の友達だったり、この前も誘われて芸術文化振興基本法だっけ?の公聴会へ行ってきたけど、都市景観とか、街づくりとか、どちらかというとそういう方向なのね・・・

まあ、いいや。そういう公の問題と個人の問題と、その他諸々とは別問題なのかもしれないし、わたしには詳しいことは分からないです。

話を短歌の話題に戻すと、Kamomeさんの質問、「旧仮名使いや古文的文体で短歌を書く意味」について知りたいという問いに正確に答えられるのは、ぐたさんではないかと、近頃ぼーっと感じている。古典を愛する人たちというのは歌人であるか否かは別として、そういうものなのではないかというか・・・

わたしは最初の頃はまるきり口語オンリーだったけれども、近頃は旧仮名やうたことばを使うことが以前よりも増えた。その理由は、水原紫苑さんなどの影響なのかもしれないし、旧くは斉藤茂吉の歌論でうたの格調という話に触れたからでもあるし、一番の理由は、「なんか、そのほうがおしゃれなのよね」としか語れない。

現代人だから現代語を使うなんて理由はどこにもないし、死に絶えゆくものに息吹を与えるがごとく、とにかく次から次へと『源氏物語』のこととなるとどうしてこうも多くの作家が口語訳なるものにチャレンジしたくなるのかと思うくらい不思議でもある。そしてそれにどうしてこうも多くの読者が魅了されるのかはもっと不思議。

古典とか、和歌というものに対する自家撞着は誰にでもあると思う。新しきものに向かいたいけれども、どこかレトロなものに惹かれてしまうというのもあながちめずらしい現象でもないし、古今東西人間なんていつの時代も変わらないとまでわたくしなどは常日頃感じることが多いせいか、いくらわたしが現代語で詠もうとも旧仮名を入れようとも、本質的なことは何も変化しているとは思えず、それでいて完璧な古語では詠めない。

もっとあっさり語ると、口語で詠んでも分かりにくいうたはいくらでもあるわけで、近頃そういう風に達観してしまうと、古文調だからとか口語調だから、というのは何の理屈にもなっていないとまで感じるようになってしまった。となると、どうせ理解されにくいのなら、分かる人だけが分かってくれたらいいな、という水原紫苑的無感情さにも魅力を感じてしまうのです。

好みなんだろうな・・・自分のうたをすっきりくっきりバチッと分かってもらいたいか、曖昧に濁そうと思うかは・・・自分的には近頃曖昧派。もともとそうなんだけど。メタファーをちりばめて、どこか二重構造的な世界を構築できると、そのうたは案外自分のお気に入りとなる。

わたしだけがそうなのかと思っていたら、案外、選歌していただくとそういう曖昧派のうたのほうがピックアップされるので、それならばさらにそういう世界を構築していこうという気になってしまう。

まあ、娘の小学校のややこしい問題をアタマの片隅に置いて自分のことをやる、みたいな姿勢は作歌にも通じるような気がするし、いずれにせよ、今の時代はマイペースを維持するのが非常に困難で、それも一つの風なのかも・・・

投稿者 Blue Wind : 10:51 AM | コメント (0) | トラックバック

虐めと校内暴力の発祥?

今日は大変なことが起こってしまった。とは言うものの、わたしは当事者ではない。また、娘のクラス。

6時間目。娘の話はよく分からないけど、今日は6時間目の授業が休みで、何かのお手伝いを皆でしていたらしい。たまたま時間が余ったので皆でドッジボールをしており、教室には参加していない子たちが5,6人いた。そのうち一人の子がベランダに締め出され、ドアに鍵をかけられてしまった。

そこまではよくある話。ところが、ベランダに締め出された子が怒って窓ガラスを割り、その破片が大腿部に刺さり、入院することになった。学校はてんやわんやで先生は放課後お見舞いに行くと言うし、普通だったら入院した子がいれば連絡網で回ってくるはずなんだけど、今日のところはとても静かです。

こういう記事が書けるのも、娘がドッジボールをしていたからで、教室に残っていた子たちのご両親はそれどころではないでしょう。しかも、誰がやったのかも分からないらしいし、秘密裡に処理されるのでしょうか。

さて、誰が悪いのでしょう?

この話だけだと、被害者A君が皆に虐められたという話でしょ? ところが、伏線としていろいろありすぎ。まずは、A君はベランダに締め出されても、ベランダ伝いに理科室や音楽室から室内へ戻ることもできた。

なのに、どうしてA君はわざわざ窓を割ったか?

そうなると、自業自得だという意見が・・・誰が言ったとは言えないけど。(ちなみにうちの娘ではありません)

次に、どうしてA君はそういうことをされたの?

これは当事者に話を訊いてみないと分からないけど、一つ分かっているのはそれなりの理由があったということも充分考えられる。というのは、わたしはA君を直接よく知っているわけではないけれども、彼の武勇伝は有名で、隣の席の女の子が授業中に耳を舐められたとか、うちの娘も一度学校帰りにA君に家までついて来られて、わたしの顔を見たとたんに泣き出したことがある。その後別件で、キレたA君に平手で殴られたという事件があり、その時は担任と親から謝りの電話がかかってきた。彼の被害者でない子がいたら教えてほしい。

というわけで、女の子たちは誰もA君の隣には座りたがらない。

困ったヤツというのはどこの世界にもいるものだけど、A君の特徴はカーッとなってキレちゃうんだよね。それが1年から6年までずっと一クラスしかないところで続いていく。今まで大事にならなかったほうが奇跡に近い。

親?

わたしはほとんどお話したことない。ただ、一度謝りの電話がかかってきて、その時に彼女は慣れているんだなぁ・・ということを数年前に感じたことがあるだけ。毎日似たようなことがあって、先生から連絡を受けたらそこの家に電話をするという具合で、息子の行動を深く受け止めているようでもなかった。まあ、まだ低学年だったから、いろいろあらーなということで終わった。

当時はほかにも問題行動を起こす子がいたし、どちらかといえば、そっちのほうが注目度が高かった。今は、その子はまったく悪さをしなくなったため、少しはまともなクラスになったかもしれないと期待していたら、A君。

すっきりしない事件なのよね・・・虐め、登校拒否、校内暴力、キレるとかいろいろ世間の話には聞くものの、クラスの雰囲気や学校の雰囲気はさほど荒れているという印象もなく、ただ問題児童はどこにでもいるとしか語れない。

うちの娘?

さあ・・・不思議なもので、このところすっかり立ち直り、今日の事件があってか、きっぱり受験すると言い出した。ほかの人たちはどうするんでしょうね・・・A君を責めるより、とりあえず逃げ出すことを考える。逃げ場があるって素晴らしいと思った。

* 訂正: A君はその後4針にて、通院、自宅療養、ということです。

投稿者 Blue Wind : 12:24 AM | コメント (0) | トラックバック

March 22, 2005

地震を考えた日

実感ないなぁ・・・福岡で大地震が発生したというのに、何となくピンと来ない。神戸の時にはダンナの実家が燃えていたので実感どころの騒ぎではなく伝わってきたし、新潟の時はこちらも一緒に揺れていたから、それなりに地震が発生しているということくらいは日常生活から分かる。

それでね・・・ニュースを見てもあれなので、ブログをサーフィン。すると、確かに被害はあったのだけど、現地の人がニュースを見て驚いているという記事をいくつか読んだ。

この感覚分かるのよね・・・この前、わが家も震度5弱でかなり震源地に近いところに位置していたのだけど、揺れ自体はすぐにおさまり、どうということもなかった。ところが、テレビを観たらそれなりに被害もあったらしいので、どこかちぐはぐな印象をぬぐえない。

被害の酷い玄界島の人たちにはお見舞い申し上げます。

それと同時に、ビルのガラスが割れてというニュースには、どうして対策しておかなかったのかなぁ・・くらいの感覚しかない。そういえば、姑さん、何か言っていたような・・・ビルやマンションは新旧ではなく、20年前くらい(神戸の震災より)に建てられた建物が一番被害が大きかったとか・・・すっかり忘れてしまったけど、もしかするとさっきニュースでも言っていたようなことが原因なのかもしれないと、不意に思った。

あっさり語れば、こういうのは人災のような気がするんだけど、どうなのだろう・・・スマトラ沖の地震でも、少しは地震や津波についての知識があれば防げた被害もあったのでは。

わたしは祖母が関東大震災を経験しているので、子どもの頃から地震にはやかましく言われて育ってきた。寝ているとき、頭の上に物が落ちてこないようにとか、地震がきたらすぐに火を消すとか、結構うるさかった。

風水(占い)によるとお風呂の水を貯めておくのはよくないらしいのだけれど、わたしはあれは一種の貯水槽だと思っているので貯めておく。飲料水などの配給はあるけど、一番困るのがトイレの水で、水洗トイレである以上隣の浴室に水を貯めておくのは合理的なのである。庭にもバケツを置いておく。(気休め)

都内の狭いところにいたときでさえ、タンスは寝室には置かない。それでさえ倒れないように上に何かを置いておく。タンスが開いて中の物が飛び出すのならかまわない。本棚も一緒。中の本が飛び出すなら死なない。タンスのような書棚は天井まで届きそうなものを使っている。あれなら倒れようがないから。

細かくはテレビの前に座らないとかね・・・

一生懸命に対策しようとしているわけではないのだけれど、あまりにも地震の多いことに慣れているせいか、ごく自然に覚えた。それでも完璧な横揺れがきたらどうなるか分からない。直下型は縦でしょ?ややこしい。

それにしてもこの記事はどうなんだろう⇒『神社のお粥占いに地震の予知?』

そうだなぁ・・・わたしが5日前にこの記事を読んでいたら、飲料水と乾パンくらいは買いに出かけていたかもしれない。だったら今から行く? う〜ん・・・・・なんか今日は怠惰な気分。怠惰を回復した娘を連れて、お絵かき教室へ行かねば・・・目先の課題が優先か。

投稿者 Blue Wind : 12:32 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 枯れ芝に点点緑あらくさの咲く花のあと目で追ひし明日

スクラップ重ねゆくよな春の空うららかに雲浮んでいるが
濃淡にしずみがちなるラベンダー冬を越せずに根はり待つらむ
枯れ芝に点点緑あらくさの咲く花のあと目で追ひし明日

お揃いに吾子に着せられオトくんはプーさんの顔乗せて走れり
ドライブが好きな犬ですオトくんは鼻震わせていづこへ行くと

力なく2割引きなる値札かなマリアのように寝ている子犬
春はもう来ているのかと問われても力なき犬寝ているばかり
冬の夢春は来にけり春の夜に変はらないよと子犬は寝たり

連休の返す返すも休みなく動きまわれり吾子と子犬は
陽だまりはしづしづとして眠りゆくわれを残して起きあぐる草
亡羊にドライブの日々つづきゆくひねもすはまた平穏の月
天空に月を浮かべて星の数増えたかのよう冷たき春日

駐車場混みあふ休み中庭のテーブルのうえ誰もいづとも

デパートの人出のようなブロガーの出足さぐるか連休サーバ
仕事にはほどとおかりし閲覧のみえざりし声サーバに落つる
サンプルにほどとおかりしわがブログ気ままに綴るひまつぶしかな
ランダムに過ぎてゆかんか春風よ吹く野原にも新たなる芽を

投稿者 Blue Wind : 03:29 AM | コメント (0) | トラックバック

ブログは書くもの

百聞は一見にしかずというくらいだから、わたしはいつも思うのです・・・活字中毒者って何なのかなって・・・短歌でも他人の歌を読むより自分で詠むほうが遥かに面白いし、旅もうだうだ考える前に飛行機に乗ってしまえって思う。

コンサート情報、映画情報を眺めるより、不意に飛び込んでみるのも楽しい。チケットがないって? それがどういうわけか大丈夫なのよね・・・ダフ屋は禁止しているけど、当日どうしても来れなくなってしまった友達の分のチケットを売っている子もいるし、当日券というのも結構あったりするから無理に前売りにこだわる必要もない。

洋服も本もCDも、そう。その時の気分で、偶然というものに惹かれながらゲットするほうが情報誌や雑誌を眺めるより遥かに楽しい。恋愛小説を100冊読むより、自分で恋愛しているほうが遥かに実があるような気がするんだけど、どうも世の中考えすぎや妄想癖がちまたに蔓延し、いざそういうノウハウが実践で何も役に立たないことに気が付かない人たちが多い。

それにしても、男の2人連れというのは気持ち悪い。仕事とかたまに出くわしたとか、そういうニュアンスならともかく旅は道連れとばかりに男同士で旅している人間を見ると、わたしはついせせら笑う悪い癖がある。いっそのことホモならまだ許せる。

ブログもそうかな・・・あれこれ考える前にとりあえずつくってから考えても遅くはない。近頃、ブログのためのノウハウ書も売っているらしく、あんなもん買うより自分でつくれって思うわたしはすごくまともだ。

不意にネットを始めて、試行錯誤と知識のなさとジャンキーの襲来にはいささか苦労した観はあるものの、結局、全部ネタにして自分のネタのなさを武器にしてしまった。つまり、わたしが知らないことはほかにも知らない人がいるということだろうし、タグ一つにしてもソースの見方にしても知らない人はいまだに知らないわけだし、それとてわたしは自分でプログラムが書けるほどの知識はないけど、今のところ何も困っていないみたい。

一生懸命に日記を書くより、ある日BBSに酷い荒らしが登場し、そうなると日記のヒット数が20〜40でもどういうわけか600以上のアクセスがあったり・・・つまり、荒らしさまのおかげでBBS見物者が増え、わたしが無理に苦労しなくても自動的にアクセス数はうなぎのぼりだった。なんなんだ・・・この世界。

それでも、それを放置しておくわけにはいかないので、せっせと荒らしを削除することがサイトの更新だったりして・・・それはそれで非常につまらなかった。(当たり前か・・)

ちょっとこのところのアクセス数を眺めると、ちまちまおちびのことを書いたほうがアクセス数が伸びる。一つには、書いちまうと自分がすっきりするということもあるし、いくつかの視点からちまちま書き直すとそれはそれでフィードバックもあるし、さらに自分の気が付かない盲点というか、「あ、なんだ、そういうことだったのか」みたいな感じで、自分的には書いてすっきりする上にコメントもらってもっとすっきりみたいな調子で、ブログって値打ちあるなーと感じた。

読者?

