June 04, 2005

人類最大のハッピーエンド

聖書を読んでいると、悪い人たちというのがいつでもどこにでもいるような普通の人たちなので困る。

例えば、イエスが神殿を強盗の巣にしていると怒った人たちは、生贄のための鳩を売っていたり・・・今で言えば、お供物を現地調達するような感覚だろうか。

ユダはもちろん悪いヤツだけど、案外常識的だ。マグダラのマリアがイエスに香油をかけた時にもユダは怒ったけれども、その理由がせこい。それを売って貧しい人たちに施したほうがいい、というのがユダの主張。この手の常識仮面はどこにでもいる。

わたしはピラトはずっと悪の張本人だと思っていたけど、民衆の総意によりイエスを死刑にせざるを得なかった。その辺の役人根性が面白い。本当はそんなことはしたくないけど、仕方がないとか?

イエスの命を狙っていたユダヤの祭司たちだって、勝手に神の子を名乗るというのは大罪であり、民衆を翻弄するという点で実に危険な存在だったのだろう・・・イエスは。ローマ人たちには関係ないかもしれないけど、ユダヤ人にとっては大罪なのだから裁いてくれとピラトのところへ連れて行く。

イエスを鞭打った兵士たちは、それこそどこにでもいるような兵士たちであり、それがお仕事。

イエスと共に死んでもかまわない、何もかも捨ててイエスに従った使徒たちでさえ、恐怖のあまり逃げ出してしまった。ペトロの裏切りは有名。あまりにも愚直でまっすぐで怖いもの知らずのペトロ。本当はやさしく気の良い人たちでも、いざとなると逃げ出す。

なんか、人生を感じてしまう。

それでいてイエスが最後まで口もきかなかったのがヘロジャデ。娘のサロメを使って、バプテスマのヨハネの首を刎ねさせた女。この人たちの話は聖書のなかにはほとんど出てこない。わたしなんて一行も出してほしくないとすら思っている。

遠藤周作の『聖書のなかの女性たち』を読んでいると、その話についてもう少し詳しく書かれている。それを読むうち、ヘロデもヘロジャデもサロメも実はどこにでもいるような人たちだという気がしてくるから嫌だ。平凡な夫を捨ててガリラヤ領主のヘロデとねんごろになり、ヘロデの妻を追い出したヘロジャデ。それでいてちょっとでもそのことを言われるのが嫌だから、バプテスマのヨハネを夫に捕らえさせる。

ヘロジャデが恐れていたのは神でもヨハネでも世論でもなく、夫の心変わり。ヘロデをそそのかして妻の座におさまったのはいいけど、夫が回心して追い出されるようなことにでもなったら身も蓋もない。そこで娘にヨハネの悪口を吹き込む。自分たちの幸せを破壊しようとしている男、というのがヘロジャデから見たヨハネ。気持ちはわからなくもないけど、幼い娘は母には忠実である。

野心家の母は、自らも領主の妻におさまり、次には娘の将来。

それにしても、ヘロデは弱い。
そういう情けない男により、再びピラトの下に送り返されてしまったイエス。バプテスマのヨハネの敵の前で、鞭打たれるイエス。

無念という言葉があるけれど、普通に考えたら、それこそ恨みやドロドロ泥まみれの人間模様を想い描いてしまいそう。

が、しかし、そこから先が違う。この世に神はいないのか、と思うような絶望の瞬間、自ら十字架に身を捧げたイエスが復活する。わたしはシンプルだからイエスの復活を信じている。すべての出来事が聖書に書かれていたことであり、彼はそれを実行するためにこの世に現れた。

救われるってことがどういうことなのかわからないけど、最期にはイエスが復活し、ハッピーエンド。それを考えるだけで救われる。

人類最大のハッピーエンド。
イエスは救世主。

投稿者 Blue Wind : June 4, 2005 04:38 PM | トラックバック
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