June 25, 2005

泡の一つ

世の中にはナイショで読んだほうがいい本というのがあるかもしれないと思う。別にエロゲロじゃなくても・・・子どもの頃に気持ち悪いと思いながらもつい読んでしまった恐怖マンガのような興味の持ち方かな。

気になって仕方がないのがサイババだし、青山圭秀さんの著作物だし、この分ではどうも来月あたりアマゾンに注文してしまいそうな気がする。こういう興味の持ち方というのは、好奇心だから仕方がない。特に宗教とか信仰ということに関係なく興味を惹かれてしまう。

一つには、わたしは特に死にたいと思っているわけではないけど、サイババが8年で生まれ変わるとして、そんなに早く生まれてきたいか?と問われればぐったりしてしまう。今から人生をやり直すパワーはない。

茨城県に来て、人生観が大きく変化したのは間違いない。なんせ90歳以上の人でもまるで60代のようにピンピンしているわけで、それが当たり前になってくると何かどこかが変化する。つまり、60歳を過ぎても30年以上生きているわけですよ・・・わかるかなぁ・・・そのミステリアスな感覚。

はっきり書くけど、一般社会で60歳というのはある種の区切りなのよね。定年を迎える年なのかもしれないし、一応はリタイアのことなどを考える年なのかもしれないし、その頃になると年金とかね・・・多くの人たちはすでに孫が何人かいて暮らしている。その頃になってもまだひ孫が成人するくらいまで生きているわけで、なんか感性が違う。

平安時代なんて40代で死んでたんでしょ? 世の中どーなってるんだか。予言書の話は胡散臭いと言ってしまえばそれまでかもしれないけど、気になるには違いない。

以前テレビで生き別れになった一卵性双生児の特集を観たことがある。あれも気持ち悪い。だって互いに互いの存在すら知らずに生きているのに、再会した双子たちは体形もよく似ていれば奥さんの名前まで同じだったり、あるいは病気や職業まで同じ。

あれを観ていたら、ダイエットすらやめようって思ってしまう。だって、中年太りの時期まで同じなんだもの。しかも、ダイエットしている人たちもやはり同じ時期に痩せ始めている。ということは、体形というのも運命という気がする。遺伝子と言うべきか。

もしかすると、そういった運命や遺伝子に逆らうことは可能なのかもしれないけど、あの双子たちを眺めているとそういう意味では夢も希望も消えてしまうくらいよく似ている。そこに止めを刺すようにアガスティアの葉の予言書に自分のことが書かれてあったらおそらくは理屈を超えてすでに諦めに近いものを持ってしまっても無理はない。

そうやって考えると、若い頃には期待や不安に苛まれながら生きていたとして、一体それがどういう意味を持っていたのかわからなくなる。人生は生まれる前からほぼ決まっていて、その筋書き通りに人生が進んだとして、だったら人生はつまらないか?と問われれば決してそういうこともなく、やはり未知だからこそ面白い。

運命を受動的に受け入れるかどうかというのは人生そのものには影響はないのかも。ただし、気持ちは違うよね。世の中にはアクティブに生きていきたい人たちもたくさんいるし、そういう人たちにとっては受動的な発想というのは滑稽なんでしょうし、邪魔な存在かもしれない。それでいて受動的な姿勢ばかりではやる気のない人間と思われてしまうかもしれない。

そんなことよりも、もしかするとそういうことも単なる風潮の一つに過ぎないのかもしれないし、平安時代に90歳まで生きるなんてことを言い出せば単なるおバカに思われても仕方ない。それでいてわたしは自分が長生きしないだろうとは思いながらも周囲の寿命が延びているのを垣間見るとやはりそういった環境に影響を受けてしまう。

結局、環境というものに対しては無意識に順応するくせに、何かを言の葉で記しているのを眺めればすでに別の言の葉が過ぎるようになっているらしく素直に受容できない。それでいてわたしが順応しようが反駁しようが運命は決まっているとしたらすべてがむなしい。

一つわかっているのは、このように理屈や感情といった精神はスピリチュアルな世界ではないということ・・・生きているから発生する泡の一つ。

投稿者 Blue Wind : June 25, 2005 01:11 AM | トラックバック
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