July 04, 2005

『あさきゆめみし』 大和和紀著

土曜日、娘が『ちゃお』を買いたいというので一緒に本屋へ行った。わたしはそのままコミック売り場へ行き、昔と違って立ち読みする人たちのいないコーナーを徘徊。文庫以外はまるでわからないですね・・・もしかするとぐるぐるさん の正体?もわかるかもしれないと期待したんですけど、まるでわからない・・・(汗

「お母さん、漫画読むの?」
「流行ってるのよ」

どこで流行っているかは別として、娘があまりにも不思議そうな顔をするのを尻目に、漫画文庫のコーナーから大和和紀の『あさきゆめみし』 を7冊まるごと取出しレジへ運んだ。

正直言って、今まで源氏物語が心から素晴らしいと思ったことはないんですけど、ほとんど一気に第5巻までを通読し、特に読み慣れた第1巻などは大和和紀の描き出す源氏の世界に生きている人としての光源氏を感じて感服してしまいました。源氏物語は長いから大抵は源氏が明石から戻ってしまった頃から次第にだるだるになってしまう。それにもかかわらず、どうにか最後まで。ただし、宇治十帖の第6、7巻は未読。

源氏物語はとても狭い世界。世の中は天皇家と藤原家しか存在しないのではないかというくらい恋愛や結婚でも限られた人たちばかりが登場する。登場人物のほとんどが友や妻といえども親戚。それでいて政敵でもあるし親友でもあるし、姻戚でもある。栄華のすべてが帝になることだったり、国母(帝の母)になることだったり、家の繁栄が結婚や出産と密接に関連があるため、家の中がまるごと権力抗争の世界。

悲しいけれども、そういう窒息しそうな世界で、唯一癒しがあるとすれば親子の情だったり、子を通じてだったり、出家することだったり、戯れの恋。恋の多い光源氏を正当化するものがあるとすれば、幼き日に母を亡くしたこと、心をゆるせる相手が女性しかいないことかな。

気に染まぬ結婚や恋愛ですら、生活がかかっているから、考えてみれば誰も自分の味方は存在しないに等しい。それでいてより多く愛したほうが負けと語りながら物の怪にまでなってしまった六条の御息所。旧約聖書の世界のような癒しのなさ。単なる愛欲のむなしさを語るストーリーに終わってしまわないのは一貫した神仏への信仰心。帝のうえに神仏がある。だからこそ聖と俗はあきらかに一線を引きながら生と死を境にしながら存在している。

人間の愚かさ・・・

わたしは日本の古典が嫌い。それでいて結局人は幾世紀にも渡って、花を見たり、鳥の鳴き声に心の癒しを求めて生きてきたのだと思うと、感慨深いものを覚えざるを得ない。どうして花や月のうたがあれほどまでに多いのか・・・どうしてあれほどまでに自然を愛さなければならなかったのか・・・

源氏物語に登場する人たちは誰もが人には語れない苦しみを胸の底に抱えた人たちであり、結局それを癒してくれるのは花や雪や月。

わたしは日本の古典が少しも好きにはなれなかったけれども、嫌いなら嫌いの理由も理解しなければならない年頃であり、むしろ淡々としてそういうものを眺められるようになったことを喜ばなければならないのかもしれない。

投稿者 Blue Wind : July 4, 2005 09:04 AM | トラックバック
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