July 31, 2005

身近な宇宙

宇宙飛行士の写真を眺めながら、あれこれ想像するのは楽しい。わたしはババアだし体力にも知力にも今さら自信がないので応募するのも虚しい。おちび・・・も似合わない。オトだったらおバカだから宇宙飛行犬で犬用の宇宙服を着てへらへら笑っている姿が目に浮ぶ。あいつなら宇宙でも生きていけそうだ。

孫が生まれたら宇宙へ飛ばそうか?

・・・・・・・宇宙センターの職員だからといってすべてが宇宙飛行士で飛んでいるわけではない。それでいてどうせなら宇宙工学でも専攻して宇宙センターに就職したら近所に住んで、・・・・・なんか、夢が現実になるつまらない瞬間映像が。公務員は給料が安いけど官舎があるからいいか・・・とか? う〜む・・・・ 民間だったら5分くらい大気圏外で遊んでくるだけで2000万円以上掛かるけど、仕事だったらタダ。

ご主人が宇宙センターにお勤めしていて、NASAへ研修。ちょっと考えるとかっこいいけど、知り合ったきっかけが奥さんが図書館の司書さんをしているとき、そこにご主人が来て・・・という至って平凡な出会い。で、官舎で子育てしながら、たまに息抜きに習い事をしたり? なんかね・・・・まあ、宇宙で暮らすわけじゃないから、現実はそんなものなのかもしれない。

宇宙もずいぶん身近になった・・・

投稿者 Blue Wind : 11:50 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 白色も人造的な花の色、めぐみの色か、さりとて曇り。

深深と水の循環ながむれば雪か氷か灼熱の海
どんよりと曇った空の雲の色うつして咲くか白いペチュニア
白色も人造的な花の色、めぐみの色か、さりとて曇り。
一度だけ温度を上げる部屋の中、寒さ暑さも水のご機嫌。
さらさらと雪降りてくる冬空がなぜか恋しい真夏の日照り
雨の音。ぱらぱらと音、朝の色。次第に雲の暗がりの色。

最初から夜へとつづく朝の空。絶えることなく闇おとづれる。

投稿者 Blue Wind : 06:03 AM | コメント (0) | トラックバック

世間音痴

世の中って、まるきりわからない。
学歴社会と言われてもピンと来ない。
一生懸命に就職難、企業の学歴差別、と書いてあっても未知。

学生時代の友人に、とても家柄の良い人がいた。祖父・叔父・従兄が有名政治家。伯母は某有名企業の会長夫人。親も有名企業の社長。

で、卒業後どうするのだろうと思っていたら、御茶ノ水の聞いたこともないような旅行社に勤めていた。
「ハワイ・ツアーなんて3000円しか儲からないのよ〜」とうれしそうに語っていた・・・バブルの頃・・・
その後、結婚。社宅。のち、渡米。

・・・・・・・・わたし、研究室にたまに出没する生活。ダンナは医者。世間音痴。地球はまるい。

投稿者 Blue Wind : 04:57 AM | コメント (0) | トラックバック

深呼吸したくなる世界

子どもの世界が残酷なのか、学校がそういうところなのかわからないけれども、幼児の頃から子どもたちを観察していると面白い反面ストレスがある。

たとえば、幼児の頃に公園でやりたい放題だった子は、学校へ行くととたんにへなちょこになってしまう。公園だと母親がいて、一応は叱っているフリをしながらもわが子を甘やかす。頼むよ〜って心の中で思っても言えば親同士が喧嘩になるから逃げる。ところが、学校ではそうやって庇ってくれる存在がいないため、女の子からでさえバカにされる始末。先生曰く、今は女の子のほうがだんだん強くなり、平気で言い返すし、負けないらしい。

2年生の頃、登校拒否になった男の子がいた。特に何に問題があったわけでもなく、事実、上のお子さんたちは普通。理由は、学校には「お母さんがいないから」だそう。一瞬、「はあ?」って思ったけど、うちの娘も3歳の頃あまり幼稚園へ行きたがらず心配したことがある。その時も、後になって知ったのは、「お母さんがいないから」だった。

ダンナがテレビを観ながら、娘に言う、「女王の教室」へ入れようかな〜と。まあ、親からすればあれくらい厳しく躾けてくれるほうがすっきりするというのもある意味本音だろう。そういう視点から眺めてみると、大抵は親が子どもを甘やかすというクレームが世の中に蔓延している昨今、親の代わりにビシバシやってくれる存在は貴重なのかもしれない、おとなにとっては。

うちの娘の反応は、「いい子ぶりっこするからいいもん」というセリフ。
う〜む・・・・
まあ、たしかにいい子ぶりっこしてたら叱られないから。
公務員の街のせいか、そういえばやけにいい子ぶりっこが多い。うちの娘でも学校と家では様子がまるで違う。そういうのはわが家だけかと思っていたら、どこの家でも大抵はそんなものらしく、公園ですらしゃきっとしてしまう。で、家に帰ったとたんに、「ふぅ・・」となるらしい。親からみても、よく疲れないと思って感心してしまう。

そういう傾向は学校でも強い。たとえば、以前、担任の先生が語っていたのは、普通だったら先生が注意するべきところを子ども同士で注意しあうということ。やって良いことと悪いことがはっきりしている。でも、これの弊害もある。それがイジメにまで発展する可能性が高い。その理由がはっきりしているところがつらい。

たとえば、女の子が嫌がることをする。耳を舐めたり、消しゴムを勝手に取ったり、打ったり、水を掛けたり。あっさり語れば、迷惑行為をやめたら終わる。ところが、先生が注意しても直らないし、親が叱っても無理。そのうち親から電話が掛ってきて弁解が始まる。男の子だし、親に甘えているようなものだとか、幼稚なだけだ、とか。わかっちゃいるが、やられている側は次第にその子の隣の席は嫌だとか、同じ班になりたくない、となる。

イジメって何だろう?

女の子の親からしてみれば、自分の子が男の子にイジメられている、と言う。そりゃそうだよね・・・耳を舐められたり、水を掛けられたりしたらたまらない。その結果、それを先生に言い、直ちに席替えしてもらったり、登校班を変えてもらったり忙しい。

その結果、「あいつは悪いヤツだ」ということになり、嫌われ者のレッテルが貼られる。そうすると、ある日の放課後、理科室か音楽室にいた生徒たちが皆でその子がベランダに出た隙に窓に鍵を掛けてしまった。それでもベランダ伝いに隣の教室から中へ入れるし、一過性のものならそれで終わる。が、しかし、問題はその時締め出されてしまった子が怒って窓を割ってしまい怪我をしたこと。

娘はその時その場にはいなかったけど、その子が怪我をしても、「自業自得」で終わり。まあ、たしかにそうなんだけどね・・・たしかにそうだ。いつも悪さばかりで、その時だってまた何かやったのだろう。それで女の子たちに締め出されてしまった。でも、隣から戻ればいいじゃん、で終わるはず。なのに怒って窓を割ったのは本人が悪い、というのが理屈らしい。

どっちが悪いというより、そのストレスが1クラスしかないためずっと卒業するまで続いていくほうがたまらない。

直ったら終わる。それもまた事実。なのに終わらない。

そんなことを考えると、普通だったら逆だろう、と思いつつ、娘がそういう子のいない学校へ行きたいと語る気持ちもわかる。要するに、厳しい学校へ行きたいのだそう。年中すったもんだしては加害者の子の親のほうがもっとつらいんです、と言われ我慢を強いられるのにもうんざり。わかっちゃいるが、すっきりしない。だったら先生が厳しく言ってくれるところのほうがいいらしい。

たまに思うんだけど、うちの娘は逆に自分がそうやって追い込まれる立場になるかもしれない、と思わないのかな、と。親としてはこれから思春期を迎え、わが子といえども何があるかわからないと心配している。それがかくもあっさりそうやって切り捨てられると、それはまたそれで心配。

世の中って、案外、悪を孕みながら存在している。イジメというと、昔は弱いものイジメとかね・・・そういう印象だったんだけど、どうも近頃は違うらしい。最初に悪があり、それに対するキャパが狭い。そうすると、コンセに従いねちねちしたイジメに発展する。で、何かの拍子に爆発する子が後を絶たない。

投稿者 Blue Wind : 04:10 AM | コメント (0) | トラックバック

July 30, 2005

品位・・・・・?

自分の年になると、ある程度厳しく育ててくれた親にも感謝しなければならないのかもしれない、と思えるようになる。どうしてほかの子たちは自由にしているのに自分だけ叱られるのだろうとか、そういう鬱憤は学校でも続き、どうして校則やらルールやらで雁字搦めにされないとダメなのか、実は本当の意味でわたしは今でも理解していないのかもしれないと思ってしまう。

そういう意味で、国際公務員の慶長さんのブログは面白い。実は、自分には関係ないと思ってうきゃきゃと読んでいる無責任なあたし・・・主婦はクビにならないし・・・

今度は、ブログへのコメントが原因でクビになった大学教師の話

ちなみにブログはBBSと違って自分では削除できない。このため一度投稿すると管理者でないと削除できないため注意が必要。

それにしても、女子学生の性的魅力について教師がコメント欄に書くか?

いや・・・・わからん。女子校や女子大だと基本的に教師は男だと思っていない学生も多い。このため、案外、服装にはやかましい。大学だというのに制服まであったし・・・さらにフォーマルだと白手袋をする。グレーのスーツに白手袋というのはおおげさな気がするけど、そういう習慣も。寮からそのまま短パンで授業に出席した学生が呼び出されたり、ミス・コンに応募し、写真週刊誌に載った学生は危うく退学になるところだった。

理由は、品位が落ちるからだそう。

品位というのがどういうものかの議論はともかく、そういう意味では厳しい。

日頃、ビジネスには疎い生活をしているため、いまだにクールビズと言われてもピンと来ない。でも、オフィスに女性が増えて冷え性になったり、その原因があの夏でも暑苦しいスーツやネクタイだとすると、それが簡易化されるのは当たり前のような気がしてしまう。ニューヨークではフットワークの軽いスニーカーを履いている人たちが多いというし、ロンドンではスーツにビーチ・サンダル?

それに関しては大して興味がないので・・・・気にならない。

で、次はホワイトハウスに招待されたラクロスの選手たち? 綺麗に着飾った女性の選手たちの足もとがサンダルで物議を醸している? ちなみにホワイトハウスは教会ではないから・・と思いつつ、首相官邸に学生が招かれたら当然制服だよなぁ・・・と制服のある学生時代を過ごしたわたしは考える。学内でのティ・パーティを考えたら当然制服に白手袋。制服がなければそれに準ずる服装を連想してしまう。

で、トドメはブログ・コメントでクビ。

こうなるとなんて言ったらいいのか、実はわからない。どこの大学とは言わないけど、大学になると自由なんだなーと思ったことがある。カジュアルなのはよろしいのだけど、それがファッションと言われてしまうとさすがに返答に困る。うちの娘でさえ、タンクトップでは学校には行かない。小学生だけど・・・リゾートで買った服や水着は学校には着ていけないということくらい、特に親が言わなくても理解しているらしい。

学校ってそういう意味では面白くないところかもしれないけど、厳しいには厳しいなりのわけがあることを、ババアになって知った。学校選び、か。なるほど

投稿者 Blue Wind : 01:43 PM | コメント (0) | トラックバック

July 29, 2005

学園ドラマ

気のせいかもしれないけど、近頃、学園ドラマが多い。娘やダンナが観ているせいだろうか。

わたしはドラマのストーリーにはあまり興味はない。大抵は、誰かが退学になったりなりそうだったり、あれこれ問題が発生したり、友達がどうたらこうたらとか、パターンがある。どうにもならないような子どもたちが立ち直るという筋書きも多い。ほかにネタがないのだろうかと思うけど、まるで時代劇のように定番がある。

それでいて、ドラマの中の教師のタイプを観察し比較するのは面白い。

わたしが子どもの頃にもこの手のドラマは多かった。サッカー部だったり柔道部だったり、そのうち金八先生やスクール・ウォーズ。大抵は、こんな先生がいたらいいな、というドラマだった。それがどんどんエスカレートし、やたらと破天荒な先生や女の先生。ものわかりのよい先生もいれば、とんでもない先生もいる。近頃、娘が観ているのは、女王様のような教師。言うことをきかない生徒や成績の悪い生徒は代表委員(雑用係)になる。

こんな先生がいたらいいな、という時代は終わったのだろうか。

ドラマの中で、悪役は大人たち。悪とは受験。先生はステレオタイプ。強い保護者。そこに生徒のために戦う先生。それがさらに進むと、権力者としての教師。抑圧される生徒。権力に媚を売るか友情をとるか。

時代劇なんだよね・・・「現代版の時代劇=学園ドラマ」みたい。

学校というのがそんな感じだから、何も変わらないのかもしれない。

校則は厳しかったかもしれないけど、権力志向のないところ。どこがとは言わないが・・・まるで違う世界。おそらくはルールも人間関係も何もかも違うのかもしれない。

ところで、なんであんなドラマばかり流行るんだろう・・・
そっちのほうが変だ。なんか感性が合わない・・・

投稿者 Blue Wind : 10:31 PM | コメント (0) | トラックバック

July 28, 2005

父親似

炭酸水を使って天婦羅を揚げてみた。たしかにカラッと揚がって美味しい。娘がテレビでやっていたというので、冷蔵庫の中に入れっぱなしになっていた炭酸水があったはずなのでそれを使う。以前、誰かがジュースと間違えて買ったもの。そのまま忘れていた。シソも自家製。

少し野菜の苗を買って来ようかな。犬の好きな草というのもあり、オトくんたちの食用に庭に植え替えた。

時代、か。
発想が違うんだよなぁ・・・

娘が中学に行くようになったら、今度はボウリングのレッスン。テニスでもゴルフでもいいんだけど、要するにプロの資格を取る。アベレージ180以上というのはかなりきついけど、不可能な数字ではないと思う。このためボウルの選び方、つくり方、使い方、投法などを学ぶ。基礎トレは今は何も特別なことはしていない。少なくてもあの重いかばんを背負って毎日2.5キロを歩くだけでも体力はつく。

絵は本命。
赤ちゃんの頃から描いてるからね・・・要するに絵が好き。
が、しかし・・・・好きだから危険。この道しかないと思いこんでしまったらどうにもならない。挫折したときの大きさを考えると、今から対策を考えておく必要がある。

勉強は、要するに基礎学力。一つわかったのは、文学部へ行くような器じゃないですね・・・うちの娘は。それなら微生物でも専攻して顕微鏡を覗きながら絵を描いているほうが向いている。

そのすべてが無駄な努力になったとしても、結構、料理も子どもも動物も好きだし、親の手伝いも好きだし、普通に結婚してもそれなりにやっていくだろう。

あれにこれに考えると、やっぱ、子どもって父親に似てしまう。娘は100%わたしに似ていると言う。お父さんと似ているのはいやだと言う。それでいて娘は父親に似ているような気がする。産んで育てているのはわたしなのに・・・

でも、ある意味、父親に似ているほうが母親としては育てやすい。なんでだろ・・・責任ないような気がするからかもしれない。「わたしは絵が苦手だったのよ、なのにマホちゃんは上手ね」で終わり。ボウリングもそう。理系に進学したいと言い出せば、「わたしは文系だったからわからないわ」で終わりだろうな。娘を見ていると面白い。娘のくせに父親には負けたくないのである。

投稿者 Blue Wind : 10:59 AM | コメント (0) | トラックバック

July 27, 2005

平凡さ

ネットの接続が不安定。1時間くらい自動的に落ちたり接続したりしているみたい。2度くらい再起動してみたんだけど、状態は相変わらず。

その間に、庭で遊ばせていたマリは2度も脱走するし、いくら躾けても無理だということを学ぶ。オトくんはマリより大きいので柵を越えられない。マリは小さいから柵にしているトレリスの格子の間から外へ出てしまう。なんだか落ち着かない。

いや・・・・受験のことを考えるのは楽しい。
が、しかし、落ちた時のことを考えると、今からがっかりする。
受験というのはそういうものなんだよなぁ・・・と思いつつ、娘に行きたい学校を尋ねると、一番入りやすそうな学校だったりする。さすがわが子。しなくてもすむ苦労はしないという・・・

なんせ、2年生で入院し、そのままのんきに構えているうちに3年生で算数1というどつぼの状態からのリカバリー。ちょうどその時の担任の先生が6年でも担任。面談に行ったら、今度は歴史。算数は心配要らないという。その代わり、歴史が苦手。つまり、権力交代や制度の成り立ちといった社会的感性がどうも欠如しているらしい。小学校も6年生になると憲法やら環境問題やら非常に理屈っぽくなる。

受験勉強をさせてよかったと思う。受験はシビアだから、できない部分をカバーして行かなければならない。このままノラクラしながら大学受験で必修科目しか勉強しないとなると、おそらくは一生欠けた部分はそのまま欠けたまま通過してしまうのだろう。まるで栄養バランスを考えるかのように、娘に勉強をさせている。

それにしても、世の中どこか変だ。一番入りたい学校が実は進学校だったりする。入りたい学校というより入りやすい学校と言うべきか。公立の学校の2倍近いカリキュラムを消化していかねばならない。校則も厳しい。だから、人気がないのかもしれない。子どもにしてみたら、いや親にしてみても、あまりにもかったるいからこのまま大学の付属に行かせたくなってしまう。そうすると、学校へ入ってもあまり勉強しなくなるせいか、”小指1本引っ掛けて”的になってしまう。

いや、うちの娘は美大へ進学したいのではないか?
なんか、本末転倒。

中学校から、理系、文系、文理系と分かれて、受験勉強している子たちは素直でいかにも健全な日本社会を背負っていきそうな顔をしている。そうやって素直に育った子たちが年頃に素直に結婚し、どうやって考えても健全な日本社会を形成していく。

誰かが一生懸命に何かを言っても、社会というのはそういうものだという諦めに近いものを感じてしまう。こんなんでいいのか?・・・・・・・そこで指定校推薦の欄を眺める。「あっそう」みたいな気分に陥る。子どもの頃に親に何となく騙されてしまった時のよう。酷く平凡でつまらない気がするけど、それが一番なのかも・・・

投稿者 Blue Wind : 11:16 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 芝のうえ忘れた軍手ぬれたままとどまりし夜嵐過ぎ去る