読者って何なのかな・・・わからないです。ジャンルを決める際も、どうして「本・書評」にしたかと言えば、「詩・小説」みたいなジャンルが無かったからだし、テーマを固定してしまうと来訪者のニーズを考えるようになるから自分がつまらない。ただ、来訪者のニーズという点で、このジャンルに居座ることの値打ちは、駄文が長くても文句言われないことかな・・・

近頃の教育の変化の影響か、うちの娘でもまったく活字に興味無さそうなところがあるし、そうなるとひたすらビジュアル的な刺激のほうが面白いらしい。文字を眺めなくても画像を眺めているだけである種の情報がゲットできることを楽しんでいるようでもあるし、そうなるとせっかく駄文を書いてもつまらない。

だったら最初から活字を読め、というスタンスのこのジャンルのほうが気楽だ。

投稿者 Blue Wind : 01:32 AM | コメント (0) | トラックバック

March 21, 2005

男の2人旅

近頃、地球が狭くなったせいか、旅先で日本人を判別するのが次第に困難になっているのを感じる。例えば、バリ島でもちょっと大きなホテルへ泊まったりすれば、以前はこのノリは日本人のツアー客だろうと思っていたのが、近頃ではそれが台湾人のツアー客だったり、韓国人カップルだったり、日本人は意外に小さくなっている。

だったら本家本元?の日本人はどうしているのかなぁ・・と思ったら、シンガポールのバーで合席になり、香港人のOLをナンパしていたり・・・日本人の連れだから日本語が通じるかと思ったら通じない。

究めつけは、イタリアの電車の中かも。急行以上の速い電車(インターシティのことだろうか?)はコンパートメントに分かれていることが多いので、娘と2人で優雅に座っていたら、どこからともなくイタリア人の若者のグループがやってきて、しきりに日本語を話せるかと訊くのでうなずいたら、一人のオリエンタルなヤツを連れてきた。

すると、ちょこんと座ってね・・・「プレーゴ、プレーゴ」とリーダーのようなイタリア人に言われてわたしに話しかける。しかも何を勘違いしたのか、英語で話すものだから、わたしはてっきり彼は中国人かもしれないと勘違いし、英語で返してやった。すると、イタリア人は英語が苦手なので、黙って聞いている。

ラ・スペッツァへ行きたいらしい。ミラノからセストリレバンテ行きの電車は途中までしか行かないため、乗り換えなければならない。それで、みんなはジェノアで乗り換えろと説明しているのだけど、どうしてジェノアなのか彼には通じないらしく、仕方がないのでわたしはバッグの中から地球の歩き方と日本語版のトーマス・クックを取り出し、時刻表で説明しようとした。

「日本語、話せるんじゃないですかー」

と、いきなりおバカが言った。先に英語で話しかけてきたのはそっちだろーと思ったんだけど、近頃の日本人は英語が上手な人が多いため、わたしには彼が何人なのかもはや判別できない。もしかすると韓国人かもしれないし・・・中国人の可能性が高い。

その後彼は連れがいるというので、その連れを見たら、男だった。男の2人連れだと分かっていれば最初から日本人だと思ったかもしれないのだけれど、連れのほうがほかのイタリア人たちに紛れて黙って座っていたため、イタリア人もオリエンタルも全部まとめてユースのグループだと勝手にわたしは思いこんでいた。

雰囲気なんだろうな・・・おちびに至っては、「パッパ、イタリアーノ?」と訊かれる。そうやって言われると、イタリア人と日本人は似ているために、ビーチで遊んでいる娘を眺めていると、後姿だけでは何人かわからない。特にビーチはみんな日焼けしているし・・・やたら色白だったら日本人の可能性が高い・・・アジアン・ビーチを思い出す。

それにしてもなんて言ったらいいのだろう・・・ミラノのドゥオーモの前のカフェで男同士で座っている汚い若者はすぐに日本人だと分かるんだけど・・・そういう判別の仕方ってどこかせつない。



著者: Thomas Cook Group Ltd., 地球の歩き方編集室
タイトル: トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表 (’05初春号)

投稿者 Blue Wind : 02:57 PM | コメント (0) | トラックバック

水原紫苑『あかるたへ』から一首

近頃、短歌の話はあまり書かない。とりあえず作歌は続けているから、それはそれでよしと考えて。あっさり語ればどうでもよくなってしまったのである。自分にとって水原紫苑さんの2冊目の歌集、『あかるたへ』を読み、少しは書評のブログらしく何かを書こうとか、少しは歌人らしく選歌してみようとか、いささかそういうパワーが自分には欠如していることにも気がつき、どこまでも自然体というものを追求するのであれば、それはわたしが書きたくなったときに自然に書くこともあるのではないかと、近頃ロングスタンス。

ただし、追記のように書き足せば、前回の『世阿弥の墓』はわたくしには難解すぎ、言葉を選ぶこと、能の世界を描くこと、そしてそれを理解することがわたしにとっては酷く苦痛であったとしか語れない。

幽玄の世界というのは、どこか刹那的であり、命を燃えつくせと言わんばかりの消えゆく命というものに対する切迫したものがなければとても語れない。以前、いけばなの世界にインスパイアされて少し詠んだことがあるけれども、あの残酷なまでに切られてしまった花の姿と美の追求という点で、アートとは残酷であり、美のために切られ刈られてしまった悲哀さすら美の一部という悲しき厳しさを目の当たりにしたとき、それを詠みたいという欲望と、それを詠んではいけないという節度とが葛藤し、結局、そのときは神父さんのサイトで詠んでいたために、幽玄を乗り越えるために、「愛に悲しみはない」という意味がそこに含まれていることに気づき、再び聖書の世界へ戻って行った。

何もなければそれにこしたことはない。誰かを恨んだり、憎んだり、戦争やその他諸々の悪というものに対して、善を行うほうが遥かにエネルギーが必要であり、そうやって生きられる人が強い人なのだということにも気がつく。

『あかるたへ』から一首。

死は恒星、生は遊星なりけらしひかりを反(かえ)す思ひぞ深き(水原紫苑)



著者: 水原 紫苑
タイトル: あかるたへ




著者: 水原 紫苑
タイトル: 世阿弥の墓

投稿者 Blue Wind : 01:35 AM | コメント (0) | トラックバック

March 20, 2005

均衡と協調性のなさ

他愛もないことなんだろうな・・・ただ、わたしにはそれが耐えられないことのように感じてしまうだけで、それが当たり前だと思って育てばそれが価値観となるだけのことなんだろう。

よそさまのことだから、あからさまに面と向かって言うことはない。

例えば、どうして習い事だの何だのとせっせと通っているのに、子どもが漫画一冊自由に買えないのだろう、とか。経済的に余裕がないのであればともかく、必ずしもそうとも言えないことも多々あるし、価値観というのはわからない。動機も違うし・・・

子どもに甘いとか厳しいとか、いろいろな親がいる。ささやかなことなんだよね・・・今の時代は、大きくは違わない。同じような教育を受け、同じような雰囲気の子どもたちがいるだけのことであり、ほんのちょっとしたことに異質物のごつごつを感じてしまうことがあるということだ。だから、通り過ぎてしまえばどうということもなく日常は続いて行く。喧嘩したとか、仲が悪くなったとか、いささかそういうトラブルもなく、どちらかと言えば空気のように存在する違和感を何かでつなぎとめながら人間関係が構築されて行く。

今日、ダンナは仕事なので、おちびは朝から友達の家に行き、午後からも一緒に公園へ行くといって電話が掛かってきたら出かけてしまった。そうやって育ててしまったのだから仕方がない。それはそれでほっとする。

学校には学校の価値観があるし、公園には公園の価値観があるし、塾には塾の価値観があるし、お絵かき教室にもお絵かき教室の価値観がある。日本人なのにインターナショナル・スクールに通っている子もいれば、外国人なのに日本の小学校へ通う子もいる。

それにしてもうちのブロック、どうなっているんだろう。蓋を開けたら、5人が5人とも違う中学へ行く。都会なら驚かないんだけどね・・・この選択肢の限られた世界で一体何が発生しているのか、わたしにはわからない。ひとつ分かっているのは、おとなの世界とこどもの世界は違うらしいということで、それを見て、うちの娘の志望校が微妙に変化してしまったということくらいだろうか。

どーなっているんだよ〜!! はっきり言えよ、はっきり!! どーしてそーいうことになったのか、誰も知らないらしい。誰も何も言わない。もしかするとわかりやすい理由はないのかもしれない。

こういうときに、情報ツウとか、芸能雑誌とかあればね・・・わたしでも買って読むさ。芸能人が何してるかより、うちの近所で一体何が起こっているかのほうが遥かに興味深い。それでいて不思議なくらい情報がない。なんでなんだろう。

まあ、親の職場が同じで、近所に住んでいたら、学校くらい違うところに行きたかっただけなのかも。うちのダンナに言わせると、国立的付き合いというのはそういうものらしい。普通は逆じゃないか? うちなんてシンプルだから、「ゆかちゃんが行ってるならうちのちびも行かせるか・・」みたいなノリしかない。いや・・・それは少数派だからそうやって考えるだけなのかも。

----それじゃあんたは協調性があるわけ?

いいえ、ありません。桜の季節、ミモザを眺めています。だって、隣の家が木蓮植えて、うちも植えたら真似してるみたいじゃない?並木に行けば同じ木が並んでいるし・・・公園は桜だらけだし・・・

ここは、つくば。変なところだよね・・・それでいて住みやすい。なんでだろう。マイ・ペース・タウン。公務員の街なんてこんな感じなのかも。共産圏、か。国家公務員と資本主義社会。なんか変な組み合わせ。

花でも眺めていたほうがいい・・・

投稿者 Blue Wind : 02:42 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 あらくさの名を知らざりし白い花さびしき庭に君は咲き 惑ふ

混沌と未来の水の熱ければ冷めた夕暮れまぶしくもあり

ミモザ咲く黄色い季節おとづれて春の陽射しはすぐそこにあり
しだりゆくミモザ葉の丈浅ければぱらりぱらりと春風の吹く
あらくさの名を知らざりし白い花さびしき庭に君は咲き 惑ふ
あと七日過ぎてしまえばあらくさの奔放に咲く黄花の季節
水仙の伸びてゆかんと待ちぼうけミモザの花はやさしく揺れる

くよくよと悩んでみても春の花咲くよ咲くよと待ってはくれぬ
枯れ尾花いまだしおれて春風は運んでゆくか秋の穂の夢

軽やかに美しく吹く春風も花粉の季節あかめめの子ら

投稿者 Blue Wind : 02:36 AM | コメント (0) | トラックバック

March 19, 2005

ちょうじり

それにしても今の小学校っていやですね・・・何がいやと言って、この前娘がいきなり言うんです、「お母さん、お風呂の残り湯使わないの?」って。

国語の授業で短歌や俳句をやっているくらいならいいんです。さらさら〜っとね、親としてはへぼ歌人でもそれなりにさらさら〜っと詠めるだけで気分がいい。マザーテレサのお話など、ついわたしのほうが読んでしまいました。

ところが、「生活」と言うの? 理科や社会と呼ばずに生活という科目があり、これの中に出て来たのか、はたまた家庭科の授業だったのかわからないけれども、いきなり娘が家の中で節約していることとか工夫しているところをわたしに取材するんです。

それとか、お味噌汁の具とか・・・

節水というのなら、わが家はすでに10年以上ドラム式の洗濯機を使っているし、水を貯めるタイプではないのでお風呂の水は使わない。お味噌汁は、ダンナが好きではないので1ヶ月に1度作るか作らないかです。お吸い物のほうが多いかも。

だんだんいやになってきてね・・・うち、輸入住宅なので、小さな窓が30個くらいあり、これにカーテンをつけようと思うとすべてオーダーになってしまう。そうするとおっそろしい額になるので、今は既製のものが売っているのを発見したので半分くらいはそれを使っているんだけど、家を建てたばかりの頃は自分で縫ったし、それなりにわたしはわたしで考えてやりくりしているつもりなんだけど、ライフスタイルの違いというか、「決め」で話されると、なんで小学校でそんなことを学ばなければならないのだろうと、いやになってしまった。

漫画一冊子どもが買うのでも、そこの家庭によっては電話がかかってきたり・・・要するに友達がみんな買っているなら仕方がないかな・・・みたいな感じなんでしょうね。わたしの感覚からすると、それくらい娘の勝手なのではないかと思ったんだけど、金銭の躾というのはそこのご家庭によって大きく違うから仕方がない。

それこそ、毎月の小遣いはいくらとか、そういうことまで相場というものがあって、みんな一緒でないと気に食わない人もいれば、まったく気にしない人もいるし、それだけでも憂鬱になるのに今度はお風呂の残り湯かよ〜!って思ったらかなりしょぼい気分になってしまいました。

物は考えようで、いろいろな節約の仕方があります。建てるときには若干高くても冷暖房効率のよい家とか、服は海外で調達するとか、普段余分な買い物をする習慣が無くなるし、趣味と実益という点で旅行はリーズナブル。

『羽仁もと子案の家計簿』というのがあって、わたしも結婚してかなり長い間これを使っていました。暮らし上手は生き方上手というか、最初に予算を決めて、わりふりする。そこから減法(引き算)により付けていく。普通の家計簿は逆でしょ? 加法(足し算)なのよ・・・使ったものを記録していくだけ。羽仁式は減法で、例えば、光熱費を2万円で月割りすれば、余る月もあるし足りない月もある。要するに年間でプラマイ0か、プラスになればよいのだから、貯金も生命保険料も出費として計上します。

一番ユニークなのが食費の書き方で、一日1000円で副食費(おかず代かな・・主に)を決め、まとめて3000円買えばマイナス2000円になるけど、翌日買わなければその分の予算を足してマイナス1000円という具合に計算して行く。毎月のちょうじりが合えばいいわけで、慣れると年間のちょうじりが合えばいいという具合になる。

旅行へ行けば、その分の光熱費や食費の予算は余るし、それでいて旅行のための代金もどういうわけか毎月予算計上して行く。月にいくらみたいな形で娯楽費として。そうすると光熱費や食費の赤字の分はその月に埋め合わせ、旅行が夏だとすると娯楽費の項目は一気に赤字になるけど、年間予算で考えてちょうじりが合えばいい。

うわっ、赤字だ赤字だどうしよう・・・と思ったとき、不意に貯金も出費ということを思い出しました。どうして家計簿は赤字なのに、口座は赤字でないんだろうとかそういうアホなことを考えたり・・・予算は単なる予算なんだよね・・・それでもそうやって数字やら予算やらをこねくりまわしているのが面白かった。

それにしてもうちの娘は小学校で何を習ってきているのでしょう・・・成績わるくても叱れない。風呂の残り湯とか味噌汁の具で成績が決まるのか? なんかね・・・放っておいてほしい。

投稿者 Blue Wind : 11:06 AM | コメント (0) | トラックバック

March 18, 2005

ささやかな気分転換のために

オードトワレの名前はむずかしい。覚えられない。名前で覚えるよりも、瓶の形や色で見つけたほうが早い。

ものすごく昔、わたしは名前だけで『レール・デュ・タン』が好きだったけど、今はこの香のきつさに耐えられない。「時の流れ」と訳すのだろうか。空気中に充満する時間のような名前に魅力を覚えた。それで結局この数年ほど愛用していたのが、アルマーニやブルガリの男性用のオードトワレ。あまりにも月並みでネタにもならない。

アルマーニの『アックア・ディ・ジオ』というのは、「大地の水」と訳すの? ブルガリのプール・オムには特別な名前がない。

昔からファンデーションを使う習慣がなく、六本木あたりで遊んでいてもすっぴんだった。正直、化粧が下手だったということもあるだろうし、肌が綺麗だったということもあるだろうし、それ以上に飲んで帰ってその後に化粧を落とすのが非常にめんどうだったというのが一番の理由かもしれない。

OLをしていた友達が言うには、そういうことが許されるのは学生だかららしい。社会人の場合、化粧というのも礼儀の一つであり、化粧もしないで人前には出られないというのが普通の感覚らしい。ほんと?

まあ、それでもルージュやコロンの類は好きで、生活必需品には違いない。

どうしてわたしがお化粧が嫌いかの理由に、毎日同じようにできないということもあるかもしれないと、ちらっと思った。朝起きて、健康のバロメーターのように今日は化粧ノリがよいとかわるいとか、失敗したとかやりなおす時間がないとか、そんなことを考えるだけで憂鬱になる。

最初からしないと決めておけば、その分寝ていられる。帰ってから無駄に化粧落としに時間を割かれない。予算的にも時間的にも精神的にもなかなか合理的。結婚して子どもが出来て、近頃化粧しなくなったと誰からも文句言われなかった。なんてさっぱりしているのだろう・・・

それでも、今日何かブログのネタがないかな・・と探していたら、アナ・スイの『スイ・ラブ』を見つけた。最初この派手な濃いピンクの蝶の瓶を眺めたときには、ちょっと引いた。でも、想像していたよりさっぱり系。それでいてどことなく甘酸っぱい香。「今時の女」という感じ。
正直、わたしは『スイ・ラブ』的な女ではない。外見の強烈さと裏腹のさっぱりとした女性らしさ、というのは自分のイメージではないから。それでも何となく持っている。

近頃気に入っているのは、ドルチェ&ガバンナのライト・ブルー。

アロマ・テラピーというわけではないけれど、花の少ない今の季節にオードトワレはなかなかご機嫌なアイテムかも。ついでにCDラックから、マーヤの『ファースト・イン・ライン』を見つけた。


アーティスト: マーヤ
タイトル: 風をだきしめて+1

以前はよくレンタルショップで借りていた記憶があるので、いつの間に買ったのか、すでに思い出せない。エストニアのアイドルらしいのだけれど、今ではエストニア出身のアイドルと呼んだほうがいいのかも。一時期北欧系のサウンドばかり聴いていた頃に見つけた。エストニアでは録音機材が思わしくないというので、英語版はスウェーデンで作製されたらしい。

ドルチェ&ガバンナのライト・ブルーとマーヤは相性がいい。春の甘い香が漂う

投稿者 Blue Wind : 02:41 PM | コメント (0) | トラックバック

異質空間

その一言を言わせるまでが大変なんだよなぁ・・・いや、おちびがこのところふさぎこんでいるから何か原因があるはずなんだけど、その原因を吐かせるのがテクニックなのかもしれん。

塾や習い事をすっぽかし、それを叱ったからといって何も解決しない。単に塾がいやだとか、習い事に飽きたというのであれば別だけど、それまでやる気で行っていたのが急に、というのは変だ。

学校の帰りがやけに遅いとかね・・・塾があることを知っているはずなのに。以前ならこちらの都合におかまいなしに電話をかけてくる。迎えに来いと・・・

それとか、「うちはどうしてお父さんもお母さんも東大じゃないの?」とかね・・・ガクッてくるようなことを言ってくれる。その時も、「悪かったね、東大じゃなくて」と先回りしてカマをかけたら、「どうして分かったの?」だって。

ハワイにでも移住しようかと思ってしまう。

国立の研究機関ばかりある土地柄っちゅーのは、そういうものなんだよね・・・幼稚園から大学まで国公立で東大一直線、みたいな。私立の医学部に行かせる金はないけど、医者にはなれる、みたいな。プライドだけが変に高い。

それで、何となく皆の輪に入れない、とか?

