聖霊降臨の主日・・・・教会の誕生日。
なぜかすごく感動した。
入信のときも、受洗のときも、ぼーっとしていただけだが、神父さんに、「今日は教会のお誕生日です」と言われたとき、なぜかすごく感動した。聖霊がやってきたとき、教会が生まれた。教会が生まれたということに感動したのだろうか。あるいは、教会とは生まれるものなのだ、ということを知り、もはやあることが当たり前だと思っていたことが、実は、祖父母や親にも子どもの頃があったのだということを子どもの頃に初めて知ったときのような感動を覚えたのかもしれない。
プロテスタント系の書籍を途中で読むのをやめて、今、ベネディクト16世の「ナザレのイエス」を読んでいる。これもすごく面白い本。
ややこしいことは抜きにして、ものすごくわかりやすい。山上の説教や主の祈りなど、何回読んでも言っても、本当の意味はわたしにはわからない。わからないけれども、教えられて、そのまま覚えている。でも、考えてみれば、わたしのような無知な人が尋ねるのならともかく、イエズスの弟子たちが、イエズスに、どうやって祈ってよいのか尋ねるのは不思議なこと。ユダヤ人は子どもの頃から会堂へ行き、宗教どっぷりの生活をしているのだから、今さら尋ねるのは不思議なのである。
聖書を解釈を読みながらやっと読み終えて、この本を読み、実は何もわかっていないことに気づかされる。
ほかにイエズスについて書かれた本はたくさんあるけれども、どれもあまり共感しない。ただ、知識として、ユダヤのことについて少し知る、というだけのことで、それがわかったからといって聖書がわかるわけでもないことを知る。そしてあらためてこの本を読み、わたしたちはイエズスについて実は何もわからない、ということを前提に、イエズスのことを考えると、イエズスの神秘と単純さに驚かされる。
単純さに驚かされる・・・
イエズスは少しも嘘を言っていない。
「父から聞いたことをそのまま言っている」のであって、自分のことを話しているわけではない。
そうすると、無理なんだな・・・
行ったこともない、見たこともないところを誰かに訊いても、わたしがそれを理解するのは不可能だし、逆に、日本のことを知らない人たちに日本のことを説明しようとしても不可能。だから、わたしがみことばを理解できないとしても当たり前だというのは言いすぎだろうか。
でも、面白いから・・・
ガラス越しでは、何が言いたいのか聞こえない。
おそらくは、わたしはガラス越しでイエズスの話を聞いているのであり、そのガラスはわたし自身の心の壁なのかもしれない。
現存する神・・・
つまり、神さまは生きている。
でも、神さまが生きていることを認めてしまうと、なんだか自分が死んでいるような気がしてしまう。ややこしい壁。
(イザヤ 36. 17)
投稿者 Blue Wind : June 2, 2009 01:42 AM | トラックバック