February 05, 2005

ノイズ

たまに思うんだけど、わたしはネットを含めて、こんなところで何をやっているんだろう、と。そこで神父さんのサイトへ行く。すると・・・本当の意味で信仰心をもっている人はそれだけでレアモノ、良いハンターだと書いてあったりする。

ガクッと来る。(←一瞬、顔文字をパクッてこようと思ったけど、やめた・・)

聖霊による洗礼か・・・
もしかすると、あれがそうだったのかもしれない。
それでいて、いまだに形式的にはクリスチャンではない。

その昔、こういうことがきっかけで修道院などに入ったりするのではないかと思ったけれども、わたしははっきり聴いていた・・・声なき声を・・・わたしは一番好きな人とは結婚できないらしい。当時は若すぎて、それを文字通り解釈したこともある。

が、しかし・・・・

マザーテレサのジーザスに対する濃厚な愛を知るにつれて、こういう場合、相手が人間だったら嫉妬に苦しむんだと思うけど、一貫して自分の場合はジーザスはいつまで経っても彼氏なんだよなぁ・・・と、他人にはわからないことを考えたりする。

信仰心がないわけではないらしい。でも、マザーの濃厚な愛とも違う。エピソディックに考えても、わたしは浮浪者のおじさんをジーザスだと思って、抱きしめたりはできません。それでいて、完璧に無視したり、石をぶつけるようなこともできません。それで、パンを置いて逃げ出す・・・

普通でしょ?

わたしのキャパからすれば、これが最低限度の普通さなのである。一番困るシチュエーションは、その時、誰かと一緒にいたとする。でも、その人が、浮浪者のおじさんを無視したり、知らん顔して通りすぎたとしたらどうだろう?ましてや石をぶつけたり、とか?
そういうことをする人が、わたしの知らない人ならマシだ。なんて酷いことをするのだろうと怒ればいい。ところが、その人がよく知っている人とか、友達や家族だったとしたらどうだろう?
わたしは、おそらくは他人には理解されない怒りに襲われ鬱地獄へ突入しそうになる。後になってから自分が激しい後悔に襲われることを知っているからだ。他人にとってはささやかな出来事なのだと思う。都会には夥しいほどの浮浪者がいる。今は知らないけれども、西新宿をどうやって歩けと言うのか、銀座から日比谷までの地下鉄の連絡通路をどうやって歩けと言うのか、それは一つの闇の光景。それでいて、通路の真ん中を友達と歩く。それもまた普通・・・

そういうことを重ねていると、デパートの中へ飛び込むことを覚える。そこには普通の生活がある。普通の人たちが買い物をしている。おそらくは何かを買って電車に乗って帰る人たちなのだろう。わたしとて、お金があるっていいなぁ・・と思ったりする。財布を持ち、買い物をする。そういうつまらなさの中に優越感が存在するほどつまらない地下鉄。

夥しい人たちが、そういう日常の中に埋没し、生きるってことや生活するってことが、財布を持つことだと勘違いするようになる。そして、経済への不満。

原点に戻って考えれば、わたしの普通さは、わたしの普通さであり、わたしの良心というものに突き動かされて存在している。ところがどうだろう・・・慌しい人たちの中に群れているうちに、そこには死に絶えたわたしが歩いているかのようだ。

だから、やめてほしい。地下鉄内でのつまらない布教活動。あんなところで、「悔い改めよ」などとバカなアナウンスを流している人たちを考えると、それだけで虚しくなる。

コヘレトの言葉・・・

  なんという空しさ
  なんという空しさ、すべては空しい。(1. 2)

あの時代の人たちの気持ちがわかる。

そして、空。

夥しいほどの退廃。

あーあ・・・・朝、テレビ、北朝鮮。国民。

はいはい、好きにやって。
なーんてね、朝だ。うるさい箱が鳴る。
ノイズノイズノイズ。
しまいにゃ、怒るよ・・・一生懸命つくってるんです、なんて言う人いたら。単なるノイズ。


あ、でもこれならゆるす・・・・(ネタ元: NINABLOG
愛の告白をされるなら、イケメンセレブ。イケメンセレブがいたら女性専用車両も空しい?


その朝は笑いとともに過ぎてゆく突き進みゆくゲームサウンド

投稿者 Blue Wind : February 5, 2005 07:21 AM | トラックバック
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