June 23, 2009

『パウロ−伝道のオデッセー』 ルナン著




パウロ―伝道のオディッセー/エルネスト ルナン


病気になっても次から次へと仕事は溜まっていくし、やらなければならないことも発生するし、それでいてフラフラするものだから少しも片付かない。ちょっと動くと疲れるし・・・入梅も手伝って、倦怠感が続いている。

ルナンの『パウロ』を読み終える。わたしが生まれる100年くらい前に書かれた本とは思えないほど面白かった。翻訳本なので読みやすいのかもしれないけど。

この本は、かなり物議をかもした人物によって書かれたものらしい。大学でヘブライ語を教えていた頃、イエズスを「比類なき人間」と言ったため停職になっている。フランス育ちのケルト人で、自らも聖職を志したこともあるのだから本当は信仰心の篤い人なのだろうけど、カトリックについてはボロカスに言っている。でも、面白い。

カトリックの教育を受けて一番役に立っているのは、何を言われても柔和にしていられることかも。これは仕事をする上で役に立つ。いろいろクレームがあったとしても柔和にしていることにより、自然と和らぐことが多い。それでは本当は怒っていないかといえばそういうわけではないらしく、たまにスコールのように爆発するが、あまり長続きしない。

初期のキリスト教の律法についての確執はあまりにも幼稚な気がする。そういうことで暴動になったり殺し合いになったりするのだと思うと、恐ろしくはなるが、親が子どもに決まりごとを言うのは当たり前のことだ。あーしなさい、こーしなさい、あれをやっちゃいけない、とか。何のためにかと言えば、子どもを危険から守るため。それと同時に、子どもの公園デビューを考えると、モノの取り合い、ケンカ、じゃれあい、年中騒動が絶えないし、どんな立派な人になろうとも、誰でも子どもの頃はそんなものだ。

そうやって考えると、16世紀の宗教改革などはまさしく思春期の反抗期の若者という感じ。人類も少しは成長したのかもしれない。

本を読んでいると、やたらと神学という言葉が出てくるけれども、もともとそういうことに興味があったわけではないし、何世紀に誰が何を言おうと、今の時代に誰が何を言おうと、それはその人の勝手。所詮はイマジネーションの産物という気がしてしまう。

わがジーザスが神か人か・・・

死んで神になったと考えるほうが仏教的な発想かも。正確には、神の右に座した、と言うべきか。そして、聖霊となりわたしたちと共にいる。

わたしは仏教の家庭に育ったせいか、すんなりそういうことを抵抗なく受け入れてしまう。逆に、復活してからだを持ち、魚を食べていたというほうが理解しにくい。

パウロが生前どんな人だったのかはともかく亡くなったら聖パウロとなり、神の啓示を受けて布教したという話も、アシジの聖フランチェスコの出家した修行僧のような生活も、東洋ではめずらしくも何ともないような気がする。

日本でも、高僧という人たちがいて、それぞれに始祖となり宗派がある。元は一つなんでしょうけど、ローマ・カトリックみたいに統一した教会組織はない。それでも何も困っていないみたいだけど・・・

どうでもいいんだよね・・・くま先生は若い頃にキリストの教えに感銘を受けて、聖公会で受洗したらしいけど、わたしはパウロの手紙を読んで、あまりにも古臭くてグワッとなった記憶がある。実際、古いんだけど・・・ 要するに、教えに感銘を受けて信仰心を持つ、というわけでもなさそうだ、少なくてもわたしの場合。いまだに教義を理解していないような気もするし・・・

終わりの日がいつ来るかもわからないのに煉獄でどれくらい待つんだろうとこの前のお婆さんに言われて以来、救いのことも考えないようにしているし・・・

要するに、愛と言うからわかりにくいわけで、パウロの手紙の愛という言葉をイエズス・キリストに置き換えたらわかりやすいかも。愛=イエズス・キリスト。だから、ほかの宗教には愛はない。イエスがいないから。どんな善いことをしても愛がないければ無に等しい。というのは、イエスがいなければ無に等しい、という気持ちかもしれない。どんなに素晴らしい教えでも、イエスがいなかったらつまらない。それが本音に近い。(いや、それがホンネだ。)

(マタイ 23. 1-22)

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June 02, 2009

『ナザレのイエス』

聖霊降臨の主日・・・・教会の誕生日。

なぜかすごく感動した。

入信のときも、受洗のときも、ぼーっとしていただけだが、神父さんに、「今日は教会のお誕生日です」と言われたとき、なぜかすごく感動した。聖霊がやってきたとき、教会が生まれた。教会が生まれたということに感動したのだろうか。あるいは、教会とは生まれるものなのだ、ということを知り、もはやあることが当たり前だと思っていたことが、実は、祖父母や親にも子どもの頃があったのだということを子どもの頃に初めて知ったときのような感動を覚えたのかもしれない。

プロテスタント系の書籍を途中で読むのをやめて、今、ベネディクト16世の「ナザレのイエス」を読んでいる。これもすごく面白い本。


ナザレのイエス/教皇ベネディクト16世ヨゼフラツィンガー






ややこしいことは抜きにして、ものすごくわかりやすい。山上の説教や主の祈りなど、何回読んでも言っても、本当の意味はわたしにはわからない。わからないけれども、教えられて、そのまま覚えている。でも、考えてみれば、わたしのような無知な人が尋ねるのならともかく、イエズスの弟子たちが、イエズスに、どうやって祈ってよいのか尋ねるのは不思議なこと。ユダヤ人は子どもの頃から会堂へ行き、宗教どっぷりの生活をしているのだから、今さら尋ねるのは不思議なのである。

聖書を解釈を読みながらやっと読み終えて、この本を読み、実は何もわかっていないことに気づかされる。

ほかにイエズスについて書かれた本はたくさんあるけれども、どれもあまり共感しない。ただ、知識として、ユダヤのことについて少し知る、というだけのことで、それがわかったからといって聖書がわかるわけでもないことを知る。そしてあらためてこの本を読み、わたしたちはイエズスについて実は何もわからない、ということを前提に、イエズスのことを考えると、イエズスの神秘と単純さに驚かされる。


単純さに驚かされる・・・

イエズスは少しも嘘を言っていない。

「父から聞いたことをそのまま言っている」のであって、自分のことを話しているわけではない。

そうすると、無理なんだな・・・

行ったこともない、見たこともないところを誰かに訊いても、わたしがそれを理解するのは不可能だし、逆に、日本のことを知らない人たちに日本のことを説明しようとしても不可能。だから、わたしがみことばを理解できないとしても当たり前だというのは言いすぎだろうか。

でも、面白いから・・・

ガラス越しでは、何が言いたいのか聞こえない。

おそらくは、わたしはガラス越しでイエズスの話を聞いているのであり、そのガラスはわたし自身の心の壁なのかもしれない。

現存する神・・・

つまり、神さまは生きている。

でも、神さまが生きていることを認めてしまうと、なんだか自分が死んでいるような気がしてしまう。ややこしい壁。

(イザヤ 36. 17)

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August 11, 2007

『沈黙』 遠藤周作著

この本を読んだ後に、ドラマ『はだしのゲン』を観たせいか、踏絵という発想と非国民という発想が連動し、集団と個の違いや、信念や心情や、それを拷問や死刑を含めた意味での暴力でねじまげようとする時代背景や、その他諸々宗教って何なのかとあらためて感じたのでした。

この小説の主人公は背教の司祭なのだが、ユダになぞらえるようにキチジローが出没する。彼は弱いがゆえに踏絵も踏むし、誰をも裏切る。それでいてずっと転んだ司祭のそばでずっと生涯を終える。それでは転んだ司祭が本当に棄教したのかと言えばそれもどこか中途半端で、キチジローですら時代が時代なら単なる陽気な切支丹にすぎなかったのかも・・・という小説本文中の回想もどこかシニカル。生まれた国によって自然と宗教が決まってしまうというのも事実だろうし、それを無理にねじまげようとすると、非国民的な集団からの逸脱とみなされる。それでは本当に宗教によって国がキープされているかと言えば、本当は違うのかもしれない、という疑念がいつもつきまとう。

お盆の季節になると、人は戦争を思い出し、ほかの蝉がうるさく鳴く中で、羽を広げて道路に落ちている蝉を眺めることになる。おそらくは自然死なのかもしれないし、アクシデントがあったのかもしれない。蝉の一生は短く、夏とともに彼らの鳴き声も聴こえなくなってしまう。それでいて、夏になると再び蝉のうるさく鳴く暑さを迎える。

自民党が大敗した。おそらくは年金のことよりも、「しょうがない」発言のほうが静かな影響力を持っていたような気がしてならない。憲法改正や教育基本法の改正のほうが遥かに人の気持ちの中に波が引くような感情をもたらした。怒りではない。ただ、静かなる否定。むしろ、無視に近い何かすら感じた。

毎年毎年蝉の鳴く季節を迎えると、蝉は死に、また蝉の季節が訪れることに気がつく。

暑い季節、教会へ行くと、娘が言うのは、「わたしはクリスチャンではないから行きたくない」という台詞と、「この教会はいつも誰もいないね」という言葉。人の気配のない教会にも慣れてしまい、それでいて入り口が封鎖されているわけでもなく、ただ、人は皆それぞれ忙しいのだという気持ちにさせられるだけ。それでも何か行事があるときには誰かいるのだろう。が、しかし、誰もいないというのもさっぱりしていていいものだ。神さまとだけお話できる。

誰もいない教会に慣れてしまいそうだ。それでも踏絵の時代に比べれば実に平和。

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July 23, 2007

『銀魂3年Z組銀八先生 2』 空知英秋・大崎知仁著

銀魂3年Z組銀八先生 2 (2) (JUMP J BOOKS)/空知 英秋

すみません・・・いったい、この本、なんですか?
娘が読んでいるから漫画かと思ったら小説でした。

おそらくは演劇部で使う本なんだと思うけど、漫画を活字で読むってむちゃくちゃ変な感じ。おちと勢いだけで進んでいき、さらにノリが漫画なので、面白いような気もするし、わかりにくいような気もするし、ひたすら想像力だけで読み進んでいくしかないジャングルのような小説だった。

でも、まんざら嘘っぽくもなく、この前、大阪学芸高校の生徒が1人で73校も合格した記事を読んだけど、学校が受験料を出した上に報奨金まで出して合格実績をアップさせる時代だもの・・・生徒は生徒であり、かつお客さんであり、成績の良い生徒は学校でも予備校でもひっぱりだこ。世の中、受験が絡むと教育も何もないような気がする。教師もサラリーマンだし、合格実績に応じてボーナスの額も違うような気がするのは気のせいだろうか・・・

この本を演劇のネタにして、娘が近頃描く漫画ちっくなイラストの少女はやけに冷たい目をしている。浴衣を着た女の子の絵を見せてくれたが、どうも下品な気がして、なんて言っていいのかわからず「・・・・・」状態になっていたら、無理やり何かを言わせようとするので、観たまんまを答えてやった。すると、これは「ヤクザ少女」だから当たり前だと言う。不良ではなく、「ヤクザ少女」。よーわからん。

そういうのが友達にもウケる時代なのかも。日頃、勉強ばっかりやらされているから、あんなのを描いて皆で喜んでいるのだろうか。空想の世界だから、好きにやってくれ・・・

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June 14, 2007

『プロ級ナンプレ』 ウェイン・グールド著


ウェイン・グールド
プロ級ナンプレ―中毒確実!!脳を鍛える数字パズル

ナンプレも飽きてしまって、この手の文庫がたくさん売られていることは前から知っていたが今までは素通りしていた。でも、ショッピングセンターに駐車して、駐車料金を支払うのが悔しいので本屋へ入り、一番手ごたえのありそうなのを選んだ。

・・・・・・・・が、しかし、素晴らしいですね〜♪
解き味がまるで違う。
ナンプレも簡単すぎると何となく機械的な作業のようでつまらない。
が、しかし、これは次から次へと解きたくなるほど切れ味がある。一つ躓くと全部やり直さなければならず、間違えて放置するにはもったいなさすぎ。というわけで、修正テープを使ってまで遊んでいます。

お昼休み、今日は早く仕事に戻らなければ、という気がしていたが、ついうっかりパズルにはまって遅れてしまった。そういう時に限って仕事が多い・・・
なんかね・・・

投稿者 Blue Wind : 11:14 PM | コメント (0) | トラックバック

May 28, 2007

『マルセル・エメ傑作短編集』 マルセル・エメ著 露崎俊和訳


マルセル エメ, Marcel Aym´e, 露崎 俊和
マルセル・エメ傑作短編集

この本はとってもおもしろかった。

読んでいて楽しくなったり、夢や希望が持てたり、そういう類の本ではない。逆に、ぐったりするような内容が多い。

ある日サーカス団のこびとが急に成長し、美しい若者になってしまったとしたら?
花形スターで永遠のこどもだった彼が、今度は自分で生活費を稼いだり、仕事を見つけたりしなければならなくなる。

浮浪者やならずものが主人公だったり、犬の話だったり、ある日年齢が半分になってしまい、年寄りが若く、若者はこどもに・・・

なんか、こう、いびつな小説が多く、シニカルなトーンで描かれている。願望が願望として達成されてしまったら、世の中が大変なことになってしまう・・・という夢も希望もなくなるような語り口で、ドラマチックな世界が展開してゆく。

投稿者 Blue Wind : 12:51 AM | コメント (0) | トラックバック

May 27, 2007

『泳ぐのに安全でも適切でもありません』 江國香織著


江國 香織
泳ぐのに、安全でも適切でもありません

とりあえず書評を書いておこうかというか・・・
わたし的には栄養士のつくった味のない食事を連想してしまうくらい読後の印象の薄い短編集だった。今、エメを読み始めたので、なんとなくそちらに引きずられているのが原因かもしれないけど。

それではなんで買ったのかと言えば、売れ筋だから一冊くらいは読んでおこう、とか、短いお昼休みに軽く読めそうだから、とか、大して深い意味はない。どことなくパステル調のデッサン画を観ているようで、それがものたりなさの原因かもしれないが、さりとて濃厚に書かれたこの手の小説を果たしてランチタイムに読む気になるか疑問。

多くの題材が、中年男と若い女の不倫。おとなになりきれない夫婦。中でも犬小屋で暮らすようになった夫の話は笑ってしまった。恋愛の延長線上に結婚があったとして、その状態の中で生活するとこうなりますよ、という逸話なのだろうか。

若い人にはおもしろいかもしれないが、どこか醒めた眼で眺めてしまう。

投稿者 Blue Wind : 12:58 AM | コメント (0) | トラックバック

May 17, 2007

『プラナリア』 山本文緒著


山本 文緒
プラナリア

この本、すごく面白かった。
帯の「働かないって、いけないこと?」という文字に惹かれるものがあったのだろうし、それ以上に他愛もない日常が何となくリアルに書かれていると、他人の心の中や生活を覗き見しているような気分になり、うしろめたい気分を覚えながら、何となく読んでしまった。

小説を読んでいて「うしろめたい」という言い方はすごく変なのだけど、飲み屋に入ってたまたま知らない人たちの会話を聞かないふりをしながら聴いているときのようなうしろめたさ。知りたくはないが、どうしても知りたくなってしまう。

たとえば、乳がんの女の子の話やご主人がリストラになった奥さんの話。収入もない彼氏からプロポーズされた女性の話。どこにでもあるような話でもあり、それでいていつわが身にふりかかってもおかしくないような話。そういう人たちが何を考え、どうやって生活しているのか、興味がなくてもつい知りたくなってしまう。

不幸自慢の羅列のような気がしなくもないが、それぞれの主人公が淡々としているのがやけに印象に残った。

投稿者 Blue Wind : 01:04 AM | コメント (0) | トラックバック

May 14, 2007

『ネジ式ザゼツキー』 島田荘司著


島田 荘司
ネジ式ザゼツキー

ひとこと感想としては、こんな本、読まなければよかったな〜、という感じ。

冒頭、記憶に障害を持つ男が出てきて、その男が書いたファンタジー小説がつづく。ネタとしては面白い。が、しかし、内容があまりにも猟奇的で、島田作品としてはめずらしいものでもなんでもないが、20年以上も昔、初めて島田作品を読んだ頃には単なるフィクションにすぎなかったものが、かつて義理の姉の家の近所に住んでいた少年Aが今度はわが家の近所に住んでいるという噂があり、その噂をわたしに教えてくれた人が心底怯えているため、時代とともにわたしも加齢したせいか、読まなければよかったとしみじみ感じてしまった。

いつの頃からか、島田作品の中には実話がたくさん収められるようになり、史実に基づく生々しい写真や話が多く登場するようになった。でもそれはわたしにとっては心霊写真を眺めるときのような気分であり、実態をともなわない、リアリティが欠如した世界、時代の出来事にすぎなかった。だから小説なんでしょうし、だからフィクションなんでしょうし、それが何となく推理小説の魅力でもあった。

本格ミステリーというのがどういうものなのかわからないけれども、パトリシア・コーンウェルといい、島田荘司といい、史実のミステリーを題材にしたものを脚色した小説を書いており、視点という点では興味深いが、今のわたしの気分としてはどこかこころがすさんでしまいそうで、気分転換に買った推理小説がもう一冊どこかにあるはずだけど、何となく読む気力が欠如してしまった。

それと同時に、納骨の際、お坊さんの説法があり、念仏のサンスクリット語の講釈を長々と始めたのにはまいった。それは一つにはわたしがお数珠の代わりにロザリオを持っていたのが原因で、念仏の書かれたお墓の前で、娘がロザリオを持っていたのが気に入らなかったのだろう。すなわちわたしは坊さんにまで信仰心が足りないと説教されたわけで、もうわたしのことは放っておいてほしい、というか、生命保険会社の社員に企業健診を紹介する代わりに生命保険に入れと言われ、やんわり断ったときに文句を言われたときのしょぼい気分にも似ている。

宗教と保険会社を一緒にするのはどうかと思うが、なんかよく似ているな〜、と思った。

投稿者 Blue Wind : 12:49 AM | コメント (0) | トラックバック

May 09, 2007

『冷たい密室と博士たち 』 森 博嗣著


森 博嗣
冷たい密室と博士たち

人間は自分にはとうていわからないであろうことを考えているときが一番楽である。というのは、ひたすら解を待てばいいから・・・

という大昔の退屈な数学の授業を連想してしまうような読みっぷり。
だったら最初に問題があり、その解き方だけを解説してもらって覚えたほうが遥かに時間の無駄を省ける。にもかかわらず、いつも順序だてて延々と説明されたあげく、「はあ?これだけのことだったの??」とイライラしてしまい、しまいにはどうでもよくなってしまうような感覚にしばし浸りながら、何となく読んでしまった。

犯人と被害者の人間関係と動機がわかっていれば、ものすごく簡単なトリックなのだけど、それが最後までわからない。しかも、動機がわかったとしても、そういう動機によってどうやったらこんなに綿密な命がけともいえる計画を立てて実行しなければならないのか、そのさらなる動機というか気持ちがわからない。ナットクがいかない。理解ができない。だから、答えがわかっても、「だからなんなのさ?」的なすっきりとしない後味のわるさが残る。

何が真のミステリかといえば、それを何の疑いも持たずに受け入れてしまう人たちがいる、ということがわたしにとっての最大のミステリかもしれない。わからない小説なんだよね・・・何がわからないかといえば、そこに出てくる人たちがわからない。

で、わからないから、わたしにはわからない、一生懸命に考えてもわからない、わからないから解を待つだけ。
というわけで、何も考えないでよい、という理由だけで、何となく読んでしまう気楽な小説。

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May 06, 2007

『転がる香港に苔は生えない』 星野博美著


星野 博美
転がる香港に苔は生えない

ゴールデンウィークを過ごすのに、分厚い本を選んだ。
時間を気にせず本を読んだりネットをしたり、そういう主婦ライフをずっと剥奪されているため、この数日はずっと活字を読んでいる。

どうして活字を求めるのか?

感想としては、まずはちょっとした気分転換のため。それから、自分の日常を見つめなおすため。誰かのことを考えるため。自分について考えるため。
休息や息抜き。

当たり前のことだけど、外に出れば自分と違った価値観や生活をしている人たちと一緒に何かをしなければならないわけで、これが仕事以上にストレスとなる。自分がストレスを感じているということはほかの人たちもストレスを感じているのだと思うし、数の論理が働かない職場のため、どうしても異分子としてはどこかでガス抜きが必要な気分に陥る。

それがどうしてこの本なのかよくわからないけれども、わたしが感じている息苦しさはおそらくはアジア的息苦しさなんだと思うし、年上の世代の人たちと一緒にいるといつも感じてしまう息苦しさ。

どちらが正しいかということではなくて、いつも上へ上へと進もうとする香港的な息苦しさは20世紀後半の日本の息苦しさでもあり、もしかするとそういう息苦しさが当たり前なのかもしれないし、他愛もなく好きな時間に起きて寝て本を読んでいられる気ままさとは相容れないからかもしれない。

中国人のノンフィクションは面白い。何となく日本と似ているからかもしれないし、他人の人生や生活を眺めることにより、自分の生活を考えてしまうからかもしれないし、自分が何を不満に思っているかがわかるからかもしれない。

別にわたしにとって香港が中国に返還されようがされまいがどうでもいいことで、むしろこの何年かの間にリゾートへ行けば大抵は中国人の団体や韓国人がやけに目に付くようになったことが逆に不思議でもあるし、当然のことのような気もするし、ただ、つい最近まで台湾人かと思っていた中国人のツアー客が本当に中国人だということを知らなかったので、あのかつての農協を思わせる人たちとビュッフェでは一緒になりたくないとか、その程度の興味でしかない。

ある若者が言うには、「中国人や韓国人は昔の日本人みたいだから嫌い」だそう。
その親が言うには、「昔の日本なんて知らないくせに。」

その話を聞いて、わたしはそのお嬢さんが何を言いたいのかがすぐにぴんときたが、いざそれを母親のほうに伝えようとしてもうまく伝わらない。そこでわたしは何となく国籍の見分け方みたいなことを大雑把に話す。たとえば、空港でずっと列をなして大家族で移動しているのが中国人で、韓国人はカップルや核家族で来ている人たちが多いし、日本人に似ているとか。違いと言えば、日本人は髪の毛を染めているし、出入国カードをなくして微笑んでいられる若者も日本人、とか。
すると、韓国人が日本人に似ているのは、かつて日本の植民地だったからだと言われ、韓国人が聞いたら怒るだろうなぁ・・と思いながら話を打ち切る。なんか、こう、もともとの日本という国がいかに大陸と似ているか?ということを知ったらよくもわるくもショックを受ける世代の人たちに何を言っても無駄なのは今までの経験上理解している。

あっさり語れば、ある若者が言う昔の日本人というのは、親の世代以前の人たちのことを暗喩しているわけで、親からすればもっと昔の日本人が身近にいるためにまさか自分がその中に含まれているとは想像もしていない。

長寿社会ってすごいと思う。
姑さんが、年中、「長生きなんてしたないわ」とこぼす。そのたびに、「いや、充分長生きしていると思いますけど」と言うわたしもわたしだけど、視点が違うのだから仕方がない。わたしからすると、そのうちひ孫まで生まれるだろうに、と思ってしまうし、姑さんにしてみれば、高層マンションでひとり暮らしをしているため、どうもぴんとこないらしい。というか、もはやひ孫までいくと、自分の支配からまるで外れてしまうために興味がないのかもしれない。

なんか、こう、常に新しいものを求め続けるエネルギー。古いものを破壊して新しいものを建ててしまうエネルギー。それが発展なのかどうかは知らないが、そういう時代に生まれ育ったがゆえに、前にも後ろにも進めない。そういう気がする今日この頃。

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May 04, 2007

『六番目の小夜子』 恩田 陸著


恩田 陸
六番目の小夜子


久しぶりに小説を読む。娘の本。

ストーリー的には、前半と後半とが微妙にタッチが違い、後半のほうがどこかスリリングで面白かった。ホラーを期待して読めば期待はずれだろうし、謎の転校生が次第にごく普通のキャラへ変貌していき、結局、真相がよくわからないままに終わっていた気がする。

ただ、学校というところが器が一緒で中身だけが変わっていく、つまりは川の流れのようなものでいつも同じ水が流れているわけではないのに川が川として存在しているだけに見えてしまう、ということを、うまく伝えているような気がして、それは学校に限ったことではなく、おそらくは社会という存在がそのようなもので、あるいは生態系というものがそのようなもので、どこかそういった器を客観的に眺めてしまえるようになったとき、作者の言わんとするところがうすらぼんやり見えてくるような気がする。

つまり、実際にはストーリーテラー的な要素としては平凡で凡庸な気さえするけれども、それが平凡であるほどにどこか淡々とした面白さと共感を感じてしまう。一度は絶版となった小説がひっそり息を吹き返していったのは、最初に読んだ人たちがおとなになったからかもしれない。

ちなみに娘がこの小説を読んでいるのは、演劇サークルの練習で一部を使っているから。同じ制服を着て、同じ学校へ通っているという安堵感と連帯感は、互いにまるで知らない者たちですら既知の関係のような気がしてしまうほど。懐かしいような気もするし、今はそれがどこか重荷のような気もするし、一つわかっているのは、同じ小説を読んでいても、娘とわたしとではまるで違うことを考えながら読んでいるのかもしれない、ということ。

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November 24, 2006

『グレート・ギャツビー』 スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹訳

スコット・フィッツジェラルド, 村上 春樹, 村上春樹

グレート・ギャツビー


タグを打ち込むのも面倒になってしまっているのに気づく。
毎日やっているから毎日できるのであって、たまに画面に向かうようになるとすべてがかったるい。
それでいて、こんな時間にまで起きているというのは、朝から出勤する意思が欠如し始めたからでもあり、そのうちまた家でだらだらとした生活に戻るのだろう。それが素晴らしいとは思えないが、少なくてもお天気を気にするように来院患者数を気にするような生活からは逃げ出したいと思うほうがまともな気がするし、デパートへ行き、銀行へ行き、その客足を探るように暇な時と忙しい時とを店員と立ち話をするようになる、というのはどうも気が引けるのである。(病人は少ないほうがいいに決まっている・・)

天邪鬼というものはとことん天邪鬼であり、電子カルテを導入し、やたらとスピーディなチェックイン・チェックアウト。来院患者数も少ない。その上、数少ない常連さんは来院すると診察券も出さずにチェックインし、そのまま処置室へ行ったりする。たまに待っているのは小児科の患者が多い時で、不思議なことにほとんどのお子さんたちは本を持参している。

