June 08, 2005

『深い河』 遠藤周作著 (2)

遠藤周作の『深い河』 を読み終えた。ウィットに富んだ終わり方。その理由がわかる人は最後まで読んだ人だけかもしれない。最後まで読み、そして振り出しに戻る。

第3章は、美津子が大津を弄び、彼に神を棄てさせることに快感を覚える大学時代の回想から始まる。そして、大津も退屈な男かもしれないけど、美津子の結婚相手の矢野はもっと退屈な男。その後、美津子への失恋をきっかけに大津は神父になることを決意しフランスへ。そして、彼に神を棄てさせることに失敗したことを知った美津子は、新婚旅行を利用して大津に会いにリヨンへ行く。

わたしが読み始める前に本をパラパラめくっていた時、「ぼくが神を棄てようとしても・・・・・神はぼくを棄てないのです」という大津の言葉が目に入った。読み始める前なので、どういう状況で誰が発した科白かわからなかった。

大津には共感できないけど、この科白には深い共感を覚える・・・

どこかこの辺のところにマルクスの有名な言葉がどうたらこうたらという行があったはずなんだけど、見つからない。美津子の場合は、無神論どころか無宗教だもの。この辺の日本人的宗教観が美津子を観察するとよくわかる気がする。

無神論というのは教会にとっては大変なことなのかもしれないけど、正直に語れば、西洋的な潮流に巻き込まれなければ理解できないのが無神論であり、日本人の場合、江戸時代から今日に至るまで新井白石の『西洋紀聞』からまるで進歩していないような気がする。逆に語れば、無神論があるから少しは有神論が理解できるのではないかと思うくらいだ。

美津子を通して、モーリヤックの『テレーズ・デスケルー』の話が頻繁に出てくる。わたしの手元には今その小説があるのだけれども、なんでこんなに一生懸命に読まなければならないのか自分でも不思議だ。

第4章は童話作家の沼田の話。満州での子ども時代、そして犀鳥や自分の身代わりに死んだ九官鳥。

どうしてこんなにたくさん鳥の話題が出てくるのか不思議だった。でも、ガンジス河と鳥。天竺と阿弥陀経。読みながらお坊さんの声を思い出したけど、お経って詩のようだと思った。

第5章は木口と塚田とビルマの死の街道とガストンさんと食人の話。

おそらくは小説のネタをばらしているようで、まだ読んでいない人には申し訳ない。この手の話題で一番ショッキングなのはわたしにとってはすでにミクロネシアの食人文化のほうが遥かにショッキングであり、オリバー・サックスの『色のない島』の中で出てきたその話により、わたしは今でもあの界隈のコンビニでもよく売っている「スパム」というハムの缶詰が食べられなくなってしまった。

蛋白源の少ない南太平洋の島では捕虜は大切な食糧だったらしい。でも、ビルマの死の街道。仏教徒からすればそれこそ気も狂うほど苦しい出来事。

そして、6章以降はガンジス河のほとりヴァーラーナスィが舞台となる。

聖なる河ガンジス。聖母マリアとチャームンダー。死体や行き倒れの人たちを河へ運ぶ神父の大津。善悪不二の問題。

モーリヤックの『神への本能、あるいは良心』の中では、テレーズが「善と悪、小麦と毒麦が、あなたでなければこの世で誰も分離できないほど、私のなかで混じりあっています。」と書いている。『深い河』の中でも、大津が修道院を出なければならなくなったのはまさしくこの点であり、人間の光と闇、物事の両面、災いもって福となすといった発想、同じ食人でも自ら進んで犠牲になった人の話、その他諸々インディラ・ガンジーの射殺事件。

要領のよい人、わるい人。そして、真の幸福とは?

宗教のよい面、わるい面。そして、生と死。聖なる河ガンジス。異なる宗教の話が出てくるけれども、その3つの糸は複雑なようでいて一つに結ばれている。

投稿者 Blue Wind : June 8, 2005 12:48 AM | トラックバック
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