June 11, 2005

ジーコ

スポーツほどプロとアマチュアの違いを痛感する世界はないと思うことがある。それは本場NBAの選手たちに翻弄されたオリンピックのバスケの試合を観たときにも感じたし、その昔、サッカーの試合でも、南米チームと対戦するとほかのチームの選手がまるで棒立ちしているかのように見え、いわゆる「世界の壁」をわたしは黙って眺めていた。

だから、Jリーグが発足する前、誰が日本のチームがワールドカップに出場できるなんて想像していただろう。2002年に日韓でワールドカップを共同で主催することになり、その誘致をめぐってはかなり前から悲壮感をもって準備が進められていた。日本で開催されれば予選に勝たなくても出場できますから・・・(オイ!)

ジーコだよなぁ・・・
すべては彼に尽きる。
ハートの問題というか、ちょうどJリーグ元年が娘が生まれた年であり、わたしは娘を抱っこしながらサッカーを観戦していた。おりしも茨城に転勤になり、鹿島アントラーズが快進撃を続け、ジーコのハットトリックを眺め、彼がすでにサッカー選手としては限界の年齢に達しており、うちのダンナに言わせれば、全盛期を過ぎたからこそ彼は日本にいるらしく、それでいて試合に出ていようがいまいが、ジーコがそこにいるのといないのとではハートが違う。

いや・・・・素晴らしい選手はたくさんいるのだろうけど、ジーコには何かほかの選手にはないものを感じた、というのは単なるわたしの主観によるものなのかもしれない。ベンチに座っているだけで何かが違う。だから、今回彼がワールドカップの監督になり、それで日本が予選落ちするわけがない、とまで思ってしまう。束の間、来年のワールドカップにジーコが監督を続行するかどうかの話題がニュースで流れた時にも、何をバカなことを言っているのだろう、とも思ってしまう。

いや・・・・もしかするとそのことを一番よく知っているのはジーコ自身なのかもしれない。怪我でずっとお休みしていた中田英寿選手をメンバーに選んだ時も、「中田がベンチに座っているだけでも違う」と言って彼をイタリアから呼び寄せた。

国際試合がどういうものなのか、わたしにはよくわからないけれども、おそらくはそういう国際試合に慣れているかどうかというのもとても重要なポイントになる? たしかにかつてはおとなと子どもくらいの違いがあったことを考えると、そういう精神的な壁を打ち崩すほうが技芸を覚えるよりも遥かに大変なのかも。

一流の選手はたくさんいるのだけれど、ジーコはもっと身近な存在。どこにでもいるようなおじさんみたいな雰囲気。そこがベッカムとは違う。

投稿者 Blue Wind : June 11, 2005 02:41 AM | トラックバック
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