といった具合だから、待合室にこんな小説を置いても、誰も気がつかないだろうと思いながらも、仕事の合間に本くらい読んでいてもいいだろうと思いつつ、生真面目な受付の女の子は本など読まないし、暇な時には、医師も看護師もまるで文学には興味がなさそうに、もっぱら談笑にふけっている。

そこで、誰も読まない本を(最初からわかっていたはずだ・・)、わたしは書類と一緒に持ち歩き、長めのランチを食べながら暇をつぶしている。看護師たちはお弁当持参。わたしは外でランチ。それが素晴らしいとは思えないけど、わざわざお弁当をつくり、気を使いながら一緒に食事をして、休憩時間をつぶすのはもったいない。

が、しかし、受付の子に、「外食はお金がかかるし・・」と言われ、おそらくはそういうことのために彼女は学校が終わってからアルバイトをし、週末までバイトをしていたから、「今の仕事をするようになってから楽になりました」と言われてしまうと、学生時代はそれが当たり前だったと思いながらも、返答に窮したりしているあたし・・・
そのくせ、「わたしにはお弁当をつくってくれるお母さんがいないから」と言って逃げる。

どうでもいいような気がするし、それでいて、今頃になり看護師が、「(うちのダンナが)ほかの職員と一緒にご飯を食べないのは自宅へ帰っていたからだと思っていました」と言う。・・・・・いや、そうではなく、単に病院の食堂のご飯が美味しくなかったせい、と答えたかったが、事実はそれとも違い、「食が細いから、そのことを指摘されるのがいやみたいです」と、わたしはダンナの台詞をそのまま伝えた。

が、しかし、正確には、そういうこともあるだろうけど、本当の理由はずっと職場に束縛されているのが好きではないから、というのが大きな理由であることをわたしは知っているし、ひとりで食べたいものを食べに行く、というのがそれなりのストレス発散だということも知っている。なぜなら、わたしも同じだからだ。

つまらないことかもしれないが、そうやって他人に説明するのが困難なことを、あっさり共感できるからこそ長年一緒に暮らしているような気がする。ほんとうにつまらないことなのに。

*******

『グレート・ギャツビー』を読もうと思ったのは、その冒頭を読んだからでもあるし、その冒頭から連想するのはどこかの地方都市の裕福な家庭に育った若者の苦労話とサクセス・ストーリーを思い描いたからでもあるし、それでいてアメリカ東部を舞台としながらもそこに集まっているのは西部の出身の人たちばかりだし、どこか地面に足のついていない様子が気に入ったからかもしれない。

そう・・・
どこか地面に足のついていない生活。
もっぱら、それはそれで意外でもない展開。意外でもない展開が、無機質な視点で語られている。フィッツジェラルドの人物描写は面白いし、かくも美しく自然や風景が描写されているのとは対照的。自然が美しく文学的に描写されるほどに、人間の行動が奇妙にも微妙に波乱を含んだまま好奇心をそそられる存在となる。

もし、わたしが若ければ、もっとストレートな描写や展開を望んだかもしれないが、単なるゴシップとなるようなストーリーをドライなものにしている美しい描写が快適に感じられた。

そして、わたしはまた地面に足のつきそうにない、不真面目な生活に戻りそうな予感がしている。何が不真面目というわけではないが、来院患者数をカウントするような生活よりも、不真面目な書評を書いているほうが、何となく救われそう。(うそぶく)

投稿者 Blue Wind : 02:28 AM | コメント (0) | トラックバック

March 15, 2006

女性週刊誌考

女性週刊誌というのを初めて買ってしまった。理由は簡単で、ブログ仲間のぐるぐるさんが20年ぶりくらいで作品発表(マンガ)するから。原作者がいて、毎週連載。

最初は、一体どんな作品だろうと思ってくらくらしていた。女性週刊誌のマンガというのはわたしが子どもの頃に読んだ漫画家の作品が多い。しかも、内容が過激で、美容院で美容師さんが男だとうっかり読んでいられないなーと思うほど。だから、目の前に女性週刊誌が積まれたら、マンガは飛ばすことにしている。

が、しかし、ぐるぐるさんのマンガはほんわかしていて、登場人物のイラストもブログで拝見していたせいか、いかにもぐるぐるさんっぽく癒し系のマンガ。

ストーリーは知らないが、登場人物が当たらない占い師と閉店間際の喫茶店のマスター親子。そしてこれから登場するであろう謎の人物を予感させる展開。唯一わかっているのは、メイドカフェならぬ執事カフェの誕生?(こらっ、ネタをばらすな)

***

・・・・・いや〜、でも買うときちょっと恥ずかしかった。レジのまつげの長い女の子がレジを打つときわたしの顔を見る。

何となく最初に籠に入れて、何の雑誌かわからないように裏返しに手前に置き、レジの人に、「おや?」という具合で怪訝そうな顔をされ、田舎っていやだなーと思いつつ買った。週刊誌というのは駅の売店や夜中のコンビニで、いかにもひまつぶしという感じで買わないと変に思われるのかもしれない。

そのマンガのすぐ後に、島田荘司さんの小説があったので一瞬感動したけど、数ページを読んだのではまるで内容がわからない。タレントの記事が多いけど、ほとんど顔も名前も知らない人ばかり。(わたしは宇宙人か?)

唯一まじめに読んだ記事は、子どもをフィギュア選手に育てるためにどれくらいお金がかかるか、という記事。初心者の教室は普通の習い事と同じくらいだけど、選手コースだと年間最低300万円はかかる計算。しかも、トップスケーターになるとコーチ代だけでも年間1千万とか2千万とか?(その前にスケート場がないことに気づいたが・・・うちの周辺)

まったく関係ないが、娘が近頃ピアノが上達しているので驚く。幼稚園から始めて、娘がレッスンを嫌がるので小学校に入ったら辞めさせてしまった。こんなことなら嫌がっても続けさせたほうがよかっただろうか。・・・・・・なんてね、記事を読みながら考えてしまった。おそらくは、髪の毛をカットしてもらいながらそういう話の続きをするのだなーと、このところカットをサボっていることに気が付いた。

***

*「執事カフェはジョーダンですから〜〜(笑)」・・・・だそうです。(汗

投稿者 Blue Wind : 09:51 PM | コメント (0) | トラックバック

February 09, 2006

『コンニチハ世界の子どもたち』 田沼 武能著


田沼 武能
コンニチハ世界の子どもたち

***

この本は写真集。たぶんこの本だったと思う、としか言えない。ずいぶん前に買って、すでに誰かに差し上げてしまったので、手元にはない。

子どもって何ナノかな・・・と思う。
子どもというと、あるイメージがあって想像しているけど、世界の子どもたちはあっさりそのイメージを破壊してくれる。それこそ宝石で飾られた中東の女の子もいれば、谷中の商店街でゲームをしている日本の小学生もいるし、裸でジャングルの川遊びをするパプア・ニューギニアの子どもたち、南米のストリート・チルドレン、あるいはちびのくせしておとなの持つような立派な剣を腰につけた目つきの鋭いベドウィンの男の子。

その昔、子どもという概念はなく、小さなおとなとして子どもが扱われていたことを考えると、子どもとはまさしく次世代に生きるおとなとしか思えない。

***

先日読んだ『日本人とユダヤ人』の中で、しきりに遊牧民の生活が書かれており、日本が世界の別荘のように平和でのんきな国なのは遊牧民と接触がなかったかららしい。つまり、安全と水はタダだと思っていたし、城壁のない都市というのがめずらしい? 城壁どころか、鍵もないとかね・・・その昔は蚊帳の中で窓を開けたまま寝ていたとか?

行ったこともない国を偏見で見てしまいそうだから、真に受けたくない話だが、遊牧民というのは略奪も生活の手段らしい。農家が刈り入れを済ませると次に彼らの略奪が始まる。農家を襲って殺し、収穫物や家畜を奪う。

聖書の中にも奴隷の話はたくさん出てくるけど、この奴隷という概念も遊牧民を理解していないと理解できないらしい。つまり、ヒト家畜。家畜が生活の糧。そのためヒトの売買も成立する。

伝統や文化というけれど、それが民族であり、国家であるというのはどうも。アベルとカインの話から始まり、すべての民族のルーツは一つと語る一方で兄弟は他人の始まりどころか諍いの始まり?

***

旧約から新約へ。
福音か。

宗教が原因で戦争が起きると勘違いしている人たちは、聖書を旧約から新約まで読むべき。わたしも今日に至るまでいろいろなことを勘違いしていたらしい。生活が違うから、理解できないところがたくさんある。

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February 06, 2006

『日本人とユダヤ人』 イザヤ・ベンダサン著


イザヤ・ベンダサン, Isaiah Ben-Dasan
日本人とユダヤ人

***

この本のおかげで、どうして娘が算数1だったのか理解できた。

小学生ってとても不思議なことがある。計算は合っているのに、式を平気で間違えたり・・・
計算はできるのに、式を書けないとか。娘の場合、かけ算はできるけど、九九ができなかった。このことが致命的で、たちまち算数嫌いになってしまった。(かけ算はできるが、九九が言えない、九九を覚えていない。)

ベンダサンの説明によると、日本人の頭の中にはソロバンがあり、ソロバンがあるから、アラビア数字を使う以前から計算ができたのだと言う。つまり、普通は数式を書いたり、筆算を使わないとできないような計算でもソロバンを使えば簡単にできてしまう。名人級になると、頭の中にソロバンがあり、暗算で計算ができる。

ユダヤ人にとっての律法というのは、頭の中のソロバンのようなもので、目の前に存在しないけれども頭の中に”実存”し、無意識のうちにそれに従って行ってしまうものらしい。意識する以前の問題だと言われるとそうかもしれない。神は目の前に存在しないけれども、実存している、というのはそういうことだと説明されると何となくわかったようなわからないような・・・

それでは、日本人にはそういう律法に相当するものはないのだろうか?

それが、ベンダサンによると、人間教らしい。
それは人間的ではないとか、人間なら当たり前、とか、大抵の日本人なら、そうやって言われると納得してしまう。法律とか律法という前に、人間的という意味での黙契があり、無意識のうちにそれに従ってみんなが行動してしまう。だからといって、「人間的ってどういうこと?」という問いに対し、これといった定義があるわけでもない。情の問題というか・・・

まあ、なんと言うか、そういう風に言われると困ってしまう。
もともと文字もなかった国だし、文字ができたとたんに自由奔放にそれを使いこなす。しかも、明確なルール(数式のようなきちんとしたルール)がないにもかかわらず、何となく読めてしまうというか、意味が通じてしまうというのも変なのだそう。(主語がないとか・・)

そうやって説明されると、ロゴスというのが言葉であり数式であり、だからこそ言葉はまるで数式のようであり、明確なルールによって構成されている、という大前提が欧米語やヘブライ語にはあることが理解できるようになる。だから、最初に数式があって答えが導き出されるように、最初に言葉があって答えが導き出される。だから、議論や対話が発展してきたらしい。

ところが、日本の場合、ソロバン文化だから、最初に数式があるわけではなく、だらだらと書いているうちにそれが文章として完成してしまう。主語が欠如していても意味が通じるというのはそういうことらしい。パッと思いついたからと言って、それがどうやって導き出されたものであるのかを説明するのは非常に困難であることを考えると、便利なような不便のような・・・

というわけで、ベンダサンに言わせると、日本のクリスチャンというのは正確には日本教徒キリスト派なのだそう。日本の古典などにも強く、ユダヤ教徒キリスト派について説明されると、そういうものなのかもしれないという諦めすら感じてしまう。

たとえば、「ユダヤ人とはユダヤ教徒のことだとも言われているが、ユダヤ人の中にはキリスト教徒もいるからユダヤ教徒がユダヤ人だとは必ずしも言えない」という文章をどうやって翻訳するのだろう?

ユダヤ人という言葉をギリシャ語になおすとユーダイオスであり、ユダヤ教徒という意味。だから、「ユーダイオスとはユーダイオスのことだと言われているが、ユーダイオスの中にはクレスティアノス(キリスト教徒)もいるからユーダイオスがユーダイオスだとは必ずしも言えない」という意味不明の文章になってしまう?

一つわかったのは、ユダヤ人と議論しても勝ち目はないということかもしれない。
でも、面白かった。

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February 04, 2006

『これで古典がよくわかる』 橋本治著


橋本 治
これで古典がよくわかる

***

一気に通読。
古典がわかるようになるというより、日本語の変遷の歴史がメンタリスティックに理解できるようになる。

ひらがなやカタカナが使われる以前から始まり、ひらがなとカタカナの利用のされ方の違いなど、そういう意味では古典(文学史)がわかったような気になってしまう。つまり、明らかに漢文というのは男性が使うもので、今でも漢字とカタカナで書かれた活字といえば古い法律関係の本などを思い浮かべてしまうことを考えれば、いかに堅苦しい世界か理解できる。

じゃ、なんで、男がひらがなを使ったか?
要するに、女性は漢文などまるで理解できないものであり、理解できないことが女性のたしなみであった時代、女性のために何かを書こうと思えば、ひらがなを使うしかなかった、ということがよぉ〜っくわかった。

書き言葉と話し言葉の違いの伝統も、どうして長い間、漢字とひらがなとが同時に使われた書き物がなかったのかも、よぉ〜っく理解できた気がする。

漢文。
あれって昔から胡散臭いと思っていたら、やっぱそうだったのかという気分。
漢字と記号とカタカナ。
なんか胡散臭いでしょ?

要するに、どーやって読むのかわからなくなるから、カンニングのつもりで書き込んだのが最初。

ひらがなの文学。
あれはどちらかといえば、話し言葉の世界。とてもくだけたもの。お話するような調子で、気楽に書く。法律に関する書類がいい加減だったら大変だから、これはいい加減なものではない、という意味で漢文、あるいは漢字+カタカナが用いられるのとは逆。

問題は・・・・ひらがな文学の場合には、とてもコムズカシイことを子どもが語ろうとするととてもわかりにくくなってしまうのと同じような感性で読まなければならないということかも。

和歌も(随筆も)、それがいかにくだけた人間的な書き物であるか理解できた気がする。

文字を使って自分の気持ちを表現するってとても人間的なことなんだろうし、それを技巧と言ってしまうのは少し寂しい。素朴な感情、複雑な感情、心境、心境の変化、それを詠みこむ。そして気持ちが伝わってきたとき、初めて感嘆する。

古典嫌いが歌を詠むようになり、そういうアンビバレントなところが少し解消できた気がする。
いや・・・逆に、どうしてわたしが古典が嫌いになったのか、そういうシンプルな疑問が解決したような気がする。コムズカシイ注釈やわかりにくい文章。ストレートに読むのではなく、いつも他人の注釈を気にしながら読まなければならない古典なんて面白いわけないじゃん。

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January 28, 2006

『絶滅寸前季語辞典』 夏井いつき編


夏井 いつき
絶滅寸前季語辞典


この本、ぜったい面白い。わたしが俳句に手を出さないのは、季語がややこしいからでもあるし、その季語の中でもさらに難関季語が集められている。

いくつか知っている言葉もある。たとえば、「あっぱっぱ」とか。

最初、どこかで聞いたことのある言葉だと思ったけど、意味が思い出せない。本文を読んでいるうちに思い出す。

夏服、といえば聞こえはいいけど、当時はムームーなど袖なしのワンピースのことを「あっぱっぱ」と呼んでいた気がする(母が)。(ムームーも死語?)

あっぱっぱをもう少し解説すると、母流のあっぱっぱのつくり方というのがあり、布を買ってきて子どものサイズに合わせて適当に裁断し、それを縫い合わせる。次に子どもに着せ、適当に胸の部分のギャザーを決めて縫う。最後にとも布か余った部分で肩の部分を縫い付けて終わり。丈が短すぎたと思えば、裾にフリルのように布を縫いつけて調整。

昔ははぎれというのが売っていて、布屋さんへ行くと1.5mとか2.3mとか札が付いてワゴンに積んであった。服をつくるには足りないけれども、子どものあっぱっぱをつくるなら充分なので、母が縫っていた記憶がある。まだTシャツやジーンズなどもめずらしい頃。夏の子ども服の定番はあっぱっぱ。

ワンピースなどという高級なものではない。あっぱっぱのウエストにゴムを入れたらワンピース風? が、しかし、袖まできちんと付けたらそれはもはやあっぱっぱとは呼ばない。麦藁帽子にあっぱっぱ。

今はいくらでも売ってるからなぁ・・・(言い訳がましい)

いや〜、それにしても季語を絶滅させないための努力が痛ましい・・・
火鉢なんて今時どこに売ってるんだろう・・・絶滅させないためには火鉢を買って、炭を買って、練炭を探し、・・・あげく茨城では違法ですと言われたらどうしよう。「インバネス」とか「カンカン帽」と言われてもわからない。でも、着てるのか・・・(さすが俳人)

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January 22, 2006

『絵の教室』 安野光雅著


安野 光雅
カラー版 絵の教室


昨日に引き続き、安野光雅さんの『絵の教室』をパラパラめくっている。正直、まるで先に進まない。少し読むとぷあ〜っとイマジネーションが広がってしまうせいか、それともいろいろなことを考え始めてしまうせいか、まるで先に進まないまま今日も書評を書いている。

推理小説と大きく違うのは、読む速度の違い。ストーリー・テラーを楽しむものはあっという間に読み終わってしまう。早く結末を知りたいからでもあるし、展開が速いからかもしれないし、いずれにせよ文庫でも近頃は値段が高いためにもったいないと思うほどあっけない。

それに引きかえ安野さんの本は先へ進まない。

たとえば、序文ですら考え込んでしまう。いや・・・考え込む、という表現は間違っている。そうではなく、共感が広がり始めると自分の世界へ入ってしまうからとしか語れない。

絵の好きな人たちは自分の言葉で話す。絵だけではなく、本でも音楽でも好きな人たちは自分の言葉で話す。野球でも競馬でもそうらしい。自分の好きなこととなると自分の言葉で話し出す。
ところが、政治や社会事象のこととなると自分の感性だけではなくテレビやラジオから流れてくる声に流されしまいやすいし、そしてそれがやがては世論となっていく。

そのようなことが書かれていたため、今まさに考え込んでしまった。

***

インターネットの楽しさは、絵の好きな人たちに通じる。皆がそれぞれ自分の言葉で話しているから面白い。ニュースネタでも、そう。それぞれの人たちが気ままに自分のブログに書いていることを読みながら、背中でニュースを聞き、あれこれ考える。

おそらくはその結果が、あの選挙だったんだなぁ・・というのが今の気持ち。それがどういう具合に進んでいくのかわからない。

ライブドアのことにしても、あれはライブドアの問題だろうし、上場が廃止になったからといってライブドアが消えるわけでもなさそう。上場していない企業はたくさんある。マネー・ゲーム的な側面が抑制されたというだけのことなのかもしれない。

なんか、こう・・・
テレビのチャンネルを変えながら、「またライブドアか」と言いながらテレビを消して友達の家に遊びに行ってしまう娘のほうがまともな気がした。

***

おっと、話が大きくずれてしまった。
こうやって、自分が何が言いたかったのかを忘れてしまう。
それがいいのかもしれないな・・・安野マジック。

投稿者 Blue Wind : 03:34 AM | コメント (0) | トラックバック

January 21, 2006

同じ著者なのか・・・

今日、買ってきた本4冊。


安野 光雅
カラー版 絵の教室


中原 中也, 吉田 熈生
中原中也全詩歌集〈上〉

中原 中也, 吉田 熈生
中原中也全詩歌集〈下〉

中原 中也
中原中也全訳詩集

***********

本当は別の本を探していたのだが、結局、見つからず、同じ著者の別本を少し立ち読み。何となくイメージしていたのとは違ったため、その本を探すのはやめた。ブログの書評を読んで、タイトルだけで面白そうと思ったんだけど、実際に手に取ると興味をなくすケースが多いことを思い出す。


林 文子
失礼ながら、その売り方ではモノは売れません

そうそう・・・この本だ。密林に記録が残っていた。

「その売り方ではモノは売れません」では素通りしてしまいそうだけど、「失礼ながら・・」と始まるところがミソ。そのまま密林で買う気はしなかったけど、買い物のついでに本屋へ行かせるくらいのパワーはあるなぁ・・・
何となく言われると気になってしまう言い方ってある。

で、そのパワーがどこへ結びついたかというと、結局、安野さんの著書と中原中也。 安野さんの絵本は家にも何冊かあるけど、新書というので買ってみた。

パラパラとめくりながら、クールベの写実主義のところを読み、あの時代の写実主義はカメラが発明される以前の感覚で、実際に目の前にある風景を描いているわけではない、というところに目が行く。それ以前は光といえば宗教的な意味を持っており、写実的な光とは異なるというフレーズから始まり、そこから決別しクールベが進んだ道が写実主義。

つまり、見たことのないものは描かない、この世に存在しないものは描かない、という意味でのリアリズム。・・・ってことは実際にない場面を描いても写実だし、家の中で風景を描いても写実だし、イメージだけで描いてもこの世に存在するものを描けば写実。

それってちょっと違うのではないかと思ったけど、それってちょっと違うと思うのはカメラに慣れてしまったからそのように感じるだけなのかもしれない。光が的確に方向性や角度すら正しく描かれていないと何となく写実でないような気がしてしまうというのは一種の現代病なのかも。

中也の3冊は文庫。未刊詩がたくさん載っていたので。

密林で検索したおかげで、安野さんの著書だと気づかないで買った本がほかにもあることに気がつく。絵本もそうだし、短歌の本もある。


安野 光雅
片想い百人一首

おそらくは未読のままどこかに埋もれているはず・・・

投稿者 Blue Wind : 02:05 AM | コメント (0) | トラックバック

January 14, 2006

小学生が・・・読むの??

タイトルを眺めただけで、気持ちがスススス〜ッとひいてしまう本があることを知る。
で、文庫にまでなっているってことは売れてるんだろうな・・と思いつつ、これを小学生が読んでいるのか・・と思ったらますます憂鬱になった。


中村 うさぎ

ショッピングの女王

いや・・・今、密林で検索したら、ジュニア向けの小説?も書いているようなので、小学生の子が読んでいるのはそちらかも。

***

なんで娘と一緒に本屋へ行ったかというと、課題だから。入学するまでの間、毎週まとめて日記をつけなければならない。その日記の欄に読書感想やニュース感想の欄があり、それを埋めるために。ニュースのほうはともかく、読書感想のほうは今までの活字量があまりにも少なすぎるためごまかし?がきかない。

でも、ないねー。驚くほど、ない。

何がないかといえば、娘に読ませたくなるような本がない。そこで仕方なく、娘の友達の読書オタクがファンだというので、中村うさぎの本を探したんだけど・・・これがなんともはや。先日行ったら、どこかにくたばれオヤジ系のタイトルの本があって、今日探したらもうなかった、ってことは結構流行っているんだろうか?

おとなが読むんなら、そんなものかなー、と思うんだけど、子どもが読むと思うからかなりひいてしまった。

こんな本を読んでる子にオヤジが何か言われても痛くも痒くもないだろうな・・と思いつつ、娘が選んだのはこっち。

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ジェニー・リー, 木村 博江
あなたの犬バカ度を測る10の方法
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が、しかし、せっかく買ってやったのに、部屋でグリム童話集を読んでいたらしい。宮沢賢治より面白い、とだけ・・・
なんか、寂しいね、近頃の子どもは。やっぱ、あたしが悪いんだろか?

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December 30, 2005

『ジンメル・つながりの哲学』 菅野 仁著


菅野 仁
ジンメル・つながりの哲学

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本屋へ行き、つくば市の周辺地域まで載っている広域地図はないかと探していたら、どういうわけか本屋を一周し、通り過ぎようと思ったとき”ジンメル”という言葉が脳裡に焼きつく。

はてはて・・・
遠い記憶の中からその言葉、あるいはどこかで聞いたような名前。通り過ぎた本棚の中から再び探す。どこかにあったんだけど・・と探すとこれがなかなか見つからない。でも、たしかにわたしは見た、と思いながら過ぎた視線を思い出しながら探す。

つまり、夥しく並んだ本の中から、一瞬にしてその言葉だけがわたしの脳裡に入ってきたのだが、それがどこにあるかまでは定かではない。それくらいランダムに視線を流していた、という記憶しかない。

自分の視線を思い出しながら逆行していくと、目の前にあった。

もしかすると、Zimmerのことだろうか・・・
その名前だったら、大昔よく見た記憶があるし、”ジンマー”と呼んでいた記憶がある。
社会学なのか哲学なのか・・・
社会心理学の文献の中でよく出てきた名前なのかもしれないし、もしかすると文献はいくつか読んだのかもしれないし、探せば今でもあるのかもしれないし、それでいてほとんど記憶の彼方。ただ、何となく思い出したのは、Zimmerが好きだった先生がいたということ。

考えてみれば、わたしは”社会”という言葉が苦手だ。政治だの歴史だの人間が集団で何かをやらかすということに対し、どこか引いてしまう。制度改革だの消費税だの、ひたすらブロックすることしか思いつかない。つまり、消極的な攻防戦ということでは、消費を控えるとか・・・慎ましやかな抵抗にすぎないが、口に出して抗議するよりもマシだろう。

税金を払いたくなかったら、働かない・・・とかね。買わない、働かない。第3セクターが気に入らないとなれば、TXにも乗らない。ここまでになると単なる天邪鬼に近い発想。郵便局が気に入らないとなれば、使わない、とか。

社会問題というと何やらおおげさな気がするけど、おそらくはそのほとんどが生活に密着していることが多い。年金や保険、少子化、教育、女性の就業とか? あるいは不景気もその一つなんでしょうし、環境問題、リサイクル、ゴミ処理、その他諸々。

で、エゴがどうたらこうたら、ということになる。
で、ひたすら、うんざりする、と。

文化、という言葉はまだマシだ。過酷な自然状況の中で、それに適応し生き抜くための知恵。

***

それにしても、仕事って何なのかと思ってしまう。
とりあえず、土地を探したり、事業計画を立ててはいるのだが、本屋へ行けばジンメル、土地探しに出かけては歌を詠み、お昼に話題のラーメン屋とか?

