February 06, 2006

『日本人とユダヤ人』 イザヤ・ベンダサン著


イザヤ・ベンダサン, Isaiah Ben-Dasan
日本人とユダヤ人

***

この本のおかげで、どうして娘が算数1だったのか理解できた。

小学生ってとても不思議なことがある。計算は合っているのに、式を平気で間違えたり・・・
計算はできるのに、式を書けないとか。娘の場合、かけ算はできるけど、九九ができなかった。このことが致命的で、たちまち算数嫌いになってしまった。(かけ算はできるが、九九が言えない、九九を覚えていない。)

ベンダサンの説明によると、日本人の頭の中にはソロバンがあり、ソロバンがあるから、アラビア数字を使う以前から計算ができたのだと言う。つまり、普通は数式を書いたり、筆算を使わないとできないような計算でもソロバンを使えば簡単にできてしまう。名人級になると、頭の中にソロバンがあり、暗算で計算ができる。

ユダヤ人にとっての律法というのは、頭の中のソロバンのようなもので、目の前に存在しないけれども頭の中に”実存”し、無意識のうちにそれに従って行ってしまうものらしい。意識する以前の問題だと言われるとそうかもしれない。神は目の前に存在しないけれども、実存している、というのはそういうことだと説明されると何となくわかったようなわからないような・・・

それでは、日本人にはそういう律法に相当するものはないのだろうか?

それが、ベンダサンによると、人間教らしい。
それは人間的ではないとか、人間なら当たり前、とか、大抵の日本人なら、そうやって言われると納得してしまう。法律とか律法という前に、人間的という意味での黙契があり、無意識のうちにそれに従ってみんなが行動してしまう。だからといって、「人間的ってどういうこと?」という問いに対し、これといった定義があるわけでもない。情の問題というか・・・

まあ、なんと言うか、そういう風に言われると困ってしまう。
もともと文字もなかった国だし、文字ができたとたんに自由奔放にそれを使いこなす。しかも、明確なルール(数式のようなきちんとしたルール)がないにもかかわらず、何となく読めてしまうというか、意味が通じてしまうというのも変なのだそう。(主語がないとか・・)

そうやって説明されると、ロゴスというのが言葉であり数式であり、だからこそ言葉はまるで数式のようであり、明確なルールによって構成されている、という大前提が欧米語やヘブライ語にはあることが理解できるようになる。だから、最初に数式があって答えが導き出されるように、最初に言葉があって答えが導き出される。だから、議論や対話が発展してきたらしい。

ところが、日本の場合、ソロバン文化だから、最初に数式があるわけではなく、だらだらと書いているうちにそれが文章として完成してしまう。主語が欠如していても意味が通じるというのはそういうことらしい。パッと思いついたからと言って、それがどうやって導き出されたものであるのかを説明するのは非常に困難であることを考えると、便利なような不便のような・・・

というわけで、ベンダサンに言わせると、日本のクリスチャンというのは正確には日本教徒キリスト派なのだそう。日本の古典などにも強く、ユダヤ教徒キリスト派について説明されると、そういうものなのかもしれないという諦めすら感じてしまう。

たとえば、「ユダヤ人とはユダヤ教徒のことだとも言われているが、ユダヤ人の中にはキリスト教徒もいるからユダヤ教徒がユダヤ人だとは必ずしも言えない」という文章をどうやって翻訳するのだろう?

ユダヤ人という言葉をギリシャ語になおすとユーダイオスであり、ユダヤ教徒という意味。だから、「ユーダイオスとはユーダイオスのことだと言われているが、ユーダイオスの中にはクレスティアノス(キリスト教徒)もいるからユーダイオスがユーダイオスだとは必ずしも言えない」という意味不明の文章になってしまう?

一つわかったのは、ユダヤ人と議論しても勝ち目はないということかもしれない。
でも、面白かった。

投稿者 Blue Wind : February 6, 2006 12:15 AM | トラックバック
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