February 28, 2005

思考パターンと熟慮への遠慮

昨年末から更新が止まっていたため、もうブログはお止めになるのかもしれないと勝手に思って読者登録を辞めた片岡義男さんのブログが『今日という昔』に改名しているのを見つけた。今度は詩だけではなく、作品紹介みたいな形式になっている。

どうして片岡氏がブログを止めるかと思ったかというと、すごく実際的な理由。一つにはパソコンの扱いに慣れていないと、単に入力するという作業だけでもめんどっちー。しかも好きな人なら別かもしれないけど、ブログを管理するというのも案外めんどーかもしれない。長年、原稿用紙に向かってきた人が、そんなに簡単に習慣を変えられるとは思っていない、などなど。

わたしは自分が気まぐれでネットを始めるまで、ネットが嫌いだった。その昔、ニフのフォーラムやら翻訳ソフトやら、セッティングやら機械の扱いやら、言語やらプログラムやら、ネットを始めるための金と時間の浪費を考えると、次々と必要なものを買い足しながら、しかも買ったとたんに旧い機種になってしまうという世の中でこんなに不経済な代物を道具として使わなければならないという不便さを考えると、とてもじゃないけどやる気にはなれなくて当然のような気がする。

で、どうして再び『今日という昔』に読者登録しようかと思ったかというと、原稿用紙に向かう人がブログ入力を他人に頼んだ場合、どういうブログになるのかという興味が湧いてきたのと、細切れになった小説系のブログがどういう形で編集されるのか見てみたいと思ったから。

たまに思うんだけど、あっさり語れば、わたしのブログは妄想系のブログではなく、写実系のブログでありまして、たまにタイムスリップしすぎかもしれないと反省はするものの、わたしの人生・生活臭などがちりばめられております。それは、一つには短歌が”わたしの世界”であるということと、”生活臭が求められる世界”だと認識しているからです。

そこで、作家のブログらしく、「今度の小説の主人公は・・」などと書かれていると、もはやそこで思考回路の違いを学ぶことになる。主人公がいて、プロットが作成され、それが一つの作品になるまでの過程を作家自ら語るというのは面白い。

わたしの年になると、すでに知識を吸収するより、他人の思考回路そのものが面白い。生きてきた文脈がそのまま思考回路となり、その人の行動パターンを決定してしまう。世の中に”作家脳”というものが存在するかどうかはわからないけれども、ある種の特殊なバイアスが存在している可能性も高い。もしかすると期待はずれかもしれない。それでいて、どこか普通っぽさが共通項として求められる時代に生きていると、逆に特殊な偏りというかバイアスに斬新さと頑固さと昔かたぎというものを感じてしまう。

それのどこが面白いかと訊かれると、脳の可塑性・・・

わたしにはわたしの生きてきたバイアスがあり、わたしにはわたしの思考回路があり、なおかつそれにまだ違う自分を足して行こうとしている。あっさり語ると、わたしはまだ作歌歴4年そこそこの歌人。自分で自分が歌人だと思えるほどわたしの脳は”歌人脳”ではないらしい。

物理的にはすでに8千首以上の短歌を詠んでいるというのに、わたしの脳はまだ未熟であり、詠むだけなら何も困らないにもかかわらず、脳が自分が歌人であることを拒否してしまっているのをたまに感じる。

その理由の一つが、ゲーテの『自然科学論』の引用をこっぴどく否定されたこととも関連しているような気がしている。実験をするということは、バカ正直にならなければならない。つまり、客観的に淡々と私情を捨てて向かい合わなければならない。プラセボというわけではないけれども、僅かなプラセボ効果すら与えてはいけないほどに心理学の実験となると自分が単に機械や実験助手として黒子のように存在していなければならない。そうやって客観的に得たデータだけが必要とされる。

短歌は写実だからいいんだけどね・・・

でも、それが文学と言うのなら、わたしは実は文学というものを理解してはいないような気がする。例えば、ランボーや中原中也を解説するのに、どうして生い立ちから家族からその他諸々住んでいた場所や環境やらが必要になるのか、はたまた読者の勝手な分析を許してよいものかどうか、ほかの作家や作品や思想と関連付けられる必要性があるのか、実は何もわかっていない。

そういう中で、作家自ら作品を解説するという試みは面白いような気がするのだけれど、どうなんでしょう。いかにも文学系の人たちの分析書評というのも興味深い。それでいてそれに対立するものとして、そういうものが存在していてもよいのではないかというか・・・自分の作品を客観視するというのも面白い。

自分自身を語るか、作品を語るか・・・

何となく、何かがひらめき、それが何なのか語れない。考えよう。

思考回路そのものが違うんだよなぁ・・・考えよう。熟慮を要す。

投稿者 Blue Wind : 01:55 PM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 似顔絵

アバウトな似顔絵つくる夜更けにはPhotoの反射の逃げ出す夜道
遠い灯の記憶のなかのわたしよりはろばろ描く薄き淡き身
分身は彼方の記憶万華鏡覗いてみれば重なりの粉
散りゆかば花の匂ひの空高く風に吹かれて舞ふくれなゐに

煌々と朝陽に向かい満月は青空のなか浮んでおりし
昇りゆく朝陽まぶしきひがし空淡々と魅しにしの満月
夕暮れはアシジの丘の月と陽のみつむるように浮んでおりし
日の出にはつくばの森の澪つくし朝日と月の向かひ逢ふ空

朝の星輝いている冬の空ひときわ空気つっぱって青


早起きもたまにはよいものかも。
朝6時前に玄関を出ると、西の空にはまんまるい月。
月と一緒に日の出を待つ、なんてね。

*********

さきほど、ゴマさんのところで見つけてさっそく似顔絵アイコンをつくってしまいました。日頃あまりサーフィンしないから、どこでアバターなどを皆がつくっていらっしゃるのか知らない。プロフ欄にアップした画像は、Abi-Station製。

似てる?(笑)
後になって気が付いたんだけど、どうもみほこたさんの似顔絵に似ているような・・・

で、Kamomeさんのところのトラバ短歌のお題が「Photo」。

・・・・・冬はささやかな楽しみの上に立脚している。

投稿者 Blue Wind : 02:48 AM | コメント (0) | トラックバック

February 27, 2005

のんびり生きるのも大変なのかも・・・

疲れて帰って来て、何が一番イヤかと言えば、夕飯の支度かも・・・
昔はそんなこともなかったんだけどな。とぼとぼ歩いてスーパーへ行き、ついでにパズル雑誌などを買って来て、ポトフを煮込んでいる間にちょこちょこっと解いて遊ぶ。それも一つの気分転換。子どものいない時代は楽だった。

今は、夕飯の支度というのも仕事のうちであり、外食をゲットすると得をした気分になってしまう。たまにダンナがいない時など、「え、今日は夕飯要らないの〜、らっき〜♪」などとルンルンしてしまう。
学生街だからレストランはおっそろしいほどあるし、歩いて行ける距離なのに、重い荷物を買って歩くのがイヤだからわざわざクルマで行くという煩わしさからも解放されるし、ささやかなことでもサボるというのは楽しい。

ディズニーランド・・・
行きはともかく帰りのバスは少しでも寝ようという主婦根性がバスの中に充満する。わたしは爆睡してしまったようで・・・気が付けば窓の外は見慣れた景色。

「あ、家に電気が点いていない!(やられた!)」

という声が、隣の席から聞こえて目が覚めた。

「まったくあの人たちは頼りにならない!!」

高校生の息子と親父。
頼りになるかどうかは知らないけど、少なくても家に電気を点けて、ご飯の支度をしてお風呂を沸かし、「お帰り〜」とは言ってくれないということくらいはわたしにも理解できる。
近頃では、お母さんもお仕事しているし、だったら少しは家の中のこともしてくれたらいいのに・・という気持ちはわかるけど、無理かも。これが最初から共稼ぎの家庭だったら少しは違うような気がする。

わが家は、少しだけマシ?
帰ったら、とりあえず家に電気は点いていたし、ダンナはドラクエをやっていた。
学生結婚だったせいか、彼は今でもヒマなら食器洗いや洗濯はしてくれる。ただし、機械の中に放り込むだけだけど。
機械がない時代、コップ一つすすぐのに5分。つまり勝手にビーカー洗いをされて、あまりにも不経済に泣き、それを姑さんに言ったらホシザキの置き型の食器洗い機を買ってくれたのを思い出す。彼女の息子は(つまり、うちのダンナは)つまらないところが神経質で、それでいて、わたしはそこまでヒマではない。高温洗浄で哺乳瓶の煮沸もできるといううたい文句。食器洗浄器は値打ちがあった。
洗濯に関しては、どうやって言ったらいいのだろう・・・うちのダンナは洗濯が好きなのである、としか語れない。昔からだから理屈ではないのだろう。

確かに生活費を稼ぐのは大変かもしれないけど、赤ちゃんの世話はもっと大変。24時間体制。その上、どこへ行くにも一緒。勝手にハイハイする時期から3歳くらいの目を離せない時期にはトイレの中まで一緒だもの。そのストレス。オムツ替えの出来ないところには行けない。それでいて、買い物やら健診やら忙しい。

この時代の名残で、今でも買い物はクルマなのかもしれない。ベビーカーを積んで、買い物の荷物のほかに子どものためのグッズを運ばなければならない。一人が風邪を引くと、次々に風邪が移り、ダウン。

そういう時代を潜り、少しは楽になったかと思えば、次には受験。近頃、お仕事するお母さんが増え出した。なんだかんだ言っても、出てゆくものは出てゆくし・・・それでいて受験でなければ、バレエの発表会の準備とか? 
とにかく、仕事と子育ての両立は大変。パートで3時間くらいというのが限界のような気がするけど、いざとなるとそういうわけにも行かず、結局、「あの人たちは頼りにならない」ということになるらしい。

わたしなんて、ダンナがドラクエをしながら「おなかすいた」と言うのを3回聞いただけで寿司屋に電話。しかも、彼は中トロだけ。なぜかそうやって決まっている。確かに遊んで来たのはこちらなのですが、朝から5時起きで行って帰って来て、その後まで働きたくない。眠たかったし・・・出前が来ても気が付かないで爆睡していた。

こうなると、今さら仕事に追われ、夕飯の支度、子どもの送り迎え、母親の世話までなんてとてもやっていられない。ってなるよね・・・いや、世の中にはそうやって忙しい人たちはたくさんいる。だったらわたしも?

勘弁してくれよ〜〜〜!!

わたしは働くのが好きではない。それならウダウダ家でネットやったりドラクエしたり、そのうち歌集出して(っていつになるかわからないけど、ええねん、それで)、という具合にのんびりしていたい。夕飯をスーパーの天婦羅で文句言わない家族でないととてもお仕事なんて無理なような気がする。それでいて一人だったら揚げ物なんてやらないことも知っている。サプリも嫌いだし・・・

普通に生きて行こうとするのが難しい世の中なのね・・・たぶん。

投稿者 Blue Wind : 11:01 PM | コメント (0) | トラックバック

寒い日のディズニーランド

昨日は、子ども会の6年生を送る会。ディズニーランド。寒かった。

ジェットコースターって誰でも乗れるものじゃないんだなぁ・・と、そういうことを思う。6年生を送る会の企画は6年生が考える。うちの地区はディズニーランド。隣の地区はボウリング大会。うちの地区はやたらと受験生が多かったせいか、受験が終わったこの時期、がんがんにジェットコースターに乗りたいとばかりにディズニーランド。

そういう中に一人だけ、受験も途中でやめて、ジェットコースターにも乗れない子がいる。

低学年の頃から、娘より一つ上の学年で、傍から見ればずっとうちの娘にしがみついている。越境組。年寄りっ子。お父さんが駅長さんで厳しい。つくばよりもっと田舎から通学している。田舎のことを知っている人たちなら少しはわかるかもしれないけど、田舎で、「長」のつく役職は偉いのである。校長、郵便局長、駅長、市長、その他諸々。

だったら、伝統的に地元の小学校へ通えばいいのに、越境。お母さんとお姉さんが美容師をしていて、お店がうちの近所にある。

案の定というか、例の如く、ほかの6年生の子たちが子どもたちだけでアトラクションを回るというのに、ジェットコースターに乗れないその子は、はみご。それで、いつものように、「まほちゃん一緒に回ろう」と言われ、一緒に行動。今回はあちらのお母さんもわたしも一緒だから、最初にビッグサンダー・マウンテン。「3歳の子でも乗れるよ〜」っとそそのかして並んだのはいいけど、途中で泣き出してしまった。

何とかお母さんがなだめすかしながら、乗る間際まで行き、結局、彼女は乗らなかった。3人は乗ったんだけど。つまり、親2人とうちの娘は・・・

まるで幼児。こういう時、なんて親が甘いんだろうって思うのが世の常なんだけど、よく聞いてみると逆。お父さんがやたらと厳しい。その反動で、お母さんには甘えが出る。

正直、わたしは空腹と寝不足でジェットコースターに揺られると単なる乗り物酔いをしてしまいそうだったので、彼女に救われたと思ってライトで寒いディズニーランド。単なるハニーディップのポップコーンを買うために1時間を費やし、ベビーカーが並んだあたりをウロチョロ。罪滅ぼし的に、おちびに帽子とマフラーを買い、お揃いのトレーナーをゲット。

帰りのバスで、娘は言う、「もっとたくさん乗りたかった」って。だったらその場で言えばいいのに言わない。それでも楽しかったらしい。この辺が難しい。

とりあえず、この前、ダンナがダーツの景品でディズニーランドのペアチケットをゲットしてきたので、次にはお父さんと一緒にあれこれ乗るつもりらしい。そうなんだよね・・・つまりは、次があると思うから今が楽しい。次には別の友達を誘って、がんがんに乗ろうと内心思いながら、今日は適当にノラクラしていたのか?

厳しいお父さんと甘いお父さん。

父親が厳しいから外でわがまま、父親が甘いからのらくら。外でよい顔をしていられるのは父親が甘いからかも。この鬱憤を父さんにぶつければ、父さんなら何でもしてくれるからなぁ・・・

なんでもいいや。ドラクエの続きでもやろう。おちびを見ていると、子どもの頃の自分を思い出してしまうようでストレスが・・・なんででしょう。

投稿者 Blue Wind : 01:51 AM | コメント (0) | トラックバック

February 26, 2005

【トラバ短歌】 雪とドラクエ

雪ダルマ犬の耳つけ首輪して朝踏む雪に吾子とオトぴょん
満月の浮ぶ空には春の風つよく吹きぬけ雪を降らせり
ドラクエに苛々しつつドルマゲス倒してむなしまたドルマゲス
月明かりしんしんと降る雪の影やみのしのびぬドラクエの音

明日の朝ディズニーランド子ども会恋愛論も親バカに負け
花めぐる季節のゆくえ冬のみち子らを連れゆきまたすすむべし
ころころと雪をころがしオトダルマちょこんと座る芝雪の庭


雪のおかげで2時間遅れで登校。
その間に雪ダルマに耳と首輪としっぽをつけて雪犬の完成か?
ついでに、ディズニーランド行ってきます。
6年生を送る会らしい・・・^_^;

投稿者 Blue Wind : 01:11 AM | コメント (0) | トラックバック

恋なんてサルでも出来る代物

ヘンな言葉だと思ってしまう、「友達以上、恋人未満」なんて。きちんと分けないと。

こういうけじめをどこで覚えたかというと、ケンブリッジの夏。仲が良くても友達は友達だし、その代わり恋に落ちたらまるで隠さないヨーロピアンに囲まれているうちに、それが当たり前だと感じるようになった。

男女で一緒に旅行していて、同室になっても友達は友達。誰もそれを不思議に思わないところがすごい。きわめつけが、パリのディスコ。友達同士でパリへ行くことになり、ついでにパリを案内してもらう。

「ジャン・・・あなたって人は・・・連れがいるというのにナンパしてるの?」

日本人なら、グループで来ていてその中に女性がいるなら、その時くらいはナンパを控えると思うのに、パリジャンは違う。一緒に来ていたジャンの友達のパリジェンヌたちは素知らぬ顔。当たり前なのね・・・

逆に考えると、そういう all or nothing 的なところが快適になるから不思議。

それにしても話し方まで違うもの。表情も違う。
いつもの彼はいかにもクールで鼻持ちならないパリジャンという感じなのに、数分後には、わたしが彼女はてっきりジャンの彼女だと勘違いしてしまうくらい、いい雰囲気。紹介してもらおうと思って、ジャンに声をかけたら、あっさり彼女は去って行った・・・ごめんよ〜(泣)。

その後、日本に戻って来て、すべてがバカらしくなった。

恋というのはひと目で始まり、4年で飽きる。そして、いわば発情だと考えれば、その期間が終われば勝手に通り過ぎる。それを繋ぎ止めているのがつまらない駆け引きなのかもしれないし、不毛。

大抵は、性に目覚める年頃に恋を覚える。そうなると性的魅力がすべてだもの、迷っている余地はない。もし好きな人が出来たなら、互いに性的な魅力を高め合うように努力するべきである。失恋しても、どうせ恋ならどこにでも落ちているものだと思え。

問題は、その先でしょ?

恋は誰にでも出来るけど、建設的な関係は誰とでも、というわけには行かない。

だから、いつも「ノー」と言う姿勢と勇気が必要になる。恋なんてサルでも出来る代物。相手なんてどうでもいいのかもしれない。だから、本当に誰かを好きになりたかったら、この部分を冷静にクリアするべきなのかも。

大抵は、恋が始まると、自分のほうを向いていてほしいものだけれど、前を向かせよう。2人で睨み合っていたらどうせつまらないことで喧嘩になるだけ。そうなる前に、2人で同じ方向を見る勇気を持つ。

友達か恋人かなどとつまらないことを考えるのなら、あっさりそんな関係は終わらせたほうがマシ。どうやっても何かどこかが足りないから友達なんでしょうし、そういうのは惰性とか仮に肉体的つながりがあったとしても何か一つ足りない関係。要するに、本当に好きではないけど、仮好き状態?

TPOなのかもしれないな・・・性的魅力もないのに精神だけで恋をゲットするのは無理。それでいて、性的魅力だけでは退廃的怠惰な関係しか生まれない。恋=発情、単なる生理的現象、悲しいから泣くのではなく泣くから悲しくなるのと同じようなカラクリなのかもね。

そんなものだとさっぱり整理すると、ようやく恋愛にたどり着く。

それにしても、友達以上、恋人未満・・・
恋愛一つ満足に出来ない時代なんだろうか・・・あーやだやだ。


* トラステへのトラバです。

投稿者 Blue Wind : 12:26 AM | コメント (0) | トラックバック

February 24, 2005

【短歌】 はらはらと声なき雪の降る夜は覆へよ大地凍へよ家路

雪求め窓外見やりもう雪はわれを見捨てて天に戻りぬ
ひんやりと冷たき雨は大粒の闇の中にぞ音もなく消ゆ
闇路には消ゆる雨さえしんしんといつしか雪に黙礼がごと
払拭にいちめんの雪ふりたれば冬もどりみちうららかな春
はらはらと声なき雪の降る夜は覆へよ大地凍へよ家路
足下に小さな冬のはりついたサンダルの底はらふ土なく
コンクリはぬばたまの闇雨吸ひしはらはら天の雪さえふふむ

夜道は寒い。
ちょっと近所に食事に出ただけなんですけど、凍えた。
いつの間にか、雨は雪に。

投稿者 Blue Wind : 11:56 PM | コメント (0) | トラックバック

ゴリラ君・・・・

ゴリラ君、またこんなことをしている。
君のしていることは、立派なセクハラなんだけど、どうやったらそれを理解してもらえるのか・・・そのうちゴリラ財団がゴリラ撲滅財団になってしまったとしたら君のせいだということがまだわからない?
職員の女性に胸を見せろと迫った挙句、断るとぶんむくれて手が付けられなくなる?
それが原因で、職員のほうがクビになるなんて・・・
こんなことなら世の中からゴリラがいなくなったほうが平和。

シンガポール動物園のサルのほうがまだマシだろう。少なくても彼らはおとなしく檻の中に入っている。通りかかる女性に発情しても、誰も彼らの顔も隠せないし、パンツをはかせるわけでもない。それこそ職務怠慢で動物園を訴えようかと思ったけど、熱帯では何が起こるかわからない。

人間に恋をするなら、人間になれって思う。
ゴリラ君、あなたにはまだ愛や恋や人生の奥深さがわからない?

