June 30, 2005

【短歌】 降っちゃっていいのか雨は海のうえきらきら光る海が好きだよ

太陽にちかづく夏がやってくる。七夕の星、落ちないで、空。
また一つ太陽炎(ほむら)焼けにくる夏もちかづく文月の夢は
ちっぽけにまたいでいるか地球には流るる星もむなしい塵か

人口はどんどん増えてまた増えて生まれ変わるかあの星ひとつ
深い河落としてゆくか星空はのみこむいのちいづこへ埋め
降っちゃっていいのか雨は海のうえきらきら光る海が好きだよ
スコールにのみこまれつつあの島はつなみにのまれ残骸なのか
黒い雲スコールのなか走る舟逃げ出すやうな海の道だよ
あっちへとこっちへ進むあの雲はあっというまに島のみこんだ
あっちへとこっちへうねるあの波はあっというまに島のみこんだ

明日のこと忘れてしまうカナリアはちっぽけな声枯らしているか
梅雨の芝ちゅんちゅん歩くすずめらは小さな羽根を躍らせていた

あゝ電話・・・・

投稿者 Blue Wind : 08:48 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 60年、わたしはそんな生きちゃいない。戦争放棄、自然、消滅。

わたしにはわたしの時代があるからね。見あげる空は晴れのちくもり・・
紫陽花の枯れてしまった日照りかな鉢のままならいまだに青く
梅雨空の深まりゆくか隣家には紫色の紫陽花の花
曇ったり晴れたり空はいそがしく朝の雨さえ忘れて今は
梅雨空のわがままな顔ながめては気まぐれな空不意打ちの晴れ

今 何時? そらにきいてもわからない。つゆはあまぞら、うすびのじかん。

初恋の熱も冷めたかむすめの手、比べてみたらわたしよりでかい。
むすめにはむすめの時代があるからね。すきとおる夏、背伸びの季節。

正式にバブル後期が終わったと政府は言うか、ぽつねんと聞く。
ながいのかみじかいのかも月日には値札はないが、時代は終わる。
60年、わたしはそんな生きちゃいない。戦争放棄、自然、消滅。

あおあおと芝生のいろのかがやけばアマゾンのいろ知りもせぬかと
おぢさんが読むものを読みばあさんがイカってみても歴然と逝く。

投稿者 Blue Wind : 12:58 PM | コメント (0) | トラックバック

『ワイルド・スワン』 ユン・チアン著

カースト制度の唯一優れたところは失業者が出ないことらしい。少なくても日本がカースト制なら若貴のようなややこしい確執もないということで、若者が転職を繰り返したり、失業に悩んだりしなくてもすむ。考えようによっては国が裕福なら楽な制度なのかも。その代わり就労の義務のない娘はとかく高い持参金をぼったくられ、これにより殺人事件が多発するというのもなぁ・・・きもちわるい。

先祖代々五千年以上・・・歌舞伎どころじゃないね。生まれ変わりを信じているからこそ、支えられている制度なんだろうか。善を積めば来世は上、悪いことをすれば来世は下。バカバカしい、で終わらないところが社会、政治、生活。

ちょうど『女盗賊プーラン』 を読んだ頃、『ワイルド・スワン』 を同時に読んだ記憶がある。昨日、書評を書こうと思ったけどタイトルを思い出せなくて断念した。探せばどこかにあるのかもしれないけど、この手の本はすでに本棚の奥のほうにひっそりと隠れているため探すほうが大変。

ストーリーはちょうど文化大革命の頃の様子が書かれており、祖母・母・娘の3世代に渡るノン・フィクション。軍閥将軍の妾だった祖母、共産党員の両親、そして著者が渡米するまで。プーランは彼女自身が壮絶な運命をたどったけれども、ユン・チアンの場合はまさしく生活が歴史のサンプルみたい。

表舞台となる歴史よりも、その歴史や社会の裏側で、生まれても名前も与えられない女の子とか、纏足とか妾とか、そちらのほうがショッキング。女性の地位という言葉がこれほどシリアスな意味を持ち、それこそ何のために生まれてきたのか考えざるを得ないほど壮絶な差別。そして、中国から見た日本軍。台湾へ逃げた国民党。どうして共産主義が中国で革命をもって迎えられたのか。

読んでいてつらかったのは、共産主義に移行する前の中国社会がどこか日本の古い社会に似ているということだったかも。思想というのは伝わるものであり、日本という国がいかに中国の影響を強く受けて発展してきた国かを感じた。つまりは、良い点だけではなく悪い点もよく似ており、官僚主導型とか賄賂とか女性の地位の低さとか、その他諸々インドを含め、日本社会の雛形がそこここに存在している。

一つわかったのは、中国はそういう自国の旧い体質を嫌い共産主義に移行し、なおかつ今でも日本がかつての旧いスタイルの国だと彼らが思っていることかな。

それが事実かどうか、わたしにはわからない。今でも旧い体質が残っているところには残っているし、それでいて女性の地位がまるきり悲惨なものとも思っていない。女性が自立するということは実は恐ろしいほど社会の根底を覆すほどのパワーがあり、それでいてそれを支えているのは年金制度かもしれないと思うこともあり、孝行者に嫁はなし、という実情を考えると、無血革命が静かに進行していたような気もするし、どうなんでしょう。

が、しかし・・・・

なんか、どうでもいいような気がしている。祖母の時代があり、母の時代があり、わたしの時代があり、娘の時代になる。

投稿者 Blue Wind : 10:51 AM | コメント (0) | トラックバック

June 29, 2005

嫁いびり

むすめが突然訊く。
「お母さん、初恋、いつ?」

はあ?
正直な話、まるで覚えていない。
逆に、むすめに訊いたら、あっさり答えが戻って来た。

近所のSくん。
むすめが小学校へ入学したばかりの頃の班長さん。6年生の男の子で、そういえば昔、Sくんのお母さんから電話がかかってきて、むすめがチョコを渡しに行ったらしい。

が、しかし・・・・バレンタインの1ヶ月くらい前で、しかもチョコではなく自分のおやつを持って行ったそう。それで意味がわからず、あちらも念のために電話をくれた。わたしも訳がわからず、思わずふきだしてしまった。

それがむすめが小2で、Sくんがたしか中学へ入学した頃だったからなおさら笑ってしまった。いや・・・小3だったかな・・・もう忘れてしまった。いずれにせよ、おちびが自分のおやつを持ってSくんの家に行ったことだけは確からしい。

残念ながら、すでにSくんは年齢が違いすぎるらしい・・・・おちびに言わせると。そりゃそーだよなー、近頃まったく見かけないような気がするけれど、考えてみたらあちらはすでに高校生? 道ですれ違ってもすぐには気がつかないだろう。

いや・・・・・・Sくん、いいよ。ナイス。次男だし、お母さんも朗らかで、しかも近所に住んでいるし、昔はサッカーばかりしていて、年中骨折とかね・・・怪我ばかりしていたけど、今はどうしているんだろう。むすめに彼氏ができて、Sくん? なんか笑ってしまうけど、親としてはどーでもいいよーな・・・

それにしても、むすめと初恋の話をしていて、相手の子の母親の顔を思い浮かべるというのはわたしもそれなりにババアなんだと自覚してしまう。相楽さんのブログで、カースト制度の記事を読んでいるとなおさら。カースト制度というより、ダウリー(持参金)をめぐるトラブルが多発しているため、なおさら悲壮感が漂う。

持参金というのが何のために必要なのかわからないけど、その昔、新婚旅行から戻った姑さんが嫁さん時代、そのまた先代の姑さんから開口一番言われたことは、「持参金が少ない」というセリフだったそう。とにかく負けず嫌いの姑さんが言うには、「見合いの時に兄弟(正確には姉がたくさん)が多いから過分にはできません」、「それで構いません」、という具合に親同士の話は終わっていたのにそうやって言うのよ、・・・という話は延々と怨恨となり今でも続いているような気がすることがある。

このため、わたしも母に言ったことがあるんだけどね・・・・「持参金、ちょうだい」って。だって、姑に虐められたらいやじゃん。はあ、まあ、そのとたん母が怒ったのなんのって。「持参金をつけなければならないような娘じゃありません!」って。うわっ、もう、その剣幕たるや、何かあったらババア同士を喧嘩させようと思ったくらい凄まじかった。

もしかして、その一言が言いたいために、わたしはおそろしいほど金をかけられて育てられたのではないかと思ってしまう。確かに、わたしは服でも靴でもバッグでも、あるいはアクセサリーでもダンナに買ってもらわなくても充分にある。つまりは、姑さんに嫌味の一つも言われるようなことは何もない。もともとケチだからお金使わないし・・・

家財道具、車の果てまで。ついでに家の頭金まで・・・? こんだけ親がしても、結局は家でジーンズとTシャツ、化粧もほとんどしない嫁。家はダンナのほうが用意してくれることになっていたのに、震災がきたから仕方がない。その上、むすめを働かせて・・・ということになったら、面目が立たない?

結局、家庭の中だけのことなら話題にもならない・・・今さら。ほんで、親の世話まで?

インドの悪口を書くわけじゃないけど、テレビや冷蔵庫のことで娘を殺されてたらかなわん。でも、本当にそんなものが原因で嫁を殺すんだろうか・・・人間ってわからん。宗教とはまた違うような気がする。というのは、こんなに豊かな国でも子どもの虐待は増加しているらしいから、わが国でも。

投稿者 Blue Wind : 04:38 PM | コメント (0) | トラックバック

パラドックス

一つわかっているのは、「結婚が人生の墓場」だと思っている夫婦は案外仲が良いということで、「結婚が生活の場」になっている人たちは互いに逃げ場が必要になるということ。

(トラステへのTB)

投稿者 Blue Wind : 08:29 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 今夜には酔っ払う数増えたれば不機嫌な顔したるわれかな

愛の冷えるような感覚は、このだるだる感かもしれない。友が困っていれば、とか、友が悩んでいれば、とか、何かその手の類のことが発生しているならば行って慰めてあげなさい、とかね・・・あるいは友でなくても。それを実践しようとすれば、世の中は不幸の海であることに気づくだけであり、もはやわたしは誰かに癒しを求められるのがいやなのである。そのくせ、ちょっとした小さな友の言葉に救われたりして、偉いなーと感心することも多い。


友情を社会に替えて託しては1+1が友の輪となり
地球上人口の和の増えゆけど輪になる前に不和は広がり
ふわふわと死んでも逢えるいのちなら数えてむなし息というもの
今夜には酔っ払う数増えたれば不機嫌な顔したるわれかな
友情に総和があれば愛情に足して欠けたる天秤のごと

投稿者 Blue Wind : 08:07 AM | コメント (0) | トラックバック

June 28, 2005

だるだるミクシイ

わたしのミクシイはだるだるのまま放置されている。
入ったきっかけは、「ミクシイだとあらしはないです」というNatさん の説得力のあるメールだった。その結果一つわかったのはNatさんの奥さまがわたしの友達と小学校から大学まで同級生だったということ。奇遇といえば奇遇だけど、よく考えたら世間は狭いので間接的なお知り合いというのはちまたに溢れているのが普通。

ふじたさんは以前結社誌のことでお電話いただいて、「その節はどうも」というつながり。わたしはいまだに幽霊を続けているため、そのうち購読だけにしようかと思いながらもだるだるのままネット歌人を続けている。Natさんは間接的に「未来」関係のつながり。ふじたさんは「塔」。

Natさんはお父さまが有名な歌人だったらしい。まさぴんさんはおじいさまが白秋のお弟子さんだったらしい。「らしい」というのはわたしが歌壇のことにはまるで詳しくなく、おそらくはうたも知らない可能性があるため、深く追求しないことにしている。

Jasmineはサイトをつくり始めた頃からの友達。そのうち生姜湯を送る約束になっているのだけれど、だるだるのままそのままになってしまっている。

ごめん、Luluさま。忘れてた。誰か抜けているような気がしていたら・・・
Luluさんはアメブログを通しての関係。今、タンザニアのほうへ行ってしまっているため、空中庭園のようなつながりになっています。

題詠マラソンもそういえばどうなっているのか気になるところだけど、どうも2年目の今年、だるだるなまま放置している。2004年版が本来ならそろそろ活字になっている頃なんだけど、どうも2003年版が売れ残っているせいか気合が入らないのかもしれない。世間でこれだけ話題になり、賞の候補にもなり、それでいて期待したほど売れないということが何となく雰囲気で伝わってくる。

わたしという人がいかにだるだるな人かを何となく自覚。

とりあえず、生涯のうち3冊歌集を出すことに決めている。もしかするとプレミアがついたりして・・・というのは、大抵は贈呈の世界だからつながりがありそうなところに送られるらしく、アマゾンで購入しようとしてもよほど有名な歌人で絶版になっていないという条件でなければすぐに売り切れてしまう。そういうものなんだなーというのが今のわたしのだるだるさに拍車をかけている。

その点、インターネットはオープンな世界。
いや・・・・・ミクシイをやりはじめて、それが本当にそうなのかわからなくなっている。
いずれにせよ、幻の歌人でいたほうが気楽なのかもしれない。どうせ、うた、下手だし・・・いかんなー。

投稿者 Blue Wind : 04:07 PM | コメント (0) | トラックバック

森瑤子

忍び寄る老眼の恐怖・・・・
もしかするとそれもそんなに遠い話ではないんだなーと思いながら、画面を眺める。そうなったら液晶大画面で巨大文字の電子ブックでも買って本を読むしかない? そういう時代が遠くなくやってくるかもしれない。今はまだネット・ユーザはどうしても若い人たちが多いし、文字も小さいほうが負荷が小さいような気がするし、レイアウトも綺麗。でも、そんなことを言っている場合じゃないって?

でも、老眼で思い出すのがどうして森瑤子なのか不思議だ。
今から20年くらい前、森瑤子はものすごく流行っていた。わたしが最後に彼女の小説を読んだのがいつか思い出せない。

ただ、彼女が『風と共に去りぬ』の続編を翻訳していたのを覚えているし、実は自分で『風と共に去りぬ』の続編を書きたかったとまえがきかあとがきに書いてあり、わたしがその本を読んで間もなく彼女が急死したことも覚えている。

今となっては幻の本。母が『風と共に去りぬ』が好きなことを思い出し、みやげ代わりに実家へ持って行ったことは何となく覚えているのだけど、その後どこへ行ってしまったのだろう。タイトルすら忘れてしまった。その後、スカーレット・オハラがアイルランドへ渡り、女の子を出産したというストーリーだったと思う。

森瑤子のよさというのは、とかく重く暗くなりがちのモチーフをフライパンのうえの玉子焼きのように裏も表もさっぱりと焦げつかない程度に仕上げてしまうところかも。だから口当たりがよい。ちょっとスパイシーなところもありきたりの玉子焼きでもごちそうになることを教えてくれる作家だった。

それはね・・・・主婦というつまらないありふれた人種をたちまちドラマの主役に押し上げてしまう彼女の手法はセンセーショナルでもあったし、森瑤子をガイドブックにしてオリエンタルな世界を徘徊するのも楽しかったし、夕立で飛び込んだ六本木のブック・ストアというのがO. ヘンリーを買ったあの店、というのがすぐわかるほど舞台設定が具体的だし、この前、ラジオから流れてきたユーミンの『中央フリーウェイ』の風景描写にも似て、何気なく通過してしまえば単なる風景を小気味良くドラマの舞台に書き直してくれる。

わたしなんて、「猫科の男」というのがどういう雰囲気なのかたしかめたくてランカウイ島へ行ったようなものだ。う〜む、たしかに猫科の男だったとしか語れない。あの笑みのない世界、足音のない歩き方、それでいて親切。寡黙なセクシーさというのがあるね・・・マレーシアには。でもそういうドキっとするような話でも、森瑤子のあのクールさを連想するとどうでもいいことのような気がしてしまう。

なんで老眼を思い出すのかといえば、普段は老眼鏡などかけていないにもかかわらず、なりふりかまわず老眼鏡をかけながら森瑤子を読みふけっているうちにとうとう図書館にまで通うようになってしまった行きつけの喫茶店のおばさんを思い出してしまうのかもしれないし、その読書熱がちまたに広がり始め、あの時代はみんなでバカみたいに本を読んでいた気がする。(老いも若きも?)

でも、それが更年期障害から中年女性を救うらしいという話をこの前何かのテレビで言っていて、老眼鏡が必要になったら森瑤子の小説は健康器具になるかもしれない? 長生きしていたら、今頃どんな小説を書いているのかすごく気になる作家の1人。個性も時代も作品にも終わりがあることを知る。

売れっ子老眼作家、か。さすが。
ぼぉ〜っとしているうちに、彼女の年になってしまった・・・月日は早い。

投稿者 Blue Wind : 07:24 AM | コメント (0) | トラックバック

June 27, 2005

日本の夏休み

本音を語るとどうなんだろう?

いや・・・・受験のこと。
本音を語ると、夏休みまで勉強で埋め尽くすスケジュールを親は喜んでいるのではないだろうか?

「9月から新学期が始まると、夏休みは春休みのようなものだからずっと遊んでいられるのよ?」

そうやってわたしがダンナに語ると、「オトをずっと預けるの?」というお返事。
つまり、夏休みをめいっぱい遊べるとして、めいっぱいの夏休みを堪能している間、ペットをどこに預けるかとか、「日本に生まれたのだから仕方がないでしょ。中国や韓国よりマシ」というお返事。

そうやって言われてしまうと、たしかに夏休みが終わり学校が始まるとほっとするのはどうしてだろう? 一日中娘が家にいて、朝には朝の、昼には昼の食事の支度があり、買い物に連れて行ったり、遊びに連れて行ったり、友達と遊ぶにしても家を行ったり来たり。公園で遊んでいる頃は楽なような気はしてもそれなりに治安・防犯という点では油断も隙もない。

その点、夏休みでも子どもが勉強しているというのは考えようによっては親には楽なのである。少なくてもそれは大学受験が終わるまで続き、大学へ入る頃にはそれなりに成長しており、難しい思春期をひたすら勉強してくれるのだから、考えようによってはこんなに親にとっては安心な仕組みはないのかもしれない。

もし、夏休みがヒマになり、年中友達から電話が掛ってきては気がついたら勝手に遊びに行かれているようではかなわない。せいぜい塾や予備校をさぼってゲーセン行ってるくらいなら安全圏なのかもしれない? どっちにしろ受験は待ってくれないからね・・・そんなことをしている場合ではない。本人もそれがわかっているからこそ、つまらないことでも息抜きになる。それこそマンガを読んでいるだけでも息抜きになるっていう情けなさ。

ゆとり教育の評判のわるいことといったらないね。
こんなことなら土曜日も学校があればいいのに、という人のほうが多い。
いや・・・・子どもがそうやって言っているのではなく、親が。

夏休み、ずっと遊んでいられることになったとしても、ダンナの休みは少ない。そうなるとまた留守番?
それもなぁ・・・・・・めったにないことだから文句も言わないけど、毎年のことになったら目がつりあがりそうな気がする。去年なんて、電話代だけでも5万円も余分に予算が掛かってしまった。それもつまらない話ばかり。オトは大丈夫だろうか、とか、父さんは大丈夫だろうか、とか、湿布を持って来てほしい、とか、他愛もない話題。それを考えるとバカらしい。

とりあえず受験勉強があれば大学に入るまではそれで終わり、大学時代に恋人をつくり、次には結婚するなら金が要るとばかりに休みなく働く人生が待っている。

それが素晴らしいとは思わないけど、少なくても親にとっては楽だよなぁ・・・そのありがたみは自分が親になってから感じていたりして。

オスはあほだね。オトを観ているとしみじみそう思う。今まではしっぽふりふりあっちの犬こっちの犬みたいだったけど、マリが来てからすっかり落ち着いてしまった。わるさが減り、凶暴さも減り、近頃おとなしい。おっさんになってきたせいもあるかもしれないけど。結婚するとすっかり落ち着いてしまう人が多いことにも似ている。

マリは誰か来てもオトみたいに吠えたり噛んだりしないし、散歩へ行ってもオトみたいにマーキングに悩まされたりうんちを拾って歩いたりしなくてもすむ。躾が楽。その代わりオトの耳を齧るのは何故なんだろう? おっさんをからかっている女子高生を連想してしまう。情けない、オト。

そのように考えると、ある程度の年齢に達するまではひたすら勉強やらスポーツに明け暮れているほうが平和な気がする。娘は箱入り・・・・外へは出さない。それが自然界の法則なのかも。(うっそぴょん)

兵役も宗教もない国だからね・・・・なんかないと。

投稿者 Blue Wind : 10:37 PM | コメント (0) | トラックバック

だるだるな平和

久しぶりに早寝してしまった。
おちびに社会をやらせているうちに次第に眠くなり、理科に移った頃には眠くて眠くてそのまま寝てしまった。なんで勉強するとこんなにも眠くなるのだろう・・・むすめよりわたしのほうがだるだるになり、あまりにもかったるいから寝てしまう。

歴史はともかく、理科となると何十年も勉強していないことがわかる。
忘れちまったのか、それとも最初から一夜づけだけで通り過ぎてしまったから覚えていないのか、それすら定かではない。むすめのほうが習ったばかりだから何でもよく知っているなーと感心してしまう。あかん・・・

もしかするとむすめといっしょに模試を受けたら、わたしは番外かもしれん・・・ダメだなー、すっかり自信を無くし、ダンナに訊いても嘘ばっか。(こら!) うちのダンナに至っては九九も間違うんだからどーにもならん。ふざけとんのか、あのおやじ・・・・(←単なる酔っ払い?)