ふざけているわけではないんだけど、どんなことも生活になってしまうと今までと違ったことはできないような気がしてしまう。まあ、気長にやろう。

書評は、また。

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September 23, 2005

『ダ・ヴィンチ・コード ヴィジュアル愛蔵版』 ダン・ブラウン著

読書の秋。何をせっせと読書に励んでいたかというと、ダン・ブラウンの 『ダ・ヴィンチ・コード ヴィジュアル愛蔵版』 。西洋史が好きな人たちにはたまらない魅力かも。聖杯伝説も死海文書もピラミッドもその他諸々歴史の闇のミステリアスな部分に惹かれるのは本能だろう。

聖杯とか、聖櫃とかね・・・失われたのか初めから存在しなかったのか今となっては謎めいた話は多い。マグダラのマリアが実はイエスの妻だったという可能性についてはあえて否定する理由はない。イエス・キリストが人として肉を持ち、この世に存在していたことを否定する人はいないのだから。

ただ、彼女が娼婦だったという話が捏造されたものだったかどうかについてはいささかすっきりしない。喩えは酷いけれども風俗の世界にも寿退社というのがあることを知り、ネットでしか知らない彼女の現在の生活は平凡に介護士の資格を取り、寝たきりのお年寄りの世話をしているという・・・考えてみれば、聖フランシスコも生まれた時から聖人だったわけではなく、どちらかといえばその反対で、爵位を目指して騎士の姿で出兵していった若者の一人。

悔悛。

こうね・・・この手のストーリーを好んで書きたがるのは、実はプロテスタント系の人たちが多い。大抵は、ローマ・カトリックへの批判がちりばめられている。そういう宗教的対立にあまり興味が持てないというのは、単にわたしが日本人だからなのかもしれないと思うし、西洋史を少しでも学んだ人たちなら歴史や文化というものを通して発生する確執の一つにしか思えないのでは。

これね・・・例えば、聖杯伝説がこんなにも魅力的なのは、フランス人にとってはメロヴィング王朝がイエスの血統を受け継ぐとか、ケルトへ渡ったとか、テンプル騎士団がクレメンス5世により弾圧されたとか、フリーメイソンとか、アメリカの建国のいきさつがフリーメイソンや聖杯にまつわるものだとか、いずれにせよ、日本では卑弥呼の伝説のような吸引力を発揮してしまう何かが存在するからだろうな。たぶん。

それで、イエスの末裔が生きているとして、あらたなる帝国が築かれるとか?(あまりにもイエスのイメージとはかけ離れているが・・)

そうなると、どうも日本の皇室と似通ったものを連想してしまうのはわたしが日本人なのだからなのかも。もういいや・・・というか。仮に天照大神が皇室の祖だとし、そこから大和民族が日本に広がり、その直系尊属が天皇家だとしても、現在の日本の政治を眺めれば、「あ、そうですか」という感じに近い。(たまに思うんだけど、ユダヤ人が近代日本社会をどのように考察するのか訊いてみたい)

そういうキリスト教にまつわるしがらみがないせいか、それが正統なものか異端であるか、そんなものを誰かが決めたとして、それと自分とどういう関係があるのかいまだにわからない。おおげさな意味ではなく、文字通り、わからない。実際のところ、教会に帰属しているわけではないし、わたし自身が信仰心を失ってしまえば、わたしとキリスト教とは明日から何の関係もなくなってしまうだろう。いまでも何か関係があるのかと問われると困ることが多い。

フランスやイタリア、あるいはイギリスの古い教会や美術館を歩くと、違和感を覚えることが多い。うまく説明できないけど、窒息してしまいそうな眩暈すら感じることもある。それはいわば他国の歴史を垣間見ただけにすぎない。宗教があり、歴史があり、社会があり、それらが密接に絡み合い、人がいる。

こうさ・・・わたしは自由なのよ。わたしが求めているのは精神の自由であり、信仰の自由であり、好きか嫌いかであり、理屈を凌駕したものであり、神であり、愛であり、人間であり、目であり、夢であり、星であり、空であり、天であり、青であり、地球であり、さらに静かな愛。

ダン・ブラウンが支持されるのは、狂信を理解していることかも。宗教のもつ良い面、悪い面。さわさわ〜っと怖くなる。これを読んだ後に教会へ行くと癒されるかもね。

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September 18, 2005

『Fine days―恋愛小説』 本多孝好著

本多孝好の『Fine days―恋愛小説』を読んだ。恋愛小説と書いてあるから恋愛小説なのかと思うけど、何も書いていなければミステリーと勘違いしたかもしれない。推理小説と言われて渡されれば少々物足りないかもしれないけど、恋愛小説と言われて渡されれば、藤堂志津子くらいのニュアンス。

一つ本多作品について感じたのは、とにかくあらゆる作家の小説を読み、その良いところを実に貪欲に吸収しアウトプットしていこうという意気込み。読んでいる途中でいろいろな作家の作品を思い出してしまったけれど、残念ながらわたしは以前どこかで詠んだことがあると漠然と感じただけで、具体的にどの作家のどの作品かを挙げることができない。


『Fine Days』は、高校生が主人公。キャラが強烈。それでいてどこにでもいそうな4人の高校生たち。”彼女”のたたりで屋上から飛び降り自殺をするなんて・・・これが推理小説ならもっともらしい推理が展開するのでしょうけど、恋愛であり、恋愛になりきれないどこか幼い部分が謎を謎のままやりきれなさに変わる。肉体的に強く、精神的に脆い安井という女の子が強烈。エピローグがさもありなんという風で好きだな。

『イエスタデイズ』は、テーマは”若い頃の親父”。癌で余命数ヶ月の父親に昔の恋人とお腹の中にいた子どもの消息を探すように頼まれた息子。35年間の父親の人生と、画家志望であったそれ以前の父親と、その恋人。タイムスリップし、異次元へ入り込む。そして、現実。

『眠りのための暖かな場所』は、ちょっと怖い小説。誰にも言えない罪を抱えながら育ってしまった人たちの心の苦しみと怯え。その恐怖から逃れられないがゆえに、誰も愛せない。誰も愛せないがゆえに平凡に生きることもできない。何のために死ななければならないのかがライトなタッチで書かれている。

『シェード』は、アンティーク家具屋に置かれたランプシェードにまつわる話が老婆により語られていく。ただそれだけのことなんだけど、ガラス細工と芸術との本質的な違い、職人の恋と魂と、終焉のない永遠。儚くも終わらない脆くも消えることのない形と心の違いが主人公の恋愛とともに綴られていく。眼に見えない何かを乗り越えて現実にしていくって案外大変なことなんだということを思い出す。


それにしてもよく勉強している作家。女性についても決して多くを語っているわけではないけれど、ズバッとイメージが入ってきてしまう。言葉遣いにしてもセリフだけでは男か女かわからない。恋愛小説と呼ぶほどの甘さやせつなさが欠如しているのは、そういう現代風な女性の生き様がクリアに描かれてしまいすぎているせいかもしれない。

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September 09, 2005

『教育のプロが語る 「できる子ども」は環境で決まる』 北野大著

娘を塾へ送り届けた帰りに本屋で買ったのは、北野大さんの『教育のプロが語る 「できる子ども」は環境で決まる』 。いわゆる対談集。一気に通読してしまった。

きっかけはコープの注文書を書いている時、学校選びのための本があったのだけど、2週間待つのはかったるいので本屋へ向かった。まあ、無ければ無いでかまわない。

その時に見つけたのが、この本だった。

それこそ公立、私立、塾、予備校などジャンルは若干違ってもどの先生にも教育に対する熱意と工夫があり、1人でもこんな先生がいたらどんなだるだるの学校でもたちまちピカピカの学校になってしまいそう。

そこで気がついたのが、もしかすると今の教育をダメにしている真の理由は教師を批判しすぎることかもしれないと思った。子どもを褒めるのは当たり前だけど、教師も褒めないとダメかもしれない。批判するのはあまりにも簡単で、苦情を言うのも簡単な昨今、教師を褒めたり評価するというのは案外難しい。それどころか挨拶代わり、世間話代わりに教師の噂話は多い。

親という立場を離れて教師をしている人と話すと、大抵は精神状態がボロボロなことに気づく。ゆとり教育になって以来、ゆとり教育とは関係ないのかもしれないけど、ノイローゼになる教師の数が3倍になったそう。あっさり語ればこれって怖い。だって、子どもはとても長い間学校で過ごすわけで、先生が元気一杯なら子どもたちも活気付く。その逆の先生といつも一緒にいるというのは大変だ・・・

しかも、教育ってすぐに答えが出る仕事ではないし、世論に振り回されやすいし、それでいて責任が問われるし、ストレス過多でダウンしてしまっても無理はない。しかも、あの薄っぺらな教科書に対して、濃厚で高度な内容を教えなければならない。かなりの指導力が問われる。しかも、教員免許の更新制度が導入されるとなったら・・・しかも、熱心な先生が排除されやすい昨今、やる気のある生徒は塾や予備校へ。

まあ、いいや・・・
それより、学校選びのポイントとして、エピローグに、「それなりに評価されている学校には独特の雰囲気があり、恩師と思える教師がいて、切磋琢磨できる友人がいるはずだ。」(本文 p. 187 から引用)と書かれている。なるほどと思いつつ、さほど難しい条件ではない。それでいて、今の時代には案外難しいような気がしている。

独特の雰囲気、恩師、切磋琢磨できる友人。確かにこの3つの条件が揃っていれば・・・何となくやる気に満ちあふれるような・・・

(こらこら・・・肝心の家庭での生活については書かないのか?>わたし)

⇒ トラステのお題 「こんな先生に我が子を託したい」

う〜む・・・
尊敬できる先生に託したい。

うまく説明できないけど、尊敬できる上司の下で働きたいでしょ? それと一緒で、尊敬できる先生から学びたい、学ばせたい、というのは教育に対する動機づけの原点のような気がするんだけど、それじゃお題になってないかな。

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August 22, 2005

『一市民の反抗―良心の声に従う自由と権利』 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著 (山口晃訳)

面白い本を見つけた。ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(山口晃訳)の『一市民の反抗―良心の声に従う自由と権利』

世界でもっとも影響力のあったエッセイ、というフレコミどおり、この静かな本は本質をわたしたちに教えてくれる何かがある。ガンディーもキング牧師もマンデラもこのエッセイを読んでいた。

『「政府というものはできるだけ国民に干渉しないほうがいい」という言葉を私は心から受け入れます。』という書き出しで始まるこのエッセイは、政府というのが木でつくった銃のようなもので実は何も出来ない代物であることを教えてくれる。

『自由の国を維持しているのは政府ではありません。西部を人の住めるようにしているのも政府ではありません。教育するのも政府ではありません。いずれもアメリカ国民に本来そなわっている性格によって成し遂げられてきたものなのです。もし政府が時どき口をさしはさまなければ、さらに多くのことが成し遂げられていたでしょう。というのは、できることなら人々がお互いに干渉しないための方便として政府があるのです。』(同書 p.9-10 より引用)

『軍隊は政府の腕にすぎません。政府は、国民が自らの意思を実行するために選んだ方法にすぎないのですが、それを通して行動する前に、軍隊がそうであるように、悪用され、本来の目的からそれてしまいがちです。現在のメキシコ戦争をよく見てください。あれは政府を自分の道具のように使っている少数の個人がやっていることです。国民はあんなやり方に、はじめは同意していなかったはずです。』(同書 p.8 より引用)

あれにこれにと引用したくなる部分がたくさんあり、法に忠実になりすぎれば逆に良心を失い、悪を働くかもしれないという人間のもろさについて書かれている。

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August 20, 2005

『希望のニート 現場からのメッセージ』 二神能基著

今回、グアムでうだうだと日に焼けながら読んでいたのは、『希望のニート 現場からのメッセージ』 (二神能基著)。モーリヤックとどちらにしようか迷いつつ・・・

感想としては、ニートになるのはあながち彼らの責任ではないかもしれないということ。誰が悪いと言うより、まずは就職難が背景にあり、普通に大学を出ても就職が難しいというのに、途中でそういう軌道から外れてしまうと親子して立ち往生してしまうのも無理はない気がする。

他人事ではなく、例えば、若い頃うちのダンナが大学を辞めてしまったら今頃何をしていたかわからない。医学部は厳しいから毎年自主退学や放校になる学生はめずらしくない。卒業しても国家試験に合格しない人もいる。もう一度人生をやり直すには疲れていすぎ。

というわけで、すべてのニートがそういう人ではないけれども、高校や大学を中退したり、引きこもりになったり、さらなる就職難。それでいて親が自分の好きなことを探せと言う・・・目にしているのは厳しいサラリーマンライフの晩年を迎えた父親? 母親の心配そうな顔?

しかも、せっかく就職したのに途中で退社してしまったり・・・実は、そちらのほうがもっと深刻らしい。なまじか大きな会社に就職し、そこからさらに再就職先を探すというと、今度はプライドが邪魔をしてそのまま引きこもってしまったり・・・

さらに女性の場合も、再就職が難しいがゆえに妥協した結婚はしたくないとばかりに晩婚化が進む。

著者の二神さんの場合、自身が高校を中退し早稲田大学に進学。その傍ら学習塾や幼稚園を経営。しかも、あっさりそれを捨ててニート歴も長い。そして今はニートのための寮をつくったり、NPOを主宰したり忙しい。

本音を語ると、深く共鳴共感しつつもわたしの場合、娘がいなかったらすでにどうでもいいようなことのようが気がしている。自分に置き換えるにしてもわたしの場合、すでに充分にババアになっているし、今さら就職がどうたらこうたらなど考える気もなく、それでいて何かあれば働かなければならないのだろうし、その時のことはその時になってから考えたらよいとばかりに生きている。

それでいて、今のような窒息しそうな社会が素晴らしいとは思えないし、だからこそ若者は転職を繰り返すようになってしまったのかもしれないし、カラパゴス諸島のウミイグアナとリクイグアナの交配が新種のイグアナを生み出し、彼らがウミイグアナの鋭い爪を持ちリクイグアナのようにサボテンを食べ、親や先祖に足りないところを補いながら生き延びていく姿を思い描いているほうが楽しい。

一つわかっているのは、このままの社会では日本人の数は確実に減少し、そのうち朱鷺のように絶滅してしまうだろうということ。そういう中で、どうやって生き延びていくかは一つの進化の過程なのかもしれないし、地球ですら危うい時代、すでに100年後の世界がどうなっているかも想像できない。

それでいて窒息しそうな社会からの脱出は案外簡単だった。

普通に生きること。

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August 06, 2005

『ニート−フリーターでも失業者でもなく』 玄田有史, 曲沼美恵著

結局、世の中が不景気なのが悪いのかもしれない。ニートも少子化も原因は経済が悪化しているからなのかもしれないし、結婚しないのも経済が原因なのかもしれないし、学歴社会が崩れないのも体制が体制を支持するからなのかもしれないし、専業主婦の悪口を言われたら、「娘は東大に入れます」と言っておけばいいことに気づく。

要するに、世の中の大半の人たちは保守であり、保守に迎合している分には目立たない。ただ、あまりにも保守的だと書籍は売れないしドラマの視聴率も悪いのかもしれないし、保守に迎合しない姿勢というのも言わば保守の現れであり、本屋へ行ったら日本史関係の書籍が売れていることに気づく。

今、面白いよね・・・時代が。それでいて今の時代を掻い潜り、娘が大学を卒業する頃には景気が上向き、就職氷河期の終焉を迎えたとき、それは単なる時代の流れであり、今考えていることはまるで無駄になってしまう。

就職の心配をしないで就職した世代が中高年となり、不景気になったとたんに今度は若者が失業する破目になった。おそらくはそれが事実に近いのかも。数字だけ眺めていたら相当少子化が進行しているため、逆に人手不足を心配しなければならないはず。なんか今の世の中って変。

変だ・・・


玄田 有史, 曲沼 美恵

ニート―フリーターでもなく失業者でもなく


二神 能基

希望のニート 現場からのメッセージ

あまりにも変なので、ニート関係の書籍を2冊。今日読み始めたのは、『ニート』 (玄田有史, 曲沼美恵著)。まだ最初しか読んでいない。でも、なるほどなぁ・・というのが感想。あまりにも就職難だからやたらと職に就くための競争が激化しているのが原因なのかもしれない。

うちの世代ってそれこそフリーターの出始めで、世の中が好景気だったから就職を心配している人なんてほとんどいなかった。だから積極的に就職だのキャリアアップだのと大騒ぎする人も少なかったし・・・

で、今度は不景気になり、そういう時代に職に目覚めてしまうとたしかに今のような風潮が蔓延しても不思議はない。ちなみに主婦と失業者とどこが違うのかと思ったら、要するに職安へ行ったり、情報誌を眺めて就職活動をしているにもかかわらず職が見つからない状態を失業と呼ぶらしく、就職活動をしていない、あるいは働く意思のない人たちは失業者の中に入っていないことを知る。

まあ、なんでもいいや。
世相、なんだよね・・・
世相に振り回されるより、自分の生活を大切にしたほうが現実的。

読み終わったらまた書こう。

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August 05, 2005

『ドラゴン桜』 三田紀房著

いきなりダンナが『ドラゴン桜』 (三田紀房)を3巻買ってきた。わたしにも読めと言う。ふざけとんのか、あのおやじ・・・

今、ちょうど塾で歴史をやっているので、明日の分の宿題を娘にやらせていると目の前で1人で読んでいる。『ドラゴン桜』を読んでいると、本当に東大に入れるような気がしてくるらしい。それで、理科砧爐鯀世┐判颪い討△襪蕕靴、すっかりその気になっている。

ちらって読んだら、駿台のノウハウを思い出した。東大が一番問題が素直とか。一次の成績が悪くてもどうして東大なら合格しやすいのか、とか。わたしは国立大学を受けたことがないので知らん・・・ただ、一次が悪かったら東大を狙え、というか、京大はダメだけど東大なら可能性が高いとか、その手の話を昔誰かがしていた記憶がある。私大は問題の傾向がまるで違うのと、それこそ科目が少ない分、重箱の隅をつつくような感じで勉強しないと受からない。

今でも同じなのかと不意に思った。
が、しかし・・・・
「何のために東大に行かないとダメなのかわからない」とダンナに言ったら、「”日本のルールを決めているのは東大出身者。東大を出て何をするかなんて受かってから考えろ”と書いてあるよ」と笑っている。

悪魔のささやきに近い。
要するに、東大なら受かることに意義があるらしい。受かったらどうしようかなんて受かった後に考えたらよいことで、とりあえず東大に受かればそれなりに評価が高いし、それだけで値打ちがある。

大抵は、この手の誘惑があり、大学に入った後にあれこれ考えるのが普通なんだよなぁ・・・と昔のことを振りかえる。最初から大学院へ進学すると思っていたら、また別のルートがあったかもしれない。が、しかし、わたしの時代は少し前まで短大のほうが人気があった時代で、4年制の大学へ進学すると縁談に響くと言われて育ったわたしとしては、院へ進学するのも反対された。

今だったら考えられないかもしれない。が、院へ合格したとたん縁談が減ったのも事実である。

もちろんわたしが今から東大を目指すわけではない。
算数1からのリカバリーなので、娘が言う、「どうせ私なんて」と。すねているわけではなく、そうやって放置して育ててしまったのも事実なので、今頃になってわたしは反省している。算数1からのリカバリー、目指せ東大?

う〜む・・・・
東大を出て、何となく結婚してしまったとしても、東大を出たことに意義があるらしい。とりあえず、デッサンはデッサンでやらせて、理系だったらそれが何かの役に立つこともあるかもしれない。

なんか、自分が酷く間違っているような気がするけど、なんでも流れってあるし・・・学校帰りにコンビニにクルマを停めてふたりでアイスを食べていたのが懐かしいって娘に言われてしまった。つい2週間前のことなのに。娘には娘の人生がある。

6年間、みっちり娘の家庭教師をやったら、ひょっとしてひょっとするかも。どうせ暇だし・・・さすがに絵は教えられないけど。母に反抗して美大?それこそ本望・・・母に反抗してゆうくんとかずくん?ははん、ますます本望(笑)。

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July 21, 2005

『世界の大思想22 パスカル パンセ』 パンセ著 松浪信三郎訳


右側に貼ってあるのは松浪信三郎訳の『ワイド版世界の大思想 (2-5)』 (河出書房新社)。わたしの手元にあるのは大昔の普及版で、表紙も青と黒の縞模様。分売価格が出ているところを見ると、さすがにこれでは売れないってことなんでしょうか・・・3期に分けて14冊ずつセットで発売されるみたいなんですけど、「きゃーっ」って感じ。

ちなみにモーリヤックも1巻と5巻は持っているようですね・・・わたし。それを考えたらなんか悔しい。それでも復刊したことを喜ぶべきなのか、すごく複雑な心境。わたしの手元にある『パスカル』は1500円。ペラペラの表紙。それでも捨てない。

この本を買ったのは、どうやら高校生の頃らしい。少なくても大学へ入ったら哲学関係は読まなくなったし、昭和54年の3版を買っているから。中に赤いボールペンで線が引いてある。ずっと忘れていて、今、そのチェックした箇所を読むとドキッとしてしまう。どうやらわたしは第三篇までしか読んでいないようだ。


わたしが赤線を引いた部分。

*******
52 「田舎者でなければ、田舎者とは言わない。」
80 「びっこの人間は別にわれわれの気にさわるようなことはないが、びっこの精神はわれわれに腹を立てさせる。」
   「われわれは、頭が痛いのでないということ、びっこでないということについては、自分ではっきり確信が持てるが、真なるものを選んでいるかどうかについては、自分でそれほど確信が持てない。」
104 「けれども、義務を思い起こすためには、自分の嫌いなことをするように心がけなければならない。」
108 「ただ嘘を言うのが目的で嘘を言う人もあるからである。」
118 「他のすべての才能を規定する主要な才能。」
123 「彼は十年前に愛したその人を、もはや愛しない。」
129 「われわれの本能は、運動のうちにある。まったき休息は死である。」
136 「些細なことがわれわれを慰めるのは、些細なことがわれわれを悩ますからである。」
154 「汝のほうが有利なのに。私は武器を持っていないのだ。」
193 「小事を蔑視し、大事を信じない人たちは、どういうことになるか?」
233 「無限の上に一を加えても、無限は少しも増加しない。・・・・・・有限は無限の前では消えうせ、まったくの無になる。」 
    「それゆえ数の無限が存在するということは真である。」 
    「われわれはそれが何であるか知らない。」

(『世界の大思想22 パスカル パンセ』 パンセ著 松浪信三郎訳 河出書房新社 より引用)
********

今日一つ付け加えるとしたら・・・

194 乙 「上品さは、親切気のないほうへ向かい、よい信仰は、他人に親切であろうとする。」

『パンセ』は、パスカルが『キリスト教の弁証論』の著作のための覚書として書き残したメモを遺稿集としてまとめたもの。『パンセ』というタイトル名は後から呼ばれるようになったものらしい。何気ない言葉にドキッとさせられてしまう。

この本が未読で終わっているのは、わたしが当時あまりにも若すぎたからだろう。高校生・・・ハードロックを聴きながら、漫画を読み、友達と将来のことや恋愛の話に明け暮れていた。受験勉強の合間に読んでいたんだろうな・・・

わたしがパスカルの言葉を理解していたかどうかはわからない。それでいて屁理屈ばかり言っていたのは、こんな本を密かに読んでいたせいかもしれない。理解するのも大変だっただろうに・・・かわいそうなあたし。ただ何となく心に残った言葉に線を引いていっただけのような記憶がある。頭に残ったのではなく、心に残った言葉。四半世紀の空白が埋められてゆく。

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July 20, 2005

『パノラマバイブル』

近頃、わたしは聖書を読んでいて楽しくてたまらない。どうしてだろう。苦しみから聖書を欲しているのではなく、喜びから聖書を読んでいるからかもしれない。昔と今で大きく違うのは、若ければ箴言も苦い言葉だけど、老いてくればどれももっともなことばかりと思ってしまうからかもしれない。

これは、ババアの自己中化現象なのだろうか?
自分のことは棚にあげてしまう。

一つの諦めに近いものが出来上がってくる。

モーリヤックを読んでいても、そう。若い頃ならそうはなりたくないと怯えた話でも、今はストーリーを読んでいて、自分が幸せに思えてしまう。つまりはどこか他人事としてストーリーを追う。そして、書かれている話がどこにでも落ちているような平凡な話に思えてしまうことが不思議でならない。

神に感謝と言うけれど、こんな気持ちで感謝してよいものかどうかいつも逡巡する。そういった類の逡巡もやがては気にならなくなるのかもしれない。どうやって生きていても誰でもいつかは死ぬ。長生きする人たちが増えて、やがては何もすることもなく死を待つようになる。何もしていなければ暈けるし、何かしようとしても怪我を心配するようになる。

どうやって生きても、いくら財産があろうとも、そういうものがやがては何の値打ちも持たないようになる。だからといって、むやみな生き方もつまらない。世の中にはまだまだ未知の世界が存在していると思うだけで楽しい。聖書を最初から最後まで読んだとしても何がわかるというのだろう。実は何かを読んでいるようで何も読んでいないことに気づき、言葉が自分の中で生きたものとなるまで、何度も同じことを考える。そしてそれは自分だけではなく、皆が同じようなことを考えつついまだに解決には至りそうにない難題を含みながら、結局は受け入れるしかないことだと諦めるようになる。

それは若い頃にはかちんときた箴言が何となくもっともなことに思えるような諦め方に似ている。

そういう辛口な発想から逃れたいというわけではないけれども、『パノラマバイブル』だって…。立体的に聖書を解説してあるらしい。解説なんてどうして必要なのかわからない。それでいて、素直に解説を楽しんでもよいのかもしれないと、近頃何となく思うのである。それは記述としての聖書であり、自分の感性としてのみことばではない。

『アートバイブル』を読みながら、聖書の世界をこうやってイメージしたのかと、それぞれの画家の世界を比較するのも楽しいし、そうやって誰かが解釈した記述を眺めるのもそれなりに趣がある。

『パノラマバイブル』はまるで百科事典のような聖書だと思いつつ、人体解剖図を眺めても人間が理解できないのにも似ている。それでも人体解剖図は人間の一部を語っているには違いなく、それで聖書が理解できるはずもないと思いながら、そういう聖書の読み方もあるのではないかと。

パノラマバイブル


『パノラマバイブル』  9月1日発売予定。先行予約受付中(期間:5月1日〜10月1日まで)。一割引。

投稿者 Blue Wind : 10:33 AM | コメント (0) | トラックバック

『癩者への接吻』の終章 モーリヤック著 若林真訳

モーリヤックの『癩者への接吻』が発表されたのが1922年、その10年後に終章。それまでに書いた小説の中の人物をよりクリアにする狙いで次々に続編が発表された中の一つ。