こうなると、テクニック。ひたすら吐かせる。泣かせる。次におだてる。

「○○くんのお母さんがまほちゃんのこと褒めてたわよ〜、しっかりしてるって。プロボウラーのYさんもタダでボールつくってくれたでしょ?まほを将来プロボウラーにしたいって。すごいわ〜。くま先生だってまほに期待してるって。学校の先生が分かってくれなくてもくま先生が言うんだから、そっちのほうがすごいわよ」とかね・・・次から次へ思いつくままにおだてまくる。

そのうちウキウキしてきて、2階から『中学受験案内書』を持ってきた。

(しめた!)

と内心思ったとたん、バカオヤジ。

「まほ、座りなさい。本当に塾に行きたくないのか?行きたくないのなら・・・(うだうだうだうだ)」が、始まる。

もうその話は終わっているのに・・・酔っ払いが説教を始める。

(やめて〜〜〜〜!!!)

母子でぶんむくれる。

(あんたが東大出てないのが悪いのよっ!)とは言えません・・・さすがに。でも腹が立つ。

こういうとき、父が生きてたらいいよねって思う。彼はシンプルだから、「女は顔だ」で終わり。まだあるぞ・・・「ブスな子ほど飾ってやらねばならない」とか・・・ほんで、小遣いせしめて、ぷわ〜っとね・・・ビル・ブラス、ティエリー・ミュグレ、サンローランにケンゾー。手当たり次第に買いまくる。

「目指せ、東京芸大!東大よりすごいわ〜、お母さん(わたしのことさ)なんて、まほが受けたというだけで自慢だわ、落ちても受験票だけは記念にとっておくの。中学や高校なんてどこでもいいのよ、まほは東京芸大へ行きたいんでしょ?」

・・・・・・・・・われながらあほだと思うんだよね。それでも今日はご機嫌で学校から戻ってきたから・・・それでよしとせねば。

ゆとり教育、か。

たしかにゆとりあるよ・・・昔に比べれば。それでいて何なんだろう・・・この異質物がぎっしりつまったような不自然さは。

投稿者 Blue Wind : 02:09 AM | コメント (0) | トラックバック

March 17, 2005

【短歌】 パラダイス黄金の波きらめけば突き刺すようなまばゆき夕陽

なんだかなとてもふつうがまぶしくてもどかしすぎる狂った果実
朝霧につつまれながらカラス鳴く電柱のうえみあぐるように
花咲けば髑髏のかたち思うようなガラスの破片散らばる渦に
松明をつよくなりしとかかげれば夜は明るき闇はとどまり
マグダラのマリアかそけきパリの路地灰色の街青い服あり
激しさも燃えゆくほむらゆらゆらとおとづるる人背の数ながむ
太陽は燃ゆるばかりに輝けば赤道のうえぽかりと消える
消え失せろ夕凪せまる海の色黄金の波いつまでもみる

ヨハネによる福音書 19. 28-30 イエスの死

愛の色いくつ変はりてうつろへど十字架のうへわがひとのあり
罪の色いくつ変はりてうつろへど十字架のうへわが神の愛
誰がために鐘は鳴るのか朝は来ぬ浮かれる鳩は群れつ飛び立ち
パラダイス黄金の波きらめけば突き刺すようなまばゆき夕陽

投稿者 Blue Wind : 11:11 PM | コメント (0) | トラックバック

娘の将来設計?

⇒トラステに参加しています。 テーマ『我が子の将来設計』。


そろそろ娘もむずかしい年頃に突入し、小学生でも高学年になると女の子は次第に”女”になっていく。今までは、男の子も女の子もいっしょくたで、どうせ1クラスしかないし、娘もてきとーにわいわいやっていた。それがだんだん小グループに分かれ始め、今までは普通に仲良くしていたのに、何となく輪の中に入れないとかね・・・過疎の季節を感じ始める。

よく考えてみたら、”進路”で分かれるのかも。

この1週間ばかり、塾もお絵かき教室もお休み。どちらかといえば、ずる休みに近い。わたしは自分がサボることに関しては常習犯でもあったので、そういう意味では何も心配していないのだけど、それよりも急にどうしたのだろう・・と、そちらのほうが気になる。

こういうとき、うちのダンナはあまりにもシンプルで、友達が悪いと思うらしい。そうじゃないんだよね・・・ドロップアウトした友達は案外貴重な存在。単に娘の相談に乗ってくれているだけだ。

同じ小学校で近所に住んでいても周囲は一つ上の学年の子が多く、その子たちは学校は違うもののそれぞれ私立の中学に合格し、そういう意味ではわたしはのほほんとしている。

ところが、一つ学年が下がると、受験する子は減るような気がする。微妙。

仲が悪くなったとか、いじめとか、そういう目に見えることなら気にならないんだけど、そうではなく雰囲気というのかな・・・そのまま小学校のグループで中学校へ行く子たちと、受験する子たちとの間で微妙な壁が・・・そうすると、うちの娘などはノラクラ愛想のよいタイプだから自分も受験をやめたくなってしまうという・・・

これがもっとローカルへ行き、わたしがよく聞かされるのは、医者の子だというだけでいじめられたり、周囲はまるで勉強しないから、などといった類の愚痴で、そうなると子どもも学校より塾や習い事のほうが楽しいとばかりそそくさとバスに乗って1人で塾に通っていたとかね。そういう子たちは小学校がつまらなかった分、中学校が楽しいらしい。

娘がそういう風にならないように今のところに住んでいる。近所は医者が多いし、うちの娘は出来が悪いのでそれはそれで悩みの種。ようやく本人もやる気になってきたところで、今度は心理的過疎の問題で悩み始めている。

延々と続いていくからね・・・

これから先、中学、高校、大学、その他諸々。多数派の中にちょこんといるだけのほうが心理的負荷は小さい。わいわいがやがやその他大勢。

その他大勢の中に入れるために受験させる。

で、気が付いたら、うちのダンナみたいに友達も親も親戚も医者だらけ、という環境になってしまい、まるで外の環境を知らない。たまに言うんだよね・・・僕は友達が少ないなーって。いや・・・少ないのではなく、友達という実感が薄い関係が多いのかもしれないような・・・付き合いが少ないとか友達が少ないということはないんだけど、なんていうか、狭い。

狭いのよね・・・

大昔、友達が、「インターナショナルに友達を増やして・・」って言ったら誰かに笑われたらしい。

娘の将来設計?

「なんでもいいから、さっさと嫁に行って、孫でも産んで」って教育目標欄には書けないよなぁ・・・

「かったるいからこのまま女子大の付属にでも入れて」ってダンナに言ったら、「そんなところに入れて何になるんだ!」って言うし・・・そこまで言われたら、「あ、あたしを馬鹿にするわけ?」と答えるしかないじゃん。

なんでもいいんだよね・・・あいつに負けないものがあったら。やっぱ、自分の専門領域があるって強いし、それが美術でも音楽でもスポーツでもなんでもいい。そういう感覚は家庭内の問題なんだけど、もしかすると社会を考えてもそういうものなのかもしれないと近頃感じたりする。それでいて、以前、ダンナの友達に「家庭内ファシズム」だと言われてしまった。

「『かかあ天下』の家庭を構築する」というのも教育目標にもならないような気がするし・・・どうしよう、困った。

まあ、どっちにしろ本人次第だよね・・・親が決めることじゃない。

投稿者 Blue Wind : 03:46 PM | コメント (0) | トラックバック

March 16, 2005

さすが

ウェブで日記を書き始めて(ブログのない頃)、「今を書け」と言われたことがある。よく考えたら日記ってそういうものなのよね・・・でも、リアルタイムの発信というのはそれなりに疲れることもある。

娘が入院していたとき、ぼっけーっとそれを日記に書くと、ウェブでもご心配いただいて書き込みがあり、忙しい上にBBSにレスを書いて、それでまた日記を書き、次に書き込みくださったサイトへ行き、さらに書き込みをする。ぴんぽ〜んって鳴っても同じ話、電話でも同じ話、道を歩いていても同じ話、ウェブでも同じ話・・・・

母が危篤のとき、しばらく更新できそうにないからその旨をサイトに書いておいたら、それはそれで書き込みがある。その後持ち直し、その時わたしが本当に書きたかったのが、「それがわたしの日常なんです」ということだった。

好奇心なんだろうな・・・どうしてネットをしているのかとか、仕事をしないのかとか、世間話をしているようなサイトをなんでつくりたいのかとか、その裏には「おまえらネットで何やってるんだ」という問いかけが・・・

大きなお世話でございます。主婦がネットで遊んでいて何が悪い!

つまり、1999年くらいから急にネットが普及し始め、それまではパソ通のオタクみたいな人間がやっているだけだったインターネットというものが、やたらと賑やかになる。ネチケットがどうたらこうたらとか、出会い系サイトがどうたらこうたらとか、ネットがらみの犯罪とか、ネット不倫とか、とにかく物騒になったのは一般のユーザが入り込むようになってかららしく、そういう物騒な世界で一体何をやっているのかと、やたらと説教されたのを思い出す。

ははん。

ネットでは相手に個人情報を知られてはいけないとかね・・・一度ICQをインストールした際、個人情報を書いて公開していたのに気がつかず、いきなり知らない人たちからのメッセージが14個くらい入った。その半分が「情報が見えてますよ、気をつけてください」系。

中にはうちの近所に住んでいた人がいて、いきなり近所の誰其さんの話になった時には驚いた。住所まできちんと書いてしまったから、ICQのプロフに。←あほ

まあ、ローカルってそういうものかも。大学に研修に来ていて、その時どこに住んでいて、つくばは懐かしいんですよ・・とか。その人はプロフに名前書いてあるし、職場でICQを使っているらしく、ひまつぶしだったんだろうな。なんか、ぜんぜん知らない人だけど職場の茶飲み話みたいでのほほんとしていた。

で、今、ぐたさんのところでプロフ写真特集をやっている。顔が見たいのよね・・・そのブロガーがどこの誰でも関係ないけど、何となく顔が見たい。くまでもパンダでもきりんでもいいけど、なんかそんな感じ。

わたし、酷いよ。「おまえはアントンの写真を貼っとけ」ってアントニオ猪木の写真を貰ったことがある。あの時代は酷かった・・・女性でも男性名のハンドル名を使っていたり・・・だからといって、なんでわたしがプロフにアントンの写真を貼らないとあかんねん・・・

でも、どうせやるならここまでやらないと?

近頃、王さんは、ひらきなおっているかのように自分のポスター制作に余念がない。世界の王だからね・・・さすが。

投稿者 Blue Wind : 10:19 AM | コメント (0) | トラックバック

死への列車

ウェブサイトで公開されている中田英寿選手のファンへのメッセを読んだ。本当に本人が書いたものなのかな・・などとうがった見方をしながらもオフィーシャルサイトで公開されている以上は嘘ではなく、実際、ほんの少しでも考える時間ができると誰でもこんな感じなのかもしれないと、うすらぼんやり共感する。

ずっとサッカー・オンリーの人生で、少し時間ができたら・・と考える。

もしかすると、みんなそうなのかもしれない。生活に拘束されていると、自由がほしくなる。すると旅へ出たくなったり・・・世界中を回っていろいろな生活や人生を見て、そして自分が本当に何をやりたいかを考える。

実際には、どうせスケジュールが一杯で、ワールドカップのこともあるし、怪我でもしなかったら休みもない。本当だったらもう少しお休みしていてもいいような気もするのだけれど、スポーツ選手にはいつかは現役引退の日がやってくる。

なんか、こう・・・10代はそれなりに精一杯で、20代はがむしゃらで、30代は不幸の連続で、わたしは40歳を過ぎてようやく少し休む時間が与えられたような気がしている。かといって、年寄りの相手をしていることもそれなりに疲れる。

少し休みができたときに、人生の愚痴を聞かされるほど退屈なことはない。はっきり語れば、そういう風になりたくないから、ゆっくり考える時間がほしくなるだけのことであり、そういうゆとりの時間に、動けなくなったらとか病気になったりとかお葬式のこととか、未来のない現実を不安一杯に語られても退屈なだけ。

若いうちは将来は違ったものに映る。あれもしてみたい、これもしてみたい、という具合に。それがいつしか将来のことを考えることがいやになる年齢に達する。わたしはちょうどそういう過渡期の年齢に達したせいか、近頃過去を振り返ることが多くなった。

でも、それは悪いことではなく、逆に少しゆとりができたから、過去を振り返る時間があるだけのことだし、何を考えているかといえば、自分がやりたかったことなどをぼちぼち思い出したり・・・

本当にやりたかったのは研究なのかもしれないけれども、今いくつか理由があって昔ほどそれに魅力を感じない。わたしは若い頃はめいっぱいわがままな人間だったし、そういう意味での後悔もない。

30代は大変だった。それでいて、今だから言えるのかもしれないけど、何もないより何かあったほうが充実感がある。結婚だけでも大変なのに、震災やら親の世話やら慣れない育児に見知らぬ土地。病気になりそうでならないのは、わたしは案外タフに生まれているのかもしれない。

夢を見た。

4人で旅行していた。父と母とわたしと娘。その光景なら本当は弟が一緒のはずなのに、どういうわけか娘と一緒だった。いくつか列車を乗り継いでいるうちに降りる駅から離れてしまい、そこへ戻ろうとすると改札を出られない。すると、ターミナルのその駅に急に次から次へ列車が入線し、わたしは15番線の列車に乗らなければならないはずなのに気が短い父はさっさと歩き出し、勝手に10番線の列車に乗ってしまっていた。母と娘が続く。わたしは改札の人が案内してくれるというので(間違えているから・・)、大きな声でその電車は間違っているのよーっと叫ぶ。娘はすぐに気づき手を振りながら降りてきた。母も遅れて降りてきたような気がする。そして、気が付けばその列車は父を乗せたまま動き出してしまっていた。

父との別れ。
その瞬間、あの列車は死への列車だったのだと気づき、わたしは急に寂しくなって目が覚めた。また父だけが1人だけで行ってしまった。それだけでもショックだったのに、その列車に娘が乗っていたら・・と思ったら胸が締め付けられた。そして、もう一つショックだったのは本来なら弟が一緒のはずのところに娘が一緒だったということ。

これが今のわたしの潜在意識。

生きていれば何かを背負って生きている。それが母と娘なのかもしれないし、それが父の代わりにわたしが責任を持たなければならないことらしい。

結局、何をしたいかとか、何をしているか、はあまり関係ないような気がすることがある。ただ、ここで自分がくたばったら大変なことになるな・・と思うような何かに支えられてテンションだけが持続していく。実際問題、わたしはあまり頼りになる人間ではないけれども、それでいてわたしがくたばったら大変なことになる。

しばし、桜の季節。まだ花はない。なんか、こう・・・何もしていないのにやたらと疲れる季節。しばし、桜ブルーと格闘。でも、今年はまだマシだ。西行みたいに桜の木の下で昼寝したら治るだろうか・・・

テンション高いな・・・くたばりそう。土の上で眠りたい。まだ埋められたくないけど。

投稿者 Blue Wind : 02:20 AM | コメント (0) | トラックバック

March 15, 2005

【今日の短歌】 桜花幹たちあぐる肌ありて陽射しのなかに季節を知るや

のらくらと買収劇を眺むれば春は明るき風よく似合ふ
すこしずつ粒あつまりて礫かなしたたかにして世は変はりゆく
四方の風散るか散らすか切り株に落つる木の葉の吹かれるままに
春の息桜の花に尋ねれば水仙の花いまだしづもる
地上には地上の息があるように地下に地下のぬくもりのあり
春の声いづこにもとむ春の花吾は水仙土を知るらむ
水仙のおとづれ遅き季節には夏の花さえしづもりて咲く
桜花幹たちあぐる肌ありて陽射しのなかに季節を知るや
しづもれる球根の花つちのなか夢見て眠るめぐりくる春


水仙と桜、か。
まったく違うセンサーがある。

投稿者 Blue Wind : 01:39 PM | コメント (0) | トラックバック

情報価値を考える

今日はホリエモンを応援しようと思ったのですが、あえて考えるならば、どうして報道が値打ちがあるのか、ということもそろそろ真面目に考える必要性があるのかもしれないとも、ウダウダ考えています。

わたしは、自分のブログ記事を書く際、論文を書くみたいにどこから突っ込まれても困らないように下調べをしたり慎重になったり事実のみを記述していこうという姿勢はありません。それよりも案外楽しんで書いている。もちろんこの記事もそうです。

どうしてそういういい加減さに対応できるようになったかというと、記述ではなく描写の世界では受け手の内面世界までコントロールすることは不可能だと悟ったからかもしれません。ネットでよく言われるのは、行き違いとか勘違いとか、言葉のやりとりによる情報伝達の曖昧さによる妄想の発生とかね・・・同じ言葉でも言い方によってニュアンスが変化するのは当然だし、両者の関係性によっても変化します。言葉って生き物だから・・・