昔は成績よかったはずなんだけどね・・・・遠い目・・・・・試験が終わったらぷわ〜っと気持ちよく何でもよく忘れてしまうのはさすがだ。(こらこら・・・)

つくば高学歴社会・・・・まわり見ると、あかんわ。だるだるで生きている人が多い。むかしの秀才、今、おじさん、おばさん。禁句かもしれないけど・・・なんでながいき社会なのかわかる。庭仕事でもして、か。

健全なんだよね・・・

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June 26, 2005

【短歌】 少しずつ造花のやうになりゆくか、すきとおりてやかなしき笑みは。

ぼんやりと母親の顔あつまればなにごともなく移ろうか、時
ほんのりとミルクのはなしあつまればなにごともなく育ちたる子ら
朴訥に月日は流れ朴訥に子ら育ちゆく林立のみち

すきとおる肌もちたるも40歳 離れ立つ人 かつての友は
理由など何もないのと微笑んで店の案内六本木の丘
エリートと名のつくばかり男には顔のよく似た妻並びおる

ナルシズム極限にして顔の似る確率の渦わかりにくかりし
二極にぞわかるるものか人生はめぐりゆく罠ふるわせし肩

すんなりと時計の針のまわるような人生もあり。今、何時かな?

刻々と子の育ちゆく谷間には、今日も暮れるか夕焼けの空
微笑みのゆるみぐあいがかそけくも二極めいた陰陽のやう

”負け犬”の数の多さに群れなせば牙さえむなし自由な人ら
少しずつ造花のやうになりゆくか、すきとおりてやかなしき笑みは。
ぼんやりと談笑の声途切れれば別れた後の地下鉄の音
立ち尽くす後姿に声かけし友は見知らぬ人らのひとり
歳月は群れから離れそれぞれの巣に戻りゆく後姿に
翳のある放課後のごとく地下鉄は足音だけが響き別れん
決断を独り奏でる足音は笑みむなしくもそぞろ吹く風
ひらひらと後姿を重ねては友の背なかの吾に別れ告ぐ

投稿者 Blue Wind : 05:54 AM | コメント (0) | トラックバック

算数と日常

算数ってよく考えるとわからないのに、あまり考えないとよくわかる。
そんなことを娘と一緒に試験問題を解きながら考えた。

結局、算数が何の役に立ったかといえば、スーパーで買い物をする際、例えばグリンピースの缶詰を買うとき、80gが98円のものを買うか、150gが158円のものを買うかの違いなんだと思う。10g単価で考えると容量の多いものを買うべきだけど、実際にはそんなに必要ないという場合のほうが多く、どちらが損か得かなどということは結果論にすぎない。

もっと酷いのはバリ島でドルをルピーに直されてその場でカードで支払えば終わるのに、わざわざそれをドル建てのトラベラーズチェックを使いたいと言い、おっそろしいほど余分に取られたケースだろう。わたしにしてみればルピーに直す前の金額で支払えば簡単だろうって思ったら、フロントの女の子がルピーをドルに再計算しているという・・・

時間はかかるし、相手におバカだと言いたいけど、言葉が通じない。しかも計算も満足にできない。あーなるとどーにもならないってことがよくわかる。読み書きができて、計算ができて、若干の語学力があるってことがこんなにも大切なことなのかと思い知る瞬間でもある。それでいて人生は不毛だ。

それにしても、酸素が20%って書いてあるとうちの娘の場合もう目の前が真っ暗になるらしい。あほじゃ。一クラス30人でメガネをかけている子が2割って言えば計算できるのに、問題によっては言葉を見ただけでアレルギー反応が・・・あほじゃ、あほじゃ、あほじゃ。まずはそれから直さないと。

100円の買い物をすると105円支払わなければならない。このことから消費税は何%でしょう?という書き方で出題するとすごく迷うというのは変じゃないだろうか?

ええい、受験なんてやめじゃ、やめじゃ、やめじゃ!
・・・・・・・・・あたしって気が短い。

なんでこんなこともできないんじゃーーって思う瞬間が親にとっては人生で一番絶望に近い瞬間かもしれない。自分のことは忘れて・・・・ピアノをそれで失敗しているため、ひたすら自分との闘い。自分のほうがが我慢できなくなってしまう。この絶望感に。おろかじゃ・・・・・・・わかっちゃいるがおろかじゃ。

分数の計算もできない大学生の話を考えると、分数の計算ができるだけよしとしますか・・・

あーあ、いやな時代。
なんかね・・・やっぱ、昔の子どものほうが賢かった気がする。それともうちの娘が単に頭がわるいのだろうか?なんかうつうつするな・・・ゆとり教育・・・まだ続くわけ?この先も?教科書がわるいのかも。

投稿者 Blue Wind : 01:16 AM | コメント (0) | トラックバック

June 25, 2005

1年は長い

ミニチュア・ピンシャのマリちゃんがわが家にやってきてそろそろ1ヵ月半くらいかな。ゴールデンウィーク明けだったから。

最初来たときにはケージに上がるのも大変だったのに、今では勝手に階段を上り下りしている。月齢も5ヶ月になり、体重も1.8キロ。ベッドの上でもソファの上でもひょいと上る。お尻一つ分胴も伸びた。子犬の成長は早い。

マリがおとなしいと思ったのは最初のうちだけだった。オトくんも2歳になり、2匹で走り回られるとうるさい。オトが唸っているからどうしたのかと思うと、大抵マリちゃんに耳を齧られていたりする。小さくてもマリは気が強いらしく、オトのほうが我慢している。それでもマリに噛まれてももひよこにつつかれたようなもので、痛くも痒くもない。マリはまだ、ワンと吠えることもできない。

それぞれ別々に同じ餌をあげているのだからおとなしく食べたらいいのに、オトはマリのをとるし、マリはオトのをとる。マリは食べるのが遅いし、オトにとられないように自分のケージのなかにいちいち餌をくわえていってから食べている。そのため、マリの食事のとき、オトは繋がれている。なさけない・・・理由はオトが勝手にマリの分を食べると太るかららしい。

冗談ぬきに、マリが成長するのはかまわないけど、このところオトの首輪のサイズを穴一つ分広げた。人間だったらズボンのベルトなどで太ったとかやせたとか感じるのかもしれないけど、犬の場合は首輪。オトがおでぶになると困る。

マリが来る前はオトはわるいやつで、甘えたなやつだと思っていたけど、今ではすっかりお兄さんというよりおじさんになってしまった。犬の2歳というと人間だと26歳くらい? それでもマリが来る前はオトが抱っことうるさかったのが、今はマリがいちいち抱っことうるさい。

マリが来る前は、何かというと娘とオトが喧嘩していたんだけど、今はすっかり代がわりしてしまい、オトとマリが喧嘩している。オトを叱ろうとしてもわるいのはマリ。ほんでもマリは子どもだから仕方がないという諦めがみんなに充満し、このため近頃オトがおとなしくなった。

去年はオトくんだけペットホテルに預けた。迎えに行ったときのオトくんのうるうる眼と興奮を思い出す。捨てられたと思ったのだろうか。家にいるときより、ペットホテルのほうが手間のかからないよいこだったというのが不思議。それでも今年は2匹が一緒なのでなんとなく心強い。

それにしても犬はあっという間に成長して、おじさんになってしまう。1年は長い。

投稿者 Blue Wind : 12:12 PM | コメント (0) | トラックバック

泡の一つ

世の中にはナイショで読んだほうがいい本というのがあるかもしれないと思う。別にエロゲロじゃなくても・・・子どもの頃に気持ち悪いと思いながらもつい読んでしまった恐怖マンガのような興味の持ち方かな。

気になって仕方がないのがサイババだし、青山圭秀さんの著作物だし、この分ではどうも来月あたりアマゾンに注文してしまいそうな気がする。こういう興味の持ち方というのは、好奇心だから仕方がない。特に宗教とか信仰ということに関係なく興味を惹かれてしまう。

一つには、わたしは特に死にたいと思っているわけではないけど、サイババが8年で生まれ変わるとして、そんなに早く生まれてきたいか?と問われればぐったりしてしまう。今から人生をやり直すパワーはない。

茨城県に来て、人生観が大きく変化したのは間違いない。なんせ90歳以上の人でもまるで60代のようにピンピンしているわけで、それが当たり前になってくると何かどこかが変化する。つまり、60歳を過ぎても30年以上生きているわけですよ・・・わかるかなぁ・・・そのミステリアスな感覚。

はっきり書くけど、一般社会で60歳というのはある種の区切りなのよね。定年を迎える年なのかもしれないし、一応はリタイアのことなどを考える年なのかもしれないし、その頃になると年金とかね・・・多くの人たちはすでに孫が何人かいて暮らしている。その頃になってもまだひ孫が成人するくらいまで生きているわけで、なんか感性が違う。

平安時代なんて40代で死んでたんでしょ? 世の中どーなってるんだか。予言書の話は胡散臭いと言ってしまえばそれまでかもしれないけど、気になるには違いない。

以前テレビで生き別れになった一卵性双生児の特集を観たことがある。あれも気持ち悪い。だって互いに互いの存在すら知らずに生きているのに、再会した双子たちは体形もよく似ていれば奥さんの名前まで同じだったり、あるいは病気や職業まで同じ。

あれを観ていたら、ダイエットすらやめようって思ってしまう。だって、中年太りの時期まで同じなんだもの。しかも、ダイエットしている人たちもやはり同じ時期に痩せ始めている。ということは、体形というのも運命という気がする。遺伝子と言うべきか。

もしかすると、そういった運命や遺伝子に逆らうことは可能なのかもしれないけど、あの双子たちを眺めているとそういう意味では夢も希望も消えてしまうくらいよく似ている。そこに止めを刺すようにアガスティアの葉の予言書に自分のことが書かれてあったらおそらくは理屈を超えてすでに諦めに近いものを持ってしまっても無理はない。

そうやって考えると、若い頃には期待や不安に苛まれながら生きていたとして、一体それがどういう意味を持っていたのかわからなくなる。人生は生まれる前からほぼ決まっていて、その筋書き通りに人生が進んだとして、だったら人生はつまらないか?と問われれば決してそういうこともなく、やはり未知だからこそ面白い。

運命を受動的に受け入れるかどうかというのは人生そのものには影響はないのかも。ただし、気持ちは違うよね。世の中にはアクティブに生きていきたい人たちもたくさんいるし、そういう人たちにとっては受動的な発想というのは滑稽なんでしょうし、邪魔な存在かもしれない。それでいて受動的な姿勢ばかりではやる気のない人間と思われてしまうかもしれない。

そんなことよりも、もしかするとそういうことも単なる風潮の一つに過ぎないのかもしれないし、平安時代に90歳まで生きるなんてことを言い出せば単なるおバカに思われても仕方ない。それでいてわたしは自分が長生きしないだろうとは思いながらも周囲の寿命が延びているのを垣間見るとやはりそういった環境に影響を受けてしまう。

結局、環境というものに対しては無意識に順応するくせに、何かを言の葉で記しているのを眺めればすでに別の言の葉が過ぎるようになっているらしく素直に受容できない。それでいてわたしが順応しようが反駁しようが運命は決まっているとしたらすべてがむなしい。

一つわかっているのは、このように理屈や感情といった精神はスピリチュアルな世界ではないということ・・・生きているから発生する泡の一つ。

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June 24, 2005

ブック・バトン

もう、研究を離れて10年以上になり、その間のわたしはどこか書物に対しては魂の抜け殻であり、思い出すのは青春時代に読んだ本ばかり。スピリッツの伝達なくして書物ほど邪魔な代物はないだろう。重いし、場所をとるし、それでいて捨てるも買うも風まかせのようで・・・

アメブロにブログをつくって唯一素晴らしいと思ったのは、ぐたさん みたいに根っからの本好きとの出会いかもしれないです。正直言って、わたしの好きな本とか思い出の本は文学ではなく研究関係がほとんどで、そういう意味でなかなか書評を書く気にはなれません。つまりは封印した過去を紐解くのはかなりしんどいのです。理由はいくつもあるけど、いまだに心の整理がつかない。仕事という以上にスピリッツそのものだったから。

純粋に本が好きだったわけじゃないですからね・・・要するに、活字はコピーの中にあり、みたいな生活だったし、むしろ本の形をとったものは終わったものとしての認識しかなかった。

再び、ブック・バトンがやってきたようで・・・
ほんと、ぐたさんは懲りない。(笑)


Q1:あなたの本の所持数は?

わからないです。数えられない、すでに。本棚だけでも10本。そのほかに籠やダンボールが15個くらいあるし、テーブルの下や中、収納できる椅子の中にも。屋根裏にも未読の文庫ばかりを入れたものがあったはず。これは引越しした時のまま箱も開けていません。今月だけでも気がつけば20冊増強しているわけだし、これをどうやって数えて整理したらよいのかまるで検討もつかない。

だから、自然と文庫や雑誌、マンガの類は読み終わると処分してしまいます。プレミアを考えるともったいないけど、暮らしていけないですからね・・・捨てないと。

Q2:今読んでいる本は?

『不在の神は<風>の中に』をまだ読み終わっていません。それとは別に途中になっている本が数多あり、今、わたしのパソコンの隣にはこのほかに聖書、『モーリヤック著作集2』、『釈超空短歌綜集』とパズルが数冊。パズルと聖書は毎日開いています・・・(汗

Q3:最後に買った本は?

最近買った本という意味かな?(笑)
買ったわけではないけど、一昨日くらいに届いた結社誌が一番新しいかな。雑誌だけでも毎月10冊以上届くじゃないですか・・・昨今。でも記憶に新しいのは『モーリヤック著作集』と遠藤周作シリーズでしょうか。わたしにしてはめずらしく気合が入ってますから、今回。

アマゾンのギフト・カードをささやかながらもゲットしたので、来月はシモーヌ・ヴェイユを取り寄せようかと思っています。

Q4:よく読む、または思い入れのある本5つ

よく読むのは聖書かな・・・やっぱ。それでもいまだに読破していないという。『アートバイブル』を含めると5冊が常時置いてあります。どこが違うかというと、翻訳が微妙に違うし、解説があったり、旧約がついているかどうかでも違うし・・・でも、一番よく使うのは作歌のために買った聖書です。日本聖書協会の『新共同訳 聖書』。

それだけでも5つだよなぁ・・・と思いつつ、『ゲーテの自然科学論』、『ニューロンから脳へ』、ジンバルドーの『現代心理学』は外せない。ゲーテの色彩論は最初、学部の頃に富家先生からお借りして、かなりショックを受けましたから。黎明期で何もないところから始めたんだな・・と思ったらすごくずしんときた記憶がある。

『ニューロンから脳へ』 もすっかり旧くなってしまったけど、これが最初に出たときのインパクトはすごかったですからね。野澤先生のところへ持って行った記憶が。あの先生にしてはめずらしく少年のようにきらりんと眼が輝いたのを覚えています。大抵はね、顔は微笑んでいても厳しい眼をしていて、退職して名誉教授になってからじゃないかな・・・本当の意味で柔和な顔になったのは。それくらい厳しかった。

ジンバルドーの『現代心理学』は内容自体は旧くなってしまったけど、入門書オタクのわたしとしてはほかの入門書にはない匂いを嗅いでいた。どこが違うかというと、姿勢なんだと思う。大抵は心理学の入門書と言うと心理学そのものを説明しようとしているんだけど、ジンバルドーの場合はどこか有名な実験だけを並べながらも、根底に人間に対する深い好奇心というものがあり、その好奇心が平和利用されることを願いながら題材もピックアップされていたような記憶がある。微妙なところなのよね・・・うまく説明できない。

このほかにも、ミラーの心理学の入門書も面白かった。『心理学の認識―ミラーの心理学入門』 。自由なのよね・・・黎明期の人たちの自由さはどこか手技・手法・手続きでがんじがらめにされた精神を解放してくれる。

文学関係はそのうち考えよう・・・

あ、あと、『マン・ウォッチング』も外せない。これは弟に勝手に持っていかれてしまった。今って新書しかない? アマゾンで検索したらとんでもない表紙が出てきてしまった。趣味わりぃ〜! でも、内容は同じだと思う。おもしろい。手軽に楽しめる人間観察。

・・・・・というノリで書き出したらキリないね。バカバカしいほど面白い本はある。

ただ、何と言うか、スピリッツの問題なんだと思う。

それで、これだけ読んでいて結局聖書だけあればいいなぁ・・・というのが本音中の本音なのです。学問も文学もどこか源流をたどれば人間にたどり着き、そのミステリアスな存在に対しての問いかけから人生が始まり終わる。だから書物は読めば読むほど混沌としてくるだけで、結局はあらゆる源に聖書がある。今の時代はどうやってもその影響から無関係ではいられないですからね。なんせお寺や神社のおみくじの中にも聖書の言葉が書かれているという・・・ってことは、おおもとはどこか一つだったのかもしれないし、それがどこかで繋がっていたとしてももはや今の時代のわたしたちにはわからない。

それでいて聖書は何度読んでもさらなる発見があり、その深さははかり知れない。

ほんとに抜け殻だったんだよね・・・活字に対して。何を読んでもつまらない、面白くない、虚無。もちろん、コミック的な面白さや手軽な楽しさはあるよ? でも、そんなものをすべて投げ捨ててしまいたいような衝動もあるくらい抜け殻だった。人形の笑みみたいなものかな。

虚無を埋めるために読書があるとすると、それはもはや聖書でないと埋まらないだけなのかも。

ただ、背景として人間という媒体がいるとすれば、ひとりひとりに聖書があり、それをどうやって拾っていくか?という楽しみも近頃覚えたばかりでして・・・そういう意味で良書をピックアップして読みこみたいですね。なんでかというと、わたしはまだ生きているから。トーチなんだろうな・・・それが。消してはいけないものもある・・・だから読み、だから書く。

コヘレトから抜け出せないわたし・・・

******

今回、バトンはパス。
自然とTBが飛んでくるくらいのほうが気楽でいいです(笑)。

投稿者 Blue Wind : 11:33 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 山のいろ森のいろより青ければ一本道をただ走りゆく

竹篭の小さなバスケ抱えては幼子のわれ砂利道あるく
子ども用バッグ売り場の色違いトッポジージョは最後に笑みし
暗がりのオイルショックの言の葉はさびしき雪の祭りにぞ聞く
山のいろ森のいろより青ければ一本道をただ走りゆく
林道の清流の音におびえたる丸太のうえは父の背に乗り
滝の道林の奥の木陰にぞまあたりにする白き水音

リカちゃんの家をつぶすか弟はおむつの尻をどすんと落とし
リカの椅子壊れてみれば発砲のスチロールだに広がりてあり
人形の家のまどりの深ければ紙のうえにぞ階段はあり
ささやかにプラスチックに変わる椅子リカの豪邸ピンクの箱に
くちゃくちゃにセルロイドさえ捨てられし小さな世界ドールの箱に
人形の髪の匂いのおもちゃ箱よごれたあしの靴は消え失せ

二重窓つららの音のなつかしき窓の外には雪の標本
どっさりとつららの落つる物音はしずかな夜もまばゆき昼も
雪のうえよじのぼりては2階まで屋根はつづきぬ雪落とす冬

春の道泥にまみれた残雪は嫌われ者のうずくまる水
ぴしゃぴしゃと急激な春おとづれし北の国にはすきとおる空
真っしろき雪の世界は淡き青かすかな空の地に広がりき
あしあとを残してみれば長靴に雪詰め歩くポプラの小道

投稿者 Blue Wind : 02:43 AM | コメント (0) | トラックバック

茶の間層

すごいな、「首相官邸」(政府のメルマガ)の読者が160万人だって。ポスターだのビラだの新聞広告を考えたらすごい経費の節約になる。さすがに自民党だの共産党だの言われても購読する気にはなれないけど、一応は政府のメルマガとなると購読してしまう。

そうなんだよね・・・何もコムズカシイ話ではなく、茶の間の政治でいいんだよね、メルマガなんて。ちょっとテレビを観ながら茶の間の話題になるような感じで、あたかもお天気や学校の宿題の話をするような感じで話せる程度の政治・経済。

その昔、シンガポールでテレビを眺めていたら、各国の通貨レートが茶の間の話題になっているので驚いた。さすがシンガポール・・・

北朝鮮の人たちが何を考えているかよりも、どうしてカニが入ってこないのかそちらのほうが気になるし、どうしてロシアのカニは一斉に売り出されるのかのほうが気になるし、なんでインド洋の養殖マグロがオーストラリア産なんだろうかとか、このところトルコ産の杏が入ってこないのはどうしてだろうとか、スーパーは世界情勢の坩堝。

テロなんて正直どうでもいいんだけどね、はっきり言って、石油は値上がりするし、今年はグアムに行くけど、なんでいちいち空港で指紋押捺や写真を撮られたりしなくちゃならないんだ、とか、その前からボディ・チェックがしつこくなりうんざりしているのに、いい加減に何とかしてくれ、というのが茶の間の話題かもしれない。

官邸が新しくなり、あまりにも殺風景だから、展覧会場になる?