夫を亡くし、舅と暮らすノエミ。舅は病気で気難しく、ノエミがちょっとでも外出するとあちこちイタイイタイが始まる。しかも遺言で再婚を禁止されたため、ノエミはほかに選択肢のない人生。その中での気晴らしが食べること。このため肥満。健康のために歩かなければならないノエミの息抜きは子どもたちの面倒をみるというご奉仕。

そういう牢獄のような生活の中で、ノエミはある日義父の死を待つ自分を感じる。憎悪ではない。ただ、彼女の唯一の楽しみがそういう生活から解放された後に旅に行くことを夢見ることだったり・・・

ある日ぷっつんした彼女は、舅の食事療法を無視して、スープを食べる。普通の人ならどうということはないささやかな日常。だけどそれがまるで殺人のようにおおげさになる。そして、好物を目の前にして我慢ができずにスープとワインを飲んだ舅。

彼女の甘い期待は裏切られ、舅の静かな寝息。そして、母親のように、病人に布団を掛けて彼女の一日は終わった。

投稿者 Blue Wind : 01:20 AM | コメント (0) | トラックバック

July 19, 2005

『癩者への接吻』 モーリヤック著 若林真訳

めずらしく徹夜で読書してしまった。『癩者への接吻』を読み終えて、ジプシー・キングスを聴いているとほっとしてしまう。

モーリヤックの描く繊細で愛に飢えたる者の世界は、ひたすらランド地方の自然と登場人物の見ている風景により進められて行く。ストーリーはとても簡単。ランド地方に生まれた醜いブルジョアの息子が結婚する。彼は美しい妻に恋しているが、妻は彼を好きになることができない。窒息しそうな生活。そして、彼は結核に感染し、妻のやさしい愛に包まれて死ぬ。

ただそれだけのストーリーなのよね・・・幼い頃に母を失い、家の中に引きこもるように育てられ、愛する人と幸運にも結婚することになる。彼は妻の愛が欲しい。だけど、彼女はどうしても彼を男としては愛せない。窒息しそうな嫌悪感。それでいて貞淑な妻。

自分の存在が愛する人を苦しめているという現実。逃れられない自己嫌悪。そして、彼はわざと結核に感染してしまう。当時は不治の病。つまりは、結核に感染した友につくすという美しい行為による遠まわしの自殺。

そこには温かさなど微塵もなく、むしろ灼熱の荒野がよく似合う。

投稿者 Blue Wind : 06:48 AM | コメント (0) | トラックバック

July 17, 2005

日曜日は、『アートバイブル』を読んでエル・グレコ。

日曜日の昼下がり。
あまりの暑さに、結局、梯子を買いに行くのを諦め、1時間くらい『アートバイブル』を眺めていた。人生は短いから一生懸命に聖書を読むより、絵本を眺めるようにバイブルを読むほうが優雅かもしれない。

聖書にも書いてあるではないですか・・・マルタとマリアの話。一生懸命にお客さまをもてなそうとマルタが働いているのに妹のマリアは何もしないでイエスとお話している。当然、姉としてはムッカーッとする。そこで、イエスに、愚痴。ちょっとはマリアに働くように言ってやってくださいな、と。ところが、イエスときた日には、「マリアは素晴らしい選択をした」と、こうですもの。

要するに、日曜日にせっせと梯子を買ってきて働くより、聖書でも読んで怠けているほうがみこころにかなっているらしい。

『アートバイブル』が聖書として素晴らしいかどうかはともかく、これだけ名画が並んでいるのも爽快。それでいてこのように名画の羅列を眺めていると、今さらながらエル・グレコは少年漫画のようで面白い。どこが違うのかといえば、やっぱり顔だろうな・・・聖書の中の登場人物が今でも何か言い出しそうな顔をして並んでいる。その表情の豊かさというか、ユニークさはグレコのチャームポイント。


ヴェロニカ ブリューン・デ・オーサ, Veronica de Bruyn‐de Osa, 鈴木 久仁子, 相沢 和子
エル・グレコの生涯―1528‐1614神秘の印

エル・グレコで検索したけど、画像のある本がこれしかなかった・・・アマゾンに。


■ネットで鑑賞できるエル・グレコ

『聖衣剥奪』 (トレド大聖堂)、『聖三位一体』 (プラド美術館)、『受胎告知』 (大原美術館)、『オルガス伯の埋葬』 (トレド、サント・トメ教会)、『悔悛のペテロ』 (フィリップス・コレクション)など。

投稿者 Blue Wind : 05:07 PM | コメント (0) | トラックバック

July 16, 2005

『タテ社会の力学』 中根千枝著

さっきアメブロにログインしようとしたら、いきなりできずに慌てた。何度やってもダメなのでパスワードを再発行してもらう手続きをし、そのままそれでログインしてこれを書いている。一時的なものなのか、それともわたしの知らないところで何かがあったのか原因不明。

近頃、古い本ばかりが思い出される。読んだものもあれば、読まずにそのままになってしまったものもあるし、いずれにせよ記憶の彼方にある本ばかり。

中根千枝の『タテ社会の力学』 が流行ったのもわたしが高校生くらいの頃だったような・・・名前からの連想のせいか、この本と中曽根康弘のサミット登場、「ロンとヤス」とか古い言葉を思い出さずにはいられない。

まだアメリカに幻想を抱けるほど、わたしが若かった頃。今はなんと言うか、ハワイの通りを歩いているアメリカ人を眺めて、少しはダイエットしろよ、と思う程度で、フィレンツェの美術館のキューですぐ後ろにいたニューヨーカーのアホさ加減とずうずうしさにも慣れてしまったし、海外でアメリカ人に出くわすと大抵は親日家が多く、何となく逆に馴れ馴れしいような気さえする。

いいんだけどね・・・仲が悪いよりは良いほうがいいに決まってるから。でも、イラク戦争以来、アメリカ人には馴れ馴れしくされたくない、一緒にされたくない、って感じるわたしはたしかに少し傲慢なのかもしれない。

『タテ社会の力学』に書かれている日本社会は、わたしのもっとも苦手とする社会構造かもしれない。大集団より小集団での決定や序列を重んじる姿勢。儀礼的な上下関係とかね・・・なんか、そういうの、嫌い。相手が年上だと思えば、とりあえず祭っておけば祟りはないだろうというか・・・のらくらのらくら。

自分的には、そういう儀礼社会の中にいるより、1人でいるほうが気楽。窒息しそうになる。困った。

かといって、アメリカ的民衆のパワーにもいささかうんざり。ぎゃーすかぎゃーすか集団でうるさいなーって思うだけ。「あんた、少しは黙っていられないの?」みたいな気分に陥る。このため、アメリカではいつも強いリーダーシップが要求されるらしい。

そのどちらにもうんざりしながら、のらくらのらくら・・・

タテ社会の維持に必要なのは謙遜の美徳。上がつっぱらかっていたら反感ばかりが募りまとまらない。このため日本人の理想の上司像とかね・・・ものわかりのよさ、というのが目下に好かれるポイントらしい。

リストラ、か。
自分的にはそれは無理もないことだと思っている。タテ社会を支えていたのが、謙遜やものわかりのよさだとすると、そのどちらも欠如したまま民衆のパワー的上司が出来上がれば、世は乱れるばかり。そうなると、無理に力でタテ社会を維持するか、あるいはタテ社会そのものを破壊しようとするか、いずれにせよ屈折したエネルギーがぶつかり合う社会構造になっていく。

まったく関係ない話題だけど、不意にお寿司屋さんの奥さんを思い出した。わたしが学生時代に近所に住んでいた人で、ご主人がたしか10歳くらい年下だったような・・・彼女は九州の国立大学を卒業し、東京でかなり長い間OLをしていたはず。わたしより20歳近く年上だったので、今はその頃小学生だった息子さんもお寿司屋さんになっているのだろうか。

お寿司屋さんになるための英才教育・・・
それがわたしが彼女から少し学んだことだった。子どもの頃から陶芸、書道。そのくせあまり勉強はさせない。あの矛盾に満ちた人生観と教育ママぶりはある意味尊敬ものだった。

寿司屋の世界は昔ながらの寿司職人の世界。上下関係も厳しい。そういう中で、10歳年下のご主人をいつも担がなければならない。息子には別の人生があるかもしれないのに・・とは思ったけど、将来は寿司屋、って言い切っていた。でも、正直、渋谷の界隈で、器のよしあしやお品書きの素晴らしさが評価される店を経営するのは大変かもしれない。ライバルは回転寿司だし、回転寿司にしても近頃は競争が激しいせいか、ボリューム、ネタ、アイデア、その他諸々商売は大変。

わたしみたいにだるだるに生きていると、近頃ではたまにダンナが連れて行ってくれる接待用の寿司屋へ行くより、ダンナが飲み会で留守の時に娘と一緒に行く回転寿司屋の海ぶどうのにぎり寿司を食べているほうがよくなってしまう。

姑さんもひとり暮らしのせいか、昔だったらどこか美味しいものでも食べに行こうとばかりに寿司屋や料亭などを予約したりしていたのに、このところだるだるだから行きたがらない。おじいさんが生きていた頃は、たまには労をねぎらう意味もあってか、あちこち食べに行くのが好きだったのに、近頃はひとりだったらつまらないからと言って、外食よりも手巻き寿司のほうがいいらしい。

投稿者 Blue Wind : 05:47 PM | コメント (0) | トラックバック

July 15, 2005

『俳人のためのやまとことばワンポイントレッスン―俳句・俳諧の日本語』 林義雄著

一体どうしたのでしょう?
わたしは俳人になろうとしているのでしょうか?

いいえ、違います。単に懐かしかったんです。本屋で見つけた時。

めちゃくちゃ懐かしいですね、林義雄先生。大学で講義を受けたわけではなく、高校生の時に、旺文社の主催する受験合宿があったんです、栂池で。たしかその時に古文を担当なさっていたのではないかと。

どうして覚えているかというと、国語の辞書か何かにサインしてもらったんです。「先生、サインしてくださ〜い!」というノリ。特に意味はなく、何となく記念に一言書いてもらおうと思っただけのような記憶があります。

その合宿にしても、高3の頃。たまたま夏休みの前に友達に誘われて参加しただけ。というのは、その頃は特にわたしは外部大学を受験しようと思っていたわけでもなかったし、逆に誘ってくれた友達のほうが意外で、「へ〜」という感じで感心してしまった。

実際には、友達同士で旅行へ行く、というノリに近かった、ということに気づいたのは参加してからだけど。なんせ場所はスキー場。夏とはいえ、なかなか自由な雰囲気。17歳の夏には刺激的だったかもしれない。結構、全国から集まってきていて、友達もでき、わたしは影響を受けやすい性格なので、そのまま付属の女子大へ進学するのがいやになってしまった。逆に一緒に行った友達のほうはその後受験をやめてしまった。なんかね・・・いつもきっかけは些細なことなんだろう、何かをしようと思うのは。

『俳人のためのやまとことばワンポイントレッスン―俳句・俳諧の日本語』 は、まるでその時の講義のよう。ちらっと目を通しただけでも予備校のテキストのよう。古文のテキストは大抵は古文が書いてあり、必要な部分は自分でノートをとらなければならない。文語や歴史的仮名遣いを覚える。古典文法。幸いこの本は予備校のテキストではないので解説が書いてある。

考えてみれば、短歌を詠むのに近頃では文語や文法、あるいは歴史的仮名遣いといったややこしいものを使う必要性はないのだけど、たしかに「けり」や「かな」で切ったうたに口語が混じっているほうが変なのかもしれない。自分的にはあまりそういうややこしいことは考えないけど。一首の中にひらがなと漢字とカタカナが混じっているのと似たような感覚でしか捉えたことがない。

でも、そういった屁理屈は別として、知識としてきちんと違いを把握しておくのは大切。わたしは、「しづもる」という表現が好きなのだけど、実はこれが比較的新しい用語だということを初めて知る。平安時代から使われている言葉だろうと17世紀に入ってから使われるようになった言葉だろうと、明治時代に出現した言葉だろうと、現代においてはすでに旧いには違いない。でも、そういう旧い言葉が今でも生きているのが俳句であり短歌。どうして旧い言葉を使うかといえば、ニュアンスとしてほかにぴったりな言葉がなかなか浮ばないということもあるし、そういう意味では死んだ言葉ではない。

日本語学には興味はないけれども、一度きちんと文法という視点で言葉を眺めてみることも何かに役に立つかも。文語を使うとか使わないとか、その手のややこしいことを考える前に、シンプルに何かを学べるということは素晴らしい。さっぱりしているもの。作品としての優劣ではなく、感性でもなく、単なる文法から考える。

短歌より俳句のほうがさっぱりしていると思うことがある。近頃、本屋へ行くとやたらと俳句の本が増えた。もしかすると短歌よりも人気があるのかもしれない。その理由は季語ややまとことばを使うことにより、案外簡単にそれっぽい句を詠めるからかも。・・・・・・と言ったら叱られるかもしれないけど。季語にまったく頼らず詠うというのは案外疲れる。

投稿者 Blue Wind : 06:38 AM | コメント (0) | トラックバック

July 14, 2005

『なんとなく、クリスタル』 田中康夫著

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』 を読んだことがありますか〜?
わたしは無いで〜っす!!

買ったんだけどね・・・流行っていたから。
高校生の頃だったと思う。

当時は、サーファー・ルックとかハマトラとか、わけのわからん流行があり、その流行の一つにこの小説があったんだけど、カタカナが並んでいるだけで、どこからストーリーが始まるのかまるで理解できないまま最初の数行を読んだだけで放り出したまま消えてしまった本。

その前後に、The Mamas & the Papasの『California Dreamin'』 が流行っていて、この曲が『恋する惑星』という香港映画の中で流れていたときには、ちょっとのけぞってしまった。
踊るフェイ・ウォン・・・
その後、レンタルショップでフェイ・ウォンのCDをレンタルしたけど、どこがよいのかまったく理解できなかった。(ファンの人、ごめんなさい)

はっきり言って、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』って小説なのか?
わたし、今でも信じられない。それくらい意味不明のカタカナの羅列本だった。

でも、流行ってイヤね。知らないってことがイヤなのよ。だから、読んでいる人が多かった気がする。その後一斉に学生がブランドバッグで通学するようになり、それ以後とそれ以前とでは学生のイメージすら変化してしまった。

それで、どうしても『なんとなく、クリスタル』が好きになれず、ある日突然何を思ったのか、スタンダールの 『赤と黒』 を買って読んでいたのを覚えている。特に意味はなかったんだけど、何となく古典が読みたくなった。

その辺の気分の変化というのがすでに時代が『なんとなく』という言葉に汚染されていたような気がしなくもない。ただ、気分だけで・・・とか。そういうことが許される時代だった。特に誰が何を訊くこともなく、何となく、というセリフだけが独り歩きしていた気がする。

スタンダールの『赤と黒』も大してストーリーも覚えてはいない。でも、主人公の野心と挫折があまりにもシンプルで、わかりやすい小説だったような記憶がある。赤が象徴するもの、黒が象徴するもの、みたいな世界。

意味不明な言語の羅列を眺めているより、何か別の象徴を求めていたのだろうか。いや・・・そうではない。わたしには単なるカタカナの羅列をすらすらと読み、うんちくを語る人たちが理解できず、それでいて何となくうらやましかったのかもしれない。

松田聖子のデビュー。もう、ああなるとわたしの理解を超えていたため、そうやって時代がわたしの理解を超えてゆくことに対し、危惧すら感じていた。すべてがノスタルジーなんだけど、80年代ってどうしようもない時代だったのかもしれない、とちらっと思う。

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『太陽の季節』 石原慎太郎著

石原慎太郎の『太陽の季節』を読んだことがありますか〜?

今、アマゾンのほうで書評を読んだんだけど、これだけボロカスに書かれている作家もめずらしいかも。わたしが彼の本を読んだのはかれこれ20年以上昔・・・高校生の頃ではなかったかと思う。だから、ストーリーなどは覚えていないけど、その当時の太陽族の様子など、映画も含めて、今の人たちが読んだら怒るのも無理はないな〜という楽しい作品です。みんなでこきおろしましょう。

あっさり語れば、わたしでさえ時代じゃないもの・・・石原慎太郎は。戦後の退廃と共に、「公衆便所」という言葉を覚えたのは、この手の類の映画の中じゃなかったかと思う。その当時、赤線があったのかどうかまでは知らないけど、要するに売春地帯があり、それとは別に誰とでも寝てしまう女のことを裕福そうな青年たちが公衆便所と呼んでいたのが忘れられない。

そういう時代だったんだろうな。
女性は大抵お見合いなどで結婚し、恋愛はタブー。子どもを産めない女は役に立たないとかね・・・とても辛辣で酷い言葉がたくさん出てくる。ましてやそれがベストセラーで、映画も大ヒットという時代。それとは別に、上品な言葉遣いの映画も多く、女優さんにしても清純派がもてはやされた。

恋愛がタブーだったからこそ生み出されるパワーはこの時代ならでは、というノスタルジーもある。

ちなみに石原慎太郎がまた提訴されたそうで・・・都知事なんかしているのが悪いとしか思えない。作家だけしているのなら作品の中で登場人物に過激なセリフを語らせるのも楽しいかもしれないけど、現役の政治家が公の席で発言するというのは無謀だ。

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July 06, 2005

『いつか読書する日』 青木研次著

何なんだ、近頃の『ツボヤキ日記』 は?このところ邦画の紹介が続いている。

邦画だけではなく、わたしは日頃映画をまるで観ない生活をしているため、逆に語れば観ないからこそせめてブログでも? いや、家からすぐのところにレンタルショップがあり、それこそCDやDVDは24時間いつでも好きなときに好きなものを観られる。これで図書館がすぐ近所にあればもっと便利なんだけど・・・

そのくせ、そのうち観ようと思いながらブログを眺めるだけの生活が続く。

その中でもっとも気になるのがタイトルからしていやじゃないですか。 『いつか読書する日』 だって。ビデオやDVDで検索しても見つからないため、原作を。ツボヤキさんの紹介記事は田中裕子主演の映画の話なんですが、50歳まで独身で読書が趣味の女が主人公というのもなぁ・・・設定がすごすぎ。しかも、未読本の多さ。

わたしより上の世代は、年頃の女性が本ばかり読んでいると親が心配したものだった。もっとお洒落したり、デートしたり、女性ならもっとほかにすることがあるだろうというのが世論だったような気がする。おそらくはウーマンリブという言葉も理解している世代だろうし、かといって大学へ進学する人もさほど多くもなかったのでは。理由は高学歴だと縁談と就職に響くから。

そういう中で、ツボヤキさんは不思議がっていたが、わたしには意外と理解しやすい人である・・・この映画の中の主人公は。昭和60年代から働き出すまで彼女が何をしていたか? あのさぁ・・・おそらくは家事手伝いではないかと。売れ残りのレッテルを貼られたまま老いた親と二人暮しをしている人とか、実は案外多い。親を早く亡くしたためちょろっと働きに出る。それが牛乳配達だったりスーパーのレジだったり?そういう生活の中で、唯一の贅沢が読書だったという設定も何となく理解しやすい。だって、勉強を続けたくてもそのまま家事手伝いに入ってしまう人たちもめずらしくはなかった。

中には、親が病気になり、誰が世話をするか? その結果、昔は介護保険なんてなかったから、泣く泣くオールドミスの姉が1人残ってほかの兄弟姉妹はそれとなく経済援助をするだけ、みたいなケースで独身を続けている人もいた。外出もできないから、せいぜい家で本を読むくらいしか楽しみがなかったのでは。

都会の片隅には、案外いるんだよなぁ・・・などということを何となく思い出す。ノスタルジー。行きつけの喫茶店の隣に蕎麦屋があり、世の中がバブルに浮かれている頃、そこの蕎麦屋の娘はたしか売れ残りで暮らしていたはずだけど、向かいに住んでいるのにわたしは彼女を知らない。その隣にはいつ建てられたのかわからない家があり、聞くところによるとおまわりさんが住んでいたらしい。ちょっと通りに出ると、げいのーじんが乗ってきたらしい派手な車が違法駐車している傍で、昭和初期からつづく景色が広がっていた渋谷。古い商店街の本屋が大家さんだった下馬。なんか懐かしい。下馬時代はコープの集まりにまで参加していたし・・・行きつけの喫茶店のおばさんの実家は桜新町で、農家だったんだよね・・・いまだに本家だの分家だのとやっている。そのおまわりさんの古い家や蕎麦屋には黄色い牛乳配達用の箱が掛けられていたのを思い出す。下町育ちの母にとっては世田谷や渋谷の界隈は田舎だったのだそう。

そうやってどんどん変化する街並みや時代に取り残されていくような気がするから不思議だ。

この前、イッセー尾形の舞台がつくばでやるというのでビラが回ってきた。その中で、「ふつうのひと」を募集していた。どういうのがふつうの人なのかわからないけど、説明によると、こたつでみかんを食べているような人なのだそう。ついでに年末には紅白歌合戦を観ている人って書けばいいのに、と思った。


*ちなみにわたしは『いつか読書をする日』の本も映画もみていません。

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July 05, 2005

『イタリアアシジからの伝言−聖フランシスコとともに歩く』 小平正寿著

「2005上半期マイベストブック」というテーマなんですけど、ひねもすをだるだるに過ごしている身には、実はささやかな違いなどどうでもいい気がしています。

修道院。

はあ?

修道院というのは、修道する人たちの院。先日、大和和紀の『あさきゆめみし』を読みながら、出家して修道の道を歩みたいというセリフが随所に出て来るけれど、修道院というのはそういう世界。「山寺へ行け、山寺へ」というセリフがあるけれど、いわばそういう世界なのかもしれない・・・オリジナルは。

小平正寿神父さまの『イタリアアシジからの伝言―聖フランシスコとともに歩く』は、実は日記なのではないかと。サイトを来訪しながら、同じ日記でもわたしの日記とはずいぶん違うなーというのが率直な感想でして、どうしてこれが日記なのかというと、修道というのはそういうものなのかもしれないというのが少し時間を置いてわたしが理解したこと。

真理をめざして歩みつづけよ、という歌詞があるんですけど、真理というのがイエス・キリストをみつけることと理解したのはこの本を読んでから。

なんとなく拍子抜けしてしまった。

わたしはおバカだから、「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの〜♪」というのが修道に相当するのかも。

もともとが理屈に基づく人間不信というか、なんせ座右の銘が「人間なんていつの時代も変わらない」。つまり、古今東西人間なんて同じことを考え悩み苦しみそれが今でも続いている、というのがわたしの率直な人間観だし、人が新しく生まれて育てば結局は大昔の人たちが悩んだことを悩み続けながら生きていくだけ、というのが文学観でもあるし、そういう点では文学はいまだかつて人間を裏切らないような気がします。

今、古典がブームらしい。源氏物語の中で、光源氏が明石に流され、友も家族も従者さえも彼を見捨てて行く。そういう中で彼を助けてくれる人たち、そして苦しむ彼の姿にイエスさまの姿を重ねてしまうのはわたしがシンプルだからなのかもしれないし、そして彼がそれを自分の運命だったと受け止めるまで・・・

文化も形も違うけれども、真理をみつけるということは形にこだわることではない。

『アシジからの伝言』の中に、「平和の道への対話」という節があるのですが、聖フランシスコが騎士道を捨てて修道の道を歩み、そして自らを平和の道具となるように神さまにお祈りし、彼が乗り越えて行った厳しい3つの壁について書かれています。十字軍の時代ですから。

1つめの壁は、ハンセン病患者の抱擁。つまり「他者を敵とし危険とする自己防衛」の壁。2つめの壁は、「人を良い人と悪い人に分類して悪い人を追いやる」という壁。「泥棒に遭遇した場合も、逃げて行く泥棒のあとを兄弟に追いかけさせ、大声で、「兄弟泥棒さん」と呼んでパンとぶどう酒とを与え」たそうです。3つめの壁は、宗教の壁。マニケイズムというのがどういうものがわからないけれども、キリスト者を正しい者とし、非キリスト者や異端者たちを悪い者として切り離すという考え方だそうです。聖フランシスコはスルタンとの出会いにより、イスラム教徒もイエス・キリストによって贖われただけでなく、彼らも祈りの人々であることに気がついた。

わたしは不思議なことにアシジの満月を眺めて、思い出したのは西行。弓の名手である西行が出家し、日本の神仏思想が彼の願掛けによるものだということを知る。西行の話から聖フランシスコを思い出すのか、聖フランシスコから西行を思い出すのか、今となってはどうでもいいような気がしている。わたしがカルチェリの庵を歩きながら思い出したのは不思議なことに出雲大社の苔むした岩。わたしがポルチウンクラの中に座ったとたん訪れたのは不思議な無我の世界。それがわたしだけではなくむすめも同じように眠りとも違う眠りの世界に誘われていたことを知るにつれ、その不思議さを思わずにはいられない。

おバカなんだよね・・・源氏物語からイエス・キリスト、アシジから神仏を想うというのは。それでもその昔、コジモ・ディ・メディチが修道院の中に天窓をつくり、いつも天とお話していたことを知るにつれ、その牢獄のようなしつらえの部屋を思い出すたび、修道というのはそういうものなのかもしれないと諦めにも似たものを感じるようになった。

止めはオオクニヌシノミコトが背負っていた袋の中身・・・あの中には金銀財宝などではなく、実はダイコクさまが生きている間になさった苦労がずっしり詰まっているらしい。イエスさまは自ら十字架を背負って歩いた。わたしはエルサレムへ行ったことがないのでわからないけれども、遠藤周作の『聖書のなかの女性たち』の最後のほうのページではエルサレム巡礼の話が書かれている。現実のエルサレムはいわば一つの観光地であり、イマジネーションのたくましい人たちの想像を破壊するだけのパワーがあるらしいけど、もしかすると真理を探すというのはそういうことなのかもしれないと思うことも多い。因幡の白兎の浜・・・

人それぞれなのかも。

紫式部のあのだるだるな文章が素晴らしいと思っている人もいれば、大和和紀の創作のほうが優れていると思う人もいるでしょうし、わたしのように源氏物語に旧約聖書の世界を見つけたり、イエス・キリストをみつけたりする人間もいるということで。世の中は人それぞれ。

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July 04, 2005

『あさきゆめみし』 大和和紀著

土曜日、娘が『ちゃお』を買いたいというので一緒に本屋へ行った。わたしはそのままコミック売り場へ行き、昔と違って立ち読みする人たちのいないコーナーを徘徊。文庫以外はまるでわからないですね・・・もしかするとぐるぐるさん の正体?もわかるかもしれないと期待したんですけど、まるでわからない・・・(汗