わたしがあなたに我慢しているのは、神さまに地球を愛せと言われるからにすぎない。本当だったら諸悪の根源を根こそぎ絶やしたい。ゴリラが絶滅するのはそのセクハラ根性にある。なのに、まだ保護しろと言う。

世の中から、ゴリラが消えたら少しはまともな世の中になるような気がする。

たまに思うんだけど、プラトニックラブというのは、ゴリラが人間に恋するようなものなのかもって。

少しは女性に対する配慮とかね・・・やさしさ、思いやり、愛、礼儀正しさ、その他諸々、少しは学んだらどお? 人間の女性に接するのならばそれなりの振る舞いが必要だということを保護されているうちに学んだらどお?

ゴリラが滅んだら、あんたのせいよ?
わかる?

わたしがこんなに口を酸っぱくして言っても無駄なのかも・・・
こうやってゴリラは滅んで行くんだわ・・・
そのうち人間が怒り出して、本当に絶滅してしまうかもしれない。それでも誰かまだわたしを保護してくれるだろうか・・・いや、保護されたとしても一人では子孫は残せない。

神よ・・・
どうしてわたしはゴリラに生まれてしまったのでしょう・・・

* 「うそ日記」へのトラバ。つまらないものを書いてしまった。

投稿者 Blue Wind : 09:41 PM | コメント (0) | トラックバック

『愛の解剖学』 カール・グラマー著



著者: カール グラマー, Karl Grammer, 今泉 みね子, 日高 敏隆
タイトル: 愛の解剖学

紹介文がすごいですね・・・そのまま引用。


『男と女が出会ったとき、なにがおこるのか。人はなぜ特定の異性に心ひかれるのか。異性のどこにひかれるのか。相手の関心度をどのようにはかるのか。人はなぜ浮気をするのか。なぜ焼きもちをやくのか。もてる男性、もてる女性とは? 美しさとは、魅力とは?
こうした男女の愛をめぐる謎を究明するために、ドイツの有名なマックス・ブランク人間行動学研究所が、大規模な調査とじっけんをのプロジェクトを組織した。そのチーフをつとめた著者が、日本での比較実験と米国での研究も参照しつつまとめた本である。
驚くべき事実の紹介とともに、男女の駆け引きの裏に秘められたメカニズムと生物学的な法則を明らかにする。
この本で私たちは自分の行動を理解し、また他人の行動を理解する手がかりを得られるであろう。これまでの「愛」への見方を根本からくつがえす話題の書である。』


興味深いテーマばかりではあるけれど、果たして、その結果が驚くに値するかどうかは、個人差が激しいところではないだろうか? それとグラマーはあくまでも生物学者であって、心理学者ではない。彼の定義する「愛」を考えることが一つの課題なのかもしれないけど、生物学的に考えた子孫を残すというスタンスから考えると、どこまでも人間は、あくまでも「ヒト」なのだということがわかる・・かも。
でも、性行動や求愛のメカニズムなどについては、やはりわかりやすくもあるし、相手に何を求めるか?という点においては、かなり説得力があるのかもしれない。時に、いろいろ考えながら、冷静に読める人だけにお勧めしたい1冊。
これによって、人生観が変わる?
そんなこともないのよね・・・
彼を槍玉に挙げる?
それが楽しい1冊なのかもしれない・・・

*************

今日はダルイので、サイトのほうから古い書評を引っ張ってきました。

投稿者 Blue Wind : 05:24 PM | コメント (0) | トラックバック

射手

小学生の頃、わたしはちょっとした占い師だった。星占い、手相、易、トランプ、タロット、姓名判断、その他諸々その手の類が大好き。

まだ幼児の頃、ほかの人たちにはとても愛想のよい可愛い子どもなのに、父の親友であるその人に対してだけは顔を見るだけで泣いてしまうというわけのわからなさ。もう名前も顔もわたしは覚えていない。後日、彼の詐欺的行為により、母が父の死後も苦しめられたことを考えると、子どもの直感というのは恐ろしいと母がよく言っていた。そんなもんさ。

ところが・・・・

さあ、いざ青春時代に突入し、自分の恋を占う。まるで当たらない。
大事な人生の岐路を迎えて、あれこれ悩む年頃。
そういう時に限って、何も当てにならない。

それでいて、直感ってあるんだよ。
インスピレーションというか・・・
最初にダンナに会った時、全然相手のことも知らないし、互いにほかに好きな人がいたし、第一、まったくわたしの好みではない。それでいて、何となくわたしはこの人と結婚するかもしれないと思った。

こういう軽いノリってうまく説明できない。

一方で、もっともらしく悩み続けている自分がいて、もう一方でぱっぱらぱっぱら何も考えない自分がいる。最後にはぱっぱらなわたしが勝つ。勝つとか負けるとか、そういう次元とも違うのかもしれないけど、わたしの場合、悩んだり苦しんだりしたことは全然うまく行かない。全然うまく行かないから苦しむのかもしれないけど、それにしても努力もむなしい。

そのくせ、直感がやってきた時には、逃げても逃げてもそこにはまる。

占いと言えば、星占いだと、わたしはいて座だけどアセンダントはおとめ座。このことにどういう意味があるのか、もはや何十年も昔の話なので忘れてしまった。だけど、一つ覚えているのは、外見はおとめ座で、性格がいて座という話。

それにしても酷い組み合わせのような気がしている。おとめ座のバリアの中から、矢を放つ。

投稿者 Blue Wind : 12:03 AM | コメント (0) | トラックバック

February 23, 2005

【短歌】 静寂に身を沈めゆく茜雲都会の森の青闇の底

今日、春一番だったみたいです。

まぶしき陽うつらうつらと風の声春一番のおとづるる野に
しなやかに枝削ぎすぎし隣家の樹剣士のように風に身構え
宮参りおとづれたのは原宿と母語りしも歩道橋思ふ


* とうとう、nattoさんのところでも詠んでしまっています。春一番と明治神宮の組み合わせかな。


風吹けば厳しき冬も忘らるる雛祭り待つ怠惰な季節
鳩の声くぐもるやうに彼方より羽音と風と木立薫りぬ
静寂に身を沈めゆく茜雲都会の森の青闇の底
ゆきかえば人かライトか街の灯にきみじかな空はろばろ遠く

投稿者 Blue Wind : 05:56 PM | コメント (0) | トラックバック

のーてんきな日にて

ようやくトロデーン城の図書室へたどりつき、気が付けば、わけのわからないうちにもぐらを倒し、船をゲット〜♪ 娘は微熱と軽い咳があるため学校を休み、二人でうだうだ昼寝。夜、さっさと夕飯を済ませ、せっせとドラクエ。

J.D.サウザーを聴きながら、70年代気分に浸っていると、すべてがどうでもよくなってしまう。60年代に生まれ、思春期を70年代に過ごし、サウザーは高校時代によく聴いていたと思う。当時、2時間目の授業が終わると急いで学校の電話ボックスに駆け込み、そのままウドー音楽事務所にコール。初代ウォークマンは4時間で電池切れするために、駅の売店で電池を買っていた。

とりあえず、女子校で付属に大学がついていたけど、何となく外へ出てみたかった。無試験でそのまま上がれるので、誰も勉強していない、そういう環境。懐かしい。クラス会やっても一番盛り上がる。(しつこく4年に一度いまだにやっている。)

留学したかったけど、わたしの成績ではあまり多くを望めないため、結局、日本の大学を受験。UCLAに知り合いがいて、彼女は日本人とのハーフ。しばらくわが家に滞在していたため、わたしはすっかりカリフォルニアに憧れるようになっていた。

高校時代、彼女からもらったUCLAのTシャツを着て、シドニーを歩いていた時、アメリカ人に声をかけられた。どうやらUCLAの学生と間違えられたらしい。それに、当時のシドニーといえば、一緒の飛行機に乗っていたスチュワーデスのお姉さんたちに街で声をかけられるほどローカル。日本人なんてバスの中にいるだけ。わたしは従妹と二人でのんびり歩いていた。ヘンな日本人。その後、シドニーでツアーガイドをしていたお姉さんが留学していたという大学に進学することになる。人生って不思議。

大学に入ってからかな・・・何かが変わり始めたのは。バリバリのアメリカ訛りの英語をクイーンズに直され、卒業後、院浪人していた時代、英語を学ぶならUKとばかりにケンブリッジへ。ケンブリッジの素晴らしいところはほとんどアメリカ人がいないということだった。

敗戦国から、『Japan as No.1』だもの。そのどちらからも解放され、ヨーロピアンにちやほやされていると、ネガティブに傾いていた日本人としてのわたしがポジティブに変容するから不思議。フジヤマ、ゲイシャでもない日本。それ以来、すっかりアメリカ嫌いになってしまった勝手なわたし。

投稿者 Blue Wind : 01:32 AM | コメント (0) | トラックバック

February 22, 2005

【トラバ短歌】 灰色猫の空

灰色の猫横たわる空のうえ誘う夢のおとづるる昼

サウザーに憧れていた夏空のカリフォルニアはいまだ適わず
『Japan as No.1』とおだてられつっぱしる国すきとおる空
退廃に逃げ出しゆかばイギリスの曇天の空寒き夏知る
マグダラのマリアささやく教会に誘わるるごと揺れるほむらへ
くりかえし終わり無き旅いづこへとつづくか空よくりかえしつつ

けだるさにめざめた午後は濃紺の闇に覆われ月をさがしぬ

投稿者 Blue Wind : 06:40 PM | コメント (0) | トラックバック

適材適所

今、わたしは10年ぶりくらいでドラクエをやっている。いや・・もっとかな。学生時代はファミコンが好きで、ソフトの発売日には速攻で買っていたのに、娘が生まれて以来古いソフトは小屋裏部屋のダンボールの中にでも入ったままなのだろう。どこにあるのかも忘れている。

この前、ってそれすらいつか忘れたけど、娘と一緒にダンナがゲームボーイをやっていたのは知っているけど、とうとう彼はプレステを買ってきてしまった。彼にしてみれば、それこそ10年ぶり以上の快挙かもしれない。

これも結核のおかげだ。結核にならなかったら、風邪で熱を出したくらいだと、自分が点滴打ちながら働いている始末で、ゲームどころではない。なんせ自分の親が危篤だというのに職場を空けられない過酷な世界だからね。

一番困るのが、一般社会との病気や怪我に対する認識の違いかもしれない。わたしはちょっと指先を切っただけでも死ぬんじゃないかと大騒ぎするタイプだったんだけど、なんせうちのダンナは感性が違う。あの世界は、「ナイフで刺したくらいで人は死ぬことはない」ということを実証している世界だし、大阪の小学校で児童殺傷事件が起きた時、彼が一番驚いたのは、犯人がいかにプロかということだった。普通はありえないらしい。後になり、犯人が元自衛官だということを知り、納得していた。

その陰で、わたしが一番言いたいことは、わたしは普通の主婦なんだよ〜ということかも。事件が発生して、小学校の警備の強化や子どもの送り迎えに神経を尖らせているというのに、このギャップ。

娘が具合が悪そうにしていても、ダンナが大したことないからと学校に行かせる。すると、速攻で保健室から電話が掛かってきてしまう。微熱や顔色の悪さが理由。開業医だったら、とたんにやぶ医者と言われてしまいそうで怖い。専門で、予約制でやっているから先々まで予定が詰まっている。

どんな世界にも適材適所ってあるのかもしれない。

投稿者 Blue Wind : 12:14 AM | コメント (0) | トラックバック

February 20, 2005

【短歌】 ウブド

幻想の白き石像浮びくる深夜の闇はうねうねつづく
めぐりあふ山のある陽の面影はとどまる闇にすわる人息
バティックの崖にならんではためくを清流沿いでコピと眺める
おさるさん目を逸らしつつ森のなか威風堂々ふさがるる道
おこちゃまはひとりでござる挨拶はくりかえされる天気のやうな


『New 天邪鬼日記』への投歌? 
空港からウブドへつづく幻想の夜道を思い出しながら何となく・・・

投稿者 Blue Wind : 06:31 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 しらじらと淡き光のさしこめば雨こそ止まめまどろみの道

ドラクエの朝な夕なに始まれば休みの日には徹夜してみる
プレステの3Dに馴染めずにボリューム落とし深夜過ぎ行く
しんみりと歌集の文字をなぞらえば電子の文字は騒々しかろ
東京は雪だとたれそ書きぬればつくばねはまだ雨のふる音

昨日には昨日の雨のしづしづと今日という日は曇天の灰
バタイユに染まれるのなら灰の雲したたる雨はぐっと堪えて
噛みしめるくちびるの色染まるならくれなゐの血はさめざめとまる
寝不足のいいわけにするドラクエとブログとうたと曇り空かな

純愛のほのかおるらし青空は雲の向こうの隠れ夕闇
しらじらと淡き光のさしこめば雨こそ止まめまどろみの道
たあいなく果汁ぽんず斜め帽子空き瓶の蓋捨てよか迷ふ
ステンレスいつのまにやら増えたねと飾りなき火の置かれたコンロ

たまには歌人っぽく・・・

投稿者 Blue Wind : 10:16 AM | コメント (0) | トラックバック

【ケータイ短歌】 街

人のない街並みつづく並木みちまっすぐ進み村へさまよい
街の空夕焼け雲は交差点ぽっかり空いた都会の窓辺
街の中苛立つクルマ並べてはお次はわたし 割り込みに泣く


渋滞にいらいらするより、ちょっと走らせてさっぱりすっきり。


* 『ケータイ短歌』への投稿。(しろねこのうた)

投稿者 Blue Wind : 04:17 AM | コメント (0) | トラックバック

【ケータイ短歌】 ラジオ



アーティスト: J.D.サウザー
タイトル: ユア・オンリー・ロンリー


風の中「愛してる」ってつぶやいて飛ばし飛ばされカーラジオ聴く
あの空へ向かってクルマ走らせば流れるラジオ高らか笑う
サウザーがいきなり流れ70’sカリフォルニアかラジオの世界


ラジオと言えば、今はクルマの中で聴くだけのような気がします。でも、流れていないと物足りない。娘を塾に迎えに行く時間になると、J.D.サウザーの『ユア・オンリー・ロンリー』が必ず流れるんです。これが楽しみでクルマ走らせているのかも・・・


* 『ケータイ短歌』への投稿。。(しろねこのうた)

投稿者 Blue Wind : 04:15 AM | コメント (0) | トラックバック

アメブロ版・・・?

ネットって一つこじれると大変なことになる。かつて、警察、サーバ、プロバイダ、恐ろしい数の人たちを巻き込んだアラシ騒動。しかも、どうしてそういう具合にややこしいことになってしまったのかというと、サイバー上で知り合い、互いにアドレスや名前を教えあって、なおかつアラシ。

これ、書かれたほうはたまりません。実名でいい加減な話を書かれるわけですから・・・

そこで、家族に連絡したり、警察からメールを打ってもらったり、あれにこれにとするのだけれど、はっきり言って、ジャンキーだからどうにもならない。レスを書かなかったりすると、どうしてレスをくれないのだろうとばかりに、あちこちに誹謗・中傷を書きに行ってしまう。

匿名ならば、つまり互いのことをまったく知らない関係で、例えば、サイトを閉鎖してしまえばどこの誰だかわからないという関係は楽です。そのままサイトを閉鎖したり、ハンドル名を変えてしまえばわからない。だけど、個人情報をやりとりしていた人たちは必死。それこそ自分の誹謗・中傷が書いてあれば、そこの管理人さんにそれを削除してもらうためにメールを書く。

そういうメールがいきなり着ても、どっちの言うことが本当かわからないのがネット。そこで、わたしの話は本当だというメールがあちこちから来る。そうすると多数決で決定するけど、もともとネットなんてどこの誰だかわからないでしょ? そうすると、騒いでいたほうも逃げる体制に入る。

だって、もともとそこの管理人さんには何の関係のない話なんですから。

それでいて、画面に現れる感情というのは本物らしいです。それが妄想だとしても、妄想なら妄想らしく妄想と書いてあるわけではなし、それでいていい加減な話をそれらしく書かれてしまう。

関係妄想ほど恐ろしいものはないと思う。

**********

そういう意味で、自分がジャンキーでないかと言われれば、こればかりはわからない。ブログからプロフを消して気になる人たちがいるとすれば、そのうち『題詠マラソン2004』が単行本になるそうなので、そちらにわたしの短歌と簡単なプロフィールが書いてありますから、そちらを見てくださいとしか語れない。

結社に入っていれば、そちらの名簿に連絡先が書いてあるし、** Blue Wind ** は結社のサイトにリンクしてあるし、単行本のほうにもそちらのブログのURLが書いてある。

それでは、『風マニア』って何なんでしょうね?

とりあえず、内容は ** Blue Wind ** と同じなんですけど。

アメブロ版・・・・

楽しかったら何でもいいじゃん。

としか語れない・・・

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February 19, 2005

周辺環境とわたし

咲蓉子さんのブログ記事、『強運に生きるワザ』への屁理屈かもしれない・・・

「お金がほしかったら金持ちと付き合い、強運になりたかったら強運な人と付き合い、美しくなりたかったら美しい人と付き合うべし。それなりに努力に仕方を教えてくれるから。」とコメント欄に書き込み、いっそ記事にしようと思い立つ。

たまに思うのだけれど、頭が良くなりたかったら頭の良い人と付き合うべきだし、お金持ちになりたかったらお金持ちとかお金のありそうな人と付き合うべきだと。そうすると、こちらがうんざりするくらいいろいろなことを教えてくれる。

つまりは、いろいろな情報を知っているからかもしれないし、具体的なノウハウを教えてくれるからかもしれないし、単にもっと綺麗になりたいな〜などと思えば、それこそコスメからエステからファッションからありとあらゆるノウハウを教えてくれる。たしかに傍にいるだけでそれなりに刺激を受ける。

それと同時に、一緒にいると、見られ方も変わる気がする。金持ちと一緒にいれば金持ちだと誤解されるかもしれないし、美しい人と一緒にいると美しいと誤解されるかもしれない。他人からの見る目が変化することにより、自分の内面も変化する。

嘘からでた真みたいなもので、やがてはそれが自分の脳を再構築していってしまうのかもしれない。

でも、その逆の効果もある。

例えば、そうはなりたいけどその人のそばに行くと劣等感を感じてしまい、近寄れない。自分自身の妬みなどに自分が耐えられないとかね・・・いつもポジに行くとは限らない。だったら一人でコツコツ努力しようとか?

