June 09, 2005

『「深い河」をさぐる』 遠藤周作著 (1)

著者: 遠藤 周作
タイトル: 「深い河」をさぐる


近頃読み始める前に予告のように書評を書き始める。パラパラとめくりながら、このところ同じ作者の本を読んでいるために、「そういえば・・」みたいな気持ちになってしまうからかもしれない。

『深い河』の中で、遠藤周作はしきりに美津子に仏蘭西が嫌いだと述べさせている。あまりにも善と悪がはっきりし、あまりにも秩序がありすぎるからだという。

わかるなぁ・・・・・善悪不二といったコムズカシイ概念を持ち出さなくても、わかりやすく語れば、人間臭さがあれば何か粗相があってもお互いさまということになり、謝れば許してくれるだろうという甘えがある。この、「お互いさま」という感覚が暗黙のうちに成立するのは、無意識の内に善悪不二という概念があるからだという気がする。

誰でも間違いはあるさ、とか?

あっさり語れば、これがインターナショナルに通用すると思ったら大間違いである。許されないからこそ赦しあわなければならないのである。

例えば、わたしが通っていたフランスの修道会の大学では、善と悪は極めてわかりやすい。その結果、過剰なまでに良識を求められる。悪いことは悪いと決まっているから。そのくせ、どうも善悪の判断基準が世間通常の常識とはまた違うらしく、そのことをうまく説明できないため窒息してしまいそうになる。慣れてしまえば、そっちのほうが楽だということも多いけど。

有名なのは、芸能界に入るのなら大学を辞めなければならないとか(未成年じゃないんですよ・・)、学寮から誰かが短パンで授業に出席したら呼び出されたとか、その手のことは比較的わかりやすい。

わかりにくいのは、・・・・どうやって説明したらよいのかわからない。例えば、親にナイショで友達と一緒にイギリスに行くことにして、一人インドでストップオーバーしてしまった子がいた。普通は友達だったら少しは心配して親と一緒に反対するという姿勢もありいなのだと思う。ところが、あの世界は何も考えていないため、頼まれれば微笑みながらイギリスからあらかじめ用意された葉書を投函する。

それは悪の共有ということではなく、何も考えていないから、まるで出席カードの代筆を頼まれたような感覚で引き受けてしまう。

ある学生がほかの学寮の子たちの不在者投票を不正に利用したという事件があった。その事件はニュースでも報道され、巷では大騒ぎになっていたけれども、事の次第はすごくシンプルで、誰かが選挙を手伝っているうちに大変だなーと慮り、それを友達に言う。そうすると微笑みながらそれが悪いことだとも思わないで、どぞどぞってなってしまう。自分で投票に行くほどの親切心もないかわりに友達の頼みを断るほどの出来事だとは思っていないらしい。

このように社会で語るところの悪は些事となり、それでいて微笑みながら整然とした秩序が保たれている。

つまり・・・・神の眼から見てそれが正しい行いであるかどうかのほうが法律よりも重要らしい。だから迷う時には、「ご自分の良心でお考えなさいませ」で終わり。迷うということは大抵の場合何かやましいか都合が悪いことがあるから迷うわけで、良心で考えて判断すれば善は善として存在しているために迷うほうがどうかしている。そこで善を行うか悪を行うか、それがとてもつまらないことだとわかっていても悩まなければならなくなってしまう。そして、結果的に善だと思うほうを選ばなければならなくなる。

つまり、悪いことは悪いのだから、これくらいは・・という甘えが許されない。しかも、善と悪とがあまりにも秩序正しく存在しているために、物事に迷わなくなる。迷うとすればもっと深い次元の問題だろうし、そうなると秩序よりも個人の内面世界の出来事ということになり、相談があれば神さまにする・・・というのが常識。

友達というのは親切で自分を助けてくださる存在ではあるけれど、それはどこか微笑みに満ちあふれた世界で、とても悪や醜い世界の出来事の共有などはまず考えられない。このため悪は抑制されて存在することになり、もし友達といえども悪が発見された場合、それなりの覚悟が必要になる。何が覚悟なのかわからないけれども、ある意味表立って批判される以上に個人を苦しめることもあるくらいだ。

つまり、自分の良心と相談するとか、神さまとお話するというのは、人間と話すよりも個人の内面を深く切り刻むものであり、これに慣れてしまうと、逆に誰に何を言われても微笑んでいられるようになるらしい。

『「深い河」をさぐる』は対談形式で書かれている。どうしてインドへ行くとほっとするのか、わたしは行ったことはないけど、何となく理解してしまった。おそらくは、わたしがバリ島へ初めて行った時に感じた人間臭さへの郷愁と愛着とがインドにもあるのではないかと。とにかく、人間が人間として人間臭さを保ちながら生きているのを感じるとほっとしてしまうのだから仕方ない。

ささやかなことなんだと思う。本当にうまく説明できないくらいささやかなこと。モノを売るとか買うとか、そういうちょっとしたやりとりや、着飾った女性を眺めていたり、ラブソングを聴いたり、誰かが誰かを好きだとか嫌いだとか、そういうちょっとしたやりとりが酷く人間的に思えてしまうくらい安堵感がある。

それが・・・・・なんと言うか・・・・・・カースト制のインドで、唯一平等な世界があるとすれば、ガンジス河なんだなーと思って。おそらくは射殺されたインディラ・ガンジーも、プーランも、そしてハリジャンと呼ばれるアウト・カーストの人たちもみんな河に流される。輪廻転生を信じてあの河に流される。そういう感覚は死ねば誰でも仏になるという感覚に近い。死がすべてを呑みこんでしまう。

それを混沌と感じるほど秩序があるということが良いことか悪いことかという前に、結局はそれが好きか嫌いかというだけのことのような気がする。

投稿者 Blue Wind : June 9, 2005 11:35 PM | トラックバック
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