でも、電子の世界に限らず、文字の世界というのはあくまでも文字の世界であり、多くを読者のイマジネーションに頼りながら描写や人物像というのも構成されてしまう。だから、そのテキストがどんな人が書いたか、なんてことが読者に理解できないのは当たり前。

女でも自分のことを僕と書いていれば、その作者は男なのかと勝手に勘違いしてしまっても無理はない。

ところが、ネットの場合、活字と違ってある意味コミュニケーションがある分、テキストが身近に存在し、だからこそ文章そのものより、その書き手に対しての興味が発生するのを抑えることはできない。

映像の世界でも、フィクションとドキュメンタリーは違う。実話を元につくられた映画だとしてもどこかイマジネーションの域を出ないというのは、人間がつくるわけですから宿命とも言えるかも。

ただ、受け手に対する責任という姿勢ではどうなんでしょう。これがテレビだとアナウンサーの言い違い・読み間違え・その他諸々視聴者の意見が数秒後に鳴りまくるという話を聞いたことがあります。もちろんそれが報道でなければもっと違うのかもしれないし、同じ報道でも最初からいい加減だと思っているような週刊誌のネタについてあれこれ詮索しても始まらないことを読者は暗黙のコンセとして持っている気がします。

それと、情報伝達ということで考えると、情報の変容というのはどうしても避けられない。最初の人から100番目の人まで伝わり、それが最初に戻ってくると同じ話だったのにまるで気が付かないとかね・・・それくらい変容してしまう。そういう意味で、ネットというのはかなり危険な世界。

それに対して、どうやってインターネット・ユーザが対応していくか?という点に関しては、これまたわからないです。未知なる世界。発信源がわかっていれば苦情も出せるかもしれないけど、そもそも民間伝承のようなこの世界に責任を求めても無理な気がするし、だからといって、今のテレビやら新聞から吸収した情報がすべて事実に立脚していると信じている人たちも稀な気がしますし、どうなんでしょう。

政府のメルマガを読んでいるし、2回くらいアンケートや意見を送信したことがあります。自分としては直接政府と有権者が意見交換できる場としては未熟かもしれないけど、マスコミ報道を通した接し方よりも幾分ましだと思っているし、ほかの人たちの意見も眺めることにより、フィードバックされるものもある。何も言わないよりも何か言いたい時もある。

ライブドア対ニッポン放送・フジテレビということを、単なるマネーゲームとして捉えるか、インターネット対マスコミという図式で捉えるか。結局は決着をつけるのは世論なのかもしれないし、その世論ですらネット世論とマスコミ報道とでは幾分ニュアンスに違いがあるというのがライブという感じで面白い。

心情的には、それでも60%くらいはホリエモンに味方しています、今日は・・・

投稿者 Blue Wind : 11:17 AM | コメント (0) | トラックバック

電車の中のネット・ジャンキーの実態?

Shigeさんのところで面白い記事を見つけた。電車の中のインターネット・ジャンキーの実態? 首からもPDA、手にもPDA、かばんの中からまたPDA・・・一体彼は何をやっているのでしょう?

コメントにも書かせていただきましたが、わたしはきっとこういう人たちにいろいろなことを教えていただきならがネットや機械を覚えていったのかもしれません。彼らの特徴は、IT関連の人もいれば単にパソコン通信の頃から機械をいじくりまわすのが趣味だった人もいるし、やたらと機械には詳しいこと。

それともう一つ・・・やたらとリアルとバーチャルを分けたがること。

すごいですからね・・・機械に名前をつけ、機械ごとに用途が違う。何をやっているかと思えば、機械Aは仕事用、機械Bは趣味用、機械Cはネタ探し用、という具合に、中には複数のプロバイダを契約し、それぞれメルアドからIPアドレスからすべて違うものにしてしまう。

それでね、いくつものハンドル名やネット人格を構成し、やばいところへ出入りするときにはプロキシ、サイトの管理にしても同じ来訪者なのに同じ管理人が管理していることに気が付かないことを喜んでみたり、とにかくヘンな人たちが多い。

1人で複数のネット人格を操っていると混乱するから自然と機械を使い分けるようになったのかもしれないし、それが女だったり男だったりジジイだったり、とにかくはちゃめちゃ。自分的には、そういうことはインターネット社会を混乱させるだけだからやめてほしいと言っても無駄な気がする。だって悪いことをしているという意識がないほど機械にはまって遊んでいるから。

大抵は、自分はリアルではまともだと思っているらしい。

職業的バイアスってあるから何とも語れないけど、少なくても電車の中で複数の機械で遊んでいる姿はどこか変だ。まともとは思えない。

********

それとは別に、本当に精神的にダメージのあるタイプのジャンキーも多い。ネットでの人間関係に依存しているから、上述の人たちとはまた違った意味で、ネット人格を構成している。

ネットの場合、やりなおしがきくから。例えば、人間関係がとらぶり、とてもそのストレスに耐えられそうになくなり、消えてしまいたい時など、実生活では無理なことでもネットでは簡単です。サイトを閉鎖したり、メルアドを変更したり、ハンドル名を変更したり・・・それでいて、親しい人にだけ変更したことを知らせるなどということはざらにあります。

中には友達の駆け落ち?を怒っている人もいた。グループで常連化していたはずが、2人だけ消えていたとかね・・・

おおげさでおおげさで・・・たまにあほらしくなる。

結局、関係性の問題らしい。それでいて関係性のニーズが違うと、言っても通じないからそういう時には諦めるしかない。

たまに思うんだけど、歌人としてサイトやブログを運営するようになり、それが主婦サイトやブログとどこが違うのかといえば、例えば、アドレス帳だけを眺めても実名ばかり並ぶようになったことかも。

ネットを始めたばかり頃は、ハンドル名の世界でしょ? で、親しい人にだけ写真を送ったり、住所を交換したり・・・それが普通らしい。それでもメルアドはネット用というのかな・・・うまく説明できないけどそういう感じ。いつでも捨てられるようなもの。

わたしの場合、その手のメルアドはどういうわけか今は神父さんのコミュニティに参加するためとか、政府のメルマガなどに使われているだけ。

そうなると、なんか近頃めんどうで・・・BBSにレスを書いたり、とか。反省せねば・・・

ブログは、ブロガーの世界だから、そういう意味で旧弊な意味でのネット・ジャンキーを一掃する効果があるような気もする。それと身近なメディアとして、今までだったら受信するだけだった世界とのコミュニケーションも存在するわけで、そういうことも慣れてしまえば当たり前になるだけのような気がする。

某ブログで、「今は主婦の人たちでもネットをするようになったし・・・」と書いてあった。なんかね・・・なんでそういう偏見が存在するのか不思議だ。うちの近所のおばさんたち怖いぞ〜、大学くらい出ていて当然だし・・・「どこの院だったんですか?」の世界でもある。

ネットでも、ママ友のサークルだと、元官僚、元刑事、元何とか、という具合に顔が見えないって怖いなーと思ったことも多い。

話聞いてみるとね・・・だからネットが楽しいんだってさ。

投稿者 Blue Wind : 02:18 AM | コメント (0) | トラックバック

March 14, 2005

奇異

この前、クルマで公園の前を走っているとき、カーラジオからパンダの話が聴こえてきた。住宅地の公園の前の道は一部舗道に石のタイルが貼っており、徐行しなければならないように工夫してある。まるで砂利道の上を走るようにクルマが揺れるため、でこぼこ揺られながら途切れ途切れでラジオを聴いていた。19世紀に中国にいた宣教師がパンダの毛皮を本国に送り、その時にパンダの存在が西洋に知られるようになったというお話。

情報伝達という面でも、異文化・異国という点でも、何となく感慨深い。

パース在住まさぴんさんの視点はいつも日本文化に対する屁理屈であり、バレンタインデイ、ホワイトデイ、加えてたまごチョコのイースターなど、イベントにまつわるものが多い。これに対して、Luluさんは、タンザニアに腹を立てながらもタンザニアへ住み着こうとしている。そのせいか、逆に愛国心まで感じてしまう・・日本に。

たまに思うんだけど、どうして中国にパンダが住んでいたり、パースに黒鳥がいたり、白ゴキブリがいたり、タンザニアの青い海やめずらしい動物たちには腹を立てないのに、人間や文化のこととなるとこうもおおげさに腹を立てるのだろうかと。

こういう傾向は何も海外に限ったことではなく、国内でも変わらない。北と南では売っている魚の種類が違うのは当然だし、野菜も微妙に違う。季節になれば、この辺ではあんこうが売られている。昔は、水菜もイタリアンパセリも牛筋も売っていなかったけど、近頃ではニーズがあるせいか大抵のスーパーには置いてある。

それでいて、その昔、市内の某スーパーで冷凍のワニ肉が売られていたのを見たときには驚いた。ニーズがあればちまたに溢れるのだろうか・・・・こわい。ワニ肉を常食で育った人たちには申し訳ないけど、わたしの脳には食糧としてはカウントされていないようです。それでいて、そういう感覚は差別や偏見なのだろうか?

奇異という感覚はどこか難しい。伝統文化に携わる人たちは、常に奇異との戦いのような気がすることがある。だって、歌舞伎だってヘンでしょ? 男の人が女性の役をしていたり、派手なメイク。今なお奇異を芸として伝えている。

作歌をするようになり、この世界もなんだかヘンだ。近頃では外国語でも俳句のような語数律で詩を詠む人たちが存在するらしく、それはまるでロック・グループのキッスが歌舞伎役者のメイクをパクッていたのを眺めるようなもので、日本だとデーモン小暮とか? 似ていて非なもののような・・・

奇異なものに対しては、拒否反応が発生して然り。それでいて伝統文化に対する拒否というのは概してさらなる反感を買いやすい。このため、奇異をブラボーにしてしまう人たちがアーティストと呼ばれる。異文化を母国に伝える人も、母国の文化を他国に伝える人も。

そうやって考えると、アートとは朱鷺やパンダや黒鳥なのかも。奇異。文化は難しい。

今日、また発作でMJC(Mission Japan Club)にメンバー登録してしまった。伝える難しさを学ぼうと思って・・・日本文化の一つとして和歌を詠んでいくか、はたまた宣教の難しさを異文化に学ぶか・・・のっちもむずかしくって。和歌を新しくしていくことより、和歌のよさを伝えることのほうがむずかしい気がする。それでいて和歌の中に何を詠んでいくかはもっとむずかしい。

投稿者 Blue Wind : 02:41 PM | コメント (0) | トラックバック

March 13, 2005

【今日の短歌】 水仙の咲かぬ弥生の土のなか冷たき水のしづもれる音

ブロガーの重ねる文字の並んでは違う自分を求める人等
いくえにも重ねる時間並んでは代わり映えせぬ人といふもの
つらければ彩りの在る花園を訪ねるやうなふりそそぐ雨
少しずつ書き連ねれば過去のこと未来の闇を崩しゆくなり

エンディング迎えてみれば春風がそよ吹く季節陽だまりの道
明日からは平日だよと繰り返す日曜日にはサザエさんかな
終わりなきふつうの日々の連なれば誰でもいつかサザエさんかな
作者さえ死すともつづくサザエさんいつ絶えるのか終わりなき日々
重ねゆくふつうの日々はサザエさん千年の日々ふつうにめぐる
普通さがこんなにヘンなものだとは普遍の意味を井戸に問ふべし

海の水飲めもしないがあるだけで濾過することを考えてみる
海の水海の魚を養うか陸のわたしは眺むるだけか
問うことは問いすぎもなく聞くことは雲雀の声の与うみことば
海の水与えられても水不足南の島は人心なり

水仙の咲かぬ弥生の土のなか冷たき水のしづもれる音

投稿者 Blue Wind : 11:53 PM | コメント (0) | トラックバック

知らん顔してたらええねん

ファン心理って難しいですね。わたしも気になっていたんですよ・・・アメブロに『ヴェルディ食堂』というサイトが登場し、「なんでアントラーズじゃないのよ〜!」って内心ムッていました。でも行かなければ存在しないも等しいのがネットなので、そのうち忘れると思っていたら・・・またまたnattoさん!(いつもネタの提供ありがとうございます)

これ、別チームのサポーターにしてみたらたまらないだろうな・・・みたいな。

記事を読むと比較的紳士的なことを書いてはいるが、内心はむっかむっかしてたまらんぜよ、みたいな・・・わかるようなわからないような・・・そのうち暴動が・・・(ウソウソ)

ファン心理の権化というか、わたしの父は酷かったですからね。根っからの巨人ファンだったから、それこそ巨人が勝つとウキウキしているし、なんで今日こんなに機嫌が悪いんだろうって思ったら巨人が負けたのが原因だったり・・・

そういうアホはうちの父だけかと思っていたら、お舅さん!
家の中ではだ〜れも阪神ファンなんていないのに、その時間になると寝ながら一人でテレビを見ている。酷いとわざわざ誰もいない部屋に篭ってまで見ている。

最初は、「まさか・・」と思っていたのですが、ある日ダンナの実家にいた時、お舅さんが不意に消えたので、「お義父さんは?」と姑さんに訊いたら、「テレビ見てるよぉ」と言い、素知らぬ顔。姑さんは実家が東京だったので、うちのダンナは子どもの頃、巨人の帽子を被せられたそうです。伝統の一戦の時間には、だ〜れもくちをきかない恐ろしさ・・・その後、お舅さんの顔を見ただけで、試合の結果がわかるという。

うちのダンナはくちでは自分は阪神ファンではないと言いながら、はじっめて大喧嘩したのが、キーオが原因でした。窓が割れましたから・・・あの時。いかに壮絶だったかご想像いただけたかもしれません。普通だったら割れないよね・・・相当頑丈なサッシだし・・・それに穴が開いちゃうんですから。

どうして許せなかったかというと、阪神のキーオが160キロの剛速球を投げるとうちのダンナが嘘をつくからです。そんな投手がなんでいっつも3点くらい巨人相手に失点するのかという矛盾を突いたら、怒ったのなんのって、わたしも一歩も譲らない。

めったに喧嘩しないんですけど、あの頃は一度喧嘩が始まると、4,5万は窓の修理代に捨てていたと思います。それっでも許せなかった。あの嘘つきには。(えっ、誰が割ってたって?・・・・ほほほ)


ジーコ!

愛してるよ〜♪

* so-netは使ってないけど・・・

投稿者 Blue Wind : 11:24 AM | コメント (0) | トラックバック

March 12, 2005

橋本一子

なっつかし〜い!
CDショップへ行き、何となく歩いているうちに、不意に「橋本一子」の名前が目に入る。ジャケットを見て、「あ、一子さんだ」と記憶の中の顔がよみがえる。


アーティスト: 橋本一子, 井野信義, 藤本敦夫
タイトル: Miles Away〜トリビュート・トゥ・マイルス

高校時代ですよ・・・わたしたちが一子さんの家に押しかけてしまったのは。わたしは普通ですからね・・・誘われただけです。

その当時はロックやポップスのほうが好きだったし、卒業記念はビリー・ジョエルのコンサートだった。ぶらんかさんのところで久しぶりに、ビリーの名前を見つけて、くすくす笑ってしまう。
理由?
それは何と言ったらいいのだろう・・・薄かったから・・・後姿が。当時はすごく流行っていたので、わたしはビリーの『ピアノマン』ですら持っていたのだけれども、ある日「わたしは『ピアノマン』が好き」とアメリカ人英語教師のパムに言ったところ、げらげら笑われた記憶がある。
アメリカ人の感覚からすると、ビリー・ジョエルの『ピアノマン』というのは当時でもすごいナツメロで、それを日本の高校生が聴いているというのがすごく可笑しかったみたい。


アーティスト: Billy Joel
タイトル: Piano Man

で、話を一子さんに戻すと、当時彼女はまだ音大生か音大を出たばかりだったのではないかと思う。それが突然実家まで押しかけてしまったのは、たまたま友達の家に近かったのと、一子さんの妹が一つか二つ下の学年にいて、いきなり電話しちゃうのだもの・・・家に・・・わが友が。

幸いにして、お母さんというのが愛想の良い方で、突然の電話にもかかわらず、「家で待っていれば戻ってきますよ」とおっしゃったので、そのまま学校帰りに押しかけてしまった。(こういう時、制服というのは絶対的に強いと思う。)

その時わたしを有無を言わさず誘った友達はジャズが好きで、ベース音ばかり聴いている女だった。そのくせ古文が好きで、楽器と言えばお琴をあやつり、お父さんは短歌の先生。一度だけ夕飯をごちそうになった時、コンソメ・スープの中の野菜が全部自家製だった。彼女の部屋は二階の和室で、大きなお琴と小さな机が置いてあるだけ。とても女子高生の部屋とは思えないシンプルな部屋で、わたしたちはジャズを聴いた。
決して裕福な家庭ではなかったけれども、どことなく風流で上品な家庭。彼女がわが家に来るときの手みやげは和菓子と決まっていた。よくあんなに甘ったるいものが食べられると感心した。

それが、突然、なのだもの。
どうせわが家は親の帰りが遅いので、土曜の放課後にちょっと帰りが遅くなったくらいどうということもない。彼女はいきなり家に電話し、喧嘩腰で怒鳴るように電話を切り、「さあ、行こう」という具合。
約束より少し早く到着し、一子さんの家で待つこと2時間、一子さんが賑やかに帰ってきた。それまでが大変だった・・・お母さまが気を使って電話するわけ・・・一子さんに。「待ってるのよ、早く帰ってらっしゃい」という具合。わたしたち2人が勝手に押しかけたにもかかわらず、あれこれもてなしてくれる。

本当のことを言うと、「橋本一子」という名前を聞いたのがその日が初めてだったわたしは話についてゆけそうにない。それでいて妹さんが同じ学校だったので学校の話とか、先生の話とか、そういうつまらない話をぼちぼちしながら時間を過ごした記憶が。ごく普通のご家庭で、ジャズピアニストという匂いはなかった。

その後成り行きで、新宿でライブがあるというので、お礼に花束を持って出かけて行った。実際に演奏を聴いた感想は、「子宮でピアノを弾いている」としか語れなかった。まだ熱い時代だったのだと思う。それとクラシックのくせがあって、それがどうしていきなりジャズへ転向したのか、高校生ながらそういうことを考えた。

本音を語ると、その当時のわたしはジャズが好きでなかったのかもしれない。もっと本音を語ると、今日、橋本一子の名前を見つけたとき、「まだやっていたのか」と思ったのだった。それでいてジャケットの写真は昔のままで、なつかしさのあまり買ってしまった。

感想?

