June 14, 2005

『「深い河」をさぐる』 遠藤周作著 (3)

ようやく遠藤周作の『「深い河」をさぐる』 を読み終えた。読み出すと速い。ある種のごつごつとした異物感を抱えながら通読する。異物感を呑み干すのに時間がかかる。

正直に語れば、「だから何なのさ」というのが率直な感想。ちなみに「だから何なのさ」というのは児童文学の先生の口癖だった。彼女は小説を読みながらそんなことを考えるらしい。「だから何なのさ」から始まり、「そういうことか」にたどり着くまでが小説なのかもしれないし、「そういうことか」をいくつかのセリフやセンテンスから拾う。

科学と宗教との融合、キリスト教と仏教、宇宙との交信、輪廻転生、シンクロニティ。インドから拾おうとしたのがそういう混沌とした世界だとすると、もうこの手の本が流行した時代は去り、その手の神秘主義に対してわたしは「だから何なのさ」的な飽和を感じている。

実は、今の時代のほうが特殊なのである。人間の霊性やスピリチュアルな側面を否定する風潮というのがどこか新しい発想であり、逆に今はサイエンスという名前の鎖に繋がれており、それはむしろ中世での魔女狩りが学問の世界でなされているかのようで、わたしみたいに実験実証主義的な心理学にどっぷりつかって生きてきた人間にとっては、宗教と同じくらい窒息感を感じずにはいられない。

それは全面的に禁煙になっている空港や病院が今の時代の一般的な風潮だとすれば、とても3分以上は居られそうにない喫煙室の中に閉じ込められているのがスピリチュアルな世界。理屈ではなかなか説明のつかない部分は狭い空間に押し込められ、神秘主義はあたかも煙草の煙のように排除され、濃厚な世界に閉じ込められている。

要するに、インドは喫煙の許可されたアウトドアみたいなもので、死も生もいっしょくたに大気中に浮いている。それを自然な感じと語るというのは、いかにも不自然な世界にわたしたちが生きているということを自覚するようなもので、このようにラフでプライベートな世界においては、自由に煙草が吸えるというだけのようなものなのかも。

だから、煙草が嫌いな人たちにとってはどこで吸っても嫌なものだろうし、喫煙者にとっては吸える場所を探すだけのことだろうし、インドはそういう意味では誰も煙草が体が悪いといって騒ぐ人たちがいないだけさっぱりしているだけなんだろうし、煙草1本のことで死ぬの生きるのうるさい時代が素晴らしいとは思えないし、世の中がおおげさすぎ、というのが率直な感想。

投稿者 Blue Wind : June 14, 2005 08:25 AM | トラックバック
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