渋滞の信号の森蝉の声耳の奥まで滲み込んでゆく
渋滞にクルマが止まる、それだけで肌のしんしん焼けゆく匂い
木陰には涼しい声が似合うはず、なのにうるさい蝉は鳴く鳴く
台風の過ぎた空には少しだけ皮膚の痛みの照りつける色
けだるさは伝わるものかネットすら切り替わらない白い我慢日

芝のうえいつしか翳は減りました。照りつける陽の輝くままに。
オトくんは笑みを浮かべてダンシング、ドアの向こうに爪の音鳴る。
さわさわと風の舞う音ささやけば台風のなか今もいるかと
芝のうえ忘れた軍手ぬれたままとどまりし夜嵐過ぎ去る

無邪気にも喜んでみて受験生、落ちて泣くのはわたしのほうだ。
けだるくもゆきすぎる夏駐車場うぐいすの声風の向こうに

サフィニアの花撒かれたるドアのそば二匹の犬の爪立てる音

投稿者 Blue Wind : 10:33 AM | コメント (0) | トラックバック

July 26, 2005

手がバジル臭い。
台風が来るというので、昨晩あわてて庭に置いてあった苗を部屋の中に仕舞いこんだ。植えようと思っているうちに、2日間くらい放置しておいたら、シソとバジルの葉が穴だらけ。ちょっと庭に置いておくと、いつもこんな感じ。家の中でハーブポットを育てるほうが食用になりそうな気がする。

それとコスモスの苗。
今の時期にこれくらいの大きさでは、そんなに背は高くならないだろう。春に咲くコスモスくらいの大きさだろうか。まちがえてこぼれ種で生えてくると来年はかなり背が高くなりそう。

プランターは難しい。
特に夏は。
旅行中、部屋の中に置いておけば暑さで枯れてしまうし、外へ出しておくと台風が心配。せっかく綺麗にプランターに並んでいるサフィニアを買ってきたけど、庭に植えてから旅行に行こうか迷う。

投稿者 Blue Wind : 08:38 AM | コメント (0) | トラックバック

July 25, 2005

医者に文句を言う前に教会へ

たまに思うんだけど、医者は聖職者でも神さまでもなく、単なる医者だ。ところが、亡くなった裏の奥さんが言うには、「医者に家族がいるなんてとんでもない。こっちは死ぬかもしれないのに。家にいるなんて想像もしたくないわ。ひたすら働いて・・・」 それでいて、仕事中だというのに、株屋はデリカシーの一つもなく平気で電話掛けてくるし、家にいても株だのマンションだのと年中セールス。全部わたしが切っている。

別に悪いことしているわけじゃないよ・・・
休みの日には子どもを連れて遊びに行ったり、犬の散歩をしたり、あとはせいぜいワイルド・ターキーを呑んでいるくらいで、まったく平和な人である・・・うちのダンナは。年中汚い格好をして、さすがにボタンが取れているからそれを着ていくのはやめてほしいと言ってもまるで気にしない。

その昔、もっと過激な労働をしていた頃は、成田のゲートをくぐり、ポケベルの電源をオフにすると心の底からほっとした顔をしていた。おじいさんの時代には旅行へ行っても呼び戻されることは当たり前だったし、それを考えるとずいぶん人間的になった気がする。

娘が初めて入院したとき、「なんで医者が来ないのよ」って思ったのはわたしである。が、しかし、周囲を観察すれば、夜になると不安になり休憩所に座って話し相手を探している癌患者や、ナース・コールを10分おきにならして医者が来ないと怒鳴っている老人や、その他諸々自己中であふれかえっている。

日頃、健康な人たちが病気になると、大抵はそうやって怒っている。

結局、マンションの駐車場で自殺した人・・・あの場で亡くなったのではなく病院。それだけでも何となくほっとするのはどうしてだろう。死の苦しみに満ちあふれている人がおそろしいほどたくさんいても、死はベールに包まれたまま、生きるために苦しまなければならない。

真夜中の病棟の休憩所に座っているときに会釈をして出て行った人たち。実は、赤ちゃんが亡くなったということを癌患者が教えてくれた。昨日までいたのに、朝になるといつものように職員であふれかえり、何事もなかったかのよう。

ガンジス河みたいなものなのかも・・・

職員用の出入り口。霊安室の前を通る。真夜中にダンナが呼び出されるとそこから入っていく。わたしもたまに娘の手を引いて暗い赤ランプの廊下を通る。使用中かどうかまで気にしたことはない。病棟への通路はすでに消灯。自動販売機の明かりが見えるだけ。幽霊でも出そうな雰囲気だけど、まるで怖くないのが不思議だ。

人って案外淡白にあっさり死んでいくからかもしれない。想像の死と現実の死がいくぶん違っているからといって、驚くには値しない。不幸・不吉・死神とかね・・・考えてみたら変な話なのかも。

少なくても白衣は法衣ではないのだから、医者に文句を言う前に教会へ。

投稿者 Blue Wind : 12:19 PM | コメント (0) | トラックバック

医者ではありません

pope

上の写真はパパさまです。医者ではありません。

投稿者 Blue Wind : 10:37 AM | コメント (0) | トラックバック

脅迫的熱愛

芸能人とかマスコミって怖いよね。
これはもう時効だし、本人も忘れているかもしれないから書こう。

ある日、ダンナの勤めていた病院に演歌歌手が入院してきた。どうもダンナの後輩に惚れてしまったらしく、そうなるとあからさま。ほかの医者はダメ。教授でも、「ふん」という調子。退院しても1ヶ月ごとに手紙が着たり、案外マメ。

惚れられてしまったほうは大変。結婚したばかりだし、そんな噂の一つでも流れたら職場でも大変なことになる。

ところが、相手が芸能人であるため、そんな世間の一般常識がまるで通用しない。逆にちょっとでも相手にしたら週刊誌に何を書かれるかわからない。また世間がおもしろおかしく喜びそうな相手を選んで口説いているのだろうか・・・その手の記事の見出しを想像するだけで笑ってしまう。

みんなの脳裡に浮んだのは、写真週刊誌の記事やワイドショーのインターフォンごしのインタビュー。世間のものわらいの種。実家のほうにまで記者が行くとか?奥さんの目隠しの写真とか?

今となっては笑い話だけど、結構、さわさわさわ〜っという感じで背筋が寒くなっていた。
話題になるなら、家族の写真入りの年賀状のほうがいい・・・
ラブレターも脅迫状のようだ・・・マスコミは。

投稿者 Blue Wind : 02:39 AM | コメント (0) | トラックバック

そういえば・・・地震?

そういえば、東京に震度5強の地震があったんだっけ・・・一昨日くらい?
お見舞い申し上げます。

この辺も震度4くらいの揺れがあったらしい。
娘とダンナはその頃クルマの中で、まるで知らなかったと言うし、わたしは塾の迎えをダンナに任せたとたん急激な眠気に襲われて、寝ながら揺れている気はしたものの連日の夜更かしのせいで、一度睡魔が襲ってきたらどうにもならない。

こんなんでいいのだろうか・・・?

投稿者 Blue Wind : 02:03 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 まっしろに陽の燃ゆるよう夏の空くっきりとした翳の輪郭

こころさえ過ぎてしまえば谷の風吹きおろしてはつよきビル風
まっしろに陽の燃ゆるよう夏の空くっきりとした翳の輪郭
不機嫌な顔の並んだ世の中は鳴く蝉の声電波のごとく
羽音する夏の夜にはかすかなる虫の息吹の途切れゆくまま

負け犬のほんとの意味を学んでもうれしくないが、杉田かおるは。
負けられぬ、怨念のよう・・・永遠はくりかえしつつ未来はつづく。
ちっぽけな泣き声もまた音波には響いてしまう、地獄耳かな。
芸能人、一般人とわけへだつラインの色は濃厚な灰。
入院に医者困らせし演歌歌手、言われてみても蚊の飛ぶような。

かわるがわるしんしんと人いれかわり、家のなかには同じ人住む。
ネットにはふたつの意味がすきとおる。網のさめぐれり罪のなき糸。
美しき音の流れる夏の晩、かすかな虫の震える羽音。

投稿者 Blue Wind : 01:46 AM | コメント (0) | トラックバック

July 24, 2005

夏休みの小ネタ

テレビを消してもブログがある?
サーフィンしているうちに、アメブロ藤田と奥菜恵の離婚を知る。
しかも愛人疑惑で取材にやってきた芸能レポーターをブロガーにスカウトしている・・・

ちょっと考えればわかるよなぁ・・・
杉田かおるは離婚しない。あれだけ好き放題に生きてきたんだから、もういいでしょ、というか。
奥菜恵は脱走。まだ25歳だもんね・・・夫を待つだけの生活なんてむりむり。しかも仕事オンリー・・・

でも、どこからどこまでがブログのネタなのかちかごろわからない。
夏休みだなぁ・・・

******

つづき。

わたしがダンナに、「杉田かおるは離婚しないわよ」って言ったら、「いや、絶対に離婚だろう」と怒ったように言い返された。

う〜む・・・

投稿者 Blue Wind : 05:42 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 地の上に人暮らすらし、空からは光降るらし、月みる地球。

休みなく蟻が働くそのそばで箒走らせ芝に水撒く
受験生少しはやる気になったかと今年の夏はけだるく映える
少しずつ時代のなかに融けゆかば水の雫の消える真夏日

灼熱に焼かれた枝のかさこそと積まれて落ち葉風に舞う夏
垂れ下がる切りそこなった小枝にはもはやわくらば木陰のワルツ

雪のなか春を祝いし夏の日に秋の風待つ敷島の歴
つれづれにものおもいするブロガーの無意識の列、歴然と四季。
北斎の津波のなかに浮びたる小舟のような嵐くる夏。
雨の日の傘の下には水たまり。空から水が降っている国。

地の上に人暮らすらし、空からは光降るらし、月みる地球。

投稿者 Blue Wind : 02:13 AM | コメント (0) | トラックバック

バラエティ

バカバカしいと思いながらも観てしまう。細木数子とホリエモンの対談。絶対的に安心して出かけられる鍵。おそらくは開けるためにはコンピュータと対決しなければならないほどややこしい鍵が完成するのかも。まあ、マンションの高層階や金庫を家に置いている人たちからすれば必需品なのかもしれないけど、家中窓まで電子ロックでは落ち着かない。

学歴は必要ないけど学問は必要。
バカバカしいほど当たり前のような気がするけど、実際のところわからない。でも、機械をいじるだけなら学歴も学問もたしかに要らないかもしれない。少なくてもキーを叩くには必要ない。マニュアルのほうがよほど役に立つ。

宇宙旅行、か。骨がボロボロになりそうだ。それよりも骨粗しょう症を心配するような年齢に達しそう。無重力のトレーニングにも耐えられそうにない。それでも月から地球を眺めてみたい人たちは多いだろう。地球から月を眺めるのと、月から地球を眺めて暮らすのとどちらが快適か、なんてね・・・核の廃棄物は月に埋める時代がやってくるのかもしれない。

地球だけではなく、宇宙環境などという標語があちこちの小学校に貼られるようになったらややこしくてかなわん。また教科書は書き換えられ、教師も研修でますます学校を留守になる。子どもの頃からコンピュータと航空力学。

それでいて、今まで津波を知らなかったところに津波と地震。無防備な人たちが波にさらわれる。わたしが酷く驚いたのは津波の被害ではなく、津波が来ているのに、平気で水の中でカメラを回している人たち。イタリアで一つ学んだのは電車の中で平気で寝てしまうのは日本人だけかもしれないということ。

バラエティ・・・
大抵の人たちは、テレビを消したら寝てしまう。

投稿者 Blue Wind : 12:40 AM | コメント (0) | トラックバック

July 23, 2005

PDF出版

エキサイトにブログをつくった。まだ何も書いていない。アドバンス(有料)にグレードアップすると、PDF出版で本をつくってくれるらしい。このサービスは、ニフやティーカップでもしている。エキサイトの場合は、いまだに進行形。

なんか疲れる・・・
出版という形で考えるのなら、毎日1首を詠み、そこにダラダラと日常を書いていくほうがいいに決まっている。なぜなら、そのほうが美しい日記に仕上がるから。しかも幻想的で美しい物語が書かれているほうがいいに決まっている。なぜなら、そのほうが面白いから。

わたしは長い間小説を読む週間が欠如していたため、あるいはもうずいぶん長い間映画にもドラマにも興味の持てない生活をしていたため、そのようにストーリーを追いかけるというのが非常に苦痛になってしまった。

わたしは案外リアリストである。
架空のストーリーを読むほど暇ではない。
それよりも現実にはしなければならないことが山のようにあり、それでいてこのように駄文を打っていられることがわたしの何よりの楽しみであり、ストレス発散である。

アメブロから学んだこと?
それは想像以上に多いかもしれない。

あっさり語れば、とてもたくさんの人たちが出版の仕事に携わり、あるいは本を売ったり書いたりする仕事に携わりつつそれを憂いていること。その原因の一つがIT革命にあること、不景気によりごみ箱や電車の棚の上の雑誌や本がリサイクルされていること、競合する雑誌などがたくさん出版されていること、ゆとり教育により子どもたちの活字離れが進行していること、単にストーリーを追いかけるよりビデオやゲームで楽しむ人たちが増えたこと、ゆっくり本を読んでいる暇のある人たちが減ったこと、その他諸々出版物の全集化や絶版など、欲しい商品が欲しい時にないなど、書いていたらキリがない。

それと同時に、うまく説明できないけど、価値観そのものが商業ベースが主体となり、今の人たちは人生を考えるよりもどうやったらビジネスに成功するかや具体的な人付き合いの方法などマニュアルを求める傾向があり、人間がロボットに近くなりつつある。

そういう社会背景の中で、娘の楽しみは絵を描くこと。
が、しかし・・・・
そういう社会背景の中で、現実的に娘が絵の勉強をしたいとなれば、ごく普通に美大に進学し、留学させるくらいしかわたしには思いつかない。それでいてそうやって苦労した人たちが今は何をしているのか、わたしはよく知らない。

娘にはもっと勉強させなければならないと夫が言う。それは進学のためというよりむしろもっと日常的に勉強することが必要だと言う。わかってはいるが・・・娘はわたしの子である。必要性がないことに熱意を持つような性格ではない。

平凡な日常の中で、一つ絵を描くことが楽しみならそれが素晴らしい。
だるだるに受験勉強の夏は続いていくし、それでいて休みの日に友達と遊ぶ約束をしたり、旅行へ行ったり、そういう日常があるから絵が描けるのかもしれない。絵そのものが目的になってしまったらもはやつまらない。

すべてが道具として手段として存在している。
出版もタダではないことを考えると、記事もそれなりにまとまったものでなければならない。なんて厄介な作業なんだろう。そろそろ短歌も整理する時期なんだろうか。9割を捨てなければならない。テーマに分類したり日記だったりややこしい。記事数300というのが最大。ファイルの大きさを考えて整理せねば・・・

投稿者 Blue Wind : 03:50 AM | コメント (0) | トラックバック

徒然ブログ

真夜中を過ぎても娘が起きて勉強をしている。その横でわたしはこの『日記』を書いている。ブログというのはどうやら日記のことらしい。

が、しかし・・・・
ウェブ日記というのは果たして日記なのだろうか?

わたしが初めて日記をつけたのがいつか思い出せないのは夏休みの絵日記の宿題を間際になって適当に書いて提出する習慣が長かったからかもしれないし、はたまた小学生の頃初めて入選した書道展の帰りに父に日記を買ってもらったことをよく覚えてはいるけれども、その日記を実際に使ったのはその数年後のことであり、いつも日記が最後まで埋められることがなく新しいものに変わっていったからかもしれない。

学校へ日記を提出するという宿題は変だ。

変だと思いながらもとりあえず宿題なので提出する。そうやって宿題として提出する日記と、自分が密かに書く日記とはまるで性質の違うものであり、そういった傾向はどうもブログ社会にも存在しているような気がする。

他人に見せるための日記というものがあるとすれば、まさしく夏休みの宿題文化なんでしょうし、隠れて書いた日記がその後根掘り葉掘り出現するのは詩人の日記などが存在するからなのかもしれないし、日本文学の場合、日記そのものが文学であるらしく、日記というのが徒然なるままに書くものであるという暗黙の了解も日本の伝統文化の一つなのかもしれない。

日記なんてものは自由なんだろう。

家計簿を見ればその日に何をしたかわかるし、主婦の場合家計簿をつけているだけで立派な日記になる。わたしの場合、今はつけていないけど。その日の出来事を記憶に残すだけなら家計簿ほどわかりやすいものはない。

短歌のブログをつくるということは、短歌でその日の出来事を記録していくということなのかもしれない。その中にはその日の出来事もあれば徒然なるままに感じたことも含まれているかもしれないし、考えてみれば、うたというのもそういうものなのかもしれない。

それでいて、文芸とか創作とか・・・

作品があり、その裏に日記がある、というほうがナチュラルな気がするのだけど、日記文学というカテゴリーが存在するため、その辺の基準が非常に曖昧になる。

ブログ発祥のアメリカではブログというのはニュースが主体らしい。9.11テロ以来、反戦の機運が高まる中、個人でニュースや意見を発信し、もはや一方的に与えられる情報では満足できなくなった人たちがブログをつくり急速に広まった。その中で小説を書いて発表する人たちも出没したり、ブログの使い方自体が多様化し、それが日本に伝わると古来からの日記文学の影響を受けてさらに多様化していく。

わたしの隣では娘が相変わらず明日の塾のための宿題をやっている。

やっと終わったようだ。
わたしもこれを投稿してしまおうっと。

投稿者 Blue Wind : 12:36 AM | コメント (0) | トラックバック

July 22, 2005

【今日の短歌】 まっしろな太陽一つ浮んでる昼は延びゆき夕が恋しき

日かげにはカサブランカの花しだりいつしか夏ののしかかる道
家の中マイナスイオン噴き出せば夏の匂いの忘らるる昼
まっしろな太陽一つ浮んでる昼は延びゆき夕が恋しき
ごま豆腐9.11賞味期限、日本の山にテロはなかりき
つくばへと走った道をつちうらへ走ってみれば迷子のこみち