毎日毎日何気なく眺めている風景・・・

青山に住んでいれば自然と青山の風景を見ることになり、つくばに住んでいれば自然とつくばの風景を見ることになる。

わたしは、今のブログのデザイン、割りに気に入っているのだけれど、もしかするとまた変えるかもしれない。理由は、『世界の美しい自然』。この前までルドビーさんが書いていたのだけれど、今度は別の神父さまが突然書き始めた。それと机まわり・・の違い・・うぅ。

というわけで、わたしは反省しなければならないらしい。

作歌環境をどうするか?
いっそのこと森の中へ移住してしまったほうがマシかもしれない。それでいて、わたしはサイバー上で相変わらず作歌しているわけで、それならそれなりに考えなければならないことが多々ありそう。

それでいて、ヨゼフ修道院は六本木。

投稿者 Blue Wind : 06:00 PM | コメント (0) | トラックバック

天然ブルー

時間というのは不思議なもので、わたしがインターネットを始めたのは2000年1月2日。ちょうど2000年問題が終わり、ダンナが新しいパソコンを買ってきたのがきっかけだった。それまでのパソコンと違っていたのは、プロバイダの案内がたくさん画面に現れたこと。一緒にもらってきたパンフなどを眺めながらプロバイダを選ぶ。そのうちAOLが一ヶ月無料と書いてあったのでその場で接続してみた。

今にして考えたら、AOLだからわたしはネットにはまってしまったような気がする。そのうち違うプロバイダを経由したほうが安くなるとなるとそのようにし、そのうちケーブルの接続の速さを考えたら、電話代も要らなくなるとばかりにブロードバンドが普及する前に乗り換える。実質的には数ヶ月くらいだったのかな・・AOLは。

自分でサイトをつくるようになってからは、BBSにレスを書いて遊んでいた。AOLだとすぐにオフ会に誘われる。子育てのサークルみたいなノリの出会い系。でも、濃いんだよね・・・正直。PTAの集まりに参加するのとちょっと違っていたのは濃いということかも。

育児ノイローゼで入退院を繰り返す元子役、軽くはシングルマザー・ファーザー、夫の不倫、妻の不倫、夫の不倫の子を引き取って育てている妻、いきなり7人の子持ち、離婚したいけどどうしよう・・とか。ヤンママ、ギャルママ、写真を送ってもらったら、子どもなのに髪の毛が赤い・・・とか。

チャットの画面だけ眺めていると、とてもまともな会話。今日、どこどこへ行ってきたとか、公園で何があったとか、他愛もない話。それでいて一歩踏み込むと深い。できれば踏み込む前に逃げ出すべきなのかもしれない。

そういうところだから、一度荒れ出すと止まらなかった。

それで、しっかりと鬱と見捨てられ不安を移され、仮鬱状態が始まる。普段はパソコンの電源をオフにしてしまえば終わる。でも、桜ブルーの季節にはそういうわけにはいかない。毎年、桜の咲く季節になると、原因不明の鬱に襲われる。

これがいつから始まったのか、わたしにはわからないけれども、春はどこか出会いと別れの季節だし、新しい環境に慣れるまでそれなりに時間の必要な自分のせいだと勝手に思っていた。桜の花が散り、ゴールデンウィークを迎える頃にはケロッと治ってしまっている。

わたしは生活面においてクリスチャンではないので、イースターを祝うという習慣がない。ところが、自分の精神状態を観察すると、受難の季節に突入するととたんに鬱が始まり、桜の季節には外を歩くのもつらいほどの鬱に襲われながら桜の散るのを眺める。そして、忘れた頃にケロッと治る。去年はそれが梨の花の咲くイースターの晩だった。

ネットを始めて、毎日、日記を書くようになり、恐らくは神父さんのサイトを来訪するうちに、まるで暗号のような鬱の符号に気が付いてしまった。

本当の意味での信仰というのがどういうものなのかわからない。実際、八重桜が咲いていたり、北海道の5月頃に咲く桜の花を見ていても綺麗だとしか感じない。でも、わたしが桜ブルーと呼ぶのは、わたしが生きている場所で咲く桜の花の咲く季節がたまたま十字架の季節だということなのかもしれない。桜の咲く季節になると急に憂鬱になってしまう。

となると、愛が冷え、この鬱々とした気分も自分にとっては歳時記のようなもので、毎年毎年繰り返される行事のような気がしてしまう。春が来て、花が咲き、不思議なことに梅雨の季節には静かに時が流れ、夏を迎える。お休みの季節には、人はウキウキしているほうが普通らしい。

こういう鬱々した気分を吹き飛ばすために、お花見があるのかもしれないし、それすらつらく感じられるほどの桜ブルー。いずれにせよ、時間が解決してくれることのほうが遥かに多い。いずれにせよ、人生における桜ブルーは終わっていることを神に感謝しよう。早く秋が訪れますように。となると、今はようやく梅雨が終わって日照り続きの夏ってことか。それもせつない。

投稿者 Blue Wind : 02:45 AM | コメント (0) | トラックバック

February 18, 2005

【トラバ短歌】 今はオハステ

ahotankaさまへ

ユーミンのMDなんて遠い夢ナラ・レオン聴き少女時代へ
ガチャピンのほっぺつねって起こしても動かぬ瞼さびしきドール
オハステの時間になって朝が来るあわただしくも一日の始まり

投稿者 Blue Wind : 05:56 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 追い立てる時間のなかに立ち止まる幽かな時間、朝のあしおと。

どうだっていいじゃないかとわが人生1万円を競いブログる
軽やかにおばかやってはわが人生砂飛ばしゆく競走馬かな
鬱蒼と鬱たちこめてどうにでも投げやりになる暗闇のみち
退廃よ、クローゼットの玉手箱。絵本散らばる足元の床。
少しずつ空の彼方のお星さまちかづいてくる終わりの予感

ヨブ記 5. 24-27

のんびりとアシジの丘はゆれている陽のさすようにゆらゆらと葉の
退廃に身をやつしては空のうえ見あげてみれば星は輝き
へぼ歌人ぼんくらやみのとんかちはお空のしたで眠る屍
美しく美しくあり美しくそのみことばの届かぬ先は
へぼ歌人身をやつしては下手な歌詠みつづくだけその先の丘
こうやって死へ向かいてすすむみちポルチウンクラ陽の落つる床
わが神よわたしを捨てていづこへと遠い空の葉落としているか
悲しみよ、忘れた頃にやってくる深きやみじはあなたの床に
紺碧のお空の中に浮ぶ月大きすぎては蛍光灯か
数えてはいく年月をすごしゆき今ひとさしの小指の先に
忘れては死んだかわれは生きている。無謀な無為なる作為のままに。

エレミヤ書 36. 1-3

ユダのこと大嫌いだとマドレーヌ顔に書いては香油の小瓶
何もかも神にゆだねて五月雨も砂漠の砂も地球の香り
ナラ・レオン名盤のまま流れても幽かに色の違う再版
ローカルに流れていては息吹つたうサウザー買ったついでの過去へ
今のことのんびりと聴く子守歌眠らせないと流れるレオン
明日のことまた考えて発作かな道筋くねる風の気まぐれ

止まれ時!命令しても鳩時計、電池切れまで振り子は揺れる。
こうやって知らないうちに流れ出す時間のなかにとどまりし吾
鬱蒼と奏でる音の透きとおるぎこちない歌アコースティック
何したい?尋ねられては今のとき、案外わるくないさと思う。
追い立てる時間のなかに立ち止まる幽かな時間、朝のあしおと。
少しずつ気ままなわたし戻っては流れるときはナラの歌声
ゆっくりと飽和してゆくギターにはぎこちないほど滑らかな音
新しいCD買って旧きうたくりかえし聴くひまなわたくし
永遠は星の時間で数えるの、ちょっと気ままな流れ星かな。
空さえもいづこにつづく世の果てはわれの知らない空間浮ぶ

ヨシュア記 5. 13-15

投稿者 Blue Wind : 05:17 AM | コメント (0) | トラックバック

ラノー・ドール

ブログって難しいですよね。何を書いたらいいのか迷うし、書くとなおさらに誤解が発生しそうだし、淡々と書いているくらいがちょうどいい気がします。

以前にも少し書いたかもしれないけど、わたしの父というのは若い頃には3回くらい事業に失敗したつわもので、わたしが幼い頃母の実家に預けられていたにはそれなりの訳があるのかもしれません。(下町っ子なんですよ・・うちの母はちゃきちゃきの江戸っ子。ひとしの区別がつきません。)

その間、父と母は、札幌で生活の建て直しをしていらっしゃったようで、その頃の記憶の中に親の姿がない。どうして札幌かというと、父が北海道の出身だったからで、その後、生活が軌道に乗り始めた頃、わたしも小学校の半ばくらいまで札幌で過ごしました。

でも、母は札幌の雪が嫌いで、ある日とうとう東京に戻ってきてしまう。そこで、父と母とで最初は小さな会社を原宿で始めた。そうなると、生活が仕事オンリー。わたしは、何となく家で静かに棲息していた。

そのうち、父の遊び仲間で、安達さんという今は亡くなったおじいさんがいて、外見は何となく田舎くさい人なんだけど、実は、バブル当時で、第一勧業銀行の筆頭株主をしていたという資産家。

で、ある日、会社が安達興産ビルの中に存在するようになり、いつのまにか父はゴルフ場を経営し、母は会員権を販売する会社の社長になっていた。そうなるといくらでもお金あるから、馬主とかね・・・その他諸々ノルウェイ協会の会員とかね・・・華美な生活。いやはやいやはや・・・うんざりでございました。

そういう生活からどうやって逃げようか?

考えに考えた挙句、ある日突然、父と喧嘩して大学院へ進学することにした。楽しかったんだよね・・・あれにこれにと研究が楽しかった。どうして空が青いのかなぁ・・とか、人間の知覚の仕組みとか、そういうことを考えているほうが遥かに楽しかった。

博士後期過程の試験の前日が、父の告別式だったので、わたしがせっかく修士号を取っても誰も出席してくれなかった。当時、彼氏だったダンナが写真だけ撮ってくれた。装いは、日本のオートクチュールの草分け的存在だった千葉一雄先生。ケンゾーにデッサンを教えていたという・・・(いち先生については、そのうちまた書くかも。)

母は、相変わらず自分のことだけに精一杯。そりゃそうだよね・・父の会社の後始末のこともあるし、自分の会社や生活のこと、弟のこと、あれにこれにわたしのことなどどうでもいいらしい。もともと仲があまりよくなかったので、父が亡くなって以来、ほとんど実家には行っていないような気がする。第一、わたしは母に抱っこされた記憶がないのである。どちらかといえば、父の膝の上で育った。

すったもんだしているうちに、義父から結婚の話が出て、どうやらわたしの身柄は白石のほうへ引き渡されることに決まった。

つまらない小説を読むよりも、わたしの人生をそのまま書いたほうが面白いかもしれない。いや・・・それは驕りだな・・・世の中にはもっと面白い人生が存在しているような気もする。

そだそだ・・・今日は、健診に仲村トオルさんがやってきたそうです、ダンナのところ。数日前は、どこかのヤクザの親分。どこからどこまでがVIPなのか知らないけど、いつのまにかVIP係の医者になっている彼という人。最先端でね、今にも死にそうな人たちを相手にしているほうがかっこいいよね、VIPの相手しているより。
でも、そのおかげで、彼は家でのんびりドラクエをやっていられるんだから、人生はそれでよしとしますか・・・

なんで、こんなつまらない話を書く気になったか?

ネットの毒かも・・・


**************

お店、紹介します。オーナーシェフの奥さんが友達なんです。招待状が・・・

フランス料理 ラノー・ドール
〒160-0004
東京都新宿区四谷4-6-1 四谷サンハイツB1F
03-5919-0141

来月、再オープン。しばらく箱根で静養していらしたので。
(Start: 平成17年3月6日(日)12:00)

オーナーシェフ谷川: 新宿生まれ。1980年渡仏。パリの1つ星、昭和天皇もお泊りになったスイス・ローザンヌ5つ星ホテルにてミシェル=トロワグロと厨房をともにする。帰国後、渋谷区松涛に「シェ松尾」でソーシエとして勤め、皇太子殿下(当時浩の宮様)に供す機会に恵まれる。1989年下北沢シェタニを独立オープンし、料理ひとすじに精進。 2003年から1年半の転地静養を経て、今日に至る。 クラブミストラル会員。 やさしいフランス料理教室も開催。

新宿御苑近く、新宿通り。新宿御苑駅と四谷3丁目の間くらいなのかな・・・

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【トラバ短歌】 とおりすがりに招かれた猫

招き猫おいでおいでと呼んでいる呼ばれてないがやってくる猫
曲がり角過ぎてしまえば鳩時計いくつ鳴ってもおすぎとピーコ

ぐたさんのところで、通りすがりに、お弁当箱の写真を見ているうちに何となく詠んでしまいました。

江戸っ子のみてみぬふりはできねぇとおせっかいだが隣ん家の子

投稿者 Blue Wind : 12:16 AM | コメント (0) | トラックバック

February 17, 2005

ゲーテは4分! 『自然科学論』

ことらさんのブログ、イケてるでしょ? 最初は、「新井素子」で検索したらヒット。トラバる。読者登録。その翌日くらいにはいきなり上位(わたしが知らなかっただけかもしれないけど)。更新量も違うし、パワーが違うよね。

わたしは、あまりSFやファンタジーは読まない。その理由についてはウダウダ書かないけれども、空想力や好奇心は人間のパワーの源。そういう意味では、アニメや小説は自由空間、パワーに満ちあふれていると同時に、人間のすごさがそこには秘められている。これがあるから、人類は、科学は、文明は発達してきたとすら感じてしまう。
狭い研究室で、他愛もない実験をしているよりも、何となく楽しい。

その昔、哲学と心理学は相性が悪いらしく、「心理学は哲学じゃないよ」と何度も繰り返し言われ続けた。例えば、臨床の人たちが論文を書こうとしても、ケース・スタディはダメとかね・・・わたしは実験系だったから、なおさら厳しかった。フロイトもユングすらNG。

つまりは、心理学が必死に独立して行こうとしていた時代。

わたしは学部の頃は色彩心理学を専攻していたので、ゲーテを読むのは当然だった。色彩の研究についての始まりがゲーテとニュートン。今はまったく違うジャンルに分類されてしまう二人だけれど、ゲーテのニュートンに対するライバル意識はそれなりだったのかもしれない。
あくまでも主観的な観察を究めるゲーテと、客観的手法を用いるニュートン。この二人の対立がその後大きな流れへと時代や学問を導いた?

フロイトをイメージして心理学を専攻した人たちががっかりするほど、わたしを魅了した世界は楽しかった。一番憂鬱だったのが精神物理学。物理的に存在する世界を色相環などを使い色を数値化する。周波数毎に分類したり・・・しかも、それに対するレセプターとしての人間を研究することが狙いなので、個人的にその色がどのように見え、青い色を見たら寒くなるとか落ち着くとか、色彩感情の研究とかね。

わたしの卒論は、残像実験。面白かった。面色を凝視する時間を決め、見えた残像が何色で、どの程度長く見えるか、さらにそれが何色かとか、さらに黄色を凝視すると光の形でしか残像が見えないとか、紫についても黄色と言う人もいれば、光としか言わない人もいるし、同じような色を見ているはずなのに、それを言葉で表現しようとすると個人差が大きくなる。
もしかすると、物理的には同じ色なんだけど、個人的には見えている色は微妙に違うとか? そうなると白内障の患者さんの研究とか・・・わたしは、緑内障の患者さんまで手がけたこともある。
それがどんどん派生して、知覚そのものの個人差の研究とかね・・・今となってはとても懐かしい。

でも、ゲーテの『自然科学論』は文献として価値があるかどうか、・・・自分的には引用してもかまわないと思うのだけど、臨床系の先生に笑われたこともあった。内観報告自体が廃れていく時代だったのかもしれないし、同じ心理学でもまったくスタンスが違うことも多い。
ゲーテの『自然科学論』は色彩論としては興味深い話が多い。例えば、彼はなんと残像を4分にも渡って観察していたのである!
わたしね・・・ためしに同じような状況下で同じ実験をしてみようと思い、やってみたら結局、普通の人で1分前後、長い人で2分くらい。そのうち何度も繰り返すうちにその持続時間が長くなる。
ということは、ゲーテがいかにマニアックな人間であったか、それだけでもわかるような気がするくらい”4分”という数字には深い意味がある。

最初のうちは、個体差よりもそれを統計的に処理するわけだから数値化するためにサンプル数が必要となるけど、それをどうやって分類するか?という点がとても難しい。そんなことをウダウダ考えているうちに、どんどんはまっていく。気が付いたら色彩心理学から大きく離れていくことになった。

こんな話、読む人たちがいるかどうかわからないと思いながら、懐かしいから書いてしまった。


■ 関連書籍

著者: ゲーテ, Johann Wolfgang von Goethe, 木村 直司, 前田 富士男, 野村 一郎, 高橋 義人, 水野 藤夫
タイトル: ゲーテ全集〈14〉自然科学論―色彩論
著者: ゲーテ, Goethe, 菊池 栄一
タイトル: 色彩論―色彩学の歴史
著者: 大山 正
タイトル: 色彩心理学入門―ニュートンとゲーテの流れを追って

投稿者 Blue Wind : 06:31 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 受難のワルツ

ねむれねむれ野のすみれ冬つちまくらすみれすみれと風謳うまで
すみれすみれ飛ばしてよ春桜散り君咲く日まで目をつぶる吾

風謳うその日には春花咲くらむ憂鬱なそら十字架はあり
さくらさくら花びらの舞う散りゆくか梨の花咲きイースターまで

さくらさくらあなたに罪はなかりしもあなたの日にはわたしはブルー
春うららうららうららとうつらつらさくらの花はどうして咲くの?
散る・・・さくら。今はまだ冬今はまだ。すこしずつ春残光の雪。

すこしずつ春ちかづけば意味のない青き想いにつぶされる吾
今はまだ冬なのに月すこしずつ春の気配のおしよする風

さくらさくらあなたの罪は春に咲く十字架の色十字架の上

投稿者 Blue Wind : 04:08 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 ゆらゆらと生きるかなしみ憐れみの大地の悲鳴うくし沈みぬ

受難へとつきすすみゆく如月の聖なる愛は今はいづこに
桜咲きめぐりゆくかなこの季節ゆれる地面にゆらぎわすれる
ぼんやりと流れゆく息ながむれば受難の季節おとづるる春
ゆらゆらと生きるかなしみ憐れみの大地の悲鳴うくし沈みぬ
ひねもすは淡淡としてながれゆく大きな愛のゆらゆらと空

聖バレンタインとバレンタインディはかなり違う。
なんで怒る人たちがいるんだろう。
わけわからん。

いにしえにとどまりゆかばひろまりつ愛に飢えては食む夢のうた

ローマの信徒への手紙 1. 18-32 人類の罪

まだ大丈夫みたい、よかった。

投稿者 Blue Wind : 02:47 AM | コメント (0) | トラックバック

立ち読みしました、ごめんなさいシリーズ その1

今日はドラッグストアへ行き、あれにこれにと物資を買い込む。ほとんどが腐るものではないために特にバーゲン日というわけでもないのに買い込んだ。スーパーでも買えるけど、何となく悔しい。それでいていちいちそのためにだけ行くのがかったるい雑貨。
ついでに本屋へ行き、詩集1冊、歌集2冊を購入。
それで、つまらないことに気が付く。

普段、わたしの買う本って、著者欄に職業が書いてあることが多い。それを見て買うわけではないけれども、何となく気になる著者欄。小説などだと、ほかの著書名が書いてある。だけど、それ以外の書籍というのは、職業や所属が書いてあることが多い。

これなんだよね・・・って思った。うちのダンナでも名前載ってる本あるし・・・医学部の9割の学生が買うらしい。なのに、うちにはまるで印税は入ってこない。いわゆる監修がいてシモジモの名前が並ぶというやつ。シモジモでもそういうものに名前が載るということに意義があるらしいから、印税は入ってこない。

だから・・・・なのよね、おそらく。出版して儲かるという頭がない。


実際に買った書籍ではなく、立ち読みした本を告白すると、



著者: 曽野 綾子
タイトル: 現代に生きる聖書



著者: 枡野 浩一
タイトル: かなしーおもちゃ


の二冊です。

曽野さんの『現代に生きる聖書』は、冒頭だけ・・・本来なら、聖書について書くべき人たちはたくさんいるのに、どうして曽野さんが書いているのか、その断り書きを何となく読んだ。

権威主義というわけではないけれども、特に聖書に関してはこれはなかなか勇気のいることだということをわたしは少しだけ知っている。初期の頃の屁理屈日記でも、スピリチュアル・フリーダムに関しては、実際に神父さんがお読みになっていたわけで、あれは匿名だから書けたと思うのです。叱られるのを覚悟で、それでも何となく書きたかった。
そのうちに、ここまではOKで、ここは絶対NGというラインを何となく教えていただいた気がしています。

歌だったらもっと気楽でいいような気がするでしょ?

甘い甘い・・・そりゃ甘い。和歌だからこそ、なおさらに甘い。それなら詩になさい、とか、もっと日常生活における信仰とか、古来からの和歌の良さとか、そちらのほうがマシではないかという厳しさ。

ファーザーに教えを請うねこ。

ねこ踏んじゃったから始まった・・・


枡野さんの『かなしーおもちゃ』は、ようやく意味を理解した。あのブログを通して何をやっていらっしゃるのか。「あるある短歌」なのね・・・このところの『サラリーマン川柳』のヒットの影響なのかもしれないし、枡野教の完成なのかもしれないし、自分的には匿名的に投稿したつもりなのに、いきなりお叱りが飛んでくるという・・・

わたしってね、まるで歌人という自覚がなかったということに気が付いた。


インターネットの素晴らしいところは、自覚のないままにたくさんのことを与えられていることに気が付かないことかもしれない。これが対面形式だったらどうだろう?

