March 11, 2005

ティー・スプーン一杯のメディア

よく言った、ぐたさん?
「ダジャレを言う人=ダジャリスト」と、勝手にぐたさんをダジャリストに任命したところ、ダジャリストはジャリタレ?
その読み間違いを眺めるだけで、ダジャレ川柳にはまっているのが何となくわかります。脳内がぐるんぐるんにダジャレが徘徊しているのかも。

それにしても、今時、「ジャリタレ」なんていう言葉使うのだろうか?

わたしね・・・・そもそも昔からなんでしょうけど、タレントの顔と名前を覚えられない。それどころか、たまにCMを見ても顔の区別がつかない。みんな同じ人がやっているように見えてしまう。

それはどこかディズニーランドへ行って、歩く人たちの顔の違いの区別がつかないことにも似ているし、母のいる病院へ行き、食堂に座っている慢性病床の患者さんたちの顔が覚えられないことにも似ている。

知っている人なら何となく遠くからでもすぐにわかるのに、知らない人となるとその違いがわからないほど、みんな同じに見えてしまう。加齢するに従って、その傾向が強くなっているのを感じる。

人間というのも眺めてしまえば街の飾りであり、風景であり、気がつけば流行というものがあり、一様に同じような人たちが歩いている。そういうことに慣れてしまうから、隣に誰が住んでいるのかわからないとか、一駅隣に引っ越せばまるで見知らぬ街とか、同じ店で毎日のように顔を合わせていても誰がいるのかも気がつかないということになってしまう。

大昔、弟が同じ車両に乗っていたのにドアが隣だったのでまるで気がつかなかった。電車を降りて、後ろから声を掛けられて初めてその事実を知った。彼はわたしに気がついていたというので、幾分彼のほうがマシだ。

こういう傾向はどこか鬱っぽくて、自分でも警戒しなければならないところなんだけど、その昔、わたしのいた世界ではそれが当たり前だったから、実は大して気にしたこともない。他人に関心を持たない、ということをごく自然に学んだ。

他人に関心を持たない、ということは、他人からも自分は物質である、という意味であり、あらゆることが単なる事象として存在しているに過ぎなくなる。逆に語れば、見知らぬ人のちょっとしたことが不意に目に飛び込んできたり、あらゆる些細な事象がとても魅力的に感じられたりする。

そういう感性をどこで学んだのか、記憶にはない。だけど、後日わたしが歌を詠むようになり、フィーリングという点で、非常に役立っているのを感じる。

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話変わって、そろそろ発作でアメブロにブログをつくって3ヶ月になる。この3ヶ月の間に10万人の新規アメブログが出来た計算。スパム登録も多いから、今でも実質的にブログを更新しているのは1割強ではないかと疑っている。

昨日、nattoさんのブログでカリスマ枡野の話題を発見。そういえば、近頃、彗星集がどうなっているのかもまるで知らない。わたしの頭の中では、そういう結社の活動とネットとが切り離されて存在しているために、アメブロにブログをつくったばかりの頃、初めて枡野ブログに投稿し、いきなり「ある人から投稿があり、その人はこの歌を知らない」とばかりに、加藤治郎さんの短歌をアップしてあるのを見て、ギクッた。それでね・・・ほかの彗星集の歌人の投歌を解説してる。しかも、わたしが歌集を読まないってか?

その後、馬場あき子さんの短歌をトラバったら枡野さんからコメントが入った。そこが歌壇っぽい。

加藤さんのたまわく、歌壇の毒なんだって。マスコミ系のノリ自体がどこか歌壇の毒らしい。それでいて、大真面目。短歌人や未来等々その他諸々所属結社は違っても、みなどこかでつながりがある。

それで、次なる仕掛けが「真鍋かをり」さん?

わたし、ずっと枡野さんのブログには行っていないので知らないけど、トラバっているブログでお題を観察し、その時に検索した。それとスパム騒動の時にプロ野球の古田さんのブログと真鍋かをりさんのブログを話題にしている記事を読み、それで何となくお題を理解した。

ある一面、ファン心理というものがあれば、今まで短歌に興味がなかった人でも、真鍋さんが選歌してくれるならとばかりに枡野ブログに投稿が増える可能性もある。歌人人口を増やすにはなるほどカリスマらしいやり方であると感心すると同時に、相変わらず、「真鍋かをりって歌人?」って思っている人たちも多い。

受け皿というものがあって、そこはどこかアクセプタブルな世界なんだけど、一歩ディープに入り込めば外見の華やかさとは裏腹にとても厳しい。

そういう中で、わたしはノラクラとブロガーをやっている。題詠マラソンもどうなんだろう・・・今年はネットのことは話題にもならないような気配。若手の俳人が結構タレント俳人には文句タラタラ書いているのを見たことあるし、マスコミって無責任だからね・・・正直。

でも、どうなんだろう・・・積極的にマスコミを利用していくホリエモンのやり方を眺めていると、世論操作という点で、「大勝負」と語る意味が何となく理解できる。結局、枡野さんが一番声を大にして語りたいのも、今まで「枡野」というだけで差別偏見に満ち溢れていたということかもしれないし、そういう意味では、わたしも同じ。ネット歌人というだけでバカにされる。キャリアが違うから一緒に考えては申し訳ないのですが、立場的に一緒にされやすいから。

でも、少しずつ時代が変化しているのも近頃特に感じるし、それでいてわたしはお題「真鍋かをり」には投稿しない。ミーハー的に流れないことで、ネットを見直してくれる風潮があることも事実だから。

こういうことで自分が損をしているのか得をしているのか、今のところまるでわからない。でも、わたしは歌人をやめてもブログは書ける気がする。当たり前のことのようでいて、実は当たり前でもなく、だから逆にたまに短歌についてのコメントが入るとドキッとする。

ネットが好きなのよ・・・ティー・スプーン一杯のメディアという雰囲気が。

投稿者 Blue Wind : March 11, 2005 10:59 AM | トラックバック
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