わざわざ美術品を購入しなくても官邸に飾られるということで無償で貸し出ししてくれる画家はいくらでもいる。展覧会の入賞作品とか? あるいは公募して一定期間陳列するだけでも違うだろうし、歴代首相の好みで選定してそれをウェブにアップしておいてくれたら首相の好みやセンスがわかるからおもしろいかも。

ある首相はエロゲロばかりで、はたまたある首相は日本画ばかりでどういうわけか女性の肖像ばかりだったらどーしよ・・・はたまたあまりにも高尚すぎる絵やあまりにも抽象的な作品、はたまたなんでこれがいいの?という作品、はたまた小学生の絵ばかり展示している首相がいてもいいわけだ。てきとー。

実際、アート系のウェブ・サイトをサーフィンしているだけでも層の多さに驚く。もう、そういう時代なんだろう。文化というのは層が形成されなければ意味がない。チャーチルが絵を描き始めたのは40代。

結局は、層なんだよね。
そうやって社会に充満する空気を吸いながら子どもは育つ。

この前、「文学」というものを検索したら、要するに文学というのは論文カキコや記述・説明的な文章でないものの総称らしい。ということはニュース記事や論文も商品説明も文学ではない。でも、文学とは何か?ということを記述すれば内容は文学でもすでにそれは文学ではないということになる。

アメブロのユーザ数が30万人を突破した。でも、まるで更新していないわたしのブログを調査したところいまだに6万番代を推移している。放置ブログでめったにアクセスもないブログ。ってことはその辺が実質的なユーザ数なんだろう。個人で複数つくっている人たちも多いし、まだまだ偏った世界。

ちなみにノーベル賞作家は、生業とは別に作家活動している人たちも多いことに気づく。これに対して日本の場合は出版社が賞を出していることが多いせいか、生業を別にしている人たちには与えられない?なんてわかりやすい社会なんだろう。

やっぱ、層なんだよね・・・

投稿者 Blue Wind : 12:49 AM | コメント (0) | トラックバック

June 23, 2005

子どもをとりまく背景

朝のワイドショーは貴乃花と金被告。

貴乃花はこれから相続税や相続の遺留分の支払いのため、あるいは相撲部屋の維持のため稼がなくてはならない。急に饒舌になったのではなく、ビジネス。親の代のタニマチさんも高齢だし、サポーター制度を導入すると言っても人気力士が育たなければ部屋にサポーターがつくわけもない。他人の子を預かるのだから、そりゃ大変。しかも十代の難しい年頃の青少年たち。考えただけで憂鬱になる世界かもしれない。

「ごっつあんです」

いいな、昔の関取って・・・
どんどん食わして強くする。
なんでそうなのかわからないけど、癒されるよね。どんな食糧難でも力士には食わせる。だって力士なのだもの。だからこそ食いたいから力自慢の少年がやって来る。ほんで、「ごっつあんです。」
なんか、平和。
気はやさしくて力持ち。そういう少年が育つのを見ているのは楽しい。どんどん食え、って言いたくなる。それが喜びなんだよね・・・年寄りの。平和な日本社会の象徴。

金被告。

牧師とか教会という言葉を使うべきでないと思う。少女への性的暴行?死刑にしてほしい。いや、死刑では足りない。ほんで新しいカルトの代表がまた変なことをしている。勘弁してほしい。単なる暗示とか催眠なのかもしれない。変な目つきだし、気持ち悪い集団だ。

そんな時(つまり画面を見てくさくさする時)、わたしはカルチェリの庵をめざして汗を拭き拭き歩いている小太りのシスターを思い出すことにしている。いいよ・・・着いたらちょこんと座ってチョコレート食べていたり・・・4キロの山坂を歩くって真夏の日照りのなか結構きつい。

わが家はダンナが一緒だったのであっさり聖キアーラ教会の脇からタクシーに乗った。ダイアナカットのヒラリー・クリントンみたいな雰囲気の女性ドライバーがベンツのタクシーを運転している。わたしたちの前に友達を呼びに行った客がいたのだけれど、わたしが声をかけると、「ジャッポーネ!」とうれしそうに呟きエンジンを入れた。急いで乗れとばかりにドアを開け、わたしたちが座ると、戻って来た人たちに後ろのタクシーを指差し、発進してしまった。イタリア人っぽい。

それでいて運転しながら窓を開け、知り合いに挨拶。途中で停止するからどうしたのかと思ったら、いきなり通行人と窓越しに世間話。帰りはほかの客も一緒に乗って降りてきた。しっかりしてる〜!

まあ、日本のタクシーでもロンドンタクシーでもないし、事前に料金交渉して乗っているわけだから特に損をしているわけでもないし、彼女がアシジ駅への8回分の送迎をカルチェリ1往復で稼いだからといって誰かに迷惑をかけているわけでもない。

でも、善良さってえっちらおっちら暑いやまみちを汗を拭き拭きうれしそうに登ることなのかもしれないとも思う。

それでいて、まあ、気の短いジャポネーゼやほかの親子連れがいるからタクシードライバーはウキウキするわけで、子連れは忙しい。車で戻り、ランチと昼寝と一泳ぎでスケジュールは一杯。なまけもの〜!
ヴァカンスだからね。

投稿者 Blue Wind : 02:09 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 地に臥して死す百合はまた咲くだろう。切りて待つのか幻の花。

黙々と白百合の花倒れれば薄日射すなり芝のうえにぞ
花の房よこたえて百合つぎつぎとさしろき蕾啓きゆくべし
背の高き百合の伸びたる倒れたる風のなき日に雨のなき日に
花の重みゆっくりと今切ろうかと迷ってみれば翌年気にす
地に臥して死す百合はまた咲くだろう。切りて待つのか幻の花。

投稿者 Blue Wind : 12:26 AM | コメント (0) | トラックバック

June 22, 2005

好きなコミックと思い出のコミック?

ぐわっ、とんでもないものがまわってきちゃいました。
不幸の手紙もねずみ講も止めてしまうわたくしですが、どうしませうか。ちなみに不幸の手紙に「幸福の手紙」って呼び名がついていたことを不意におもいだす。こういうものをまわしてくるのは・・・・ぐたさん ですよね、やはり(^_^.)

Q1:あなたのコミックの所持数は?

0。(Oではありません)

Q2:今読んでいるコミックは?

ない。

ちなみにたまにうちの娘のマンガを読もうと試みるんですが、ダメですね・・・あの巨大な瞳を見たとたんに目がやられちまって。

Q3:最後に買ったコミックは?

まるで覚えていないけど、おそらくは『Dr.スランプ』ではないかと・・・
少女漫画に飽きた頃、これと『マカロニほうれん荘』が好きで、ナイショで少年漫画を愛読しておりました。最初は弟が買ってきたやつをたまにコソコソ読んでいたんですけど、そのうちわたしのほうがどっぷり。

Q4:よく読む、または思い入れのあるコミック5つ

よく読むというものはもはやないけれど、思い入れのあるコミックというのもたくさんありすぎて、しかもタイトルを度忘れしているものも多いし、困りますねー♪

★一番好きな漫画家は西谷祥子でした。小学1年生くらいだったかな・・・すでに忘れてしまったけど、当時の少女漫画にはグラビアページがあり、そのページで西谷祥子さんのイラストを見たときの感動は忘れられません。身のほど知らずにも漫画家になりたい!って思ったほどです。(笑)

たぶん読めば思い出すだろうけど、あまりにも昔のことでタイトルもうろ覚えだけど、『こんにちはスザンヌ』 だったかな・・・マイ・フェア・レディやピグマリオンを連想するストーリー。メガネをかけて野暮ったい女の子がすごく美人に変身して登場するの。その時のスザンヌのおどおどした感じが印象的。西谷作品にはその手のモチーフが多かった気がする。『オリュンポスは笑う』も西谷祥子?

★このほかにも山岸涼子の『アラベスク』 とかね・・・
現実離れした手足の長さで楽しませてくださいました。このときにはバレリーナを夢見ていたのですが、よく考えてみると少女漫画で憧れた世界って全滅でした。悲しい・・・

★それでというわけではないのですが、大嫌いだったマンガは『パタリロ!』 。
おえっ、おえっ、おえっ。
魔夜峰央って男性?今でもわからん・・・しかも『パタリロ源氏物語!』だって・・・さすがにわたしは読んでいない。もう、『パタリロ』と『キャンディ・キャンディ』は大嫌いだったんだけどアニメでもやるし、ほんと腹立つ!
それでも当時はマンガ中毒でほとんどの少女漫画は読んでいたので、読みたくないのに読んでいました。いや、まじに嫌いだから飛ばしていたような記憶もある。

★それとは別にどうも1冊読むとクセになってしまう漫画家というのがいて、その代表は楳図かずお。気持ち悪くてしょうがないんだけど、つい読んでしまうという・・・

当時はつのだじろうさんの『うしろの百太郎』と並んでひそかに人気があった。ただし、わたしはこの手のマンガを自分で買ったという記憶がないので、おそらくは回し読みしていたような・・・

楳図かずおと言えば『漂流教室』 が有名だけど、そのほかにもちまちま恐怖マンガを描いていたような・・・ただし、『まことちゃん』は大嫌いでした。ばっちぃ。

★あまりにもえげつないところが続き、そのうち少女漫画も陸奥A子やくらもちふさこが登場し、身近な生活がマンガの世界に登場。ほっとする反面その頃から少女漫画から離れ、上述のアニメチックな少年漫画へ。そういう中でがんばっていたのが、大和和紀の『はいからさんが通る』 かな。

時代は大正デモクラシー。なんせ袴をはいて自転車に乗っているはいからさん。フィアンセの少尉。そのほかのキャラがすごいもの・・・お笑い系なんだけど、恋あり涙あり波乱万丈。最終回まで一気に読みたくなる。

それにしても残しておけばよかった。アマゾンで検索するとすごいプレミア。マンガって捨てちゃうのよね。あまりにも懐かしくてつい買っちゃう人の気持ちわかる。

で、これをまわすわけ?
今、これだけ書いたらあまりにも疲れてそれどころではない。
あとで考えよう。

立候補して幸福のコミックをまわしてくれる人っていないかな。

投稿者 Blue Wind : 11:26 AM | コメント (0) | トラックバック

結婚指輪と献体

結婚指輪で思い出すのが、ICUの星野 命先生。献体の話をしながら指輪を眺めている姿。結婚指輪と献体がどうして結びつくのか・・・記憶って不思議。

その昔、わたしが学生時代、独身の頃。どういう経緯でそういう話になったのかは思いだせないけど、授業中に献体の話になった。星野先生は死んだら肉体は単なる屍だから献体の手続きをしたいと言う。ところが妻が反対するからできないと指輪を眺めながらお話されていた。

「妻が泣くんですよ」

何気ないセリフだったけど、グサッときた。

その後、その話を当時医学生だったダンナに話した記憶がある。彼は解剖のことをゼクと呼ぶ。解剖実習のことではない。ゼクというのは案外簡単なものらしい。病巣部を採り出しホルマリンの中に入れ、その後に新聞紙を詰めておく。

献体というのは解剖実習用。

日本人の死生観からすると、死体にメスを入れるのを嫌がる人たちが多い。だから、臓器移植でも提供者が少ない。それは生まれ変わりを信じているのか、それとも仏様だから嫌なのか。

父が亡くなったとき、見送りにきてくれた看護婦さんが泣いていた。半ば病院を住まいにしていた父はとても人間臭い人であり、情にもろい人でもあり、めそめそとしてしまう。それでいて、組織を採るだけだと知っているのでゼクには協力した。生きている間にも4回もオペをしたわけだし、死んでからならなおさら痛みすらない。

移植に反対する人たちは多いけれども、わたし的には滑稽だと思っている。それは宗教とか主義とか医療などの問題ではく、金、という点であまりにも滑稽。

移植手術にいくら掛かるか?
2000万円掛かるとして、そのオペが成功するとは限らない。しかも成功したとしても予後がよいとは限らない。子どもだとすれば親は何をさしおいてでもやりたいだろう。でも、それが高齢の親だとしたらどうだろう?

でも、世の中にはいるのである・・・家を売ってでもやりたいと言う人が。でも、その話は結局親子で話し合ってボツになったらしい。お金がありあまっているのならやればいいけど、家を売って、というのは・・・もちろんその話の裏にはいろいろ相続をめぐる骨肉の争いがあり、一筋縄ではいきそうにないから売ってしまおうと思ったのかもしれない。

星野先生は結婚指輪をかっこよくはめていたけれども、ゼクをする立場のうちのダンナは結婚式の時にはめていただけ。わたしは毎日はめている。それでも妊娠中、ある日指が痛くなり、慌てて外した。石鹸をつけてむくんだ指から無理やり・・・あまりの痛さに涙が出た。その話を看護婦さんにしたら、どうして外しておかないんだと笑われた。指輪が抜けなくなり、それでいて妊娠で指がむくんで指の先が充血してしまい、中にはペンチで指輪を切った人もいるらしい。

わたし自身は、結婚指輪はすでに指の一部のようになっている。それでいて毎日はめているのでそれなりに傷んでくる。ダンナの指輪は使わないから傷まない。ある日、引越しの片づけをしている時、ダンナの指輪が出てきた。それを眺めてわたしが考えたのは、自分の指輪が古くなったらダンナの分をサイズを詰めてわたしが使おうかな・・・ってことだった。


(トラステへのTB : テーマ 「結婚指輪はつける? つけない?」)

投稿者 Blue Wind : 01:30 AM | コメント (0) | トラックバック

June 21, 2005

ふん。その2。

あーだるだる。
昨日の昼下がり、娘が発熱したということで学校へ迎えに行く。夜、少し熱が上がったもののずっと微熱。おそらくは疲れているのかも・・・

学校だけでも放課後練習を入れるとハードなのに、塾やら受験勉強やらきつい。それでもみんなやっていることだし、昔に比べればずいぶん楽なのではないかと思ったけど、朝から夜までハードな生活には違いない。

学校が週休二日制になったせいで、平日は昔に比べたら逆にもっとハードになったらしい。どこがゆとり教育なんだかわからない・・・しかも教科書が薄っぺらになったせいで、学校のカリキュラムは減ったものの受験勉強のカリキュラムは減らないらしく、だるだるな生活はつづく。

この先、子どもの学校のことがあるからと父親だけ単身赴任になっていたり、都内から茨城に通勤していたり、今まで他人事だと思っていたことがずっしりとのしかかる。そうなると男の子なんてまるで母親の言うことなどきかないため、塾をさぼってゲーセンへ行ってるとかね・・・いまだに大学に受からないとか、それでどちらの親が悪いとかあれにこれにとつまらないネタも多い。

たまに思うんだけど、子どもって父親がそれでいいって言えばいいんだな、って。父親が子の状態が気に入らないと夫婦喧嘩になる。母はフレキシブル。出来がよくてもわるくてもわが子はわが子だから子どもを庇うし・・・

結局、娘は地元の学校でないとあかんらしい。
理由?
要するに通学が大変でしょ?
そうなると娘が可哀想だからと学校の近くに住む。その結果、ダンナの仕事をどうするこうするでややこしくなるし、もしかするとダンナだけこちらに取り残される可能性が高い。それかダンナが通勤するか・・・わが家の場合、こういった場合必ず父さんが犠牲になると決まっているため、それを考えると憂鬱になるらしい。
それより彼は休日に娘を連れて遊びまわっているほうが幸せなんだから仕方ない。

ヴァカンス・・・
だるだるな生活。
おちびやミニピン。

娘がおバカになったら父親がわるい。
一生責任とって働いてもらいやしょう。

ふん。

投稿者 Blue Wind : 05:20 PM | コメント (0) | トラックバック

June 20, 2005

『不在の神は<風>の中に』 前島 誠著 (1)

前島 誠神父の『不在の神は<風>の中に』をこの前から読もうとして、見事に最初の部分で止まっている。理由はシンプルで、読み始めたとたんあまりにも惹き込まれるものを感じてしまったから。

「バスはバスが来る時に来る。」

当たり前のことなんだけど、日本人からすると当たり前の感覚ではない。電車もバスも時刻表があればそれに沿って運行しているのが当たり前だと思っているので、つい時刻表が気になる。ところが、イスラエルで乗り合いバスを待っている人たちは違う。優雅にお茶を楽しみながらのんびりバスを待つ。

その不思議さ・・・

つまり、バスにはバス自身の時間というものがあり、バスはバスが来る時に来る。

はあ?

この前、尼崎でとても恐ろしい事故があり、数分の遅れが惨事となってしまった。それはつまり数分でも遅れてはならないという義務感から生じた事故だったのだろうか。わたしにはもはや詳しいことも状況もわかりようがないけれども、どこか物理的な時間に人間のほうが合わせなくてはならないと思いながら生きていることによる事故。

この際だから、キリスト教のことは置いておき、ユダヤ人がいまだにメシアが現れることを待っているという事実にのみ考え合わせると、彼らが幾世紀にも渡ってメシアを待ち望んでいることだけはたしかで、その気の長さを思い合わせると、数分電車が遅れただけであんな大事故になるなんて予想だにできないかもしれない。

神には神の来る時間があるように、バスにもバスの来る時間があるらしい。

それがいつか?

それがわかったら誰も苦労しないだろう。と言わんばかりに彼らにとってはバスがいつ来るかなんて訊くだけ野暮な出来事らしい。いまだに数千年前の出来事に翻弄されながら生きているってどういう気分なんだろう。エルサレムには行ったことはないけど、イェフダ・アミハイの詩を読んでいるとダビデやソロモンの時代が今でも続いていることを感じざるを得ない。

わたしたちはたまたま今の時代に生きている。

生まれては死んで、生まれては死ぬ。そして、神を待つ。彼らの祖先も子孫も。一つわかっているのは星には寿命があり、そのうち地球も砕け散る日が来る。その時がいつなんてことはわからない。もしかすると地球の温暖化現象により、それはもっと早くやって来るかもしれない。その日、わたしたちが生きているかどうかなどということはわからないけれども、わたしたちの子孫はその日を迎えるだろう。

その日まで、生まれては死んで、生まれては死んでいく。

それでいて、人類が絶滅することはないと神さまが約束されたらしく、その日までわたしたちは何事もなかったかのように生き続けなければならない。

地球はいつ砕けるのですか?
その日まで人類は生きているのですか?
それとも大気圏に穴が開き、人間はとても酷い目に遭うのですか?
それとも大地震がやって来て、都市が滅んでしまうのでしょうか?
太平洋の島々は海の中に沈んでしまうのですか?
そして、神さまはいつやって来るのですか?
人間は死んだらどこへ行くのですか?
もっと語れば、サイババは8年で生まれ変わるそうですが、死んでそんなに早く生まれなければならないのでしょうか?
永遠の命って何ですか?
枯れた骨から生きた人間が復活するということは、枯れた木の葉から新芽が出るということですか?
わたしはとても気が短いのです。
人間が大地に変わり、そしてその中から再び生まれるなんてことはどうでもいいのです。
くりかえしくりかえし散っては集まり人となるのはどうしてですか?
肉体はくりかえしくりかえし何かが集まり再生され、そしてそれには寿命があり、わたしたちは死ななければならない。
それでいて、花は散り、花は咲く。
枯れた中から新芽が出る。
わたしには”時”がわかっていないようです。

投稿者 Blue Wind : 11:49 AM | コメント (0) | トラックバック

娘たちにつくす日

日曜日にも定例試験があり、年中塾から電話が掛ってくるようになるとさすがに今年は父の日どころではない?

