いつからだろう・・・
一体いつから自分がその手の代物を排除するようになったのか、よく思い出せない。少なくても大学へ入ってからは、宗教その他諸々オカルトを含めてその手の代物を避ける傾向が高くなる。
このことはかなり矛盾に満ちているだろう・・・
少なくても修道院の大学なのだから、年中その手の話題には満ちあふれているし、実際、毎日ミサ曲を歌わされていたようなものだし、信仰が日常的に落ちてはいる。それでいてわたし個人としては、その手の類を避けてきたわけで、その理由としていくつか考えられるものの自分でも明確な理由はわからない。
名目上は文学部の学生だったけれども、わたしはあまり文学にも哲学にも興味が持てず、ひたすら愛想のない世界で数字と戯れていたような記憶がある。おりしも時代はまだブラックボックスという言葉が使われており、心理学会も行動主義が主流。認知心理学が台頭してきたのはわたしが大学院へ入ってから。つまり、人間の「行動」を研究するのが心理学と教えられ、もっぱらアウトプットされた反応だけを扱うことにわたしはあまりにも慣れている。
実験で実証できない事柄は扱わない。つまり、神や神秘主義者の好むようなこと、あるいは哲学で扱うような事柄を含め、ユングもフロイトも心理学だという感覚で読んだことはない。バリバリの理系の人たちにすれば、フロイトは哲学だと言う。それでいて、哲学の人たちからすればどうなんだろう。精神医学というくらいだから、どちらかと言えば心理学の範疇に含めて捉えているのではないだろうか。
正直に語れば、わたしの目から見ても、青山圭秀さんはバリバリの先鋒というか、神秘主義者であるがゆえに物理学を専攻したという気持ちがよくわかる。さらに、神が見えないからこそ聖書学者になった前島誠神父さまのことも何となく理解できるような気がする。
否定しても否定してもわたしは神を信じている。
これって今の時代にはかなりきつい。
でも、考えてみれば、神父さんやお坊さんを考えれば、世の中自体がそんなものなのかもしれないと思う。つまり、一生懸命に否定する傍らで、死者は弔うのである。人間とはなんて矛盾に満ちた代物なんだろう。神仏を信じる気持ちがない人たちでも、聖職者が神や仏を信じていないとなったらいささかの不満を覚えるだろう。
バカだ。
人間というのはなんてバカだろうって思ってしまう。
そういうバカは自分だけだろうと思っていたら、実はおまえもかーということはめずらしくもなんともない。一生懸命に信仰や題目に目覚めている人のほうが実は信仰心がないような気がすることもめずらしくない。ってことは露出が多いほうが嘘っぽい。
遠藤周作氏がどうして小説を書いていたのか、少し理解できるようになった。というのは、例えば意識という言葉すら行動主義が全盛期の頃にはブラックボックスの中に閉じ込められていたのである。つまり、そんなことを心理学者が言えば完全にバカにされるという時代。
人間なんだから誰でも生きている。精神もあるだろう。ってことは、それが意識であるという部分は誰でも持っているはず。なのに、その部分はブラックボックスだから扱わない。
そのことに対して不満があったかどうか・・・・
学部の頃は、かなり不満だったかもしれない。
が、しかし・・・・
実験や研究には手続きというものがあり、妥当性にこだわれば排除せざるを得ない部分は思い切って排除しなければならない、という宿命に慣れてしまうと、さほど迷わなくなる。分野は違っても大なり小なりそういうものなんだろうな。そして、本当に大切なものは鍵をかけてしまっておくように、どこか人目につかないところに隠す。
小説はフィクションである。
フィクションを前提としているから許される部分が大きい。
研究はそういうわけにはいかないもの・・・
そして、どうしてわたしが研究を進路に選択したかと言えば、それがわたしの鎧となり、わたしを守ってくれるからだ。
ユングが自分の神秘主義者的な部分を隠すためにあのややこしいユング心理学が構築されたのかと思うと、なんであれほどまでも読みにくくコムズカシク書かれているのか少し理解できた。ユングの理解者たちはいともたやすく解説してくれるけど、ユング自身の著作物の難解さといったら苛々するくらいだ。つまりは、それくらいガードを堅くしなければならない理由・・・
わたしはすでに神がいるとかいないとか、信じるとか信じないとか、キリスト教とか仏教とか、西洋とか東洋とか、すべてのことに対してどうでもいいという投げやりな部分を抱えている。投げやりというのは正しい言い方ではないかもしれないけど、いわば「だから何なのさ」的に突き放すことに慣れている。つまり、神秘主義で語らず、それを何らかのアウトプットしやすい方法に置き換えて語るほうが遥かに楽だからだ。数値は素晴らしいとすら感じる。
他人と議論するパーツにおいては用語を用いる。それ以外のパーツは沈黙する。それらはわたしの中ではすでに違う。つまり、余計な露出を避けるために、わたしには専門用語が必要だったのかもしれないし、どうしてそんなに回りくどさが必要かといえば、それだけ世の中が唯物的で露出されたものだけしか必要としないということなのかもしれない。
信仰心が持てない人ほど変な意味で神秘主義にのめりこむ。だからといって、わたしは彼らに何かを言ってもムダだということを承知している。というわけで、傲慢にならない程度に逃げるに越したことはない。
無宗教ってどういうことなのかというと、鎧なんだろう。他人に踏み込まれたくない精神領域があるがゆえに、あえて露出を避ける。そこが無神論とは大きく違う。
でも、まあ、完璧なブラックボックス排除の世界で生きていたがゆえに、わたしは極めて普通の人なのである。変にオカルトや神秘主義に感知することなく、その手の人たちと一緒にされるのは非常に自分でも苦痛だし、それでいてわたしは神秘主義者でもある。バランスなのかもしれない、生きていく上での。
・・・・・・・・・というわけで、わたしは歌人になったのかも。
どこかに発露がないと、つらい。