歳月は素晴らしい!

彼女の演奏を聴いたのは、もう20年以上昔の話になってしまったけど・・・ビル・エヴァンスとトゥーツ・シールマンスの『アフィニティ』をもっとメロウにした曲作りで、カバーという点では最高。

そういえば、その時一緒に行った友達は今東北の片田舎で、さらに風流に暮らしている。彼女の家に無理やりファックスを入れさせたのはわたしだけど、そろそろメールが届くだろうか・・・わからない。母屋と離れのある暮らしは大変なのだ・・・電話をするのも、気を使わなければならない。


アーティスト: ビル・エヴァンス, トゥーツ・シールマンス, マーク・ジョンソン, エリオット・ジグムンド, ラリー・シュナイダー
タイトル: アフィニティ

投稿者 Blue Wind : 06:20 PM | コメント (0) | トラックバック

題詠マラソン2005の鑑賞 その1 宮まりさま

まだ自分が一首も詠んでいないというのに、今年は鑑賞から始めることにしました。われながら、よいこころがけだわ・・・

着順に、のんびりやらせていただきます。

Kamomeさんみたいに、ぐいぐいいけると楽なんですけど、なかなか・・・のらくらのらくら。一重にわたくしの趣味!だけで、選歌しています。


■宮まりさま

020:楽
音楽の教科書だけをそっと抜き資源回収にそそくさと出す
(音楽だけか・・謎)

025:泳
泳ぐことを忘れた蝶が池に浮き何かを待っているのだろうか
(水のうえの蝶・・・動かない)

033:魚
海を泳ぐ魚のように鳥が舞う 犬の散歩に出掛けようかな
(お天気よかったのかな)

037:汗
汗腺のゆるきからだに湿りあり さらさらになり茄子の花咲く
(茄子の花って白い花?)

040:おとうと
おとうとのいないあたしはなにうたおチャンチャンバラバラチャンバラしまほ
(勢いが好き)

051:泣きぼくろ
泣きぼくろは美人の証明 無いからって鉛筆でなんか書かないでくれる
(書かねえよ、って突っ込みたくなります)

097:静
「静もる」と石に刻まる静かさよ鷹峯の奥京見峠よ
(恐ろしいほど静かなのかな)


********

ちょっと休憩しよう・・・
一日、1人か2人くらいが限界かもしれない・・・

投稿者 Blue Wind : 02:00 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 光あれ夕暮れのみち光あれ影踏みあるく夕暮れの吾

光に背く人々がいる。
彼らは光の道を認めず
光の射すところにとどまろうとしない。(ヨブ記 24. 13)


********

光あれ夕暮れのみち光あれ影踏みあるく夕暮れの吾
そのみちは闇へとつづく夕まぐれながながと影吸い込まれゆく
紫の闇おとづるるマウイなら鯨のように世界をめぐる

まぶしき陽背にうけながらてくてくと春めいたみちクロッカス咲く
てらてらと光っていてもクロッカス盗まれたよと朝からぼやき
切り口の刃物のようなクロッカス闇から朝へ花泥棒来る

********

どうやら花泥棒がいるらしい・・・
「クロッカス盗まれちゃったの〜!」と朝から鼻にかかった声。
こりゃ大事件だ、コンビニ強盗の次に・・・

投稿者 Blue Wind : 10:55 AM | コメント (0) | トラックバック

March 11, 2005

【トラバ返歌】 本歌取

今回は、ご返歌というより、麗さまの、
『体重計「おかしいわね?」と場所移動場所を変えても重さ変わらず』
が、本歌です・・・


体重計「おかしいわね」とゼロみっつ電池切れだわ捨ててまおうか

以下、ノーコメント。

投稿者 Blue Wind : 11:15 PM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ返歌】 つかのまの千年紀

Natさまへのご返歌

千年紀のんびり眺めネットせし残りゆくもの露光りては
メディアにはほの遠かりしブロガーのぶどうの蔓の井戸を走りぬ

セントーサ熱き太陽聳え立つマーライオンの口火は噴かぬ
防空壕歩いて悲し熱帯は外も内さえ燃えさかる咽

シナリオの劇中劇をながむればつたうるまえにキャッチすべしと
大衆をとらえることのできるものプロパガンダにナチのきずあと

鼓舞という9.11の追悼は愛国的につどわるる歌手
反戦にうちすてられしCDを知ったというも9.11か
さらされる危機は瀕してつかのまの結束という幻をみせ
燃え臥せばつかのまと化す夕べには無知なる茜うっすらと雲


ボサノバの起源は、静かな反戦ですから・・・愛と微笑みと花。
9.11以来、「これだ!」と思いました。

投稿者 Blue Wind : 12:07 PM | コメント (0) | トラックバック

ティー・スプーン一杯のメディア

よく言った、ぐたさん?
「ダジャレを言う人=ダジャリスト」と、勝手にぐたさんをダジャリストに任命したところ、ダジャリストはジャリタレ?
その読み間違いを眺めるだけで、ダジャレ川柳にはまっているのが何となくわかります。脳内がぐるんぐるんにダジャレが徘徊しているのかも。

それにしても、今時、「ジャリタレ」なんていう言葉使うのだろうか?

わたしね・・・・そもそも昔からなんでしょうけど、タレントの顔と名前を覚えられない。それどころか、たまにCMを見ても顔の区別がつかない。みんな同じ人がやっているように見えてしまう。

それはどこかディズニーランドへ行って、歩く人たちの顔の違いの区別がつかないことにも似ているし、母のいる病院へ行き、食堂に座っている慢性病床の患者さんたちの顔が覚えられないことにも似ている。

知っている人なら何となく遠くからでもすぐにわかるのに、知らない人となるとその違いがわからないほど、みんな同じに見えてしまう。加齢するに従って、その傾向が強くなっているのを感じる。

人間というのも眺めてしまえば街の飾りであり、風景であり、気がつけば流行というものがあり、一様に同じような人たちが歩いている。そういうことに慣れてしまうから、隣に誰が住んでいるのかわからないとか、一駅隣に引っ越せばまるで見知らぬ街とか、同じ店で毎日のように顔を合わせていても誰がいるのかも気がつかないということになってしまう。

大昔、弟が同じ車両に乗っていたのにドアが隣だったのでまるで気がつかなかった。電車を降りて、後ろから声を掛けられて初めてその事実を知った。彼はわたしに気がついていたというので、幾分彼のほうがマシだ。

こういう傾向はどこか鬱っぽくて、自分でも警戒しなければならないところなんだけど、その昔、わたしのいた世界ではそれが当たり前だったから、実は大して気にしたこともない。他人に関心を持たない、ということをごく自然に学んだ。

他人に関心を持たない、ということは、他人からも自分は物質である、という意味であり、あらゆることが単なる事象として存在しているに過ぎなくなる。逆に語れば、見知らぬ人のちょっとしたことが不意に目に飛び込んできたり、あらゆる些細な事象がとても魅力的に感じられたりする。

そういう感性をどこで学んだのか、記憶にはない。だけど、後日わたしが歌を詠むようになり、フィーリングという点で、非常に役立っているのを感じる。

*********

話変わって、そろそろ発作でアメブロにブログをつくって3ヶ月になる。この3ヶ月の間に10万人の新規アメブログが出来た計算。スパム登録も多いから、今でも実質的にブログを更新しているのは1割強ではないかと疑っている。

昨日、nattoさんのブログでカリスマ枡野の話題を発見。そういえば、近頃、彗星集がどうなっているのかもまるで知らない。わたしの頭の中では、そういう結社の活動とネットとが切り離されて存在しているために、アメブロにブログをつくったばかりの頃、初めて枡野ブログに投稿し、いきなり「ある人から投稿があり、その人はこの歌を知らない」とばかりに、加藤治郎さんの短歌をアップしてあるのを見て、ギクッた。それでね・・・ほかの彗星集の歌人の投歌を解説してる。しかも、わたしが歌集を読まないってか?

その後、馬場あき子さんの短歌をトラバったら枡野さんからコメントが入った。そこが歌壇っぽい。

加藤さんのたまわく、歌壇の毒なんだって。マスコミ系のノリ自体がどこか歌壇の毒らしい。それでいて、大真面目。短歌人や未来等々その他諸々所属結社は違っても、みなどこかでつながりがある。

それで、次なる仕掛けが「真鍋かをり」さん?

わたし、ずっと枡野さんのブログには行っていないので知らないけど、トラバっているブログでお題を観察し、その時に検索した。それとスパム騒動の時にプロ野球の古田さんのブログと真鍋かをりさんのブログを話題にしている記事を読み、それで何となくお題を理解した。

ある一面、ファン心理というものがあれば、今まで短歌に興味がなかった人でも、真鍋さんが選歌してくれるならとばかりに枡野ブログに投稿が増える可能性もある。歌人人口を増やすにはなるほどカリスマらしいやり方であると感心すると同時に、相変わらず、「真鍋かをりって歌人?」って思っている人たちも多い。

受け皿というものがあって、そこはどこかアクセプタブルな世界なんだけど、一歩ディープに入り込めば外見の華やかさとは裏腹にとても厳しい。

そういう中で、わたしはノラクラとブロガーをやっている。題詠マラソンもどうなんだろう・・・今年はネットのことは話題にもならないような気配。若手の俳人が結構タレント俳人には文句タラタラ書いているのを見たことあるし、マスコミって無責任だからね・・・正直。

でも、どうなんだろう・・・積極的にマスコミを利用していくホリエモンのやり方を眺めていると、世論操作という点で、「大勝負」と語る意味が何となく理解できる。結局、枡野さんが一番声を大にして語りたいのも、今まで「枡野」というだけで差別偏見に満ち溢れていたということかもしれないし、そういう意味では、わたしも同じ。ネット歌人というだけでバカにされる。キャリアが違うから一緒に考えては申し訳ないのですが、立場的に一緒にされやすいから。

でも、少しずつ時代が変化しているのも近頃特に感じるし、それでいてわたしはお題「真鍋かをり」には投稿しない。ミーハー的に流れないことで、ネットを見直してくれる風潮があることも事実だから。

こういうことで自分が損をしているのか得をしているのか、今のところまるでわからない。でも、わたしは歌人をやめてもブログは書ける気がする。当たり前のことのようでいて、実は当たり前でもなく、だから逆にたまに短歌についてのコメントが入るとドキッとする。

ネットが好きなのよ・・・ティー・スプーン一杯のメディアという雰囲気が。

投稿者 Blue Wind : 10:59 AM | コメント (0) | トラックバック

March 10, 2005

粒か粒粒か

ダジャリスト・ぐたに触発され、はたまた時々ドキッとするようなコメントをくださるシャンティさんなど、あるいは近頃では政府のメルマガを読んでいても、”好き”なのよね・・・和歌が、日本人は。わたしは、自分があまり好きではなかったから、『源氏物語』に対するレトロな愛着を考えると源氏があるかぎりこの国は変わらないようなブルーな気分に陥ってしまう。

それでいて、今度は、源氏物語強化月間かよ〜!(泣)>ぐたさま

こういう時に、わたしは島田荘司強化月間に突入したい気分に陥る。考えてみたら、島田さんは小説の中に女性があまり出て来ないのと、小説の舞台が大掛かりすぎるせいか、ドラマには向いていないことに気がつく。
女性が嫌いというより、奥さんの失踪の謎を追って歩き続ける吉敷刑事とかね・・・

男と女の関係に社会が密接に絡みつくより、独立独歩のほうがさっぱりしている。

房から離れたぶどうの粒や、一つ転がるパチンコ玉や、ディズニーランドのポップコーンの粒や、NEETや、ブログや、まとまらないとあまり値打ちの無さそうなものに癒しを感じてしまう。源氏物語に出て来る女性たちは、いわばそういう粒々の中の一粒のようで、一粒一粒に解説を加えていく寂聴さんがどうして人気があるのか、何となく理解できる。

それでいて、和歌は集まらないと値打ちがないのだろうか。
それでいて、一首の重みということを頻回に繰り返されると、連作しか詠まない自分という人間が、これまた天邪鬼な歌人であり、粒か粒粒か、ジャラン(道)かジャランジャラン(散歩)か、俳句か川柳か、ブロガーか結社か、とてもわかりやすいことを考えているはずなのに、難解と思われたりする。

それで、これまた何かを説明するのが困難なんだけど、3枚のCDを借りてきた。わたしは割とレンタル派である。期限があるほうが聴くのよね・・・買うよりも。よほど好きで買うのでない限り、試聴して買ったはずなのに、ガムランやハワイアン、その他諸々一度も聴いたことのないCDやめったに聴かないCDは多い。コレクションと聴くという行為は違うらしい。

『源氏物語』の翻訳を比較するように聴いてやるのだ・・・ボッサを。

***********


アーティスト: ジョアン・ジルベルト
タイトル: ポートレイト・イン・ボサ・ノヴァ~ベスト・オブ・ジョアン・ジルベルト

アーティスト: ナラ・レオン
タイトル: イパネマの娘
(画像なし)



アーティスト: オムニバス, ディック・ファルネイ&ノーマ・ベンゲル, エリス・レジーナ&アントニオ・カルロス・ジョビン, シルビア・テレス&ルシオ・アルベス, マルコス・ヴァーリ, ナラ・レオン&ジョアン・ドナート, カエターノ・ヴェローゾ&ガル・コスタ
タイトル: ボサノヴァ・デュエッツ

投稿者 Blue Wind : 06:57 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 権力とたたかふためにメディアあり武器は鍋蓋陰からスプーン

権力とたたかふためにメディアあり武器は鍋蓋陰からスプーン
スコーン食み優雅な笑みによく似合ふオーブを集め次のボスキャラ
退廃はゆくえしらずの雨雲のふらす大地の電波ジャックか
粒粒に価値はないさと転がればぶどうの実落つパチンコの玉

多数にて議決されるかランキング表示/非表示一房のぶどう
ニート族ひとりだけでは天邪鬼並んでみれば80億円
キューあれば並んでみろと多数決ハニーポップコーン焼きあがるまで

1億の生活保護をかかえてはいくつの都市のつぶれゆくかな
年金は誰を養ふニート族親のすねから国のふところ
メラメラと怒ってみても鬱の風邪ひろがりゆかばむなしい怒り
真面目にぞ怒ってみても退廃はくもりゆく空しづかな光

投稿者 Blue Wind : 10:18 AM | コメント (0) | トラックバック

メディア茶番

わたしね、ホリエモンのしていることが素晴らしいとは思ってはいないけど、あのようなキャラがいても悪くないとは思っている。キャラとしてはまるでアニメの主人公のようで・・・

球団のオーナーになることに失敗し、次なる手として経営権騒動。ラジオ放送をやりたいのなら、自分で放送局をつくればいいのに、わざわざフジを怒らせるようなことをして喜んでいる。
しかも、フジのほうのキャラも相当かも。共同出資みたいな形になれば、当然、オーナー同士が話し合う必要性はいつかはあるでしょうに、フジにしてみれば「ライブドアなんて相手にしないよ〜♪」という姿勢。おとなげない。

誰かが街頭インタビューで、「単なるマネーゲームのようで嫌だ」と答えていたけど、ボスキャラ同士の戦いを見ているようで面白い。今のところどこの会社も倒産の話は出ていないので、やれるだけやってほしいというのが率直な感想。下手な野球の試合なんかより、よっぽど面白いわ。

はあ〜、それでいてあの破廉恥プロデューサーは何なのかしら?