例えば、学生時代のように、神父さんの授業に出席して、お時間のありそうな時に自分の原稿を持って行き、面と向かって意見を訊こうとすれば、そこにはある種の壁や構えが存在し、わたしはそのことを強く意識しないまでもそれが常識として、クソマジメに何かを求めようと、もがくような気がしてしまう。

その結果、言いたいけど言えないことなどを一人で悶々としながらその発露が結局ネットだとしたら、何の値打ちもない気がする。

ところが、ネットって面白い。どちらかというと、一人で悶々としているところを勝手に発信し、それに対してのフィードバックがある。しかも、ねこだから責任ないし・・・


こーね・・・・シモジモで、名前が並ぶことに意義がある世界に長くいると、その世界の外のことはあくまでも外の出来事として存在している。つまりは、一般の人たちには関係のない世界というものがあり、その中のことしか考えなくなる。外に出たら、あっちの先生のほうが上なんじゃないかと思っても、中にいるとそうではなかったり・・・


家の中では、どうやってもお母さんが一番強い?

実は、オトくんを飼ってわかったのだけれども、彼は一番偉いのは父さんだと思っているけれども、一番好きなのは母さんだということを隠さない。こーねー・・・そういうことにどういう値打ちがあるのかといえば、結局、父さんの言うことはきかないくせに、母さんの言うことは素直にきく、という反対の序列が成立してしまう。

これなんだよね・・・

いわゆる専門家がいて、聖書について知りたいのならそちらを読めばいい。でも、どうして曽野綾子さんの本を買うのか?ということなのかも・・・それでいて、今回、わたしが買った本については秘密です。たぶん。

投稿者 Blue Wind : 12:23 AM | コメント (0) | トラックバック

February 16, 2005

【トラバ返歌】 地震に揺られて・・

愛海舞さまへ

愛すれば海のかたちに舞う雲の流れるやうな昼下がりかな
君は言う僕は僕だし君は君ならばふたりはプラットホーム
謝肉祭咎めるようなあの雲はリップの端に不思議な笑い

TBのほうが好きw

ビシッとね飛ばしてみれば目が覚める母親視線重圧の朝

投稿者 Blue Wind : 04:21 PM | コメント (0) | トラックバック

震度5弱

また震源地付近?
揺れたけど、わが家は被害は無さそうです。
コップが倒れるかなぁ・・と思ったけど、大丈夫だった。

世の中がおおげさすぎてテレビみるいづこのこととうすらぼんやり
倒れてはパソコン被害考えてコップを持ちつテレビをみやる

寝よう・・・
おやすみなさい。

投稿者 Blue Wind : 04:19 PM | コメント (0) | トラックバック

February 15, 2005

義理チョコはスパム?

どうしてこの季節この話になると右往左往するのだろうと、おおげさなまでに愛に飢えたる社会を感じるようになる。オリジナルはこちら
おそらくはまだクリスチャンへの迫害の多かった時代のローマで、修道士バレンタインは、牢屋に入れられ、そこから一生懸命に愛の言葉を鳩にたくして飛ばし続けた。どんなにつらい状況下でも神さまへの愛を失わず、神への賛美、友への愛の言葉、励ましを獄中で書いていたバレンタイン。
それがいつしか、聖バレンタインと呼ばれ、彼のお誕生日には愛の言葉や贈り物を交わす習慣が出来上がっていった。

それが20世紀後半の日本に伝わると、チョコレート会社がその話を利用する。しかも! もっとすごかったのは、この日を勝手に女性から愛を告白する日に変えてしまったところかも。これがね・・・ヘンな話、チョコレートを交換しあうとか、恋人たちの日みたいな感じだったら、ここまでいびつにこの話が成長することはなかったと思うの。

そうやって考えてみると、それまでは女性は常に受身で、自分から愛の告白やプロポーズをするなんてことは無かったのかも。それが時代が変わると、nattoさんは、社長さんからこんなギフト。なんでわたしにはくれないんだろうって思ったら、バレンタインディだった・・・

そうやって社長さんからボーナスを貰えない人たちは、ミチルさんの手作りマドレーヌ? マドレーヌのお返しが割烹料理・・・

うちのような普通の家庭では、父さんが貰ってきたチョコは子どものおやつ・・・そりゃ数が減るよなぁ・・・w それでも飲み屋さんに行って、チョコレートを貰ってこないだけマシなのかも。

でも、よく考えたら、わたしは本命にチョコレートなんて差し上げたこと無いです。とても若い頃、一度だけチョコを渡す練習?をさせていただきましたが・・・
それではどうやっていたか??

う〜ん・・・・・

わたしね・・・お誕生日が12月なんです。そうするとプレゼントいただくでしょ? それで本命というか、彼氏ですね・・・そうなると・・・毎年、お礼にセーターを編んでいました。子どもの頃から編み物が好きなんですよ。特技。

それでね・・・・今となっては単なるアレなんですけど、どうしてうちのダンナにつかまってしまったかと言えば、あの人は会うと必ずわたしの編んだセーターを着ているんです。しかも毎日着たきりスズメ。そうなるともともと編み物が趣味だったので、毎年コツコツ編むのが習慣になっていった。だってほかのセーターを着ないのだもの。

愛の深さが違うね・・・
オシャレでかっこいい人はたくさんいたけど、なんて言ったらいいのかわからない。デートの時にオシャレな人や店やその他諸々面白い人たちはたくさんいたんでしょうけど・・・急に何もかもがバカらしくなってしまった。

義理チョコ、か。

そだそだ・・・本題だ。

義理チョコはスパムか?

愛に飢えたる季節は大変なのよ・・・あちこちで今度はスパム騒動が発生する。義理なら要らないって人と義理でも喜ぶ人と世の中ははっきり分かれているらしい。
これってどこかトラックバック騒動にも似ていてつらいものがある。いつかはやられるだろうと思っていたら、わたしのもう一つのブログから勝手に誰かにトラックバックを飛ばされていたようだし、どうしてそういうことができるのかはわからない。でも、どうしてそういうことをするかというと、単なる嫌がらせなんだと思う。愉快犯?

自分的には、本当のスパムというのは数分毎にすべての記事に投稿されるスパムコメントとか、明らかにサイトやブログの運営を妨害する意志のあるもの。
ところが、今のご時世はちょっと違っていまして、義理トラバや義理コメントまでスパム扱いされかねない。
ネットってね、検索記事だけしか読まないとか、関連ページしか読まずにサーフィンするなんてことはざらだし、それでもまったく気にならない人と、そういういちげんさん的な来訪を嫌う人とがいて、ややこしい。

「NO SPAM ≠ 義理ならいらねぇよ」

なんてね・・・ちょっと考えてしまいました。

なんか、世の中が殺伐としていてつらい・・・

ちなみにうちのブログは義理でも何でもウェルカム〜♪
コメント・トラバ・読者登録。
お返ししないかもしれないけど・・・^_^;

投稿者 Blue Wind : 04:27 PM | コメント (0) | トラックバック

愛と恐怖

恐怖のバレンタインディを無事に終了し、娘と一緒にダンナが貰ってきた義理チョコを平らげ、「今年は一個か」と文句を言う・・世の中が不景気になって以来、義理チョコすら減った。

かく言う自分がチョコレートをあげたのはいつが最後だったか、まるで記憶にない。昨年か一昨年かはたまたもっと前に、娘がお父さんにあげたいというので買った記憶があるけど、昔からチョコが嫌いな人なので結局娘の餌になってしまう。
というわけで、チョコレートケーキもチョコアイスも嫌いな人と付き合い出して以来、わたしはチョコを買う習慣が無くなってしまった。もちろん自分やおちびのおやつには買うけど・・・

考えてみたら、この時期には特にチョコは買わない。
だって貰ってくると思っているから・・・

となると、まるきり関係のなさそうな人たちのために義理チョコなんて買わないでしょ?

それでいて、この季節のプレッシャーというのかしら・・・チョコが欲しいわけではなく、何と言ったらいいのかわからないけど、人気のバロメーターというか、さすがに一つも貰えなかったらショックな人たちが巷に溢れていることを知る季節。

その昔には、弟が貰えなかったらかわいそうだなぁ・・とか、弟の家庭教師はもっとかわいそうだなぁ・・とか、自分の家庭教師は顔で選んだから貰えないということはなさそうだったけど、あげたらうれしそうだった。

それが次第に、あげる人のない淋しさに変わっていく。

やっぱ、せっせとバレンタインに向けて、セーターやマフラーを編んでいるくらいじゃないとね・・・

一度だけ、思春期に男の子を呼び出したことがある。でも、本音を語ると全然好きではなかったと思う。でも、彼なら大丈夫だろうというか、そういうのはカンとしか語れない。

案の定、指定した本屋さんの前に淡淡と現れ、借りたノートを返すようにチョコレートを渡した。

見事にそれだけ・・・

後になってから、損したような気がした。

あ、思い出した!
今日は父の命日!!

バレンタインかぁ・・・ろくな思い出ないな。
臨終、大喧嘩、その他諸々。

食い物の恨みは恐ろしい・・・
女の嫉妬はもっと恐ろしい・・・

*********

聖バレンタイン's Dayには、獄中から愛のメッセ。
そっちのほうがいいや。

投稿者 Blue Wind : 01:37 AM | コメント (0) | トラックバック

February 14, 2005

【返歌】 歴史の教科書

まさたかさまへ

横尾忠則でいいじゃん、ということで後で記事を書こうと思ってはいるのですが・・・なかなかすっきりまとまりません。

朗らかなチャーリーの笑みながむれば苦しみの日日等しくありき
まっしろな長きベールの思い出はバーベル上げる妃に変わり
先祖から不倫しているあの二人伝統の国讃えてみれば
何もない時代のほうが不思議だと教科書に載る不倫の話

投稿者 Blue Wind : 11:20 PM | コメント (0) | トラックバック

占いに説教された日

占いって悲しいね・・・
特に、「あたってる〜♪」ってうれしくもないのに喜んでいる時・・・
誰かが遊びでつくったCGIなのに、普段だったら通り過ぎてしまうだけなのに、何となくやってみてしまった「毛占い」。(ネタ元: モトギさん
結果は、coffeebeatさんと一緒。詳しくはそちらへ・・ということでせうか。

**********

【へそ毛タイプの特徴】
いまいちその定義がわからない。あなたはそんなへそ毛です。
どっちつかずで優柔不断なあなたは、何をしても中途半端で終わるため、詰めが甘く失敗することが多いようです。
そして、どこからどこまでがへそ毛なのかわからないように、あなたの行動は周りの人に理解されることはあまりありません。
一度設定した目標は達成できるまで努力し続けましょう。
少しは評価してもらえるようになるはずです。

**********

>いまいちその定義がわからない。あなたはそんなへそ毛です。

世の中にそんな言葉があるなんて〜♪
ありそでなさそなところがわたしっぽい。

>どっちつかずで優柔不断なあなたは、何をしても中途半端で終わるため、詰めが甘く失敗することが多いようです。

のらくらのらくら〜♪
中途半端で終わる・・って、いつが始まりでいつが終わりなのか誰か教えてほしい。

>そして、どこからどこまでがへそ毛なのかわからないように、あなたの行動は周りの人に理解されることはあまりありません。

他人に理解されようと思わなければ、こんな気楽な人生はない。

>一度設定した目標は達成できるまで努力し続けましょう。

え・・・・・
のらくらしているばかりで、目標ってないんだよね・・・困った。
とりあえず、パラダイスが永遠の目標なんですけど。

>少しは評価してもらえるようになるはずです。

誰に?

***********

誰とお話しているのでしょう・・・

投稿者 Blue Wind : 12:48 PM | コメント (0) | トラックバック

聖バレンタインの話

聖バレンタインのお話となると、あまりにも俗説が多いので、せっかくですからすでにサーバの全廃のために瓦礫となってしまった神父さまのサイトから、残骸を拾ってきました。

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聖バレンタインの話

 むかしむかし、ローマの国にとても熱心に神様を信じている、バレンタインという人が住んでいました。
 神様がお喜びくださることをしたい、といつも考えていました。そして、とうとう決心して修道院に行き、神様に仕える修道者になりました。修道院では毎日、聖書を勉強し、お祈りをしました。そして神様のために、いっしょうけんめい働きました。しかし、ある日、あることに気が付きました。
 ある修道者はイエスさまの絵を、とてもじょうずに描きました。またある修道者は、イエスさまや弟子たちの像をまるで生きているみたいにじょうずに彫りました。美しい声で神さまを賛美する歌のじょうずな人もいました。きれいな字で聖書をじょうずに書き写す人もいました。
 しかし、バレンタインだけはなにひとつじょうずにすることができませんでした。
 「わたしはこんなに神さまを愛しているのに、神さまのために働くことができない」と、とても悲しみました。
 悲しい気持ちで祈っているとき、突然小さな声が聞こえてきました。「あなたにできることをしなさい。神さまがそれをお望みです」。「わたしにできることってどんなことでしょうか」とバレンタインはすぐにたずねました。しかし答えは聞こえてきませんでした。そこでバレンタインはいっしょうけんめい考えました。そしてついに決心しました。
 「そうだ。わたしは毎日人々へ”愛の言葉”をおくろう。手紙を書いたり、小さな花束やくだものをおくってあげよう。イエスさまがなさったように、悲しんでいる人や、さびしがっている人、ひとりぼっちの人に、神さまの気持ち、愛を伝えよう」。
 くる日もくる日もバレンタインは「愛の言葉」を人々におくり続けました。そしてとうとう、バレンタインは国中の人々に「愛を伝える人」として、知られるようになりました。バレンタインから愛の言葉を受けた人は、神さまがどんなに愛してくださっているかを知りました。そしてとても明るい元気な人になりました。
 しかし、たったひとりバレンタインをとても憎んでいる人がおりました。それは王様でした。王様は自分よりもバレンタインがみんなから好かれていることを知って腹を立てました。そしてバレンタインを牢屋に入れてしまいました。
 ところがある日、バレンタインのいる牢屋にはとが飛んできました。その口ばしには、ハートの形をした葉っぱがくわえられておりました。バレンタインは、はとの落としたハートの形の葉っぱに、羽のペンで「愛の言葉」を書きました。はとは、その葉っぱをくわえると、バレンタインの友だちのところへ運びました。
 やがて、王様が死んだのでバレンタインは牢屋から出ることができました。そしてまた人々に手紙や花束やくだものをおくって「愛の言葉」を伝えました。
 バレンタインが死んだとき、人々は大変悲しみました。そしてバレンタインが神さまの愛を伝える立派な働きをしたことに人々は感心して、”聖バレンタイン”と呼び始めました。毎年、聖バレンタインのお誕生日がくると、人々はバレンタインのことを思い出し、自分たちも「愛の言葉」をおくりあうようになりました。こうして2月14日が聖バレンタインの日としてお祝いされるようになりました。

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愛というともしびのなか生れこしも鳩のまどべのこえさがしつる
ともしびの葉のひかるらむ愛のうた葉のない季節なにをもとめん
枯れ草の如月のゆめひかるらむやがては春のおとづるる原
バレンタインあなたはなにをもとむるかチョコレート色の愛のかたちか
透きとおるまどろみの陽はやさしげに愛の想いをささやきつkiss

(短歌 by Masako Shiraishi)

投稿者 Blue Wind : 04:07 AM | コメント (0) | トラックバック

いつまでたっても同じネタ

昨日の朝は参ってしまった。強烈な悪夢で目が覚める。
いや・・・大した夢ではなく、夢の中に大学時代の友達が出て来て、一緒に東京へ行こうと誘われて電車の中を見たら、どういうわけか高校時代の友達が二人乗っていて、子どもを連れている。
その後、娘を連れて小学校へ行ったら、クラスにほとんど誰もいない。どうしたんだろうと思って尋ねたら、「今日は東京の受験日だから」と言われた。うちの娘は都内の中学は受験しないからとホッとしたとたん恐怖に襲われた。

「え・・・・もしかして、今日が都内の受験日だとすると地元は終わっている???」

ネットしているうちに、娘の受験日を忘れていた・・・という恐怖。

笑い事じゃないよね・・・やけにリアリティがあって怖かった。しかも、うちの近所は6年生が多く、どこも無事に合格したらしく、会うと、「まほちゃん、がんばってね」と微笑まれる。今までは言う側だったから気楽だったけど、今年は言われる側なんだなぁ・・と思ったら冷や汗。なんか、ますますネットにはまりそうだ・・・あーやだやだ。怖い。

などと書きながら、わたしは一日中自分のブログの管理をしているわけではなく、よく見たら昨日アップした記事のコメント欄が盛り上がっている。
勘弁してくれよ〜って思ってしまった。
またリンクがどうたらこうたら、トラックバックがどうたらこうたらという話題。この手の話題になると、ネットははっきり二つに分かれるから・・・つまり、勝手にリンクされたりトラックバックを飛ばされると気分の悪い人たちと嬉しい人たちと。

今回、ブログをつくった動機の一つに気楽さがある。今までだったら勝手に友達リストにリンクされたり、ヘンなサイトにリンクされたりすると怒っていた側だったんだけど、ブログは気楽だからね・・管理も楽だし、アメブロなんて1クリックでスパムは削除できるし、読者登録してくれたらランキングが上がるんだったら怒ったって意味はない。感謝せねば・・・
そういう意味では、すでにHPより気楽だ。

で、今度は何だって??

売名?

パタッ。

うちのブログなんて、まだつくって2ヶ月程度だし、しょせん1クリックでつくれて削除できるようなブログですから、そんな値打ちないです。なりすましが出没しなければ、ハンドル名に戻そうかと思っているし、電子文字社会ってダメなんだよね・・・

例えば、肩書きがあったり著名人のブログなんて大変でしょ? 匿名だったとしてもちょっとメジャーなサイトやブログだったら、やたらと2ch状態のBBSやコメント欄になって放置しているようなところも多いし、うちのブログは普通の主婦のブログですから、いささかそういうブログには抵抗があります。
かといって、一日中自分のブログの管理をするわけにもいかないし・・・

いずれにせよ、明日にはまた平和なブログに戻っているでしょう。

そのくせ、南米系サーバの一日1000以上のスパムコメントは困ります。いや・・・どうせアメブロだからな・・・その時には移転しますので、よろしくお願いします。いいよ・・・1クリックでつくれるからw

スパム・・・か。
本当のスパムを知らないんだろうな・・・・いいな。ある意味。平和。

*************
追記: ** Blue Wind ** から .Nat Zone へ、誰かが勝手にTBを飛ばしたみたい。もういい加減にしてくださいね。

投稿者 Blue Wind : 01:06 AM | コメント (0) | トラックバック

February 13, 2005

【短歌】 悪夢に目覚める

シャンティさまへ

やつあたりされてなおさらにこにこと親バカな夫にいちご持たせり


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東京に誘わるる意味わからずと夢みし吾子の受験日忘れ
皆してどこへ行くかと考えて受験日だとは憂鬱な夢

いやな夢みたなぁ・・・

投稿者 Blue Wind : 09:05 AM | コメント (0) | トラックバック

うげげっ!

日頃、ランキングにはこだわらないんだけどね・・・でも、ここには負けたくないw
シモネタばっか、人間よりも機械を愛する元祖インターネット・ジャンキーがアメブロ・デビュー?