夏休み、路上駐車の数が減る。帰省の季節、旅行の季節。
のんびりと耳を揺らしてマリ走る。脱走したよとオトの呼ぶ声。

投稿者 Blue Wind : 10:21 AM | コメント (0) | トラックバック

学校選び

学校選びって難しい。中途半端に近いとスクールバスが出ないし、遠ければ通学が大変だし、都会のように散歩をすれば地下鉄・バスに突き当たるという世界ではないために、足の確保は案外重要なポイント。

このためとうとう娘の小学校は1年生だけ帰りはバスが出るようになってしまった。普通の公立の小学校なんだけど。わずかなことで子どもの安全か図れるのならそっちのほうがよいに決まっている。

娘が絶交していた友達と仲直りした。にもかかわらず、わたしは結局娘の送迎に明け暮れている。だったらほかの学年にもスクールバスを・・・って思っているうちに卒業になってしまう。

ほかの人たちがどうしているかというと、中学生以上の通学の足は自転車が多い。高校生くらいになるとフットワークが軽いから毎日おそろしいほど乗ってもへいちゃらなんだろうな。それはよいことだと思う反面、女の子は親が毎日送迎しているということもめずらしくない。世の中変な人も多いし・・・

今日から塾の夏期講習が始まり、朝早いのでダンナに娘を送って行ってもらった。ところが通常なら20分の往復送迎が朝の渋滞に巻き込まれ50分掛ってしまったらしく、明日からはわたしが送迎しなければならないことになった。職場まで5分で行くところが50分になったらそりゃ怒っても無理はないかと。

こんなことでは塾より遠い中学ではスクールバスがないと無理だ。それかえっちらおっちら自転車で娘を通学させるとか? 健康のためにはそれも悪くないような気がするけど、こんな時代だからそれも心配だ。

つくばエキスプレスが開通し、たしかに秋葉原までは45分で行くのかもしれないけど、本数が少なすぎる。他県の学校へ通学させることを考えた場合、6時34分か、54分の電車に乗らなければならない。乗り換えや駅からの距離を考えるとおっそろしいほど時間が掛る。それもバカらしい。今、指定校推薦というのが増えて、わざわざ大学の付属へ行かなくてもどこかへ推薦で入れる仕組みらしく、ますます遠くへ通学させる意味がない。

受かったらわたしが送迎するしかないとなると、ますます不安になるらしい・・・うちのダンナは。わたしが朝寝ていたら娘が学校へ行けなくなる。親のせいで娘が遅刻するっていうのも情けない。なんせ6年間ですからね・・・本人が病気というのなら仕方がないけど、親が病気で学校へ行けません、なんて理屈が通るわけがない。

周囲を見ていると、子どもが大学へ行くようになっても親が駅まで送迎していることもめずらしくない。つくばエキスプレスが開通すればそれもずいぶん緩和される可能性もあるけど、それ以前には土浦や荒川沖までえっちらおっちら親が送迎していたんだから、それを考えるとすごすぎる。

現実を重視しなければ・・・
どうしてこの辺に寮のある学校が多いのかようやく理解できた気がする。家から近くても足がなければ寮に住むしかない。とりあえずスクールバスが充実した学校でないと無理かもしれない。選択の基準がどうも都会とは違うような気がする。

投稿者 Blue Wind : 12:14 AM | コメント (0) | トラックバック

July 21, 2005

イタリアに住むなら

イタリアに住むならフィレンツェの郊外がいい。ピザへ続くラインではなく、ヴィアレッジョへ続く側。市内は観光客で溢れ帰り、落ち着かない。海へも近いし、それでいてわたしは海の傍には怖くて住めない。

アッシジ・・・
アッシジは正直旧市街には住めないだろう。夏には観光客、そして冬や夜は閑散としすぎている。おそろしいほど田舎。アッシジ駅付近の住宅地なら住めるかもしれないが。

娘はミラノが好きらしい。日頃、電車のないところに住んでいるせいか、地下鉄・トラム・バスを巨大な遊園地のように乗り回し、迷えばドゥオモへ戻ればいい、というのが面白かったのだろうか。ミラノに住むならセントラルから1ブロック離れた下町風のところ。買い物も交通も便利。週末(平日か?)には市が立つようなところのほうが住みやすそう。あまりにも市内から離れると迷子になりそうだ。

夏には1ヶ月まるまる休む。地中海沿岸へ。イタリアの地中海側はまるで九十九里浜のよう。延々とビーチが続く。ひたすら家族連れで賑わう。少し遅れて到着する女子高校生の群れ。バッグを置いてどこかへ集団で消えてしまう。ロッカーもない。リグノーリアはアフリカ系の物売り、トスカーナは中国系のマッサージ師。

投稿者 Blue Wind : 11:14 AM | コメント (0) | トラックバック

夏休み

夏。
あっという間に刈った枝が枯れる。
おちびの夏休み。
通信簿がない。
2学期制になった。
塾。

投稿者 Blue Wind : 10:48 AM | コメント (0) | トラックバック

『世界の大思想22 パスカル パンセ』 パンセ著 松浪信三郎訳


右側に貼ってあるのは松浪信三郎訳の『ワイド版世界の大思想 (2-5)』 (河出書房新社)。わたしの手元にあるのは大昔の普及版で、表紙も青と黒の縞模様。分売価格が出ているところを見ると、さすがにこれでは売れないってことなんでしょうか・・・3期に分けて14冊ずつセットで発売されるみたいなんですけど、「きゃーっ」って感じ。

ちなみにモーリヤックも1巻と5巻は持っているようですね・・・わたし。それを考えたらなんか悔しい。それでも復刊したことを喜ぶべきなのか、すごく複雑な心境。わたしの手元にある『パスカル』は1500円。ペラペラの表紙。それでも捨てない。

この本を買ったのは、どうやら高校生の頃らしい。少なくても大学へ入ったら哲学関係は読まなくなったし、昭和54年の3版を買っているから。中に赤いボールペンで線が引いてある。ずっと忘れていて、今、そのチェックした箇所を読むとドキッとしてしまう。どうやらわたしは第三篇までしか読んでいないようだ。


わたしが赤線を引いた部分。

*******
52 「田舎者でなければ、田舎者とは言わない。」
80 「びっこの人間は別にわれわれの気にさわるようなことはないが、びっこの精神はわれわれに腹を立てさせる。」
   「われわれは、頭が痛いのでないということ、びっこでないということについては、自分ではっきり確信が持てるが、真なるものを選んでいるかどうかについては、自分でそれほど確信が持てない。」
104 「けれども、義務を思い起こすためには、自分の嫌いなことをするように心がけなければならない。」
108 「ただ嘘を言うのが目的で嘘を言う人もあるからである。」
118 「他のすべての才能を規定する主要な才能。」
123 「彼は十年前に愛したその人を、もはや愛しない。」
129 「われわれの本能は、運動のうちにある。まったき休息は死である。」
136 「些細なことがわれわれを慰めるのは、些細なことがわれわれを悩ますからである。」
154 「汝のほうが有利なのに。私は武器を持っていないのだ。」
193 「小事を蔑視し、大事を信じない人たちは、どういうことになるか?」
233 「無限の上に一を加えても、無限は少しも増加しない。・・・・・・有限は無限の前では消えうせ、まったくの無になる。」 
    「それゆえ数の無限が存在するということは真である。」 
    「われわれはそれが何であるか知らない。」

(『世界の大思想22 パスカル パンセ』 パンセ著 松浪信三郎訳 河出書房新社 より引用)
********

今日一つ付け加えるとしたら・・・

194 乙 「上品さは、親切気のないほうへ向かい、よい信仰は、他人に親切であろうとする。」

『パンセ』は、パスカルが『キリスト教の弁証論』の著作のための覚書として書き残したメモを遺稿集としてまとめたもの。『パンセ』というタイトル名は後から呼ばれるようになったものらしい。何気ない言葉にドキッとさせられてしまう。

この本が未読で終わっているのは、わたしが当時あまりにも若すぎたからだろう。高校生・・・ハードロックを聴きながら、漫画を読み、友達と将来のことや恋愛の話に明け暮れていた。受験勉強の合間に読んでいたんだろうな・・・

わたしがパスカルの言葉を理解していたかどうかはわからない。それでいて屁理屈ばかり言っていたのは、こんな本を密かに読んでいたせいかもしれない。理解するのも大変だっただろうに・・・かわいそうなあたし。ただ何となく心に残った言葉に線を引いていっただけのような記憶がある。頭に残ったのではなく、心に残った言葉。四半世紀の空白が埋められてゆく。

投稿者 Blue Wind : 03:03 AM | コメント (0) | トラックバック

やっと本が読める頃には本が無く

昨日初めてエキサイトの社長のブログを読んでしまった。アメブロからエキサイトへは文字化けしてしまいトラバれないので、あえてリンクは貼らないけれども、エキサイトのブログのトップページへ行けば誰でもたどりつける。

その中で面白かったのは、新聞掲載された記事。いや、そうではなく新聞に発表した記事をブログに掲載してあった。

こーね・・・・何と言いますか、わたしは日頃あまりテレビも雑誌も見ない。出版業界とIT関連企業がどういう関係にあるのかなんてことはまったく知らない。ただ、ネットをしているうちに、その手の雰囲気が雨漏りした屋根から落ちてくる雨粒のように降ってくるだけ。いくつかブログ・サーバの比較を眺めているうちに、ブログを有料で本にしてくれるサーバもあるし、アメブロみたいに賞金を出すところもあるし、おそらくはオフィーシャルなブログの見解が社説みたいなものなのかもしれないと何となく感じた。

その中で、ある雑誌社から毎月使われるネタが50あれば落とすネタが100くらいあるので、落ちネタをエキサイトに提供するという申し出があり、それをエキサイトがお断りしたという話があった。ネットはたしかに変なネタが多いような気がするけど、それはそういうことだったのかと何となく気づく。そういうネタが好きな人は好きだろうし、興味のない人も多い。それより、ユーザがテレビを観ながら記事を書いているのを眺めるだけでも結構飽和状態だし、コンテンツって個人で簡単につくれるし・・・エキサイトがわざわざ配信するほどのネタでもないのだろう。

結局、考え方なんだろうな。
アフィリエイトに力を入れて、書評を書いて本を売る、というのも一つのキャッチフレーズなのかもしれない。

が、しかし・・・・
本を買う人としては、わたしは自分がババアになったせいか、非常に本屋には不満である。冊数が多い割には、何となく貧弱さを感じてしまう。本屋もスーパーマーケットみたいなものだから仕方がないのかも。鮮度と価格、品揃えの多様性、売れ筋を置く。それよりも雑誌がだんだんネットに近くなっていくことのほうが不思議だ。

ある意味、それも仕方ないのかもしれない。
一昔前だったら、旅先の宿を決めるのでも雑誌が重要だった気がするけど、今はどちらかというとネットで予約するせいか利用者からの情報が決め手になったりする。それがまた本当にそのとおりと思うことのほうが多いし、ある意味本音で書かれているから役に立つ情報も多い。それと情報や紹介の数量という点でもネットのほうが強い。それでもガイドブックは買うが・・・

それにしてもモーリヤック著作集のこの値段の高さ。一冊4200円(税込み)。しかも6冊セット。まあ、こんなのを買うのはよっぽど好きな人か、図書館や大学、研究者ってところなんだろう。最初から売れなくてもかまわないのかもしれない。なぜなら、春秋社創業80周年の記念復刊だそうで・・・

せっかく本でものんびり読める頃にはこの始末。
学生時代、未読で終わったパスカルでも読むか・・・あーあ。

投稿者 Blue Wind : 01:11 AM | コメント (0) | トラックバック

July 20, 2005

A to Z

聖書が生きているのは、わたしたちが生きているからである。生きているからこそ発生するさまざまな出来事に翻弄される限り、いつも聖書は生きたものとしてわたしたちの時代に存在する。人間が生まれ同じことを繰り返している限り、聖書は死なない。A to Z という意味が何となく理解できるようになる。最初から最後まで。

最初から最後まで、逃れられないらしい・・・

投稿者 Blue Wind : 10:29 PM | コメント (0) | トラックバック

『パノラマバイブル』

近頃、わたしは聖書を読んでいて楽しくてたまらない。どうしてだろう。苦しみから聖書を欲しているのではなく、喜びから聖書を読んでいるからかもしれない。昔と今で大きく違うのは、若ければ箴言も苦い言葉だけど、老いてくればどれももっともなことばかりと思ってしまうからかもしれない。

これは、ババアの自己中化現象なのだろうか?
自分のことは棚にあげてしまう。

一つの諦めに近いものが出来上がってくる。

モーリヤックを読んでいても、そう。若い頃ならそうはなりたくないと怯えた話でも、今はストーリーを読んでいて、自分が幸せに思えてしまう。つまりはどこか他人事としてストーリーを追う。そして、書かれている話がどこにでも落ちているような平凡な話に思えてしまうことが不思議でならない。

神に感謝と言うけれど、こんな気持ちで感謝してよいものかどうかいつも逡巡する。そういった類の逡巡もやがては気にならなくなるのかもしれない。どうやって生きていても誰でもいつかは死ぬ。長生きする人たちが増えて、やがては何もすることもなく死を待つようになる。何もしていなければ暈けるし、何かしようとしても怪我を心配するようになる。

どうやって生きても、いくら財産があろうとも、そういうものがやがては何の値打ちも持たないようになる。だからといって、むやみな生き方もつまらない。世の中にはまだまだ未知の世界が存在していると思うだけで楽しい。聖書を最初から最後まで読んだとしても何がわかるというのだろう。実は何かを読んでいるようで何も読んでいないことに気づき、言葉が自分の中で生きたものとなるまで、何度も同じことを考える。そしてそれは自分だけではなく、皆が同じようなことを考えつついまだに解決には至りそうにない難題を含みながら、結局は受け入れるしかないことだと諦めるようになる。

それは若い頃にはかちんときた箴言が何となくもっともなことに思えるような諦め方に似ている。

そういう辛口な発想から逃れたいというわけではないけれども、『パノラマバイブル』だって…。立体的に聖書を解説してあるらしい。解説なんてどうして必要なのかわからない。それでいて、素直に解説を楽しんでもよいのかもしれないと、近頃何となく思うのである。それは記述としての聖書であり、自分の感性としてのみことばではない。

『アートバイブル』を読みながら、聖書の世界をこうやってイメージしたのかと、それぞれの画家の世界を比較するのも楽しいし、そうやって誰かが解釈した記述を眺めるのもそれなりに趣がある。

『パノラマバイブル』はまるで百科事典のような聖書だと思いつつ、人体解剖図を眺めても人間が理解できないのにも似ている。それでも人体解剖図は人間の一部を語っているには違いなく、それで聖書が理解できるはずもないと思いながら、そういう聖書の読み方もあるのではないかと。

パノラマバイブル


『パノラマバイブル』  9月1日発売予定。先行予約受付中(期間:5月1日〜10月1日まで)。一割引。

投稿者 Blue Wind : 10:33 AM | コメント (0) | トラックバック

そろそろ・・

そろそろヴァカンスのシーズンでもあるし、むすめの受験のことを気にする季節でもあるし、morimさんのこの記事 を読んであっさりわたしはランキングをお休みすることにした。

いつ復活するかって?

さあ・・・・気分屋なので・・・・・まるで検討がつかない。

投稿者 Blue Wind : 04:32 AM | コメント (0) | トラックバック

看護師さん、ありがとう

わたしは冷たいのかもしれないけど、母の世話を近頃ではすっかり看護師さんに任せてしまっている。今年の秋で倒れて6年になるため、最初の半年、それこそ自発呼吸が戻るか戻らないかくらいの頃はさすがに心配したけれども、そのまま母が70歳を迎えると次第にこれが日常になっていってしまう。

介護は机上の空論ではなく、あっさり語ればわたしの母の場合、退院すれば死んでしまうような状態なので、自宅で介護というのが不可能。それでもいろいろ手続きなどやることは多く、去年の秋までは弟に任せっきりだった。ところが弟が結婚すると嫁さんからクレームが発生し、わたしがしなければならなくなった。

母の洗濯一つしてくれないと嫁さんを怒るより、母が嫁さんが病室に見舞いに来ただけで血圧が上がってしまい、再び脳出血の再発を疑われる有様ではどうにもならない。・・・・・・・・ほとんど意識がないようでいてしっかり意識があることをこの事実から知ったというのも皮肉な話だけど。

それが現実だよなぁ・・・・

近頃では、入院中に必要な物、例えば紙おむつや手袋の補給も、洗濯も病院で手配してもらっている。これにより入院したての頃みたいに台風の日に歯ブラシがないと呼び出されたり、地震の日にティッシュがないと電話が掛ってくることがなくなった。

本当にヒマならいいけど、娘を迎えに行く時間と重なったり、連日して洗濯をして持って行かなければならない苦労を考えるとほっとする。自宅で介護していなくても、何から何までやろうとすれば毎日のように病室に居なければならなくなる。それでいて、次はリハビリがあります、おむつを交換します、タンを取ります、その他諸々病室になんて居られない。入院していても風邪だの骨折だの忙しい。年寄りは弱い。すぐに医者を呼ばなければならなくなる。

姑さんとも話すのだけど、万が一寝たきりになった時、下の世話をわたしにやられるのは嫌らしい。そこまではっきり言ってくれると考えやすい。だったら、娘ならよいか、と言えば、それも抵抗があるらしいし、仕事のことやら婿さんに気を使うことを考えると鬱が増し、逆に病気に障る。

『癩者の接吻』のノエミみたいに偽善に生きるより、互いにさっぱり生きて行く方が気楽かもしれない。


(トラステへのトラバ⇒「親の介護どうしよう」)

投稿者 Blue Wind : 02:26 AM | コメント (0) | トラックバック

『癩者への接吻』の終章 モーリヤック著 若林真訳

モーリヤックの『癩者への接吻』が発表されたのが1922年、その10年後に終章。それまでに書いた小説の中の人物をよりクリアにする狙いで次々に続編が発表された中の一つ。

夫を亡くし、舅と暮らすノエミ。舅は病気で気難しく、ノエミがちょっとでも外出するとあちこちイタイイタイが始まる。しかも遺言で再婚を禁止されたため、ノエミはほかに選択肢のない人生。その中での気晴らしが食べること。このため肥満。健康のために歩かなければならないノエミの息抜きは子どもたちの面倒をみるというご奉仕。

そういう牢獄のような生活の中で、ノエミはある日義父の死を待つ自分を感じる。憎悪ではない。ただ、彼女の唯一の楽しみがそういう生活から解放された後に旅に行くことを夢見ることだったり・・・