娘にも訊いたところ、一応はわかっているらしいが、今年は母の日もしなかったから平等に父の日もしないらしい。母の日に何をしていたかと問われても記憶がない。日記を読んだら連休明けで塾から連絡があり、娘が塾の宿題をさぼっていると言われてしまったようで、やはりそれどころではない。

というわけで、昨日の主役の行動を振り返ると、娘が試験を受けに行っている間、マリの脱走防止のために庭のレンガをいくつか買い足しに行き、戻ってくるなりマリを動物病院へ連れて行き、さらに戻ってくるなり娘を迎えに行きがてらボウリングをやってきた。

このようにして考えると、父の日というのは父が娘たちにつくす日らしい・・・(汗

投稿者 Blue Wind : 09:06 AM | コメント (0) | トラックバック

June 19, 2005

遠い眼・・・・

そろそろ真面目に娘の学校を考えなくては・・・
どうも本気になれない。

本人は美大へ進学するつもりでいるので、よほどのことがなければこれは変更はなさそう。ところが塾の面談へ行ってきたら、あっさりつくばエクスプレスが開通するため、都内の私立を勧められてしまった。なんで都内が通学圏内になってしまうのだろうか。それでいて大学の付属だったら遠くてもかまわないのかもしれないけど、美大へ進学させるつもりならそれではかなり都合が悪い。

要するに、私立の場合は大学の付属か、進学校かどちらか。
明らかにうちの娘は自ら積極的に受験勉強をするタイプではない。
そのことにより、都内の女子校ってことになるらしい。

親はスクールバスがあるほうがありがたい・・・・うぅ。
なまじか遠くの学校へ通学させるということはスクールバスどころか駅までわたしが送迎しなければならない?
ぐわっ。
本末転倒・・・・
困った。
いっそのこと高校で美術科に進学させたほうが賢いかもしれん。
かといってまるきり勉強もしないようでは困る。

美大を卒業したダンナの姪も結局普通の会社に就職してしまった。それはそれでこの不景気な時代にありがたい話なのかもしれないし、どうせ何年かすれば結婚してしまうのだから、それを考えれば大学は単なる学歴の一つにすぎない。ってことは女子大を出ても変わらないよなぁ・・・正直な気持ち、親としては。

----あのう・・・芸術の道は険しいのでは?

なんでもええねん。孫に期待してるから。

夢をみた。
夢の中で娘が男の子を2人連れている。わたしは何となく娘には息子が2人いるのか、と思ってうれしかった。名前まで呼んでいて、ゆうくんとかずくん。夢の中ではわたしには2人の孫がいて、自分が娘だけだったから孫に男の子が2人いて幸せな気分に陥っていた。

われながら、名前まで呼んでいるところがすごい。
ゆうくんとかずくんに期待することにして、娘はなんでもいいや。(こらっ!)

遠い眼・・・・

投稿者 Blue Wind : 11:46 AM | コメント (0) | トラックバック

June 18, 2005

ふん。

久しぶりにガラスクルーを持ち出し、パソコンの画面を掃除する。あっけないほどピカピカになった。が、しかし・・・・よせばいいのについでにキーボードの間などもちょこちょこティッシュで拭いたため、入力がおかしい。こういう時には、調べる前にシステムを復元するに限る。だってわからないもの。うっかりパソコンの掃除なんてやった日にはいつもこれだ。

パソコンの場合は初期化が可能だし、システムも復元すれば多少のトラブルは解決してしまう。残念ながら人間の場合はそう簡単にはいかない。ちょっとやばくなったから時間を戻して・・・なーんてね。そういうわけにはいかないかわりに忘却機能が備わっているらしく、大抵のトラブルは時間が解決してくれるとばかりに放置するに限る。

が、しかし・・・・せっかく平和に暮らしているのに、過去が甦ることもある。

そんな風に書くとおおげさだけど、ダンナの健康が快復したとたんにまた過去が追いかけてくる。それはよいことなのかもしれない。ずっと第一線でやってきて、あまりにもしんどいから逃げる。その時にたまたま結核が見つかったので、大義名分というものが成立し、結局事が荒立たずすべてが解決してしまった。

健康上の理由で、しばらく楽な仕事をして・・・・?

一度楽な生活を覚えてしまうと、再びあの戦場のような生活に舞い戻れるだろうか?
だるだる。
だるだるだる。

別にあたしが働くわけじゃないからいいんだけどね・・・生活費を入れてくれればなんでも。一度だるだるの生活を覚えてしまうと、外へ出るのはしんどい。結局、だるだるのまま子を育て、犬の世話をし、つまらん読書をし、ネットをやって遊んでいるだけ。

他人の自己中を責めるわりには、自己中には自己中のよさというものがあり、世の中のことにも他人のことにも無頓着。それはある意味自分についても無頓着ということでもあり、家の中で好きなことをやり、気ままに暮らす。

遠藤周作の小説の中にも出てくるけれども、生活の顔と人生の顔という言葉。遠藤氏の場合は、人生の顔という点では母と妻だけと書いてあった。結局、男というのはそうやって生きていくようになっているらしい。妻のパワーというのは、いかにそういう生活に汚染された顔を跳ね返すかという強さなのかもしれない。

その結果、「あの人も嫌い、この人も嫌い」ということになる。

なんか・・・・・嫌いなら嫌いでいいらしい。ダンナの場合は仕事があるから、嫌いでも逃げられない関係というのも多々あり、そういう場合でもわたしが嫌っていると家の中にまでそういう関係が入り込まない。その結果、わが家は世間では恐妻家ということで通っている?

たまに思うんだけど、そりゃないんじゃない?
嫌いなら嫌いって自分ではっきり言えばいいのに・・・

まあ、それをはっきり言えるくらいなら誰も苦労しないよね。
苦労するのはダンナだけで充分でしょう・・・たぶん。

ふん。

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June 17, 2005

【短歌】 ひとりっこ 陽の翳るまで立つ母はひとときながく子らとすごせり

ひとりっこ あまやかすときあと十年 そのあとながきつきひを思う
旅立ちは吾子が先かとおもってもそのあとながきつきひは めげる
元気っておとななんだと気のせいか老いたるひとぞ日のながければ
あまえっこ 隠しておりしわが娘 すました瞳 よそゆきの顔
ひとりっこ 陽の翳るまで立つ母はひとときながく子らとすごせり

投稿者 Blue Wind : 11:25 PM | コメント (0) | トラックバック

日常通信

近頃、ブログを更新しようとすると娘がやってきてローリーをクリックしたがるので困る。
あーやだなー、そのうちブログをお引越ししようかと思ってしまう。インターネットは便利だけど、うっかり誰が読んでいるかわからないってところが怖い。(今さら・・)

近頃、娘のほうが手足が大きくなってきたような気がする。握力や腕力という点ではかなわないかも。まだ小学生と思っているうちにあと1年もしないうちに中学生になる。あと数年のうちに背を越され、わたしの服を勝手に着られ、そのうちわたしが娘のお下がりを着るようになったりして・・・(泣)

去年から無線LANのキットを買ってきてはあるのだけど、娘に勝手にいじられるのがいやで結局そのままになっている。小学生からネットにはまったら大変だし・・・(オイ!)

「お母さん、『風マリア』開いて」
「なんで?」
「ローリーをクリックするから」
「(・・・・・・・・)」

そのうちわたしのいないうちにわたしのブログを勝手に開いているのだろう・・・アイツは。

言っておくが(って誰にだよー!)、このブログはわたしのブログである。
ほしかったら自分でつくれ!
わたしのパソコンを使うな!!自分のがあるだろ!!!
わからない?
あたしだってまるでわからないところからやってんのよ!!!
親に甘えるな!!

投稿者 Blue Wind : 04:55 PM | コメント (0) | トラックバック

四半世紀もなんのその・・

結婚すると、どうしても裏方の仕事が多くなるから、大抵は家の中にいることが多いし、ご近所のことでも特別なことがないかぎりせいぜい立ち話や電話で用事を済ませてしまう。結婚する前は恋愛の話ばかり、結婚したら今度は家庭やご近所のことばかり・・・あとは学校とか?

そういう傾向は今だけではなく、どうやら死ぬまで続くらしい。うちの近所も結構65歳以上の人たちが住んでいるらしいけど、大抵は家の中にいることが多いのでめったに顔をあわせない。そのため民生委員の人が毎年調査に歩いている。その民生委員をしている人ですら60歳を過ぎているので驚く。

息子が、孫が、と言われても、よく考えたらそちらの世代のほうがわたしに近いことも多い。そして、彼女たちの息子の世代はすでに世の中ではオヤジと呼ばれている。

あーなんなんだ、この世代間ギャップ!

このため、今年はわたしが町内の仕事をしているのだけれど、何年経ってもわたしは若年層に含まれる。今回呼び出されたのは近所のご家庭でご不幸があり、お母さまが亡くなったらしいのだけれど、90歳を過ぎて離れて暮らしているらしく、町内でおくるみをするかしないかという話題。

あるいは、ずっと留守がちのお宅があるのだけれど、それは親の介護に行っているかららしい。とはいうものの介護する側も60歳を過ぎている。なんか遠い世界の出来事のようであり、それでいてわたしは若年ながらもすでに親を送った経験もあり、母も寝たきり。一応、共通の話題はあるんだけど、なんか複雑な眩暈に襲われそうになる。

いっそのこと民生委員にでもなろか?

いずれにせよ、年を取ったほうがいくらでも仕事があるらしいのはこの頃よく感じる。この前回ってきたコープの新人さんも60歳を過ぎた主婦の人だったし・・・「70歳を過ぎたら辞めるわ」などと言いながらいまだに元気にジュエリーショップで働いていたり・・・

若い頃には若い頃の生活があるように、加齢すればしたなりに生活はある。共通しているのは、ババアになればなるほどその他は傍役になっていってしまうということかも。良い意味で独立しているから、自己中は・・・

深く考えるのやめよう。
この際、四半世紀の年の差くらい忘れること。
それが高齢化社会と上手に付き合っていく方略かもしれない。

投稿者 Blue Wind : 02:47 AM | コメント (0) | トラックバック

June 16, 2005

『グラン・シャレ 夢の刻』 節子・クロソフスカ・ド・ローラ著



著者: 節子・クロソフスカ・ド・ローラ

タイトル: グラン・シャレ夢の刻(とき)―バルテュス追想-きもの花筐

もう、わたし自身は自分で着物が着られないどころかたためもしないので、単なるノスタルジー。子どもの頃から着物が嫌いで、お正月に振袖を着せられると、さっさと撮影したら脱いでしまう。苦しくてたまらん・・・

母が着物が好きな人だったので、わたしは苦労した。まず、着物だと歩き方が違う。草履を履いて普通に歩こうとするとドタドタした感じが出てしまうし、その昔、日舞の名取をしていた友達がゴルフをすると、歩く時にスパイクが芝をひきずるので芝を傷つけてしまうとコーチに注意されていたし、それくらい違う。

わたしは骨盤のせいで歩き方を練習し、矯正した。そのため、小学校の頃までは内股だったのがいつのまにか外股になっている。洋服だとそっちのほうが綺麗だから。

体系も寸胴なくらいなほうが着物が似合う。このため今は胸をつぶす下着まで売っている。しかも、帯がつぶれないようにタオルを何本も入れなければならない。今風の着付けだと、はしょっている部分を帯の裏側にほとんど隠して足を長く見せるらしい。優雅な笑顔の裏側で、こんな思いをしてまで堪えなければならない。

そのため、娘が7歳の七五三で着物が着てみたいと言い出した時にはぎょえっとなった。母は喜んでいたけどね・・・娘が着物を着ると、わたしの子供の頃にそっくりなので気持ち悪い。それで喜んでいたのは母と娘である。

それでも、節子夫人が着物を着て上品に微笑んでいる姿はいかにも日本女性という感じでノスタルジーすら感じてしまう。この前、カフェで『家庭画報』を渡されてパラパラとページをめくっていたら、『グラン・シャレ 夢の刻』の広告があった。今までにも何回か連載を読んだことがある。画家バルテュスと結婚し、ローマで15年間暮らし、現在はスイスのグラン・シャレで暮らしている節子夫人のエッセイ。

若い頃から、ずっと着物だったんだなーと不思議な気分。長い外国生活の中でずっと着物を着て暮らしていたというところがすごい。それが少しも不自然ではないところがさらに尊敬。

わたしの世代はどちらかというと、旧い文化を否定する世代。逆に考えれば節子夫人がずっと着物で過ごしていたというのは日本を長く離れていたからではないかという気もする。ノスタルジックな日本の姿が変わらずに存在している。それと、ヨーロッパという土壌が旧い伝統をそのまま受け入れてくれるキャパがあり、逆に自分がもっと日本を大切にするべきではないかという気分にさせられてしまう。

まだ読んでないどころか買ってもいないのだけれど、書評を書く。雑誌で読んだからいいかな・・と思いつつ、次回のアマゾンの発注の中には入っているだろう。未読本がたまっている中、わたしは気まぐれ。

投稿者 Blue Wind : 11:03 AM | コメント (0) | トラックバック

マイケルは無罪?

このところ遠藤周作ばかり読んでいるせいか、どうも「善悪不二=人間臭さ」ということばかり考えてしまう。あっさり語れば、善き人は神さまだけ、というのが真実。なのに、信じていたとか、裏切られたとか、その手の話がいつも蔓延しているのが世の常。

インドの親切な女の子たちに感謝していたら、最後には結局金を出せと言われたというのは軽い部類で、ミャンマーの坊さんに襲われそうになったバックパッカーの女の子の話や身近なところではこのところ相次ぐ教師の性犯罪とか?

とうとうマイケル・ジャクソンも無罪になったし・・・
すっきりしない話ではあるけど、無罪を勝ち取るために21億円の弁護料って考えたら、なんかすごくバカらしくなってしまう。借金地獄に苦しんでいるマイケルの今後のほうが気になるところ。しかも、世間がまるきり彼がシロとは考えていないところがミソでして・・・

ライトなところでは、澤山氏のブログ小説。(今週は、「蜃気楼に浮ぶ顔」
雀荘に来ていた教師がソープ嬢と出来てしまい、子どもが出来たとたん彼女を棄ててしまったという話。

ストーリーがどうたらこうたらと言うより、この手の話にまるで驚かない自分がいやだ。小説だからとか、フィクションで顔を見ないからだとか、というわけではなく、世の中は、なんであんなのが教師をやってるんだ?ということが少なからずあり、今は保護者の立場だから声を大にして心の中でさえ言わなくなっただけで、大学教授でさえセクハラでクビになる時代ですから、驚かない自分のほうがいやですね。元教師をしていた友人の話にもまるで反応しない自分がいやだ。

ある大学教師が言っていたことには、「生徒は商品だ。商品に手をつけるほうがバカだ。」
本音なんだろうな・・・

はたまたホステスさんのブログを読んでいたら、安物の靴を買ってやると言われ、かっち〜んときて切れたという話が書いてあった。ホステスでなくても女なら誰でも切れるだろう。そういう気がした。

そういう話が続く中で、自分的にはぷぷぷ・・と笑ってしまった、nattoさんの夢
記事のストーリーはあまりにも整理されてシンプルになっているけれど、実際にはもっと混沌とした悪夢なのかもしれない。いろいろな人たちの顔が現れ変化し翻弄されながら戦い続ける。

でも、結局はうつそみ。うつそみって何かわからないけど、夢の中に現れるのはすべて分身。人間の心って複雑で、いつも気をつけないとどこからどこまでが自分なのかわからなくなるほど混沌としている。自分の怒りだと思っていたら実はそれは他者の感情だったり・・・

というわけで、登場人物はすべて自分の分身であり、他者の分身であり、それを客観視する自分と主観的に戦う自分とが登場する。

その昔、悪夢に苦しんでいる友達が、それを地雷と呼んでいた。

やっぱ、「テレーズ・デスケルー」を読むしかないかもしれない。たしかモーリヤック著作集の第1巻は読んだ気がするからこの際第2巻から読み始めようか。時間はあるんだけど、気分の問題のほうが大きい。

投稿者 Blue Wind : 12:37 AM | コメント (0) | トラックバック

June 15, 2005

草木は眠る

草木を愛するというのは、犬や猫を愛するのと似ている。彼らの長所は何のために生きているのかわからないとか、その手の人間特有の戯言を発さないところ。とは言うものの、大抵は生きるのに一生懸命で、その手の類を考えるのは鬱と呼ばれる人たちだけなのかもしれない。だから、鬱は贅沢病と言われてしまう。

そのくせ、わたしはあの少年の声を忘れない。あれは土浦に住んでいた頃、マンションの駐車場から響いてきたものらしい。当時わたしは娘の出産を控え、そのマンションの一番上の階に住んでいた。なのに聴こえるのだもの・・・その少年は何度も何度も「お父さん、やめてー」と叫んでいたので、わたしは暴力でも振るわれているのではないかと思った。ところが・・・

その声が聴こえなくなったとたんに救急車のサイレンが近づき、止まった。

ほっとして下へ降りてみる。集まってきた人たちの話から察するに、どうやら自殺。車の中で一酸化中毒を起こし、救急車で運ばれたものの助からなかったらしい。数日後、ひっそりとお葬式をやっていた。どうしてお葬式をしているのがわかったかといえば、やたらと2階で降りる人たちが多かったから。

その時の正直な感想としては、わたしは日々健やかに過ごそうと胎教に励んでおり、その手の精神的ダメージからもしお腹の中の赤ちゃんに悪い影響を与えたらどうなるのだろうかと、むしろそちらのほうが気がかりだった。

そんなものかもしれない。

初代マリは病気だからずっと抱っこしていたつもりだったけど、今度のマリも結局ずっと抱っこしている。無防備な寝顔を見ているとほっとする。

その後、あの少年のトラウマを考えるとぞっとする。が、しかし・・・マリもオトも、庭の草木も人間特有の戯言を発さない。素晴らしい。

わたしは人間嫌いというわけではないけれど、人間特有の戯言にはやすらぎを感じない。

投稿者 Blue Wind : 12:22 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 小雨には濡れてしまえと薔薇は咲く。天高く咲き、地に沿いつ咲く。

あざやかにネオンか夏か思い出せ、夜は闇路をひっそり照らす。
闇の色カラスの羽もぬばたまの夜には消えて朝つゆを待つ
たまさかに歌詠みになる空模様あっけらかんと梅雨晴れの灰
うっすらと風に吹かれて立ち話子らの次には犬猫のオス
女の子ひげを抜くのか蹴飛ばすか災難つづく小犬のワルツ

廃墟には花咲くつつじよく似合うとぎれとぎれに肩落ちの花
とんがって新芽の夏は垣根さえ花・花・花に隠れて伸びつ
混沌はマリかマリアかアンジェラか・・・ややこしきかな、命のワルツ。

6月は真夏の光春の肌やんわりとした風の吹く道
小雨には濡れてしまえと薔薇は咲く。天高く咲き、地に沿いつ咲く。

投稿者 Blue Wind : 12:49 AM | コメント (0) | トラックバック

発露

いつからだろう・・・
一体いつから自分がその手の代物を排除するようになったのか、よく思い出せない。少なくても大学へ入ってからは、宗教その他諸々オカルトを含めてその手の代物を避ける傾向が高くなる。

このことはかなり矛盾に満ちているだろう・・・
少なくても修道院の大学なのだから、年中その手の話題には満ちあふれているし、実際、毎日ミサ曲を歌わされていたようなものだし、信仰が日常的に落ちてはいる。それでいてわたし個人としては、その手の類を避けてきたわけで、その理由としていくつか考えられるものの自分でも明確な理由はわからない。

名目上は文学部の学生だったけれども、わたしはあまり文学にも哲学にも興味が持てず、ひたすら愛想のない世界で数字と戯れていたような記憶がある。おりしも時代はまだブラックボックスという言葉が使われており、心理学会も行動主義が主流。認知心理学が台頭してきたのはわたしが大学院へ入ってから。つまり、人間の「行動」を研究するのが心理学と教えられ、もっぱらアウトプットされた反応だけを扱うことにわたしはあまりにも慣れている。

