June 28, 2005

森瑤子

忍び寄る老眼の恐怖・・・・
もしかするとそれもそんなに遠い話ではないんだなーと思いながら、画面を眺める。そうなったら液晶大画面で巨大文字の電子ブックでも買って本を読むしかない? そういう時代が遠くなくやってくるかもしれない。今はまだネット・ユーザはどうしても若い人たちが多いし、文字も小さいほうが負荷が小さいような気がするし、レイアウトも綺麗。でも、そんなことを言っている場合じゃないって?

でも、老眼で思い出すのがどうして森瑤子なのか不思議だ。
今から20年くらい前、森瑤子はものすごく流行っていた。わたしが最後に彼女の小説を読んだのがいつか思い出せない。

ただ、彼女が『風と共に去りぬ』の続編を翻訳していたのを覚えているし、実は自分で『風と共に去りぬ』の続編を書きたかったとまえがきかあとがきに書いてあり、わたしがその本を読んで間もなく彼女が急死したことも覚えている。

今となっては幻の本。母が『風と共に去りぬ』が好きなことを思い出し、みやげ代わりに実家へ持って行ったことは何となく覚えているのだけど、その後どこへ行ってしまったのだろう。タイトルすら忘れてしまった。その後、スカーレット・オハラがアイルランドへ渡り、女の子を出産したというストーリーだったと思う。

森瑤子のよさというのは、とかく重く暗くなりがちのモチーフをフライパンのうえの玉子焼きのように裏も表もさっぱりと焦げつかない程度に仕上げてしまうところかも。だから口当たりがよい。ちょっとスパイシーなところもありきたりの玉子焼きでもごちそうになることを教えてくれる作家だった。

それはね・・・・主婦というつまらないありふれた人種をたちまちドラマの主役に押し上げてしまう彼女の手法はセンセーショナルでもあったし、森瑤子をガイドブックにしてオリエンタルな世界を徘徊するのも楽しかったし、夕立で飛び込んだ六本木のブック・ストアというのがO. ヘンリーを買ったあの店、というのがすぐわかるほど舞台設定が具体的だし、この前、ラジオから流れてきたユーミンの『中央フリーウェイ』の風景描写にも似て、何気なく通過してしまえば単なる風景を小気味良くドラマの舞台に書き直してくれる。

わたしなんて、「猫科の男」というのがどういう雰囲気なのかたしかめたくてランカウイ島へ行ったようなものだ。う〜む、たしかに猫科の男だったとしか語れない。あの笑みのない世界、足音のない歩き方、それでいて親切。寡黙なセクシーさというのがあるね・・・マレーシアには。でもそういうドキっとするような話でも、森瑤子のあのクールさを連想するとどうでもいいことのような気がしてしまう。

なんで老眼を思い出すのかといえば、普段は老眼鏡などかけていないにもかかわらず、なりふりかまわず老眼鏡をかけながら森瑤子を読みふけっているうちにとうとう図書館にまで通うようになってしまった行きつけの喫茶店のおばさんを思い出してしまうのかもしれないし、その読書熱がちまたに広がり始め、あの時代はみんなでバカみたいに本を読んでいた気がする。(老いも若きも?)

でも、それが更年期障害から中年女性を救うらしいという話をこの前何かのテレビで言っていて、老眼鏡が必要になったら森瑤子の小説は健康器具になるかもしれない? 長生きしていたら、今頃どんな小説を書いているのかすごく気になる作家の1人。個性も時代も作品にも終わりがあることを知る。

売れっ子老眼作家、か。さすが。
ぼぉ〜っとしているうちに、彼女の年になってしまった・・・月日は早い。

投稿者 Blue Wind : June 28, 2005 07:24 AM | トラックバック
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