ある日ぷっつんした彼女は、舅の食事療法を無視して、スープを食べる。普通の人ならどうということはないささやかな日常。だけどそれがまるで殺人のようにおおげさになる。そして、好物を目の前にして我慢ができずにスープとワインを飲んだ舅。

彼女の甘い期待は裏切られ、舅の静かな寝息。そして、母親のように、病人に布団を掛けて彼女の一日は終わった。

投稿者 Blue Wind : 01:20 AM | コメント (0) | トラックバック

July 19, 2005

【今日の短歌】 広広と風が広がる大空にうっすら浮ぶ筑波のかたち

風の名を知らない陽射しまばゆけれゆらゆら稲穂ガードレールと
森の木の立ちならびたる大通り走りぬければ風は吹きぬく
茜色森の向こうに落ちる陽が大地を染める白い夕空

ゴムバンド伸ばしたようなあらくさの根をつまみ切る。ぷっつんと切る。
つまんでは伸ばしてぷっつんあらくさの根の張るほうへ屈みこむ夏
おぼろ月マンションの横浮んでる、綺麗だよって吾子は言うけど・・

広広と風が広がる大空にうっすら浮ぶ筑波のかたち
風は吹く、いつまでも空泳ぐ雲茜に染めていつしか家路。

投稿者 Blue Wind : 10:44 PM | コメント (0) | トラックバック

『癩者への接吻』 モーリヤック著 若林真訳

めずらしく徹夜で読書してしまった。『癩者への接吻』を読み終えて、ジプシー・キングスを聴いているとほっとしてしまう。

モーリヤックの描く繊細で愛に飢えたる者の世界は、ひたすらランド地方の自然と登場人物の見ている風景により進められて行く。ストーリーはとても簡単。ランド地方に生まれた醜いブルジョアの息子が結婚する。彼は美しい妻に恋しているが、妻は彼を好きになることができない。窒息しそうな生活。そして、彼は結核に感染し、妻のやさしい愛に包まれて死ぬ。

ただそれだけのストーリーなのよね・・・幼い頃に母を失い、家の中に引きこもるように育てられ、愛する人と幸運にも結婚することになる。彼は妻の愛が欲しい。だけど、彼女はどうしても彼を男としては愛せない。窒息しそうな嫌悪感。それでいて貞淑な妻。

自分の存在が愛する人を苦しめているという現実。逃れられない自己嫌悪。そして、彼はわざと結核に感染してしまう。当時は不治の病。つまりは、結核に感染した友につくすという美しい行為による遠まわしの自殺。

そこには温かさなど微塵もなく、むしろ灼熱の荒野がよく似合う。

投稿者 Blue Wind : 06:48 AM | コメント (0) | トラックバック

定年後の人たちを観る

クルマを走らせていると、不意にカーラジオから俳句の宣伝が流れた。俳句の何を宣伝していたのかまでは覚えていないけど、「心を豊かにするために俳句を詠む人たちが増えています」と言っていたような・・・

ほおお・・・・

このところやけに本屋で俳句の本を目にするようになった。俳句の同人などをつくって大学の同窓生が集まってネットで遊んでいるという話をBBSを通して知った。その話をしていたのは60歳を過ぎて定年退職し、ひまつぶしにネットで時事問題について書いていた人。北海道の人のせいか、話題が雪印のことになったら奥さんからクレームが発生したらしく、しばらくサイトを放置しているうちに消えていた。書きたい放題に書いているようで、ちゃんとチェックが入るんだなーと、何となく可笑しかった。

囲碁や俳句、か。叔父さんがそういえばいつのまにか60歳を過ぎて、心筋梗塞でオペをした。いまだに仕事はしているらしいけど、叔母の話だと近頃趣味でパソコンを始めたらしい。パソコンを始めるという言い方は変なんだけど、息子に訊くのがいやなのでパソコン教室に通っていたらしい。そこがね・・・・笑ってしまう。近頃、年賀状を皆がパソを使ってつくっているのに触発されたのだろうか。(怖くて訊けない)

友達のお父さんが定年したら、ひたすら本を読んでいるらしい。それも歴史小説ばかり。宮本武蔵とか、その他諸々その手の類の本がやたらと増えたそう。若い頃に読んだ本なんでしょうけど、それにしても延々と読み続けているのだろうか。逆に若い頃に体育の先生をしていたというお母さんのほうは、40代から勤め始め、60歳を過ぎてもまだ働いているそう。

何と言うか、うちは義父も父も定年のある仕事ではなかったので、結局亡くなる間際まで働いていたけど、このように世の中を見渡すと結構ヒマにしている人たちが多いので驚く。

ちなみに義父は囲碁のこととなると人間が変わる。震災直後は仕方がないのでパソコンで囲碁のゲームをやっていたらしいけど、機械が弱すぎると怒っていた。囲碁なんて急に打てるものではないことを知る。誰も相手できん。

わたくしも40歳を過ぎたので、いささかそうやって周囲を観察すると面白い。野菜をつくる人、囲碁や俳句をする人、パソコンを始める人、ひたすら本を読む人。

投稿者 Blue Wind : 12:07 AM | コメント (0) | トラックバック

July 18, 2005

避暑的読書

静かにモーリヤックを読み始めた。静かにという表現は間違っている。BGMはジプシー・キングス。ビールのCMにも使われた曲がうるさいほど流れている。

蝉の声さえ聴こえなくなるほどでないと、モーリヤックなんて読めない。予定としてはモーリヤック著作集の2巻から読み始めるつもりだった。が、しかし、1巻から読み始めている。

きっかけは些細なこと。

エル・グレコの画集でも買おうかと本屋へ行き、近頃では流行っていないせいか美術文庫しか売ってなかった。このため、ピカソとエル・グレコの美術文庫を買い、アートバイブルを読む勢いで目を通す。ピカソに関しては、どうして彼と同じ時代に生きていなかったのかと残念になるほど。91歳まで生きただけあって、彼の作品は彼の時代そのものであり、時代が彼であった。

激動の20世紀。ピカソは20世紀そのもの。

そんなことを考えながら、大雑把に新書を2冊読み終え、ピカソやグレコの世界に浸っているうちに、急に最初から読みたくなった・・・モーリヤックを。

投稿者 Blue Wind : 04:55 PM | コメント (0) | トラックバック

July 17, 2005

日曜日は、『アートバイブル』を読んでエル・グレコ。

日曜日の昼下がり。
あまりの暑さに、結局、梯子を買いに行くのを諦め、1時間くらい『アートバイブル』を眺めていた。人生は短いから一生懸命に聖書を読むより、絵本を眺めるようにバイブルを読むほうが優雅かもしれない。

聖書にも書いてあるではないですか・・・マルタとマリアの話。一生懸命にお客さまをもてなそうとマルタが働いているのに妹のマリアは何もしないでイエスとお話している。当然、姉としてはムッカーッとする。そこで、イエスに、愚痴。ちょっとはマリアに働くように言ってやってくださいな、と。ところが、イエスときた日には、「マリアは素晴らしい選択をした」と、こうですもの。

要するに、日曜日にせっせと梯子を買ってきて働くより、聖書でも読んで怠けているほうがみこころにかなっているらしい。

『アートバイブル』が聖書として素晴らしいかどうかはともかく、これだけ名画が並んでいるのも爽快。それでいてこのように名画の羅列を眺めていると、今さらながらエル・グレコは少年漫画のようで面白い。どこが違うのかといえば、やっぱり顔だろうな・・・聖書の中の登場人物が今でも何か言い出しそうな顔をして並んでいる。その表情の豊かさというか、ユニークさはグレコのチャームポイント。


ヴェロニカ ブリューン・デ・オーサ, Veronica de Bruyn‐de Osa, 鈴木 久仁子, 相沢 和子
エル・グレコの生涯―1528‐1614神秘の印

エル・グレコで検索したけど、画像のある本がこれしかなかった・・・アマゾンに。


■ネットで鑑賞できるエル・グレコ

『聖衣剥奪』 (トレド大聖堂)、『聖三位一体』 (プラド美術館)、『受胎告知』 (大原美術館)、『オルガス伯の埋葬』 (トレド、サント・トメ教会)、『悔悛のペテロ』 (フィリップス・コレクション)など。

投稿者 Blue Wind : 05:07 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 落としても落としてもなお生い茂る木木の夏間の暮れゆく時間

シリコンで世が変わるのか疑ってホワイトバンド誰がためにある
現実は遠き未来の玉手箱、カラッと晴れて紫外線浴び
落としても落としてもなお生い茂る木木の夏間の暮れゆく時間
蜂でさえ死すというのに生きているわたしのような強がりの夏

ナントカ人、どうでもいいとおもっても、季節はめぐる、木は生い茂る。
パノラマのバイブル出るか考古学すこし控えて歴史的、神。
信仰はみえない風におおわれた大地のように芽のいづ命

鬱蒼と要らなくなる日、考えて生きているのかわが夫という人
淡々と生まれてきては働いて、今は死ぬまで働くと言う。
太陽は東雲のうえ浮んでは森のうえから静かに沈む
深深と静かな日々が連なれば向こうの空に朧月いづ。

投稿者 Blue Wind : 05:02 AM | コメント (0) | トラックバック

July 16, 2005

仕事中心

明日はボウリングの競技会がある。プロも参加する正式な競技会らしい。前回、ボウリング講座と間違えて参加したうちのアホ父子は、今回も参加することになった。1人6ゲーム投げるらしい。・・・・・・・・・そのパワーを模試に向けてくれないかとわたし的には思うのだけど、近頃諦めている。考えてみたらボウリングとゴルフは年齢に関係なく参加できるし、80歳過ぎたカップルがすごいスコアで投げているのを見て、ダンナがわたしにもやれとうるさい。

それを考えたら、娘が一緒に遊んでくれているのだからよしとしますか。だって、わたしはボウリングより、明日こそ梯子を買って庭の木を切るぞ〜っと思っているのだから。隣の家のご主人みたいにまめに庭の手入れをしてくれるのならともかく、都会育ちのうちのダンナはまるでやる気がない。

それでいて、この前、テレビで笠間の貸し別荘の話題をやっていたら、しきりに羨ましがっていた。わたしは詳しいことはほとんど観ていなかったので知らないけど、年間40万円で、都会から週末やってきて、野菜をつくっているという話。ログハウス。

つくばに住んでいるのに、なんでわざわざ笠間に野菜をつくりに行かないとダメなんだ?
そこが理解に苦しむ。
わざわざ庭をドッグランにしたにもかかわらず、相変わらずわんわんランドにも行っているし・・・

つまり、仕事をしていない時間を、どうやって使ってよいのか戸惑うらしい、うちのダンナは。老後にいいなーと思ったそう。

まあ、それだけ生活が仕事中心に回っているわけで、それでいて今から老後の心配をしてどうするんだろう。たしかに男性は仕事を辞めると急に老けたりボケたりするらしいので、老後を心配する気持ちもわからなくもないんだけど、わたしなんて今が老後のような生活だから、今さら何を心配していいのかわからない。

オトとマリも連れて旅行に行きたい、という気持ちは理解できるんだけど・・・

それにしても、生活が仕事を中心に回っているということは、仕事を辞めたとたんに支えを失う、ということで、その上子どもが独立したらわたしたちは一体どうなってしまうのでしょう・・・(いや・・・わたしはよいのです。案外、多趣味で楽しみの多い生活してるので。あちらがヒマになったら困るのよ・・)

投稿者 Blue Wind : 11:59 PM | コメント (0) | トラックバック

『タテ社会の力学』 中根千枝著

さっきアメブロにログインしようとしたら、いきなりできずに慌てた。何度やってもダメなのでパスワードを再発行してもらう手続きをし、そのままそれでログインしてこれを書いている。一時的なものなのか、それともわたしの知らないところで何かがあったのか原因不明。

近頃、古い本ばかりが思い出される。読んだものもあれば、読まずにそのままになってしまったものもあるし、いずれにせよ記憶の彼方にある本ばかり。

中根千枝の『タテ社会の力学』 が流行ったのもわたしが高校生くらいの頃だったような・・・名前からの連想のせいか、この本と中曽根康弘のサミット登場、「ロンとヤス」とか古い言葉を思い出さずにはいられない。

まだアメリカに幻想を抱けるほど、わたしが若かった頃。今はなんと言うか、ハワイの通りを歩いているアメリカ人を眺めて、少しはダイエットしろよ、と思う程度で、フィレンツェの美術館のキューですぐ後ろにいたニューヨーカーのアホさ加減とずうずうしさにも慣れてしまったし、海外でアメリカ人に出くわすと大抵は親日家が多く、何となく逆に馴れ馴れしいような気さえする。

いいんだけどね・・・仲が悪いよりは良いほうがいいに決まってるから。でも、イラク戦争以来、アメリカ人には馴れ馴れしくされたくない、一緒にされたくない、って感じるわたしはたしかに少し傲慢なのかもしれない。

『タテ社会の力学』に書かれている日本社会は、わたしのもっとも苦手とする社会構造かもしれない。大集団より小集団での決定や序列を重んじる姿勢。儀礼的な上下関係とかね・・・なんか、そういうの、嫌い。相手が年上だと思えば、とりあえず祭っておけば祟りはないだろうというか・・・のらくらのらくら。

自分的には、そういう儀礼社会の中にいるより、1人でいるほうが気楽。窒息しそうになる。困った。

かといって、アメリカ的民衆のパワーにもいささかうんざり。ぎゃーすかぎゃーすか集団でうるさいなーって思うだけ。「あんた、少しは黙っていられないの?」みたいな気分に陥る。このため、アメリカではいつも強いリーダーシップが要求されるらしい。

そのどちらにもうんざりしながら、のらくらのらくら・・・

タテ社会の維持に必要なのは謙遜の美徳。上がつっぱらかっていたら反感ばかりが募りまとまらない。このため日本人の理想の上司像とかね・・・ものわかりのよさ、というのが目下に好かれるポイントらしい。

リストラ、か。
自分的にはそれは無理もないことだと思っている。タテ社会を支えていたのが、謙遜やものわかりのよさだとすると、そのどちらも欠如したまま民衆のパワー的上司が出来上がれば、世は乱れるばかり。そうなると、無理に力でタテ社会を維持するか、あるいはタテ社会そのものを破壊しようとするか、いずれにせよ屈折したエネルギーがぶつかり合う社会構造になっていく。

まったく関係ない話題だけど、不意にお寿司屋さんの奥さんを思い出した。わたしが学生時代に近所に住んでいた人で、ご主人がたしか10歳くらい年下だったような・・・彼女は九州の国立大学を卒業し、東京でかなり長い間OLをしていたはず。わたしより20歳近く年上だったので、今はその頃小学生だった息子さんもお寿司屋さんになっているのだろうか。

お寿司屋さんになるための英才教育・・・
それがわたしが彼女から少し学んだことだった。子どもの頃から陶芸、書道。そのくせあまり勉強はさせない。あの矛盾に満ちた人生観と教育ママぶりはある意味尊敬ものだった。

寿司屋の世界は昔ながらの寿司職人の世界。上下関係も厳しい。そういう中で、10歳年下のご主人をいつも担がなければならない。息子には別の人生があるかもしれないのに・・とは思ったけど、将来は寿司屋、って言い切っていた。でも、正直、渋谷の界隈で、器のよしあしやお品書きの素晴らしさが評価される店を経営するのは大変かもしれない。ライバルは回転寿司だし、回転寿司にしても近頃は競争が激しいせいか、ボリューム、ネタ、アイデア、その他諸々商売は大変。

わたしみたいにだるだるに生きていると、近頃ではたまにダンナが連れて行ってくれる接待用の寿司屋へ行くより、ダンナが飲み会で留守の時に娘と一緒に行く回転寿司屋の海ぶどうのにぎり寿司を食べているほうがよくなってしまう。

姑さんもひとり暮らしのせいか、昔だったらどこか美味しいものでも食べに行こうとばかりに寿司屋や料亭などを予約したりしていたのに、このところだるだるだから行きたがらない。おじいさんが生きていた頃は、たまには労をねぎらう意味もあってか、あちこち食べに行くのが好きだったのに、近頃はひとりだったらつまらないからと言って、外食よりも手巻き寿司のほうがいいらしい。

投稿者 Blue Wind : 05:47 PM | コメント (0) | トラックバック

クリック募金のバナーの貼り方

ババアの自己中はどうにもならないですね・・・>あたし。

mihorisさま からご指摘いただくまで、クリック募金のバナーの貼り方のことなどまるで忘れていました。この手のバナーは自分のサイトやブログに貼っておかないとだるだるのまま忘れてしまってクリックなんてしませんから。自分のブログに貼ってあるから、記事のネタでも考えながらだるだるクリックするわけで、いちいちお気に入りを開いてまではしない。(こらっ)

ホワイトバンド も一昨日到着したのですが、頼んでおいて「なんだっけ?」って思ってしまう。宅配便のビジネス・レターの紙パックの中に入っているだけだし・・・

届いてさっそく付けてみる。
なんて言ったらいいのだろう・・・わからない。
わからないまま昼寝するときに外し、気がついたらマリに奪われてしまった気がする。こういう時にはマリん家を覗くとあったりする。子犬のマリアはオトくんに盗られないように何でも自分の陣地に運んでしまう。
とてもじゃないけど、アフリカの飢餓を撲滅するには至りそうもない。その前に、子犬の躾を・・・(汗

********

ちなみにうちのブログでは、プロフィールの編集欄に次のようなタグ。


ほっとけない 世界のまずしさ

ハンガー・サイト

Protect Endangered Species at EcologyFund.com


アメブロガーだったら、上記のタグをそのまま貼っていただいてもサーバ負荷は変わらないし、かまわないのではないでしょうか。ちなみにバナーをダウンロードして使っているのは「ほっとけない 世界のまずしさ」と「ハンガー・サイト」だけです。普通にバナー置き場から画像をダウンロードし、それをアメブロの画像フォルダにアップし、それをプロフィール欄に貼っています。


■各サイトのバナー置き場

・ 「ほっとけない 世界のまずしさ」
  ⇒ downroad(ダウンロード)

・ 「クリックで救える命がある。」
  ⇒ リンクで貢献

・ 「ハンガー・サイト」

  ⇒ More You Can Do
 ⇒ BANNERS & BOTTONS

・ 「エコロジー基金」
  ⇒ Link to Us!