実験で実証できない事柄は扱わない。つまり、神や神秘主義者の好むようなこと、あるいは哲学で扱うような事柄を含め、ユングもフロイトも心理学だという感覚で読んだことはない。バリバリの理系の人たちにすれば、フロイトは哲学だと言う。それでいて、哲学の人たちからすればどうなんだろう。精神医学というくらいだから、どちらかと言えば心理学の範疇に含めて捉えているのではないだろうか。

正直に語れば、わたしの目から見ても、青山圭秀さんはバリバリの先鋒というか、神秘主義者であるがゆえに物理学を専攻したという気持ちがよくわかる。さらに、神が見えないからこそ聖書学者になった前島誠神父さまのことも何となく理解できるような気がする。

否定しても否定してもわたしは神を信じている。
これって今の時代にはかなりきつい。
でも、考えてみれば、神父さんやお坊さんを考えれば、世の中自体がそんなものなのかもしれないと思う。つまり、一生懸命に否定する傍らで、死者は弔うのである。人間とはなんて矛盾に満ちた代物なんだろう。神仏を信じる気持ちがない人たちでも、聖職者が神や仏を信じていないとなったらいささかの不満を覚えるだろう。
バカだ。
人間というのはなんてバカだろうって思ってしまう。

そういうバカは自分だけだろうと思っていたら、実はおまえもかーということはめずらしくもなんともない。一生懸命に信仰や題目に目覚めている人のほうが実は信仰心がないような気がすることもめずらしくない。ってことは露出が多いほうが嘘っぽい。

遠藤周作氏がどうして小説を書いていたのか、少し理解できるようになった。というのは、例えば意識という言葉すら行動主義が全盛期の頃にはブラックボックスの中に閉じ込められていたのである。つまり、そんなことを心理学者が言えば完全にバカにされるという時代。

人間なんだから誰でも生きている。精神もあるだろう。ってことは、それが意識であるという部分は誰でも持っているはず。なのに、その部分はブラックボックスだから扱わない。

そのことに対して不満があったかどうか・・・・
学部の頃は、かなり不満だったかもしれない。
が、しかし・・・・
実験や研究には手続きというものがあり、妥当性にこだわれば排除せざるを得ない部分は思い切って排除しなければならない、という宿命に慣れてしまうと、さほど迷わなくなる。分野は違っても大なり小なりそういうものなんだろうな。そして、本当に大切なものは鍵をかけてしまっておくように、どこか人目につかないところに隠す。

小説はフィクションである。
フィクションを前提としているから許される部分が大きい。
研究はそういうわけにはいかないもの・・・
そして、どうしてわたしが研究を進路に選択したかと言えば、それがわたしの鎧となり、わたしを守ってくれるからだ。

ユングが自分の神秘主義者的な部分を隠すためにあのややこしいユング心理学が構築されたのかと思うと、なんであれほどまでも読みにくくコムズカシク書かれているのか少し理解できた。ユングの理解者たちはいともたやすく解説してくれるけど、ユング自身の著作物の難解さといったら苛々するくらいだ。つまりは、それくらいガードを堅くしなければならない理由・・・

わたしはすでに神がいるとかいないとか、信じるとか信じないとか、キリスト教とか仏教とか、西洋とか東洋とか、すべてのことに対してどうでもいいという投げやりな部分を抱えている。投げやりというのは正しい言い方ではないかもしれないけど、いわば「だから何なのさ」的に突き放すことに慣れている。つまり、神秘主義で語らず、それを何らかのアウトプットしやすい方法に置き換えて語るほうが遥かに楽だからだ。数値は素晴らしいとすら感じる。

他人と議論するパーツにおいては用語を用いる。それ以外のパーツは沈黙する。それらはわたしの中ではすでに違う。つまり、余計な露出を避けるために、わたしには専門用語が必要だったのかもしれないし、どうしてそんなに回りくどさが必要かといえば、それだけ世の中が唯物的で露出されたものだけしか必要としないということなのかもしれない。

信仰心が持てない人ほど変な意味で神秘主義にのめりこむ。だからといって、わたしは彼らに何かを言ってもムダだということを承知している。というわけで、傲慢にならない程度に逃げるに越したことはない。

無宗教ってどういうことなのかというと、鎧なんだろう。他人に踏み込まれたくない精神領域があるがゆえに、あえて露出を避ける。そこが無神論とは大きく違う。

でも、まあ、完璧なブラックボックス排除の世界で生きていたがゆえに、わたしは極めて普通の人なのである。変にオカルトや神秘主義に感知することなく、その手の人たちと一緒にされるのは非常に自分でも苦痛だし、それでいてわたしは神秘主義者でもある。バランスなのかもしれない、生きていく上での。

・・・・・・・・・というわけで、わたしは歌人になったのかも。
どこかに発露がないと、つらい。

投稿者 Blue Wind : 12:18 AM | コメント (0) | トラックバック

June 14, 2005

『「深い河」をさぐる』 遠藤周作著 (3)

ようやく遠藤周作の『「深い河」をさぐる』 を読み終えた。読み出すと速い。ある種のごつごつとした異物感を抱えながら通読する。異物感を呑み干すのに時間がかかる。

正直に語れば、「だから何なのさ」というのが率直な感想。ちなみに「だから何なのさ」というのは児童文学の先生の口癖だった。彼女は小説を読みながらそんなことを考えるらしい。「だから何なのさ」から始まり、「そういうことか」にたどり着くまでが小説なのかもしれないし、「そういうことか」をいくつかのセリフやセンテンスから拾う。

科学と宗教との融合、キリスト教と仏教、宇宙との交信、輪廻転生、シンクロニティ。インドから拾おうとしたのがそういう混沌とした世界だとすると、もうこの手の本が流行した時代は去り、その手の神秘主義に対してわたしは「だから何なのさ」的な飽和を感じている。

実は、今の時代のほうが特殊なのである。人間の霊性やスピリチュアルな側面を否定する風潮というのがどこか新しい発想であり、逆に今はサイエンスという名前の鎖に繋がれており、それはむしろ中世での魔女狩りが学問の世界でなされているかのようで、わたしみたいに実験実証主義的な心理学にどっぷりつかって生きてきた人間にとっては、宗教と同じくらい窒息感を感じずにはいられない。

それは全面的に禁煙になっている空港や病院が今の時代の一般的な風潮だとすれば、とても3分以上は居られそうにない喫煙室の中に閉じ込められているのがスピリチュアルな世界。理屈ではなかなか説明のつかない部分は狭い空間に押し込められ、神秘主義はあたかも煙草の煙のように排除され、濃厚な世界に閉じ込められている。

要するに、インドは喫煙の許可されたアウトドアみたいなもので、死も生もいっしょくたに大気中に浮いている。それを自然な感じと語るというのは、いかにも不自然な世界にわたしたちが生きているということを自覚するようなもので、このようにラフでプライベートな世界においては、自由に煙草が吸えるというだけのようなものなのかも。

だから、煙草が嫌いな人たちにとってはどこで吸っても嫌なものだろうし、喫煙者にとっては吸える場所を探すだけのことだろうし、インドはそういう意味では誰も煙草が体が悪いといって騒ぐ人たちがいないだけさっぱりしているだけなんだろうし、煙草1本のことで死ぬの生きるのうるさい時代が素晴らしいとは思えないし、世の中がおおげさすぎ、というのが率直な感想。

投稿者 Blue Wind : 08:25 AM | コメント (0) | トラックバック

June 13, 2005

茶の間ノベルズ

いまどき、「純文学かライトノベルか?」などと悩むほうがどうかしていると思うんだけど、正直、わたしの年になるとさすがに子どもの頃にはのめりこんだマンガやアニメにも興味がなくなるし、さすがにわたしの年でコバルトブックスなんて読みません。もっぱら世代交代して、その手の類の代物は娘の手へ。そういうのはライトノベルでも直木賞が出たとか出ないとかそういうことではなく、興味の問題なんだと思う。

どうしてそのようなことを突然思ったのかというと、久しぶりに村松恒平さんのメルマガが届いたから。今回はライトノベル作家を目指している人が質問者。

質問者によると、どうも彼は対人恐怖症で、ネットで小説を発表し、そこで得られる批評にのめりこみすぎているきらいがあるらしく、今回は回答者である村松氏もかなりシビア。ライトノベルに対する批判・評価の変化まではともかく、ネットというものが単に嫌いなのではないかと思えるほどシビア。

たまに思うんだけどね・・・
混同するなって。

わたしね、家でネットをしていて何が一番いやと言って、うまく説明できないけど、外へ出ないことを指摘されること。ほんじゃ、わたし以外の専業主婦の人たちが一日中出歩いているという話はめったになく、大抵は家事や育児、たまに習い事やPTAで外出したりする程度。そういう余暇を以前はテレビや読書に当てていた人たちが多かったのではないかと思うけど、今の時代はネットがあるから「たまたまネットをやっている派」という人も多い。

そういう家庭の主婦の情報源が大昔は一家の主だったのかもしれないし、今はテレビや新聞・雑誌、それにインターネットが加わっただけ。ほかには読書とか?

本があまり売れなくなってきた背景には、実はネットの手軽さがあるのかもしれない。それはしみじみ思った・・・テレビで花田家のインタビュー・シーンが放映されるとそれに関する記事がど〜っとネットに出没する。そうすると、正直、テレビを観たり雑誌を買ったりするより、ネットをサーフィンしているだけで満腹状態になる。しかも食べすぎ感も。

今回、ネット書評についても村松氏は厳しい。

わたしにも身に覚えがある。読んでなくても記事にはできるから。もっと酷い場合にはネットだとアマゾンのレビューだけを並べてもコンテンツになってしまうし、それでも立派な本の紹介ページにはなるだろう。そういう感覚ってどこかテレビの影響と言えなくもない。あるいはショッピング・カタログとか?

わたしはたまたま時間があるので、読もうと思えばじ〜っくり純文学と戯れることも可能。でも、正直、5年前には無理だった。理由は子どもが小さいから。

すごくバカらしくなっちゃうんだけどね、わたしがスリランカへボランティアに行くなんて不可能です。ダンナや子どもを棄てて行くわけ? ダンナはともかく娘が小さいうちには長く家を空けるなんてことは無理。留学するにも子連れの時代。

かといって、この前からダウンロードしようかどうか迷っているんだけど、そこまでの時間は無さそうなのでそのままになっているゲームがある。

慶長さんの『WASHINTON 通信 2.1』で紹介されていた国連が作成したゲーム

これはネタ元の記事を読んでいただいたほうがわたしが駄文を書くよりわかりやすい。つまり・・・・食糧支援がこんなに大変な仕事だなんて想像もしていなかったから、たしかにそういう意味ではクリックするだけのサイトなんて意味はないかもしれないとすら感じてしまうほど。それでいて本当の趣旨は、わずかでもそういう大変さを伝えることがさらに大変だから国連もこんなゲームを作成しているのだろう。

手頃な情報伝達や手軽なボランティア活動はネットの良さである。世の中にはヘビーな活動家も多いけど、それでいてそれを支えているのは実は茶の間の普通の人々。そうやって茶の間に座りながら、ネットをやっていてどこが悪いのかなーってたまに思う。

わたしが混同するなと言いたいのは、そうやって茶の間に座っている人たちにも生業があり、その人たちすべてが対人恐怖症で作家を希望しているわけではないし、自分でボランティアに行く気がないからクリックだけしているわけではないということ。

なんかさ・・・・
カチンとくることが多くて。
その大半は、実際に行って何かするわけじゃないとか、リアルとかバーチャルとか、作家で飯を食うとか食わないとか、舞台とか店とか。
ぷわ〜っと退屈になる話題ばかり。

まあ、たしかに実際に自分が取材したわけでもなくてもぷわ〜っと広がるネタ。読んだわけでもないのに紹介される書籍。つまらない情報ばかりが飛び交う。それでいて世の中はライトノベル。ネット。ゲーム。

そういう時代なんだよなぁ・・・・

投稿者 Blue Wind : 11:35 AM | コメント (0) | トラックバック

June 12, 2005

”インドの老婆”

うちの近所に、わたしがこの前”インドの老婆”と名付けた猫が住んでいる。どうしてそんなつまらない名前を思いついたかと言えば、たまたま娘を学校まで迎えに行く途中に通った道路に彼女?が寝ており、違法駐車をしている車の陰でゆうゆうとこちらを睨みつけていたから。

あの猫があんなに貧相でやせっぽちなことに初めて気がついた。ほとんどベージュに近い白猫で、顔の一部に赤毛が混じっている。大抵は夜に徘徊しており、昼間姿を見せることのほうがめずらしい。近所の公園付近や空き地の中に寝ていることが多い。

公園の前を徐行しながら走っていると、ゆうゆうと前を横切るいやな猫。大抵は夕暮れ時に出没するため、今までまじまじと眺めたことはなかった。

どうしていやな猫かというと、母が昔よく言っていたから・・・猫に前を横切られると縁起が悪いって。わたしはそれを信じているわけではないけど、猫が横切ると願い事が叶わないとかね・・・そんなことを言われたら誰でもいやになるだろう。

逆に考えると、猫が目の前を横切るとき、わたしは今自分が何を願っているのかを考えるようになってしまった。

それがまたいやな感覚。何を願っているのかを考えるまではいいんだけど、たまたま思いついたとして、母的ジンクスから言えば、それが叶わないんだから・・・だったら何も思いつかないほうがいい。

よく行くペットショップに、アビシニアンがいる。ペットショップだからいつも犬や猫はそれなりにいるんだけど、何となく気になる猫。ひそかに飼おうかと思っているけど、そのうち売れてしまうだろう。ルディという色なのかな・・・まるで野良猫カラーで、なんであの猫があんなに高いのか不思議になる。まるでうちの近所の野良に対する冒瀆のような気がするくらいだ。

まだウッドデッキがあり、裏の奥さんが存命だった頃には、うちの庭にはシロという白猫がよく寝いていた。今はでっぷり太り、ご主人が家のなかで飼っているらしく、めったに外には出てこない。出てきたとしても抱っこされていたりして、あんなに猫を飼うのをいやがっていたのに不思議になるくらいだ。

シロもいい加減に高齢だろう。最初は野良猫で、それでいて餌はキャットフードしか食べないと裏の奥さんが言っていた。残り物など出しておいても魚を出しておいてもまるで食べないらしい。可愛い顔をしていたのでそれなりに餌場あるせいかと思っていたけど、いつの間にか裏の家の猫になっていた。

シロとインドの老婆を比較しても仕方ないけど、どっちもおそらくは年寄りだからね・・・何となく比較してしまう。色も白だし、どっちも。そこにさらにペットショップのアビシニアンを加えて考察するに、やっぱ猫にも人生ならぬ猫生があるなーと思ってしまう。

初代マリアの葬儀の帰り道、前を走っていた車が犬を轢いた。大通りの中央分離帯から犬が飛び出してきた。ひき逃げ。うちは隣の車線にいたのであっという間に通過。轢いた車のすぐ後ろにダンプが走っており、とてもじゃないけど現場に戻る勇気はなかった。

その時も複雑な気分だった。マリの死で悲嘆にくれていたのに、ひき逃げされた犬を見て、複雑な気分に襲われていた。もしうちの車が轢いていたらどうだったかな・・とか。当日の火葬には間に合いそうにない。しかも、まだ息があったとしたら? 

マリはうちの子だから・・・って思った。

わたしは決して博愛主義者ではない。マルクスも嫌いだ。インドの老婆を見ても可哀想だとも思わない。でも、マリも可哀想だったけど、ひき逃げされた犬はもっと憐れだった。

インドの話を考えると鬱々するでしょ?

そういう時には、わたしはインドの老婆のあのふてぶてしい顔を思い出すことにした。やっぱ、野良だからたくましいし、やせっぽちでもビクともしない。それでいて騙されて、弱っているのかと思ってしまうくらいゆうゆうと道路に寝ている。

ペットショップのアビシニアンもそれなりに憎たらしい。にゃあと小さな牙を向けてくる。おそらくは飼えばわたしの目の前をゆうゆうと横切り、好きな場所に寝転び、どうせオトと喧嘩ばかりしているだろう。ちなみに、マリがわるさんぼうですぐにオトを噛もうとちょっかい出すためにオトはかなり我慢している。そのうち家中を走り回って、近頃うるさい。オトを叱ろうとすると、どうも悪いのはマリのほうみたいで・・・

わたしの使う”人間臭い”という言葉は、まるで彼らのためにあるかのよう・・・

投稿者 Blue Wind : 01:11 PM | コメント (0) | トラックバック

『「深い河」をさぐる』 遠藤周作著 (2)

日曜日、暑い。
どうして入梅するとこんなによく晴れるのだろう。
朝から庭仕事をやり、一息つく。

遠藤周作の『「深い河」をさぐる』 をパラパラめくる。
どうも最初から読もうとすると読む気がなくなることに気づき、パラパラと興味のあるところだけ拾い読み。

「奇蹟は何を教えてくれるのか?」という章を読む。理学者・医学者の青山圭秀さんとの対談。サイババの奇蹟や、アガスティアの葉に書かれた予言について。

サイババはあまりにも有名だけど、アガスティアの葉のほうがインドっぽい。今から何千年も昔、アガスティアという聖人がシヴァ神から世界の将来について聞いてヤシの葉に記したものらしい。予言というとノストラダムス的なものを連想してしまうけど、アガスティアのもっともらしいところは個人についての予言というところかも。

タミール語で書かれた予言書を専門に読む家系が何千年も続いていて、行くと親指の指紋を照合して本人かどうかを確認するという・・・

はあ?(さすがカースト制・・・と言うべきか)

何千年も昔に書かれたものなのにすでに指紋が記され、しかも青山さんの場合、家族の名前から仕事からその予言書を読みに行った年齢までピタリ当たっている? それだけではなく、いつどのように死を迎え、次に生まれ変わるのがいつどこかまで記されているらしい。

倉庫のなかに何十万巻もの予言書があり、おびただしいほどの人たちの人生が予言されているらしい。占いのようなものなのかも、と思っても、占いと決定的に違うのはそれが個人の記録ということであり、指紋から名前からそこへ訪れる時期まで記されているのだもの・・・占ってもらおうとしてそこへ訪れるのとはまるで意味が違う。

しかも、青山さんの場合、科学者だからね・・・本来ならそういう神秘主義を否定する立場にあるような気がするのだけれど、研究を通してますます神秘な世界にのめりこむような感覚も理解できなくもない。それくらい生命はミステリアス。

サイババといい、アガスティアといい、インドはどこまでもミステリアス。でも、逆に考えれば、神秘主義を最初から認めていれば大抵のことは驚くに値しない。インドの人口が10億人として、地球上の人口が62億人程度らしいので約6人に1人がインド人ということになる。すべてのインド人が神秘主義を肯定していると仮定すると6人に1人が信じていることを簡単に否定するというのも変な話である。

結局、環境因子や受けた教育で凝り固まった脳で考えるから世界がひっくり返るような驚きに満ちあふれるわけで、最初から柔軟な思考を保っていれば大抵のことはそんなものかもしれないと通過してしまう。

----インドへ行ってみたい?

