July 05, 2005

『イタリアアシジからの伝言−聖フランシスコとともに歩く』 小平正寿著

「2005上半期マイベストブック」というテーマなんですけど、ひねもすをだるだるに過ごしている身には、実はささやかな違いなどどうでもいい気がしています。

修道院。

はあ?

修道院というのは、修道する人たちの院。先日、大和和紀の『あさきゆめみし』を読みながら、出家して修道の道を歩みたいというセリフが随所に出て来るけれど、修道院というのはそういう世界。「山寺へ行け、山寺へ」というセリフがあるけれど、いわばそういう世界なのかもしれない・・・オリジナルは。

小平正寿神父さまの『イタリアアシジからの伝言―聖フランシスコとともに歩く』は、実は日記なのではないかと。サイトを来訪しながら、同じ日記でもわたしの日記とはずいぶん違うなーというのが率直な感想でして、どうしてこれが日記なのかというと、修道というのはそういうものなのかもしれないというのが少し時間を置いてわたしが理解したこと。

真理をめざして歩みつづけよ、という歌詞があるんですけど、真理というのがイエス・キリストをみつけることと理解したのはこの本を読んでから。

なんとなく拍子抜けしてしまった。

わたしはおバカだから、「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの〜♪」というのが修道に相当するのかも。

もともとが理屈に基づく人間不信というか、なんせ座右の銘が「人間なんていつの時代も変わらない」。つまり、古今東西人間なんて同じことを考え悩み苦しみそれが今でも続いている、というのがわたしの率直な人間観だし、人が新しく生まれて育てば結局は大昔の人たちが悩んだことを悩み続けながら生きていくだけ、というのが文学観でもあるし、そういう点では文学はいまだかつて人間を裏切らないような気がします。

今、古典がブームらしい。源氏物語の中で、光源氏が明石に流され、友も家族も従者さえも彼を見捨てて行く。そういう中で彼を助けてくれる人たち、そして苦しむ彼の姿にイエスさまの姿を重ねてしまうのはわたしがシンプルだからなのかもしれないし、そして彼がそれを自分の運命だったと受け止めるまで・・・

文化も形も違うけれども、真理をみつけるということは形にこだわることではない。

『アシジからの伝言』の中に、「平和の道への対話」という節があるのですが、聖フランシスコが騎士道を捨てて修道の道を歩み、そして自らを平和の道具となるように神さまにお祈りし、彼が乗り越えて行った厳しい3つの壁について書かれています。十字軍の時代ですから。

1つめの壁は、ハンセン病患者の抱擁。つまり「他者を敵とし危険とする自己防衛」の壁。2つめの壁は、「人を良い人と悪い人に分類して悪い人を追いやる」という壁。「泥棒に遭遇した場合も、逃げて行く泥棒のあとを兄弟に追いかけさせ、大声で、「兄弟泥棒さん」と呼んでパンとぶどう酒とを与え」たそうです。3つめの壁は、宗教の壁。マニケイズムというのがどういうものがわからないけれども、キリスト者を正しい者とし、非キリスト者や異端者たちを悪い者として切り離すという考え方だそうです。聖フランシスコはスルタンとの出会いにより、イスラム教徒もイエス・キリストによって贖われただけでなく、彼らも祈りの人々であることに気がついた。

わたしは不思議なことにアシジの満月を眺めて、思い出したのは西行。弓の名手である西行が出家し、日本の神仏思想が彼の願掛けによるものだということを知る。西行の話から聖フランシスコを思い出すのか、聖フランシスコから西行を思い出すのか、今となってはどうでもいいような気がしている。わたしがカルチェリの庵を歩きながら思い出したのは不思議なことに出雲大社の苔むした岩。わたしがポルチウンクラの中に座ったとたん訪れたのは不思議な無我の世界。それがわたしだけではなくむすめも同じように眠りとも違う眠りの世界に誘われていたことを知るにつれ、その不思議さを思わずにはいられない。

おバカなんだよね・・・源氏物語からイエス・キリスト、アシジから神仏を想うというのは。それでもその昔、コジモ・ディ・メディチが修道院の中に天窓をつくり、いつも天とお話していたことを知るにつれ、その牢獄のようなしつらえの部屋を思い出すたび、修道というのはそういうものなのかもしれないと諦めにも似たものを感じるようになった。

止めはオオクニヌシノミコトが背負っていた袋の中身・・・あの中には金銀財宝などではなく、実はダイコクさまが生きている間になさった苦労がずっしり詰まっているらしい。イエスさまは自ら十字架を背負って歩いた。わたしはエルサレムへ行ったことがないのでわからないけれども、遠藤周作の『聖書のなかの女性たち』の最後のほうのページではエルサレム巡礼の話が書かれている。現実のエルサレムはいわば一つの観光地であり、イマジネーションのたくましい人たちの想像を破壊するだけのパワーがあるらしいけど、もしかすると真理を探すというのはそういうことなのかもしれないと思うことも多い。因幡の白兎の浜・・・

人それぞれなのかも。

紫式部のあのだるだるな文章が素晴らしいと思っている人もいれば、大和和紀の創作のほうが優れていると思う人もいるでしょうし、わたしのように源氏物語に旧約聖書の世界を見つけたり、イエス・キリストをみつけたりする人間もいるということで。世の中は人それぞれ。

投稿者 Blue Wind : July 5, 2005 01:05 AM | トラックバック
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