投稿者 Blue Wind : 01:38 AM | コメント (0) | トラックバック

July 15, 2005

題詠マラソン2005 (001-007)

001:声
声たてて笑ってみてよ。少しだけ空の景色が違う気がする。

002:色
壁の色、薄いベージュのその前は薄いグレーじゃ変わらないのに。

003:つぼみ
またふたつ薔薇のつぼみが膨らんで、いつ終わるのか、肌寒い初夏。

004:淡
淡水魚、ギラギラとした皮膚の色、どんよりとした大きな瞳。

005:サラダ
せっかちに料理する日は蟹サラダ。ほんとの蟹はスカスカの夏。

006:時
小刻みに夕暮れを待つながき陽は時計の針を狂わせている

007:発見
地球発見知らぬ人の詠むうたは声のとどかぬ海の砂底

投稿者 Blue Wind : 10:53 AM | コメント (0) | トラックバック

近頃

バッグの中には、古今と万葉。
素朴さが愛しい。
いかんなぁ・・・
似合わないことしてる。

投稿者 Blue Wind : 10:11 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 芝草を光のなかにふりおとす微塵の朝のすみわたる空

芝草を光のなかにふりおとす微塵の朝はすみわたる空
竹箒芝生のうえを走らせば微塵の小山風吹きやらぬと
金色の蜂の巣のあと集まりぬ昨日の蜂のしつこくも見ゆ
蜂さえも恐れない吾いつのまに庭仕事する手荒れに気づく
ペンだこの消えた指先箒だこ薬指なぜ?押し出す視線

夜明けすら待つもどかしさぱらぱらとミモザから降る雫にぬれる

投稿者 Blue Wind : 09:33 AM | コメント (0) | トラックバック

『俳人のためのやまとことばワンポイントレッスン―俳句・俳諧の日本語』 林義雄著

一体どうしたのでしょう?
わたしは俳人になろうとしているのでしょうか?

いいえ、違います。単に懐かしかったんです。本屋で見つけた時。

めちゃくちゃ懐かしいですね、林義雄先生。大学で講義を受けたわけではなく、高校生の時に、旺文社の主催する受験合宿があったんです、栂池で。たしかその時に古文を担当なさっていたのではないかと。

どうして覚えているかというと、国語の辞書か何かにサインしてもらったんです。「先生、サインしてくださ〜い!」というノリ。特に意味はなく、何となく記念に一言書いてもらおうと思っただけのような記憶があります。

その合宿にしても、高3の頃。たまたま夏休みの前に友達に誘われて参加しただけ。というのは、その頃は特にわたしは外部大学を受験しようと思っていたわけでもなかったし、逆に誘ってくれた友達のほうが意外で、「へ〜」という感じで感心してしまった。

実際には、友達同士で旅行へ行く、というノリに近かった、ということに気づいたのは参加してからだけど。なんせ場所はスキー場。夏とはいえ、なかなか自由な雰囲気。17歳の夏には刺激的だったかもしれない。結構、全国から集まってきていて、友達もでき、わたしは影響を受けやすい性格なので、そのまま付属の女子大へ進学するのがいやになってしまった。逆に一緒に行った友達のほうはその後受験をやめてしまった。なんかね・・・いつもきっかけは些細なことなんだろう、何かをしようと思うのは。

『俳人のためのやまとことばワンポイントレッスン―俳句・俳諧の日本語』 は、まるでその時の講義のよう。ちらっと目を通しただけでも予備校のテキストのよう。古文のテキストは大抵は古文が書いてあり、必要な部分は自分でノートをとらなければならない。文語や歴史的仮名遣いを覚える。古典文法。幸いこの本は予備校のテキストではないので解説が書いてある。

考えてみれば、短歌を詠むのに近頃では文語や文法、あるいは歴史的仮名遣いといったややこしいものを使う必要性はないのだけど、たしかに「けり」や「かな」で切ったうたに口語が混じっているほうが変なのかもしれない。自分的にはあまりそういうややこしいことは考えないけど。一首の中にひらがなと漢字とカタカナが混じっているのと似たような感覚でしか捉えたことがない。

でも、そういった屁理屈は別として、知識としてきちんと違いを把握しておくのは大切。わたしは、「しづもる」という表現が好きなのだけど、実はこれが比較的新しい用語だということを初めて知る。平安時代から使われている言葉だろうと17世紀に入ってから使われるようになった言葉だろうと、明治時代に出現した言葉だろうと、現代においてはすでに旧いには違いない。でも、そういう旧い言葉が今でも生きているのが俳句であり短歌。どうして旧い言葉を使うかといえば、ニュアンスとしてほかにぴったりな言葉がなかなか浮ばないということもあるし、そういう意味では死んだ言葉ではない。

日本語学には興味はないけれども、一度きちんと文法という視点で言葉を眺めてみることも何かに役に立つかも。文語を使うとか使わないとか、その手のややこしいことを考える前に、シンプルに何かを学べるということは素晴らしい。さっぱりしているもの。作品としての優劣ではなく、感性でもなく、単なる文法から考える。

短歌より俳句のほうがさっぱりしていると思うことがある。近頃、本屋へ行くとやたらと俳句の本が増えた。もしかすると短歌よりも人気があるのかもしれない。その理由は季語ややまとことばを使うことにより、案外簡単にそれっぽい句を詠めるからかも。・・・・・・と言ったら叱られるかもしれないけど。季語にまったく頼らず詠うというのは案外疲れる。

投稿者 Blue Wind : 06:38 AM | コメント (0) | トラックバック

グローバルか、ネイティブか?

本音って難しい。
このままだと出生率が低下し、50年後にはネイティブ日本人の数が恐ろしいほど減少する。そうなると年金や高齢者の世話はどうなるんだろうと、そちらを心配しなければならない。経済も発展しにくいだろうし、今とはまったく違う社会になっている可能性すら、ある。

でも、自分の本音としてはどうなんだろう?
自分の娘のことだけを考えた場合、孫の顔も見たいけど、孫が必ずしもネイティブである必要性もない。それどころか国際結婚で海外で暮らしている友達が羨ましい。親になっても、姻戚のことやら結婚の煩雑さを考えるとさっぱり海外で挙式してくれたほうがいいような気さえしてしまう時代だもの。わたしは姑の苦労をほとんどしていないけど、少子化の影響で長男やひとりっこのほうが多い。

それにしても20人に1人が国際結婚というのは相当な数。縄文人が弥生人に変わっていったのももしかするとこんな風だったのかもしれない。そうなると100年後には新しい民族が形成されている可能性も高い。

多言語、多宗教、混血種。
日本語も変わるだろうし、新しい文化も発生するだろうし、不思議。
台湾のネイティブな人たちは2%しかいないらしい。アイヌはどれくらいいるんだろう。
そうやって考えると、国家ってわからん。単に統治システムの問題なのかも。

山村美紗の小説だったかな・・・祇園の舞妓さんかホステスさんはほとんど京女がいないと書いてあったのは。熊本出身の人が京都弁で話しているらしい。極真空手も日本人が優勝するのもめずらしくなりつつある。柔道もそのうち?相撲も外国人力士が当たり前。

グローバル、か。

投稿者 Blue Wind : 01:19 AM | コメント (0) | トラックバック

July 14, 2005

蜂の巣退治

昨日、蜂に刺された。2箇所。
百合の花が終わり、雑草を整理していたとき、いきなり刺された。ちょうど百合の葉の陰になっており、まるで気がつかなかった。

蚊に刺されるほど腫れることはない代わりに、痛い。今でも痕が残っている。気のせいかもしれないけど、少し指先までしびれたような・・・

それでも、わたしはすでに蜂に刺されたのが3度目なので、誰も心配してくれない。自分でも死なないことを知っているせいかこのところ気が強くなり、刺された後、家の中から殺虫剤を持ち出し、蜂の巣にかけた。ひたすらスプレー。小さな蜂の巣には蜂が密集しており、少々気持ち悪かったけど許せない。

蜂が一匹落ちたのを見計らい、箒を取り出し、蜂の巣を落とした。

雨も降っていたし、そのまま安心して忘れていた。ところが、今日の夕方再び見たら、別のところに昨日と同じくらいの蜂の巣が出来ている。娘が気がついた。そうなると、今度は殺虫剤を使わず、そのまま竹箒で落とした。

かわいそうな、オト。

蜂たちはわたしを襲わず、無邪気に寄ってきたオトを襲撃した。わたしは最初気がつかなかった。だけど、オトがめずらしくマリのような吠えるともなくよわよわしい鳴き声を出したのでよく見たらオトの体のまわりは蜂だらけだった。

おおお・・・

オトはそのまま家の中に走りこみ、まるで何事もなかったかのよう。わたしはオトが刺されたと思ったんだけど、ダンナに言ってもその時はまださほど腫れていなかったため信じてくれない。幸いマリはこのところ脱走するため、娘が居るときには庭に出してもらえない。あれがオトではなくマリだったらもっと大変なことになっていたかもしれない。

ちなみにミニピンの子犬は小さいのでねずみに間違われてカラスに襲われる、という話を聞いたことがある。マリはさすがにねずみよりは大きくなったのでカラスに襲われることはないだろうけど、危険がいっぱい。

それにしても、わたしが蜂アレルギーだったらとっくに死んでるね。一番最初に刺された時が一番心配だった。アレルギーがあるなら2度目には5分で死んでしまうらしい。救急車も間に合わない。

3度目・・・・

こうなると、さっさと退治しに行ってしまう。
が、しかし、その煽りでオトとマリのほうが心配。

投稿者 Blue Wind : 11:25 PM | コメント (0) | トラックバック

『なんとなく、クリスタル』 田中康夫著

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』 を読んだことがありますか〜?
わたしは無いで〜っす!!

買ったんだけどね・・・流行っていたから。
高校生の頃だったと思う。

当時は、サーファー・ルックとかハマトラとか、わけのわからん流行があり、その流行の一つにこの小説があったんだけど、カタカナが並んでいるだけで、どこからストーリーが始まるのかまるで理解できないまま最初の数行を読んだだけで放り出したまま消えてしまった本。

その前後に、The Mamas & the Papasの『California Dreamin'』 が流行っていて、この曲が『恋する惑星』という香港映画の中で流れていたときには、ちょっとのけぞってしまった。
踊るフェイ・ウォン・・・
その後、レンタルショップでフェイ・ウォンのCDをレンタルしたけど、どこがよいのかまったく理解できなかった。(ファンの人、ごめんなさい)

はっきり言って、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』って小説なのか?
わたし、今でも信じられない。それくらい意味不明のカタカナの羅列本だった。

でも、流行ってイヤね。知らないってことがイヤなのよ。だから、読んでいる人が多かった気がする。その後一斉に学生がブランドバッグで通学するようになり、それ以後とそれ以前とでは学生のイメージすら変化してしまった。

それで、どうしても『なんとなく、クリスタル』が好きになれず、ある日突然何を思ったのか、スタンダールの 『赤と黒』 を買って読んでいたのを覚えている。特に意味はなかったんだけど、何となく古典が読みたくなった。

その辺の気分の変化というのがすでに時代が『なんとなく』という言葉に汚染されていたような気がしなくもない。ただ、気分だけで・・・とか。そういうことが許される時代だった。特に誰が何を訊くこともなく、何となく、というセリフだけが独り歩きしていた気がする。

スタンダールの『赤と黒』も大してストーリーも覚えてはいない。でも、主人公の野心と挫折があまりにもシンプルで、わかりやすい小説だったような記憶がある。赤が象徴するもの、黒が象徴するもの、みたいな世界。

意味不明な言語の羅列を眺めているより、何か別の象徴を求めていたのだろうか。いや・・・そうではない。わたしには単なるカタカナの羅列をすらすらと読み、うんちくを語る人たちが理解できず、それでいて何となくうらやましかったのかもしれない。

松田聖子のデビュー。もう、ああなるとわたしの理解を超えていたため、そうやって時代がわたしの理解を超えてゆくことに対し、危惧すら感じていた。すべてがノスタルジーなんだけど、80年代ってどうしようもない時代だったのかもしれない、とちらっと思う。

投稿者 Blue Wind : 02:31 AM | コメント (0) | トラックバック

『太陽の季節』 石原慎太郎著

石原慎太郎の『太陽の季節』を読んだことがありますか〜?

今、アマゾンのほうで書評を読んだんだけど、これだけボロカスに書かれている作家もめずらしいかも。わたしが彼の本を読んだのはかれこれ20年以上昔・・・高校生の頃ではなかったかと思う。だから、ストーリーなどは覚えていないけど、その当時の太陽族の様子など、映画も含めて、今の人たちが読んだら怒るのも無理はないな〜という楽しい作品です。みんなでこきおろしましょう。

あっさり語れば、わたしでさえ時代じゃないもの・・・石原慎太郎は。戦後の退廃と共に、「公衆便所」という言葉を覚えたのは、この手の類の映画の中じゃなかったかと思う。その当時、赤線があったのかどうかまでは知らないけど、要するに売春地帯があり、それとは別に誰とでも寝てしまう女のことを裕福そうな青年たちが公衆便所と呼んでいたのが忘れられない。

そういう時代だったんだろうな。
女性は大抵お見合いなどで結婚し、恋愛はタブー。子どもを産めない女は役に立たないとかね・・・とても辛辣で酷い言葉がたくさん出てくる。ましてやそれがベストセラーで、映画も大ヒットという時代。それとは別に、上品な言葉遣いの映画も多く、女優さんにしても清純派がもてはやされた。

恋愛がタブーだったからこそ生み出されるパワーはこの時代ならでは、というノスタルジーもある。

ちなみに石原慎太郎がまた提訴されたそうで・・・都知事なんかしているのが悪いとしか思えない。作家だけしているのなら作品の中で登場人物に過激なセリフを語らせるのも楽しいかもしれないけど、現役の政治家が公の席で発言するというのは無謀だ。

投稿者 Blue Wind : 12:42 AM | コメント (0) | トラックバック

July 13, 2005

気分屋の散策道

本屋って不思議ですね。どこで買っても同じ本なんだけど、どんな本が欲しいかで行き先が微妙に違います。無意識のうちに使い分けているよう。広ければいいってもんじゃないし、数があればいいってもんでもない。それと不思議なことにそこへ行くとその本を買ってしまうということもよくある。

例えば、わたしは旅行関係の本を買うときには西武デパートへ行く。ついでに旅行社のパンフなどを仕入れて眺める。ガーデニングの本を買うときには、住宅地にある本屋まで行き、昔ながらの薄暗い店内などを一周しながら買う。はたまた児童書などを買うときには隣の駅まで遠征し、ショッピング・センターの本売り場で買う。短歌関係の本は近所で。どういうわけか近頃品数が増えたから。それと潰れてしまったけど、ダイエーの本屋に行くと手芸書が欲しくなった。本屋の売り場の前が手芸コーナーだったせいかも。

学生時代もそんな感じだった。駅の裏手の本屋の前を通るとパズル誌を買ってしまう。その後にスーパーへ寄る。

もう少し品数を求める時には、御茶ノ水へ行く。三省堂は坂の往復があるのと、店内をエスカレーターで上がるのがかったるくてめったに行かない。その代わり、丸善の中を散歩する。その後、本を読みながらお茶して地下鉄に乗る。駅ビルの中の本屋はせいぜい文庫本コーナーしか眺めないし、無目的に買っても重いじゃないですか・・・本って。

(トラステへのトラバ⇒「好きな本屋さん」)

投稿者 Blue Wind : 11:43 PM | コメント (0) | トラックバック

「頭スカスカ女」

娘をお絵かき教室へ送っていく前、ブログを眺めていたら面白い言葉を拾ってしまい、さっそく使っているわたし・・・(ネタ元⇒風のまどい )

オリジナルは、NHKの連続ドラマの主人公のセリフらしいのですが、「若いだけがとりえの、頭スカスカ女とは違うのよ」と夢の中での会話。

ドラマの中の画面設定はよくわからないけど、このセリフでわたしに思い浮かんだのは娘の顔。近頃だんだん生意気になってきて、あちらはこれから思春期を迎えるから、何か言っても、「まだ子どもだもん」という感じ。逆に、親をババア扱いするので、このところちょっときてますからね、わたしは。まだまだアンタなんかには負けないわよ、という母の意地でしょうか。(おバカ!)

ちなみにこのところ手足の大きさを抜かされ、まだ身長や体重ではわたしのほうが上らしいのですが(それもうれしくない・・)、ボウリングのスコアや絵ではすでに娘には敵わないです。でも、もう少し例の如く算数と物理をやってもらわんと。

それで、今日、送って行きがてら、さっそく言ってやりました。「絵が上手なだけの、頭スカスカ女なんて!」と。

わたしだったら、その昔なら、「頭がいいだけの、脳ミソカチカチ女なんて!」と言い返していたと思うのですが、娘はまだまだその点母には敵わないですね。ほほほ。

・・・・・・・・・というか、この先、どうして勉強しなければならないかとか、ラッセンは学校へ行かなかったとか、戯れにややこしいことを考えたり言い出したりする年頃なので、そういう時にどう言うか? あるいは逆にもう少し勉強に対するやる気を起こさせるにはどうしたらよいか、とか、ある程度本人のプライドを傷つけない程度に刺激するにはどうしたらよいか、とか、だるだるな葛藤が続いていくことを思いやると、「頭スカスカ女」というのは魅力的なセリフに思える。

頭スカスカ女 vs 脳ミソカチカチ女?