行こうと思えば可能だろうけど、今は積極的に行きたいとは思わない。特に深い意味はないけど、そういう気がする。去年のイタリアも、最初はフランスへ行く予定だったのに、いろいろあって(ダンナの休みの都合待ちをしているとか・・)、気が付けば条件に合う航空券がペルージャ往復しか取れなかった。ダンナが遅れて到着することになり、香港で酷い目にあって以来夜の大空港を彼は嫌う。そういう点ではわたしよりだらしがないと思うのだけれど・・・

要するに、青山さんの場合も急にインドに行きたくなり、無理に口実をつくって出かけた。そういう感覚ってうまく説明できないけど、そこへ行く運命のようなものに引き摺られているような気さえする。まあ、何千年も昔の予言書にすでに彼がそこへ何歳で行くことになっているのか書かれていれば、予言書が先にあり、それに適応した人間が後から出現すると考えたほうがわかりやすい。

聖書もそうだし・・・


■関連書籍


著者: 青山 圭秀
タイトル: アガスティアの葉

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June 11, 2005

【今日の短歌】 バケツ裏びっしり並ぶなめくじにとりおとしたる驚きの雨

つゆくさのひっそりと咲くしづけさをあらくさのなかみいだしぬ朝
あおあおと梅雨の季節のおとづれにあおいろきいろまじりて咲きぬ
行司さえさしちがえたる諍いに今が勝負と貝は泳ぎぬ
おきみやげ小さな雨はうららかにぱらぱらと降りぱらぱらと止む
テレビ無き今日は平和なつゆぞらに陽はさしもどり夏はちかづく

バケツ裏びっしり並ぶなめくじにとりおとしたる驚きの雨

尾のながき鳥は向こうを向きながらわたしの前をゆうゆうと舞う
やせっぽち道路にすわる白猫はこちらを見ては寝ているばかり
ゆうゆうと道を横切る夜猫も朝にはごろり道に寝転び
つゆぞらにゆっくりとした陽がさせば猫も転がる水のなき路

Sサイズ来年吾子は着れるかと中途半端な10代になり

転がりぬ猫を眺めてしみじみとアビシニアンと比べてみたり
にゃあと鳴く小さな牙を浮かせては吾子に似てるとアビシニアンみし
のらねこと毛並みの揃うアビシニアン、道路のうえはインドの老婆
箱のなか牙もちあぐるアビシニアン、みちのうえにはインドの老婆
にゃあにゃあと猫くらべしてかんがえる、人と暮らしとインドの老婆

投稿者 Blue Wind : 11:12 AM | コメント (0) | トラックバック

相撲道とちゃんこ鍋

ネットは怖いな・・・・・
このところうちのブログ(風マリア)の検索キーワードのトップがとうとう「NEET」を抜いて「花田家」になっている。あまりにもいやな予感がしたので、Googleで調べたらトップになっていた。ちなみにYahooでは14位。

管理人の希望としては、もっと「短歌」とかさ・・・「遠藤周作」とかさ・・・うちのブログっぽいことで検索の上位を狙いたい。このところどうも作歌をさぼっているのが原因なのかも。ちょっとさぼってテレビを観ながらブログを更新していたほうがタイムリーな話題にぶつかる。それが世間・・・

昨日もテレビを眺めていたら、花田家の元家政婦という人のインタビュー。兄弟喧嘩や部屋の様子、それを憲子さんに案内されて見せられたとか。そして、若乃花が景子さんの悪口を盛んに言っていたという話。

キーワードはタレント。

この前、美空ひばりのドラマを観ていたら、ひばりの父親が血相を変えて怒る。娘が芸人になるなんてとんでもないと。少しでも誹謗・中傷されると父親が歌手を辞めろと怒り、母親がその記事元の人に怒鳴りこむ。

そーなんだよね・・・世間ってそういう風潮が今でも残っている。

アナウンサーならいいんだよね・・・
今の時代だと、どこに違いがあるのかわからないけど。

結局、若乃花が相撲協会から離れてタレントになった時、父親や貴乃花はすごく反対したのではないかと。母親は元女優だったので逆に若乃花がタレントになることを奨励する。それっていわば世間に対する意地のような気がするけど、どうなんだろう。

貴乃花の宮沢りえとの婚約破棄騒動。
その時も、キーワードはタレント。

わたし、今でも覚えている。たしか何で読んだか聞いたか忘れたけど、りえママが、「うちのりえはふんどし一つで1億稼ぐ」と言って喧嘩したという話。その前後の文脈がわからないからなんとも言えないけど、力士も裸一貫まわし一つで土俵には金が落ちているという世界・・・そういう世界にも伝統や格式というものがあり、国技であるがゆえにどこか保守であることは否めない。

そういう世界で、仕事を辞めて、おかみさんになるとか?

さてさて・・・・

人生観の違いなんだろうな。兄弟喧嘩やその他諸々。

力士はタレントではない。
今の時代、どこが違うのかよくわからないけど。

相撲道に精進したい、という言葉の意味をようやく理解した。

まあ、世間の構成メンバーの一人としては、「Chanko Dining 若」というお店を発見したので行ってみたい。ただし、だるだるなので通販でもいいかな、と。

いい加減・・・

仲が悪くてもいいのよね。相撲道に精進して強くなり、生涯その世界で生きていきたい人たちもいれば、途中でドロップアウトしてちゃんこ屋になるのも伝統だし・・・ただし、若乃花がなまじか横綱だったから・・・ややこしいのかも。

投稿者 Blue Wind : 03:42 AM | コメント (0) | トラックバック

ジーコ

スポーツほどプロとアマチュアの違いを痛感する世界はないと思うことがある。それは本場NBAの選手たちに翻弄されたオリンピックのバスケの試合を観たときにも感じたし、その昔、サッカーの試合でも、南米チームと対戦するとほかのチームの選手がまるで棒立ちしているかのように見え、いわゆる「世界の壁」をわたしは黙って眺めていた。

だから、Jリーグが発足する前、誰が日本のチームがワールドカップに出場できるなんて想像していただろう。2002年に日韓でワールドカップを共同で主催することになり、その誘致をめぐってはかなり前から悲壮感をもって準備が進められていた。日本で開催されれば予選に勝たなくても出場できますから・・・(オイ!)

ジーコだよなぁ・・・
すべては彼に尽きる。
ハートの問題というか、ちょうどJリーグ元年が娘が生まれた年であり、わたしは娘を抱っこしながらサッカーを観戦していた。おりしも茨城に転勤になり、鹿島アントラーズが快進撃を続け、ジーコのハットトリックを眺め、彼がすでにサッカー選手としては限界の年齢に達しており、うちのダンナに言わせれば、全盛期を過ぎたからこそ彼は日本にいるらしく、それでいて試合に出ていようがいまいが、ジーコがそこにいるのといないのとではハートが違う。

いや・・・・素晴らしい選手はたくさんいるのだろうけど、ジーコには何かほかの選手にはないものを感じた、というのは単なるわたしの主観によるものなのかもしれない。ベンチに座っているだけで何かが違う。だから、今回彼がワールドカップの監督になり、それで日本が予選落ちするわけがない、とまで思ってしまう。束の間、来年のワールドカップにジーコが監督を続行するかどうかの話題がニュースで流れた時にも、何をバカなことを言っているのだろう、とも思ってしまう。

いや・・・・もしかするとそのことを一番よく知っているのはジーコ自身なのかもしれない。怪我でずっとお休みしていた中田英寿選手をメンバーに選んだ時も、「中田がベンチに座っているだけでも違う」と言って彼をイタリアから呼び寄せた。

国際試合がどういうものなのか、わたしにはよくわからないけれども、おそらくはそういう国際試合に慣れているかどうかというのもとても重要なポイントになる? たしかにかつてはおとなと子どもくらいの違いがあったことを考えると、そういう精神的な壁を打ち崩すほうが技芸を覚えるよりも遥かに大変なのかも。

一流の選手はたくさんいるのだけれど、ジーコはもっと身近な存在。どこにでもいるようなおじさんみたいな雰囲気。そこがベッカムとは違う。

投稿者 Blue Wind : 02:41 AM | コメント (0) | トラックバック

June 09, 2005

『「深い河」をさぐる』 遠藤周作著 (1)

著者: 遠藤 周作
タイトル: 「深い河」をさぐる


近頃読み始める前に予告のように書評を書き始める。パラパラとめくりながら、このところ同じ作者の本を読んでいるために、「そういえば・・」みたいな気持ちになってしまうからかもしれない。

『深い河』の中で、遠藤周作はしきりに美津子に仏蘭西が嫌いだと述べさせている。あまりにも善と悪がはっきりし、あまりにも秩序がありすぎるからだという。

わかるなぁ・・・・・善悪不二といったコムズカシイ概念を持ち出さなくても、わかりやすく語れば、人間臭さがあれば何か粗相があってもお互いさまということになり、謝れば許してくれるだろうという甘えがある。この、「お互いさま」という感覚が暗黙のうちに成立するのは、無意識の内に善悪不二という概念があるからだという気がする。

誰でも間違いはあるさ、とか?

あっさり語れば、これがインターナショナルに通用すると思ったら大間違いである。許されないからこそ赦しあわなければならないのである。

例えば、わたしが通っていたフランスの修道会の大学では、善と悪は極めてわかりやすい。その結果、過剰なまでに良識を求められる。悪いことは悪いと決まっているから。そのくせ、どうも善悪の判断基準が世間通常の常識とはまた違うらしく、そのことをうまく説明できないため窒息してしまいそうになる。慣れてしまえば、そっちのほうが楽だということも多いけど。

有名なのは、芸能界に入るのなら大学を辞めなければならないとか(未成年じゃないんですよ・・)、学寮から誰かが短パンで授業に出席したら呼び出されたとか、その手のことは比較的わかりやすい。

わかりにくいのは、・・・・どうやって説明したらよいのかわからない。例えば、親にナイショで友達と一緒にイギリスに行くことにして、一人インドでストップオーバーしてしまった子がいた。普通は友達だったら少しは心配して親と一緒に反対するという姿勢もありいなのだと思う。ところが、あの世界は何も考えていないため、頼まれれば微笑みながらイギリスからあらかじめ用意された葉書を投函する。

それは悪の共有ということではなく、何も考えていないから、まるで出席カードの代筆を頼まれたような感覚で引き受けてしまう。

ある学生がほかの学寮の子たちの不在者投票を不正に利用したという事件があった。その事件はニュースでも報道され、巷では大騒ぎになっていたけれども、事の次第はすごくシンプルで、誰かが選挙を手伝っているうちに大変だなーと慮り、それを友達に言う。そうすると微笑みながらそれが悪いことだとも思わないで、どぞどぞってなってしまう。自分で投票に行くほどの親切心もないかわりに友達の頼みを断るほどの出来事だとは思っていないらしい。

このように社会で語るところの悪は些事となり、それでいて微笑みながら整然とした秩序が保たれている。

つまり・・・・神の眼から見てそれが正しい行いであるかどうかのほうが法律よりも重要らしい。だから迷う時には、「ご自分の良心でお考えなさいませ」で終わり。迷うということは大抵の場合何かやましいか都合が悪いことがあるから迷うわけで、良心で考えて判断すれば善は善として存在しているために迷うほうがどうかしている。そこで善を行うか悪を行うか、それがとてもつまらないことだとわかっていても悩まなければならなくなってしまう。そして、結果的に善だと思うほうを選ばなければならなくなる。

つまり、悪いことは悪いのだから、これくらいは・・という甘えが許されない。しかも、善と悪とがあまりにも秩序正しく存在しているために、物事に迷わなくなる。迷うとすればもっと深い次元の問題だろうし、そうなると秩序よりも個人の内面世界の出来事ということになり、相談があれば神さまにする・・・というのが常識。

友達というのは親切で自分を助けてくださる存在ではあるけれど、それはどこか微笑みに満ちあふれた世界で、とても悪や醜い世界の出来事の共有などはまず考えられない。このため悪は抑制されて存在することになり、もし友達といえども悪が発見された場合、それなりの覚悟が必要になる。何が覚悟なのかわからないけれども、ある意味表立って批判される以上に個人を苦しめることもあるくらいだ。

つまり、自分の良心と相談するとか、神さまとお話するというのは、人間と話すよりも個人の内面を深く切り刻むものであり、これに慣れてしまうと、逆に誰に何を言われても微笑んでいられるようになるらしい。

『「深い河」をさぐる』は対談形式で書かれている。どうしてインドへ行くとほっとするのか、わたしは行ったことはないけど、何となく理解してしまった。おそらくは、わたしがバリ島へ初めて行った時に感じた人間臭さへの郷愁と愛着とがインドにもあるのではないかと。とにかく、人間が人間として人間臭さを保ちながら生きているのを感じるとほっとしてしまうのだから仕方ない。

ささやかなことなんだと思う。本当にうまく説明できないくらいささやかなこと。モノを売るとか買うとか、そういうちょっとしたやりとりや、着飾った女性を眺めていたり、ラブソングを聴いたり、誰かが誰かを好きだとか嫌いだとか、そういうちょっとしたやりとりが酷く人間的に思えてしまうくらい安堵感がある。

それが・・・・・なんと言うか・・・・・・カースト制のインドで、唯一平等な世界があるとすれば、ガンジス河なんだなーと思って。おそらくは射殺されたインディラ・ガンジーも、プーランも、そしてハリジャンと呼ばれるアウト・カーストの人たちもみんな河に流される。輪廻転生を信じてあの河に流される。そういう感覚は死ねば誰でも仏になるという感覚に近い。死がすべてを呑みこんでしまう。

それを混沌と感じるほど秩序があるということが良いことか悪いことかという前に、結局はそれが好きか嫌いかというだけのことのような気がする。

投稿者 Blue Wind : 11:35 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 真からの闇などないとうす暗き空に散らばる蜘蛛の巣の糸

散乱す夜の雲にぞ曇り空うろこも空も蜘蛛の巣の糸
真からの闇などないとうす暗き空に散らばる蜘蛛の巣の糸

ドアの前大きな蜘蛛が落ちてきてそっと押し出す糸垂れたまま
はろばろと広がる雲をながむれば梅雨待ちていま夜の蜘蛛あり

ヘリコプター飛ぶ音のする昼間には白い粉降る台風の雲

かたばみの群れんと芝に伸びたれば陽はまどろみに降る雨を待つ
ヒマワリの種を蒔こうか真夏には黄色い花の陽の光降る

カラフルな靴下のいろながむれば吾子かわれかで折半を思う
子ども靴われも履けるか吾子の足いつしか伸びてつま先の爪
ゆびちゅぱのクセがなおってほっとしてつかのまに手はわれをおいこし

すこしだけさぼってみればぽろぽろとうたことば消ゆ、脳は五月雨

投稿者 Blue Wind : 11:21 AM | コメント (0) | トラックバック

来年はワールドカップ

ジーコ、愛してるよ〜♪
ドイツ一番のり〜〜♪

というわけで、ワールドカップアジア最終予選(B組)は北朝鮮を2−0でくだし、無事に来年のワールドカップへの出場権を獲得。

テレビを観ている途中、おちびとダンナのテレビのチャンネル権争いが発生し、もともとサッカーには興味のない娘にどうやってW杯が特別なのか説明するのに苦労した。しかも代々木競技場に集まっている人たちのことや、どうして試合が北朝鮮ではなくタイで無観客で行われているのかなど、子どもに説明するのは案外大変だということに気づく。

わたしは一言、娘に、「あなたに興味のないことでも世の中には重大なことがたくさんあるのよ」と言って誤魔化した。

本当にこれは本音に近い。
わたしが興味がなくても世の中には重大なことがたくさんあり、サッカーの試合一つで大騒ぎになり暴動や戦争が発生するんだなーと不思議な気分。ましてや娘にそんなことを言っても伝わらない。

サッカーは格闘技だからね。審判によっては違反を取ったり取らなかったり、すぐに喧嘩の種になる。今回は北朝鮮が対戦相手だったので、試合の途中、柳沢がゴールを決めては喜び、「あーこれが北朝鮮でやっていたら今頃乱闘だなー」とかね・・・なんか、複雑な気分。

試合終了間際に北朝鮮の選手にレッドカードが出されていたけど、その前にやっちゃってるから、無観客試合であることを喜ぶべきかも。

投稿者 Blue Wind : 01:23 AM | コメント (0) | トラックバック

June 08, 2005

『女盗賊プーラン』 プーラン デヴィ著


著者: プーラン デヴィ, Phooran Devi, 武者 圭子
タイトル: 女盗賊プーラン〈上巻〉


著者: プーラン デヴィ, Phoolan Devi, 武者 圭子
タイトル: 女盗賊プーラン〈下巻〉


著者: 黒田 龍彦
タイトル: 女盗賊プーランは誰が殺したのか


遠藤周作の『深い河』に触発されて、今から7,8年くらい昔に読んだ『女盗賊プーラン』を思い出した。もっとショッキングなのは、『女盗賊プーランは誰が殺したのか』という本のタイトルを見て、彼女が射殺されたことを知る。わたしがテレビのインタビューで彼女の姿を見たとき、彼女はまだ元気で仏教徒の夫と並んで微笑みながら座っていた。

彼女の壮絶な人生は、わたしには想像もつかない。文盲の彼女は口述筆記という形式でこの本を書いたそう。彼女の口から語られた内容は、本の帯にもあるように11歳で結婚し、壮絶な虐待、レイプ、盗賊団に誘拐され投降、刑務所の中の様子やその後国会議員になるまで。

その中で印象に残っているのは、彼女が結婚するまで川の向こう側の世界を知らなかったこと、嫁ぎ先でマンゴーを見てとても裕福ということを感じたこと、上カーストの男たちの低カーストの女性へのレイプが平然と行われていること、刑務所での生活が恵まれていたこと、など。そして、低カーストとは言っても、彼女の家は実はさほど低カーストとは言えず、いわばインドでは中流の家庭であること。そんな彼女がどうして盗賊になったのか。

(トラステへのTB : 第29回 これをドラマ化して!)

投稿者 Blue Wind : 10:45 AM | コメント (0) | トラックバック

クリック募金

久しぶりにnattoさんのところでネタになりそうな記事を発見し、とてもコメントでは書ききれない。オリジナル記事では、クリック募金が本当に企業の社会的貢献に繋がっているかについて書かれているのだけれど、実はこれは日本が発祥ではないため、逆に日本ではいわゆる大企業だけが関与しているように思われる点が少し寂しく思っています。

こじんまりした海外のサイトでは、絨毯屋さんや家具屋さんなど一体これはどこの国にあるお店だろうという感じで広告を眺めたこともあり、スポンサーもいろいろ。病気の女の子の手術の費用を集めているとか、わりに手頃にサイトが運営されています。

クリック募金は、わたしが短歌を詠み始めたきっかけ。短歌を投稿するとクリック募金を貼ったコンテンツをつくってくれるというので、最初は冗談で詠み始めた。

それはさておき、当時はまだ日本ではさほど普及しておらず、わたしのサイトでも、ユネスコ、カナダ政府主催のカンボジアの地雷撤去、ハンガー・サイトのバナーを貼っていた。ネタ元はQuick Donationsというサイトで、今はここをクリックすると自動的にハンガー・サイトにジャンプするようです。

クリック募金は、たしかインターネットの普及に伴い、国連の事務総長(?)をしていたアナンさんの呼びかけで始まったという記憶があります。

ところが、2001年9月11日にアメリカでテロ事件が発生し、それ以降わたしのサイトでも、クリックを懇願されているようで嫌だとか、広告に相当するなどの理由で、クリック募金のバナーが原因でサイトが消えそうになったり・・・貿易センターが襲撃された映像を見た人たちが本気で戦争の不安に駆られたのが原因だったと思う。

その直後、ハンガー・サイトも、活動自体が続けられなくなるなどの理由で、一時期サイトが閉鎖されていました。数ヵ月後管理する団体が変わり、活動が再開されたようです。

日本では、坂本龍一さんの呼びかけで、TBSの筑紫哲也さんの番組でも報道され、地雷撤去のキャンペーンと反戦運動がウェブでも広がり、それに伴い今うちのブログでも貼っている「クリックで救える命がある。」というサイトが登場。

実は、わたしが最初に有料サーバを借りたのもクリック募金への嫌がらせがきっかけ。冷静に考えれば借りている費用を募金したほうがよっぽど実りがあるような気がするんですけど、毎日何かいちゃもんを付けられてはサイトが消失するようなことが連続すると、さすがに無料サーバにはうんざりしてしまって・・・

その後、もったいないのでcoolを解約しその分を寄付しました。とはいうものの、今でも惰性でロリポップは借りているし、久々にCharity Linksを眺めたら2年以上更新していないようで・・・(汗

近頃、自分がものすごく怠惰な気がするのです。もしかすると、そういうことが原因なのかも。以前だったらそそくさとバナーをアップしそうな気がするのに、今はそれすらだるい。困った・・・クリック募金のサイトって実はたくさんあるので・・・

投稿者 Blue Wind : 09:01 AM | コメント (0) | トラックバック

『深い河』 遠藤周作著 (2)

遠藤周作の『深い河』 を読み終えた。ウィットに富んだ終わり方。その理由がわかる人は最後まで読んだ人だけかもしれない。最後まで読み、そして振り出しに戻る。

第3章は、美津子が大津を弄び、彼に神を棄てさせることに快感を覚える大学時代の回想から始まる。そして、大津も退屈な男かもしれないけど、美津子の結婚相手の矢野はもっと退屈な男。その後、美津子への失恋をきっかけに大津は神父になることを決意しフランスへ。そして、彼に神を棄てさせることに失敗したことを知った美津子は、新婚旅行を利用して大津に会いにリヨンへ行く。

わたしが読み始める前に本をパラパラめくっていた時、「ぼくが神を棄てようとしても・・・・・神はぼくを棄てないのです」という大津の言葉が目に入った。読み始める前なので、どういう状況で誰が発した科白かわからなかった。

大津には共感できないけど、この科白には深い共感を覚える・・・

どこかこの辺のところにマルクスの有名な言葉がどうたらこうたらという行があったはずなんだけど、見つからない。美津子の場合は、無神論どころか無宗教だもの。この辺の日本人的宗教観が美津子を観察するとよくわかる気がする。

無神論というのは教会にとっては大変なことなのかもしれないけど、正直に語れば、西洋的な潮流に巻き込まれなければ理解できないのが無神論であり、日本人の場合、江戸時代から今日に至るまで新井白石の『西洋紀聞』からまるで進歩していないような気がする。逆に語れば、無神論があるから少しは有神論が理解できるのではないかと思うくらいだ。

美津子を通して、モーリヤックの『テレーズ・デスケルー』の話が頻繁に出てくる。わたしの手元には今その小説があるのだけれども、なんでこんなに一生懸命に読まなければならないのか自分でも不思議だ。

第4章は童話作家の沼田の話。満州での子ども時代、そして犀鳥や自分の身代わりに死んだ九官鳥。

どうしてこんなにたくさん鳥の話題が出てくるのか不思議だった。でも、ガンジス河と鳥。天竺と阿弥陀経。読みながらお坊さんの声を思い出したけど、お経って詩のようだと思った。

第5章は木口と塚田とビルマの死の街道とガストンさんと食人の話。

おそらくは小説のネタをばらしているようで、まだ読んでいない人には申し訳ない。この手の話題で一番ショッキングなのはわたしにとってはすでにミクロネシアの食人文化のほうが遥かにショッキングであり、オリバー・サックスの『色のない島』の中で出てきたその話により、わたしは今でもあの界隈のコンビニでもよく売っている「スパム」というハムの缶詰が食べられなくなってしまった。

蛋白源の少ない南太平洋の島では捕虜は大切な食糧だったらしい。でも、ビルマの死の街道。仏教徒からすればそれこそ気も狂うほど苦しい出来事。

そして、6章以降はガンジス河のほとりヴァーラーナスィが舞台となる。

聖なる河ガンジス。聖母マリアとチャームンダー。死体や行き倒れの人たちを河へ運ぶ神父の大津。善悪不二の問題。

モーリヤックの『神への本能、あるいは良心』の中では、テレーズが「善と悪、小麦と毒麦が、あなたでなければこの世で誰も分離できないほど、私のなかで混じりあっています。」と書いている。『深い河』の中でも、大津が修道院を出なければならなくなったのはまさしくこの点であり、人間の光と闇、物事の両面、災いもって福となすといった発想、同じ食人でも自ら進んで犠牲になった人の話、その他諸々インディラ・ガンジーの射殺事件。

要領のよい人、わるい人。そして、真の幸福とは?

