April 23, 2005

言葉のない対話

柔道の谷 亮子がフランスで挙式し、彼女がクリスチャンなのかどうかわたしは知らないけれども、柔道の世界チャンピオンがクリスチャンでも驚くに値しない。

日本社会という制約の中にいると、文化として宗教を受け止めている人たちが多いことに気づく。スピリチュアルな世界においては、一切の制約は虚しい。わたしは日本人で、案外、日本人としてのプライドも高いし、愛国心もそれなりにあるかもしれない。それでいて、わたしはクリスチャン。日本の文化を否定することは自分や祖先を否定することであり、わたしにはそういう気持ちはない。

仮にわたしが生まれる時代が違って、丸髷を結っていたとしても、十二単を着ていたとしても、わたしはクリスチャン。精神は自由。天皇制を否定するわけでもないし、神道や仏教を否定しているわけでもない。ただ、神は人間よりも高いところにおり、唯一の存在であるとスピリチュアルに感じているだけ。つまり、天皇よりも、教皇よりも、大統領よりも、あらゆる世俗の権力を凌駕して絶対的存在としての神を思う。

それは思想という生やさしいものではなく、いわばスピリチュアルな世界の領域であり、理屈を凌駕して存在している。だから、それを言葉で表そうとすると、わたしのつたなさでは語りつくせないというだけのことであり、言葉を虚しく感じたとき、それをアウトプットするのに適していたのが詩の世界なのかもしれないし、どうしてそれが短歌という定型詩の世界なのか、わたしに分かるわけがない。

ただ、短歌という定型の狭い世界において、精神は自由ではないかと感ずることが、わたしには自分の置かれた何かをそれにより一層感じ入っているにすぎないように思うことがある。枠組みがあり、わたしはある種の制約の中に生きている。でも、精神は自由。

わたしの生きている世界や、物理的に存在している自分という存在とそれを取りまく環境とを考えた場合、そのどこに神がいらっしゃるのか懐疑的かもしれない。それでいて、それらのものを凌駕し、ひたすらスピリチュアルな自分を感じたとき、わたしはそこに神の存在を強く感じてしまう。

果たして、わたしはそれをどうやって伝えたらよいのだろう?

わたしに何ができるだろう?

無力。

いささか手続きに基づき、実験結果を述べるように語れたらどんなにかすっきりするだろう。理路整然と語る。わたしが少し『精神の自由』について書き始めたばかりの頃、そういうことを試みていたことがある。でも、それはもはや過去のことであり、真理に近づくにつれ、それが酷く虚しく、この「真理」という日本語ですらわたしには何やら汚染された言葉のようで使うのが嫌いである。何かほかに適切な表現がないものかどうか思索することもある。

それでいて、わたしにはその手の適切な表現を考える能力が欠如しており、共通の用語として存在しているものをどうこう語っても意味がない。誰かが勝手に歪曲し、使っていたとしても。

そういうもどかしさすら、ある瞬間消えてしまう。

混沌とした世界から光が出ように。

すべての思考と感情が停止したような真っ白な瞬間。

静かな愛。

言葉のない対話。

イザヤ書 30. 18-26 救いのとき

投稿者 Blue Wind : April 23, 2005 12:40 PM | トラックバック
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