March 23, 2005

古典を愛する人たち

久しぶりに短歌系のトラックバックをいただき、われに返る。「あ、いけない、風マニアは短歌のブログだったわ〜♪」←反省しろ、反省!

とは言うものの、自分の目から見た社会というか、それがささやかなローカルな社会であったとしても今の時代の影響は避けられず、学校というのは子どもたちにとってはそれなりに大切な人格形成の場でもあるので、決して軽んじるわけにはいかないと思うのです。

でも、正直な感想として、先生は年中研修で留守だし、文部科学省の指導方針というものを理解するために先生はもちろん親も昔とは大幅に変化してきている何かを察知するために必死なのは事実です。

細かいことなんだよなぁ・・・例えば、「先生の話をよく聞くようにするためにはどうしたらよいか?」とか。すると、テキストの文字数が減り、先生の話を聞かないとわからないシステムに改造され、指導方針としてそれが取り込まれる。このほかには、ゆとりや余暇という点で週休二日制、連休の増加、カリキュラムの減少。もっと言えば、子ども同士で呼び捨てにさせないとかね・・・じゃれあいから来る喧嘩や虐めを防止するためらしい。

反面、習熟度別(能力別だろう・・正確には)学習とか、英語や体育の専門教師の導入とか、落ちこぼれを無くすという大義名分のもとに、次から次へとニーズに応えてくださるのはよいのだけれど、実際にはきちんと道徳教育のできる先生はいないし、足りない分はスクールカウンセラーの導入とかね・・・わたしから眺めた学校というのは、理屈や理論ばかりが先行するばかりで、ハートのある先生が少なくなったような気がする。

いや・・・先生の質が変化したというのではなく、指導方針というものがあれば、それに対して忠実であることも一つ良い教師としての評価なのかもしれないし、分かっちゃいるがわたしはすでに先生とお話するのがいやだ。親同士の話もどこか欺瞞に満ちあふれている。

昨日お絵かき教室の先生と話したら、今度は絵を通して道徳教育まで含めた人格形成をする場を育成したいのだそうです。かなり具体的で、NPOとしての活動を始めるらしい。つまり、そういうことを誰もやらない、やれない時代だから、誰かがやらなければならないから、やろうと思ったらしい。子どもが好きってすごい。愛がある。

わたしは一人の母親ですからね・・・

ややこしいことはアタマの片隅に置いておき、自分のことをやるしかないなーと、正直、わが子のことだけでも精一杯かもしれない。特に誰が決めたというわけでもなく、赤ちゃんの頃からお絵かきしているような子で、小学校へ行くくらいからすでに本人がお絵かきさんになりたいという希望を持つ子で、それでいてどこか引っ込み思案で、親や周囲に迷惑をかける子ではないけれども、正直、今の学校教育の中でどうやって娘の感性を保護しようかとアタマを抱えています。

そういうときの相談相手がお絵かき教室の先生だったり、アート関係の友達だったり、この前も誘われて芸術文化振興基本法だっけ?の公聴会へ行ってきたけど、都市景観とか、街づくりとか、どちらかというとそういう方向なのね・・・

まあ、いいや。そういう公の問題と個人の問題と、その他諸々とは別問題なのかもしれないし、わたしには詳しいことは分からないです。

話を短歌の話題に戻すと、Kamomeさんの質問、「旧仮名使いや古文的文体で短歌を書く意味」について知りたいという問いに正確に答えられるのは、ぐたさんではないかと、近頃ぼーっと感じている。古典を愛する人たちというのは歌人であるか否かは別として、そういうものなのではないかというか・・・

わたしは最初の頃はまるきり口語オンリーだったけれども、近頃は旧仮名やうたことばを使うことが以前よりも増えた。その理由は、水原紫苑さんなどの影響なのかもしれないし、旧くは斉藤茂吉の歌論でうたの格調という話に触れたからでもあるし、一番の理由は、「なんか、そのほうがおしゃれなのよね」としか語れない。

現代人だから現代語を使うなんて理由はどこにもないし、死に絶えゆくものに息吹を与えるがごとく、とにかく次から次へと『源氏物語』のこととなるとどうしてこうも多くの作家が口語訳なるものにチャレンジしたくなるのかと思うくらい不思議でもある。そしてそれにどうしてこうも多くの読者が魅了されるのかはもっと不思議。

古典とか、和歌というものに対する自家撞着は誰にでもあると思う。新しきものに向かいたいけれども、どこかレトロなものに惹かれてしまうというのもあながちめずらしい現象でもないし、古今東西人間なんていつの時代も変わらないとまでわたくしなどは常日頃感じることが多いせいか、いくらわたしが現代語で詠もうとも旧仮名を入れようとも、本質的なことは何も変化しているとは思えず、それでいて完璧な古語では詠めない。

もっとあっさり語ると、口語で詠んでも分かりにくいうたはいくらでもあるわけで、近頃そういう風に達観してしまうと、古文調だからとか口語調だから、というのは何の理屈にもなっていないとまで感じるようになってしまった。となると、どうせ理解されにくいのなら、分かる人だけが分かってくれたらいいな、という水原紫苑的無感情さにも魅力を感じてしまうのです。

好みなんだろうな・・・自分のうたをすっきりくっきりバチッと分かってもらいたいか、曖昧に濁そうと思うかは・・・自分的には近頃曖昧派。もともとそうなんだけど。メタファーをちりばめて、どこか二重構造的な世界を構築できると、そのうたは案外自分のお気に入りとなる。

わたしだけがそうなのかと思っていたら、案外、選歌していただくとそういう曖昧派のうたのほうがピックアップされるので、それならばさらにそういう世界を構築していこうという気になってしまう。

まあ、娘の小学校のややこしい問題をアタマの片隅に置いて自分のことをやる、みたいな姿勢は作歌にも通じるような気がするし、いずれにせよ、今の時代はマイペースを維持するのが非常に困難で、それも一つの風なのかも・・・

投稿者 Blue Wind : March 23, 2005 10:51 AM | トラックバック
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