June 20, 2005

『不在の神は<風>の中に』 前島 誠著 (1)

前島 誠神父の『不在の神は<風>の中に』をこの前から読もうとして、見事に最初の部分で止まっている。理由はシンプルで、読み始めたとたんあまりにも惹き込まれるものを感じてしまったから。

「バスはバスが来る時に来る。」

当たり前のことなんだけど、日本人からすると当たり前の感覚ではない。電車もバスも時刻表があればそれに沿って運行しているのが当たり前だと思っているので、つい時刻表が気になる。ところが、イスラエルで乗り合いバスを待っている人たちは違う。優雅にお茶を楽しみながらのんびりバスを待つ。

その不思議さ・・・

つまり、バスにはバス自身の時間というものがあり、バスはバスが来る時に来る。

はあ?

この前、尼崎でとても恐ろしい事故があり、数分の遅れが惨事となってしまった。それはつまり数分でも遅れてはならないという義務感から生じた事故だったのだろうか。わたしにはもはや詳しいことも状況もわかりようがないけれども、どこか物理的な時間に人間のほうが合わせなくてはならないと思いながら生きていることによる事故。

この際だから、キリスト教のことは置いておき、ユダヤ人がいまだにメシアが現れることを待っているという事実にのみ考え合わせると、彼らが幾世紀にも渡ってメシアを待ち望んでいることだけはたしかで、その気の長さを思い合わせると、数分電車が遅れただけであんな大事故になるなんて予想だにできないかもしれない。

神には神の来る時間があるように、バスにもバスの来る時間があるらしい。

それがいつか?

それがわかったら誰も苦労しないだろう。と言わんばかりに彼らにとってはバスがいつ来るかなんて訊くだけ野暮な出来事らしい。いまだに数千年前の出来事に翻弄されながら生きているってどういう気分なんだろう。エルサレムには行ったことはないけど、イェフダ・アミハイの詩を読んでいるとダビデやソロモンの時代が今でも続いていることを感じざるを得ない。

わたしたちはたまたま今の時代に生きている。

生まれては死んで、生まれては死ぬ。そして、神を待つ。彼らの祖先も子孫も。一つわかっているのは星には寿命があり、そのうち地球も砕け散る日が来る。その時がいつなんてことはわからない。もしかすると地球の温暖化現象により、それはもっと早くやって来るかもしれない。その日、わたしたちが生きているかどうかなどということはわからないけれども、わたしたちの子孫はその日を迎えるだろう。

その日まで、生まれては死んで、生まれては死んでいく。

それでいて、人類が絶滅することはないと神さまが約束されたらしく、その日までわたしたちは何事もなかったかのように生き続けなければならない。

地球はいつ砕けるのですか?
その日まで人類は生きているのですか?
それとも大気圏に穴が開き、人間はとても酷い目に遭うのですか?
それとも大地震がやって来て、都市が滅んでしまうのでしょうか?
太平洋の島々は海の中に沈んでしまうのですか?
そして、神さまはいつやって来るのですか?
人間は死んだらどこへ行くのですか?
もっと語れば、サイババは8年で生まれ変わるそうですが、死んでそんなに早く生まれなければならないのでしょうか?
永遠の命って何ですか?
枯れた骨から生きた人間が復活するということは、枯れた木の葉から新芽が出るということですか?
わたしはとても気が短いのです。
人間が大地に変わり、そしてその中から再び生まれるなんてことはどうでもいいのです。
くりかえしくりかえし散っては集まり人となるのはどうしてですか?
肉体はくりかえしくりかえし何かが集まり再生され、そしてそれには寿命があり、わたしたちは死ななければならない。
それでいて、花は散り、花は咲く。
枯れた中から新芽が出る。
わたしには”時”がわかっていないようです。

投稿者 Blue Wind : June 20, 2005 11:49 AM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?