June 05, 2005

旋律の違い

一冊読むのに何日掛っているのだろうと思いながらも、ようやく遠藤周作の『聖書のなかの女性たち』を読み終える。後半部分は一気に読んでしまった。

気になるのはマグダラのマリアの部分。

イエスがファリサイ派の人たちと一緒に食事の席に着いていた際、香油の壷を持って入って来て、涙でイエスの足を濡らし、髪の毛でそれをぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った一人の罪深い女というのはマグダラのマリアのことでしょう?

理由は、こんなエキセントリックな人がそうたくさんいるとは思えないし、「7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」という表現から、彼女は娼婦というより、罪深い女と呼ぶほうが適切なのではないかと。今風に言えば単に精神障害があり、7つの人格が消えては現れ罪を重ねていたとか? 考えようによってはとても気の毒な人で、イエスが憐れむのも無理はない。それが奇跡的に治ったという解釈のほうがわかりやすい。

香油の女のところで彼女の名前が出てこないのは、ルカが遠慮がちにその話を書いていたからではないかと。イエスと出会う前の彼女と正気になった彼女とを同じ人間と考えるより、明らかに別人として考えたほうが理解しやすい。それくらい劇的な変化があったのかも。

まあ、この辺のところは想像で書こうと思えばいくらでも書けるけど、そういう女性に近づく男といえばどんなタイプで何を考えているのか想像に難くなく、それでもそういう男たちを受け入れなければならないほど彼女が孤独で罪深い女だったことに気づく。だからこそ、彼女はイエスとの出会いにより真実の愛を知る。生まれて初めて人のやさしさに触れたのかもしれないし、その後イエスに従い一緒に旅を続けた。

それにしても、聖書は書きすぎないように書かれているし、作家はそこから旋律を導き出している。まるで違うサウンド。

上述、何が気になったかと言えば、遠藤氏によると、マグダラのマリアが初めて登場するのは、ルカの第8章。「七つの霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」という表現。その直前第7章に罪深い女の話が書かれている。わたしは今の今までこの罪深い女というのがマグダラのマリアだと思っていたため(それが通説だと思う)、一瞬混乱してしまった。

まあ、たしかに第7章では名前が書かれていないから実は誰だかわからない。誰だかわからなくてもかまわないと言えなくもないけど、何となく気になってしまう。気になることにより、次第に理屈っぽくなっていく。

投稿者 Blue Wind : June 5, 2005 06:13 PM | トラックバック
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