STARLESS AND BIBLE BLACK

アングラ系の老舗?だから、うちのブログのような平和なところが紹介する必要はないと思ったのですが、せっかくですから・・・以前、『サイバー上の社会』でもちょろっとネタにしたけど、ネットラジオでわたしがぷんぷん怒ったのもこのノリでここの来訪者だからかなぁ・・・

そろそろラジオ復活ということか?わからん・・・
ちなみに発足時のDJさんは癌で突然お亡くなりになりました。今度は、ピンクフラミンゴというグループの人がDJ? もしかすると名古屋の人ならご存知かもしれないですね。残念ながらわたしは知らないのですけど。名古屋のテレビにも出ている人だそうです。ゲイ?
ラジオはレトロなロック番組のはずなんだけど・・・さてさて・・・

濃いから・・・・

とりあえず、右クリックの仕方も知らないうちからガイアックス時代にはお世話になった管理人さんのブログなので・・・

投稿者 Blue Wind : 03:42 AM | コメント (0) | トラックバック

トラックバックとコメントの違い

コメントというのは、素直にコメントです。そのブログの記事についての感想、誤植の指摘、ブログ作者へのメッセ等に使うことが多いです。

これに対して、トラックバックというのはIT用語辞典 e-Words によれば、「ウェブログ(ブログ)の機能の一つで、別のウェブログへリンクを張った際に、リンク先の相手に対してリンクを張ったことを通知する仕組みのこと」だそうです。

ひらったく語ると、これのネタ元は、ペキンガーさんなので、当然この記事は後でペキンガーさんにトラックバックしようと思っています。つまり、ネタ元の記事があり、そこからこの記事を書いたよ、ってことを相手先に通知すると同時に、そこのブログの読者にも関連記事として来訪してもらうことができます。

自分のところへトラックバックが飛んできた時にも、関連記事であればトラックバックを返します。それにより関連記事の相互リンクが出来上がり、一種の簡易リンク集みたいな機能を発揮します。

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そのほかに、自分の書いた記事と関連がありそうな記事を見つけた時にもトラックバックを送信することが多いです。例えば、ライブドアの記事を書いた時にはどこがネタ元というわけではなかったのですが、自然と飛ばし飛ばされるトラックバック。時事ネタというのはそういうものなのかも。

ここで困るのが孫ネタみたいな感じかな・・・例えば、ペキンガーさんがトラックバックについての記事を書く際にネタ元になった記事があるわけで、わたしもそれを読んでいるんですけど、それをそのままネタにするかどうかは、今これを書きながら迷い中。それでいて、一応はトラックバックを送信しようと思っています。関連記事なので・・・

もっと言ってしまえば、そこからまたトラックバックをサーフィンし、その記事が自分の記事と関連がありそうならば、当然トラックバックを送信するでしょう。

************

あっさり語れば、わたしがコメントよりもトラックバックのほうが好きな理由はここにあります。

コメントというのは、そこの記事にだけ有効であり、その場限りと言ってしまえばそれまでのことで、自分的にはライトな感覚で書いています。それに比べて自分で記事を書けば、それが関連記事を呼ぶし、検索にも引っかかります。

重さが違うよなぁ・・・・何となく。

ただ順番として、自分の記事が先で後から関連記事を探す場合と、ネタ元があってそれに対して関連記事を書く場合とがあり、どちらかというと後者のほうが正統派のブロガーということなんでしょうか?

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それとは別に、アメブロだと記事に質問やアンケートが書いてあって、それについての回答をトラックバックで集めていたり、短歌でも投歌用としてトラックバックを利用しているブログもあります。つまり、広くあちこちから意見等を求める時に利用するケースもあるということでしょうか・・・

トラックバック・ステーションもあるし・・・
つまり、お題を決めて関連記事を集めることにより、ユーザー同士の記事交流が図れるような場所。

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それと、いくつか複数の記事に対して似たようなコメントを書きたい時などにもトラックバックを利用しています。だって、いちいちあちこちに同じようなコメントするのもめんどっちー。すみません・・・

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それと、返歌についてもトラックバックを利用しています。これは、自分の歌は自分のブログやサイトにアップする、ってことなんでしょう。それでいて、返歌だから・・・トラックバックする。普通の記事のトラックバックの場合と同じかな・・そういう意味では。

投稿者 Blue Wind : 02:20 AM | コメント (0) | トラックバック

February 12, 2005

メリー・ザ・娼婦

そりゃないでしょ、Natさん!

というわけで、チャールズ皇太子とカミラさんの再婚のニュースをネタに記事でも書こうと思いながらサーフィンしていると、.Nat Zoneでは『30-34才独身男の3割は童貞』という記事。しかも、18-34歳の独身男の半分以上が彼女も異性の友人もいない? その陰で、増加する不倫?

はあ〜〜〜、情けなか〜〜〜(泣)
少子化の本当の原因は、↑これだったりして・・・

短歌でも不倫の歌の多いこと多いこと・・・一昔前なら驚きもしたかもしれないけど、近頃では、「そのネタは飽きた」とか、「あんただけじゃないのよ」というドライな批評すら。

それよか、こういう記事を『ダイアナ・トリビュート』を聴きながら書いているあたしって・・・昨年か一昨年に、行きつけのレンタルショップで中古CDの払い下げをしている中で見つけた。まだ聴いていなかったのを思い出す。

わたしは・・・一夫多妻とか不倫というのは無理だな。ダイアナ妃ではないけれども、精神的にそういうダメージには耐えられそうにない。何がダメージかというと嫉妬という以前に、恋愛観・結婚観そのものを支えているのが、自分が必要とされている感覚だもの。好きとか嫌いとかそういうこと以上に、自分が必要とされている感覚の欠如そのものに耐えられない。

そんな苦労をするくらいなら、さっさと離婚して・・・生活費だけ送ってくれたらいいや。(←これ言うと、目がつりあがるんだよ〜、きゃきゃきゃっ) 家も子どももわたしのもの、ついでに生活費を送ってもらって、ハワイで年下の彼氏とかね・・・鬱々家庭にしがみついているよりそっちのほうがいいような気がする。

本気でそうやって考えていると、男というのはずるい気がする。計算するんだろうな・・・あれこれ。まずは、子どもを失うリスク、今は若くてもしょせんババアになる女、そういうリスクを背負ってもいいと思えるようなイイ女がうちのダンナのようなくたびれた中年を本気で相手にするだろうか? 
で、家族に捨てられ、女に捨てられ一人になってしまうことを考えると、鬱々し始め、「まほ〜」ってなるんだろう。信じられるのは娘だけか? が、しかし・・・父親にしがみつかれるといやなので冷たい娘。ありゃ不倫は無理だね・・・うちのダンナは。

そこで、メリーさん?

この前、咲蓉子さんのブログで、『さよならメリーさん』の話を見つけた。パンパンと言うの? 米兵専門の娼婦。メリーさんクラスになると若い頃は将校のオンリーさんとか、いわゆる高級娼婦の部類だったのだろう。そうなると食べ物のない時代に食べ物を与えられ、お金もあり、美しく着飾り、普通の日本人が入れない所にも出入りする特権。それでいて寂しい晩年、か。

奥さんや恋人というのは、娼婦ではないな・・・妾や愛人とも違うな・・・

どこが違うのかわからないけど、明らかにどこか何かが違う。世の中には子どものいないカップルも多いし、今は籍を入れずに一緒に暮らしている人たちも多いし、要するに関係性の違いとしか語れない。

チャールズ皇太子とカミラさんの場合、どうなんでしょうね。不倫というより、すでに青春時代から恋は始まり、それがいまだに続いているわけでしょ? だったら最初からカミラさんと結婚していたら誰も不幸にならなかったのに。美貌でも若さでも人気でも圧倒的にダイアナさんのほうが魅力的なのにねぇ・・・

まあ、いいや。ここはあまり捻くれて考えず、ある意味、チャールズ皇太子を支えていたのはカミラさんだったのかもしれないし、そういう意味では、真の配偶者というのがダイアナ妃ではなくカミラさんだったということが不幸の始まりだったのだろう。

結局は、心のつながりの問題なのかも。メリーさんは、誰も信じることができなかったから娼婦だったのだよ、あっさり語れば。

投稿者 Blue Wind : 03:41 PM | コメント (0) | トラックバック

和歌とわたし

和歌はわたしに似ている。わたしは和歌は好きではなく、常に自分好みにアレンジし、それでいてきちんと定型詩のリズムを守り、伝統という名目の下に保護されている。自由であり、不自由であり、飛び出せそうで飛び出せず、そのくせ素直に存在している。好きな人は好きであり、嫌いな人は嫌いであり、それでいて引き摺るものが大きく、これを否定して大きく変えてやろうという野心は常に打ち砕かれ、また誰かが古来のまま口ずさむ。和歌はある意味わたしそのものである。

投稿者 Blue Wind : 12:34 AM | コメント (0) | トラックバック

February 11, 2005

数分後のわたし

『風マニア』は、決して相思相愛的なブログではありません。どちらかというと、どうせアメブロなんだし、1クリックでつくれて消せるんだからわたしの好きにさせて、という冷たいノリでつくっています。

だから、せっかく読者登録していただいてもこちらが読者登録するとは限らないし、自分が勝手に読者登録しているところも多いし、それでいて1ヶ月以上まるで更新の意志の無さそうなブログは勝手に読者登録をやめています。

理由は簡単なんだよね・・・

最初、アメブロにブログをつくった頃、どうしてよいのかまるでわからなかった。ランキングを見ながらやれって言われているようで、このランキングがまた曲者で、一期一会みたいな感じでアメブロネタには反響があった。

そういう中で、とりあえずネタになりそうなブログや、このブログが続いているのならわたしも明日も続けようという怠惰な気分の持続の中で、何となくノラクラやってきています。

アメブロにブログをつくった理由の一つに、作家ブログが多いということがあった。それは一つ、自分が歌人としてやっていく上でのお悩み事があったからで、それについては、自分が期待していた以上に何かがわたしの中で吹っ切れたような気がしています。

あっさり語るけど、プロだったら今の時代は辛すぎる。特にアメブロでは・・・

アメブロで重要なのは広告収入であり、それはどこのタダサーバも同じだから、広告がうざければ自分で有料サーバを借りるというのが当たり前。自分でもすでに有料サーバを借りてサイトをつくっているし、そのほうが気楽だということも知っている。

しかも、広告収入を上げるには、ユーザー数というのが重要であり、こちらもタダでサーバを借りている以上、より快適な環境をクリエイトしてほしいとは常々サーバには期待してしまう。(?) ただでさえ、アメブロは重いと以前から不評だし、近頃ではかなり改善されたような気がしています。

ただし、その裏側で、どこの作家ブログへ行ってもね、一つ共通項があるのは、紙を買えと書いてある。わたしね・・・ヘンな気がした。たとえば、杉山さんのところは以前からサイトがあり、そちらではずっと日記を続けてきたのに、アメブロとなると何となく雰囲気が違う。

その理由について、どこのブログへ行っても明確に書いてあるわけでもなく、それでいて新陳代謝が活発になるが如く、何かが変化しているのが、いくら素人のわたくしにも何となく伝わってくる。その理由が、ブログから書籍、ってことなんだと思った。書籍なら書籍でかまわないんだけど、要するに、売れなくてもアメブロは困らない。つまりは、宣伝だから、宣伝効果があり、その結果ユーザーが増えることのほうがよほど儲かる。

企業だったら当たり前だよね。

で、結果として、どこか割り切りのムードが支配しているような・・・あまりにもバカバカしいと思えば、せっせと原稿用紙に向かって何かを書き、それを売るほうが作家らしいとばかりに、ブログと原稿用紙との差別化がヒシヒシと伝わってくる。

なんかね・・・・これでは、せっかくネット歌人としてやってきて、ようやく劣化を謳われていたインターネットに、歌人としての市民権を得た気がしていたのに、時代が逆行していくようで非常に残念な思いを感じています。

いいんだけどね・・・
ただ・・・うそ日記。
ちょっと悲しかったし、ショックだった。
しかも、それを出版するという・・・

面白ければ何でもいいんだな・・というのは、娯楽というのは概してそういうものであり、歌人をしていても、自費で出版するのは大変だから、著作権云々には関係なくそれを単行本にしてくれるというのであればどこへでも投稿するのが人情ってものだろうし、そういうミクロ的支持があってこそ支えられている売れない書籍。

その一方で、売ることを考えたら、あちこちの賞がどうたらこうたらと紙にしていかなければならない。それはそれで非常に苦痛だったので、それならわたしは歌人は本業ではないので、せいぜい80歳になるまでに考えようという気分になってしまう。紙が廃れた頃に優雅に出版していたりして・・・w

それ以前に、死んでいる可能性のほうが大きいけど。

まあ、関係ないや・・・・というか、興味はあるけど自分には関係ないお話の一つ。『風マニア』自体は、数分後には消滅しているかもしれない。それでも自分が歌人をやめるわけではなし、やめるとしたら別の理由。

それよりも、nattoさんおめでと〜、とか、ぐたさんおめでと〜、ってノラクラしているほうが自分っぽい。

投稿者 Blue Wind : 11:48 AM | コメント (0) | トラックバック

こっぱみじんこ

倦みの中に突入することは無意識に赤い財布を持たないようになることで、もっと倦みの中へ突入しそうだと思う時には、いただいた高価な赤い財布ですら他人に差し上げようと思ってしまう。つまりは、不幸をもたらすものを誰かにあげてしまおう、いささかそれに未練があったとしても縁起が悪い、悪そうだという理由でそれを手放そうとする。

そこに、あっけらかんと赤い財布を持って買い物をしている人たちを見る・・・

なんか、こういうことの繰り返しのような気がする。

そこでサルは再び・・ではなく、人は再び自分も赤い財布を持とうとし、誰かにあげてしまったことを深く後悔する。貪欲になるならなるで最初から他人に渡すべきではなく、それでいてそれは縁起が悪いと潜在意識がささやけば、実際のところ、自分にとっては有害な代物なのかもしれない。他人の価値観を信じるか、自分のカンを信じるか、それにも個人差があり、その基準すらもしかすると個の成り立ちすら支配している可能性すらある、となったら、どちらを選択するかは自分という人を客観的に測る基準にもなってしまう。

ライブドアがどーなろーが、株がどーなろーが、金融がどーなろーが、実はまったく興味がない。まったく興味のないことに興味のあるフリをするのはいわば社交上の問題であり、コミュニティというところに位置する以上、そういう配慮が求められる。従って、うちのダンナに至っては興味もないのに仕事のためにつまらないネタを探す。無口なのに饒舌になるというのは、合目的的行動が裏側にあるからで、人間を弛緩に導くためにはそういう他愛のなさが必要。職人というのは合目的的な行動のため動く代物らしい。

今回、北朝鮮は偉いと思いました。負けを予測していたせいか、日本での試合はまったくあちら側には報道されていないというニュース。実際問題、もっと大変な社会問題が山積しているはずなのに、サッカーにどれほどの価値があるのかあの国ではどうやって国民に説明するつもりなのだろう。それ以上に、実際問題、イタリアの女性はサッカーには興味がないらしい。そりゃそうだろう・・・何となく。自分が興味がないということにどうしてこんなに言い訳が必要なほど世の中が倦んでいるのかこれまた不幸の坩堝。

何が不幸といえば、幸福と倦みとの違いを履き違えながら生きることかも。倦んだ一日を無事に終了。あーつまらなかった。賦活なき神経細胞。

投稿者 Blue Wind : 01:11 AM | コメント (0) | トラックバック

February 10, 2005

雨風呂っぽい・・

あのさぁ・・・・・もしかすると、そんなことを考えてしまうのはわたしだけかもしれないけど、実録鬼嫁日記を読んだ後に、渋谷で働く社長のblogの『うそ日記』という記事を読んだ。

これって・・・・・・なんか・・・・・・・嘘でもいいから書き続けろ!

って言われているような気がした。

投稿者 Blue Wind : 09:45 PM | コメント (0) | トラックバック

いきなりライブドアのお話

ライブドアの快進撃は留まるところを知らない。(と思う)
この前、夕刊マダムさんのところに飛び、初めてライブドアが証券会社まで設立していることを知る。もともと株には興味がないけど、小口の取り引きなどを眺めていると、儲からないなら儲からないなりにお米やらお醤油やら送ってくれるような会社の株を買ったほうがマシだもんなぁ・・などと主婦根性が働く。

かといって、いちいち窓口に行くのもかったるいし、第一、去年の交通事故の相手が証券マンで、えれぇ柄が悪かったことを思うと、とてもじゃないけど、あんな世界には飛び込みたくない。でも、ネット銀行を利用して、ネット株ならこうやって暇にしている間に取り引きできるのか・・と魅力を覚えたりする。売れもしない歌集の話よりも、こちらのほうがマシだろうか。

それでいて、年中ダンナあてに株の勧誘の電話。それを考えると、うんざり。あの人たちって仕事中でも平気で電話してくるからね・・・そういう世界なのかもしれないし、とてもじゃないけど、暇でなかったら遊んではいられないだろう。

しかも!

大抵は、奥さんに内緒で・・・というのが常套句らしい。あーあ・・・

そういうせこい話に比べると、筆頭株主になるというのはさっぱりしていて気持ちがいい。ニッポン放送がフジテレビの筆頭株主で、ライブドアがニッポン放送の筆頭株主なわけ? なんてややこしいのでしょう。それでも、ネットユーザとしては見もしないつまらないテレビ放送を流されるより、ライブ感覚でテレビを利用するほうが面白い。

テレビを観ながら、番組にアクセスし、買い物するとか? 電話だったら昔からよくあるけど、それがインターネットとなるとますます簡単。低コスト。いちいちポストへ投函したり、お金を振り込んだりする時代ではない。そういうのをスピーディに処理してくれたほうが楽。

それと少しは関連があるのかもしれないけど、このところのアメブロのサーバメンテって一体何をしているのだろう・・・もしかすると、密かに広告表示数をひたすら増やしているとか?(まさかね・・)

一気に利用者が増える一方で、近頃、元気のない作家ブログ。理由は、アメブロのトップページを眺めると何となくわかるかもしれない。もしわたしがプロのライターだとしたら、無償で提供される上位ランキングのブログのネタを眺めているほうが特定のライターが書いた雑誌よりも値打ちがあるような気がする今日この頃・・・なんせ、利用者数が違う。最初から金銭契約して書いているのならともかく無償ではやっていられないだろう。

しかも、書籍と違うのは、質問を書いておくと、不思議とリアクションがあったりすることで、一人一人の知識には限界があるけれども、インターネットは無限大。ブログだけ見ていてもわからないでしょ?もちろん・・・

テレビのコメンテーターという人たちがするコメントと、ネットをサーフィンして眺めるコメントと、どこにどういう遜色があるのか近頃ではまるでわからない。

それでいて、専門というのは専門として君臨しているわけで、どこが違うかといえば、それは皆一緒なのよね。例えば、メンヘル系のブログでどこかの書籍からパクッてきたようなネタが書かれているとするでしょ? でも、実際には入門書程度なんだと思う。だって、ブログだから・・・それでもアクセスする人たちがいるってすごいと思った。

結局、ディープな世界にはなりきれないけれども、ちょっとその辺の雑誌を買うつもりならネットで十分な気がする。

自分の場合、短歌は素人だから、その辺からライトにネタを拾って書ける。何も参考文献を集めているわけでもない。歌を詠むだけなら知識など要らない。それでいて、ネットだからとバカにしていると、とんでもないしっぺ返しもある。

それにしても・・・
なんで、短歌の話から次第に逸れていくのだろう・・・・そこがコミュニティなのかも。

投稿者 Blue Wind : 10:57 AM | コメント (0) | トラックバック

創作

短歌の基本は写実。
ということで、『創作短歌』というものをやらかそうと思って広辞苑を調べる。ところが、もうこの段階で躓いてしまった。

若山牧水の主宰していた詩歌集の名前が、『創作』だもの・・・

広辞苑によると、「創作」には3つの意味がある。

 ,呂犬瓩討弔ること。つくりはじめること。創造。
◆〃歃囘感興を文芸・絵画・音楽などの芸術作品として独創的に表現すること。また、その表現された作品。
 つくりごと。うそ。

どうしてこういうものをやらかそうと思ったかというと、missyouさんのところの影響。お題を選んでそこから詩や小説を創作していこうという試み。どうして日本人はこんなにお題が好きなのかわからないけれども、お題だけを扱ったサイトもあるらしく、そうやって言われれば以前ほかにも似たようなサイトを見たことがあるような気もするし、選んだお題をイメージして作歌してみようと思っただけ。

が、しかし・・・・

そうやってテーマを選ぶこと自体がどこか、つくりごとのような気がしてしまうし、それを小林信也さんみたいに短歌の形式を保ったまま小説と呼ぶことにもいささか抵抗のあるわたくしとしては、さらりと気分転換に流してしまおうと思っただけ。

題詠マラソンというのも遊びと言う人たちも多い。つまり、題詠というのがそもそも遊びのようなものなのかもしれないし、わたしとて、作歌の気分転換の一つとして去年は詠んでいたような記憶がある。

そりゃ毎日聖書と共に作歌を続けるというのは、実際にはどのようにお考えになるかわからないけれども、それなりに沈鬱な気分というものに満ちあふれながらネガティブな精神状態すら赤裸々に詠っていくわけで、それがすべて自分だと思われても、あまりにも濃厚すぎて、そのためにライトな世界が必要になっただけ。

詩だとつくりものでもよいのだろうか?