さてさて・・・

(投稿日 2005-07-12 21:41:13)

投稿者 Blue Wind : 03:59 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 曲がり角たわわに咲いた紫陽花は白紫のこぼれゆく雨

融けだして貴婦人走る空の月さみだれ明けぬ夏の日の雲
水曜日、だるだるな日はお休みか。水仙の春、葉も散りゆかば。
曲がり角たわわに咲いた紫陽花は白紫のこぼれゆく雨
田の色のわかみどりにも映えたれば無機質な家邪魔とも云えぬ
鬱蒼とくらき気分もしづもりぬうすあかりさす梅雨の日の午後

異邦人、われのことかと一冊の聖書取り出す。さて敷島は。
ネイティブを保護いたしてはブッシュにはめずらしき花咲いているらし
英種にぞ侵略されたわが庭は名も忘れたる百合に似た花
万葉を英字で読んでたしかめる。いにしえ人の詩情ふるよし。

オトくんは、ドイツ→アメリカ→日本へとやってきた犬。地球をめぐる。

ネイティブは2%と台湾を眺めていても明日はわがみか
頑なな国だと思い敷島を嫌っていたが、いざ消えゆかん。
京さえも唐の模倣と思わなば秋葉も変わる、鉄道の先。

恐竜も静かに死んで大地には静かな暮らし広がるやもと
朱鷺さえも静かに消えた敷島に雀は飛ぶか、梅雨の日の午後。

投稿者 Blue Wind : 03:11 PM | コメント (0) | トラックバック

アメブロ・ランキングのリニュ前後の比較

アメブロ・ランキングのリニュ前とリニュ後とを比較。

これってあっさり語ると、リニュ後は自前のアクセス解析と数字がほぼ同じになってきました。カウントが切り替わる時間帯が違うので完全な一致というのはないし、何故かわたしは自前で2つ付けているのだけど、その2つが完璧に一致するということもないことを考えると、ようやく普通に「ユニーク・ユーザ数」だけになったのかと。今さらながら逆に今までは何だったのかな・・と考えてしまう。

■アメブロのメルマガによる説明
⇒ 『また、アメーバブログでは訪問者数に関して独自の基準を定めておりますが、
他社のアクセス解析サービス等と数字が異なる場合がございます。
あらかじめご了承ください。』

最初、アメブロにブログをつくった頃は、それこそ読者登録・記事・コメント・トラックバックまでランキングの対象だったわけで、トラックバックをもらったら返さないとダメかな・・とかいろいろ気を使うこと然り。このため、アクセス数だけでランキングを決めるという具合に変更になったのはよいけど、実際には一部ページ・ビューというのもカウントされていたのではないかという気がします。

というのは、うちのブログだけではなく、リニュ前の訪問者数のほうが多かったという人たちが多いから。

こうなると断然強いのは検索ヒット数の多いブログ。
今までだったら、コメントやトラックバックの「数そのもの」は関係ないと言いながらも、それなりにページ・アクセスということで間接的にボーナス・カウントがあった可能性を考えると、いきなりボーナスがつかなくなったら、そりゃランキングが大きく変動しても無理はないかもしれない。

リニュ直後はURLが二つになり、片方しかカウントされていなかったみたいで、自前のアクセス解析よりも少なかった。ところが、このところほぼ一致するようになり、それも解消された可能性が高い。

■アメブロのメルマガによる説明
⇒ 『訪問者数カウントにつきましては、ブログに表示される「読者一覧」と
「お気に入りブログ」を経由するアクセスについて、正しくカウントされない
障害が起きておりました。これらを全て修正のうえ、7月8日より正しい
カウントを再開致しました。これに伴い、賞金対象は7月8日付以降の
訪問者数とさせて頂いております。どうぞご了承ください。』

普通になったといえば普通になったのかもしれないけど、検索に引っかかりにくい記事をアップし続ける意義について、天邪鬼は考える・・・

投稿者 Blue Wind : 02:23 PM | コメント (0) | トラックバック

ババアと呼んで?

OLさんのブログ・・・
刺激強すぎ。

いえ、普通の日記なんです。普通の日記だから、何となく恥ずかしい。いえ、わたしが恥ずかしがる理由は何もないのです。でも、ある意味、エログより恥ずかしかった。(かたはらいたい)

彼からメールが着て・・・
デートして・・・
友達が結婚します・・・

普通のことなんだけど、そういえば、うちのバカップルにもそういう時代があったんだと思ったら、恥ずかしい。高校生の頃に書いた日記が丸文字だったりすると、「えっ、これ、ほんとにわたしが書いたの?」みたいな・・・そういう瞬間、自分とは他人になりたいです。

恥ずかしいよ〜、普通の授業のノートでもやたらと小さな丸文字だったりすると。

娘が幼稚園の頃までは、「おかあさ〜ん」と甘えて飛んできたのに、小学校へ入ると他人の前ではよそよそしくなるのでがっかりしたものだけど、何となく娘の気持ちが少しわかる・・・

ババアと呼ばれたほうが安堵するっていうのもなぁ・・・

投稿者 Blue Wind : 01:16 PM | コメント (0) | トラックバック

超高齢化へ向けて

少子化によるネイティブ日本人の減少。超高齢化社会。年金、税収入の確保。

海外からの出稼ぎ労働者の増加。
消費税率の引き上げ。

多言語表示。
社会保障の問題。
二重国籍。

*****
福音はユダヤ人と異邦人のためにある。(ローマの信徒への手紙 15. 7-13)

投稿者 Blue Wind : 01:42 AM | コメント (0) | トラックバック

July 12, 2005

成績だけじゃないよね・・・

『55歳で医師の道駄目? 群馬大に入学許可求め提訴』

あえて反論を予期しながら、やっぱりネタにしてしまう。55歳の女性が群馬大学の医学部を受験し、合格最低点を10点以上も上回っているのに不合格になり、入学許可を求めて提訴したという事件。

うちのダンナなどはこの女性が気の毒だと言っているんだけど、わたし的には60歳を過ぎた人が今さら研修医のハードワークをこなせるとは思えないし、群馬大の判断は妥当という気がする。それでね、ダンナが気の毒がっているのは落ちたことではなく、だったら最初から年齢制限を設けるなどして、最初から合格しないと通知するべきだったこと。

正直、文系のわたしとは違って医学部は朝から晩まできついし、やっと医師国家試験に合格したと思ったら、その昔は時給10円未満で働かされ(今はそういうことはなくなったそうだけど)、研修医の頃は当直は多いし、真夜中でも平気で呼び出されるし、大学を卒業してから最低5年は働かないと満足に仕事の一つもできない、という実情を考えると、55歳で受験して、すんなりいって卒業が61歳。それから仕事を覚える頃にはすでにリタイアを考える年齢・・・常識で考えても、せめて40代の働き盛りに合わせて30歳までには医者になっているのが望ましいのではないかと。

それよりも前に、この提訴している女性には、少しは若い人たちを育ててあげようという親切心がないのかと不思議でたまらない。55歳で医学部に入学し、ようやく働ける頃には70歳・・・それなら若い人を優先して合格者を出すという試験官の判断があながち間違っているとは思えないんだけど、どうなんでしょうか。

せめてあと10歳若ければ、とか、20歳若ければ・・・というセリフは他人事じゃないんだけどね。考えてしまう。

投稿者 Blue Wind : 11:35 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 世の中に危険があると知らぬ子いぬ車の下をのんびり歩く

文字にするのは難しい。
本当に難しい。
机上の空論を書くのはたやすい。

台湾人の先生のところも、最初は社交辞令でそのような会話もした、というだけのことで、親しくなるとまったくそういう話はしなくなる。せいぜい子どもの学校のこととか、お母さんが亡くなって台湾にまるで日帰りのように行って帰って来たとか、夏休みの旅行のこととか。

互いの家を行き来するのにパスポートは要らない。
なのに、社会はややこしい。
むしろ、そういう愚痴を書きたいのだけど、それがなかなかむずかしい。

ま、いっか。

どうでもいい、バカバカしいと言いながら、口は滑りぬ、書く難しさ。
アフリカも遠藤周作歩いたら流るるほうに水滴りぬ
水のない争いもまた梅雨空の下、空想の中。

テロよりも子犬の誘拐恐れては脱走犯のあどけない顔
世の中に危険があると知らぬ子いぬ車の下をのんびり歩く

記述って必要なのか考えて言の葉のない空はうるわし

投稿者 Blue Wind : 10:44 AM | コメント (0) | トラックバック

静かな激動

20人に1人が国際結婚。年々増える帰国子女。テロを心配する日本人。勉強しない子どもたち。長生きする年寄り。就職難の学生。少子化の加速。

そのうちネイティブな日本人がいなくなってしまう可能性が高い。そんなものなのかもしれないな・・・変容を受け入れない社会は発展しない。

投稿者 Blue Wind : 10:00 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 風吹けば風吹くように流れゆく息吹のみちのただようままに

テロリスト、気が重いのよ、あなたたち。カルトだったらさっさと消えて。
地球儀に軍事国家を眺めては相手にするも似たような陸
空色に塗ってしまうか地球儀を。それとも山は海は白雲。
地雷なら終わりがあるの募金箱。終わらないのは埋め尽くす人。

中国は人波多くいまさらに住む場所なしと台湾の人
さっぱりと空き地をながむ茨城は医者不足にていまだ無医村
風吹けば風吹くように流れゆく息吹のみちのただようままに

投稿者 Blue Wind : 12:39 AM | コメント (0) | トラックバック

July 11, 2005

「中国は人口が多すぎるから・・」

さすが台湾、さすが国民党・・・
と思うことがある。

この前、『ワイルド・スワン』 の書評を書いていたとき、ついでに書きたかったけど、やっぱやめとこ、みたいな。

うちのダンナの大学の先輩に台湾人の医師がいる。すごく優秀で人柄もいい。台湾の大学を出てから、留学で日本の大学へやってきたのだから、何年学生をしていたのだろう。当然、家族も一緒。子どもは日本で生まれて日本人らしい。そこがいまいち理解できないんだけど、国籍ってそういうものなのかも。

初めてお会いしたとき、多少の社交辞令もあって、「今度、中国語を教えてください」と言ったら、ニヤニヤ話を逸らされてしまった。奥さんの話によると、台湾社会は大きく3つに分かれるらしく、一つがもともとの台湾人、もう一つは中国国民党の流れの人たち、もう一つはよくわからないけど、そのどちらでもなく台湾に住んでいる人たちなのだろうか。

わたしは昔からズケズケと尋ねるほうなので訊いてみる。なんで、日本なんかに来たのか、と。もともとは単なる留学だったから、奥さんの話によるとそのまま台湾に戻って教授になるとかね・・・わたし的には、もともと裕福なんだから何も日本へ来て、ましてやこんな田舎で開業医になるなんてあまりにも不思議で・・・

あっさり語ると、中国は人口が多すぎるから、とリプライがあったとき、よく理解できなかった。
その後何度かお話するうちに、少しだけ理解できてきた。(ような気がする・・)

奥さんの話だけ聞いているだけでも、そりゃ疲れるというか・・・お祖母さんの代に蒋介石と共に中国大陸から逃げ出し、本国で特権を奪われた人たちの生活。変わらんのよ・・・要するに。その奥さんも4人兄弟で、女の子も含めて全部海外で教育を受け、今では台湾に残っているのが姉1人。親からして台湾が不満で、「こんな小さい国(台湾)にいてはいけない」とばかりに、ほかの兄弟もアメリカや日本で暮らしているそう。(台湾が不満でも「中国は人口が多すぎるから」というのが流行語なんだろうか?)

まず、台湾で生まれたのに、台湾が嫌いでたまらないらしい。だから、今は日本で暮らしているせいか、家庭内でも中国語は話さない。このため、子どもたちはすでに中国語はまるでわからない。朝から和食、カラオケ、この前、台湾に帰国した際も逆に日本人に間違われたそう。ちなみにわたしは海外へ行くと中国人に間違えられるから・・・・なんと言いますか、朝から和食なんて食べないし、カラオケも嫌いだし・・・ついでに香港で仕入れた服などを着ているとどっちが中国人かわからないよね、たしかに。

一応は中国人なんだから(わたしの感性からすると)、少しは中国古来の文化とかね・・・何かあっても良さそうなものだと思うわけ。だけど、子どもたちはすでに日本人だと説明されると、そんなものなのかなーと。日本人だと親が2人とも日本人だとすれば子どもも国籍に関係なく(帰国子女のケースなど?)日本人なんじゃないかな、と思うんだけど、日本人より日本人的な日系ブラジル人が自分たちはブラジル人だと考えていたようなので、もしかするとわたしのほうが間違っているのかもしれない。

なんか疲れる・・・
夏休みは沖縄へ行って、家族だけで過ごすというのが癒しなのかも。

投稿者 Blue Wind : 05:26 PM | コメント (0) | トラックバック

それでもおバカは書きたい

わたしはネットのヘビー・ユーザのわりにはあまりネットのことを知らないと思うことがよくある。それはネットを始めたばかりの頃とは違って、近頃では家族や友人とでも電話ではなくメールを使うようになったからかもしれないし、逆に電子化された彼らの文字を眺めているうちに、ネットというのも単なるツールなんだと思うようになるから不思議。

いや・・・・当たり前のことなんだけどね。でも、一昔前みたいに見知らぬ人たちとのコミュニケーションに一喜一憂したり、リアルとかバーチャルとか、あまりややこしいことを考えなくなった。というのは、大抵の人はごく普通の人たちであり、ごく普通の生活をしており、ごく普通にネットを楽しんでいるだけだから。

先日、姑さんが来た時に、お世話になっている公認会計士さんの話をしており、ブログのことも話題になった。わたしはその時、「ああ、あのブログの管理人さんのことか」と、姑さんに見せてあげようかと思ったけど、かったるいからやめた。その後、せっかくだからそのブログに読者登録しようかと思ったんだけど、よく考えたらご迷惑かもしれないと思って、それもやめた。

まあ、後日お会いすることになった時、話題になるかも?
いや・・・・・ということは逆に考えると、うちのブログにも来訪なさっている可能性もあるわけで、そのことを考えるとネットというのは意外に狭く、もっとよく考えて行動・・つまり書かなければならないと反省することもある。

が、しかし・・・・
わたしは、書きたいのである。

死んでいる人たちなら平気なんだよなぁ・・・と思うことがある。例えば、遠藤周作。わたしはもはや学生ではないし、実際には入れ違いで講義にも出席しなかったし、それでいて生きていたら書きにくいよなぁ・・と思いながら書いている。

ぱっぱらぱっぱら何も考えていない頃、「わたしはこのうたが好き」という具合に書いたことがある。数ヵ月後、ご本人から歌集をいただき、「???」となってしまった。弁解するわけではないけど、わたしはいまだに家で家事をする合間のひまつぶしにブログを更新しているために、実感がないわけさ。つまり、書いた記事というのは一般公開されているもので、誰が読みに来ているかわからない、という実感が。

ネットは検索機能があり、逆に著名な人ほど自分の名前で検索しながらサーフィンしている可能性が高いことをその事件により学んでしまった。

それでも書きたい・・・
ぱっぱらぱっぱら自由に書きたい。

おバカが何か書いていても気になさらないように、お願いもうしあげます。
こういう記事をアップすること自体が敗北なんだよなぁ・・・・
つらい。

ぐたさんなんて☆マークまでつけてる。
誘惑・・・・・・(汗

投稿者 Blue Wind : 02:54 PM | コメント (0) | トラックバック

ぶっくらしょ

いかんなー、あまのじゃくはこれだから困る。「ぶっくらしょ」にジャンル変更したとたんにまた本を読まなくなってしまっている。「ぶっくらしょ」というのは寝ても醒めてもベッドの上にも下にも横にも、ソファの上にも横にも下にも? という具合によっこらしょと言いながら本を読んでいるだるだるな人たちに敬意を表して。

あの人たちに囲まれたら、それだけ満腹感があり、映画を観ないで映画のブログを読み、本を読まないで書評のブログを読んでしまう。こんなんでいいのだろうか?代償なのかもしれん・・・ブログを眺めるだけで満腹感がある。

投稿者 Blue Wind : 01:32 AM | コメント (0) | トラックバック

July 10, 2005

500円でわかる人生観の違い

あと10日くらいで梅雨が明けるはずなのに、このところ連日して雨の日が続いている。正確には日中は鬱蒼と曇っており、夜になると雨。これくらいのほうが庭仕事はやりやすい。ただし手がドロドロ。水のない国も大変だと思うけど、ちょっと油断するとあらくさ(雑草)だらけ、木は生い茂る、という国の主婦もそれなりに大変かもしれない。

たしかにコンクリで固めてしまったり、除草剤を撒きたくなる気持ちもわかる。わたしが外で仕事でもしていたらにっちもさっちも。いや・・・わたしという人は家にいてもこうなんだから、せっせと稼いで庭は植木屋さんに手入れしてもらうくらいのほうがましか?

外の仕事が楽しい人たちならそれもいいかもしれないけど、案外、庭仕事は面白い。そうなるとこれを他人に譲って何かをするのはもったいない。子育ても嫌いな人たちならともかく、子どもが好きなら案外やりがいのある楽しい仕事。要するに、母は土いじりも子どもの世話も嫌いだったのだから仕方がない。

好きなんだよなぁ・・・
たしかに。

母は家に3日もいると腐る。かなりストレスがたまってヒステリックになってくる。家にじっとしているのが嫌いな人だった。年中仕事や旅で飛び回っているのが好きだった。買い物もお洒落も好きだったし、旅行先でわたしが使い捨て傘を買ったら怒ったくらいだもの・・・つまり、なんでタクシーに乗らないのか、と。晴れたら傘が邪魔になるでしょう、と言って叱られた。

わたしは捨ててもいいから傘を買って歩く人なのである。

そこが違うよなぁ・・・
タクシーも傘も同じ値段だとしたら、わたしは傘を買って歩く人だし、母はタクシーに乗る人。結局は、傘は邪魔だから誰かにあげて手ぶらで旅を続けた。

というわけで、わたしたち母子はいつもつまらないことで喧嘩ばかりしていた記憶がある。母にしてみればちょっとタクシーに乗れば濡れないですむし、邪魔な荷物を増やすこともないのに、と気分が悪いのである。わたしはどしゃぶりの夏の北海道が気持ちいいから歩きたかった。それとホテルはすぐそこだったし・・・

わずかなことだけど、これがすごく大きな溝。母はお洒落な人だったからせっかくの洋服や髪が雨に濡れて台無しになることのほうを嫌う。わたしは雨の中を歩きたい人だから濡れても平気な格好を好む。もう、ぜんぜん価値観が違う。バカバカしいほど。

あの母に雨の日に傘を持って歩きなさい、というのは拷問なのかもしれない。わたしにとっては楽しみなんだけど。どしゃぶりの夕立の中で500円をどういう風に使うかも人生観なのかもしれない。


注) この話はかなり昔の出来事です。1人で散歩に出かけて夕立にあってしまった時のお話。

投稿者 Blue Wind : 02:33 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 寂寞の閑散とせし家のなか人の気配はわが友なりき

寂寞の閑散とせし家のなか人の気配はわが友なりき
水泳に溺れたるか弟は胸の病に苦しみ喘ぐ
賑やかな土田さんのおばさんは手馴れた手つきわが部屋なおす
賑やかに振舞いてなお静寂はテレビの音に紛れこむべし
コーラでも酔っ払えると弟は賑やかな笑み浮かべていたが
ベランダの植木鉢とて運びいれる階段の音 速やかな風
あらくさのない家だったそういえば誰がやったか吾知らぬ時
家のなか誰もいないとおばさんはセールス帰す、賑々し声
閑散と出入りの多い家だった。不可思議に思う、仲良し家族。

不器用に育っちまった気がせしも不器用なゆえ楽しみもあり
あんなにも賑やかだったわたくしはもはや他人は要らないと言う

投稿者 Blue Wind : 03:36 AM | コメント (0) | トラックバック

あほらし

気のせいかもしれないけど、テロは昔からあるにもかかわらず、このところやたらと話題にのぼるようになった。9.11テロがあまりにも衝撃的だったのが原因なのか、はたまたイラク戦争の後始末に自衛隊が借り出され、いつ日本人が標的にされるかわからなくなったのが原因なのか、はたまた海外で働く日本人や旅行者の数が多くなったのが原因なのか。もしかするとその全部が原因なのか。

テロをテロと思うからわからないだけで、テロを一つの戦闘、つまり戦争だと考えればすごくわかりやすいらしい。だから、正直に語ればディズニーランドとか田舎とか、子どもが集まるところはターゲットにはならないような気がする。

大抵は、国や経済の中枢が狙われるわけで、その結果、そういう地域の中で多くの人たちがランダムに出入りするような場所が危険ということになる。

だからね・・・・・なんでグアムやハワイが?
って思うんだけど、軍事基地だと言われると、そっか、としか答えようがない。

それとは別に、フセインやその息子たちがあんなに大変な目に合っている間、夫人たちはそれぞれ優雅に護衛つきの生活をしていたという噂は本当なのだろうか?