「お母さん、漫画読むの?」
「流行ってるのよ」

どこで流行っているかは別として、娘があまりにも不思議そうな顔をするのを尻目に、漫画文庫のコーナーから大和和紀の『あさきゆめみし』 を7冊まるごと取出しレジへ運んだ。

正直言って、今まで源氏物語が心から素晴らしいと思ったことはないんですけど、ほとんど一気に第5巻までを通読し、特に読み慣れた第1巻などは大和和紀の描き出す源氏の世界に生きている人としての光源氏を感じて感服してしまいました。源氏物語は長いから大抵は源氏が明石から戻ってしまった頃から次第にだるだるになってしまう。それにもかかわらず、どうにか最後まで。ただし、宇治十帖の第6、7巻は未読。

源氏物語はとても狭い世界。世の中は天皇家と藤原家しか存在しないのではないかというくらい恋愛や結婚でも限られた人たちばかりが登場する。登場人物のほとんどが友や妻といえども親戚。それでいて政敵でもあるし親友でもあるし、姻戚でもある。栄華のすべてが帝になることだったり、国母(帝の母)になることだったり、家の繁栄が結婚や出産と密接に関連があるため、家の中がまるごと権力抗争の世界。

悲しいけれども、そういう窒息しそうな世界で、唯一癒しがあるとすれば親子の情だったり、子を通じてだったり、出家することだったり、戯れの恋。恋の多い光源氏を正当化するものがあるとすれば、幼き日に母を亡くしたこと、心をゆるせる相手が女性しかいないことかな。

気に染まぬ結婚や恋愛ですら、生活がかかっているから、考えてみれば誰も自分の味方は存在しないに等しい。それでいてより多く愛したほうが負けと語りながら物の怪にまでなってしまった六条の御息所。旧約聖書の世界のような癒しのなさ。単なる愛欲のむなしさを語るストーリーに終わってしまわないのは一貫した神仏への信仰心。帝のうえに神仏がある。だからこそ聖と俗はあきらかに一線を引きながら生と死を境にしながら存在している。

人間の愚かさ・・・

わたしは日本の古典が嫌い。それでいて結局人は幾世紀にも渡って、花を見たり、鳥の鳴き声に心の癒しを求めて生きてきたのだと思うと、感慨深いものを覚えざるを得ない。どうして花や月のうたがあれほどまでに多いのか・・・どうしてあれほどまでに自然を愛さなければならなかったのか・・・

源氏物語に登場する人たちは誰もが人には語れない苦しみを胸の底に抱えた人たちであり、結局それを癒してくれるのは花や雪や月。

わたしは日本の古典が少しも好きにはなれなかったけれども、嫌いなら嫌いの理由も理解しなければならない年頃であり、むしろ淡々としてそういうものを眺められるようになったことを喜ばなければならないのかもしれない。

投稿者 Blue Wind : 09:04 AM | コメント (0) | トラックバック

June 30, 2005

『ワイルド・スワン』 ユン・チアン著

カースト制度の唯一優れたところは失業者が出ないことらしい。少なくても日本がカースト制なら若貴のようなややこしい確執もないということで、若者が転職を繰り返したり、失業に悩んだりしなくてもすむ。考えようによっては国が裕福なら楽な制度なのかも。その代わり就労の義務のない娘はとかく高い持参金をぼったくられ、これにより殺人事件が多発するというのもなぁ・・・きもちわるい。

先祖代々五千年以上・・・歌舞伎どころじゃないね。生まれ変わりを信じているからこそ、支えられている制度なんだろうか。善を積めば来世は上、悪いことをすれば来世は下。バカバカしい、で終わらないところが社会、政治、生活。

ちょうど『女盗賊プーラン』 を読んだ頃、『ワイルド・スワン』 を同時に読んだ記憶がある。昨日、書評を書こうと思ったけどタイトルを思い出せなくて断念した。探せばどこかにあるのかもしれないけど、この手の本はすでに本棚の奥のほうにひっそりと隠れているため探すほうが大変。

ストーリーはちょうど文化大革命の頃の様子が書かれており、祖母・母・娘の3世代に渡るノン・フィクション。軍閥将軍の妾だった祖母、共産党員の両親、そして著者が渡米するまで。プーランは彼女自身が壮絶な運命をたどったけれども、ユン・チアンの場合はまさしく生活が歴史のサンプルみたい。

表舞台となる歴史よりも、その歴史や社会の裏側で、生まれても名前も与えられない女の子とか、纏足とか妾とか、そちらのほうがショッキング。女性の地位という言葉がこれほどシリアスな意味を持ち、それこそ何のために生まれてきたのか考えざるを得ないほど壮絶な差別。そして、中国から見た日本軍。台湾へ逃げた国民党。どうして共産主義が中国で革命をもって迎えられたのか。

読んでいてつらかったのは、共産主義に移行する前の中国社会がどこか日本の古い社会に似ているということだったかも。思想というのは伝わるものであり、日本という国がいかに中国の影響を強く受けて発展してきた国かを感じた。つまりは、良い点だけではなく悪い点もよく似ており、官僚主導型とか賄賂とか女性の地位の低さとか、その他諸々インドを含め、日本社会の雛形がそこここに存在している。

一つわかったのは、中国はそういう自国の旧い体質を嫌い共産主義に移行し、なおかつ今でも日本がかつての旧いスタイルの国だと彼らが思っていることかな。

それが事実かどうか、わたしにはわからない。今でも旧い体質が残っているところには残っているし、それでいて女性の地位がまるきり悲惨なものとも思っていない。女性が自立するということは実は恐ろしいほど社会の根底を覆すほどのパワーがあり、それでいてそれを支えているのは年金制度かもしれないと思うこともあり、孝行者に嫁はなし、という実情を考えると、無血革命が静かに進行していたような気もするし、どうなんでしょう。

が、しかし・・・・

なんか、どうでもいいような気がしている。祖母の時代があり、母の時代があり、わたしの時代があり、娘の時代になる。

投稿者 Blue Wind : 10:51 AM | コメント (0) | トラックバック

June 28, 2005

森瑤子

忍び寄る老眼の恐怖・・・・
もしかするとそれもそんなに遠い話ではないんだなーと思いながら、画面を眺める。そうなったら液晶大画面で巨大文字の電子ブックでも買って本を読むしかない? そういう時代が遠くなくやってくるかもしれない。今はまだネット・ユーザはどうしても若い人たちが多いし、文字も小さいほうが負荷が小さいような気がするし、レイアウトも綺麗。でも、そんなことを言っている場合じゃないって?

でも、老眼で思い出すのがどうして森瑤子なのか不思議だ。
今から20年くらい前、森瑤子はものすごく流行っていた。わたしが最後に彼女の小説を読んだのがいつか思い出せない。

ただ、彼女が『風と共に去りぬ』の続編を翻訳していたのを覚えているし、実は自分で『風と共に去りぬ』の続編を書きたかったとまえがきかあとがきに書いてあり、わたしがその本を読んで間もなく彼女が急死したことも覚えている。

今となっては幻の本。母が『風と共に去りぬ』が好きなことを思い出し、みやげ代わりに実家へ持って行ったことは何となく覚えているのだけど、その後どこへ行ってしまったのだろう。タイトルすら忘れてしまった。その後、スカーレット・オハラがアイルランドへ渡り、女の子を出産したというストーリーだったと思う。

森瑤子のよさというのは、とかく重く暗くなりがちのモチーフをフライパンのうえの玉子焼きのように裏も表もさっぱりと焦げつかない程度に仕上げてしまうところかも。だから口当たりがよい。ちょっとスパイシーなところもありきたりの玉子焼きでもごちそうになることを教えてくれる作家だった。

それはね・・・・主婦というつまらないありふれた人種をたちまちドラマの主役に押し上げてしまう彼女の手法はセンセーショナルでもあったし、森瑤子をガイドブックにしてオリエンタルな世界を徘徊するのも楽しかったし、夕立で飛び込んだ六本木のブック・ストアというのがO. ヘンリーを買ったあの店、というのがすぐわかるほど舞台設定が具体的だし、この前、ラジオから流れてきたユーミンの『中央フリーウェイ』の風景描写にも似て、何気なく通過してしまえば単なる風景を小気味良くドラマの舞台に書き直してくれる。

わたしなんて、「猫科の男」というのがどういう雰囲気なのかたしかめたくてランカウイ島へ行ったようなものだ。う〜む、たしかに猫科の男だったとしか語れない。あの笑みのない世界、足音のない歩き方、それでいて親切。寡黙なセクシーさというのがあるね・・・マレーシアには。でもそういうドキっとするような話でも、森瑤子のあのクールさを連想するとどうでもいいことのような気がしてしまう。

なんで老眼を思い出すのかといえば、普段は老眼鏡などかけていないにもかかわらず、なりふりかまわず老眼鏡をかけながら森瑤子を読みふけっているうちにとうとう図書館にまで通うようになってしまった行きつけの喫茶店のおばさんを思い出してしまうのかもしれないし、その読書熱がちまたに広がり始め、あの時代はみんなでバカみたいに本を読んでいた気がする。(老いも若きも?)

でも、それが更年期障害から中年女性を救うらしいという話をこの前何かのテレビで言っていて、老眼鏡が必要になったら森瑤子の小説は健康器具になるかもしれない? 長生きしていたら、今頃どんな小説を書いているのかすごく気になる作家の1人。個性も時代も作品にも終わりがあることを知る。

売れっ子老眼作家、か。さすが。
ぼぉ〜っとしているうちに、彼女の年になってしまった・・・月日は早い。

投稿者 Blue Wind : 07:24 AM | コメント (0) | トラックバック

June 24, 2005

ブック・バトン

もう、研究を離れて10年以上になり、その間のわたしはどこか書物に対しては魂の抜け殻であり、思い出すのは青春時代に読んだ本ばかり。スピリッツの伝達なくして書物ほど邪魔な代物はないだろう。重いし、場所をとるし、それでいて捨てるも買うも風まかせのようで・・・

アメブロにブログをつくって唯一素晴らしいと思ったのは、ぐたさん みたいに根っからの本好きとの出会いかもしれないです。正直言って、わたしの好きな本とか思い出の本は文学ではなく研究関係がほとんどで、そういう意味でなかなか書評を書く気にはなれません。つまりは封印した過去を紐解くのはかなりしんどいのです。理由はいくつもあるけど、いまだに心の整理がつかない。仕事という以上にスピリッツそのものだったから。

純粋に本が好きだったわけじゃないですからね・・・要するに、活字はコピーの中にあり、みたいな生活だったし、むしろ本の形をとったものは終わったものとしての認識しかなかった。

再び、ブック・バトンがやってきたようで・・・
ほんと、ぐたさんは懲りない。(笑)


Q1:あなたの本の所持数は?

わからないです。数えられない、すでに。本棚だけでも10本。そのほかに籠やダンボールが15個くらいあるし、テーブルの下や中、収納できる椅子の中にも。屋根裏にも未読の文庫ばかりを入れたものがあったはず。これは引越しした時のまま箱も開けていません。今月だけでも気がつけば20冊増強しているわけだし、これをどうやって数えて整理したらよいのかまるで検討もつかない。

だから、自然と文庫や雑誌、マンガの類は読み終わると処分してしまいます。プレミアを考えるともったいないけど、暮らしていけないですからね・・・捨てないと。

Q2:今読んでいる本は?

『不在の神は<風>の中に』をまだ読み終わっていません。それとは別に途中になっている本が数多あり、今、わたしのパソコンの隣にはこのほかに聖書、『モーリヤック著作集2』、『釈超空短歌綜集』とパズルが数冊。パズルと聖書は毎日開いています・・・(汗

Q3:最後に買った本は?

最近買った本という意味かな?(笑)
買ったわけではないけど、一昨日くらいに届いた結社誌が一番新しいかな。雑誌だけでも毎月10冊以上届くじゃないですか・・・昨今。でも記憶に新しいのは『モーリヤック著作集』と遠藤周作シリーズでしょうか。わたしにしてはめずらしく気合が入ってますから、今回。

アマゾンのギフト・カードをささやかながらもゲットしたので、来月はシモーヌ・ヴェイユを取り寄せようかと思っています。

Q4:よく読む、または思い入れのある本5つ

よく読むのは聖書かな・・・やっぱ。それでもいまだに読破していないという。『アートバイブル』を含めると5冊が常時置いてあります。どこが違うかというと、翻訳が微妙に違うし、解説があったり、旧約がついているかどうかでも違うし・・・でも、一番よく使うのは作歌のために買った聖書です。日本聖書協会の『新共同訳 聖書』。

それだけでも5つだよなぁ・・・と思いつつ、『ゲーテの自然科学論』、『ニューロンから脳へ』、ジンバルドーの『現代心理学』は外せない。ゲーテの色彩論は最初、学部の頃に富家先生からお借りして、かなりショックを受けましたから。黎明期で何もないところから始めたんだな・・と思ったらすごくずしんときた記憶がある。

『ニューロンから脳へ』 もすっかり旧くなってしまったけど、これが最初に出たときのインパクトはすごかったですからね。野澤先生のところへ持って行った記憶が。あの先生にしてはめずらしく少年のようにきらりんと眼が輝いたのを覚えています。大抵はね、顔は微笑んでいても厳しい眼をしていて、退職して名誉教授になってからじゃないかな・・・本当の意味で柔和な顔になったのは。それくらい厳しかった。

ジンバルドーの『現代心理学』は内容自体は旧くなってしまったけど、入門書オタクのわたしとしてはほかの入門書にはない匂いを嗅いでいた。どこが違うかというと、姿勢なんだと思う。大抵は心理学の入門書と言うと心理学そのものを説明しようとしているんだけど、ジンバルドーの場合はどこか有名な実験だけを並べながらも、根底に人間に対する深い好奇心というものがあり、その好奇心が平和利用されることを願いながら題材もピックアップされていたような記憶がある。微妙なところなのよね・・・うまく説明できない。

このほかにも、ミラーの心理学の入門書も面白かった。『心理学の認識―ミラーの心理学入門』 。自由なのよね・・・黎明期の人たちの自由さはどこか手技・手法・手続きでがんじがらめにされた精神を解放してくれる。

文学関係はそのうち考えよう・・・

あ、あと、『マン・ウォッチング』も外せない。これは弟に勝手に持っていかれてしまった。今って新書しかない? アマゾンで検索したらとんでもない表紙が出てきてしまった。趣味わりぃ〜! でも、内容は同じだと思う。おもしろい。手軽に楽しめる人間観察。

・・・・・というノリで書き出したらキリないね。バカバカしいほど面白い本はある。

ただ、何と言うか、スピリッツの問題なんだと思う。

それで、これだけ読んでいて結局聖書だけあればいいなぁ・・・というのが本音中の本音なのです。学問も文学もどこか源流をたどれば人間にたどり着き、そのミステリアスな存在に対しての問いかけから人生が始まり終わる。だから書物は読めば読むほど混沌としてくるだけで、結局はあらゆる源に聖書がある。今の時代はどうやってもその影響から無関係ではいられないですからね。なんせお寺や神社のおみくじの中にも聖書の言葉が書かれているという・・・ってことは、おおもとはどこか一つだったのかもしれないし、それがどこかで繋がっていたとしてももはや今の時代のわたしたちにはわからない。

それでいて聖書は何度読んでもさらなる発見があり、その深さははかり知れない。

ほんとに抜け殻だったんだよね・・・活字に対して。何を読んでもつまらない、面白くない、虚無。もちろん、コミック的な面白さや手軽な楽しさはあるよ? でも、そんなものをすべて投げ捨ててしまいたいような衝動もあるくらい抜け殻だった。人形の笑みみたいなものかな。

虚無を埋めるために読書があるとすると、それはもはや聖書でないと埋まらないだけなのかも。

ただ、背景として人間という媒体がいるとすれば、ひとりひとりに聖書があり、それをどうやって拾っていくか?という楽しみも近頃覚えたばかりでして・・・そういう意味で良書をピックアップして読みこみたいですね。なんでかというと、わたしはまだ生きているから。トーチなんだろうな・・・それが。消してはいけないものもある・・・だから読み、だから書く。

コヘレトから抜け出せないわたし・・・

******

今回、バトンはパス。
自然とTBが飛んでくるくらいのほうが気楽でいいです(笑)。

投稿者 Blue Wind : 11:33 AM | コメント (0) | トラックバック

June 22, 2005

好きなコミックと思い出のコミック?

ぐわっ、とんでもないものがまわってきちゃいました。
不幸の手紙もねずみ講も止めてしまうわたくしですが、どうしませうか。ちなみに不幸の手紙に「幸福の手紙」って呼び名がついていたことを不意におもいだす。こういうものをまわしてくるのは・・・・ぐたさん ですよね、やはり(^_^.)

Q1:あなたのコミックの所持数は?

0。(Oではありません)

Q2:今読んでいるコミックは?

ない。

ちなみにたまにうちの娘のマンガを読もうと試みるんですが、ダメですね・・・あの巨大な瞳を見たとたんに目がやられちまって。

Q3:最後に買ったコミックは?

まるで覚えていないけど、おそらくは『Dr.スランプ』ではないかと・・・
少女漫画に飽きた頃、これと『マカロニほうれん荘』が好きで、ナイショで少年漫画を愛読しておりました。最初は弟が買ってきたやつをたまにコソコソ読んでいたんですけど、そのうちわたしのほうがどっぷり。

Q4:よく読む、または思い入れのあるコミック5つ

よく読むというものはもはやないけれど、思い入れのあるコミックというのもたくさんありすぎて、しかもタイトルを度忘れしているものも多いし、困りますねー♪

★一番好きな漫画家は西谷祥子でした。小学1年生くらいだったかな・・・すでに忘れてしまったけど、当時の少女漫画にはグラビアページがあり、そのページで西谷祥子さんのイラストを見たときの感動は忘れられません。身のほど知らずにも漫画家になりたい!って思ったほどです。(笑)

たぶん読めば思い出すだろうけど、あまりにも昔のことでタイトルもうろ覚えだけど、『こんにちはスザンヌ』 だったかな・・・マイ・フェア・レディやピグマリオンを連想するストーリー。メガネをかけて野暮ったい女の子がすごく美人に変身して登場するの。その時のスザンヌのおどおどした感じが印象的。西谷作品にはその手のモチーフが多かった気がする。『オリュンポスは笑う』も西谷祥子?

★このほかにも山岸涼子の『アラベスク』 とかね・・・
現実離れした手足の長さで楽しませてくださいました。このときにはバレリーナを夢見ていたのですが、よく考えてみると少女漫画で憧れた世界って全滅でした。悲しい・・・

★それでというわけではないのですが、大嫌いだったマンガは『パタリロ!』 。
おえっ、おえっ、おえっ。
魔夜峰央って男性?今でもわからん・・・しかも『パタリロ源氏物語!』だって・・・さすがにわたしは読んでいない。もう、『パタリロ』と『キャンディ・キャンディ』は大嫌いだったんだけどアニメでもやるし、ほんと腹立つ!
それでも当時はマンガ中毒でほとんどの少女漫画は読んでいたので、読みたくないのに読んでいました。いや、まじに嫌いだから飛ばしていたような記憶もある。

★それとは別にどうも1冊読むとクセになってしまう漫画家というのがいて、その代表は楳図かずお。気持ち悪くてしょうがないんだけど、つい読んでしまうという・・・

当時はつのだじろうさんの『うしろの百太郎』と並んでひそかに人気があった。ただし、わたしはこの手のマンガを自分で買ったという記憶がないので、おそらくは回し読みしていたような・・・

楳図かずおと言えば『漂流教室』 が有名だけど、そのほかにもちまちま恐怖マンガを描いていたような・・・ただし、『まことちゃん』は大嫌いでした。ばっちぃ。

★あまりにもえげつないところが続き、そのうち少女漫画も陸奥A子やくらもちふさこが登場し、身近な生活がマンガの世界に登場。ほっとする反面その頃から少女漫画から離れ、上述のアニメチックな少年漫画へ。そういう中でがんばっていたのが、大和和紀の『はいからさんが通る』 かな。

時代は大正デモクラシー。なんせ袴をはいて自転車に乗っているはいからさん。フィアンセの少尉。そのほかのキャラがすごいもの・・・お笑い系なんだけど、恋あり涙あり波乱万丈。最終回まで一気に読みたくなる。

それにしても残しておけばよかった。アマゾンで検索するとすごいプレミア。マンガって捨てちゃうのよね。あまりにも懐かしくてつい買っちゃう人の気持ちわかる。

で、これをまわすわけ?
今、これだけ書いたらあまりにも疲れてそれどころではない。
あとで考えよう。

立候補して幸福のコミックをまわしてくれる人っていないかな。

投稿者 Blue Wind : 11:26 AM | コメント (0) | トラックバック

June 20, 2005

『不在の神は<風>の中に』 前島 誠著 (1)

前島 誠神父の『不在の神は<風>の中に』をこの前から読もうとして、見事に最初の部分で止まっている。理由はシンプルで、読み始めたとたんあまりにも惹き込まれるものを感じてしまったから。

「バスはバスが来る時に来る。」

当たり前のことなんだけど、日本人からすると当たり前の感覚ではない。電車もバスも時刻表があればそれに沿って運行しているのが当たり前だと思っているので、つい時刻表が気になる。ところが、イスラエルで乗り合いバスを待っている人たちは違う。優雅にお茶を楽しみながらのんびりバスを待つ。

その不思議さ・・・

つまり、バスにはバス自身の時間というものがあり、バスはバスが来る時に来る。

はあ?

この前、尼崎でとても恐ろしい事故があり、数分の遅れが惨事となってしまった。それはつまり数分でも遅れてはならないという義務感から生じた事故だったのだろうか。わたしにはもはや詳しいことも状況もわかりようがないけれども、どこか物理的な時間に人間のほうが合わせなくてはならないと思いながら生きていることによる事故。

この際だから、キリスト教のことは置いておき、ユダヤ人がいまだにメシアが現れることを待っているという事実にのみ考え合わせると、彼らが幾世紀にも渡ってメシアを待ち望んでいることだけはたしかで、その気の長さを思い合わせると、数分電車が遅れただけであんな大事故になるなんて予想だにできないかもしれない。

神には神の来る時間があるように、バスにもバスの来る時間があるらしい。

それがいつか?

それがわかったら誰も苦労しないだろう。と言わんばかりに彼らにとってはバスがいつ来るかなんて訊くだけ野暮な出来事らしい。いまだに数千年前の出来事に翻弄されながら生きているってどういう気分なんだろう。エルサレムには行ったことはないけど、イェフダ・アミハイの詩を読んでいるとダビデやソロモンの時代が今でも続いていることを感じざるを得ない。

わたしたちはたまたま今の時代に生きている。

生まれては死んで、生まれては死ぬ。そして、神を待つ。彼らの祖先も子孫も。一つわかっているのは星には寿命があり、そのうち地球も砕け散る日が来る。その時がいつなんてことはわからない。もしかすると地球の温暖化現象により、それはもっと早くやって来るかもしれない。その日、わたしたちが生きているかどうかなどということはわからないけれども、わたしたちの子孫はその日を迎えるだろう。

その日まで、生まれては死んで、生まれては死んでいく。

それでいて、人類が絶滅することはないと神さまが約束されたらしく、その日までわたしたちは何事もなかったかのように生き続けなければならない。

地球はいつ砕けるのですか?
その日まで人類は生きているのですか?
それとも大気圏に穴が開き、人間はとても酷い目に遭うのですか?
それとも大地震がやって来て、都市が滅んでしまうのでしょうか?
太平洋の島々は海の中に沈んでしまうのですか?
そして、神さまはいつやって来るのですか?
人間は死んだらどこへ行くのですか?
もっと語れば、サイババは8年で生まれ変わるそうですが、死んでそんなに早く生まれなければならないのでしょうか?
永遠の命って何ですか?
枯れた骨から生きた人間が復活するということは、枯れた木の葉から新芽が出るということですか?
わたしはとても気が短いのです。
人間が大地に変わり、そしてその中から再び生まれるなんてことはどうでもいいのです。
くりかえしくりかえし散っては集まり人となるのはどうしてですか?
肉体はくりかえしくりかえし何かが集まり再生され、そしてそれには寿命があり、わたしたちは死ななければならない。
それでいて、花は散り、花は咲く。
枯れた中から新芽が出る。
わたしには”時”がわかっていないようです。

投稿者 Blue Wind : 11:49 AM | コメント (0) | トラックバック

June 16, 2005

『グラン・シャレ 夢の刻』 節子・クロソフスカ・ド・ローラ著



著者: 節子・クロソフスカ・ド・ローラ

タイトル: グラン・シャレ夢の刻(とき)―バルテュス追想-きもの花筐

もう、わたし自身は自分で着物が着られないどころかたためもしないので、単なるノスタルジー。子どもの頃から着物が嫌いで、お正月に振袖を着せられると、さっさと撮影したら脱いでしまう。苦しくてたまらん・・・

母が着物が好きな人だったので、わたしは苦労した。まず、着物だと歩き方が違う。草履を履いて普通に歩こうとするとドタドタした感じが出てしまうし、その昔、日舞の名取をしていた友達がゴルフをすると、歩く時にスパイクが芝をひきずるので芝を傷つけてしまうとコーチに注意されていたし、それくらい違う。

わたしは骨盤のせいで歩き方を練習し、矯正した。そのため、小学校の頃までは内股だったのがいつのまにか外股になっている。洋服だとそっちのほうが綺麗だから。

体系も寸胴なくらいなほうが着物が似合う。このため今は胸をつぶす下着まで売っている。しかも、帯がつぶれないようにタオルを何本も入れなければならない。今風の着付けだと、はしょっている部分を帯の裏側にほとんど隠して足を長く見せるらしい。優雅な笑顔の裏側で、こんな思いをしてまで堪えなければならない。

そのため、娘が7歳の七五三で着物が着てみたいと言い出した時にはぎょえっとなった。母は喜んでいたけどね・・・娘が着物を着ると、わたしの子供の頃にそっくりなので気持ち悪い。それで喜んでいたのは母と娘である。

それでも、節子夫人が着物を着て上品に微笑んでいる姿はいかにも日本女性という感じでノスタルジーすら感じてしまう。この前、カフェで『家庭画報』を渡されてパラパラとページをめくっていたら、『グラン・シャレ 夢の刻』の広告があった。今までにも何回か連載を読んだことがある。画家バルテュスと結婚し、ローマで15年間暮らし、現在はスイスのグラン・シャレで暮らしている節子夫人のエッセイ。

若い頃から、ずっと着物だったんだなーと不思議な気分。長い外国生活の中でずっと着物を着て暮らしていたというところがすごい。それが少しも不自然ではないところがさらに尊敬。