ってたまに思うことがある。どうしてそうやって感じるのかはともかく、詩は写実である必要性はないらしい。それは恋歌などにも共通するらしく、ネットで恋愛の短歌を詠んでいる人たちの中には、まるきり空想だけで詠んでいると平然と言ってのける人までいた。それが良いことなのか悪いことなのか、わたしにはわからない。でも、できればせめて恋の歌だからこそ真実を詠んでほしいとは常々思う。それでいて、あっさり語れば、世の中で一番嘘の通用する世界でもある・・・恋の歌。

佐藤春夫のように、赤裸々な詩でも悲しいものがあるけど。かといって、小説みたいにまるきり嘘だらけというのも情けないものがある。

一つ思ったんだけど、よく盗作とか著作権とかって言うでしょ? が、しかし・・・・「あ、これ、あたしが言ったことそのままパクッてるじゃないの?」というのはどうなんだろう・・・・

とは言うものの、誰かの言ったことを仮にサイトといえどもネタにするとするでしょ? そうするとほかの読者にはわからないけど、本人にはすぐわかると思うのよね。大したことではないけれども、手首がホッチキスだらけのネイビーの話とかさ。実話なんだけど、わたしは直接彼のことは知らない。潜水艦の中の様子とか、空気とか、自殺者の話とか、わたしの世界にはない世界。

でも、知らない誰かが話していることを誰かが勝手にネタにした場合はどうなんだろう?

そうやって考えると、最初にパブリッシャーした人の勝ちのような気もする。商売っていやらしいね、そうやって考えると。というか・・・なんて言ったらよいのだろう・・・怒りを通り越すと、諦めというか、このように自分の言葉で自分の世界をそのまま書けるということは素晴らしいという気がする今日この頃・・・

というわけで、歌人としては、単なる絵空事を創作と呼ぶわけにはいかないことに気づき、写実という制約があるからこそ、太陽にも月にも尾花にもコンクリにも並木にも風にも細心の注意を払う日常が与えられたのかもしれないと、太陽に向かっても、パソコンの画面に向かっても、独り言が続いて行く。

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February 09, 2005

【短歌】 陽の泪てらてらとした円の中ましろき太陽てらてらとあり

朝靄を抜けだした陽のまぶしけれ雲なき空の醒めた地球に
白い月浮んでいるのか白い陽は朝靄のなかくつきり見つむ
深き霧彷徨いながら歩くみち白き光の太陽の円
霧の中森さえ今は消え失せり白き光に包まれた朝
空さえも消えてしまつた白き陽を光と呼ぶか白き朝靄
うっすらと溶けゆくような朝靄に鋭利な角の色彩の街
太陽はなぜに円いか白き空鋭いものは人の街角
やんわりと信号さえも靄のなかふわふわとした横断歩道

手ざわりの少しかわつた聖書にはふるきカバーの面影はなく

列王記上 19. 6

さあ起きよこの世の旅は長いから一日の眠り陽は輝きぬ
すっきりと青い空には灰色の靄の名残のひろがる世界
少しだけ眠ったようなひねもすは雨のふる音聴こえもせずに
朝の道濡れた歩道にたたずめば不二家のペコが微笑んでいた
あの空にいつもあるのか太陽は白き世界に円は浮べり
くつきりと情けないほどくつきりと白い太陽たたずんでいた
あの空にいつもあるのか太陽はわたしの知らぬ朝靄の中
すぎゆけば明るい空にテンションのひろがりゆくかとけだしゆくか

哀歌 2. 1

哀しみはあっという間に広がって理屈の闇のおそるるままに
退廃に流れる闇は深深と刃物の光子にさしむける
闇の中寝ている悪魔驚けば獣みちかなゆく人らあり
さよならをゆつくり告げて目覚めれば憐れみの朝白き太陽
あの星は月ではないと幻は東の空に太陽浮べ
いたずらに嘆きの涙ながれては悪魔の瞳凶器の坩堝
愛のない明るい闇のおとづれはまつくらな空まつしろな陽に
太陽はゆつくりとして起き上がり靄消え失せり真昼の森に
退廃はジョークなんかじゃすまされぬ深き眠りの森はささやき
あの空は生きているよと太陽はくつきりとした朝靄の中
遠ざかる悪魔の笑みは朝靄のおとづれのなか濡れた舗道に
てらてらと輝く陽には明日のこと100mの白き朝靄

ヨハネによる福音書 19. 31-37

陽の泪てらてらとした円の中ましろき太陽てらてらとあり

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エレミヤ書 47. 6-7

  災いだ、主が剣を取られた。
  いつまで、お前は静かにならないのか。
  鞘に退き、鎮まって沈黙せよ。
  どうして、静かにできようか
  主が剣に命じて
  アシュケロンと海辺の地に向けて
      遣わされたからには。

投稿者 Blue Wind : 09:22 AM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 16. 19-31 金持ちとラザロ

  「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で原を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思いだしてみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

投稿者 Blue Wind : 09:19 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 100. 1-5

        賛歌。感謝のために。
  全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
  喜び祝い、主に仕え
  喜び歌って御前に進み出よ。
  知れ、主こそ神であると。
  主はわたしたちを造られた。
  わたしたちは主のもの、その民
  主に養われる羊の群れ。

  感謝の歌をうたって主の門に進み
  賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
  感謝をささげ、御名をたたえよ。
  主は恵み深く、慈しみはとこしえに
  主の真実は代々に及ぶ。

投稿者 Blue Wind : 09:07 AM | コメント (0) | トラックバック

ダニエル書 12. 1-4

  「その時、大天使長ミカエルが立つ。
  彼はお前の民の子らを守護する。
  その時まで、苦難が続く
  国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
  しかし、その時には救われるであろう
  お前の民、あの書に記された人々は。
  多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
  ある者は永遠の生命に入り
  ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
  目覚めた人々は大空の光のように輝き
  多くの者の救いとなった人々は
      とこしえに星と輝く。
  ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」

投稿者 Blue Wind : 09:02 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 119. 81-82

  わたしの魂は
      あなたの救いを求めて絶え入りそうです。
  あなたの御言葉を待ち望みます。
  わたしの目はあなたの仰せを待って衰えました。
  力づけてくださるのはいつか、と申します。

投稿者 Blue Wind : 08:57 AM | コメント (0) | トラックバック

歴代誌下 21. 1

ヨシャファトは先祖と共に眠りにつき、先祖と共にダビデの町に葬られた。その子ヨラムがヨシャファトに代わって王となった。

投稿者 Blue Wind : 08:55 AM | コメント (0) | トラックバック

白い太陽

昨日はよく眠ったなぁ・・・・あんなに寝たのは何年ぶりだろう。朝、娘を送り出しそのままダウン。午後、娘から学校へ迎えに来てほしいという電話が掛かってくるまで寝ていた。これだけでも昼寝しすぎなのに、その後、お絵かき教室をさぼった娘と外へ食べに行こうと話していたら、いきなり研究会をすっぽかしてダンナが帰ってきた。

買い物に行くのも面倒なのでありあわせのもので済ませ、9時頃までは起きていたような気がするけど、次に目が覚めたのは朝の4時半。ブログでも更新しようかと思ったら、サーバ・メンテの時間だった。

朝は気持ちがいい。

娘がいつまでも起きて来ない。結局、ダンナがさっき学校まで送って行った。わたしはその間、コンビニまで朝のお散歩。

すごい朝靄。

一瞬、白い月が出ていると思ったら、どうやらあれは朝陽。真っ白い太陽。それくらい強烈な朝靄。50mも離れてしまえば、建物や電柱の影が見えるだけ。その向こうはまるで視界が利かない。

そうさな・・・・週末になれば、嫌な事件のことも忘れられ、また次の事件が発生する。しかも、地球の裏側へ行ってしまえば、そこにはそこの世界の出来事。

わたしが寝ていても地球は回る。

白い太陽・・・月のよう。

朝の散歩は気持ちがいい。よく知った街が、空が、太陽が、まるで知らない顔をしてたたずんでいた。

投稿者 Blue Wind : 08:29 AM | コメント (0) | トラックバック

【返歌】 知らないうちに地球が回っていた日

まさたか殿

彼方へと逃げ出すように飛び立てば波止場のカモメ空は自由と
せこカモメ ポテトチップを奪い取り逃げ出す空はすぐそこなのに
雨の日のうっすらとした記憶かな熟睡の海夜明けは遅く

ぼんやりと一日くらい寝てたって地球は回る知らないうちに


週末まで寝て過ごすか・・・・(笑)

投稿者 Blue Wind : 05:32 AM | コメント (0) | トラックバック

February 08, 2005

正直、鬱を跳ね返すには睡眠しかないような気がする。こひつじちゃんあたりになるとまともだから、氏家容疑者みたいな人たちがいたら、福音を説いて〜ってなるんでしょうけど、わたくしはそういう気分の時にはひたすら眠るに限ると思ってしまう。

おかげで、今日はもしかすると一日中寝ているかもしれない。などと思っていたら、雨。暗い。一日がすでに終わってしまったかのよう。

9.11事件の直後でも、どういうわけかそれまで鬱だった人たちが元気になり、それと同時に鬱々し始めた社会。今回の安城市の事件にはそれくらいネガティブなパワーがある。

子どもの頃から借金地獄のような家庭で育ち、友達もいない、両親も相次いで亡くし、兄弟もバラバラ・・・刑務所から出ても行くあてもない。迎えに来てくれる人もいない。もっと言ってしまえば、悲しむ人も喜ぶ人もいないほど孤独な人生。

あれで、鬱にならなかったとしたら奇跡かもしれん。

だからといって、自分の不幸をばらまかれても困る。こーねー、なんと言ったらよいのでしょう・・・それなりに鬱々した人たちが多いのは認識しているけど、それでも誰か一人でも家族がいるとか、親身になってくれる友達がいるとか、それだけでも救われる気がする今日この頃・・・

わたしは子どもの頃から、とても孤独には強いほうだと思っていたけれども、あのような孤独を省みると、自分にはあんな孤独には耐えられそうになく、自分を家庭の中に引き止めているパワーがあるとすれば、ひたすら孤独への恐怖のような気がするわけです。

はみだしていくのは簡単なんだよね・・・今でも独身だったとしたら、わたしは東京で暮らし、研究やって、それだけでは食べていけそうになかったらカウンセラーにでもなり、日々日日鬱々したあっぱれな人たちの相手をし、不安を移され、それを捨てるためにどうせ毎日同じような人たちと酒を飲んで暮らしているのだろう。

そのうち、本当に救ってほしいのは自分だということに気がつく。しかも、そうなってからでは遅い。30歳を過ぎても独身で子どももいなかったら負け犬? 負け犬は負け犬でかまわないんだけど、次第に子どもを連れている人たちを疎ましく思い始め、自分は一体何をやっているんだと思いながらも使命感だけに支えられ、酒を飲む。

考えただけで鬱々してしまう。

はあ〜〜〜、決して軽やかではないけれども、決して軽やかな気分ではないけれども、よく眠れる・・・

でも、落ちるのならもう少し落ちないとすっきりしない。もう少し落ちると浮遊が始まる。でも、今、何かがわたしを引き止めていて、落ちきれない。

雨だから、いいか・・・

投稿者 Blue Wind : 05:29 PM | コメント (0) | トラックバック

February 07, 2005

【返歌】 生姜を入れすぎたか・・・

まさたか氏へ

不機嫌に揺れる陽もまた森の陰小春日和の宵は涼しく
灼熱に焼かれることもなかりせば大霜の白雲より白く
鍋の中すこし生姜をなげこめば眠さたちこめる長き夜は来
CDの音の途絶える長き夜は不吉な事件おもおもと観る

子どもの事件があると鬱々するのよね。今日は機嫌が悪いです(笑)。

投稿者 Blue Wind : 10:41 PM | コメント (0) | トラックバック

【返歌】 晴れのち曇る

枯渇する季節のなかであかるさもくらさも今はとまどうばかり
ふつふつといづくに裂ける空の雲乱れるような雨のふるまえ
ふつふつと泡立つようなひといきれ避けて通れる葉隠れの空


まさたかさまへ(なんでいっつも名前ちがうんだよ〜!)

灰色に沈んでゆくか街の色ほのぐらき空晴れのち曇る

投稿者 Blue Wind : 03:43 PM | コメント (0) | トラックバック

「僕は大きくなったら」

今日は、よいお天気。
カウンセラーになって刑務所に勤め、氏家容疑者みたいな人たちの相手しているより、聖書でも読んでいるほうがマシだろう・・・
こういう時に泣いているのは被害者の親や家族だけではなく、大抵は加害者の親や家族も死にそうな思いをしているはず。ところが、当の本人は何を考えているのかわからない。「ほら、母さん、僕は生まれてこないほうがよかったんだよ」とかね・・・わからん。「どうせ、自分なんか」とか、「死ね」とか、そういうことしか考えていないのではないかと思ってしまう。愛に飢えたる世界は壮絶。

考えるのやめよう。汚染されそうだ。

残酷なようだけど、ここでマーフィの法則。すごく簡単なことなのに、それがなかなかできない人間というもの。氏家容疑者クラスになると、あたまの中の人生が「死んだほうがよい」ってことなんだろう。誰にそういう風に思いこまされたのか、わたしにはそっちのほうがいやだわ・・・・考えるの。
子どもは普通に、親から大切にされて育ってほしい。万が一、親から大切にされているという気持ちになれなくても、神さまはあなたを愛している、ということを、こういう場合には語らなければならないらしい。

マーフィの法則というのは、シンプルなのよ・・・「自分の人生は自分の思い描いたとおりになる」っていうだけ。よいことを思えばよいことが起きるし、悪いことを思えば悪いことが起こる。潜在意識との語らい。

あっさり語ると、自分の潜在意識と正しくお話するためには、神さまとお話するようなもので、静かにならないとお話できません。一人でいる時間や就寝前が効果的なのかもしれないし、ふと我に返る瞬間とかね・・・与えられたものを素直に受ける気持ちがないとなかなか受け入れることができない潜在意識。

マーフィによると、潜在意識を活用するには6つの原則。

\簑个肪僂困しがってはいけない。 
言葉は肯定的にしなさい。 
つねに現在進行形で語ること。 
い茲ち杼をすること。 
シり返しなさい。 
Π貎余里埜譴蠅けなさい。

子どものように無邪気にね・・・「僕は大きくなったら」の世界。ややこしく考えない。無邪気になること。

*********


ほんで、今度は何だって・・・・
セーターを後ろ前に着てしまうのは、マーフィが悪いって?

違います。着る前にきちんと前後ろを確かめないあなたが悪いのです。


■関連書籍

著者: しまず こういち
タイトル: マーフィー 値千金の1分間―J.マーフィー名言集489

投稿者 Blue Wind : 03:16 PM | コメント (0) | トラックバック

保安官

kitchenさんのところでは、安城市の乳児殺傷事件について、警察の意義について語っていたけど、わたくし的には警察では足りないのは昔からわかっているお話で、欲しいのはむしろ保安官。仮釈放についての論議よりも、犯人がどういう境遇にいるかよりも、防犯のほうが遥かに重要課題。個人でボディガードと契約したり、警察官の数を増やしたり、というよりも、地域の安全を守るのは自警意識しかないような気がする。

おかげでこちらはただでさえ育児は大変だなぁ・・と思っているところに、今回のように赤ちゃんが殺されるみたいな嫌な事件が発生すると、要らないストレスが発生してしまうし、どこへ行くのも娘を送迎しなければならない。

それでもうちの近所はまだマシなのかもしれない。何かあれば誰か連絡くれるし・・・

例えば、小学校へ入ったばかりの頃、「まほちゃん、ココスの前を渡ってましたよ〜」という電話。

ランドセルを背負ったままで勝手に歩道を渡り、わが家とは反対方向。信号もない。
とりあえず何もなかったから「ごめんなさい・・」で終わったけど、せめて、信号機のあるところを渡れと思ってしまう。それ以前にランドセルを家に置いてから友達の家には遊びに行け、とかね・・・幼稚園の頃は家の前まで園バスが来てくれたから楽だったけど、小学校へ入ると基本的ルールから教えないとダメになる。

子どもばかりを叱っていてもダメなわけで、地域ぐるみで子どもの安全を確保しなければならない。その後、おちびが渡った歩道のところには、「学童多し」の看板が立てられた。子どもを犯罪から守るのは、おとなの目。

が、しかし・・・

一番困ったのは、「まほちゃん、知らない男の人と遊んでいるわよ〜、おなかの上にのっかったり・・」という電話。

この時には、ぶったまげて慌てて公園へ行った。

すると・・・たしかに、知らない人と遊んでいるんだけど、その人、赤ちゃんを遊ばせているついでに、おちびの相手をしてくれているだけで、正直、やばい印象はない。それでも心配なので、微笑みながら近づき、「どうも」と挨拶をして娘を迎えに来たフリをして帰って来た。

後でおちびに訊いたら、「キョーコちゃんのお父さん」って言っていた。その時、キョーコちゃんはいなかったけど、たぶんお父さんが一人で下の子を連れて公園で子守してたんだろう。でも、日頃見かけないから、わからない。最初からキョーコちゃんのお父さんだとわかっていたら、「いつもお世話になりまして」と挨拶していたと思う。

電話くれたほうも親切なんでしょうけど、まるで誘拐されかねない勢いで電話くれても困る・・・それでも知らん顔されるよりマシ・・・でも、子どもたちに訊いても、お母さんの顔は知っているけどお父さんの顔は知らないらしい。ならばなおさらわたしや電話をくれた人が知るはずもない。

危険な人とそうでない人をどうやって見分けたらよいのだろう。

ぴりぴりしてしまう。
都会だったら、なおさらかも・・・

********

神父さんのお言葉の中に、次のようなものがあります。

「創世記は、二つのことを明快に教えています。つまり、人間は、神によって生きる者とされたけれども、神からの独立を求めて神から離れてしまった、という事実です。
創世記が、人間の創造と罪の原点を描くのは、歴史的な事実として表現するためではなく、神と人間との関係の基本的な教えをはっきりと伝えるためです。」

その後、マタイの福音書では、イエスがさまざまな悪魔の誘惑に打ち勝ったという話。創世記において一人の人の罪によりすべての人間が罪とされ、イエス・キリストの罪への贖いよりわたしたちの罪は赦された。

ひらったく語ると、子どもを犯罪から守るのも正義感。人間が犯罪に陥らないためにも正義感。悪に打ち勝たなければならない。

わたしたちが求めているのは、犯罪に陥った人間がどういう人間であるかというより以前に、治安の回復と一人一人の正義感の達成。

こんなことを書いているより、保安官になれと言いたい(笑)。それと、原罪と贖い。わたしよか酷い聖書の読みかたしてる・・・あーあ。

140円への道のりは険しい・・・

投稿者 Blue Wind : 04:15 AM | コメント (0) | トラックバック

February 06, 2005

酸欠日記

正直な感想として、ダンナと娘がボウリングへ出かけて行ったその間に、洗濯機に働いてもらい、好きなサウンドを聴きながらブログを更新しているほうが、あくせくあくせく出版社を儲けさせるために働くよりも幸せな気がしている。

仮に歌集を企画出版したとしても、1冊につき入ってくる印税はせいぜい缶ジュース1,2本程度。とすると、最低でも毎月1000冊は売れてくれないと生活できない。通常、自費出版の歌集が500部くらいとすると、発行して10日で完売するくらいでないとプロの歌人としてはやっていけないことになる。ほんとか?

