May 26, 2005

『自由と社会的抑圧』 シモーヌ・ヴェイユ著

著者: シモーヌ・ヴェイユ, 富原 真弓
タイトル: 自由と社会的抑圧


シモーヌ・ヴェイユの『自由と社会的抑圧』と詩集を交互に読んでいると、熱い時代の息吹を感じてしまう。冒頭、彼女が描き出す社会は現在の日本社会のことではないかと勘違いしてしまうほど。それでいて、『自由と社会的抑圧』は痛烈なマルクス主義批判から始まる。

この本が書かれた時代は、1922年。1917年がロシア革命だったような記憶があるので、この本はいわばタブーのような存在かもしれないし、彼女の家族のアパルトマンに実際にトロツキーの息子が逗留し、彼女自身が激しくトロツキーと喧嘩したことなどを考えると、若い頃から彼女がいかに痛烈な人だったかわかる。若い頃・・とは言っても決して長生きした人ではない。

わたしがシモーヌ・ヴェイユという名前を見つけたのは、他愛もないネットの検索。ポルチウンクラを検索している時、「シモーヌ・ヴェイユが唯一跪いて祈りを捧げた教会」と書かれていたため、逆にポルチウンクラからシモーヌ・ヴェイユに突き当たることになった。

ちなみにポルチウンクラというのは、中部イタリア、下アシジのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の中にあり、聖フランシスコが昇天した場所である。若い頃は豪遊・豪快な騎士であったフランシスコは無一物でアシジの町を飛び出す。古い朽ちた教会の再建。そして、十字軍の時代、教皇への謁見。カトリックといえば、ヴァチカンのイメージが強いけど、聖フランシスコの質素な身なりはカトリックの異質空間のような気がするほどだ。小鳥とお話する聖人。

今でこそ立派な聖堂が建てられているけれども、本当の意味で聖フランシスコをしのぶにはポルチウンクラ。その小さな教会を包むように大きなサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会が建てられている。なんとも言えず不思議な場所だ。

そして、カトリックに惹かれながらも改宗することのなかったユダヤ人シモーヌ・ヴェイユ。その彼女が唯一跪き祈りを捧げた場所ポルチウンクラ。そこへ行ってみたいというのがわたしの去年のアシジ行きのトリガーとなった。

少々回りくどくなったけれども、彼女の生涯をかいつまんで知るうちに当時の社会的背景とそれに対する彼女の真摯さが伝わってくる。兄は天才的数学者、彼女自身も哲学教師の資格を持つ。それでいて工場で女工。労働組合運動に身を投じていたため。その後、キリスト教神秘主義への傾倒ということでさらに批判される。

革命と戦争。そういう時代。

地上の楽園。
そのイメージはわたしにはわからない。
でも、マルクスにしろヴェイユにしろユダヤ人にとっては地上の楽園こそが究極の使命。神の国を地上に構築するために思想家が存在している。共産主義の達成が地上の楽園へつながったか否かはわたしには興味のないところ。でも、人間を観察し、悪を考え、その中で地上の楽園を構築しようという努力は凄まじい。

わたしにとっての地上の楽園?
パラダイス・・・
ややこしいことは何もなく、在るものが在るがままに存在し、かつ美しい世界。人間の醜悪さについて考えることもかったるい。革命や戦争で流された血。どうして血や汗が求められるのか・・・どうして金を送っても日本人は何もしないと言われてしまうのか・・・その理由について少し考察中。

まだ上述2冊に関してはどちらも読破していないため、この話題についてはまた書くかも。

投稿者 Blue Wind : May 26, 2005 05:53 PM | トラックバック
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