愛人に貢ぐために、1億円相当の制作費の使い込み? NHK・・・これじゃ、受信料を支払えと言われてもお断りしたくなるのも無理はないとばかりに、今回はかなり厳しいね。しかも、NHKの伝統らしいから・・・使い込みは。

しかも、家は離婚した奥さん名義になっており、これではNHKもどうすることもできない。

このところ、メディアの茶番劇が続いているせいか、どうもコメンターも歯切れが悪い。民放だとNHKの話題になるとウキウキするのに、どうもホリエモンの話となると本当は何も語りたくないのではないかという雰囲気がオーラのように出ている? 悪口言いたくないよね・・・公共の電波で。

政治家の悪口だったら、おっそろしいほど盛り上がるくせに、今の時代はどーなっているんだか・・・結局、飽きてるのよね・・・野球もつまらないし、いつも似たような時間帯に似たような番組が並んでいるだけだし、使い込みがNHKの伝統?

なんか、飽きたのよ・・・そういう茶番劇に。

投稿者 Blue Wind : 09:29 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 ハイヒール場違いのやうエレベーター待つ人らにはいっときの鬱

みちさきを不案内にも問ふ雲のひとつただよひ春澄み渡る

そろそろと洗濯物を畳んでは母の要る物今はこれだけ
数枚のパジャマとタオル抱えては袋ふたつと春さきの歌
液体のチューブ通したかぎざぎは繕ふことも無駄と知るべし

秋の日のすぐこの前と思ひては寒椿落ち春を待つらむ
病室は西陽の森に向かひてや窓のカーテンいつ開けやらむ
空だけがやけに広がる駐車場月見の晩は冴え冴えと春

まどろんで領収証をながめても確定申告期限は待ちぬ

食堂はいつも並んで同じ顔 に見えてしまう横を通りぬ
看護士の明るくもあり不自然な笑みなきおうな寝たきりの咳
この頃じゃ誰も心配する人のなき慢性の部屋おむつ積む

つるつるの廊下の床をそろそろと転ばぬ杖の点滴の管
花道をとおりゆかめとおむつ買いそこのけそこのけ両脇の椅子
花道をみあぐる視線うつろげに並んでおりし椅子のうへには

ハイヒール場違いのやうエレベーター待つ人らにはいっときの鬱

投稿者 Blue Wind : 04:20 AM | コメント (0) | トラックバック

March 09, 2005

NEET

今日は、何に興味を持ったかと言えば、NEET(Not in Employment, Education or Training)。「まるでわたしのほうがNEETだわ・・」などと思いながら、朝からNEETな人たちやその家族のブログをサーフィンしたり、関連記事を読んでいる。

NEETの定義は、「学生でもなく、就業者でもなく、求職「活動」もしておらず、主婦(主夫)でもないという者をさす。」

かろうじて主婦をしているから、わたしの場合はNEETではない。それと年齢的に15-34歳を若年層として定義しているために、わたしの場合それにも当てはまらない。ほっとすると同時に、わが家にはNEET予備軍のような娘がいる。

それでも学校へ行ってるせいか、ケーキ屋さん→お絵かきさん→美術の先生、という具合に、小学生でも具体的に将来への展望を考えるだけマシな気がする。正直に語れば、一人娘なのでさっさと結婚して子どもを3人くらいそそくさと産んでほしい。

わたしの場合、自分が就労意欲のある人間ではなかったせいか、どうしても娘にも甘くなりがち。その昔には、「家事手伝い」という便利な用語があり、ダンナの姉の場合、結婚が決まっていたために大学を卒業してもスイミング教室で水泳のコーチのバイトをしていたり、家の手伝いをしていただけ。フリーターとも違う。その鬱憤があるせいか、逆に40歳を過ぎてから働いている。

わたしの目から見れば、今の時代は就労意欲がありすぎの人たちが多い。スキルアップ、キャリアアップとばかりに転職を繰り返したり、卒業すれば何が何でも就職しないと罪悪のような雰囲気。

一方で過剰なまでに意欲的な人たちが鬱々としながら存在し、もう一方で何もする気がなさそうな無業者たちがさらに鬱々しながら存在している。少数なら話題にもならないのでしょうけど、いつのまにやら52万人もNEETが存在する以上、無視するわけにもいかないらしい。

が、しかし・・・

本当の意味でNEETに腹を立てているのは、いやな仕事を我慢しながら続けている人たちらしい。わたしの場合、子どもが幼稚園に入ったら無性に仕事がしたい時期もあったけど、小学校へ入ったら急に何もしたくなくなった。育児があまりにも大変だったので外の空気を吸いたくなっただけなのかもしれないし、それでも選択の余地があるだけマシだ。主婦の特権かも。

実際、大学卒業後、1年間はNEETだった。院へ合格したから救われたけど、していなかったらわたしは何をしていたか自分でも自信がない。就職したことも就職活動をしたこともないまま加齢してしまった。

義姉の場合、誰も批判しなかったけどな。「家事手伝い」というのが一つの常識のように存在していたのかもしれないし、いざ娘がNEETと呼ばれたら、正々堂々と「家事見習い中?と言いなさい」と、わたしは言いそうだ。

息子だったら?

家から追い出す。

投稿者 Blue Wind : 11:01 AM | コメント (0) | トラックバック

March 08, 2005

ホリエモンのテレビ・インタビュー

ホリエモンのテレビ・インタビューを見る。

歯切れが悪い。言いたいことがありすぎて、要領を得ない人の特徴。実際、数分の間にインタビューを受けて、その間に何を語れと言うのだろう? 大抵は、問われたことに対して答えるだけで精一杯ではないだろうか・・・

しかも、テレビの視聴者というのは、株のことも理解していない人が多いので、投資家に説明するようには語れないらしい。そりゃそうだよね。だったらそんな番組にどうして出るのか、そちらのほうが不思議。

自社の宣伝になるから・・・なんだろうな。

ネットを始めたばかりの頃、仙台にメル友がいて、いきなりメルアドがライブドアになった。その時、無料プロバイダとか、ライブドア・セットのことを知る。要するに、パソコンとプロバイダがセットになったプランニング。

ライブドアと言えば、わたしには、いまだにその頃の印象しかない。それが数年の間にこんなに急成長するわけだから、それだけインターネットに対する脅威というのが、逆にテレビ局の側に過剰にあることに気づく。

アナウンサーの古館さんが、「私達がこんなにがんばっているんですから」と語っていたのが本音なんだろう。数年後にはテレビは必要なくなる?

正直、わたしはこういうことでもなかったらテレビを観る習慣がすでに欠如している。新聞も読まない。その昔、レコードやビデオのレンタル屋がちまたに出来始めた頃の騒動を思い出す。その結果、著作権がどうたらこうたら、レンタル開始までの猶予期間の設定など、今ではそういう話も聞かなくなった。

CDが発売された時だって、大変だった。レコード針が製造中止になり、場所食い虫だったオーディオがコンパクトになった。どんなに高価なものでも、機械はいずれは古くなってしまう。その手の代物をゲットするには、今はネットのほうが都合がよいらしい。皮肉。

実際、インターネットがどうたらこうたら、と聞いても、「またか・・」という印象しかない。

反面、わが家はケーブルテレビなので、僅かでもテレビ電波を受信するために支払っている。国立の研究機関が妨害波を出しているらしく、電波障害地区に指定されているせいだ。普通のテレビアンテナでは受信できないらしい。このため、受信料に関しては、10年間は通常の10分の1くらいの価格。補助金が出ている。その後はインターネット並に支払わなければならなくなる。

普通は、NHK以外、テレビの受信はタダと思っているでしょう? スカパーなどの有料放送を除いて。うちは、お金払って受信してるのよ・・・つくばに来て以来。腹が立つったらありゃしない。なんで、あんなくだらないものにお金を払わないとダメなのか。

テレビとネットとどちらを選ぶかと問われたら、わたしはネット。同じ料金なら。それで、趣味やニーズに合わせて有料放送を個人で契約するほうがベターだと思っている。有料だといいよ・・・映画からサッカーからK1から、内容も豊富だし・・・

民放テレビが赤字になって、申し合わせたように有料化になった場合、どれだけの視聴者が残るのか、わたしにはわからない。

投稿者 Blue Wind : 11:42 PM | コメント (0) | トラックバック

「神さまとふたり」

うたを詠んでいて、一番しあわせな瞬間は、Solitudo with God。
この言葉を日本語にするとき、わたしは、「神さまとふたり」と言っている。直訳すると、「神と一緒の孤独」という意味だけど、そうなるとまるでニュアンスが違いすぎる。インマニュエル(神と共にいます)というほうがよいのだろうか。

たまに思うのだけれど、わたしは教会にいるときより、バリ島の大きな夕陽を眺めている瞬間や、バンブー島の雲の形だけが時を知らせるような感覚に埋没しているときのほうが、遥かに近くに神さまを感じる。

イタリア巡礼を終え、いろいろな教会があることも知る。今は閉ざされている教会へも行った。大きな教会、小さな教会、鐘の音・・・てくてく歩いてきた。

地中海の白い落陽・・・
鏡に白い光線が反射するように、太陽までの道ができる。

そういう瞬間、わたしはすべてがどうでもよくなる。

人間は、この世に生まれた瞬間から、死へ向かって生き続けなければならない。大抵の占いでは、死は、大凶なのだそう。そこが宗教とは違うらしい。

つまりは、この世に生まれた時から、死の支配下へ入ってしまう。そこで初めて、いのちを知る。不老不死で、永遠のいのちを持っている人たちがいるとすれば、彼らは死を知らない。死を知らないということはいのちを知らない。

わたしたちは、死の恐怖を知ることにより、いのちを知る。

それでいて、死の恐怖に怯えながら生きることは、耐え難い苦痛。自分が死ぬだけではなく、いつかは誰でも死ぬわけだから、それこそ大切な誰かを失った悲しみは誰にでも襲いかかる不幸。

ところが、どうだろう・・・

実際に、誰かの臨終に立ち会った人たちなら気がつくかもしれないけど、死への旅立ちは人間にやすらかな癒しを与えているがごとく、ハッピーな顔をしている。しかも、赤ちゃんは泣くことによりこの世で息を開始する。

この例えは、小平正寿神父さまの『イタリアアシジからの伝言―聖フランシスコとともに歩く』からの引用。

永遠の命・・・
イエス・キリストの復活。
十字架の栄光。

彼は、人間を死から解放するためにやってきたらしい。

わたしに問う人たちは、すでにわたしが問う質問しかしない。ということは、古今東西、同じことを人間は問うことにより、生きてきたのかもしれないと思うほど。

昨年、神父さんのサイトで、うたを詠み、聖書を開くという作業をしていた。そのうち、それが神さまからのメッセのような気がしてくる。しばらくひとりでも続けていた。

今はやめている。その理由は、こうである。

つまり、わたしの質問や嘆きや愚痴に対して、神さまはメッセを贈り続けてくださったのだから、次にはわたしが神さまの問いに答えなければならないらしい。

聖書を読み、そこからインスパイアされたことを言の葉にしたり、うたにしたり・・・わたしは、自分が宗教の人ではないために、そのようなことをしてもよいのか、ずっとためらっていた。聖書に詳しい人たちはたくさんいらっしゃるし、わたしよりも信仰心の厚い人たちもたくさんいらっしゃるでしょうし、第一、わたしはいまだに洗礼も受けていない。

そういうことに対するためらい傷はたくさんある。わたしの中の毒もたくさんある。

そういうとき、Solitude with God。

神さまとふたり。

寡黙であること、孤独であること、そして神さまとふたり。
その瞬間、陽射しがとてもまばゆく、空がやけに青いことに気がついたりする。

それが、どんなにかしあわせな瞬間か・・・

わたしは、それが Solitude with God だと気づくのに、8000首以上のうたを必要としていたへぼ歌人。先は長い。

投稿者 Blue Wind : 11:14 AM | コメント (0) | トラックバック

March 07, 2005

【短歌】 やさしげに微笑む陽にはやさしげな透きとほる目のみつめあふ空

やさしげに微笑む陽にはやさしげな透きとほる目のみつめあふ空
空からの光輝けば今の陽射し明日もあるかと彼にとふ吾
とどまりぬ重ね鉢寝る芝のうえやはらかき陽のゆれることなく
空の陽よ微笑んでみて明日の空透明な色浮んで青く
やはらかき愛そそぎゆく陽の光微笑みのなか空は永遠
泣き声に生まれ怯えてやすらかに死す最期の日微笑んでおり
空からの視線は光まばゆくも浮遊のままにぽつりとねむる

投稿者 Blue Wind : 02:09 PM | コメント (0) | トラックバック

わたしの知らない誰かへのわたしの世界

Kamomeさんの「短歌に恋する」、という感覚に触発されるわけではないけれども、短歌なんて自由でいいような気がする。残念ながら、わたしには「○○さんのファンでそのままXXXへ〜♪」というノリがないだけ。

恋に恋してふわふわ〜っていうタイプじゃないもの。

どちらかといえば、恋と、恋することとは違うんだな・・・などと冷めた視線がわたしの特徴のような気がするし、アンニュイに浸りながら、ボッサでも聴いて、『春夫詩抄』など読んでいると和んでしまう。

ところが、以前このノリで詠んだ時、やたらと歌が甘ったるくなりすぎ、自分でも自分っぽくないと反省したことがある。

歌のことだけ考えていると楽しいのよね。

いつからかな・・・
なんとなくひとりが気楽だと思うようになったのは。

ネットが荒らし騒動でややこしくなったせいかもしれないし、それがかったるくて結社へ行けば結社なりの厳しさもあり、そのどちらにもうんざりしてしまった。

「わたしはもともと歌人じゃないのよーー!」

って、声を大にして叫びたくなった。

それでいて、歌は相変わらず日課として続けている。

時にネット歌人、時にカフェ歌人。

でも、どうなんだろう・・・考えてみれば不思議な世界。同人とか結社とか、いつも誰かが所属を気にしている。好きな歌人がいて、その世界に飛び込むというほうがナチュラルなのかもしれない、と不意に思った。それでいて、そういうのって何もない自分。

何もないから、歌集を読まないとかあれこれ思われるらしい。それはそれでかなり迷惑な幻想。そうやって思われたとたん、わたしはもしかすると短歌が好きではないのかもしれないという気分になる。

家にいて気楽なのは当たり前だけど、カフェもそれなりに気楽。スタバだったらまた違うかもしれないけど。いつも行くカフェは、すでにわたしの顔くらい覚えていてくれる。だけど、何も言わない。よく知った店でも、誰もわたしのことを知らないというのはすごく気楽。そこで好きな詩集や歌集を読みながら、何となく作歌していたり・・・

静かなコミュニケーション。

誰かが忘れた頃に、不意に歌集を出すかもしれない。あからさまに歌人になるより、不意に知らない人に渡してみたい、わたしの世界。

投稿者 Blue Wind : 11:48 AM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 狼少女

作家ブログのモトギさんへのトラバです。

狼に拾われ狼の群れで育てられた少女は、その後、人間に保護されました。けれども、彼女は二足歩行もできなければ、言語もわからず、狼のように行動するだけ。体の成長も遅い。そして、16歳で生涯を全うしたそうです。


群れなせば聴こえ来しうた狼の群れ伝ふ声カミラ聴きしか
山のなか捨てられし子の狼は十六で死す女に生(あ)れども
かたち人狼と思ふカミラには人のうつそみ鏡の他人


果たして、彼女は幸せだったのでしょうか。
人は人に生まれるから人なのではなく、人に育てられるから人になる。
感覚遮断の実験とかね・・・感慨深い。

投稿者 Blue Wind : 12:29 AM | コメント (0) | トラックバック

March 06, 2005

ふたりの世界

ボサノバの魅力は、「ふたりの世界」。
青い海や空はその他の出来事はまるで単なる背景のよう。
若い頃には、もっと過激なサウンドが好きだったかもしれない。
ラブソングもちまたに溢れ、それでいて次から次へとラブソング。

その昔、大嫌いだったのが、アミンの『待つわ』。



アーティスト: あみん
タイトル: P.S.あなたへ・・・


当時は、どこへ行ってもこの曲が流れ、これを聴くたびにむっかむっかしていた。

「私、待つわ。いつまでも待つわ。好きなあなたがフラレル日まで」

大嫌いだったにもかかわらず、サビの部分だけはどこででも流れているから頭の芯にこびりついている。デートでもしている時間、この曲が流れると、それだけでむっかむっかしてしまう。せっかくたまの休みにふたりでいる時に、これが流れるってきついと思いません?