もういいや・・・・ってなるあたしは普通の人なんだと思う。

それでいて、わたしはボウリングへは行かない。あれをやると、しばらく指が震えてキーボードが打てなくなるから。普通の動作だったら平気なんだけど、ボウリングをして帰ってきて、キーボードを打とうとすると手がかじかんでしまって動かない。正直、わたしは打つのが速い、と思う。ほとんど話すスピードで打っている。変換がスムーズにいけば・・・

プロではないけれども、なんと言ったらよいのだろう・・・
要するに、歌人なんだよね・・・

昨日はとても快調で、娘のお絵かき教室の待ち時間にもカフェで歌を詠んでいた。朝から歌、外でも歌、それくらい詠んでいた。持って行った詩集の余白に、せっせと書き込む。結構、混んでいて、隣に人が座っていたりすると恥ずかしい。途中で止めようと思ったんだけど、浮んだら書いておかないと同じ歌には二度と出会えない。そうなったら、やけっぱちかも。

それに、仮に出版したとしても、わたしは自分のサイトに、「買ってください」とは書けない。宣伝はするかも。アメブロでさえ、プロフィール欄にハイパーリンクを貼っておける。(でも、正直な感想として、売るのは業者の仕事ではないか?こういうことをおおっぴらに書いてよいのかわからないけれども、あちこちの作家ブログを眺めるたびに、情けないなぁ・・って思うのである。なんかお仕事間違えているよな・・世の中、どうなっているんだろう・・)


森村桂さんはよかったなぁ・・・なつかしい。中学生の頃、よく読んでいた。

お父さんが作家で、すごく貧乏だったらしい。それでいて学習院へ通っていたから、その時代の話が面白おかしく書いてあった。一番印象に残っているのが、クッキーを焼くのに奮発してバターを使ったのに、友達に最初からマーガリンだと思われて、すごくショックだったという話。わたしにはわからないけれども、当時はきっとバターが高級品だったんだなと思った。

そして、ニューカレドニアの話。『天国にいちばん近い島』というタイトルだったと思う。映画にもなったのよね・・・たしか今でも旅行会社のパンフの宣伝に書いてあったりする。

今のわたしの感性では、その話はニューカレドニアというよりもタヒチやイースター島くらい遠い。いつかは行ってみたいけど、時間とお金に余裕があり、帰りの飛行機が飛ばなくて一週間滞在が延びても平気にならないとなかなか行けないところ。

今は昔になってしまったその話も、今でも潜在意識の中に眠っている気がする。自分を未知なる世界に駆り立てるようなパワーがあった。そのパワーの源は、よろこび。クッキーにマーガリンの学習院時代の生活から、いきなりニューカレドニア。目の前に広がる透明な青い海。不思議な人たちとの出会い。ストーリーは忘れてしまったけど、その中で森村さんがわたしたちに伝えたかったことがわたしにもはっきり伝わったのだと思う。

中学生の頃に読んだ小説。そういえば、結婚してお金がない頃でも旅行だけはしっかり行っていたなぁ・・・ほかのものは我慢できても、これだけは我慢できないことの一つかも。酸素欠乏的人生だから仕方がない。


それでは、本題。
1400円の本を売って140円の儲けにしかならないのなら、作家が直接140円で売ればいい。そのためにはどうしたらいいのか、誰か知っていたら教えてほしい。

⇒有料メルマガ。
⇒無料メルマガ、広告収入。

どれもこれもなぁ・・・
ダンナの小遣いを節約していたほうが効率的かも。

投稿者 Blue Wind : 11:44 AM | コメント (0) | トラックバック

February 05, 2005

招待状が届く・・

さっきポストを開けたら、「現代短歌新人賞表彰式案内状在中」と書かれた封書が入っていた。わたしのほうは、こういう賞があることも知らない。さいたま市が主催しているらしい。返信用の葉書と封書に通し番号が打たれているところを見ると招待状だ。一瞬、結婚式の案内状かと思った。

しかも、公募じゃないんだよね・・・基本的に昨年出版された第一歌集の中から170人の歌人によるアンケート調査で評判がよかったもの、選考委員の推薦するものの中から選考委員が話し合って決定するらしい。

通常の雑誌の賞金が20万円とすると、これって50万円だもの、公募だったら選考が一層大変になりそう。


第5回現代短歌新人賞
   河野 美砂子 『無言歌』 (砂子屋書房 平成16年8月20日)


河野さん、おめでとうございます。

それにしても、どうしてわたしのところに案内状が届いたのか、そちらのほうが不思議。出席しても、誰も知った人がいないと思う。歌人か。それとも・・・

投稿者 Blue Wind : 01:43 PM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 吹っ飛ぶ季節

AKIRAさまへ

アカデミア、ダビデ・パンツの喧騒が壊れた渦の源にあり
接着剤つかってうれし大地震おとづるるまで柄杓のかはり
サン・マルコ座れる人の鳩の群れ白き粉吹くブロンズの服


王李月@大哥さまへ

お題「Relation」

ふふみたる陽の光こそrelation天国までの片道切符
やわらかき陽の光こそrelation春がちかいとつよき風吹く
ちっぽけに砂粒つけてコンクリの石段あがるおさなき足裏


夏葉篤さまへ

熱湯をフロントガラス掛けたれば素直すぎると大霜逃げる
赤い屋根白く染めゆく大霜にわくらば揺れる八重桜みし

投稿者 Blue Wind : 10:37 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 希望って大地のように湧きいづる白き朝靄起きあがる草

その朝は笑いとともに過ぎてゆく突き進みゆくゲームサウンド
ゆっくりと離れていづる陽の光土曜の朝はウィークエンド
ピリオドをいつ打つのかと週末は始まりのよう終わりゆく今
サウンドがやたらうるさいテレビかな甘ったるすぎアニメサウンド
耳直しジェニファー・ロペス流れればドラムの音がスパイク踏んで
白い陽の時間になった今日もまた朝の9時来て鳩時計鳴く

ほらごらんここは平和な街だから雑踏のなか追われもせずに
苛立ちを地下鉄口に捨てゆかばまぶしき陽射しなお空しけれ
戦闘にお出かけするかビル・ブラスあなたの服は沈んだ闇踏む
颯爽といづこへゆくか退廃はみあげる雲もパステルカラー

サンダルをちょいとひっかけ成田まで田園風景うねりゆく道
シズラーズ成田の道に並んではつまらなすぎてコーラ・スタンド
退廃よベールを脱いでたたずめばつまらなすぎて笑っちゃうほど
ブルガリのアロマテラピーかなしけれ燕のような幽かな香り
香辛料並んだ横に紛れてる香水の瓶匂いを食みし

ルカによる福音書 16. 19-31 金持ちとラザロ

苦しみが待っているからがんばつてこの世に生きる。わかっちゃいるが。
遠まわり逃げ出すみちはわれのため苦きなみだは海の味する
さらわれて天国へゆく人等にぞ浮ぶ舟あれ沈みゆく島
希望ってそういうものか欲望よ煽り煽られ揺られるボート

おまぬけにイケメンセレブPCはぞっとするほどおもちゃのごとく
もうそこは誰もいないと箱の中眺めてみればみつむる哂い
希望って大地のように湧きいづる白き朝靄起きあがる草
ほのほのと朝の機嫌の悪ければ苛立つようなジェニファー・ロペス
鬱蒼と平和すぎては朝の陽は輝きを増す小春日和に

退廃よ鬱蒼とした人ごみは箱の中にぞ文字を書きたる

エレミヤ書 47. 6-7

投稿者 Blue Wind : 09:45 AM | コメント (0) | トラックバック

ノイズ

たまに思うんだけど、わたしはネットを含めて、こんなところで何をやっているんだろう、と。そこで神父さんのサイトへ行く。すると・・・本当の意味で信仰心をもっている人はそれだけでレアモノ、良いハンターだと書いてあったりする。

ガクッと来る。(←一瞬、顔文字をパクッてこようと思ったけど、やめた・・)

聖霊による洗礼か・・・
もしかすると、あれがそうだったのかもしれない。
それでいて、いまだに形式的にはクリスチャンではない。

その昔、こういうことがきっかけで修道院などに入ったりするのではないかと思ったけれども、わたしははっきり聴いていた・・・声なき声を・・・わたしは一番好きな人とは結婚できないらしい。当時は若すぎて、それを文字通り解釈したこともある。

が、しかし・・・・

マザーテレサのジーザスに対する濃厚な愛を知るにつれて、こういう場合、相手が人間だったら嫉妬に苦しむんだと思うけど、一貫して自分の場合はジーザスはいつまで経っても彼氏なんだよなぁ・・・と、他人にはわからないことを考えたりする。

信仰心がないわけではないらしい。でも、マザーの濃厚な愛とも違う。エピソディックに考えても、わたしは浮浪者のおじさんをジーザスだと思って、抱きしめたりはできません。それでいて、完璧に無視したり、石をぶつけるようなこともできません。それで、パンを置いて逃げ出す・・・

普通でしょ?

わたしのキャパからすれば、これが最低限度の普通さなのである。一番困るシチュエーションは、その時、誰かと一緒にいたとする。でも、その人が、浮浪者のおじさんを無視したり、知らん顔して通りすぎたとしたらどうだろう?ましてや石をぶつけたり、とか?
そういうことをする人が、わたしの知らない人ならマシだ。なんて酷いことをするのだろうと怒ればいい。ところが、その人がよく知っている人とか、友達や家族だったとしたらどうだろう?
わたしは、おそらくは他人には理解されない怒りに襲われ鬱地獄へ突入しそうになる。後になってから自分が激しい後悔に襲われることを知っているからだ。他人にとってはささやかな出来事なのだと思う。都会には夥しいほどの浮浪者がいる。今は知らないけれども、西新宿をどうやって歩けと言うのか、銀座から日比谷までの地下鉄の連絡通路をどうやって歩けと言うのか、それは一つの闇の光景。それでいて、通路の真ん中を友達と歩く。それもまた普通・・・

そういうことを重ねていると、デパートの中へ飛び込むことを覚える。そこには普通の生活がある。普通の人たちが買い物をしている。おそらくは何かを買って電車に乗って帰る人たちなのだろう。わたしとて、お金があるっていいなぁ・・と思ったりする。財布を持ち、買い物をする。そういうつまらなさの中に優越感が存在するほどつまらない地下鉄。

夥しい人たちが、そういう日常の中に埋没し、生きるってことや生活するってことが、財布を持つことだと勘違いするようになる。そして、経済への不満。

原点に戻って考えれば、わたしの普通さは、わたしの普通さであり、わたしの良心というものに突き動かされて存在している。ところがどうだろう・・・慌しい人たちの中に群れているうちに、そこには死に絶えたわたしが歩いているかのようだ。

だから、やめてほしい。地下鉄内でのつまらない布教活動。あんなところで、「悔い改めよ」などとバカなアナウンスを流している人たちを考えると、それだけで虚しくなる。

コヘレトの言葉・・・

  なんという空しさ
  なんという空しさ、すべては空しい。(1. 2)

あの時代の人たちの気持ちがわかる。

そして、空。

夥しいほどの退廃。

あーあ・・・・朝、テレビ、北朝鮮。国民。

はいはい、好きにやって。
なーんてね、朝だ。うるさい箱が鳴る。
ノイズノイズノイズ。
しまいにゃ、怒るよ・・・一生懸命つくってるんです、なんて言う人いたら。単なるノイズ。


あ、でもこれならゆるす・・・・(ネタ元: NINABLOG
愛の告白をされるなら、イケメンセレブ。イケメンセレブがいたら女性専用車両も空しい?


その朝は笑いとともに過ぎてゆく突き進みゆくゲームサウンド

投稿者 Blue Wind : 07:21 AM | コメント (0) | トラックバック

February 04, 2005

今年も参加します☆

さきほど、題詠マラソン2005に参加表明してきました。ランナーの受付は、今月一杯みたいです。100のお題を3月から10月の間に詠み、11月には感想会があります。参加者は出詠数に応じて、単行本のほうに歌を掲載してくれます。

去年は本名で参加したんですけど、今年は、『風マニア』の管理人、しらいし まさこで参加します。どこが違うというわけでもないんですけど、さっき会場のほうへ飛んだらいきなり金子まるやむさまの参加表明が目に入りまして、そのままふらふら〜っとアメブロのノリで参加です。

本当は、明日、参加表明しようと思っていたんですよね。2月5日は初詠み記念日というか・・・

去年は、たしか2月5日の時点で、167番目だったと思います。だけど、さっき行ってみたら、すでに軽く200人を上回っているみたいだし、今年は400人以上参加しそうな勢い。もっとだろうな・・・そのうち1000人、2000人・・・という具合に大イベントになるかも。


◇関連書籍

著者: 五十嵐 きよみ, 荻原 裕幸
タイトル: 短歌、WWW(ウェブ)を走る。―題詠マラソン2003

* 2003年、初回バージョン。わたしは参加していません・・

投稿者 Blue Wind : 04:37 PM | コメント (0) | トラックバック

ひっくりかえった街

わたしの世代って、ヘンなやつ、たくさんいた。
その代表が、アレフの上祐さんとか、多重人格の宮崎とか?
すべてがそういう人たちばかりではないよ、もちろん。でも、ヘン・・・

例えば、ジャズ親父は、親に恵比寿にマンション買ってもらって住んでいるのに、成田で火炎瓶を投げていたとか・・・軽くは、実家が裕福で、バイトなんかしなくてもいいと思うのに、朝から晩まで大学さぼってバイトしてはサーフィン三昧なんていうのは軽い部類だったと思う。

まともな人たちは、まともだから、なんて言ったらいいのかわからないけど、まともな選択をしながら生きていく。その一方で、フリーターというわけではないけれどもなんせ社会に職と金があるから、わざと大学を留年して遊んでいる人なんて朝飯前。

大卒の初任給が、外交官で8万円、商社で11万円くらいだったのかな・・・忘れた。証券会社へ勤めたらいきなり20代で年収1500万とかね・・・そういうのも当たり前。その一方で、安い初任給、値上がりする土地、一生家なんて買えない・買わないという人たちも多かった。

そのくせ、学生が億ションに住んでいたり・・・家賃を払うより買う。そうすれば卒業するまでには勝手に値上がりしていく。そういう時代。広尾にガーデンヒルズができたとき話題になった。でも、中は普通のマンションだと誰かが言っていた。

あの頃、誰がそういう社会がこっぱみじんこになるなんて想像していただろう・・・

それで・・・・なんとなく理解できた気がする。
わたしは、今の時代を知らない。

気がつけば、ここは公務員の街。しかも、多くが国家公務員らしい。家賃1万で官舎に住んでいたら、世の中のことなんて関係ないのかも。うちは公務員ではないから、そういうわけにはいかない。それでも、皆が一生懸命に商売をしている土地柄ではないから、そういう喧騒には程遠い。

昔、誰かが言っていたけど、経済の良い時代に研究者になろうなんていう連中は、それだけで変わり者らしい。つくばだったら農家のほうが桁違いに裕福だもの。いまだに常磐新線が通って、いきなり資産が46億円になってしまったとか騒いでいるし・・・そうなると、東京でサラリーマンしている子世帯が戻って来るとか来ないとか、親子でどんぱちしているらしい。

この街では、どう考えても研究者のほうが偉いような気がする。それでいて、金という点では研究者が一生働いてもかなわない植木屋・左官屋・土木の人たち。例外もたまにあるのかもしれないけど、めったにないと思う。それでいて地元の主な産業が研究所だったとしたら、やたらと高くなる学歴。兼業農家って言ってもなぁ・・・何かどこかが狂い始めている。

それでいて、資産が何億もあるだろうにゴミ収集車の運転をしているおじさん。税金のためらしい。よーわからんのよ・・・ここにいて、何かを考えようとすると、自分のほうがヘンになりそうで。

たまに思うんだけど、もしかするとよい意味で狂わされているのかもしれない・・・

しまいにはロケットだの気象観測台などのオブジェがその辺に転がっていたりすると、すべてがどうでもよくなる。高エネ研に勝手に入り込んで遊ぶ子どもたち。背筋を伸ばして自転車に乗る中国人研究者の奥さん。ペラペラペラペラ早口で日本語を語りだすアフリカ人研究者の奥さん。娘の最初の友達が、ナサトくん。NASAに研修に行っていた頃に生まれたかららしい。日本人より日本人的な台湾人の医者。日本人よりさらに日本人的なブラジル人。多くのオージーは語学学校の先生をしている。たまに思うんだけど・・・・なまってるよって。

なんでドラッグストアで、ヴィトンやプラダが売ってるわけ?(本物なんだよ・・それが) 1階が100円ショップで2階がブランド品の販売というのはやめてほしいと思うの。100円ショップの並びに接待でしか使わないような料亭をつくるのはやめてほしいの。繁華街じゃないんだから・・・
ピアノ教室の窓を隔てた隣がヤクザの事務所? もはや誰も興味を持たない発砲事件、コンビニ強盗。それでいてひっそり交差点にたたずむ安全坊や・・・

そのすべてが、人工的に造られた街の中に放り込まれている。人はペデ(遊歩道)を歩き、クルマは大通りを走る。誰も歩いていない歩道。コンベンション・センター(国際会議場)をつくるとなったら大騒ぎになる住宅地。パチンコ屋一軒でも入り込む隙がない。

わたしね・・・・この街が気に入っている、今。
だから、テレビがつまらない。
すごく平穏な街なんだよね・・・のんびりしていて。それでいて、何となく記述し出すと変な街。

投稿者 Blue Wind : 12:46 PM | コメント (0) | トラックバック

February 03, 2005

ツルゲーネフと節分

今日は節分なのに、すっかり忘れて豆がない。去年も翌日に安くなった豆を食べて終わった気がする。興味がないってそんなものなのかも。毎年、子どもが小さいからという理由で、義理でやっていたような気がする。

イスラム教の断食は麗しい。なんでそんなことをするのか不思議だったんだけど、要するに、自分が断食することにより、それを貧しい人たちのために施す。そういう精神のあらわれが断食らしい。

自分が食べることにより福を得、撒いて退治。節分。------世の中にはいろいろな慣習がある。


ところで、人間はどうやって狂気に立ち向かうのだろう?

この前、新井素子さんの小説のあらすじを読んだだけでさわさわさわ〜っとしてしまったわたしだけれど、実際問題、サイコホラーというのは人間の狂気の世界でしょ? このところ平穏に過ごしているために、急にそういうのをふられると悩む。

西武のツツミさんとか、ビンラディンとか、金がありすぎてもどこか狂気に満ちあふれているし、権力が人間を腐敗させるのかもしれないし、かといって金がないから犯罪や売春に走るというのも世の常らしいし、できればそういうものに汚染されたくないと思って生きるのが普通の人生だろう。

でも、普通の人間のさわさわさわ〜っとした狂気が存在しているのも事実だし、このところの日本社会の様子を観察すると、気が付かないうちに狂気やバイオレンスの匂いが充満しているのを感じたりする。だからこそ、治安の悪化を懸念する人たちが増加。

第一、戦争なんて、狂気そのものではないだろうか?

こういう狂気を打ち破るには、善しかないらしい。
悪には善を、愛をもって戦う。

が、しかし・・・・・

nattoさんのところでよく出て来る地域通貨のお話・・・・実際のところ、わたしは詳しいことは知らない。でも、チャリティやボランティアを賃金換算する感覚は、実はわたしは大嫌いなのである。(すんません、nattoさん)

そもそもご奉仕というのは、イスラム教で言うところの断食のようなもので、自分が何らかの報酬を得るためにするものではなく、むしろ愛他的行為。日頃、エゴイズムに満ちあふれながら暮らしているため、それから来る膿を少しでも軽減させることが狙い。とすると、そこに報酬が発生するとなると、本質的に何かが変化することになる。

例えば、この前イタリアを旅して何となく感じたのは、乞食という行為に悪びれたところの無さ。
駅前、歩道、教会の入り口、地下鉄、車内、彼らはいたるところに座っている。しかも、毎日同じ場所。
電車の中でもジプシーの演奏が始まる。
ジプシーでなくても、「現在、失業中です。しかも妹が病気で困っています。僕にお金をください。ありがとう」と書いた紙をいきなり車内で配り出し、その紙を回収しながら小銭を集めている青年もいた。
でも少しも悪びれた様子がない。渡すほうもあっさりしている。
路上に座っている足に障害を持つ男に道を尋ね、チップを渡している人もいた。
こんなに裕福な国なのになぁ・・・と、イタリアを眺める。でも、そういうことはあまりガイドブックには書かれていない。そのくせ、バリ島のミンタミンタ(乞食)の話はよく出て来る。不思議。

乞食とは違うけれども、昔、寄付を募っている人たちのためのサイトを見たことがある。「先月夫を亡くし、4月には子どもが生まれるのにお金がありません。善意を期待します」という内容の記事に対し、実際にいくらいくら集まったとか。「誰某さんから420ドル寄付がありました」みたいな感じで。
お金に困っている人たちがダイレクトに読者に訴える不幸自慢サイト。
何となくそういうサイトがあること自体が不思議な気がしたけど、それに対して実際に結構な金額の寄付者が現れるということも不思議だった。

文化差と言ってしまえばそれまでだけど、日本だったらお金ではなく仕事がほしいと言うのが普通なんだと思う。中には働けない事情のある人たちも多いにもかかわらず。働かざるもの食うべからずか?