なんかね・・・
世の中はそういうものなのかもしれない。

以前、うちのブログでもネタにさせていただいた『さよならメリーさん』 のURLが変更になったそうです。メリーさんは戦後の日本の娼婦をなさっていた方で、ついこの間まで出没していたというお話。米兵相手の高級娼婦。妾と違うのは、子どもがないということで、まったくアフリカという国は、アフリカだけではないみたいだけど、貧乏人の第一夫人になるより金持ちの第四夫人になるほうがいいと本気で考えている人たちがたくさんいるので驚く。

いや・・・・・よく考えてみたら、あの有名なデヴィ夫人もインドネシアの首相の何番目かの夫人。それを考えてみたら一夫多妻制を認めている国というのが案外多いことに気づく。

わたしね・・・G8の参加者が素晴らしいとは思ってないけど、北朝鮮の将軍さまよりはましな気がしている。それと、どことは言えないけど、貧困にあえぐ国の元首よりも幾分ましなのではないかと。魚の釣り方を教えるのが援助だと語るならば、援助はやめて魚の売り方を教えるべきだと思う。魚を食べる文化がないのなら、魚を食べることを教える。貧困だから売れないというのは嘘だから。

嘘なんだよなぁ・・・・

貧困にあえぐ国ほどどういうわけか金持ちはいる。だから売れる。でもお金がないと買えない人たちが怒る。そしてそうやって広まっていく。それでいて援助とか?

いい加減にしろって怒る気持ちもわかる。

そうやって頼りないから国が乱れるのかもしれない。

テロもテポドンもタダじゃないのよ。
それをどの程度理解しているのだろう?
知能テストでもするか・・・あほらし。

投稿者 Blue Wind : 01:18 AM | コメント (0) | トラックバック

July 09, 2005

100円の箒

いかんなー、近頃、庭仕事が面白くてたまらない。きっかけはとても些細なこと。わたしは嫌いではないのだけど、庭仕事を知らなさすぎ。このため木を育てすぎたり、花を植えすぎたり、結局、業者がサービスで付けてくれたウッドデッキが壊れたため、去年の夏、突然庭が芝庭になってしまった。

本当はウッドデッキをつくるなら、腐らないように土台にコンクリを張る必要があるそう。だけど一つにはサービスだったからということもあるんでしょうけど、それ以上に大反対していたから・・・工務店の人が。横浜の業者を頼んだせいか、土があるのにウッドデッキをつくるというのがもったいなくてたまらないらしく、わたしにしてみたら庭仕事なんてできそうにないから庭を潰してしまいたい。そうなると、「奥さん、10年で腐ってしまいますよ」と予告され、当初の図面の半分の大きさのウッドデッキが完成することになった。それでも巨大だったかも。

つまり、その巨大なウッドデッキを解体するために木や花を伐採する必要があったのである。

それと、オトくんのためにドッグランを。
オトが来なかったら、一面の芝みたいな庭にはしなかったかもしれない。どちらかというとイングリッシュガーデンをイメージしていたので、遊歩道のような庭のほうが好きだったし・・・

が、しかし、遊歩道がいつしか巨大化した木に遮られるようになると雑草さえも伸び放題になる。これではいかんなーと反省しながらも、何となくそのままになっていた。自分としてはそれなりにウッドデッキが隠れ家のような気分で、裏の家の猫が昼寝しているくらいがちょうどよかった。

でも、まあ、ウッドデッキが消えて、芝生になると案外うちの家の庭は広い。そうなると今度は雑草が生えてこないようにせっせと手入れが必要になる。せっかくお金をかけて庭をつくりかえたのだからこれで荒れたら悔しい。

このため、小学校のボランティアへ参加した際、手際よく雑草を処分している人の仕事ぶりを観察し、おおお・・・(説明できない)という具合に道具などもそろえ、何とか頑張っていたのだけど、なかなか・・・苦慮。

ところが、うちの近所に雑草1本生えていないのではないかという家があり、芝生も張っていないのに、まるで業者さんにやってもらったばかりのようにいつも庭が綺麗。そりゃせっせとやっているならわかるのよね・・・綺麗なのは当たり前。でも、そんなに苦労しているとは思えない。

それがひょんなことから好かれてしまったらしく、何度かお話をするうちにお庭を見せていただいた。で、どうしていつもあんなに綺麗なのかを訊いた。するとどこからともなく1本の箒を持って来て、「これだけなのよ」と語る。100円ショップで売っている普通の箒。毎日土の上を箒で掃いているだけらしい。

まさかぁ・・・って思ったんだけど、自分でやってみたらこれがなかなかのすぐれもの。根がはっきりするせいか、ちょこっと抜けばいい。あっという間に土が綺麗になる。こうなると面白くてたまらない。

結局、園芸の本やガーデニングの本を何冊買っても教えてくれなかったささやかな情報により、わたしはすかりガーデニングにはまってしまっている。

投稿者 Blue Wind : 02:29 AM | コメント (0) | トラックバック

July 08, 2005

【今日の短歌】 ややこしき世界の果てはせっかちな山の匂いのたどる風待つ

ひんやりと七夕の日は芝のうえ足裏を乗せてあらくさを刈る
サンダルも無駄に思える芝草は冷たい夕立ふふませており
陽の射さぬ夏の想いはつゆあけのからりと吹いた風を待つ、雲

アゲハ蝶ひらひら2匹山からか飛んできたのか雲重なりぬ
ひらひらとアゲハの散歩舞う庭は空中という葉陰ぞ似合う

想わぬがすべてというか鬱蒼と並んだ木立包み込む空
ほんのりと笑ってしまうたちばなし、深刻なほどつちのうえには

ややこしき世界の果てはせっかちな山の匂いのたどる風待つ

投稿者 Blue Wind : 02:12 PM | コメント (0) | トラックバック

なんか、どーでもいい

あまりにも辛辣な表現かもしれないけど、女性の教育をないがしろにしている国は繁栄しないような気がする。

理由?
まずはやらたらと子どもの数が増える。その結果、教育を受けられない。貧乏。父ちゃんに何とかしてくれと言っても限界がある。

政治?
子どもの数が多ければ、それどころじゃないから・・・世話するだけ、食わせるだけで精一杯。

戦争とか、テロ、って言うけれど・・・
人生はそれどころじゃないことのほうが多い。

バカかも。
いささか世界のテロ騒動にもうんざり。
テロもタダじゃないのよね・・・軍事訓練を受け、テロリストになるための教育を受けた人たちが危険な任務を果たしているのが現実なのかもしれない。自爆テロは知らんけど、わたしは爆弾はつくれない。

その結果、いちいち飛行機に乗るのでもあのめんどくささ。

バカかもしれん・・・
おやじ・・・

投稿者 Blue Wind : 01:21 PM | コメント (0) | トラックバック

格安ホテルの魅力

ブログ・サービスはたくさんあるけど、一番洗練されているのはエキサイトかもしれない。わたしがインスタント・ブログに詳しければ・・・と悔やまれる。ささやかなことだけど、コメントをクリックすると投稿欄だけが静かに出没するというのは小気味よい。あの行き届いたような細やかさをアメブロに求めても無理。その上、エキサイトへのping送信もできなくなってしまったと思っていたら、今度はトラックバックもできなくなった可能性が高い。原因は酷い文字化け。

エキサイトが洗練された大型ホテルだとすると、アメブロは格安ツアーパッカーご用達のホテルかもしれない。まあ、最低限度の備品は揃っているし、誰が騒ごうが子どもが走ろうが裏で工事をやっていようが安いんだから我慢してくれ、みたいな。

一つわかっているのは、アメブロが目指すのは売り上げNO.1であって、顧客満足度NO.1ではなさそう。売り上げを伸ばすためには従業員はこき使われるし、客もそれなりにリーズナブルなラインで我慢しなければならないし、決して自慢できることでもないような気がするけど、とりあえず突然サーバが消えるということもなさそうだし、こんな時代だから諦めるしかないのかもしれない。

エキサイトからアメブロにはトラバれるのだろうか?
なんか好奇心をくすぐられる・・・・うぅ。

投稿者 Blue Wind : 12:21 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 青闇はいつ潜るらん紫陽花の立ちつくす雨 靄に沈めて

ロマンスも時期があるのと七夕はスケジュール帖書き換えられて
夏空は雲ってばかり梅雨の陽は夕立ののち顔出してみる
短冊が大きな竹に吊るされて小学校の空は夕立
天の川いつ見えるのと吾子は問いみあぐる空に星一つなき
蒸し蒸しといつ終わるやと七夕は五月雨つづく雨漏りの河

百円で買った箒の庭しごとつち生き返る雨空の夏
格子さえくぐりぬけるかマリちゃんはすまし顔してタッタカ走る
生垣を切り揃えたる道ゆかばあらくさの地の鬱蒼と空
空さえも小さくなって広がれば走る窓にはむしあつき風

ペチュニアかサフィニアかなど迷えども越す冬を思う暑き雨空
一年がこんなに短くなってゆく。今の夏雨、晴れて終われば。
春が来て、夏が来て秋深まれば、いつしか町はクリスマス待つ。

歳月が決まりきってはくりかえす小さな時間いつ果つるとも
陰暦に七夕祝ういにしえはいとかしこしとふかぶかと思う

七夕は8月がいいね・・・


☆ご返歌

忘れえぬ 夢は静かに導きて
川の向こうの 花見つけたり (yunotu5031さま )

蒸し風呂の七夕もあり梅雨の日に北までつづく暑き白雲 (しらいし)

紫陽花の こころを見たり 相克の
赤と青とが 夕闇に消ゆ (yunotu5031さま)

青闇はいつ潜るらん紫陽花の立ちつくす雨 靄に沈めて (しらいし)


☆追加

まったくさ、蛍一つもみたことない。ある晩わたし、暗がりに立つ。

投稿者 Blue Wind : 11:22 AM | コメント (0) | トラックバック

July 07, 2005

素朴な疑問

たまに思うんだけど、アフリカの人たちってどうして貧困に喘いでいるの?
先進国が悪いとか?
わからん・・・

いや・・・これは素朴な疑問なのです。

たとえば、スポーツ能力という点で、アフリカ人はすごい。さらに絵画や音楽といったアート的センスの素晴らしさ、多言語を平気でペラペラ話すし、彼らの能力を考えると、どうしてその能力が生かされていないのかわからない。

この前、スリランカの女性の後姿の写真を見て、あまりのたくましさに引いてしまった。まあ、水汲みや農作業、その他諸々毎日おそろしいほど歩いているだけでも自然と鍛えられるのかもしれない。わたしの世代って結構万歩計つけながら歩いている。わたしも一つ持っているけど、かったるいからそのままにしている。被災地へボランティアへ行っても、おそらくはわたしはおじゃまむしになるだけだろう。なんかね・・・

経済ってようわからん。

投稿者 Blue Wind : 11:47 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 まっすぐにすすめるみちがあるのなら弧を描きつつ風はめぐりき

まっすぐにすすめるみちがあるのなら弧を描きつつ風はめぐりき
運命は決まっていると悲しみはよろこびのうえ軽やかに過ぐ
わが音をきちんと出せとゆらぐ声すこし響いて淡々と青

だるだるに風も吹かない暑い夜、肌寒き昼、裏返る時。
運命が決まっていれば時間とは人生きる背の奏でるピアノ

源氏には言いたいこともあるけれどたかむらの墓式部とならぶ
深深と井戸の底にぞよこたわるいにしえのとき しんしんと夜
井戸の底鳴いてやまぬは不如帰、そんな満月、似合わない夜

ミステリーゆくすえ彼方棄てゆかば星の屑さえシュールな弧みし
サルビアの濃い紫は昼間にも夜にもとけていっときの夢
翳なのか光るサルビア花ありき濃い紫は光の闇地

投稿者 Blue Wind : 03:33 AM | コメント (0) | トラックバック

無駄こそすべて

そういえば、わたしも学生時代、考えた気がする。英語はともかくどうして古文や漢文を勉強しなければならないのだろう?って。あっさり語れば嫌いでもやらなければならないのは受験があったからで、その後国文や史学を専攻するのでないかぎり、まるで役に立たないまま忘れてしまっていた。

そうやって考えると、わたしは役に立つ勉強をしたことがあるのかどうか懐疑的だ。それでもうんざりするほど英訳を受験勉強でやったおかげで、それがかろうじて大学院へ入ってから役に立った。でも、もしも進学しなかったらもっと実用的な英会話をやっておいたほうが役には立つだろう。

でも、よく考えてみたら働いたこともなければどれもこれも役には立たない知識ばかり。それでよくこの年まで生きてこれたのか不思議かもしれない。

母はそういうことを否定する人ではなかったので、今は役に立たないと思うことでもそのうち役に立つこともあるかもしれない、とよく言っていた。人生は思いがけないところで思いがけないことが役に立ったりするものらしい。そうやって考えると、まさか自分が歌人になるなんて予想だにしたことがなかったため棄てられていた知識ももしかすると少しは役に立っているのかもしれない。パソコンにしてもそうかも・・・まったくもってして苦労の種というか、いやいやながらやっていたことが忘れた頃に役に立ったりする。

そうやって考えてみると、わたしの無駄な知識はわたしに利をもたらしてはくれないけれども理をもたらしてくれているらしい。

投稿者 Blue Wind : 12:30 AM | コメント (0) | トラックバック

July 06, 2005

『いつか読書する日』 青木研次著

何なんだ、近頃の『ツボヤキ日記』 は?このところ邦画の紹介が続いている。

邦画だけではなく、わたしは日頃映画をまるで観ない生活をしているため、逆に語れば観ないからこそせめてブログでも? いや、家からすぐのところにレンタルショップがあり、それこそCDやDVDは24時間いつでも好きなときに好きなものを観られる。これで図書館がすぐ近所にあればもっと便利なんだけど・・・

そのくせ、そのうち観ようと思いながらブログを眺めるだけの生活が続く。

その中でもっとも気になるのがタイトルからしていやじゃないですか。 『いつか読書する日』 だって。ビデオやDVDで検索しても見つからないため、原作を。ツボヤキさんの紹介記事は田中裕子主演の映画の話なんですが、50歳まで独身で読書が趣味の女が主人公というのもなぁ・・・設定がすごすぎ。しかも、未読本の多さ。

わたしより上の世代は、年頃の女性が本ばかり読んでいると親が心配したものだった。もっとお洒落したり、デートしたり、女性ならもっとほかにすることがあるだろうというのが世論だったような気がする。おそらくはウーマンリブという言葉も理解している世代だろうし、かといって大学へ進学する人もさほど多くもなかったのでは。理由は高学歴だと縁談と就職に響くから。

そういう中で、ツボヤキさんは不思議がっていたが、わたしには意外と理解しやすい人である・・・この映画の中の主人公は。昭和60年代から働き出すまで彼女が何をしていたか? あのさぁ・・・おそらくは家事手伝いではないかと。売れ残りのレッテルを貼られたまま老いた親と二人暮しをしている人とか、実は案外多い。親を早く亡くしたためちょろっと働きに出る。それが牛乳配達だったりスーパーのレジだったり?そういう生活の中で、唯一の贅沢が読書だったという設定も何となく理解しやすい。だって、勉強を続けたくてもそのまま家事手伝いに入ってしまう人たちもめずらしくはなかった。

中には、親が病気になり、誰が世話をするか? その結果、昔は介護保険なんてなかったから、泣く泣くオールドミスの姉が1人残ってほかの兄弟姉妹はそれとなく経済援助をするだけ、みたいなケースで独身を続けている人もいた。外出もできないから、せいぜい家で本を読むくらいしか楽しみがなかったのでは。

都会の片隅には、案外いるんだよなぁ・・・などということを何となく思い出す。ノスタルジー。行きつけの喫茶店の隣に蕎麦屋があり、世の中がバブルに浮かれている頃、そこの蕎麦屋の娘はたしか売れ残りで暮らしていたはずだけど、向かいに住んでいるのにわたしは彼女を知らない。その隣にはいつ建てられたのかわからない家があり、聞くところによるとおまわりさんが住んでいたらしい。ちょっと通りに出ると、げいのーじんが乗ってきたらしい派手な車が違法駐車している傍で、昭和初期からつづく景色が広がっていた渋谷。古い商店街の本屋が大家さんだった下馬。なんか懐かしい。下馬時代はコープの集まりにまで参加していたし・・・行きつけの喫茶店のおばさんの実家は桜新町で、農家だったんだよね・・・いまだに本家だの分家だのとやっている。そのおまわりさんの古い家や蕎麦屋には黄色い牛乳配達用の箱が掛けられていたのを思い出す。下町育ちの母にとっては世田谷や渋谷の界隈は田舎だったのだそう。

