うたを詠んでいて、一番しあわせな瞬間は、Solitudo with God。
この言葉を日本語にするとき、わたしは、「神さまとふたり」と言っている。直訳すると、「神と一緒の孤独」という意味だけど、そうなるとまるでニュアンスが違いすぎる。インマニュエル(神と共にいます)というほうがよいのだろうか。
たまに思うのだけれど、わたしは教会にいるときより、バリ島の大きな夕陽を眺めている瞬間や、バンブー島の雲の形だけが時を知らせるような感覚に埋没しているときのほうが、遥かに近くに神さまを感じる。
イタリア巡礼を終え、いろいろな教会があることも知る。今は閉ざされている教会へも行った。大きな教会、小さな教会、鐘の音・・・てくてく歩いてきた。
地中海の白い落陽・・・
鏡に白い光線が反射するように、太陽までの道ができる。
そういう瞬間、わたしはすべてがどうでもよくなる。
人間は、この世に生まれた瞬間から、死へ向かって生き続けなければならない。大抵の占いでは、死は、大凶なのだそう。そこが宗教とは違うらしい。
つまりは、この世に生まれた時から、死の支配下へ入ってしまう。そこで初めて、いのちを知る。不老不死で、永遠のいのちを持っている人たちがいるとすれば、彼らは死を知らない。死を知らないということはいのちを知らない。
わたしたちは、死の恐怖を知ることにより、いのちを知る。
それでいて、死の恐怖に怯えながら生きることは、耐え難い苦痛。自分が死ぬだけではなく、いつかは誰でも死ぬわけだから、それこそ大切な誰かを失った悲しみは誰にでも襲いかかる不幸。
ところが、どうだろう・・・
実際に、誰かの臨終に立ち会った人たちなら気がつくかもしれないけど、死への旅立ちは人間にやすらかな癒しを与えているがごとく、ハッピーな顔をしている。しかも、赤ちゃんは泣くことによりこの世で息を開始する。
この例えは、小平正寿神父さまの『イタリアアシジからの伝言―聖フランシスコとともに歩く』からの引用。
永遠の命・・・
イエス・キリストの復活。
十字架の栄光。
彼は、人間を死から解放するためにやってきたらしい。
わたしに問う人たちは、すでにわたしが問う質問しかしない。ということは、古今東西、同じことを人間は問うことにより、生きてきたのかもしれないと思うほど。
昨年、神父さんのサイトで、うたを詠み、聖書を開くという作業をしていた。そのうち、それが神さまからのメッセのような気がしてくる。しばらくひとりでも続けていた。
今はやめている。その理由は、こうである。
つまり、わたしの質問や嘆きや愚痴に対して、神さまはメッセを贈り続けてくださったのだから、次にはわたしが神さまの問いに答えなければならないらしい。
聖書を読み、そこからインスパイアされたことを言の葉にしたり、うたにしたり・・・わたしは、自分が宗教の人ではないために、そのようなことをしてもよいのか、ずっとためらっていた。聖書に詳しい人たちはたくさんいらっしゃるし、わたしよりも信仰心の厚い人たちもたくさんいらっしゃるでしょうし、第一、わたしはいまだに洗礼も受けていない。
そういうことに対するためらい傷はたくさんある。わたしの中の毒もたくさんある。
そういうとき、Solitude with God。
神さまとふたり。
寡黙であること、孤独であること、そして神さまとふたり。
その瞬間、陽射しがとてもまばゆく、空がやけに青いことに気がついたりする。
それが、どんなにかしあわせな瞬間か・・・
わたしは、それが Solitude with God だと気づくのに、8000首以上のうたを必要としていたへぼ歌人。先は長い。
投稿者 Blue Wind : March 8, 2005 11:14 AM | トラックバック