June 23, 2009

『パウロ−伝道のオデッセー』 ルナン著




パウロ―伝道のオディッセー/エルネスト ルナン


病気になっても次から次へと仕事は溜まっていくし、やらなければならないことも発生するし、それでいてフラフラするものだから少しも片付かない。ちょっと動くと疲れるし・・・入梅も手伝って、倦怠感が続いている。

ルナンの『パウロ』を読み終える。わたしが生まれる100年くらい前に書かれた本とは思えないほど面白かった。翻訳本なので読みやすいのかもしれないけど。

この本は、かなり物議をかもした人物によって書かれたものらしい。大学でヘブライ語を教えていた頃、イエズスを「比類なき人間」と言ったため停職になっている。フランス育ちのケルト人で、自らも聖職を志したこともあるのだから本当は信仰心の篤い人なのだろうけど、カトリックについてはボロカスに言っている。でも、面白い。

カトリックの教育を受けて一番役に立っているのは、何を言われても柔和にしていられることかも。これは仕事をする上で役に立つ。いろいろクレームがあったとしても柔和にしていることにより、自然と和らぐことが多い。それでは本当は怒っていないかといえばそういうわけではないらしく、たまにスコールのように爆発するが、あまり長続きしない。

初期のキリスト教の律法についての確執はあまりにも幼稚な気がする。そういうことで暴動になったり殺し合いになったりするのだと思うと、恐ろしくはなるが、親が子どもに決まりごとを言うのは当たり前のことだ。あーしなさい、こーしなさい、あれをやっちゃいけない、とか。何のためにかと言えば、子どもを危険から守るため。それと同時に、子どもの公園デビューを考えると、モノの取り合い、ケンカ、じゃれあい、年中騒動が絶えないし、どんな立派な人になろうとも、誰でも子どもの頃はそんなものだ。

そうやって考えると、16世紀の宗教改革などはまさしく思春期の反抗期の若者という感じ。人類も少しは成長したのかもしれない。

本を読んでいると、やたらと神学という言葉が出てくるけれども、もともとそういうことに興味があったわけではないし、何世紀に誰が何を言おうと、今の時代に誰が何を言おうと、それはその人の勝手。所詮はイマジネーションの産物という気がしてしまう。

わがジーザスが神か人か・・・

死んで神になったと考えるほうが仏教的な発想かも。正確には、神の右に座した、と言うべきか。そして、聖霊となりわたしたちと共にいる。

わたしは仏教の家庭に育ったせいか、すんなりそういうことを抵抗なく受け入れてしまう。逆に、復活してからだを持ち、魚を食べていたというほうが理解しにくい。

パウロが生前どんな人だったのかはともかく亡くなったら聖パウロとなり、神の啓示を受けて布教したという話も、アシジの聖フランチェスコの出家した修行僧のような生活も、東洋ではめずらしくも何ともないような気がする。

日本でも、高僧という人たちがいて、それぞれに始祖となり宗派がある。元は一つなんでしょうけど、ローマ・カトリックみたいに統一した教会組織はない。それでも何も困っていないみたいだけど・・・

どうでもいいんだよね・・・くま先生は若い頃にキリストの教えに感銘を受けて、聖公会で受洗したらしいけど、わたしはパウロの手紙を読んで、あまりにも古臭くてグワッとなった記憶がある。実際、古いんだけど・・・ 要するに、教えに感銘を受けて信仰心を持つ、というわけでもなさそうだ、少なくてもわたしの場合。いまだに教義を理解していないような気もするし・・・

終わりの日がいつ来るかもわからないのに煉獄でどれくらい待つんだろうとこの前のお婆さんに言われて以来、救いのことも考えないようにしているし・・・

要するに、愛と言うからわかりにくいわけで、パウロの手紙の愛という言葉をイエズス・キリストに置き換えたらわかりやすいかも。愛=イエズス・キリスト。だから、ほかの宗教には愛はない。イエスがいないから。どんな善いことをしても愛がないければ無に等しい。というのは、イエスがいなければ無に等しい、という気持ちかもしれない。どんなに素晴らしい教えでも、イエスがいなかったらつまらない。それが本音に近い。(いや、それがホンネだ。)

(マタイ 23. 1-22)

投稿者 Blue Wind : June 23, 2009 03:41 AM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?