わたしの世代はどちらかというと、旧い文化を否定する世代。逆に考えれば節子夫人がずっと着物で過ごしていたというのは日本を長く離れていたからではないかという気もする。ノスタルジックな日本の姿が変わらずに存在している。それと、ヨーロッパという土壌が旧い伝統をそのまま受け入れてくれるキャパがあり、逆に自分がもっと日本を大切にするべきではないかという気分にさせられてしまう。

まだ読んでないどころか買ってもいないのだけれど、書評を書く。雑誌で読んだからいいかな・・と思いつつ、次回のアマゾンの発注の中には入っているだろう。未読本がたまっている中、わたしは気まぐれ。

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June 14, 2005

『「深い河」をさぐる』 遠藤周作著 (3)

ようやく遠藤周作の『「深い河」をさぐる』 を読み終えた。読み出すと速い。ある種のごつごつとした異物感を抱えながら通読する。異物感を呑み干すのに時間がかかる。

正直に語れば、「だから何なのさ」というのが率直な感想。ちなみに「だから何なのさ」というのは児童文学の先生の口癖だった。彼女は小説を読みながらそんなことを考えるらしい。「だから何なのさ」から始まり、「そういうことか」にたどり着くまでが小説なのかもしれないし、「そういうことか」をいくつかのセリフやセンテンスから拾う。

科学と宗教との融合、キリスト教と仏教、宇宙との交信、輪廻転生、シンクロニティ。インドから拾おうとしたのがそういう混沌とした世界だとすると、もうこの手の本が流行した時代は去り、その手の神秘主義に対してわたしは「だから何なのさ」的な飽和を感じている。

実は、今の時代のほうが特殊なのである。人間の霊性やスピリチュアルな側面を否定する風潮というのがどこか新しい発想であり、逆に今はサイエンスという名前の鎖に繋がれており、それはむしろ中世での魔女狩りが学問の世界でなされているかのようで、わたしみたいに実験実証主義的な心理学にどっぷりつかって生きてきた人間にとっては、宗教と同じくらい窒息感を感じずにはいられない。

それは全面的に禁煙になっている空港や病院が今の時代の一般的な風潮だとすれば、とても3分以上は居られそうにない喫煙室の中に閉じ込められているのがスピリチュアルな世界。理屈ではなかなか説明のつかない部分は狭い空間に押し込められ、神秘主義はあたかも煙草の煙のように排除され、濃厚な世界に閉じ込められている。

要するに、インドは喫煙の許可されたアウトドアみたいなもので、死も生もいっしょくたに大気中に浮いている。それを自然な感じと語るというのは、いかにも不自然な世界にわたしたちが生きているということを自覚するようなもので、このようにラフでプライベートな世界においては、自由に煙草が吸えるというだけのようなものなのかも。

だから、煙草が嫌いな人たちにとってはどこで吸っても嫌なものだろうし、喫煙者にとっては吸える場所を探すだけのことだろうし、インドはそういう意味では誰も煙草が体が悪いといって騒ぐ人たちがいないだけさっぱりしているだけなんだろうし、煙草1本のことで死ぬの生きるのうるさい時代が素晴らしいとは思えないし、世の中がおおげさすぎ、というのが率直な感想。

投稿者 Blue Wind : 08:25 AM | コメント (0) | トラックバック

June 12, 2005

『「深い河」をさぐる』 遠藤周作著 (2)

日曜日、暑い。
どうして入梅するとこんなによく晴れるのだろう。
朝から庭仕事をやり、一息つく。

遠藤周作の『「深い河」をさぐる』 をパラパラめくる。
どうも最初から読もうとすると読む気がなくなることに気づき、パラパラと興味のあるところだけ拾い読み。

「奇蹟は何を教えてくれるのか?」という章を読む。理学者・医学者の青山圭秀さんとの対談。サイババの奇蹟や、アガスティアの葉に書かれた予言について。

サイババはあまりにも有名だけど、アガスティアの葉のほうがインドっぽい。今から何千年も昔、アガスティアという聖人がシヴァ神から世界の将来について聞いてヤシの葉に記したものらしい。予言というとノストラダムス的なものを連想してしまうけど、アガスティアのもっともらしいところは個人についての予言というところかも。

タミール語で書かれた予言書を専門に読む家系が何千年も続いていて、行くと親指の指紋を照合して本人かどうかを確認するという・・・

はあ?(さすがカースト制・・・と言うべきか)

何千年も昔に書かれたものなのにすでに指紋が記され、しかも青山さんの場合、家族の名前から仕事からその予言書を読みに行った年齢までピタリ当たっている? それだけではなく、いつどのように死を迎え、次に生まれ変わるのがいつどこかまで記されているらしい。

倉庫のなかに何十万巻もの予言書があり、おびただしいほどの人たちの人生が予言されているらしい。占いのようなものなのかも、と思っても、占いと決定的に違うのはそれが個人の記録ということであり、指紋から名前からそこへ訪れる時期まで記されているのだもの・・・占ってもらおうとしてそこへ訪れるのとはまるで意味が違う。

しかも、青山さんの場合、科学者だからね・・・本来ならそういう神秘主義を否定する立場にあるような気がするのだけれど、研究を通してますます神秘な世界にのめりこむような感覚も理解できなくもない。それくらい生命はミステリアス。

サイババといい、アガスティアといい、インドはどこまでもミステリアス。でも、逆に考えれば、神秘主義を最初から認めていれば大抵のことは驚くに値しない。インドの人口が10億人として、地球上の人口が62億人程度らしいので約6人に1人がインド人ということになる。すべてのインド人が神秘主義を肯定していると仮定すると6人に1人が信じていることを簡単に否定するというのも変な話である。

結局、環境因子や受けた教育で凝り固まった脳で考えるから世界がひっくり返るような驚きに満ちあふれるわけで、最初から柔軟な思考を保っていれば大抵のことはそんなものかもしれないと通過してしまう。

----インドへ行ってみたい?

行こうと思えば可能だろうけど、今は積極的に行きたいとは思わない。特に深い意味はないけど、そういう気がする。去年のイタリアも、最初はフランスへ行く予定だったのに、いろいろあって(ダンナの休みの都合待ちをしているとか・・)、気が付けば条件に合う航空券がペルージャ往復しか取れなかった。ダンナが遅れて到着することになり、香港で酷い目にあって以来夜の大空港を彼は嫌う。そういう点ではわたしよりだらしがないと思うのだけれど・・・

要するに、青山さんの場合も急にインドに行きたくなり、無理に口実をつくって出かけた。そういう感覚ってうまく説明できないけど、そこへ行く運命のようなものに引き摺られているような気さえする。まあ、何千年も昔の予言書にすでに彼がそこへ何歳で行くことになっているのか書かれていれば、予言書が先にあり、それに適応した人間が後から出現すると考えたほうがわかりやすい。

聖書もそうだし・・・


■関連書籍


著者: 青山 圭秀
タイトル: アガスティアの葉

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June 09, 2005

『「深い河」をさぐる』 遠藤周作著 (1)

著者: 遠藤 周作
タイトル: 「深い河」をさぐる


近頃読み始める前に予告のように書評を書き始める。パラパラとめくりながら、このところ同じ作者の本を読んでいるために、「そういえば・・」みたいな気持ちになってしまうからかもしれない。

『深い河』の中で、遠藤周作はしきりに美津子に仏蘭西が嫌いだと述べさせている。あまりにも善と悪がはっきりし、あまりにも秩序がありすぎるからだという。

わかるなぁ・・・・・善悪不二といったコムズカシイ概念を持ち出さなくても、わかりやすく語れば、人間臭さがあれば何か粗相があってもお互いさまということになり、謝れば許してくれるだろうという甘えがある。この、「お互いさま」という感覚が暗黙のうちに成立するのは、無意識の内に善悪不二という概念があるからだという気がする。

誰でも間違いはあるさ、とか?

あっさり語れば、これがインターナショナルに通用すると思ったら大間違いである。許されないからこそ赦しあわなければならないのである。

例えば、わたしが通っていたフランスの修道会の大学では、善と悪は極めてわかりやすい。その結果、過剰なまでに良識を求められる。悪いことは悪いと決まっているから。そのくせ、どうも善悪の判断基準が世間通常の常識とはまた違うらしく、そのことをうまく説明できないため窒息してしまいそうになる。慣れてしまえば、そっちのほうが楽だということも多いけど。

有名なのは、芸能界に入るのなら大学を辞めなければならないとか(未成年じゃないんですよ・・)、学寮から誰かが短パンで授業に出席したら呼び出されたとか、その手のことは比較的わかりやすい。

わかりにくいのは、・・・・どうやって説明したらよいのかわからない。例えば、親にナイショで友達と一緒にイギリスに行くことにして、一人インドでストップオーバーしてしまった子がいた。普通は友達だったら少しは心配して親と一緒に反対するという姿勢もありいなのだと思う。ところが、あの世界は何も考えていないため、頼まれれば微笑みながらイギリスからあらかじめ用意された葉書を投函する。

それは悪の共有ということではなく、何も考えていないから、まるで出席カードの代筆を頼まれたような感覚で引き受けてしまう。

ある学生がほかの学寮の子たちの不在者投票を不正に利用したという事件があった。その事件はニュースでも報道され、巷では大騒ぎになっていたけれども、事の次第はすごくシンプルで、誰かが選挙を手伝っているうちに大変だなーと慮り、それを友達に言う。そうすると微笑みながらそれが悪いことだとも思わないで、どぞどぞってなってしまう。自分で投票に行くほどの親切心もないかわりに友達の頼みを断るほどの出来事だとは思っていないらしい。

このように社会で語るところの悪は些事となり、それでいて微笑みながら整然とした秩序が保たれている。

つまり・・・・神の眼から見てそれが正しい行いであるかどうかのほうが法律よりも重要らしい。だから迷う時には、「ご自分の良心でお考えなさいませ」で終わり。迷うということは大抵の場合何かやましいか都合が悪いことがあるから迷うわけで、良心で考えて判断すれば善は善として存在しているために迷うほうがどうかしている。そこで善を行うか悪を行うか、それがとてもつまらないことだとわかっていても悩まなければならなくなってしまう。そして、結果的に善だと思うほうを選ばなければならなくなる。

つまり、悪いことは悪いのだから、これくらいは・・という甘えが許されない。しかも、善と悪とがあまりにも秩序正しく存在しているために、物事に迷わなくなる。迷うとすればもっと深い次元の問題だろうし、そうなると秩序よりも個人の内面世界の出来事ということになり、相談があれば神さまにする・・・というのが常識。

友達というのは親切で自分を助けてくださる存在ではあるけれど、それはどこか微笑みに満ちあふれた世界で、とても悪や醜い世界の出来事の共有などはまず考えられない。このため悪は抑制されて存在することになり、もし友達といえども悪が発見された場合、それなりの覚悟が必要になる。何が覚悟なのかわからないけれども、ある意味表立って批判される以上に個人を苦しめることもあるくらいだ。

つまり、自分の良心と相談するとか、神さまとお話するというのは、人間と話すよりも個人の内面を深く切り刻むものであり、これに慣れてしまうと、逆に誰に何を言われても微笑んでいられるようになるらしい。

『「深い河」をさぐる』は対談形式で書かれている。どうしてインドへ行くとほっとするのか、わたしは行ったことはないけど、何となく理解してしまった。おそらくは、わたしがバリ島へ初めて行った時に感じた人間臭さへの郷愁と愛着とがインドにもあるのではないかと。とにかく、人間が人間として人間臭さを保ちながら生きているのを感じるとほっとしてしまうのだから仕方ない。

ささやかなことなんだと思う。本当にうまく説明できないくらいささやかなこと。モノを売るとか買うとか、そういうちょっとしたやりとりや、着飾った女性を眺めていたり、ラブソングを聴いたり、誰かが誰かを好きだとか嫌いだとか、そういうちょっとしたやりとりが酷く人間的に思えてしまうくらい安堵感がある。

それが・・・・・なんと言うか・・・・・・カースト制のインドで、唯一平等な世界があるとすれば、ガンジス河なんだなーと思って。おそらくは射殺されたインディラ・ガンジーも、プーランも、そしてハリジャンと呼ばれるアウト・カーストの人たちもみんな河に流される。輪廻転生を信じてあの河に流される。そういう感覚は死ねば誰でも仏になるという感覚に近い。死がすべてを呑みこんでしまう。

それを混沌と感じるほど秩序があるということが良いことか悪いことかという前に、結局はそれが好きか嫌いかというだけのことのような気がする。

投稿者 Blue Wind : 11:35 PM | コメント (0) | トラックバック

June 08, 2005

『女盗賊プーラン』 プーラン デヴィ著


著者: プーラン デヴィ, Phooran Devi, 武者 圭子
タイトル: 女盗賊プーラン〈上巻〉


著者: プーラン デヴィ, Phoolan Devi, 武者 圭子
タイトル: 女盗賊プーラン〈下巻〉


著者: 黒田 龍彦
タイトル: 女盗賊プーランは誰が殺したのか


遠藤周作の『深い河』に触発されて、今から7,8年くらい昔に読んだ『女盗賊プーラン』を思い出した。もっとショッキングなのは、『女盗賊プーランは誰が殺したのか』という本のタイトルを見て、彼女が射殺されたことを知る。わたしがテレビのインタビューで彼女の姿を見たとき、彼女はまだ元気で仏教徒の夫と並んで微笑みながら座っていた。

彼女の壮絶な人生は、わたしには想像もつかない。文盲の彼女は口述筆記という形式でこの本を書いたそう。彼女の口から語られた内容は、本の帯にもあるように11歳で結婚し、壮絶な虐待、レイプ、盗賊団に誘拐され投降、刑務所の中の様子やその後国会議員になるまで。

その中で印象に残っているのは、彼女が結婚するまで川の向こう側の世界を知らなかったこと、嫁ぎ先でマンゴーを見てとても裕福ということを感じたこと、上カーストの男たちの低カーストの女性へのレイプが平然と行われていること、刑務所での生活が恵まれていたこと、など。そして、低カーストとは言っても、彼女の家は実はさほど低カーストとは言えず、いわばインドでは中流の家庭であること。そんな彼女がどうして盗賊になったのか。

(トラステへのTB : 第29回 これをドラマ化して!)

投稿者 Blue Wind : 10:45 AM | コメント (0) | トラックバック

『深い河』 遠藤周作著 (2)

遠藤周作の『深い河』 を読み終えた。ウィットに富んだ終わり方。その理由がわかる人は最後まで読んだ人だけかもしれない。最後まで読み、そして振り出しに戻る。

第3章は、美津子が大津を弄び、彼に神を棄てさせることに快感を覚える大学時代の回想から始まる。そして、大津も退屈な男かもしれないけど、美津子の結婚相手の矢野はもっと退屈な男。その後、美津子への失恋をきっかけに大津は神父になることを決意しフランスへ。そして、彼に神を棄てさせることに失敗したことを知った美津子は、新婚旅行を利用して大津に会いにリヨンへ行く。

わたしが読み始める前に本をパラパラめくっていた時、「ぼくが神を棄てようとしても・・・・・神はぼくを棄てないのです」という大津の言葉が目に入った。読み始める前なので、どういう状況で誰が発した科白かわからなかった。

大津には共感できないけど、この科白には深い共感を覚える・・・

どこかこの辺のところにマルクスの有名な言葉がどうたらこうたらという行があったはずなんだけど、見つからない。美津子の場合は、無神論どころか無宗教だもの。この辺の日本人的宗教観が美津子を観察するとよくわかる気がする。

無神論というのは教会にとっては大変なことなのかもしれないけど、正直に語れば、西洋的な潮流に巻き込まれなければ理解できないのが無神論であり、日本人の場合、江戸時代から今日に至るまで新井白石の『西洋紀聞』からまるで進歩していないような気がする。逆に語れば、無神論があるから少しは有神論が理解できるのではないかと思うくらいだ。

美津子を通して、モーリヤックの『テレーズ・デスケルー』の話が頻繁に出てくる。わたしの手元には今その小説があるのだけれども、なんでこんなに一生懸命に読まなければならないのか自分でも不思議だ。

第4章は童話作家の沼田の話。満州での子ども時代、そして犀鳥や自分の身代わりに死んだ九官鳥。

どうしてこんなにたくさん鳥の話題が出てくるのか不思議だった。でも、ガンジス河と鳥。天竺と阿弥陀経。読みながらお坊さんの声を思い出したけど、お経って詩のようだと思った。

第5章は木口と塚田とビルマの死の街道とガストンさんと食人の話。

おそらくは小説のネタをばらしているようで、まだ読んでいない人には申し訳ない。この手の話題で一番ショッキングなのはわたしにとってはすでにミクロネシアの食人文化のほうが遥かにショッキングであり、オリバー・サックスの『色のない島』の中で出てきたその話により、わたしは今でもあの界隈のコンビニでもよく売っている「スパム」というハムの缶詰が食べられなくなってしまった。

蛋白源の少ない南太平洋の島では捕虜は大切な食糧だったらしい。でも、ビルマの死の街道。仏教徒からすればそれこそ気も狂うほど苦しい出来事。

そして、6章以降はガンジス河のほとりヴァーラーナスィが舞台となる。

聖なる河ガンジス。聖母マリアとチャームンダー。死体や行き倒れの人たちを河へ運ぶ神父の大津。善悪不二の問題。

モーリヤックの『神への本能、あるいは良心』の中では、テレーズが「善と悪、小麦と毒麦が、あなたでなければこの世で誰も分離できないほど、私のなかで混じりあっています。」と書いている。『深い河』の中でも、大津が修道院を出なければならなくなったのはまさしくこの点であり、人間の光と闇、物事の両面、災いもって福となすといった発想、同じ食人でも自ら進んで犠牲になった人の話、その他諸々インディラ・ガンジーの射殺事件。

要領のよい人、わるい人。そして、真の幸福とは?

宗教のよい面、わるい面。そして、生と死。聖なる河ガンジス。異なる宗教の話が出てくるけれども、その3つの糸は複雑なようでいて一つに結ばれている。

投稿者 Blue Wind : 12:48 AM | コメント (0) | トラックバック

June 06, 2005

『深い河』 遠藤周作著 (1)

著者: 遠藤 周作
タイトル: 深い河


今、ようやく遠藤周作の『深い河(ディープ・リバー)』を読み始めた。まだ第3章の途中。書評を書くにはまだ早すぎると思いながらも、少しずつ書いていこうかと。

第1章では、突然妻が末期癌であることを知った夫の苦悩と悲しみから始まる。その妻は臨終の際、「必ず生まれ変わるから探して」と夫に言い残す。

生まれ変わり・・・という点では、まるでマリはマリの生まれ変わりのようだ。

小説とはまったく関係がないけれども、去年の暮れ子犬のマリが死に、小さいのにぐったりしながら動物病院の檻の中で細い腕に点滴をされていたマリのあまりにも短すぎる一生を思うと、今でもせつなくなる。そのくせ、死んだマリの代わりにわが家に来た子犬は不思議なほどマリに似ている。というわけで、2匹の犬は同じ名前になった。

マリが死んだのが12月22日。マリが生まれたのは1月22日。偶然なんでしょうけど、ちょうど2匹目のマリがわが家に来たのが生後3ヶ月半くらいで、死んだマリが2ヶ月半くらいだったので、実際にはマリの死から半年のブランクがあるものの、まるでマリが元気になって戻って来たような錯覚に陥ることがよくある。

マリが入院していた頃、オトでさえ夜中に起きてマリのいる方角に遠吠えしていた。クゥーンという鳴き声は非常にめずらしい。オトくんのやることは今でも理解不可能なことが多いけど、マリが死を迎えるために戻ってきた3日間のうち、その前日とその翌日、オトが空に向かってクゥーンと吠えていたのを思い出す。人間には見えないけれども、オトはマリとお話できるのかもしれない。

第2章は、どうやらインド・ツアーの説明会らしい。わたしは添乗員付きのツアーに参加したことがないのでわからないけれども、ツアー参加者が添乗員にいろいろ質問している話の流れでヒンドゥー教の女神カーリーの話題が出てくる。

検索した。

カーリーの姿
カーリーについて

強烈・・・
「一度殺しだしたらすべてを無に返すまで殺し続ける女神」らしい。

これも小説とはあまり関係のない話かもしれないけど、インドの宗教って理解不可能なことが多いけど、シヴァ神が性器そのものの象徴だったり、ダンスの神だったり、インド映画の世界が少しだけ理解できたような気がした。なんで恋愛映画ばかりで、しかも皆があんなに真面目に踊っているのか・・・それにしてもどうして人口が増えるのか、宗教と深い関連があるのかもしれないですね、インドは。

で、現在は第3章に入っているのだけれども、相変わらずちまちま検索しながら読み進めているため、進度が遅い。しかも、その途中にこれを書いている。

遠藤周作を読んでいるといろいろ考えさせられることが多く、すぐに脱線してしまう。この続きを書評として書くか、「屁理屈日記」として書くか迷う。ブログだからどうしましょう・・・全部まとめてどこかに寄せたほうがいいかもしれない。考えよう。

投稿者 Blue Wind : 08:19 AM | コメント (0) | トラックバック

June 02, 2005

『聖書のなかの女性たち』 遠藤周作著

どうしてわたしがプロテスタントではなくカトリックなのか、どうして誰も尋ねてくれないのだろう?
わたし・・・・
最初に神父さんのサイトにたどり着いた時、最初に訊いてみたかったことがこれ。
当時は通りすがりというか、匿名だったし、わたしが誰でも関係ない。もちろん今でもあまり関係ないかもしれないけど、単に通りすがりだとして、真っ先にお尋ねしたい質問がこれだった。
しかも、われながら変な質問なのである。

----どうしてマリアさまなの?

その時の小平神父さまのお答えは、至ってシンプル。

----どうしてマリアさまなの? とてもいい質問です。答えは簡単です。お子さまがキリストだからです。

その後の自分のリアクションが笑ってしまうけど、まあ、当時のことを知る人たちはこそこそ笑って楽しんでやってくださいませ。

*****


著者: 遠藤 周作
タイトル: 聖書のなかの女性たち


アダムの罪を贖ったのがイエス・キリストだとすると、イブの罪を贖ったのは聖母マリアなのだろうか。まだ冒頭から先、少し読み始めただけだけど、イブと聖母マリアという女性像を考えるだけで面白い。

小悪魔という表現を使う人たちが多いけど、その原型がイブなのかもしれない。アダムをそそのかして罪を犯させてしまう。その結果、人間は楽園を追い出された。

そして、聖母マリアの処女懐胎。イエス・キリストの誕生。救世主が現れたことにより、われらの罪が赦された。これが福音。この福音を世界中あまねく伝えよ?