そうやってどんどん変化する街並みや時代に取り残されていくような気がするから不思議だ。

この前、イッセー尾形の舞台がつくばでやるというのでビラが回ってきた。その中で、「ふつうのひと」を募集していた。どういうのがふつうの人なのかわからないけど、説明によると、こたつでみかんを食べているような人なのだそう。ついでに年末には紅白歌合戦を観ている人って書けばいいのに、と思った。


*ちなみにわたしは『いつか読書をする日』の本も映画もみていません。

投稿者 Blue Wind : 03:05 PM | コメント (0) | トラックバック

投稿てすと

記事が一つ吹っ飛んでしまった。
アメブロのリニュって何のためにやるんだろう?
やっと落ち着いたと思ったら次から次へと・・・しかも激重。
なんでバージョンアップしたらこんなに重くなったのか不思議。

・・・・・・・と思ったら、パフォーマンスの実験中らしい。

現実は、記事は吹っ飛ぶし、重くて開かないし、編集画面が切り替わらないし、その他諸々被害は続いている。
まともな記事が消えて、また苦情をアップするのか・・・(泣

*******

おっ、勝手にログアウトになってまた記事が消えたかと思ったら、今度は再ログイン後に記事が残っている・・・

さっきの記事は?
あれはどうして消えたの??
わからん・・・
謎。

(アメブロ投稿時 : 2005-07-06 00:45:46)

投稿者 Blue Wind : 12:18 PM | コメント (0) | トラックバック

July 05, 2005

どっちのアドレスが・・・

一体アメブロのアクセス解析はどうなっているのだろう?
自分でつけているアクセス解析ではさほど違いがあるとは思えないにもかかわらず、変・・・
今度はURLが2つあることになる。

http://cherrynut.ameblo.jp/
http://ameblo.jp/cherrynut/

どっちでも同じブログが開くのだけど、なんか気になる。
まあ、いいか。

投稿者 Blue Wind : 04:03 PM | コメント (0) | トラックバック

ほっとけない 世界のまずしさ

癌の治療は、やろうとおもえば月に100万円では安いと言われる。それでいて、アフガニスタンの写真集の中の人たちは25円の抗生物質が買えないために死んでいく。人生の絶望って・・・

餓死というのがどういうものか、わたしにはわからない。おそらくは文字通り食べ物がない、水が汚いから死ぬのだろう。

わたしが癌の治療中だとしたら、治療をやめてその分を抗生物質に変える。ぷわ〜っとね。そーすりゃ世界は平和なんだろう。

・・・・という書き方をすると癌の人が怒る。

だるだるだから、ホワイトバンド、買った。

⇒ ほっとけない 世界のまずしさ  (1個300円、2個売り600円。送料420円。カード可)

本当は、こっちがいい。 

⇒ 猫レスキューグッズ

ワシントンでは流行っているのだそうです。

⇒ リストバンドが地球を救う?| ワシントン通信 2.1

投稿者 Blue Wind : 01:38 PM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 足寄には幻想の湖あるやうな記憶はあるが、蕗は雨傘

わがみちを閉ざすと言うかタチアオイ背高のっぽのしだれるままに
しだれゆく花は濡れたり五月雨の夏のゆうぐれ風吹かぬみち

双頭の鷲の並んで立ちたれば身一つにはおさまらぬ箱

さわさわと胸騒ぎするゆうぐれは紫陽花の葉の梅雨に濡れたる
さむざむと夏のおとづれ待ちわびて雨のふる日は古典の似合う
今は夏、今が秋かと五月雨はとおまわりする時間のような

夢占の話はつづく晴れの日に土くれのうえ箒は走り
足寄には幻想の湖あるやうな記憶はあるが、蕗は雨傘

投稿者 Blue Wind : 02:02 AM | コメント (0) | トラックバック

『イタリアアシジからの伝言−聖フランシスコとともに歩く』 小平正寿著

「2005上半期マイベストブック」というテーマなんですけど、ひねもすをだるだるに過ごしている身には、実はささやかな違いなどどうでもいい気がしています。

修道院。

はあ?

修道院というのは、修道する人たちの院。先日、大和和紀の『あさきゆめみし』を読みながら、出家して修道の道を歩みたいというセリフが随所に出て来るけれど、修道院というのはそういう世界。「山寺へ行け、山寺へ」というセリフがあるけれど、いわばそういう世界なのかもしれない・・・オリジナルは。

小平正寿神父さまの『イタリアアシジからの伝言―聖フランシスコとともに歩く』は、実は日記なのではないかと。サイトを来訪しながら、同じ日記でもわたしの日記とはずいぶん違うなーというのが率直な感想でして、どうしてこれが日記なのかというと、修道というのはそういうものなのかもしれないというのが少し時間を置いてわたしが理解したこと。

真理をめざして歩みつづけよ、という歌詞があるんですけど、真理というのがイエス・キリストをみつけることと理解したのはこの本を読んでから。

なんとなく拍子抜けしてしまった。

わたしはおバカだから、「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの〜♪」というのが修道に相当するのかも。

もともとが理屈に基づく人間不信というか、なんせ座右の銘が「人間なんていつの時代も変わらない」。つまり、古今東西人間なんて同じことを考え悩み苦しみそれが今でも続いている、というのがわたしの率直な人間観だし、人が新しく生まれて育てば結局は大昔の人たちが悩んだことを悩み続けながら生きていくだけ、というのが文学観でもあるし、そういう点では文学はいまだかつて人間を裏切らないような気がします。

今、古典がブームらしい。源氏物語の中で、光源氏が明石に流され、友も家族も従者さえも彼を見捨てて行く。そういう中で彼を助けてくれる人たち、そして苦しむ彼の姿にイエスさまの姿を重ねてしまうのはわたしがシンプルだからなのかもしれないし、そして彼がそれを自分の運命だったと受け止めるまで・・・

文化も形も違うけれども、真理をみつけるということは形にこだわることではない。

『アシジからの伝言』の中に、「平和の道への対話」という節があるのですが、聖フランシスコが騎士道を捨てて修道の道を歩み、そして自らを平和の道具となるように神さまにお祈りし、彼が乗り越えて行った厳しい3つの壁について書かれています。十字軍の時代ですから。

1つめの壁は、ハンセン病患者の抱擁。つまり「他者を敵とし危険とする自己防衛」の壁。2つめの壁は、「人を良い人と悪い人に分類して悪い人を追いやる」という壁。「泥棒に遭遇した場合も、逃げて行く泥棒のあとを兄弟に追いかけさせ、大声で、「兄弟泥棒さん」と呼んでパンとぶどう酒とを与え」たそうです。3つめの壁は、宗教の壁。マニケイズムというのがどういうものがわからないけれども、キリスト者を正しい者とし、非キリスト者や異端者たちを悪い者として切り離すという考え方だそうです。聖フランシスコはスルタンとの出会いにより、イスラム教徒もイエス・キリストによって贖われただけでなく、彼らも祈りの人々であることに気がついた。

わたしは不思議なことにアシジの満月を眺めて、思い出したのは西行。弓の名手である西行が出家し、日本の神仏思想が彼の願掛けによるものだということを知る。西行の話から聖フランシスコを思い出すのか、聖フランシスコから西行を思い出すのか、今となってはどうでもいいような気がしている。わたしがカルチェリの庵を歩きながら思い出したのは不思議なことに出雲大社の苔むした岩。わたしがポルチウンクラの中に座ったとたん訪れたのは不思議な無我の世界。それがわたしだけではなくむすめも同じように眠りとも違う眠りの世界に誘われていたことを知るにつれ、その不思議さを思わずにはいられない。

おバカなんだよね・・・源氏物語からイエス・キリスト、アシジから神仏を想うというのは。それでもその昔、コジモ・ディ・メディチが修道院の中に天窓をつくり、いつも天とお話していたことを知るにつれ、その牢獄のようなしつらえの部屋を思い出すたび、修道というのはそういうものなのかもしれないと諦めにも似たものを感じるようになった。

止めはオオクニヌシノミコトが背負っていた袋の中身・・・あの中には金銀財宝などではなく、実はダイコクさまが生きている間になさった苦労がずっしり詰まっているらしい。イエスさまは自ら十字架を背負って歩いた。わたしはエルサレムへ行ったことがないのでわからないけれども、遠藤周作の『聖書のなかの女性たち』の最後のほうのページではエルサレム巡礼の話が書かれている。現実のエルサレムはいわば一つの観光地であり、イマジネーションのたくましい人たちの想像を破壊するだけのパワーがあるらしいけど、もしかすると真理を探すというのはそういうことなのかもしれないと思うことも多い。因幡の白兎の浜・・・

人それぞれなのかも。

紫式部のあのだるだるな文章が素晴らしいと思っている人もいれば、大和和紀の創作のほうが優れていると思う人もいるでしょうし、わたしのように源氏物語に旧約聖書の世界を見つけたり、イエス・キリストをみつけたりする人間もいるということで。世の中は人それぞれ。

投稿者 Blue Wind : 01:05 AM | コメント (0) | トラックバック

July 04, 2005

『あさきゆめみし』 大和和紀著

土曜日、娘が『ちゃお』を買いたいというので一緒に本屋へ行った。わたしはそのままコミック売り場へ行き、昔と違って立ち読みする人たちのいないコーナーを徘徊。文庫以外はまるでわからないですね・・・もしかするとぐるぐるさん の正体?もわかるかもしれないと期待したんですけど、まるでわからない・・・(汗

「お母さん、漫画読むの?」
「流行ってるのよ」

どこで流行っているかは別として、娘があまりにも不思議そうな顔をするのを尻目に、漫画文庫のコーナーから大和和紀の『あさきゆめみし』 を7冊まるごと取出しレジへ運んだ。

正直言って、今まで源氏物語が心から素晴らしいと思ったことはないんですけど、ほとんど一気に第5巻までを通読し、特に読み慣れた第1巻などは大和和紀の描き出す源氏の世界に生きている人としての光源氏を感じて感服してしまいました。源氏物語は長いから大抵は源氏が明石から戻ってしまった頃から次第にだるだるになってしまう。それにもかかわらず、どうにか最後まで。ただし、宇治十帖の第6、7巻は未読。

源氏物語はとても狭い世界。世の中は天皇家と藤原家しか存在しないのではないかというくらい恋愛や結婚でも限られた人たちばかりが登場する。登場人物のほとんどが友や妻といえども親戚。それでいて政敵でもあるし親友でもあるし、姻戚でもある。栄華のすべてが帝になることだったり、国母(帝の母)になることだったり、家の繁栄が結婚や出産と密接に関連があるため、家の中がまるごと権力抗争の世界。

悲しいけれども、そういう窒息しそうな世界で、唯一癒しがあるとすれば親子の情だったり、子を通じてだったり、出家することだったり、戯れの恋。恋の多い光源氏を正当化するものがあるとすれば、幼き日に母を亡くしたこと、心をゆるせる相手が女性しかいないことかな。

気に染まぬ結婚や恋愛ですら、生活がかかっているから、考えてみれば誰も自分の味方は存在しないに等しい。それでいてより多く愛したほうが負けと語りながら物の怪にまでなってしまった六条の御息所。旧約聖書の世界のような癒しのなさ。単なる愛欲のむなしさを語るストーリーに終わってしまわないのは一貫した神仏への信仰心。帝のうえに神仏がある。だからこそ聖と俗はあきらかに一線を引きながら生と死を境にしながら存在している。

人間の愚かさ・・・

わたしは日本の古典が嫌い。それでいて結局人は幾世紀にも渡って、花を見たり、鳥の鳴き声に心の癒しを求めて生きてきたのだと思うと、感慨深いものを覚えざるを得ない。どうして花や月のうたがあれほどまでに多いのか・・・どうしてあれほどまでに自然を愛さなければならなかったのか・・・

源氏物語に登場する人たちは誰もが人には語れない苦しみを胸の底に抱えた人たちであり、結局それを癒してくれるのは花や雪や月。

わたしは日本の古典が少しも好きにはなれなかったけれども、嫌いなら嫌いの理由も理解しなければならない年頃であり、むしろ淡々としてそういうものを眺められるようになったことを喜ばなければならないのかもしれない。

投稿者 Blue Wind : 09:04 AM | コメント (0) | トラックバック

July 01, 2005

【短歌】 素直ゆえおもはゆくなり素直ゆえなおむずかしくよこたわる舟

五月雨に苦しむ梅雨にひとりごつ夢に咲くはなこぞの夏萩
過去・未来ゆっくりすすむ今のときとどめる秋はいつ始まりぬ
北国の夏をば知れば古今にぞありし葉月の肌寒き風
星は冴え北の夏には満天の笑みは広がり凍えるわがみ

北国の夏を知っている人には古今(陰暦)の時代の季節感はすごくわかりやすいような気がする。ということは、昔は寒かったんだろうか?筑波山に氷柱なんてないですし・・・今の時代は。北国の夏は8月も半ばになると夜は肌寒い。

今は9月に入っても真夏のよう。変だ。ここは茨城なんだろうか・・・・?

いや・・・どうして急にこのようなことを考えたかというと、とらさん ・ぐたさん の古今和歌集についての記事を読んでいて、この手の歌人・俳人泣かせの話題には事欠かないからかもしれない。

まあ、今の時代は世界中に歌人はいるようで、たとえば西オーストラリアのパースは四季も逆だし、花も変だし、ごきぶりは白だし、白鳥は黒だし、脳天が変になってしまいそう。

半世紀くらい前までは筑波山には野生の百合がたくさん生えていたそうですが、今は消えてしまった。猪が球根を食べてしまったという話は本当なのだろうか?誰かが百合根を持って行ってしまったのかもしれないし・・・結局、今の時代を詠むしかない。

それと、花なんて1ヶ月くらい平気で咲く時期が変わるし、今年は薔薇が今でも満開。次々と咲いているし、例年よりも長い。

今の吾悩ませるためいにしえのうた詠みいづる素直な花咲く
朴訥に生きるがむなし、いにしえの人らの想いふふみゆく風
素直ゆえおもはゆくなり素直ゆえなおむずかしくよこたわる舟

今でも浮ぶだろうか・・・・いにしえの舟は。

投稿者 Blue Wind : 10:09 PM | コメント (0) | トラックバック

電子よ、電子、あなたは電子

いやはや、さっさと音楽にジャンルを変更してしまいました。なんか不思議なんだなぁ・・・そーいえばアメブロガーになって以来、サウンドネタからは離れてしまっている。理由の一つにずっと以前からサウンド・ブログを独立させてつくろうかと迷っているうちにそのままになってしまっているからでもある。

初期の頃から、・・・・つまりわたしがサイトもつくれないのにサイトつくりに励んでいた頃、ネタの一つにサウンドがあり、毎日おっそろしいほど聴きまくっていたから、そのうちいくつかをピックアップしてマニアなところを公開していたような気がする。

それこそ、飽きちゃってるから世界中のサウンドを聴きまくるわけ。気に入っていたところではアフリカ系とかね・・・なんか斬新でフレンチポップという感じで一時期はすごくはまってしまっていた。ハワイアンからガムラン、ラテン。なんでそんなに聴かねばならないのだろうというくらい一年間は聴きまくっていた。もっとかな・・・すでに忘れた。今は人生が短いことを知り、できれば好きなサウンドに溺れているほうがいい。

あせるな、あせるな、ゆっくりやろう。

そう思って、さっき短歌のカウント用のCGIに短歌をアップし、先月はさぼっていたことを知る。目指すところは石川啄木の傍若無人であり、短歌や日記というのはそういうものだから面白いわけで、あっさり語ればジャンルのためにブログがあるのではなく、わたしの作歌のためにジャンルがあるのである。

大抵は、ロックやポップスを鳴らしながらPCをオンし、作歌している。以前はその後に聖書を開いていたという・・・

音楽を聴きながらだと読めない・書けないという話も聞くのだけれど、わたしの場合まったく逆で、音楽がないと読めない・書けない。音楽そのものは単なるBGMなんだろうし、それがわたしの脳裡から余計な部分をカットするらしく、そのためにサウンドがあるような気がするくらいだ。それでいて、そういう周辺情報というのがわたしの気分を左右し、それによりトーンが変化してしまう。

つまりは、言いたいことがあり、それをストレートに書けば単なる説明文であり、そのまま書いたのでは単なる欺瞞だ。そこを周辺からの刺激により緩和させ、気がつけばだらだら勝手に手が動く。それが駄文であり、短歌であり、そのようにわたしのブログは構成されていく。

だから、大切なのはジャンルやテーマではなく、どう言ったらいいのだろう・・・そこから離れた周辺部分にあり、そこからの刺激がわたしをわたしから切り離し存在させているような気がすることがあり、むしろそういうことのためにだらだら書いているような気がするくらい。

ということは大切なのは読者でもなく、わたしでもなく、むしろ単なる電子に置き換えられた時間の経過こそがわたしのブログをわたしの思考の一部として存在させているという事実かもしれない。このため、感情的な事柄を書いたとしてもわたしは少しも自分が感情的になっているとは思えず、それはむしろ思考から発した感情であるため、書いているわたしはとても冷めた目で電子文字を眺めている。

単なるジャンル変更の理由がとても長くなってしまった。
直接的なトリガーは、ぐた である。
あれ、なんでそんなにウケルの?
なんか、冗談かと思ったらマジにウケテルらしい・・・??
変だ。
ってことが、トリガー。
この、電子コミュニケーション特有のあやふやさがあるからネットはこんがらがった糸のようになってしまう。
いや・・・・・わたしはずっと単一の行動をしているつもりなので、わたしがサウンドオタクであることは知られた事実だと思いこんでいる。
ところが現実は違うらしい。
なんでそんなにウケルのさ?

理由は、わたしがアメブロに「短歌のブログ」をつくったことにあるらしい?
いや・・・・おそらくは、ロック聴きながら聖書読んでるのよ・・・ってことがすごく変なんだろう。

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この話は、ぶっくらしょ・ぐたからクレームが入り、ボツになりました。
もしかすると、古今和歌集強化月間に入るかもしれません・・・(汗

投稿者 Blue Wind : 01:20 PM | コメント (0) | トラックバック