自分の幸せの陰には不幸な人たちが存在している、という事実を認識する年頃でもあったし、誰かを好きになる理不尽さにも気が付く年頃でもあったし、大失恋に泣きそうな予感に押しつぶされている年頃だったからなおさら。

いっそのことさっぱり別れよう、と思った瞬間、「私、待つわ、いつまでも待つわ」って流れ出す。そうなると、悔しくて悔しくて、自己憐憫。

そういう時代を経て、わたしはJ-ポップが大嫌いになった。
言葉がわかるってつらい。

その点、歌詞カードを見ないといつまでも意味のわからないカフェ・ミュージックは気楽。ボサノバの場合、ポルトガル語だからそれこそまるきり意味もわからない。タイトルも知らない。それでいて何度も同じ曲を聴く。同じ曲をいろいろな歌手が歌っている。

いつまでたっても、ふたりの世界。

ナラ・レオンの遺作となってしまった、『ギターひとつの部屋で』を聴いていると、すべてがどうでもよくなってしまう。ナラとロベルト・メネスカルのギター。30年来の関係は、ギターひとつあればナラが歌い出す。

大人の恋。大人の関係。

遠のけば大人の恋があるやうによりそふ波はさやあたたかき(しらいしまさこ)

**********

創作ということで、わたしはひとつやってみたいことがある。

投稿者 Blue Wind : 03:49 AM | コメント (0) | トラックバック

March 05, 2005

【今日の短歌】 くるぶしに他愛なく床吹雪くやう冷たい息の流れゆくドア

往生の際わるそうな雪犬の温和な瞳頬うるわしく
目で詠むか耳澄ましたるうた声のこわれた響きのどの奥臥す
まっしろけお庭にすわる雪犬は微笑みながら消えてゆくぞと

くるぶしに他愛なく床吹雪くやう冷たい息の流れゆくドア
雪の灯はまぐれあたりの光線にはじけてみてもゆるりと日向
ひねもすをうつらうつらとうた詠めばましろき雪は芝にかわりぬ

とじこめた時間のなかにあるやうな雪は白白そして消えゆく

投稿者 Blue Wind : 11:11 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 IDのcherrynutにて架空にぞ実のない桜嫌ふもおかし

さやわかに冷たい床のつづく先吹き込む風に残雪の色
水仙の雪の中にぞ指先を覗かせてみし夏土に逃げ
残雪を掻き集め犬座りたるオブジェ見つむる部屋に何ある
静かにぞすぎゆくときをすごしたく垣間見し雪春夢壊す

春風はつよくつめたくあしおとの大きな靴のふみだす一歩
陽は伸びてさしこひかりあかるくてのぞきこむ窓われを拒みぬ
血潮にぞかわるるもののうめき声鬱という名の陽のまばゆき日

きゃいきゃいと鼻歌のやう電子文字ぐたにぐるぐるめぐりたる名の
筆名を考えるなどうとましくなりすましいづわがハンドルは
IDのcherrynutにて架空にぞ実のない桜嫌ふもおかし
薔薇の実の朱色に粒のならびたる季節も今はフリーズしてる
強引にうたよみつくす土曜日は遊びゆく吾子さそふTelあり
2時間をながいとおもふあの頃のまぶしき陽射春はおとづる

ぼんやりと寺山修司ながむればヒエラルキーのあしおとの鳴る

ランキング代わり映えせぬ青と赤たまにオレンジ目に映らぬと
こんなにも青き時間の空のうた代わり映えせぬうたかたの夢
瞑想を呼ぶがごとしと森の花贈られてきしコミュニティ・メール

空調の吹き込む音は透明に消えてしまうか髪にかくれて

投稿者 Blue Wind : 10:21 AM | コメント (0) | トラックバック

ミラーブログの謎

ミラーブログ!

これは気持ち悪かったですね〜!!

・・・・って今また再び見えるのですけど。

最初にパソコンを起動したばかりで、ログインしていない状態だと、『存在しないBLOG IDです』のページが現れるのに、今、あちこちにサーフィンし、自分のブログ記事を書こうと思い、再び、存在しないIDページを開こうとすると自分のミラー・ブログが見えます。

どういう具合に見えるのかというと、プロフィール欄と広告スペース以外はすべてミラー。

http://gurugurui2005.ameblo.jp/

ためしに再び、ぐるぐる日記もどきのURLをクリックすると、プロフィール欄にはきちんと「ID:gurugurui2005 」と表示されるんです。もちろん違うURLでも存在しないIDを使えば幽霊のようなミラーは出没するそうです。

コメント欄を参照 (ぐたさん、とらさん、nattoさん、そして、ぐるぐるさん、ありがとうございました。)

今回は、あまりの気持ち悪さに、アメブロの運営局に投稿フォームから質問しました。実は、アメブロにそういうものがあると知ったのも、つい先日のことで、ランキングのネタについてサーフィンしている時にたまたま知りました。

ランキングの表示/非表示を選択性にしてほしいという要望は、とりあえず投稿フォームから送信しました。(こちらにはレスは来ないです・・) まさかその翌日にまた再び投稿フォームから送信するなんて。

こちらは速攻で運営局からレスが届きました。(そりゃそーだろ・・)


*********************

cherrynut 様

アメーバブログ運営局です。
この度はアメーバブログをご利用いただきまして
まことにありがとうございます。

下記の件、お客様のブログを拝見させていただきました。
ある方のコメントに記述したURLに誤記があったために発生した
事象と見受けられます。
弊社側ではシステム障害の報告はございません。
お客様のブログが複数ミラーされているということはありませんので
ご了承のほどよろしくお願いします。

今後とも、アメーバブログをどうぞよろしくお願いいたします。
それでは、失礼いたします。

アメーバブログ運営局
-------------------------------------------
人気ブログを作って、賞金ゲット!
Ameba Blog http://ameblo.jp/

アメーバブログ運営局 Mail: info@ameblo.jp
-------------------------------------------


----- Original Message -----
> アメブロID: cherrynut
> URL: http://cherrynut.ameblo.jp/
>
> 『風マニア』の管理人の白石です。
>
> コメントがあり、飛ぼうとしたら、まったく同じミラーブログがあるんです。
>
> http://gurugurui2005.ameblo.jp/
>
> 気持ち悪いです。
> 完璧に同じ内容のミラーです。
> ランキングまで同じ。
>
> どういうことなのでしょう。
>
> User-Agent: Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1)
>
>
****************

運営局からの返信メールをそのままコピペしたんですけど、いかにおバカなやりとりかわかりますね・・・^_^;

ほかにもミラーブログが見えたという奇特な方は、TB&コメントください。
あまりにも不思議だ・・・

パソコンのせい?
クッキーのせい?

ちんぷんかんぷん・・・機械・・・嫌い。

それよか、編集画面。
コメントやTB、画像が増えたら、画面が横に広がるぞ〜!
コメントやTBはともかく、画像は選び難くて仕方ない。

(↑次にはこのネタでせうか・・)

投稿者 Blue Wind : 02:27 AM | コメント (0) | トラックバック

March 04, 2005

風マニアが2つある?

怖い・・・

「ぐるぐる」というハンドル名でコメントがあり、ぐるぐるさんのブログへ飛ぼうとしたら、『風マニア』なんです。
ランキングまで一緒。

http://gurugurui2005.ameblo.jp/
(↑偽です)

コメントやトラバまで同じ?

勘弁してほしい・・・

わたしのブログのURLは、

http://cherrynut.ameblo.jp/
(↑風マニア)

です。

憂鬱になってきた・・・

投稿者 Blue Wind : 12:59 PM | コメント (0) | トラックバック

最後の1ピース的爽快感〜島田荘司〜

薫葉豊輝(かおるは ひろき)さんのリクエスト?にお答えして、島田荘司さんの書評を書こうかと。コメントでは書ききれないから。ブログ系ミステリー作家というのがどういうものが存じ上げないのですが、島田荘司→司凍季→薫葉豊輝と流れなんだなぁ・・と何となく感じたので。

「島田ミステリはどの辺に惹かれたのでしょう。私の読み方は狭いだけに、別の視点も聞きたいと思いまして。」(薫葉)

ぐたさんにネタふりしようかと思ったんですけど、島田荘司さんなので、ここは踏ん張ろう。だって、読んだ小説だけでも以下の通りなんですもの。よく考えたら、未読本を挙げたほうが早い。


著者: 島田 荘司

タイトル: 占星術殺人事件

タイトル: 異邦の騎士

タイトル: 踊る手なが猿

タイトル: 火刑都市

タイトル: 暗闇坂の人喰いの木

タイトル: 御手洗潔のダンス

タイトル: 御手洗潔のメロディ

タイトル: 灰の迷宮

タイトル: 御手洗潔の挨拶

タイトル: 切リ裂きジャック・百年の孤独

タイトル: 斜め屋敷の犯罪

タイトル: 漱石と倫敦ミイラ殺人事件

タイトル: 北の夕鶴2/3の殺人

タイトル: 眩暈

タイトル: 龍臥亭事件〈上〉

タイトル: 水晶のピラミッド

タイトル: アトポス

タイトル: 出雲伝説7/8の殺人

タイトル: 消える「水晶特急」

タイトル: 毒を売る女

タイトル: 寝台特急「はやぶさ」1/60秒の壁

タイトル: 展望塔の殺人

タイトル: 奇想、天を動かす

タイトル: 龍臥亭事件〈下〉

タイトル: 羽衣伝説の記憶

タイトル: 飛鳥のガラスの靴

タイトル: 確率2/2の死

タイトル: 天に昇った男

タイトル: Yの構図

タイトル: 幽体離脱殺人事件

タイトル: 新・異邦人の夢

タイトル: 高山殺人行1/2の女

タイトル: 殺人ダイヤルを捜せ

タイトル: 網走発 遥かなり

タイトル: ポルシェ911(ナイン・イレブン)の誘惑

タイトル: 秋好事件

タイトル: 夜は千の鈴を鳴らす―東京‐名古屋駅90秒の謎

タイトル: ら抜き言葉殺人事件

タイトル: 天国からの銃弾

タイトル: 消える上海レディ

タイトル: 死体が飲んだ水

タイトル: 本格ミステリー宣言

タイトル: 見えない女

タイトル: ひらけ!勝鬨橋


一番最初に読んだのが『占星術殺人事件』で、最後に読んだのが『秋好事件』です。どうしてそうやってはっきり覚えているかというと、最初の御手洗潔シリーズがあまりにも斬新だったのと、最後の実在事件を追うという姿勢とがまるで正反対だったので、打ち止めになってしまった。

島田作品を大きく分類すると、御手洗潔シリーズ、吉敷シリーズ、自動車、実在事件、その他という感じなのかな。わたしが一番好きなのは、当然、御手洗シリーズだし、正直、吉敷シリーズは内容自体も忘れてしまっているかも。

しかも、主人公の謎の過去というのがテーマのような気がするし、女性は殺される以外どこで出てくるんだろう・・というのが率直な感想。しかもワトソン的存在の石岡君なんて「記憶喪失だったの〜?」みたいなノリ。謎に包まれた主人公というのも魅力の一つかもしれないですね。

子どもの頃、ホームズは本当に存在したのではないかと思っていたわたしとしては、どうしても名探偵という言葉に弱い。密室とかトリックという言葉にも弱い。何をもってして本格ミステリーと呼ぶかはともかく、奇抜なアイデアや発想が猟奇的な世界をフィクションとしてオブラートで包んでいるようで、作者との知恵比べみたいなところで、わたしはいつも島田さんには負けてしまう。

それと、切り裂きジャックや夏目漱石、舞台が中国からハリウッド、などなど少しずつ離れたパーツが組み合わされて行く手法というのがすごかった。実際に存在した出来事、例えば晒し首の写真が載っていたり、背景のリアリズムもかなりショッキングで、壮絶な悪というものを上手に表現していたような気がします。

ただ、『秋好事件』についてはどうなんだろう。とても長い小説だし、実際に死刑判決が出ており、しかも冤罪、かつ平凡に生きている人たちの存在が裏側にあり、責任という点であまりにもリアリズムとかったるさと社会的無関心と現在進行形ということで、わたしは一歩引いてしまった。

実在の事件でも100年以上昔の出来事と今とでは重みが違う。作家というのは警察官でも検察官でも弁護士でもなく、はたまた新聞記者でもなく、どこかそういう非現実的なストーリーテラーであることを作者に望んでしまうのは読者の側の身勝手?

こうやって書いてしまうと月並みなことばかり・・・

ただ、巨大なジグソーパズルの最後の1ピースをカチッとはめこんだ時のような爽快感は、島田作品の飛びぬけて面白いところ(だった)。

投稿者 Blue Wind : 11:21 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 雪の空クララ・モレーノ遠かりしブラジルの夢ミモザ葉に消ゆ

夢タクト崩れ去りし雪景色ましろき庭をみまもりぬ朝
がくがくと春鬱の音近づけば雪積もらないミモザ葉の下
窓の外白き世界のしんしんと降りやまぬ雪無機質な朝
開ける窓冷たい息の流れ込む電話待つ朝虚しく行くか
透明な冷たい息のガラス越し右の窓から吾を突き刺す
膝の上猫に化したかオトくんは寒がりの犬寝てすごす朝
灰色の空気のなかの静けさは白という色真白くもする

菜の花やいつにぞ揺れる春の野は白雪の舞ふ弥生の空に
雪の空クララ・モレーノ遠かりしブラジルの夢ミモザ葉に消ゆ


鬱々するから、またボッサでも聴くか・・・
菜の花は遠い。


************



アーティスト: クララ・モレーノ
タイトル: モレナ・ボサ・ノヴァ(CCCD)

投稿者 Blue Wind : 08:55 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 春指揮者タクトを降ろせ野の夢の黄色い季節まばゆくも萌え

眠り粉を浴びているよな春の陽の手を伸ばしたる花園が夢
チューリップ忘れてる間に冬の陽は枯葉のうえに影を伸ばしぬ
ステップに置き去りにした球根はいつになったら花咲かせるや
水仙の厳しき日にぞ咲きにける優雅な舞も雪にしづもる
うららかに寡黙な春の歌声は小鳥のやうなサンバのリズム
空中に紛れて埃飛びおりし透明な陽の射し込むテレビ
窓辺には窓辺の景色浮びたる春の庭にはまだ遠かりき
春指揮者タクトを降ろせ野の夢の黄色い季節まばゆくも萌え


そろそろガーデンセンターが賑やかになる頃かな。
雪降るなよ・・・まだ、雨。

ボッサを聴きながら、春よ来い、ってうすらぼんやり・・・

投稿者 Blue Wind : 02:09 AM | コメント (0) | トラックバック

Good idea!!

昨日、バナーをお借りしたスカイアイさんのところでこんな提案が・・・ つまり、ランキングの表示/非表示を選択性にしてほしいという提案。

自分でアクセス解析を付けた時にも思ったんですけど、こういうのって他人に公開するためではなく、自分で自分のサイトやブログを管理するツールなんですよね。

実際にはアメブロではjavascriptが使えないため、リンク元URLや検索キーワードもわからないから、普通のカウンターでも充分な気がするんですけど、それでも毎日同じIPアドレスを見つけるとうれしい。ご常連さんがいるというのは励みになります。

ランキングもまるで否定しているわけでもないです。賞金企画も悪くないと思います。ただ、「これみよがし」というのが苦手なんです。

例えば、読者登録の欄も一気に記号が羅列されるというのが苦手。ブログ名とIDとハンドル名がまるで違っていたりすると、慣れないとどこのブログが更新されたのかもわからない。

ぐたさんみたいに生活時間帯が似ている?と、レスポンスが速いから更新頻度と共に常駐しているような気がするし、今、ぐたさんのところに書いたと思ったら、自分のブログにぐたさんからのコメントがあったり・・・

そういうレスポンス組もいれば、単にテキストだけを読みに行っているブログもあるし、ランキングのことが無かったら、読者登録やお返しみたいなニュアンスに鬱々することもなく、勝手に自分の都合で自分のブログを整理とかね・・・先方さまのご都合を考える、ということ自体、ネットっぽくない。

わがままなのかな・・・好きにさせてくれよ・・・というのは。

それがイヤならほかのサーバをレンタルすればいいんですよね。でも、また最初からになるのもかったるい。

で、よく考えてみたら、ランキングって自分のブログに表示されなければ、ほかの来訪者にはまるで無関係な代物なんですよね。わたしもいくつかランキングに登録しているけど、眺めに行くのは人気blogランキングだけで、ほかは登録はしたもののまるで活用していないから自分のブログがどういうランキングになっているのかも知らない。

管理人ですら興味がなかったら、来訪者はもっと興味がないような気がします。

ところがアメブロ・・・ 勝手にお知らせ機能が働いて、自分のブログを開いたとたんに点滅するランキング。

要らん、っちゅーの!!