宗教のよい面、わるい面。そして、生と死。聖なる河ガンジス。異なる宗教の話が出てくるけれども、その3つの糸は複雑なようでいて一つに結ばれている。

投稿者 Blue Wind : 12:48 AM | コメント (0) | トラックバック

June 07, 2005

ブラザー・サン シスター・ムーン

ちょうどローマの方角だったと思う。アシジのホテルのレストランに座っていた時、娘が空が光ったというので周囲を見まわすと、夕立を心配してほかの客たちが立ち上がったり空を眺めていた。わたしはちょうどそちらの方角には背を向けて座っており、半信半疑だった。不思議なことに、光ったのだから落雷の音がするはずなのに何も聴こえない。

無意識のうちにそんなことを考えながら空を見ていると、雲に覆われた方向に小さな青い稲妻が見えた。ところがいくら待っても音がしない。周囲のざわめきも一瞬沈黙するくらい静かな時間だった。

3度目の稲妻が光った頃には、安堵が広がり、何事もなかったかのように夕餉のざわめきが続いていた。周囲はイタリア人ばかり。もしかすると彼らにはめずらしいことでもないのかもしれない。アシジのあまりにも広大な空を考えると、遥か遠くの町で轟いているはずの雷鳴も音が届かないだけのことで、筑波山から眺める富士山のようなものなのかも。

とは言うものの筑波山からでもさすがに東京や横浜の落雷が見えるわけもなく、何気なく広がるアシジの空の大きさに参ってしまった。


ビデオ : ブラザー・サン シスター・ムーン
DVD : ブラザー・サン シスター・ムーン


アシジの空の不思議さはそれだけではない。

アシジは中部イタリア、ウンブリア州というところにある。聖フランシスコの町。かつて観た映画のタイトルが、「ブラザー・サン シスター・ムーン」。その意味がアシジに行ってわかった。

映画だけでは、空の広さがわからない。

わたしは、聖フランシスコが聖人だから、太陽が兄弟で月が姉妹なのかと勝手に考えていた。こういうアニミズムのようは発想はキリスト教では好かれないのではないかと思うんだけど、聖フランシスコは太陽を兄弟と呼び、月を姉妹と呼び、生き物すべてを愛していた。

アシジの空を眺めているうちに、日没の時間、空が真っ二つに分かれ、右手には太陽が沈み始め、左手には月が浮んでいた。それはちょうど昼と夜とが同時に存在しているのを眺めているようで不思議な光景だった。

ところが翌日、やはり日没の時間、わたしたち家族は同じレストランのほぼ同じ場所に座って空を眺めていたのだけれど月の位置が昨夜とは違う。とても不思議な気分だった。

その翌日、日没を過ぎ、空がすっかり暗くなり、食事を終えて部屋へ戻ろうとすると、ホテルの犬が玄関の前に寝ていたのでしばらくベンチに座って娘が犬と遊んでいるのをぼ〜っと眺めていた。すると、目の前にいきなり外灯が点った気がして夜の道路の上を見る。夜なので最初気が付かなかったけれども、そちらの方向にあるのは山の陰であり、外灯などあるはずもない。

数秒ほど眺めているうちに、満月がいきなり空へぐんぐん上昇し始めた。外灯だと思ったのは山影から出る月の明かりで、わたしは月の出というのを見たのが初めてだったので、そのスピードに驚いた。落陽もあっけないけど、月の出もあっけない。月の出の時間がその日によって違うことを知る。(本当?)

酷く戸惑ったものの、ややこしいことを考えないのがわたしの特徴であり、とても不思議な月のことを考えて帰国便に乗り、疲労も手伝ってか機内の窓が閉めきられほとんどの乗客が寝ている時間うとうとしていると、娘が不意に窓を開けた。暗い機内の中で、不意に娘が少し開けた窓から見えたのは、飛行機の翼の上に平行して並ぶ巨大な月。青い空に白くてまるい巨大な月が浮んでいる。あんな間近に月を見たのは初めてだった。


(⇒トラステへのTB : 第29回 神秘体験)

投稿者 Blue Wind : 01:11 AM | コメント (0) | トラックバック

June 06, 2005

『深い河』 遠藤周作著 (1)

著者: 遠藤 周作
タイトル: 深い河


今、ようやく遠藤周作の『深い河(ディープ・リバー)』を読み始めた。まだ第3章の途中。書評を書くにはまだ早すぎると思いながらも、少しずつ書いていこうかと。

第1章では、突然妻が末期癌であることを知った夫の苦悩と悲しみから始まる。その妻は臨終の際、「必ず生まれ変わるから探して」と夫に言い残す。

生まれ変わり・・・という点では、まるでマリはマリの生まれ変わりのようだ。

小説とはまったく関係がないけれども、去年の暮れ子犬のマリが死に、小さいのにぐったりしながら動物病院の檻の中で細い腕に点滴をされていたマリのあまりにも短すぎる一生を思うと、今でもせつなくなる。そのくせ、死んだマリの代わりにわが家に来た子犬は不思議なほどマリに似ている。というわけで、2匹の犬は同じ名前になった。

マリが死んだのが12月22日。マリが生まれたのは1月22日。偶然なんでしょうけど、ちょうど2匹目のマリがわが家に来たのが生後3ヶ月半くらいで、死んだマリが2ヶ月半くらいだったので、実際にはマリの死から半年のブランクがあるものの、まるでマリが元気になって戻って来たような錯覚に陥ることがよくある。

マリが入院していた頃、オトでさえ夜中に起きてマリのいる方角に遠吠えしていた。クゥーンという鳴き声は非常にめずらしい。オトくんのやることは今でも理解不可能なことが多いけど、マリが死を迎えるために戻ってきた3日間のうち、その前日とその翌日、オトが空に向かってクゥーンと吠えていたのを思い出す。人間には見えないけれども、オトはマリとお話できるのかもしれない。

第2章は、どうやらインド・ツアーの説明会らしい。わたしは添乗員付きのツアーに参加したことがないのでわからないけれども、ツアー参加者が添乗員にいろいろ質問している話の流れでヒンドゥー教の女神カーリーの話題が出てくる。

検索した。

カーリーの姿
カーリーについて

強烈・・・
「一度殺しだしたらすべてを無に返すまで殺し続ける女神」らしい。

これも小説とはあまり関係のない話かもしれないけど、インドの宗教って理解不可能なことが多いけど、シヴァ神が性器そのものの象徴だったり、ダンスの神だったり、インド映画の世界が少しだけ理解できたような気がした。なんで恋愛映画ばかりで、しかも皆があんなに真面目に踊っているのか・・・それにしてもどうして人口が増えるのか、宗教と深い関連があるのかもしれないですね、インドは。

で、現在は第3章に入っているのだけれども、相変わらずちまちま検索しながら読み進めているため、進度が遅い。しかも、その途中にこれを書いている。

遠藤周作を読んでいるといろいろ考えさせられることが多く、すぐに脱線してしまう。この続きを書評として書くか、「屁理屈日記」として書くか迷う。ブログだからどうしましょう・・・全部まとめてどこかに寄せたほうがいいかもしれない。考えよう。

投稿者 Blue Wind : 08:19 AM | コメント (0) | トラックバック

June 05, 2005

【短歌】 お仕着せに泣かされてみて脱げもせず死んでも空は青く輝き

神さまにさよなら言ってうつむいて見あぐる空に微笑みはあり
あの空が空いっぱいに広がって青く浮べばわれは白雲

そうなんだよね・・・
「僕が神さまを棄てようとしても、神さまが僕を棄てないんです」

そうなんだよね・・・
本当にそのとおり。

そうなんだよね・・・

神さまに空いっぱいに毒吐いて吐いて棄てても空は微笑み
パラパラと冊子をめくり或る科白われの眼の中突き刺すがごと
ストーリー追わなきゃならぬ小説にかったるさあり、しばしとどまる。

流行を追ってるわけじゃないんです。通り過ぎても今が始まり。
新しい旧き月日を省みしわがままだつたあの頃を思う

ノスタルジー?
そんなことではないんです。
捜した空を求めてるだけ。

お仕着せに泣かされてみて脱げもせず死んでも空は青く輝き

投稿者 Blue Wind : 11:25 PM | コメント (0) | トラックバック

旋律の違い

一冊読むのに何日掛っているのだろうと思いながらも、ようやく遠藤周作の『聖書のなかの女性たち』を読み終える。後半部分は一気に読んでしまった。

気になるのはマグダラのマリアの部分。

イエスがファリサイ派の人たちと一緒に食事の席に着いていた際、香油の壷を持って入って来て、涙でイエスの足を濡らし、髪の毛でそれをぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った一人の罪深い女というのはマグダラのマリアのことでしょう?

理由は、こんなエキセントリックな人がそうたくさんいるとは思えないし、「7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」という表現から、彼女は娼婦というより、罪深い女と呼ぶほうが適切なのではないかと。今風に言えば単に精神障害があり、7つの人格が消えては現れ罪を重ねていたとか? 考えようによってはとても気の毒な人で、イエスが憐れむのも無理はない。それが奇跡的に治ったという解釈のほうがわかりやすい。

香油の女のところで彼女の名前が出てこないのは、ルカが遠慮がちにその話を書いていたからではないかと。イエスと出会う前の彼女と正気になった彼女とを同じ人間と考えるより、明らかに別人として考えたほうが理解しやすい。それくらい劇的な変化があったのかも。

まあ、この辺のところは想像で書こうと思えばいくらでも書けるけど、そういう女性に近づく男といえばどんなタイプで何を考えているのか想像に難くなく、それでもそういう男たちを受け入れなければならないほど彼女が孤独で罪深い女だったことに気づく。だからこそ、彼女はイエスとの出会いにより真実の愛を知る。生まれて初めて人のやさしさに触れたのかもしれないし、その後イエスに従い一緒に旅を続けた。

それにしても、聖書は書きすぎないように書かれているし、作家はそこから旋律を導き出している。まるで違うサウンド。

上述、何が気になったかと言えば、遠藤氏によると、マグダラのマリアが初めて登場するのは、ルカの第8章。「七つの霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」という表現。その直前第7章に罪深い女の話が書かれている。わたしは今の今までこの罪深い女というのがマグダラのマリアだと思っていたため(それが通説だと思う)、一瞬混乱してしまった。

まあ、たしかに第7章では名前が書かれていないから実は誰だかわからない。誰だかわからなくてもかまわないと言えなくもないけど、何となく気になってしまう。気になることにより、次第に理屈っぽくなっていく。

投稿者 Blue Wind : 06:13 PM | コメント (0) | トラックバック

母と息子の面子

まるで胡散臭いものを眺めるように、花田家の確執を眺めてしまう。

貴乃花のことを悪く書いているところが多いけど、それは大いに間違っている。これはあくまでも推量だけれども、二子山親方と憲子夫人が離婚した時もあまりにも唐突で驚いたけど、実はその頃に親方の癌が見つかっていたのではないかと。

そうなると、突然、貴乃花の反抗期を眺め、一体何があったのかと狐につままれたような気がした事件でも、単なる相続争いの結果なのかと、実にわかりやすい。

うちのダンナがスポーツ紙を読んできた結果によると、最初は遺産はすべて次男の貴乃花親方のところに行くことになっていたらしいのが、このところ遺言が書き換えられ、長男の勝氏に譲られるらしい。あくまでも嘘か本当かなんてことはわからない。でも、遺産が少なすぎるという下馬評まで飛んでいる。

ってことは、離婚・・・・
あれだけ遺産があると、相続税のことを考えたら離婚したほうが節税になる。離婚の慰謝料には税金が掛らない。当然、31年間連れ添ってきた夫人にはそれ相応の慰謝料の請求権があるだろう。しかも、夫婦は離婚してしまえば他人だけど、子どもは子ども。

息子の代になって邪魔者扱いされるくらいなら、お金持って遊んでいたいという気持ちもわかるなぁ・・・後のことは好きにしなさい、みたいな感じ。

一番信用できないのが、あのお葬式でのインタビュー。貴乃花のインタビューも面子を潰されたせいでかっこ悪かったけど、それに輪を掛けて母親のインタビュー。どうやって考えても遠まわしに貴乃花を非難している。本当にわが子が可愛いのならあんなことを公の席でペラペラと話すだろうか?わが子がバッシングされることを承知であんなインタビューを母親にされたらかなわんぜよ。

器用に立ち回る母親よりも、不器用な息子のほうがマシ。

いずれにせよ、横綱にまでなった息子たちなのだから、何も今さら親の金をあてにしなくても立派にやっていってくれるでしょう。それでか・・・・貴乃花はすでにお弟子さんもたくさんいる親方なのだし、最初から全国を回って弟子をスカウトして回る苦労を考えればすこぶる楽なのかも。

いずれにせよ、兄弟が仲良くなったとしても貴乃花が母親を許すだろうか。仲が悪いなら悪いなりに、親のことは長男が世話していったらよいし、世間が口出しするようなことは何もない。

投稿者 Blue Wind : 01:26 AM | コメント (0) | トラックバック

June 04, 2005

人類最大のハッピーエンド

聖書を読んでいると、悪い人たちというのがいつでもどこにでもいるような普通の人たちなので困る。

例えば、イエスが神殿を強盗の巣にしていると怒った人たちは、生贄のための鳩を売っていたり・・・今で言えば、お供物を現地調達するような感覚だろうか。

ユダはもちろん悪いヤツだけど、案外常識的だ。マグダラのマリアがイエスに香油をかけた時にもユダは怒ったけれども、その理由がせこい。それを売って貧しい人たちに施したほうがいい、というのがユダの主張。この手の常識仮面はどこにでもいる。

わたしはピラトはずっと悪の張本人だと思っていたけど、民衆の総意によりイエスを死刑にせざるを得なかった。その辺の役人根性が面白い。本当はそんなことはしたくないけど、仕方がないとか?

イエスの命を狙っていたユダヤの祭司たちだって、勝手に神の子を名乗るというのは大罪であり、民衆を翻弄するという点で実に危険な存在だったのだろう・・・イエスは。ローマ人たちには関係ないかもしれないけど、ユダヤ人にとっては大罪なのだから裁いてくれとピラトのところへ連れて行く。

イエスを鞭打った兵士たちは、それこそどこにでもいるような兵士たちであり、それがお仕事。

イエスと共に死んでもかまわない、何もかも捨ててイエスに従った使徒たちでさえ、恐怖のあまり逃げ出してしまった。ペトロの裏切りは有名。あまりにも愚直でまっすぐで怖いもの知らずのペトロ。本当はやさしく気の良い人たちでも、いざとなると逃げ出す。

なんか、人生を感じてしまう。

それでいてイエスが最後まで口もきかなかったのがヘロジャデ。娘のサロメを使って、バプテスマのヨハネの首を刎ねさせた女。この人たちの話は聖書のなかにはほとんど出てこない。わたしなんて一行も出してほしくないとすら思っている。

遠藤周作の『聖書のなかの女性たち』を読んでいると、その話についてもう少し詳しく書かれている。それを読むうち、ヘロデもヘロジャデもサロメも実はどこにでもいるような人たちだという気がしてくるから嫌だ。平凡な夫を捨ててガリラヤ領主のヘロデとねんごろになり、ヘロデの妻を追い出したヘロジャデ。それでいてちょっとでもそのことを言われるのが嫌だから、バプテスマのヨハネを夫に捕らえさせる。

ヘロジャデが恐れていたのは神でもヨハネでも世論でもなく、夫の心変わり。ヘロデをそそのかして妻の座におさまったのはいいけど、夫が回心して追い出されるようなことにでもなったら身も蓋もない。そこで娘にヨハネの悪口を吹き込む。自分たちの幸せを破壊しようとしている男、というのがヘロジャデから見たヨハネ。気持ちはわからなくもないけど、幼い娘は母には忠実である。

野心家の母は、自らも領主の妻におさまり、次には娘の将来。

それにしても、ヘロデは弱い。
そういう情けない男により、再びピラトの下に送り返されてしまったイエス。バプテスマのヨハネの敵の前で、鞭打たれるイエス。

無念という言葉があるけれど、普通に考えたら、それこそ恨みやドロドロ泥まみれの人間模様を想い描いてしまいそう。

が、しかし、そこから先が違う。この世に神はいないのか、と思うような絶望の瞬間、自ら十字架に身を捧げたイエスが復活する。わたしはシンプルだからイエスの復活を信じている。すべての出来事が聖書に書かれていたことであり、彼はそれを実行するためにこの世に現れた。

救われるってことがどういうことなのかわからないけど、最期にはイエスが復活し、ハッピーエンド。それを考えるだけで救われる。

人類最大のハッピーエンド。
イエスは救世主。

投稿者 Blue Wind : 04:38 PM | コメント (0) | トラックバック

ハングリーな精神

いつから自分がこんなに怠惰な人間になったのかわからないけれども、わたしは人の気持ちがわからないと言われることが多い。で、わからないと言う人たちの特徴は、大抵の場合、「怒っている」。

こういう場合、本当に怒りの理由が理解できない時もあれば、気持ちはわかるけど一緒に怒れない事情がある時もあるし、他人が怒っていると自分が怠惰になり怒る気がしない時もある。あるいは、そういう怒りに感染するのが嫌で逃げている時もあるし、それが自分に向けられている場合には確実に逃げることにしている。

だって、疲れるから・・・

なんて怠惰なんだろう・・・

それとは別に、わたし自身が怒っていると他人に思われる時には実は自分では大して怒っていないことが多い。本当に怒っている時には逆に怒っているとは思われないことも多い。世の中、どうなっているのかわからんため、他人の怒りにも無頓着。

というわけで、『怒りブログ。』 にはよく来訪している。怒りのポイントを(自己)分析しているのが特徴かもしれない。怒りがウリの割にはストレートな怒りが少ない。逆に語れば案外本当に怒っているのかもしれない。(こわ〜)

それはともかく、面白いネタ を見つけた。

ハングリー精神・・・・

オリジナル記事によると、野村克也の新聞連載について紹介されているのだけれど、写真を眺めてパッと目に入ったのが「ハングリー精神」という言葉。

いまどき、こんな言葉をまじめに使えるとすれば、たしかに野村克也くらいのものかもしれない。

ちなみにうちのブログでいまだに一番多い検索キーワードはNEETである。NEETな人たちは決して恵まれた環境にあるとは言いがたいという記事を読んだことがある。そりゃ働いてもいないのだから、恵まれているとは思えないのはわかるんだけど、一方で「ハングリー精神」が死語になり、一方で台頭するNEETたち。

ハングリー精神と言えば、貧しさをやる気の武器にしながら生きていく強さのことであり、相手をとことん打ちのめそうとするボクサーやスポーツ選手らが好んで使っていた。

生きるためには、とか、食うためには、とか?

