April 11, 2005

作歌のために

アマゾンで本を注文した。
実は、これが初めて。
理由は簡単・・・
古書でないと手に入らないから。

一昨日の晩、近所の本屋で馬場あき子さんの『短歌その形と心』を買ってきた。まだ第一章しか読んでいない。だって本屋の袋から出したのが、ついさっきなのですもの。買い物の途中で本屋へ寄り、そのまま忘れていた。(一晩眠っていたわけである・・その本は。)

近頃のわたしは、どうも変だ。

作歌に身が入らなくなったのも、さっき気がついたんだけど、ちょうどアメブロのリニュの直前に、アップしようとしていた歌が消えるという事故があり、それが原因らしい。しかもそれは紛れもなく自分の責任なのである。画像フォルダを消そうと思っただけなのに間違えて編集のページを消してしまった。しかもそういう時に限って、記事のコピペもしていない。

そう、その時、わたしはとても気分よく詠んでいて、気分よく画像を選んでいた。

それが、一気にパア。

それはどうでもいい。

問題はそこから先で、わたしは消えてしまった歌を思い出そうとして、どうにか再び詠み始めた。それでいて、どれもこれも指先に力が入らないかのように、違う。うまく説明できないけど、何かどこかが違う。

今までも、似たような歌をいくつも詠んでいる。

それでいて、そのどれもが違う歌。どうして違う歌だと分かるかと言えば、CGIを使っているから。二重投稿を禁止しているため。

ウェブで詠んだ歌はすべて記録してカウントしている。

それはとっても便利な機能だと思っていた。

それでいて、歌を消してしまったことにより、わたしは軸が狂ったように言葉を捉えられない。どこが違うと言われても困る。何かどこかが違うとしか語れない。こういうのは鋭利な刃物のような感覚で、鋭利な時間の中で生みだされるか否かにより、何かどこかが違ってしまうことはよくある。

それが、しばらく続いていた。

そこで、本屋へ行った。

近所の本屋に置いてあるのはほとんどが入門書で、ちらほら歌集が混じる。俳句のほうが種類が多いのが特徴。そうやって考えると、俳句のほうが人気があるのかもしれない。だけど、わたしは短歌のほうが好きだ。どこが違うかと言えば、形なのかもしれない。もしかすると、若干、心も違うのかもしれない。わたしには俳句の心得はないものだから、その違いが掴めない。

短歌の形式というものは、すらすら出て来たものであって、わたしはそのフォルムが単純明快なくらい好き。575では物足りないのである。

入門書には、馬場さんの少女時代の歌やいわば青春時代の歌の話が書かれている。育った時代、育った気持ち、何を感じ、何を詠みたかったのか、歌に添えて書かれている。第一章を、わたしはあっという間に読み切った。それは目で文字を追うという感覚ではなく、むしろ目の前で馬場さんがお話されているのを一言も聞き漏らさないように覚えておこうという気持ちに似ている。

本なのだから、いつでも読めるし、聞き漏らすという発想はおかしい。それでいて、それはさらさらとお話を伺っているかのようで、わたしはメモを取りながら授業を聞いている学生の気分に浸ってしまった。つまりは、それくらい馬場さんの入門書にはわたしの知りたいことが書かれており、ある程度自分が作歌を続けてきて、その上での共鳴共感がたくさんあることに気がついた。

それで、馬場さんの歌集を含めて、葛原妙子さんとか釈超空、斉藤茂吉、というラインで歌集を探す。古い歌集はすでに手に入らないものもある。そこで古書を検索し、かろうじて見つける。

本というのは出版社に在庫があるというのが当たり前だと思っていた。でも、歌集の場合は仕方がないのかもしれない。それでいて、近頃の出版状況を考えると、出版社は在庫を置きたがらないらしく、オンデマンドでもない限り、すぐに幻の出版物になってしまう。著作権というものがあるために、没後50年は著作権が存続し、すぐに再販されるということも考えられない状況を考えると、舞い散る言の葉というのはウェブだけではなく、活字のほうがもっとがんじがらめ・・・

第一章: 少女時代の歌、青春時代の歌、教師時代の歌、そして馬場あき子さんが第一歌集を出すまで。短歌とともに能の世界がある。一貫して歌人としての目がある。不思議なことに、わたしは馬場さんの言葉を読んでいるうちに、情景が広がり始めた。おそらくはささやかな言葉の選択の中に、そういう情景を思い起こさせるものがあるのかもしれない。さらに、57577の世界はもっと短く、一つの言葉で歌が生きたり死んだりする。

一つの言葉で歌が生きたり死んだりする!?

もはや、詩の世界というのはそういうものであり、さらに短い日本の詩。わたしには、その一言がないために死んでいる歌があまりにも多すぎる。分かってはいる。分かってはいるけれども、わたしは生きるとか死ぬとか言う前に2万首を詠む。どうしてそうなのかは、実は明確な理由はない。ただ、そうしないとわたしには歌人としての魂が未熟なままで終わってしまいそうな気がするからとしか語れない。

わたしは最初から歌人だったわけではなく、ある日突然歌人になってしまったために、いまだに自分が歌人であるという自覚が薄く、脳がそれを拒む。それでいて、そうやって頑なになってしまった自分というものを、もっと原初の世界へ向かわせるのが短歌であり、どうしてそうなのか、まるで懐かしい世界の出来事を思い出せないままに語らなければならないようなまどろこしさがあるため、とにかくその靄を打ち破るために、わたしは域値を2万首に設定している。

それだけ詠んでいると、まるで気が乗らない時でも詠むし、無意識のうちに歌が浮ぶこともあるし、楽しくて仕方がない時もあるし、お天気のようにその日によって歌が変化することに気がつく。

気分よく没頭したいものである・・・せめて、作歌の時間くらいは自分というものに。

投稿者 Blue Wind : April 11, 2005 03:18 AM | トラックバック
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