互いに助け合うという感覚にも、何となく文化差が存在しているような・・・


********

ここで突然、ツルゲーネフの『乞食』。


  通りを歩いていると・・・・乞食に呼びとめられた。
  よぼよぼの老人である。
  赤くただれた、涙っぽい眼。青ざめた口びる。
  毛ばだったぼろきれ、うみくずれた傷ぐち。
  ・・・・・・・・
  おお、貧苦に虫ばみつくされた不仕合せな男。
  彼は赤くむくんだ、きたならしい手を、わたしにさしのべた。・・・・・うめくように、つぶやくように、お助けをと言う。
  わたしは、ポケットというポケットをさがしはじめた。・・・・・・財布もない、時計もない、ハンカチ一枚ない。・・・・・何ひとつ持って出なかったのだ。
  乞食は待っている。・・・・・さしのべたその手は、力なく揺れ、わなないている。
  途方にくれ、うろたえたわたしは、ぶるぶるふるえる汚い手を、しっかり握りしめた。・・・・・
  「わるく思わないでおくれ、兄弟。わたしは何も持っていないのだよ。」
  乞食は、ただれた眼で、じっと私を見た。青ざめたその口びるを、うす笑いがかすめた。------
  そして彼は、わたしの冷たくなった指を握りかえした。
  「結構ですとも、だんな」と、彼はささやいた。
  「それだけでも、ありがたいことです。------それもやはり、ほどこしですから。」
  わたしはさとった。わたしのほうでも、この兄弟からほどこしを受けたことを。(神西 清訳)

* 谷川俊太郎編 『<愛の詩集』より。

********


深いな・・・

まだ大学に入ったばかりの頃、わたしはその日、日比谷公園にいた。もしかすると高校生の頃かもしれない。ベンチに座って売店で買ったパンかスナックを食べようとしていたら、浮浪者がやってきて、近くのごみ箱を漁っている。

すごく逡巡したのを覚えている。

一番よいのは、差し出すこと。でも、出来なかった。怖い。目つきはどんよりとしているし、頭はぼさぼさ、上から下まで路上生活者。正直、傍に来られただけで怖かった。

迷った挙句、パンを・・・そうだ、パンだった・・・ごみ箱の中にそっと置いて、急いでその場を逃げ出した。その後のことは知らない。


それでね・・・・・初めてツルゲーネフのこの詩を読んだとき、チキン肌になった。

それでね・・・節分だからはっきり言うけど、この豆まきという悪しき慣習をやめたら、日本はもう少しまともな国になるかも。

投稿者 Blue Wind : 11:38 PM | コメント (0) | トラックバック

再び訪れるつもりなら自由な旅がいい

アメブロのトラ・ステへのトラバです。

お題: 「パックにするかバックパックにするか」

純粋な意味で、バックパッカーとは言えないかもしれないけど、わたしは個人旅行派。一部例外を除いて。

例外を先に挙げると、サイパンは、どうやってもパックでないと逆に高くてどうにもならなかった。グアム・サイパンの場合、仮に航空券がタダだとしても、ホテル代が高い。それを考えると、パックツアーに申し込んでも大抵は空港〜ホテル間の送迎だけであとはフリーなので、そういう意味では不満もないです。ならば安いほうがいいに決まってる。

それと、近頃では間際に予約するならパックの売れ残りが、その場で手続き完了なので楽です。特に、ハイ・シーズンは個人で予約しようとするとホテルに満室を言い渡されることが多いし、人気のあるホテルなんて特にそう。航空券でさえ買えない。それが不思議なことに、日程の1週間前くらいでもパック・ツアーだと予約ができてしまうという・・・しかも、ハイ・シーズンの場合、料金も個人で予約するよりも特別に高いというわけではないから不思議だ。

バリ島も2度目は間際予約。航空券が買えなかったので諦めていたら、どういうわけかパックならまだ予約できるという・・・ハワイもそういうことがあった。子どもが小さくて、オフ・シーズンに旅行に行けるのなら個人で手配するほうがいいに決まっているけど。しかも、コースを指定して、クレジットカードを提示すればその場で決定。物足りないくらい楽。

にもかかわらず、個人旅行派。ただし、子連れなので、あらかじめ日本で予約できるものは予約しておく。例えば、ヨーロッパの大都市やバリ島の場合、まずホテルが満室になるなんてことはないけど、今はネットで予約できるし、そのほうが現地で申し込むよりも安いし、確実。人気のあるホテルは予約しておかないと一杯になってしまう。が、しかし・・・オーバーブッキングされて、隣のホテルを案内されたこともあるけど・・・

でも、本音を語ると、子どもが一緒でなければバックパックのほうがいい。例えば、レンボンガン島へ行った時、ガイドブックにも載っていないバンガローを見つけた。一瞬、バリ島へ戻りたくなくなったけど、そういうわけにもいかない。

セストリ・レバンテ(リビエラ海岸)へ行った時も、あの界隈はいくらでもホテルがあるにもかかわらず、日本でゲットできる情報も予約も限られている。バックパッカーの流れに乗って、途中下車してその日の宿を決めるほうが楽かもしれない。

でも、予約するほうがよいこともある。ホテルが送迎してくれたり、自分の場所ができると言ったらヘンだけど、歴然としてそういう差はある。ビーチ・チェアーやレストランの席すらいつでも指定席。毎日、同じ人たちが隣に座っている。見知らぬ土地だからこそ、そういうことにささやかな安心感を感じたりする。そうやって毎年同じような人たちが同じ席に座るようになる。

一つわかっているのは、パック・ツアーで申し込むと2度とその土地へ行こうという気にはなれないということ。わたしの場合・・・

投稿者 Blue Wind : 11:52 AM | コメント (0) | トラックバック

つまらなすぎる質問に答える

世間知らずの特徴は、誰かに尋ねることを恥としないところである。世の中すべての人たちが自分の知らないことを知っている、と思い込んでいる。それがたとえ5歳の子どもであってもわたしにとっては未知の世界を知る存在。ありとあらゆる人たちがわたしの知らないことをたくさん知っている。

これに対して、苦労をなさっていると思い込んでいる人たちの特徴は、自分は誰にも理解されないことを知っていると頑なに思い込んでいるところにある。だから、彼らはいつも地面とお話をしたがる。その苦労を大地に描こうとする。血反吐を吐くという感覚で。

わたくしには常にそのどちらの面も存在しているとうぬぼれることが多々ある。そして常に恥と誹謗・中傷を浴び、ある時には誰かを傷つけたとかわけのわからないことを言われたり、親が死んでもざまあみろ。

たまに思うんだけど、どうせ話すのなら愚痴は空に向かって言うほうがいい。

下を向いて話せば、自分が言われる側になってしまう。上を向いて話せば、誰かが聞いてくれるような気がする。だから、お話するときには、常に相手が何でも知っていることを前提に話す。

********

作家のモトギさんのブログで、例の如くアンケートか? 

◎ 生活できる金と自由と、あなたはどちらが大切ですか?

なんてつまらない質問なのだろう・・・
「大切」なのは、自由に決まっているではないか。
言いたいことも言えないくらいなら何のために生きているかわからない。それとは別に、spiritual freedom なしに一人の人も生きてはいけない。精神は自由である。

高尚に語れば、マタイの福音書 10. 9-10 かも。イエスは十二人の使徒たちに汚れた霊に対する権能を与え、その際、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」と語っている。

これを普通の主婦にたとえてみよう。わたしは生まれてから賃金を得るための労働らしきものをほとんどしたことがない。だけど、働く者が食べ物を受けるのは当然である。とは言うものの、ラテーノだから働くのは好きではないけど。

つまり、すべてを賃金換算しようとするからおかしくなる。でも、働いたことがないとね、必要なときに必要なものがあれば生きていけることを知る。同じようなものを1万円で買うか500円で買うかの違いもあるわけだし・・・もっと言ってしまえば、「あ、それ要らないの?ありがとう〜♪」

金は使えば無くなるけど、精神の自由は消えない。どっちが大切かなんて・・・あーあ。


*********

質問変えるなよ・・・・モトギ・・・・・さん。

◎ 「マトモな生活ができる金がない生活」と、「マトモな自分を保てるだけの自由がない生活」とでは、あなたはどちらがツライですか?

マトモを定義できないあたし。どろっぷあうと。
日本と北朝鮮とどの程度違うのか、誰か知っていたら教えてほしい。
Si, si, si prego!!

----はみだしながら普通の生活を送るためにはどうしたらよいか?
普通に生きることである。
皆がやってるようなことをやり、精神は自由。そんだけ。

投稿者 Blue Wind : 01:29 AM | コメント (0) | トラックバック

February 02, 2005

今って昔なんだな・・

すごいな、ぐたさん。わたくしにはカズマさまより、あなたのほうがすごすぎる。

さっき、ランキングが表示され、ジャンル・ランキングへ飛ぶ。すると、トップがぐたさんの『読書感情文』。最初、気がつかなかったのよね。とりあえず、読者登録しているブログなので、更新情報が入れば飛ぶし・・・

さてはともあれ、おめでとうございます。

しかも、ぐたさんのところはアーカイブがプルダウン式だから、気がつかなかったけれども2003年10月からアメブロ・ユーザーをしているのか・・・そんな昔からアメブロがあるなんて、まるで知らなかった。きちんと無駄のないように整理された冷蔵庫の中を連想してしまう。うちの冷蔵庫のように賞味期限が切れないと捨てられないとばかりに要らないものが並んでいるのとは何となく感性が違う。主婦ってつまらないところから、つまらないことを連想してしまう。

昨日はネタ的には豊作だった。

常連化して何が面白いって、リアクションがあるところかもしれないし、ひや〜っとするような記事がアップされていたりするところかも。王さんのところは、新井素子さんの『ハッピー・バースディ』。はっきり言って、ブック・レビューと著者へのインタビューを読んで、それだけでさわさわ〜っとなってしまった。
新井素子さんって読んだことがない。SFやホラーは苦手。しかも、『ハッピー・バースディ』のストーリーが普通の主婦が主人公のサイコホラー。偶然の出会いにより人生が狂わされていく話らしい。それだけでもさわさわ〜ってしてしまうのに、新井素子さんの写真を見て、彼女に普通の主婦の話を書いてほしくないと思ってしまうわたし・・・キャラがすごい。
しかも、わたしと一緒で、一人の時間帯でないと書けないらしく、夜中に一人で登場人物になりきって書いている? あー怖い。

今ね・・・・ちまたにブスがいないと思わない?

なんで急にそんなことを思ったのかは、ご想像にお任せします。

ツボヤキさんのところも、読んでないようでちゃんと読んでいるわたし・・・このところ、年下の彼氏の話の映画が連続している。
昔、『エル』というタイトルのフランス映画を観ろと友達に言われてビデオを借りてきたことがある。息子の恋人が自分の親友だったら?と考えるべきか、大学教師と教え子の恋愛と考えるべきか、中年の濃い4人か5人くらいの女性がテーマの映画だったと思う。
でも、『エル』ならともかく、『マザー』? ここまでくると、近頃、高齢者の恋愛話もめずらしくなくなってきた日本のほうが視聴者がいるかもね、イギリスより。あっさり語ると、年取ってひとりぼっちになって息子にしがみついている親より、うちの叔母さんみたいに60歳を過ぎたら結婚しようかな、って言っているほうが子どもは楽らしい。でも、息子と娘は違うかもしれない。わからん・・・

それと、日本だと高齢者の恋愛は、恋愛そのものではなく、介護や財産のほうがネタ的に興味の対象になりそうなところが気持ち悪い。奥さんの権利ってものすごく強いし・・・例えば、わたしがこのように駄文を書いている間、うちのダンナさんは働いているわけ。それでいて、収入の半分はわたしのものだと主張する権利があるらしい。年金も払わなくてもいいし、貰うだけだし、ダンナに何かあっても遺族年金はあるらしいし、昔、それを個人で年金保険に加入した場合を計算したら、毎月の掛け金だけで家がもう一軒買えそうなことに気づき、慄いた。

ということは、近頃、結婚したがらない女性が多いらしいけど、それは実に不経済だからやめておいたほうがいいかもしれないとしか語れない。結局、関係性の問題なんだろうな・・・気遣いや生活への配慮、精神的な負担。老後の生き甲斐とか? 若いうちからそういうつまらないことを考えているからダメなのかも。

久しぶりにHotwired Japanへ飛んだら、スタイリストの高橋靖子さんのブログを発見。原宿のセントラル・アパートの話が書いてあって、つい読んでしまった。わたしがこちらへ来て、あの界隈を歩いたのはいつが最後だろう。わたしの記憶では、その時、青山から渋谷に向かい、無性につまらなさを感じたのを覚えている。マンションの空き部屋、空きテナント、ブティックがコンビニ。その後、知っている店の閉店の話題が相次ぎ、気がつけば、墓場のような街へは戻りたくなくなった。千葉一雄って言ってももしかすると今は誰も知らないかもしれないけど、あの界隈にいた人たちなら愛するいち先生のことを知っているかもしれない、と何となく思った。竹下通りのカキ氷屋さんとかさ・・・今は昔。

ノスタルジーって悪くないよね・・・

投稿者 Blue Wind : 12:58 PM | コメント (0) | トラックバック

シンプルな人たち

それにしても嫌な時代。人生にまで勝ったの負けただのうるさい。そもそもそうやってシンプルにスムーズに行かないところが人生の魅力であり、面白さだと思っていた。

はてはて・・・

でも、そういう複雑な発想をどこでゲットしたのか、わたしにはわからない。

昨日、母のいる病院へ行き、紙おむつや吸引手袋を売店で購入。その際、いつもだったら気にも留めない雑誌や文庫本のコーナーを見る。病院の売店だから、そんなにたくさんあるわけもなく、駅を使う生活をしていないせいか、病院の売店以外の売店を覗く機会なんてわたしの日常生活にはない。

びっくりしましたね・・・まるで知っている本がない・・・
かろうじて2,3冊くらいかなぁ・・・読んだことのある、あるいは彼方昔に読んだと思われる書籍。雑誌も病院のせいか医療関係が多く、ああなるとスーパーの雑誌スタンドのほうがまだマシ。雑誌のタイトルくらいは見たことがあるものが並んでいる。文庫となると、書籍名どころか著者名すらほとんど知らないものが並んでいた。

それではわが家は本のないさっぱりとした家庭なのだろうか?

いやはやいやはや、こんなものは捨ててしまえ、と思うような本や、どういうわけか同じガイドブックが2冊以上あったり、娘のために買った読みもしない絵本の類、趣味の本、それを越す専門書、小説、語学、近頃では短歌関係の本や雑誌、ネタになりそうな写真集、昔だったらどんなに乱雑であっても頭の中に索引を含めてライブラリーが存在していたのに、今ではそういうものすら役に立たない現物主義。どうにもならん。不経済とは思いながら、本置き場のために一部屋余分に必要。今は家のことを考えて、まとめて置かないようにしているために、ますます混乱している頭の中。本というのは物理的に邪魔にならないようにどこかへ積んでおけばよい。だけど、何がどこにあるのかさっぱりわからない近頃のわたし。

子どもの頃、大抵の少女マンガは読んでいた。週刊やら月刊、臨時増刊、あれにこれにと読んでいた。そのほかに学校の図書室の本はかたっぱしから読んでいた。仕方なく読む本がないと親に言ったら、買いたい放題に本屋で買った。それこそ理解のできない外国文学まで含めるとおそろしい。その中でどうしても読めなかったゲーテの『ファウスト』。好きだったランボー詩集。どうして好きだったのか覚えていない。

これに加えて、いわゆる学習書とかね・・・きりが無い。中学へ行けば、これに音楽や映画、ファッション系の雑誌が加わる。わたしの部屋はいつも乱雑で、規則正しかった。朝、わたしが学校へ行くと、お手伝いさんが来て、部屋中の本をベッドの上に載せる。掃除機をかけるため。わたしが帰宅すると、ベッドの上の本をまた足下に戻す。そのうち、積んでおけるところならどこへでもという具合に小さな飾り机があったのだけれど、いつのまにかそこも本置き場にされていた。

高校へ行くようになると、これらに加えて、受験用の参考書の数が夥しいほどになり、それだけでは飽き足らず、専門書を買ってきて読むようになった。とりあえず、進学したい学科があるのならそうするべきじゃない? ついでに西洋哲学史、西洋史。学校の授業より面白い生物学や化学の専門書。でも、多くが入門書。そのほかに政治・宗教、なんでもありいだった。要するに、受験勉強に飽きると読んでいた専門書。この反動で、大学へ入ってからは、推理小説や恋愛小説など短時間で読めるものに集中した。ぱっぱらぱっぱら読み捨てる。

大学院へ入ったら・・・・・やめておこう。インデックスになってしまう頭の中。

すべてを読むなんて不可能だから、本は常に目次から読み、アブストラクトから拾うようにする。そうしないと人生がいかに短いかを知ることになる。しかも、誰も教えてはくれないから・・・もはや、誰かが知っているとか、関連書籍や文献があると期待してはいけない。誰に訊いてもわからないことを前提に突き進んでいく。

不毛だ・・・

たまに思うのだけど、日本人は活字中毒者が多い。それでいて、彼らはどうやってそれをアウトプットしているのだろう? インプットされたものは出さなければ溜まってしまう。死に絶えていくだけの神経細胞。それでいてかなりのクセとバイアスを持ち樹状突起は伸びていくらしい。そうなると、もはやわたしはわたしに逆らえない。不毛な知識が干渉刺激としてわたしの未知なる知識の吸収や新たなる思考過程の形成を阻害する。もはやわたしはこれまでなのだろうか?

パタッ。

こうさぁ・・・・どうやったらそうやってシンプルな発想ができるのだろう? まるで人生をオン・オフで締め括っているかのようなシンプルな発想。こうやれば勝てる、これは負け。なんてシンプルなのだろう。こんな発想がまかりとおるのは、そういう構造にしてしまっているからだ、何かが・・・・その何かが何なのか、誰か知っていたら教えてほしい。

詩編 100. 1-5


* 活字の捨て方・・・・わっかるっかなー。

投稿者 Blue Wind : 02:17 AM | コメント (0) | トラックバック

February 01, 2005

選歌の目

昨日詠んだ短歌の記事のタイトルを変える。最初は、自分で選んで、

(1) 少しずつ氷のかたち崩れゆくそれが今さと夢みてみれば

にしていた。でも、今朝、Natさんのブログへ行ったら、

(2) とまりゆく時間のなかでわれの息死に絶えるまで今を重ねる

を選歌してくださっていた。

正直、(2)の歌は自分でも何気なく詠んだ歌で、詠んだことすら忘れていたような気がする。「とまりゆく時間」というのは、歌を詠んでいると、まるで時間が止まってしまったかのような気がすることがあり、それをそのまま素直に詠んだだけ。

日常・・・オトくんが膝の上で寝息を立てているとか、朝の陽射しがまぶしいとか、ゆっくりとした世界に埋没する。そういう瞬間、歌を詠んでいると、まるで世界が静止し、瞑想までは届かないけれども、少しずつ自分が消えてゆくのを感じたりする。

ふと気がつくと、氷が小さくなっている。ということは、物理的に時間は経過しているわけで、時間が止まっているなどということはありえない。でも、何気なく歌を詠んでいる瞬間、わたしにとってあたかも世界は静止し、時間すら止まっているかのよう。

日頃、読みにくいとか文句言われそうな歌配列の中で、よぉ〜っく歌が読めると逆に驚いてしまいます。大抵の人たちは通過してしまう。わたしはそれはそれでかまわないと思っている。

それにしてもすごいなぁ・・・逆に一本取られてしまった気がするしらいしでありました。まだまだ勉強が足りない・・・わたしは。


********************

・・・・・・と、ここまで書きながら、記事へのリンクのために再び来訪。するとコメント。主体性がないんですよね・・・わたしって。またタイトルを変えるか・・・悩む。
自分の歌は自分ではわからないです。

皆それぞれにいろいろ考えているのだなぁ・・・と、うすらぼんやり。

投稿者 Blue Wind : 10:22 AM | コメント (0) | トラックバック