その昔ボクシングの中継をテレビで観ていた時、チャンピオンが勝利インタビューで賞金の使い道を尋ねられ、「テレビを買います」とうれしそうに語っていたのを思い出す。どうしてそういうつまらないことをはっきり覚えているかというと、高額賞金を手にしたわりにはせこいなーと思ったのと、すでにテレビは各家庭に十分以上に普及しており(各戸2、3台はある時代)、いまどきテレビも買えない人がいるんだなーと子ども心に思ったからかもしれない。

わたしが小学生の頃には、テレビの展示会というのがあり、新製品が出るとうちの親などはヒマだから見に行って、そのたびにナショナルは、とか、東芝は、などと母がうんちくを言いながら買い替えられていったのを覚えている。

さっき、背中でニュースを聞いていたら、65インチテレビの話題。そうなると47インチやそれ以下の製品がのきなみ安くなり、一瞬買い換えようかと思ってしまう。大ビジョンっていいよね。テレビも観ないくせにそんなことを考える。(* 数字はいい加減です・・うろおぼえ)

テレビの普及のおかげで、日本からハングリー精神が欠如してしまったのだろうか・・・・(オイ!)

その逆は多いよ。

精神がハングリー(*^_^*)

投稿者 Blue Wind : 12:59 AM | コメント (0) | トラックバック

June 03, 2005

【今日の短歌】 意地っ張りマケズ嫌いの裏の妻死してなお花咲かせておりし

骨よりぞ消えてゆかむとすこしずつ灰にもならぬと風のなかには
空のなか風のなかにぞ降りたれば雨より細きクモの巣の無為
グラウンド置き去りにした花壇かな菫の花のかたよりて咲く
意地っ張りマケズ嫌いの裏の妻死してなお花咲かせておりし

投稿者 Blue Wind : 04:09 PM | コメント (0) | トラックバック

半年

自分でもバカじゃないかと思うんだけど、やっぱUPマークは気持ちがいい。先月はダラダラと出血が続いているかのように毎日ダラダラとDOWNマークが続いていた。ある意味仕方がないと諦める。全体のブログ数も増えているし、アメブロは月間の累積アクセス数でランキングが設定されているため、急に落ちることもない代わりに急に上がることもない。

それでいて、毎日ダラダラダラダラ下がり続けるというのは、連日ですからね・・・さすがに気持ちのよいものじゃないです。

ジャンル変更のメリットは、もしかするとこれだけかもしれない。一気に下がると今までの苦労?が水の泡になってしまったようで悲しい。それでいてダラダラ出血するより、一気に悪い血?を抜いてしまったかのようにUPマークを見て喜んでいる素直なわたし・・・

それでいてランキングが表示されないと、不思議と更新する気になれない。

一番好ましいのはほどよく下位からスタートし、月末までに上昇していること。先月はその逆で、周囲のブログ(よく行くブログ)がのきなみダウンしている中、うちのブログがさほど下がらないこと自体が不思議なくらいだった。

だって、わたしが去年の12月にアメブロにブログをつくったばかりの頃は、まだ全体のブログ数が3万以下だったし、アクティブ・ユーザー数だってせいぜい3000から4000くらいの間を推移していたのではないかと思う。

だから、その中で1000番以内にランキングされるのと、今みたいに26万以上ある中で1000番以内にランキングされるのとでは分母が一桁違うため、今のほうがかなりしんどいと思うのです。アクティブ・ユーザー数を考えると、せいぜい全体の15%あるかないかくらいだと思うけど・・・それでも一桁増えたから、本来なら10000万番以内に入れば御の字ではないかと。

それでも、アメブロガーを始めたばかりの頃はかなりローカルな感覚があり、上位ブロガーが30000ヒットしている画像をアップすると、下位ブログに連日3ヒットの画像が貼ってあったり、「ぷぷぷぷ」という感じで面白かった。混沌と有名ブログが上位に並ぶ中、ちまちま増える新規ブログ数。連日重くて仕方がないサーバ。ダウンしてしまったランキング。

半年はあっという間だ。

投稿者 Blue Wind : 03:07 PM | コメント (0) | トラックバック

June 02, 2005

骨折

明るいことなんて書けない。

ダンナが帰って来て、「おかあさん、足を骨折したって」と言うからてっきり神戸の姑さんのことかと思ったら、わたしの母だった。

「・・・・・・太もものこの辺の部分。骨がこう斜めにずれちゃっていて。幸い寝たきりだからこのままにしていたらくっつくって整形外科の先生が言ってたから。ずっと寝たきりだから骨がもうスカスカであれは仕方ないな。入浴中に・・・・・・・・・婦長さんも申し訳ないって言っていたし・・・・・・・・・・・・・・(延々続く)」

「で、オペはしなくていいの?」

「いや、自然とくっつくから。でも、ある程度動かさないと今度は褥痣(じょくそう)が酷くなるし・・・・・」

ダンナと話しながら弟にメールを書く。極めて要件だけ。

うちのダンナが饒舌な時にはろくなことがない。

投稿者 Blue Wind : 09:52 PM | コメント (0) | トラックバック

花田家のお葬式

週刊誌やワイドショーなんていい加減なことばかりだと思っているので普段は素通りする。さすがに二子山親方のお葬式は連日放送しているのだもの、見たくなくても目に入る。旧藤島(二子山)部屋のことなど興味のない人でも、元親方夫人のインタビューを眺めれば、この数年の間に何があったのかまるわかり。

他家の姑さまのことをあれこれ書いても意味ないけど、あれは強烈だ。しかも、母親とか姑である以上に親方の奥さん。もう、どうにもならん状態が長かったのだろう。(想像だよ)

「世界一幸せな母親」というセリフにすべての謎が隠されている。

結婚に反対されて、半ば兄の反対を押し切るように二子山親方が憲子夫人と結婚したのは21歳くらい? その後2人の男の子に恵まれた。兄の元横綱(初代若乃花)のところは女の子だけなので婿を取ったけど失敗したような・・・それに引き換え、弟の元大関(初代貴乃花)のところは男の子が2人生まれ、その子たちが揃いも揃って横綱まで昇進してしまうのだもの・・・「世界一幸せな母親」と言われても無理はない。

それで、下馬評通り、長男は3代目若乃花、次男は2代目貴乃花になる。

そこまでは良かったのよね・・・問題はその後。父親と母親は違うと言うけど、その典型みたい。親子の縁を切ってとかおおげさなことを言っているけれども、あんなことはどこの世界でも一緒だろう。親方としては部屋のことを考えるのは当然なので、後継者には弟のほうを担ぐ。実力社会だし・・・

でも、母親からしてみたら、どの子もわが子。できれば兄弟仲良くやっていってほしい。公平な配分を願うのは当たり前だ。これで面白くなかったのが弟。そこで、ひたすら相撲道に精進する弟と、相撲協会からも逃げてしまった兄の図式が完成する。

横綱にまでなった息子が今さら母親の言うことを素直にハイハイきくだろうか?
きくわけないじゃん。あほらしい。

なんか、せつなくなるね。
それでいて長男のほうがやさしい。そうなるとますます長男のほうにくっつくし、そうなると嫁さんは逃げ出す?いつだか忘れたけど、子どもを連れてハワイへ逃げていたという噂は本当なのだろうか。部屋のおかみさんになるのが嫌だとかいろいろな噂がささやかれていたけど、その気持ちも少しは理解できるような・・・部屋を持ち、そこにいつまでも先代の親方夫人(姑)が口出ししてくる。あー、考えただけでも鬱々する。

弟のほうは部屋を継ぐかわりに、一切母親の口出しを許さない。そこで、母親がぼやく。そうなると、口出しされたほうはたまらないから喧嘩になる。そこから派生して夫婦喧嘩や兄弟喧嘩。なんてわかりやすいのだろう。それで苛々してとうとう親が離婚。

部屋のことは弟がやっていく。家のことは兄。家のことって母親の世話は長男がするってことなんだろうか。それでまたインタビューで兄弟の確執をぼやく母親を演じている母。嘘じゃないんだろうけど、結局、傍役なんだから仕方がない・・・息子も亭主も。

家の戸を閉めて、家庭の中のことだけやっていたい嫁の気分。
朝からつまらんテレビを観てしまった。

二子山親方のご冥福をお祈りいたします。

*****

名称が間違っていたようで、直しました。まだ間違っているかも・・・ややこしい。

投稿者 Blue Wind : 02:49 PM | コメント (0) | トラックバック

『聖書のなかの女性たち』 遠藤周作著

どうしてわたしがプロテスタントではなくカトリックなのか、どうして誰も尋ねてくれないのだろう?
わたし・・・・
最初に神父さんのサイトにたどり着いた時、最初に訊いてみたかったことがこれ。
当時は通りすがりというか、匿名だったし、わたしが誰でも関係ない。もちろん今でもあまり関係ないかもしれないけど、単に通りすがりだとして、真っ先にお尋ねしたい質問がこれだった。
しかも、われながら変な質問なのである。

----どうしてマリアさまなの?

その時の小平神父さまのお答えは、至ってシンプル。

----どうしてマリアさまなの? とてもいい質問です。答えは簡単です。お子さまがキリストだからです。

その後の自分のリアクションが笑ってしまうけど、まあ、当時のことを知る人たちはこそこそ笑って楽しんでやってくださいませ。

*****


著者: 遠藤 周作
タイトル: 聖書のなかの女性たち


アダムの罪を贖ったのがイエス・キリストだとすると、イブの罪を贖ったのは聖母マリアなのだろうか。まだ冒頭から先、少し読み始めただけだけど、イブと聖母マリアという女性像を考えるだけで面白い。

小悪魔という表現を使う人たちが多いけど、その原型がイブなのかもしれない。アダムをそそのかして罪を犯させてしまう。その結果、人間は楽園を追い出された。

そして、聖母マリアの処女懐胎。イエス・キリストの誕生。救世主が現れたことにより、われらの罪が赦された。これが福音。この福音を世界中あまねく伝えよ?

キリスト教の歴史はともかく、問題はここにある。すべてがここにある。

あっさり語れば、わたしは処女懐胎を信じている。神の奇跡を信じている。あっさり語れば、だからカトリック。

クリスチャンでも信じていない人も多いのではないかと。自分からすれば、信じていないのになんでクリスチャンなのか不思議なんだけど、神の奇跡は信じないけど神の教えを学ぼうとするまじめな人たちなのだから、わたしよりも幾分マシなのかもしれない。

遠藤周作は文学の人なので、聖書のなかの女性たちが彼によりビビッドに描かれているのを読んでいると楽しい。聖書には書かれていないパーツでも、イマジネーションってすごい。彼女たちの人生が、生活が甦る。そして、彼女たちにとってイエスってどういう存在だったのか。

ストレートにイエスと対峙するのではなく、他者から見たイエス。そういう捻くれた聖書の読み方もありいなのかもしれない。文学は楽しみましょう、の世界だから。

え・・・・・・・処女懐胎も、神の奇跡も信じているけどプロテスタント?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ややこしいことは、わたしにはわからないです。
ただ、このようにこの本を読んでいると、どうしてわたしがその頃に生まれてこなかったのか残念でたまらなくなる。神の奇跡を目の当たりに見てみたい。人として存在しているイエス・キリストに会ってみたい。ついこの間のことなんだよね・・・創世記から振り返ると。2000年という歳月が長いのか短いのか、わたしにはわからない。

投稿者 Blue Wind : 01:03 AM | コメント (0) | トラックバック

June 01, 2005

病床はミステリアス

こうやって駄文を書いていると、どうして少子化が進むのかわかるよね・・・少なくても、子どもを産んだからといって子どもが成長してしまえば姥捨て現象すら発生してしまう。老後の生き甲斐とか、空の巣症候群とか、その他諸々育児を促進させる世の中ではない。だったら自分で働いて・・・となるほうが普通だ。

嫁さんにしてみれば姑の苦労は嫌だし、姑さんにしてみれば嫁の世話にはなりたくない。それとうまく説明できないけど、自分の子は自分で育てたいというのも人情で、それでいて保育所のほうが人間関係がさっぱりしているもの。彼女の孫なのか、私の子なのか、でドンパチすることもないし・・・それでいて、高い。保育料だってバカにできない。親の世話から子どもの世話まで全部他人に任せると恐ろしいほど金が掛ってしまう。せめて年金やら介護保険があるから救われる。それが現実だよな。

そういうのを眺めていて、誰が結婚したくなるだろう?だから結婚はどんどん遅くなる。結婚しないほうがちやほやされる。仕事が面白くなればそのほうがいいかもしれないし、それでいていき遅れのレッテルが貼られ、内心はじわじわあせり出すのが30代なのかも。さらにそれを通過して40代になる頃には60歳になったら結婚しようとかね・・・わけわからん。

ふふん!

終わったな。
わたしの場合、その手の社会的杞憂はすでに終わっている。
あれこれ考える間もなくパタパタといろいろな苦労がやって来る。それでも終わってしまえば誰でもやっていることで、わたしなどは昔に比べればはるかに苦労が少ない部類に入るだろう。

結婚しないで恋愛だの不倫だの?

ふふん!

バカバカしい。あんなのは遊び。若い頃には理解できなかった”遊び”という言葉。男に騙されて〜、っとか?あーバカバカしい。女がバカなのよ。あっさり語れば。女がバカなのである。

その理由は・・・・・老人病院を歩けばわかるだろう。どんなに立派な人でも老いぼれてしまえばただの屍。それが現実。体は弱り、自分では何もできなくなる。

最期には家族。

そのことに気づき出すと、老いてから何かを探そうとする人たちもいれば、神さまへの感謝のうちに亡くなる人たちもいる。

人に期待すれば裏切られるけど、神さまは裏切らない。

やっぱ、生きているからいろいろなわけで、それぞれに人生があるから。生活やら都合やらその他諸々いろいろなことがあり、それが生きるということであり、自分もまたそうやって自分の生活や都合を優先させながら生きている。それが普通。いざ死にますよ〜ってなっても病院というところはそういう人はめずらしくなく、特に死ぬからといって特別扱いしてくれるわけでもない。いくらお金を使っても死ぬ時には死んでしまう。愛想笑いをしようと思っても目を開くことも苦しいかもしれない。

それでいて、末期癌なのに自然治癒してしまった患者さまがいるらしい・・・・めったにないけど、そういうこともあるんだなーと。ダンナの語る話だから本当なんだろう。あの人はその手のことはまるで信じていない人なので。

ほんといろいろだ。

いつかは死んじゃうんだから・・・って締め括ろうと思うと、末期癌なのにケロッと何もしないで治った人のお話が舞い込む。なんかね・・・・わからん。

投稿者 Blue Wind : 11:09 PM | コメント (0) | トラックバック

さっぱりと鬱

遠藤周作の『生き上手死に上手』 の中では90歳以上のお年寄りの話だったけれども、こういうのは年齢に関係がない。いや、関係あるのかもしれないけど、現実には茨城県だと90歳を過ぎてもまだまだ元気な年寄りは多いし、うちの母みたいに60代で寝たきりになってしまう年寄りもいる。うちの母でさえ、「まだお若いのに」と言われるというのが不思議なんだけどね。

この前、実に快調だった姑さんが急にパニック発作になり、神戸へ戻ることになった原因はわたしの母である。会ってもいないのだから母に責任があるわけではない。が、しかし、ある晩急に姑さんが母の見舞いに行くと言い出し、その翌朝どうも様子が変。ハアハア言っている。「まさか・・」と思ったけど、そのまさかだった。

無理なんだよね・・・母の見舞いなんて。鬱(病)なんだから・・・
自分なんて生きていてもしょうがない、何のために生きているのかわからない、死んだほうがマシだ、となる病気。

大体、鬱じゃなくてもダメなんだから・・・・叔母たちでもはっきり言うもの、わたしの母のようになりたくないって。自分では何もできず、ただ生きているだけ。しかも子どもたちに迷惑を掛けるばかり。姑さんなんてもっとはっきり言う。死んでもいいって。寝たきりになるより死んだほうがマシだって。

たまに思うんだけど、わたしは彼女の娘である。にもかかわらず、叔母たちも姑さんもそうやってわたしに言う。そこがまた不思議だ。結局、母がいるから弟はずっと結婚できなかったし、今度は弟が結婚したらわたしが母の面倒をみなければならない。

姑さんが、その昔母がまだ元気だった頃、一番心配し、怒っていた理由はそこにある。もし、わたしが自分の親の世話するようになったら誰が姑さんの世話をするのだろう?ダンナのお姉さんたち??いささかでもそういう不安が広がると皆が一斉に怒り出した。なんて無責任な嫁だろう、と。要するに誰も自分の親の面倒などみる気がない。

というわけで、姑さんが3年前にほとんど寝たきりに近くなった時、結局、老人ホームとかね・・・だったらうちが世話するとばかりに、ダンナが言い出す。それだって自宅で介護するわけではない。それでも息子が世話をしてくれるということで、かなり姑さんは快復し、一時期は体重が30キロくらいまで落ちてしまっていたのが今では43キロある。

*****

茨城は農家が多いから、年寄りが元気で長生きなんだと思う。なんだかんだ言っても敬老の意識は高いし、年寄りを粗末にしたら何を言われるかわからない。それに一緒に暮らしているし、家族も近くにいるし、そういう点では恵まれている。嫁の苦労という点ではありがたくはないかもしれないけど・・・それでも年寄りには生きていきやすい社会。

ある日、早期癌が見つかり、非常にラッキーな人がいた。ところが、そのラッキーな人は、「農繁期に入院するわけにはいかない」の一点張り。命と農繁期とどちらが大切なんだろう・・・と思う。が、しかし、あっさり農繁期と言われると返す言葉がない。

そっかー、命より農繁期のほうが大事なのかー♪

さっぱりしている。
わたしは、茨城が好きだ。

投稿者 Blue Wind : 08:41 AM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 空蝉

以下の短歌は創作である。
ネタ元⇒ 「よろめきません勝つまでは」/ 読書感情ふん!

夏の声聴いて楽しき空蝉の夜迷いのごとひと夏の恋
揺らめいて夏の風には吹かれまじ君知るよしや満月の夜
君ごころ月は知るらん蝉の声鳴くや鳴くやと夜の空の夢
いたずらに身をこごめては立ち止まる傷はもろ刃の光みる夢
深深と夜はしづもり夜の夢はこわごわと泣く別れせし君

追いかけて追われて知るや初恋も遠の世の君わかつ空蝉

投稿者 Blue Wind : 02:42 AM | コメント (0) | トラックバック

【短歌】 鬱よりも鬱かもしれぬと退廃はひそひそとした梅雨空の下

鬱よりも鬱かもしれぬと退廃はひそひそとした梅雨空の下

落書きをながめてあるく石畳神に言えぬも壁に耳あり

ぱっぱらとさきいそぎてはがけっぷち逃げ出すやうに夏はちかづく
人生の秋はいつかと尋ねても夏はちかづき梅雨空の下
先生と呼ばれるよりもセンセーと黄色い声も主婦稼業かな

はらはらと文字は躍れり女文字 男なのかと不思議な電子

書き急ぐ気持ちあらばとひねもすはイブと御マリア比較している

沈黙を眼に眺むれば落雷の遠き彼方に喉奥の息
沈黙はわたしのこころ沈みゆく青き光に押し黙る神
ひっそりと夏は過ぎゆく夜は更けぬ人はまどろみ月は輝く
御マリアの何故にと問えばキリストの母だから、とは奇跡は遠く
イブの罪蛇の罪さえ赦された十字架までの捩れた宇宙
たまに思う月は気まぐれあの空に浮んでみたり、雲に消えたり
太陽は規則正しく動くけど月は気まぐれ気のせいなのか

混沌に進みゆくのかスピードは?まだ2000年、瞬きのよう。

投稿者 Blue Wind : 01:03 AM | コメント (0) | トラックバック