キリスト教の歴史はともかく、問題はここにある。すべてがここにある。

あっさり語れば、わたしは処女懐胎を信じている。神の奇跡を信じている。あっさり語れば、だからカトリック。

クリスチャンでも信じていない人も多いのではないかと。自分からすれば、信じていないのになんでクリスチャンなのか不思議なんだけど、神の奇跡は信じないけど神の教えを学ぼうとするまじめな人たちなのだから、わたしよりも幾分マシなのかもしれない。

遠藤周作は文学の人なので、聖書のなかの女性たちが彼によりビビッドに描かれているのを読んでいると楽しい。聖書には書かれていないパーツでも、イマジネーションってすごい。彼女たちの人生が、生活が甦る。そして、彼女たちにとってイエスってどういう存在だったのか。

ストレートにイエスと対峙するのではなく、他者から見たイエス。そういう捻くれた聖書の読み方もありいなのかもしれない。文学は楽しみましょう、の世界だから。

え・・・・・・・処女懐胎も、神の奇跡も信じているけどプロテスタント?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ややこしいことは、わたしにはわからないです。
ただ、このようにこの本を読んでいると、どうしてわたしがその頃に生まれてこなかったのか残念でたまらなくなる。神の奇跡を目の当たりに見てみたい。人として存在しているイエス・キリストに会ってみたい。ついこの間のことなんだよね・・・創世記から振り返ると。2000年という歳月が長いのか短いのか、わたしにはわからない。

投稿者 Blue Wind : 01:03 AM | コメント (0) | トラックバック

May 26, 2005

『自由と社会的抑圧』 シモーヌ・ヴェイユ著

著者: シモーヌ・ヴェイユ, 富原 真弓
タイトル: 自由と社会的抑圧


シモーヌ・ヴェイユの『自由と社会的抑圧』と詩集を交互に読んでいると、熱い時代の息吹を感じてしまう。冒頭、彼女が描き出す社会は現在の日本社会のことではないかと勘違いしてしまうほど。それでいて、『自由と社会的抑圧』は痛烈なマルクス主義批判から始まる。

この本が書かれた時代は、1922年。1917年がロシア革命だったような記憶があるので、この本はいわばタブーのような存在かもしれないし、彼女の家族のアパルトマンに実際にトロツキーの息子が逗留し、彼女自身が激しくトロツキーと喧嘩したことなどを考えると、若い頃から彼女がいかに痛烈な人だったかわかる。若い頃・・とは言っても決して長生きした人ではない。

わたしがシモーヌ・ヴェイユという名前を見つけたのは、他愛もないネットの検索。ポルチウンクラを検索している時、「シモーヌ・ヴェイユが唯一跪いて祈りを捧げた教会」と書かれていたため、逆にポルチウンクラからシモーヌ・ヴェイユに突き当たることになった。

ちなみにポルチウンクラというのは、中部イタリア、下アシジのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の中にあり、聖フランシスコが昇天した場所である。若い頃は豪遊・豪快な騎士であったフランシスコは無一物でアシジの町を飛び出す。古い朽ちた教会の再建。そして、十字軍の時代、教皇への謁見。カトリックといえば、ヴァチカンのイメージが強いけど、聖フランシスコの質素な身なりはカトリックの異質空間のような気がするほどだ。小鳥とお話する聖人。

今でこそ立派な聖堂が建てられているけれども、本当の意味で聖フランシスコをしのぶにはポルチウンクラ。その小さな教会を包むように大きなサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会が建てられている。なんとも言えず不思議な場所だ。

そして、カトリックに惹かれながらも改宗することのなかったユダヤ人シモーヌ・ヴェイユ。その彼女が唯一跪き祈りを捧げた場所ポルチウンクラ。そこへ行ってみたいというのがわたしの去年のアシジ行きのトリガーとなった。

少々回りくどくなったけれども、彼女の生涯をかいつまんで知るうちに当時の社会的背景とそれに対する彼女の真摯さが伝わってくる。兄は天才的数学者、彼女自身も哲学教師の資格を持つ。それでいて工場で女工。労働組合運動に身を投じていたため。その後、キリスト教神秘主義への傾倒ということでさらに批判される。

革命と戦争。そういう時代。

地上の楽園。
そのイメージはわたしにはわからない。
でも、マルクスにしろヴェイユにしろユダヤ人にとっては地上の楽園こそが究極の使命。神の国を地上に構築するために思想家が存在している。共産主義の達成が地上の楽園へつながったか否かはわたしには興味のないところ。でも、人間を観察し、悪を考え、その中で地上の楽園を構築しようという努力は凄まじい。

わたしにとっての地上の楽園?
パラダイス・・・
ややこしいことは何もなく、在るものが在るがままに存在し、かつ美しい世界。人間の醜悪さについて考えることもかったるい。革命や戦争で流された血。どうして血や汗が求められるのか・・・どうして金を送っても日本人は何もしないと言われてしまうのか・・・その理由について少し考察中。

まだ上述2冊に関してはどちらも読破していないため、この話題についてはまた書くかも。

投稿者 Blue Wind : 05:53 PM | コメント (0) | トラックバック

May 25, 2005

『13歳のハローワーク』 村上 龍 著

著者: 村上 龍
タイトル: 13歳のハローワーク


この本は、めちゃくちゃ面白いです。最初、娘のために買ったのですが、すっかりわたしがはまって読んでしまいました。

ポイントは、世の中から「サラリーマン」と「OL」という言葉がなくなるだろうという予測の下に書かれていること。今までみたいに大学を卒業して会社や官庁に勤めたら終わり(?)という社会ではなくなってきたし、親のわたしが読んでいても、こうやってあれこれ娘の将来を考えられたら楽しいだろうな、というのが率直な感想。

最初に好きなことがあり、そこから派生して職業を考え、それから学問の面白さとかね。虫が好きなら、空が好きなら、算数が好きなら、こんな仕事という具合。趣味が次第に仕事になっていく。

それにしても世の中にはいろいろな職種があるものだと感心する。中にはわたしの知らない職業もあり、自分の適職などを振り返りながらあっという間に読んでしまった。

*****

「プロボウラー」をネットで検索し、プロテストを発見。娘が好きなことと言えば、今はボウリングとお絵かき。プロボウラーになるためには、とりあえずアベレージが185以上ということなので、受験が終わったらしばしレッスンに励み、プロテストを受けるのも楽しいかもしれないですね、娘にとっては。本人はプロボウラーをしながら絵の勉強をすると言っているのですが、案外本当になったりして・・・

子どもが何人もいたらそれこそこの子はこんなふう、とか、あの子はこんなふう、みたいにそれぞれ思うことも違うかもしれないけど、なんせ一人しかいないし、わたしは美術方面の才能はないみたいだけど、姑さんのほうの遺伝なのかもしれない。そうやって考えると、才能って不思議。

それがどういう方向に進むのか、さらにわからない。ボウリングも遊びでやっているのに、いつの間にか上達している。この前間違えてダンナがプロのレッスンだと勘違いして申し込んだら実は”プロも参加している大会”で、どういうわけか娘も参加。ダンナが言うには、娘のほうが全然へいちゃらで、ストライクを取ったらガッツポーズをしていたという・・・おまけに入賞してちゃんと賞品を貰って帰ってきた。

それならそれで、きちんとレッスンを受けて、プロテストも受けて、バイトでレッスンプロをしても立派な職業になる。要するに何かで食べていってくれたらよいのだもの。わかりやすい。

『13歳のハローワーク』をパラパラめくりながら、俳人やいのちの電話の相談員も職業なのか・・・と思いながらも、どちらもそれだけで食べていけないように書いてあって笑ってしまった。いのちの電話の相談員なんて2年も研修を受けなければならないのに完全にボランティア。わたしも院生時代に研修合宿に参加したことがあるけど、なかなか子どもが小さいと家を空けられないから難しい。当時は単位の取得のために参加しただけだけど、学生以外は年配の人が多かった。職業もバラバラ。月1で泊まりの日もある。慢性的に人手不足。

歌人?

歌集を出してもそれだけでは食べていけないでしょう・・・たぶん。(それどころか赤字か?)

研究も10年以上ブランクがあるし、そうなると現役への復帰は難しい。

それよりも娘のお弁当をつくりながらブログを更新するのも才能かもしれないと・・・(汗) 陸上競技会というのがあり、2日間に渡ってお弁当をつくらなければならないらしい。仕方がないから中途半端に寝ると寝坊する可能性があるので、パラパラ本を読みながらお弁当をつくりこれを書いている。

投稿者 Blue Wind : 05:56 AM | コメント (0) | トラックバック

May 22, 2005

『アートバイブル』 他

昨日、再びアマゾンで4冊購入。アマゾンの良いところは時間を気にせず買えること、すでに廃刊になっている本でも買えること。なんか、クセになりそうで怖い。

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著者: 何 恭上, 町田 俊之
タイトル: アートバイブル

『アートバイブル』は以前から買おうかどうか迷っていた本で、今回オープンスクールで行った学校の図書室で現物を発見し、のんびり絵画を眺めながら聖書を考えるのも楽しいかもしれないと思って・・・
それと、聖書をモチーフにした作品の多さに圧倒されて去年イタリアから戻ってきたので、少しはイマジネーションとインスピレーションをそこから学ぶことも必要ではないかと。
いずれにせよ、ただ眺めているだけで楽しく、しかも安い。

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著者: 前島 誠
タイトル: 不在の神は〈風〉の中に

2冊目の本は、タイトルに惹かれて。
それと、レビュー。
「神はいない」と実感しているユダヤ教・聖書学者がヒトやモノとの出会いによって「不在の神」に出会うことができるということが書いてあるらしく(読者のレビューによると)、逆に考えれば、人がどういう時に神との出会いを感じるのか、そこに興味を持った。
わたし自身は、「神はいる」と実感しながら信仰心を持っている。それはささやかな日常かもしれないし、教会での不思議な出来事かもしれないし、それと不意にインスパイアされる感覚かもしれないし、聖書との対話からかもしれないし、いずれにせよわたしの場合には、「神がいなくても困らない」と思いながらも、あるいは、もしかすると神がいないほうが都合がよいと思いながらも、否定しつつ信仰心を持っているという奇妙な人生であるために、何となく同じことを違う側面で感じているだけのような気がして、是非読んでみたいと思った。

******

ほかの2冊は、シモーヌ・ヴェイユ関連。特に詩集に関してはすでに手に入らないと諦めていたので、古本で見つけた時にはうれしかった。それと売れ筋を1冊。これは買うつもりはなかったのだけど、文庫は安いのでついでに購入。ほかの本を買う時ではないと送料が掛ってしまうので。

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April 25, 2005

『てぃんさぐぬ花』 幸田回生

⇒ 『てぃんさぐぬ花』
⇒ 幸田回生

近所のスーパーで沖縄フェアをしており、わたしは今、「サーターアンダギー」という沖縄ドーナツを食べながらこれを書いている。幸田さんの小説を読むのはこれが初めてである。ブログのほうにはニュースネタを拾いに伺っているけれども。

正直、『てぃんさぐぬ花』を一気に通読できるか、横目でスクロール・バーを眺め、自信がなかった。電子出版という形で読むのも初めて。まあ、読み終わらなくても時間が終わるわけでもないし分けて読めばいいや、と思いながら、一気に読んだ。

短編小説が一枚のページに収まるということを知る。

小説というよりも詩を読んでいるような感覚でことばがゆきすぎる。
会話。
いくつも出没する国。
そして、沖縄。
もっと書いてほしいのはログハウスの中の様子。
そして、言いすぎないアメリカの帝国主義。
語りすぎないところが小説なのかもしれないし、わたしは沖縄へは行ったことがないので、ガイドブックで眺める地名を想い描きながら、当たり前のことだけど、沖縄の基地が阿見町の自衛隊とは違うことを知る。阿見の自衛官は仕事をさぼるのが好きで、軽い怪我をすると喜ぶ。右手に包帯を巻きながら、病院の喫茶室でウェイトレスをナンパしている茶色服の自衛官。無防備に道路沿いに並んだ戦車。慣れてしまえばそれも田舎町の風景の一つであり、のどかささえ漂わせている。

米軍基地・・・

「サーターアンダギー」は、ごく普通のドーナツ。
それがどこか沖縄という気がした。

サーターアンダギー * 画像をクリックすると沖縄ハムのHPへ。

投稿者 Blue Wind : 02:35 AM | コメント (0) | トラックバック

April 24, 2005

『アホな客』


著者: お客様行動研究会
タイトル: アホな客

アメブロにもブログがあり、楽しませていただいています。
⇒ 『アホな客の迷惑日記 お客さんもう帰ってくれ・・・・・』

日本だと「お客様は神様」という臭いセリフがあり、店員のほうが我慢しなければならないケースが多いけど、そういう国ってめずらしい。客のほうが苛々しながら待つなんていうケースが当たり前になってしまうと、長い列を文句も言わずに並んでいる人たちを尊敬のまなざしで見てしまう。

ファーストフードや量販店に慣れていると、「いちげんさんお断り」という世界に驚く。関西ではめずらしくもないらしく、店が客を選ぶ世界も多い。今は不景気だからそんなことも言ってられない?

たまに思うけど、もしわたしが店員になったら、絶対に客を区別すると思う。好きな客と嫌いな客を平等に扱うほどの不平等はない。大抵の店には、お得意様とか上客というのがあり、当然、ほかの客とは待遇が違う。

あっさり語るけど、お客様が神様だったらいちいちつまらんことで怒ったりしないでしょうに。お客様が神様ではないから商売が成立するわけで、笑顔も水もタダではない。

投稿者 Blue Wind : 11:05 PM | コメント (0) | トラックバック

『詩集 谷川俊太郎』

  著者: 谷川 俊太郎
  タイトル: 詩集 谷川俊太郎

  谷川俊太郎の6冊の詩集、75年の「定義」
  「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」から、
  80年代の「コカコーラ・レッスン」、
  90年代の「世間知ラズ」までを掲載。

谷川俊太郎の散文詩を読みながら、空白が気になる。空白があるから詩なのだそう。本当にそうなのかどうかは分からないけど、リズミカルな詩の流れを追いながらパラパラとページをめくる。なんなんだ、この世界は。柘榴が降ってきちゃったりして。大真面目な顔をして空から柘榴を降らせるのが詩人なのかもしれないと、クソマジメに読んでみた。パラパラと。

投稿者 Blue Wind : 04:34 AM | コメント (0) | トラックバック

April 17, 2005

青木さやか

 


 

 著者: 下川 純一郎

 タイトル: Ou voyez‐vous?―青木さやか写真集


なんだかうちのブログにはまったく合わないネタだと思いながら、不意に思いついたのでアップする。うちの娘が、「ロンドンハーツ」が好きで(あの番組がそういう名前だと知ったのは、実はこの写真集を検索したからである)、わたしが最初にあの番組を見たのは、例の如く青木さやかの沖縄編。たしか、恋人コウジのご両親に会いに行くという企画だったような・・・

東京から沖縄まで手土産持ってえっちらおっちら普通さを装い、将来は沖縄に住んで、そこから仕事に通って・・・という具合におおまじめに話している姿が笑えるというのが切ない。

次の企画が写真集??

これもねー、青木さやかがグラビア系を相手にもっと売ってやろうという意気込みが好き。決して美人じゃないし、どちらかというとモヒカンが似合うめずらしい日本女性でもあるし、日頃色気のないところが逆に”女”という気がして、結構、注目度が高い。

わたしはこの写真集を見たわけではないから、書評などとても書けないし、それでいてもしかするとテレビのほうが美しく映っていたかもしれない。それはうまく説明できないけど、撮影が進むに従い、次第に表情が柔らかくなっていくのを見ていたからかもしれないし、結局、女らしさというのはそういうちょっとしたしぐさや表情なんだと思う。

名前だけが連呼され、表にはなかなか出てこないけど、彼氏がよっぽどイイ男なんだろう。青木さやかが売れない頃から付き合っていて、彼女が売れっ子になってしまい、ホストやヒモと比較されている。そりゃないだろって思うんだけど、世間ってそういうもの。それでもそういういやらしさがない。売れない芸人の彼女を影から支えてきた男。度量なんだろうな・・・ある程度荒稼ぎしたら、あとは沖縄でのんびり生活するとかね・・・

浮き沈みの大きい芸能界で、不意に姿を消したら二人でのんびり沖縄でハッピーに暮らしているとか・・・そういう幻想がよく似合う。

投稿者 Blue Wind : 05:37 PM | コメント (0) | トラックバック

April 15, 2005

現代詩読本1 「中原中也」

⇒トラステへのトラバ: 好きな本との出会い
(驚いたことに、「本・書評・文学」にもお題がある。いつからだろう・・・誰か知っていたらおしえてほしい。)

わたしは小学生の頃、絵を描くことが好きだった。でも、それは人知れず描くのが好きだったというだけで、学校の授業で、鉛筆で下書きして色をつけるというやり方に対しては一種の拒否反応があるような好きになり方だった。授業中、シタジキへのいたずら、コンテや木炭を使ったデッサン、水彩色鉛筆、重ね塗り、そういったパステルで漠とした絵を描くのが好きだった。

それがある日突然絵が嫌いになる。

絵が嫌いになったのではなく、酷く絵を描くことがいやになった。ささやかなことがきっかけ。授業でスケッチをしている時、わたしはどうしても校舎の窓が黒く見えてしまい、いざ色をつけるとどうしても黒しか描けない。不意に友達の絵を見たとき、皆が水色で塗っていたのを見て、わたしはそれ以来絵が描けなくなってしまった。

それでいて、そういう沸沸とした欺瞞はくすぶり、わたしは色彩に興味を覚え、どうしてわたしには黒にしか見えない世界を皆が水色で描くことができるのか、そのことへの沸沸とした不満がわたしをその後視知覚の研究へ向かわせることになった。

わたしの疑問は生きるに必要のない疑問のようで、学校では誰も教えてくれなかった。せいぜい外国語を少し学ぶようになり、言語の世界もまたそのように概念により定められており、同じ言葉であっても違うものをイメージしているようであり、そういう完璧な合致というものがないのはどうしてだろう、とか、誰も答えてくれそうにない質問の答えを求めるために、わたしは多くの書物をサーフィンしていただけのような気がする。

ちょうど高校生の頃だろうか・・・・教科書で中原中也の詩を読み、相変わらず退屈まみれの授業への不満からか、御茶ノ水の本屋さんをサーフィンしていた時、思潮社の現代詩読本1「中原中也」を見つけた。わたしの手元にあるのは、1980年の発行だからすでに廃刊になっている。その時には想像もしていなかったけれども、この本はわたしの宝物である。

中也の詩のみならず、中村稔、大岡信、北川透の座談会から始まり、鮎川信夫、大岡信、飯島耕一、北川透、岡井隆、谷川俊太郎、小林秀雄等の論考や追悼、萩原朔太郎、高村光太郎、中原思郎等のエッセイが集められている。より詳しい年譜。そして、どういうわけか、中也の日記の抜粋が記事の合間に含まれている。

当時は詩人という職業は無かったために、家族を抱え、中也が就職の面接へ行った時のエピソード。

 確か昭和十年の頃だったと記憶します。当時兄は、東京牛込市ヶ谷谷町の中原岩三郎という親戚の家の離れに借家住いをしていました。この人は日本放送協会の創立者の一人とかで、放送局に就職するようにすすめました。中也は生まれて初めて就職のための履歴書を書きました。そして、当時の文芸部長の小野賢一郎氏に面接することになりました。初対面です。その時の模様を、後で私が小野さんから聞いたところによって一カットを録音してみましょう。
 中也はいいました。
「小野さん、僕に月給取りになれなんて、随分世界は残酷です。母や女房にしても僕に死ねというんでしょうか」
 そこで小野さんがいいました。
「放送局に顔を出すだけでいいんです。月給だけは上げますから、でないと、御家族の方も大変心配していらっしゃいますから」
 中也が答えました。
「僕は気紛れなことは出来ない性分です。矢張り魔がさしたんです。履歴書を書くなんて、危うく地獄へ転落するところでした」
 かくして就職はおジャンです。

(中原思郎『兄中原中也のおもい出----現実生活と詩生活』より)


現実の生活と、生きるに必要ない世界と。それらの間を行ったり来たりしなければならない。「そんなことでは生きていけない」というセリフを、わたしは幾度聴いて育っただろう。自分の子ども時代を振り返ると、どこかぽっかり心に空洞を抱えたままそれがわたしを支配しており、それをいかに具現化していくか、ということがわたしに課せられた課題だった。

中也の詩のリズム・・・・七五調。

このすずろなる物の音に
    希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。(中也『春の夜』より)


中也の詩のリズムが七五調だから何だというのだろう・・・
彼が絶対的孤独の中でのたうちまわっていたからといってそれが何だというのだろう・・・

中也の「日記」

1927年6月20日

  私は、私に、
  甘えてはならぬ。
  神様を、試みてはならぬ。

1936年6月20日

 詩の分析は、殆んど無意味だ。技巧論といふものは、凡そ蓋然的たらざるを得ぬ、
 分る人には分り、歌へる人には歌へるといふことは、当今の如き啓蒙的時世にあつては実に口惜しい限りのことに思へる。

 Fantaisie は詩の全部ではあるまい、それはさうだろうが然しファンテジイのないものはすべて詩ではない。寧ろファンテジイは詩の中心部だ。

 イメッジしかない詩といふものはない。イメッジだけを羅列した不分明な詩みたいなものといふものはある。

詩はまづ、詩でなければならない。----分り切ったことだと云はば云へ。詩に思想が必要だなぞと云つて生な理論を詩の形で語る奴等があんなに多いのをどうしてくれるのだ?

自分自身であれ。

愚痴が動機で考へることは、しやうもない。

怠けてゐたい時怠けてゐられることは立派なことではあるまいか。


詩に埋め尽くされた中也の脳裡。「詩は俺の生理現象なんだ」と言う中也の脳裡。それがいささか現実離れしたものであったとしても、事実なんだから仕方がない。脳の中が詩に埋め尽くされているだけ。それ以外は地獄らしい・・・それで、詩を通して、彼はいつも神様とお話していた。
誰も分かってくれないから。
人に理解を求めるのが間違っていると、わたしは常々思うのだけれども、実際問題、現実的な生活のことなどを言われた場合、昔の人たちは侮蔑、軽蔑、俗人には分らないという気持ちを露にしていたところがすごすぎる。わたしは孤独にのたうちまわりたくないので、埋め尽くされた脳裡と現実生活とには別のシナプスが形成されているように思う。

投稿者 Blue Wind : 09:07 PM | コメント (0) | トラックバック

April 08, 2005

『月の本』(林 完次著)

『Myリコメンド』の「本をおすすめして5000円げったー」

 締め切り 4月10日12:00
 biasさんに本をおすすめすると、そのうち2名に商品券をくださるそうです。
 (個人でこういう企画する人もいるんだね〜☆)

それでは、わたくしのおすすめです。迷うよね・・・『レ・ミゼラブル』でも読んでウルウル泣けとか、キャロル・アドリエンヌの『人生の意味』などを読んで、「本当の自分とは何だろう」とかね・・・でも、あまりにもメジャーすぎるのと、近頃、自分があまり活字というものに魅力を感じないので、見ても読んでも寝ながらでも楽しめるところを。読んでいないのなら、オリバー・サックスの『色のない島』もおすすめなんですが・・・

迷ったけど・・・
月の本
著者: 林 完次
タイトル: 月の本―perfect guide to the MOON

ミステリアスな月を、神話、科学、詩など、さまざまな角度から語っている写真集。地上から見た月だけではなく、月面写真、イラスト、天体図など視覚的に多角的に楽しめる。

しかも・・・

林さんの月にかける情熱というか、マニアックな部分が、一層、月をドラマティックに表現しているような気がする。ぼーっと見ているだけでも、引き込まれるよーな美しい写真でもあるけど・・彼の月を観察し、考察し、それを素直に表現しようとしているところが好きかな・・・

『太陽と月は夫婦であった。
太陽は夫、月が妻、どちらも最初の頃は、
夜も昼もいっしょに輝いて、地上を照らしていたと伝えられる。
ところが、ある時、月が人間たちをながめて、言いだした。
「人間というのは、どう考えても存在価値がない。
せっかく智恵を与えられていながら、
それを悪用して悪いことばかりしている。
あんなものを地上に住まわせておくのは、もったいない」
月があまりに腹を立てるので、太陽はそれをなだめて口ぞえした。
「それはいくらなんでもかわいそうだ。彼等だって、
他の動物と同じように生きていく権利がある。
確かに悪いこともするが、いいこともしているではないか」
それでも月は耳をかさない。とうとう、地上の人間を一人残らず殺して
ほろぼしてしまおうとさえ考えた。
太陽はこれを知って、止めさせようと決心した。
月を呼びつけ、はげしく叱りつけたという。
「人間をぜんぶ殺すなどと、とんでもないことをするやつだ。
お前のような情なしは、昼間光っている必要はない!!
夜の世界だけに追放だ!!
暗ければ人間もよく見えないから腹も立つまい」
こうして、月は夜の世界だけに光るようになったとさ。(PERU)』
(「世界の月伝説」より)

こんな逸話がたくさん書かれています・・・
月を見ながら、古今東西いろいろな人たちがいろいろなことを考えてきたのかと思ったら、感慨深い。そして、今と昔がクロスオーバーしつつ、それでいて月はいつまでもミステリアスさを失わない。

* 引用にタグを入れました。やり方?⇒ 『放置 blog ?(仮称)』 を見て、<p style=" "> 〜 </p> に要素を押し込みました。記事を直すだけでも時間が・・・(泣)

投稿者 Blue Wind : 01:34 PM | コメント (0) | トラックバック

April 07, 2005

「愛することは少しずつ死んでいくこと」(フランソワ・モーリヤック)

⇒トラステへのトラバ: 「愛」とは何ぞや?

「愛することは少しずつ死んでいくこと」というセリフは、モーリヤックの小説の中に出て来た言葉。わたしの記憶は定かではなく、たしかモーリヤック著作集第4巻の中に収録されていた小説に出て来たと思う。『愛の砂漠』だったかな・・・すでにタイトルもストーリーも忘れたのに、この言葉だけは深く心に残っている。

モーリヤックは人間の醜悪さを描くのが上手。それでいて神の愛を深く感じる不思議な作家。わたしは数年も前から読もうと思っているのに、まだ第1巻を読めない。数年どころか、どれくらいの月日を経ただろう。

愛というのは、むしろ受容的なものであり、愛されたら素直に受けるもの。それがどんなにか難しいことか。

ちょっとした誰かの親切とか、さりげないやさしさの中に愛はある。人のやさしさや思いやりを素直に受けられる人は幸せ。愛を学ぶ必要がない。

恋というのはむしろ相手に向かっていく感情である。誰かを好きになるというのはそういうことであり、相手を自分のものにしたいというベクトルは生きるための能動的な姿勢であり、命への姿勢。

ところが、愛は少しずつ死んでいくこと。少しずつ死を受け入れるように静かな世界。ごく自然にそこにあり、それでいてあまりにもありふれているために、ごく自然に受け入れられなくなるほど、人間は頑なになる。死を受け入れることを考えてみれば分かるだろう。それを素直に受け入れられる人たちがどれくらいいるだろうか。

愛するというのは、受け入れること。ごく自然に、生きることも死ぬこともすべて受け入れること。

そのどちらも難しいと感じるならば、すでに愛を受け入れることは難しく、愛を求めて徘徊しなければならない。生きるために恋をし、恋のために苦しむ。



著者: F. モーリヤック, 遠藤 周作, Francois Mauriacタイトル: モーリヤック著作集

* Amazonで検索したんですけど、すでに古いものは廃刊になってしまったのでしょうか。びっくりするくらい高い著作集が出てきました。


投稿者 Blue Wind : 03:15 AM | コメント (0) | トラックバック

March 21, 2005

水原紫苑『あかるたへ』から一首

近頃、短歌の話はあまり書かない。とりあえず作歌は続けているから、それはそれでよしと考えて。あっさり語ればどうでもよくなってしまったのである。自分にとって水原紫苑さんの2冊目の歌集、『あかるたへ』を読み、少しは書評のブログらしく何かを書こうとか、少しは歌人らしく選歌してみようとか、いささかそういうパワーが自分には欠如していることにも気がつき、どこまでも自然体というものを追求するのであれば、それはわたしが書きたくなったときに自然に書くこともあるのではないかと、近頃ロングスタンス。

ただし、追記のように書き足せば、前回の『世阿弥の墓』はわたくしには難解すぎ、言葉を選ぶこと、能の世界を描くこと、そしてそれを理解することがわたしにとっては酷く苦痛であったとしか語れない。

幽玄の世界というのは、どこか刹那的であり、命を燃えつくせと言わんばかりの消えゆく命というものに対する切迫したものがなければとても語れない。以前、いけばなの世界にインスパイアされて少し詠んだことがあるけれども、あの残酷なまでに切られてしまった花の姿と美の追求という点で、アートとは残酷であり、美のために切られ刈られてしまった悲哀さすら美の一部という悲しき厳しさを目の当たりにしたとき、それを詠みたいという欲望と、それを詠んではいけないという節度とが葛藤し、結局、そのときは神父さんのサイトで詠んでいたために、幽玄を乗り越えるために、「愛に悲しみはない」という意味がそこに含まれていることに気づき、再び聖書の世界へ戻って行った。

何もなければそれにこしたことはない。誰かを恨んだり、憎んだり、戦争やその他諸々の悪というものに対して、善を行うほうが遥かにエネルギーが必要であり、そうやって生きられる人が強い人なのだということにも気がつく。

『あかるたへ』から一首。

死は恒星、生は遊星なりけらしひかりを反(かえ)す思ひぞ深き(水原紫苑)



著者: 水原 紫苑
タイトル: あかるたへ




著者: 水原 紫苑
タイトル: 世阿弥の墓

投稿者 Blue Wind : 01:35 AM | コメント (0) | トラックバック

March 04, 2005

最後の1ピース的爽快感〜島田荘司〜

薫葉豊輝(かおるは ひろき)さんのリクエスト?にお答えして、島田荘司さんの書評を書こうかと。コメントでは書ききれないから。ブログ系ミステリー作家というのがどういうものが存じ上げないのですが、島田荘司→司凍季→薫葉豊輝と流れなんだなぁ・・と何となく感じたので。