■アメブロへの要望フォーム
http://ameblo.jp/help/form_input.php

■メールの場合
info@ameblo.jp


「ランキングの表示/非表示を選択性にしてください。」

って書いて送信してみようかな・・・

ダメって言われたらどうしよう・・・

まあいいか。

投稿者 Blue Wind : 02:08 AM | コメント (0) | トラックバック

March 03, 2005

お題リストの感想

『題詠マラソン2005』が始まったのですが、昨日はお題リストを眺めるだけで終わってしまいました。

昨年は、初めての参加ということで、何が何だかわからないうちに終わってしまいました。最初の頃は少しずつ詠んでいたのですが、結局、夏休みを迎え、すっかり忘れてしまい、秋の締め切りの頃、まとめて詠んだ記憶が・・・

もともとがCGI歌人なので、そのまま題詠マラソンの会場に投稿してしまったものもあります。それではまずいかなと反省し、その後はパスワード付BBSにお題をコピペし、順番に詠んだところまで出詠し、出詠の終わったところからお題を消去して行くという方法でした。その後、出詠歌をブログ記事としてアップ。

どうしても詠みやすいお題と詠みにくいお題があって、躓いたところでその日の出詠は終了。

そこまではいいんですけど、一番悩んだのが、単行本に載せてくださるということで、選歌しなければならず、100首から30首を自選するという作業。

沿道を眺めたのは出詠が終わってからで、選歌の参考にさせていただきました。正直、出詠よりも選歌のほうがすごいと思った。完走者から5首ずつ選歌している人もいれば、お題ごとに選歌している人もいるし、量が半端じゃないですからね。余裕があれば今年はチャレンジしてみたいんですけど、今年は無理かなぁ・・・わたくしでは。

でも、ぐいぐい自分の好みで選歌しているのを感じると、やってみたいという誘惑が・・・
ついでに、勝手にご返歌したりして・・・

楽しまないと、ね。

それでは景気付け?にお題を並べますか・・・

*************

◎ 題詠マラソン2005・お題リスト

001:声
002:色
003:つぼみ
004:淡
005:サラダ
006:時
007:発見
008:鞄
009:眠
010:線路
011:都
012:メガホン
013:焦
014:主義
015:友
016:たそがれ
017:陸
018:教室
019:アラビア
020:楽
021:うたた寝
022:弓
023:うさぎ
024:チョコレート
025:泳
026:蜘蛛
027:液体
028:母
029:ならずもの
030:橋
031:盗
032:乾電池
033:魚
034:背中
035:禁
036:探偵
037:汗
038:横浜
039:紫
040:おとうと
041:迷
042:官僚
043:馬
044:香
045:パズル
046:泥
047:大和
048:袖
049:ワイン
050:変
051:泣きぼくろ
052:螺旋
053:髪
054:靴下
055:ラーメン
056:松
057:制服
058:剣
059:十字
060:影
061:じゃがいも
062:風邪
063:鬼
064:科学
065:城
066:消
067:スーツ
068:四
069:花束
070:曲
071:次元
072:インク
073:額
074:麻酔
075:続
076:リズム
077:櫛
078:携帯
079:ぬいぐるみ
080:書
081:洗濯
082:罠
083:キャベツ
084:林
085:胸騒ぎ
086:占
087:計画
088:食
089:巻
090:薔薇
091:暖
092:届
093:ナイフ
094:進
095:翼
096:留守
097:静
098:未来
099:動
100:マラソン

***********

正直、今年のほうがクセがなくて詠みやすいかもしれないです。

でも・・・
「051:泣きぼくろ」ってなんかつらい。
「012:メガホン」、「029:ならずもの」、「042:官僚」、「047:大和」、「038:横浜」もきつい。
「065:城」や「095:翼」というとドラクエを連想してしまう・・・やばい。

え・・・・もう完走者がいるって?
昨年もいたよ、一日くらいで出詠が終わった人たち。
そういうものらしい・・・

それでいて、駆け込みセーフ組も多い。

投稿者 Blue Wind : 11:43 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 春鬱に沈みゆくより地球には裏の季節のめぐりゆく円

雛祭りお雛様など探してはオトの粗相をいかにせんかと
春時間はらりはらりと春の音まぶしき時間ボッサは流れ
春時間クララ・モレーノいつもよりアップテンポで刻みし陽射し
春鬱に沈みゆくより地球には裏の季節のめぐりゆく円
春時間もどりゆく夏待ちたれば夏が恋しき百合の葉茂る
夏草のしおれた時間太陽は北半球の真上にありき
春時間アップテンポで早送りうららうららとうつらまどろむ
庭先でキメラの翼飛ばしたいボッサ聴く春雛祭りにて
お雛さまミステリアスに微笑めばキメラの翼よく似合ふ空
太陽よわがまますぎるわたしには少し離れて凍える泪


そろそろ春時間ですね・・・

投稿者 Blue Wind : 11:41 AM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 「サーファー」

麗。さんへのトラバ。

お題は、「サーファー」なのかな・・・でも、麗さんの歌が面白かった。
わっかるなーというか(笑)。


◇ご返歌

海おとこ海の魔人で歩き出せ熱き砂浜 射す陽悲しき
波のうへ融けて揺られてボードには魔法の光ちりばめられて

とけるなら海の魔法のてらてらと夕闇の浜歩き出すまで
ギラギラと太陽は燃ゆ海のうえほんとは怖い荒波の渦
てらてらと時間よ止まれ戯れの波くりかえす砂冷えるまで


たしかにずっと海の中にいてほしい・・・

投稿者 Blue Wind : 12:48 AM | コメント (0) | トラックバック

March 02, 2005

Black & White

ホリエモン、無茶だよなぁ・・・などと思いながら、つい癒しを感じてしまう。形骸化した人生よりもやりたいようにやってくれ・・・みたいな。それでいて、フジテレビがいつのまにか保守なのか・・・などと複雑な気分。国営か民放か、なんてね・・・そういう議論も吹っ飛ぶほどネットにはパワーがある。

パワーはあるんだけど、実際、ネットを少しでもやったことのある人ならわかるかもしれないけど、ネットは奔放だもの。フジテレビのほうがまだまともさが存在しているのを感じる。かといって、今さらフジテレビに何か言われたくないよね。報道の責任がどうたらこうたらなんて。

ライブドアとフジテレビなら同じ穴のムジナのような・・・

それでいて、テレビなら受信するだけだけど、ネットだと発信する側でもあり、管理する側でもあり、とうとうNatさんのブログもスパムに襲撃されているらしい。1日4000個のスパムTB?

わたしは素人なので、1日2000くらいのスパムコメントは、せっせと一つずつ削除したり、せいぜい諦めてサーバごとアクセス制限してしまいましたが、NatさんはBlackListを導入したそう。しかも、うまく作動しない?
Natさんでもこれですから、わたしだったらしっちゃかめちゃかになります。とりあえず、どなたかがやった後に、やり方を教えていただきながらマニュアル通りにやるしかない。

で、今度は、WhiteListの導入?
もーダメ、もーダメ。

その点、インスタントブログなら運営局があるから、そちらが何とかしてくださるのでしょう、何かあれば。

というわけで、ややこしいことは誰かに任せ、単なる鬱捨て場だったブログも、そろそろ題詠マラソンが始まったらしく、少しは短歌のブログらしくしないと。少しショックだったのは、『アンズとモモ』がジャンル変更したことかな。『女子大生のxxx』系ブログには負けてほしくないけど、かといって、詩のブログというのもそれなりに窮屈だったのかもしれないですね。

***********

え・・・・Natさんへのコメント?
「今、考えていること」は明日には変わる可能性が。
それよりもスパムを撲滅してほしい・・・

投稿者 Blue Wind : 11:16 PM | コメント (0) | トラックバック

ランキング気にしないバナー

トラックバック記事をサーフィンしているうちに、こんなバナーを発見してしまいました。

  ■ 配布元: 『主夫の馬鹿話』

直リン禁止ですよ〜♪

ギャンブルと一緒で1人で熱くなる分にはどうでもいいような気がするんですけど、アメブロの場合、今までトラックバックやらコメントやら読者登録やらややこしくて、何となくお返ししないといけないような気分がしてしまうし、逆にトラバろうと思ってもスパムと言われたら嫌だな・・・と思ってしまうし、案外、神経を使うんですよね、使っていないようでいて・・・

この際だから、自分を救うためにしっかり貼ります。

ネットでまで気を使いたくない・・・

え・・・今度、アクセス数?
もういいや・・・

投稿者 Blue Wind : 10:28 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 通り雨ゆきすぎてゆく人の渦雨垂れ落ちるページをめくる

ホリエモンどこまでつづく君のみち波乱万丈サイバーの渦
のらくらとブログつくって遊んでは月またぎする雨風呂の朝
ランキング蓋を開ければネットにはネットの月がぽっかり浮ぶ
アクセス数並んでみれば老舗にぞ負けてしまうか検索の数
キーワード打ち込んでみてネットには通りやすけき言の葉のあり
通り雨ゆきすぎてゆく人の渦雨垂れ落ちるページをめくる


アメブロで月変わりを迎えるのは、1月が故障中だったのでこれが2回目。
今月からアクセス数だけでランキングを決めると発表。

気楽になった反面、ある程度、ネットのクセを理解していないと、今度は上位はアダルトやバラエティが並ぶだけになりそう。

ネットって良くも悪くもそんな感じ・・・

投稿者 Blue Wind : 09:04 AM | コメント (0) | トラックバック

March 01, 2005

「今の若い連中」

わたしも40歳を越えて、そろそろ使ってもいいと思うのよね・・・「今の若い連中は」という言葉。今まではどちらかと言えば自分が言われる側だったけど、一度使ってみたかった。

「今の若い連中」というのは、どちらかと言えば他人さまのお子さまたちのことだから、子育て中の身分につき、実はあまり使いたくない言葉。自分が言われるのは平気だけど、自分の子が言われると親の責任のような気持ちになってしまう。

それと、歌壇なんていうのは80歳を過ぎてもまだ現役の世界だし、20代や30代なんてほんのひよこ。わたしは30代で作歌を始めたから、まだまだ若手の部類に入るらしい。それでも大学時代から作歌をしている人たちなら、そろそろ作歌歴20年になるわけで、決して若いとは思えない。

それでもいきなり、「中条ふみ子は・・・」などと言われてしまうと、ちょっと怖い。40歳を過ぎて彗星のように歌壇に現れた有名な歌人。中条ふみ子賞というのもあるらしく、この世界においては、まだまだわたしは「今の若い連中」と呼ばれる側かもしれない。

が、しかし・・・

あちこちで、日本の学生の学力の低下ややる気のなさ、就職難などがささやかれると、「今の若い連中」に無関心でいられないのも子育て中の身分だから仕方がない。

親としては、ありがたいよ。少子化の影響で受験は楽になっているし、学校を卒業したら勝手に生きていってくれると思っているから。結婚が早かった人たちは(ってそれが普通なのかもしれないけど・・)、クラス会へ行っても、大抵、最初の子どもはすでに中学生、高校生になっており、短大を出てすぐに結婚した人の場合、大学生とかね・・・

一方で、いまだに独身とか子どもがいない友達も多い。

ママ友というのは子どもの年齢で偏りやすいから、子どもの年齢が一緒でも年下もいれば年上もいる。格付けも子どもの学年に比例するような気がする。わたしより年下でもすでに子どもの年齢が遥かに上で、何人も育てていたりすると敬語を使う。実際、ソンケーするでしょう。大変だもの。

それでいて・・・

裏の奥さん、50歳くらいで亡くなって、わたしより10歳くらい年上だったからパワーが違う。わたしより上の世代は女の子で早稲田に進学したりするとそれだけで就職や結婚が難しいと言われて育ったと思う。仕事をしたいのなら一生独身でもかまわないとか、そういう世代だった。

わたしは、母がずっと仕事をしてきたせいか、逆にそういう意味での制圧はなかった。同世代のサラリーマンの何倍もの年収を稼いできた人だから、それなりに豪快だった。彼女にダンナがいて子どもがいるというと、大抵の人たちは驚いたそうだから、保護者会に彼女が現れるのがわたしは嫌だった。母と比較されるのはもっと嫌だった。わたしまで色眼鏡で見られてしまう。

それでもなんと言うか・・・わたしにはわたしなりのこだわりというものがありまして、心理学科・・・それなりに当時はめずらしかった。だから、単なる大学入試でも倍率20倍とか酷いと40倍とかね・・・そんな感じ。臨床心理士という資格が出来たのもわたしが院に入ってからで、少しだけほかの人たちとは違ったことをしていたはず。

なおかつ遠慮がちに言えば、わたしの代ではまだ短大のほうが人気があり、4年制はあまり人気がなかった。なおかつ大学院へ進学するというと、当時は全国で女性の院生が1万人しかいない時代。

というわけで、ささやかながら、わたしは新し物好きだったかもしれません。

---- で、「今の若い連中」に何が言いたいの?

はあ・・・遠慮がちに申し上げれば、あなたたちすでにジジ臭くババ臭いです。

投稿者 Blue Wind : 11:13 PM | コメント (0) | トラックバック

3つの落陽

nattoさんのところで、「今までで感動した景色ベスト3を教えてください!」という質問。

美しい風景や壮大な景色はたくさんあるけど、感動というと落陽の瞬間でしょうか・・・

思いつく順に3つ。

◎バリ島ジンバランビーチの大きくて真っ赤な夕陽、黄金の波。

◎島根県宍道湖のほとり、三保神社から眺めた幻想的な落陽。
霧の中のような不思議な風景だった。

このどちらも黄金の水面に青やピンクが漂っているという・・・不思議な色の世界。

◎アシジの”シスター・ムーン、ブラザー・サン”。
落陽の時間、空は昼と夜とにわかれ、左に満月、右に落陽。

アシジの丘では、音のない落雷にも驚いた。
何気ない低い山脈が続くだけの景色なんだけど、実はどこまで広いのかわからない。

短歌?

もう何首も詠んでいるにもかかわらず、どうやっても表現できない。
死ぬまでに、これ!という歌が詠めたらハッピー☆

投稿者 Blue Wind : 04:53 PM | コメント (0) | トラックバック

老化現象?

完璧ボケてる。
もともと固有名詞が弱い上に、ますますボケてる。
やばいなぁ・・・
まあいいや。

世代交代か?

ということで、ボサノバと言えば、わたしにとってはいつまでもジョアン・ジルベルト、ナラ・レオン、スタン・ゲッツ&ジョアン・ジルベルトあたりがボサノバで、その他諸々同じラテンでもサンバ系は好きではないし、このほかにはラモン・レアルの『二人と海』が定番。

ジョアン・ジルベルトの娘Bebelがベベルなのかべべールなのか、はたまたベベウかジジウでも関係ないことが判明してしまった。

ぐたさん、ごめんよ〜(泣)。

罪滅ぼしに、『Bossa Nova 海を見て』(手元のCDは『海を見ていた午後』)を見つけて借りてきたのはいいけど、これならユーミンのほうが・・・

ちなみに、短歌もボサノバも21世紀になってからなのよね・・・わたしの場合・・・急にノスタルジーに目覚めてしまったということは、これも一つの老化現象なのでせうか・・・

以下、わたくしが日々親しんでいるCDをご紹介。
これからボサノバを聴こうと思っている人に是非聴いてほしいのは、『ゲッツ=ジルベルト』、ナラ・レオンの『美しきボサノバのミューズ』。

これを聴かないで人生を終えるなんて寂しい。




アーティスト: スタン・ゲッツ&ジョアン・ジルベルト, アストラッド・ジルベルト, アントニオ・カルロス・ジョビン, トミー・ウィリアムス, ミルトン・バナナ
タイトル: ゲッツ=ジルベルト



アーティスト: ジョアン・ジルベルト
タイトル: 三月の水



アーティスト: ジョアン・ジルベルト
タイトル: ジョアン 声とギター



アーティスト: オムニバス, エリス・レジーナ, アントニオ・カルロス・ジョビン, ナラ・レオン, ロニー・リストン・スミス, シド・ラミン, ミッシェル・ルグラン
タイトル: カフェ・アプレミディ〜クレモンティーヌが選ぶボサノヴァ



アーティスト: ナラ・レオン
タイトル: 美しきボサノヴァのミューズ <完全盤>



アーティスト: ラモン・レアル, ベアトリス・ビノッティ, アナ・ラーン
タイトル: Clube da Chave

投稿者 Blue Wind : 01:37 AM | コメント (0) | トラックバック