August 11, 2007

『沈黙』 遠藤周作著

この本を読んだ後に、ドラマ『はだしのゲン』を観たせいか、踏絵という発想と非国民という発想が連動し、集団と個の違いや、信念や心情や、それを拷問や死刑を含めた意味での暴力でねじまげようとする時代背景や、その他諸々宗教って何なのかとあらためて感じたのでした。

この小説の主人公は背教の司祭なのだが、ユダになぞらえるようにキチジローが出没する。彼は弱いがゆえに踏絵も踏むし、誰をも裏切る。それでいてずっと転んだ司祭のそばでずっと生涯を終える。それでは転んだ司祭が本当に棄教したのかと言えばそれもどこか中途半端で、キチジローですら時代が時代なら単なる陽気な切支丹にすぎなかったのかも・・・という小説本文中の回想もどこかシニカル。生まれた国によって自然と宗教が決まってしまうというのも事実だろうし、それを無理にねじまげようとすると、非国民的な集団からの逸脱とみなされる。それでは本当に宗教によって国がキープされているかと言えば、本当は違うのかもしれない、という疑念がいつもつきまとう。

お盆の季節になると、人は戦争を思い出し、ほかの蝉がうるさく鳴く中で、羽を広げて道路に落ちている蝉を眺めることになる。おそらくは自然死なのかもしれないし、アクシデントがあったのかもしれない。蝉の一生は短く、夏とともに彼らの鳴き声も聴こえなくなってしまう。それでいて、夏になると再び蝉のうるさく鳴く暑さを迎える。

自民党が大敗した。おそらくは年金のことよりも、「しょうがない」発言のほうが静かな影響力を持っていたような気がしてならない。憲法改正や教育基本法の改正のほうが遥かに人の気持ちの中に波が引くような感情をもたらした。怒りではない。ただ、静かなる否定。むしろ、無視に近い何かすら感じた。

毎年毎年蝉の鳴く季節を迎えると、蝉は死に、また蝉の季節が訪れることに気がつく。

暑い季節、教会へ行くと、娘が言うのは、「わたしはクリスチャンではないから行きたくない」という台詞と、「この教会はいつも誰もいないね」という言葉。人の気配のない教会にも慣れてしまい、それでいて入り口が封鎖されているわけでもなく、ただ、人は皆それぞれ忙しいのだという気持ちにさせられるだけ。それでも何か行事があるときには誰かいるのだろう。が、しかし、誰もいないというのもさっぱりしていていいものだ。神さまとだけお話できる。

誰もいない教会に慣れてしまいそうだ。それでも踏絵の時代に比べれば実に平和。

投稿者 Blue Wind : August 11, 2007 12:55 AM | トラックバック
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