「島田ミステリはどの辺に惹かれたのでしょう。私の読み方は狭いだけに、別の視点も聞きたいと思いまして。」(薫葉)

ぐたさんにネタふりしようかと思ったんですけど、島田荘司さんなので、ここは踏ん張ろう。だって、読んだ小説だけでも以下の通りなんですもの。よく考えたら、未読本を挙げたほうが早い。


著者: 島田 荘司

タイトル: 占星術殺人事件

タイトル: 異邦の騎士

タイトル: 踊る手なが猿

タイトル: 火刑都市

タイトル: 暗闇坂の人喰いの木

タイトル: 御手洗潔のダンス

タイトル: 御手洗潔のメロディ

タイトル: 灰の迷宮

タイトル: 御手洗潔の挨拶

タイトル: 切リ裂きジャック・百年の孤独

タイトル: 斜め屋敷の犯罪

タイトル: 漱石と倫敦ミイラ殺人事件

タイトル: 北の夕鶴2/3の殺人

タイトル: 眩暈

タイトル: 龍臥亭事件〈上〉

タイトル: 水晶のピラミッド

タイトル: アトポス

タイトル: 出雲伝説7/8の殺人

タイトル: 消える「水晶特急」

タイトル: 毒を売る女

タイトル: 寝台特急「はやぶさ」1/60秒の壁

タイトル: 展望塔の殺人

タイトル: 奇想、天を動かす

タイトル: 龍臥亭事件〈下〉

タイトル: 羽衣伝説の記憶

タイトル: 飛鳥のガラスの靴

タイトル: 確率2/2の死

タイトル: 天に昇った男

タイトル: Yの構図

タイトル: 幽体離脱殺人事件

タイトル: 新・異邦人の夢

タイトル: 高山殺人行1/2の女

タイトル: 殺人ダイヤルを捜せ

タイトル: 網走発 遥かなり

タイトル: ポルシェ911(ナイン・イレブン)の誘惑

タイトル: 秋好事件

タイトル: 夜は千の鈴を鳴らす―東京‐名古屋駅90秒の謎

タイトル: ら抜き言葉殺人事件

タイトル: 天国からの銃弾

タイトル: 消える上海レディ

タイトル: 死体が飲んだ水

タイトル: 本格ミステリー宣言

タイトル: 見えない女

タイトル: ひらけ!勝鬨橋


一番最初に読んだのが『占星術殺人事件』で、最後に読んだのが『秋好事件』です。どうしてそうやってはっきり覚えているかというと、最初の御手洗潔シリーズがあまりにも斬新だったのと、最後の実在事件を追うという姿勢とがまるで正反対だったので、打ち止めになってしまった。

島田作品を大きく分類すると、御手洗潔シリーズ、吉敷シリーズ、自動車、実在事件、その他という感じなのかな。わたしが一番好きなのは、当然、御手洗シリーズだし、正直、吉敷シリーズは内容自体も忘れてしまっているかも。

しかも、主人公の謎の過去というのがテーマのような気がするし、女性は殺される以外どこで出てくるんだろう・・というのが率直な感想。しかもワトソン的存在の石岡君なんて「記憶喪失だったの〜?」みたいなノリ。謎に包まれた主人公というのも魅力の一つかもしれないですね。

子どもの頃、ホームズは本当に存在したのではないかと思っていたわたしとしては、どうしても名探偵という言葉に弱い。密室とかトリックという言葉にも弱い。何をもってして本格ミステリーと呼ぶかはともかく、奇抜なアイデアや発想が猟奇的な世界をフィクションとしてオブラートで包んでいるようで、作者との知恵比べみたいなところで、わたしはいつも島田さんには負けてしまう。

それと、切り裂きジャックや夏目漱石、舞台が中国からハリウッド、などなど少しずつ離れたパーツが組み合わされて行く手法というのがすごかった。実際に存在した出来事、例えば晒し首の写真が載っていたり、背景のリアリズムもかなりショッキングで、壮絶な悪というものを上手に表現していたような気がします。

ただ、『秋好事件』についてはどうなんだろう。とても長い小説だし、実際に死刑判決が出ており、しかも冤罪、かつ平凡に生きている人たちの存在が裏側にあり、責任という点であまりにもリアリズムとかったるさと社会的無関心と現在進行形ということで、わたしは一歩引いてしまった。

実在の事件でも100年以上昔の出来事と今とでは重みが違う。作家というのは警察官でも検察官でも弁護士でもなく、はたまた新聞記者でもなく、どこかそういう非現実的なストーリーテラーであることを作者に望んでしまうのは読者の側の身勝手?

こうやって書いてしまうと月並みなことばかり・・・

ただ、巨大なジグソーパズルの最後の1ピースをカチッとはめこんだ時のような爽快感は、島田作品の飛びぬけて面白いところ(だった)。

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February 24, 2005

『愛の解剖学』 カール・グラマー著



著者: カール グラマー, Karl Grammer, 今泉 みね子, 日高 敏隆
タイトル: 愛の解剖学

紹介文がすごいですね・・・そのまま引用。


『男と女が出会ったとき、なにがおこるのか。人はなぜ特定の異性に心ひかれるのか。異性のどこにひかれるのか。相手の関心度をどのようにはかるのか。人はなぜ浮気をするのか。なぜ焼きもちをやくのか。もてる男性、もてる女性とは? 美しさとは、魅力とは?
こうした男女の愛をめぐる謎を究明するために、ドイツの有名なマックス・ブランク人間行動学研究所が、大規模な調査とじっけんをのプロジェクトを組織した。そのチーフをつとめた著者が、日本での比較実験と米国での研究も参照しつつまとめた本である。
驚くべき事実の紹介とともに、男女の駆け引きの裏に秘められたメカニズムと生物学的な法則を明らかにする。
この本で私たちは自分の行動を理解し、また他人の行動を理解する手がかりを得られるであろう。これまでの「愛」への見方を根本からくつがえす話題の書である。』


興味深いテーマばかりではあるけれど、果たして、その結果が驚くに値するかどうかは、個人差が激しいところではないだろうか? それとグラマーはあくまでも生物学者であって、心理学者ではない。彼の定義する「愛」を考えることが一つの課題なのかもしれないけど、生物学的に考えた子孫を残すというスタンスから考えると、どこまでも人間は、あくまでも「ヒト」なのだということがわかる・・かも。
でも、性行動や求愛のメカニズムなどについては、やはりわかりやすくもあるし、相手に何を求めるか?という点においては、かなり説得力があるのかもしれない。時に、いろいろ考えながら、冷静に読める人だけにお勧めしたい1冊。
これによって、人生観が変わる?
そんなこともないのよね・・・
彼を槍玉に挙げる?
それが楽しい1冊なのかもしれない・・・

*************

今日はダルイので、サイトのほうから古い書評を引っ張ってきました。

投稿者 Blue Wind : 05:24 PM | コメント (0) | トラックバック

February 17, 2005

ゲーテは4分! 『自然科学論』

ことらさんのブログ、イケてるでしょ? 最初は、「新井素子」で検索したらヒット。トラバる。読者登録。その翌日くらいにはいきなり上位(わたしが知らなかっただけかもしれないけど)。更新量も違うし、パワーが違うよね。

わたしは、あまりSFやファンタジーは読まない。その理由についてはウダウダ書かないけれども、空想力や好奇心は人間のパワーの源。そういう意味では、アニメや小説は自由空間、パワーに満ちあふれていると同時に、人間のすごさがそこには秘められている。これがあるから、人類は、科学は、文明は発達してきたとすら感じてしまう。
狭い研究室で、他愛もない実験をしているよりも、何となく楽しい。

その昔、哲学と心理学は相性が悪いらしく、「心理学は哲学じゃないよ」と何度も繰り返し言われ続けた。例えば、臨床の人たちが論文を書こうとしても、ケース・スタディはダメとかね・・・わたしは実験系だったから、なおさら厳しかった。フロイトもユングすらNG。

つまりは、心理学が必死に独立して行こうとしていた時代。

わたしは学部の頃は色彩心理学を専攻していたので、ゲーテを読むのは当然だった。色彩の研究についての始まりがゲーテとニュートン。今はまったく違うジャンルに分類されてしまう二人だけれど、ゲーテのニュートンに対するライバル意識はそれなりだったのかもしれない。
あくまでも主観的な観察を究めるゲーテと、客観的手法を用いるニュートン。この二人の対立がその後大きな流れへと時代や学問を導いた?

フロイトをイメージして心理学を専攻した人たちががっかりするほど、わたしを魅了した世界は楽しかった。一番憂鬱だったのが精神物理学。物理的に存在する世界を色相環などを使い色を数値化する。周波数毎に分類したり・・・しかも、それに対するレセプターとしての人間を研究することが狙いなので、個人的にその色がどのように見え、青い色を見たら寒くなるとか落ち着くとか、色彩感情の研究とかね。

わたしの卒論は、残像実験。面白かった。面色を凝視する時間を決め、見えた残像が何色で、どの程度長く見えるか、さらにそれが何色かとか、さらに黄色を凝視すると光の形でしか残像が見えないとか、紫についても黄色と言う人もいれば、光としか言わない人もいるし、同じような色を見ているはずなのに、それを言葉で表現しようとすると個人差が大きくなる。
もしかすると、物理的には同じ色なんだけど、個人的には見えている色は微妙に違うとか? そうなると白内障の患者さんの研究とか・・・わたしは、緑内障の患者さんまで手がけたこともある。
それがどんどん派生して、知覚そのものの個人差の研究とかね・・・今となってはとても懐かしい。

でも、ゲーテの『自然科学論』は文献として価値があるかどうか、・・・自分的には引用してもかまわないと思うのだけど、臨床系の先生に笑われたこともあった。内観報告自体が廃れていく時代だったのかもしれないし、同じ心理学でもまったくスタンスが違うことも多い。
ゲーテの『自然科学論』は色彩論としては興味深い話が多い。例えば、彼はなんと残像を4分にも渡って観察していたのである!
わたしね・・・ためしに同じような状況下で同じ実験をしてみようと思い、やってみたら結局、普通の人で1分前後、長い人で2分くらい。そのうち何度も繰り返すうちにその持続時間が長くなる。
ということは、ゲーテがいかにマニアックな人間であったか、それだけでもわかるような気がするくらい”4分”という数字には深い意味がある。

最初のうちは、個体差よりもそれを統計的に処理するわけだから数値化するためにサンプル数が必要となるけど、それをどうやって分類するか?という点がとても難しい。そんなことをウダウダ考えているうちに、どんどんはまっていく。気が付いたら色彩心理学から大きく離れていくことになった。

こんな話、読む人たちがいるかどうかわからないと思いながら、懐かしいから書いてしまった。


■ 関連書籍

著者: ゲーテ, Johann Wolfgang von Goethe, 木村 直司, 前田 富士男, 野村 一郎, 高橋 義人, 水野 藤夫
タイトル: ゲーテ全集〈14〉自然科学論―色彩論
著者: ゲーテ, Goethe, 菊池 栄一
タイトル: 色彩論―色彩学の歴史
著者: 大山 正
タイトル: 色彩心理学入門―ニュートンとゲーテの流れを追って

投稿者 Blue Wind : 06:31 PM | コメント (0) | トラックバック

立ち読みしました、ごめんなさいシリーズ その1

今日はドラッグストアへ行き、あれにこれにと物資を買い込む。ほとんどが腐るものではないために特にバーゲン日というわけでもないのに買い込んだ。スーパーでも買えるけど、何となく悔しい。それでいていちいちそのためにだけ行くのがかったるい雑貨。
ついでに本屋へ行き、詩集1冊、歌集2冊を購入。
それで、つまらないことに気が付く。

普段、わたしの買う本って、著者欄に職業が書いてあることが多い。それを見て買うわけではないけれども、何となく気になる著者欄。小説などだと、ほかの著書名が書いてある。だけど、それ以外の書籍というのは、職業や所属が書いてあることが多い。

これなんだよね・・・って思った。うちのダンナでも名前載ってる本あるし・・・医学部の9割の学生が買うらしい。なのに、うちにはまるで印税は入ってこない。いわゆる監修がいてシモジモの名前が並ぶというやつ。シモジモでもそういうものに名前が載るということに意義があるらしいから、印税は入ってこない。

だから・・・・なのよね、おそらく。出版して儲かるという頭がない。


実際に買った書籍ではなく、立ち読みした本を告白すると、



著者: 曽野 綾子
タイトル: 現代に生きる聖書



著者: 枡野 浩一
タイトル: かなしーおもちゃ


の二冊です。

曽野さんの『現代に生きる聖書』は、冒頭だけ・・・本来なら、聖書について書くべき人たちはたくさんいるのに、どうして曽野さんが書いているのか、その断り書きを何となく読んだ。

権威主義というわけではないけれども、特に聖書に関してはこれはなかなか勇気のいることだということをわたしは少しだけ知っている。初期の頃の屁理屈日記でも、スピリチュアル・フリーダムに関しては、実際に神父さんがお読みになっていたわけで、あれは匿名だから書けたと思うのです。叱られるのを覚悟で、それでも何となく書きたかった。
そのうちに、ここまではOKで、ここは絶対NGというラインを何となく教えていただいた気がしています。

歌だったらもっと気楽でいいような気がするでしょ?

甘い甘い・・・そりゃ甘い。和歌だからこそ、なおさらに甘い。それなら詩になさい、とか、もっと日常生活における信仰とか、古来からの和歌の良さとか、そちらのほうがマシではないかという厳しさ。

ファーザーに教えを請うねこ。

ねこ踏んじゃったから始まった・・・


枡野さんの『かなしーおもちゃ』は、ようやく意味を理解した。あのブログを通して何をやっていらっしゃるのか。「あるある短歌」なのね・・・このところの『サラリーマン川柳』のヒットの影響なのかもしれないし、枡野教の完成なのかもしれないし、自分的には匿名的に投稿したつもりなのに、いきなりお叱りが飛んでくるという・・・

わたしってね、まるで歌人という自覚がなかったということに気が付いた。


インターネットの素晴らしいところは、自覚のないままにたくさんのことを与えられていることに気が付かないことかもしれない。これが対面形式だったらどうだろう?

例えば、学生時代のように、神父さんの授業に出席して、お時間のありそうな時に自分の原稿を持って行き、面と向かって意見を訊こうとすれば、そこにはある種の壁や構えが存在し、わたしはそのことを強く意識しないまでもそれが常識として、クソマジメに何かを求めようと、もがくような気がしてしまう。

その結果、言いたいけど言えないことなどを一人で悶々としながらその発露が結局ネットだとしたら、何の値打ちもない気がする。

ところが、ネットって面白い。どちらかというと、一人で悶々としているところを勝手に発信し、それに対してのフィードバックがある。しかも、ねこだから責任ないし・・・


こーね・・・・シモジモで、名前が並ぶことに意義がある世界に長くいると、その世界の外のことはあくまでも外の出来事として存在している。つまりは、一般の人たちには関係のない世界というものがあり、その中のことしか考えなくなる。外に出たら、あっちの先生のほうが上なんじゃないかと思っても、中にいるとそうではなかったり・・・


家の中では、どうやってもお母さんが一番強い?

実は、オトくんを飼ってわかったのだけれども、彼は一番偉いのは父さんだと思っているけれども、一番好きなのは母さんだということを隠さない。こーねー・・・そういうことにどういう値打ちがあるのかといえば、結局、父さんの言うことはきかないくせに、母さんの言うことは素直にきく、という反対の序列が成立してしまう。

これなんだよね・・・

いわゆる専門家がいて、聖書について知りたいのならそちらを読めばいい。でも、どうして曽野綾子さんの本を買うのか?ということなのかも・・・それでいて、今回、わたしが買った本については秘密です。たぶん。

投稿者 Blue Wind : 12:23 AM | コメント (0) | トラックバック

January 22, 2005

『彼女が夢みたアフガニスタン』 山本 敏晴

もっと軽いネタがよろしいのではありません?>あたし

なんか、また発作で娘が100%わたしの一部だった頃の話をアップしてしまった。駄文であんなにエネルギーを浪費してもよいのだろうか? おまけに、途中でアメブロナンバーズの記事が入るし・・・ここは、短歌のブログなのに。
賞金が当たるとは思ってないけど、数字を見たら何となくいじくりまわしたくなってしまうという・・・当たったら、PDA買います。あきらめて。家の外でまで短歌をいじくりまわしたくないと思いつつ、今日も出掛けに2首浮んでいたのに忘れてしまった。そんなものなのね・・・作歌というのは。残りは聖書協会のほうへ。

どこかのブログで、「私たちの寄付したお金はどうなってしまうのだろう?」という記事があった。「どうなるのか」は、どこに寄付したかによっても違うのではない?

かつてアフガニスタンでは、恐ろしいほどの巨額の寄付や援助は、内戦によって消えてしまったというし、皮肉なことに金が無くなったら難民が自力で戻り始めた。250円の薬が買えないでパタパタ死んでいくのに、弾丸が一発8円で買える。しかも、どうして薬が買えないような人たちがロケット弾を持っているわけ?

インドネシア。軍が食糧を独占してしまうのではないかという不安が広がっている? 日本はそこまで悪質な関係ではないでしょうけど、行政への不満はどこにでもあるし、上から下への流れは変わらない。
でも、寄付する側は下から上へのほうがよいと考えているはず。教会や施設みたいに最初から困っている人たちが集まっているところに直接送るほうが安心なんだろうな。
国によって貧富の差を考える人たちは多いけど、アメリカのチャリティ・サイトではホームレスの人への寄付とかね、つまり、あれだけ国は裕福なのに、ホームレスがいる。その点、日本でも同じかも。

こんなに裕福な日本でも、病院に行き倒れの人が担ぎ込まれたりする。元気になると退院してほしいのだけど、住所がない。そうなると行政は冷たい。中には遠く離れたところに住所があったりすると、そちらの扱いになるとか。大昔、あったな・・・そーいえば。よく知らないけど、うちのダンナ、市役所と喧嘩して、退院した患者さん、そのままタクシーに乗せて市役所へ送ったらしい。

家族は? 親戚は? 本籍は?

病気だったら病気の扱いでそのまま生活保護の手続きを取るとかいろいろあるんでしょうけど、単に空腹でダウンしていたというのでは・・・食べたり点滴したら帰ってもらわないと。ほんで、市役所行って、手続きの方法を教えてもらって・・・
役所の人も嫌がっていたけど、本人が行けばイヤとは言えまい。

あー、もっと軽いネタをアップしようと思うのに、手が・・・手が勝手に。




著者: 山本 敏晴
タイトル: 彼女の夢みたアフガニスタン


いつかはのんびり行ってみたい。
明るく、おしゃれな、アフガン、か。

投稿者 Blue Wind : 03:10 AM | コメント (0) | トラックバック

January 19, 2005

サマセット・モーム

アメブロへの不適応感の理由がわかった。ノベルだから・・・人はいかに生きるべきかとか、人生などについて、あるいは非日常を求めてそういうものを読むわけで、それが平和なブログの世界に浮いているのですもの・・・そりゃ疲れるわけです。

人間の数だけいろんなドラマや日常があり、それでいて、古今東西人間なんていつの時代も変わらない。同じようなことを考えて、同じようなことで悩み、結局、堂々巡り。

飽きるよ、大抵・・・

すべてが虚しい。

結局、すべてが聖書の中にはあり、人間がそこから抜け出せないことが何となくよくわかる。特に旧約聖書なんてテンションが高いもの・・・しかも、あれがノンフィクション。戦争も飢餓も、孤独も絶望も、恋愛も陰謀も、ありとあらゆるものが聖書には書かれている。人間の醜さや美しさ。

小説だったら、モーリヤックが好きだった。でも、一番好きな小説を挙げろと言われれば、モームの『人間の絆』。あれだけ長い小説をダラダラと読み、最後には幸福の青い鳥的結末。

結論: 人生はペルシャ絨毯のようなもの

さっぱりすっきりその一言が言いたいために、あれだけ書いたのだろうか?モームは・・・
結局、高村光太郎の『道』。好きに生きているうちに後ろに道ができる。勝手に好きな模様を描いて絨毯が織り上がる。

モームなら、本当は『赤毛』が好きなのかも。嵐の日に海に消えてしまった恋人を待ち続けた女。その女を妻にした男。そして、運命の再会。夫はドキドキするわけですよ・・・悲劇の二人が運命の再会をし、それが妻への真実の愛だと思って覚悟する。
が、結局、運命の二人はすでに中年、互いに互いがわからなかった。

そういうモームのシニカルさが好きだし、ヨン様に会うために空港へ行く気にはなれないわたしでも、モームを感じたくてラッフルズホテルへ行ったことがある。
が、しかし・・・
ラッフルズホテルの真っ白な長い廊下で、ピースサインをしながらお遊戯のポーズを取る娘。何だかあまりにもそのシュールな感覚が今となっては懐かしい。
それがモームからのプレゼントだったのかもしれない。

生きていてよかったと思うような瞬間って、大抵は、そういうつまらないことにある。


■ 関連書籍

著者: モーム, W.Somerset Maugham, 行方 昭夫
タイトル: 人間の絆〈上〉
著者: サマセット・モーム, 中野 好夫, William Somerset Maugham
タイトル: 雨・赤毛

投稿者 Blue Wind : 12:04 AM | コメント (0) | トラックバック

January 15, 2005

船酔いメモ

八木重吉詩集を読みながら、なぜか急に推理小説を思い出す。


■ 好きなミステリー作家


 .▲サ・クリスティ

天才的ストーリーテラー。最後まで飽きさせずそのまま読みきってしまう。特に、ミス・マープルシリーズを初めて読んだときには感動。洞察力という言葉を学ぶ。


◆‥臈珍饂

御手洗潔シリーズが好き。本格ミステリーという言葉を知る。『切リ裂きジャック・百年の孤独』など。大掛かりなトリック。奇抜な発想。猟奇性もありますね。


 パトリシア・コーンウェル

推理小説ともミステリーとも違う。検死官の日常生活をそのままリアルに書いていると思わせるところがすごい。謎解き的要素はないけれども、未解決事件をいくつも抱えながら、科学的捜査、最先端の技術の駆使。


ぁ,修梁

メモ

→躁: ミステリーを読みたくなる。
→鬱: 短歌を詠みたくなる。

船酔い。

コヘレトの言葉まで快復したい。

正月ボケ。

投稿者 Blue Wind : 06:18 AM | コメント (0) | トラックバック

December 15, 2004

『[プロの編集者による]文章上達<秘伝>スクール』 村松恒平著

ある日、本屋の店内をフラフラ歩いているとき、やけにシンプルな装丁の本を見つけて手に取ったのが始まり。買って書籍からURLを拾い、メルマガを購読する。

当時は、メルマガはタダだったので、書籍を買ったのは損だったかもしれないと思った。プロの作品がタダだったら、新聞購読すら断ってしまった自分としては、ネットでしか購読しない。
ちなみに新聞購読を断ったのは、ネットをしているからという理由だけではなく、古新聞を捨てに行くのが嫌だというのが本音である。それでもないと不便なのが古新聞。仕方がないから今は娘のため?に小学生新聞を配達してもらっている。

話を元に戻すと、最初はタダだったメルマガがある日突然有料になってしまった。普及版が必要ということでたまに配信されることはあるけど、内容が薄い。
そこで、毎月メルマガに300円を支払うか、単行本を1500円で購入するか迷っているうちにずるずる今に至る。

それにしても、村松さんのメルマガは基本が読者からの質問に村松さんが答えるという形式を取り、それをそのまま活字にしてしまうというところが出版関係の人なんだなーと感じた。
でもね、共同出版のカラクリとか自費出版の意義とか、実際、出版なんてものは紙の無駄使いが多いような気もするし、売れないほうが普通だよね。そういう意味で、書き手の夢を破壊する一方で、読者の質問の裏の裏の裏まで核心に迫って行くような回答は、読んでいて小気味良い。

◇関連書籍
著者: 村松 恒平
タイトル: プロ編集者による文章上達秘伝スクール
著者: 村松 恒平
タイトル: 文章王―プロ編集者による文章上達秘伝スクール〈2〉
著者: 村松 恒平, 安生 和之, 藤山 不死男, 武居 悦子, 佐藤 克之, フジヤマ計画
タイトル: WINDOWS傑作ゲームコレクション SUPER DISK for Windows
著者: 村松 恒平
タイトル: ほとんどすべての人のための神様学入門

投稿者 Blue Wind : 02:17 AM | コメント (0) | トラックバック

December 13, 2004

『エルサレムの詩(うた) イェフダ・アミハイ詩集』 村田靖子編訳

今度のブログは、ジャンルを「本・書評」にしたのだから、何かそれっぽいものを書かなければならない。大体において、書評とか歌評というのが苦手であるにもかかわらず、雰囲気と気分で決めるからこういうことになる・・・

アミハイの詩は、素晴らしいです。ユダヤ人とかユダヤ人問題と言われてもピンと来ないけれども、理屈ではなく、生きた言葉で今のエルサレムを感じることができる。つまりは、大抵のクリスチャンは新約聖書の中で生きているから、「アダムの罪を贖ったのがイエス・キリストである」などと言われてもよくわからない。われらの罪って何のことだろう、とかね。つまりは、どうして、ジーザスがエルサレムを見て泣いたのか、ファリサイ派もアブラハムの時代にはああではなかったとか、しみじみとアミハイの詩を通して、イエスの言葉の意味が少し理解できるようになる。

アミハイ自身は20世紀のイスラエルを代表する詩人であり、今のエルサレムを詠っているだけ。なのに、まるでタイム・スリップしたように過去と今とが交差する町、エルサレム。エルサレムの語源が本当は、イール・シャローム、平和の町だなんて。戦争ばかりしていて少しも平和でないような気がするのだけれど。

『ぼくの心のなかに平和がないから
外には戦争。
ぼくの内なる戦争を 心のなかにとどめておけなかった。』

(アミハイ「エルサレム----シオンの国の詩」より)

帯でこのフレーズを読んだとき、発作で買ってしまいました。
イエスがメシアであるとかないとか、興味のない人たちにはどうでもいいことのように思えることでも、ユダヤの人たちの神への愛やエルサレムへの郷愁を想うと、心の中に素直に響いてくる。彼らにとっては、カトリックとかプロテスタントとかギリシャ正教とか、まったく関係ないんだな・・と思うと、昨今、逆に癒されてしまう。


著者: イェフダ アミハイ, Yehuda Amichai, 村田 靖子
タイトル: エルサレムの詩―イェフダ・アミハイ詩集

投稿者 Blue Wind : 10:08 AM | コメント (0) | トラックバック