March 31, 2004

Solitude with God

おそらくは、ドッグ・イヤーのネットにおいて、ようやく時効を迎えたのだろう。ジャンキー葬というか、実際に亡くなったわけでもないのに葬式をやる。果たしてこんなことが赦されるのだろうか?というわけで、わたしは酷く怒っていたのだけれど、ようやく赦しが出たらしい。自分などにはそういうことをする理由がいまひとつ理解できないのだけれど、何か個人的には深いものがあったのかもしれない。それと同時に、いかに憐れみというものがない人たちが多いということにも、殺伐とした中で、うすら寒いものを感じていた。
最後のハゲに対するトドメはあたしが刺したのかもしれない。実際のところ、付き合いないから具体的にどういうことになっているのかはよく知らない。まあ、この世界・・・つまり、ネット社会においては、実体の欠如した人たちや噂はよくある話で、誰の言うことが本当なのかわからないとなれば、大抵は妄想が働いており、そうなると、常に一方通行社会だということを念頭においておかないと、妄想に巻き込まれてしまう。精神系のウェブなどを徘徊していると特にそういうことになる。精神系のウェブじゃなくても、多いから・・・ネットは、ジャンキーが。ネット・ジャンキーというのは病気だからね。逆に、病気だから、ジャンキー化するということも大いにありえる。

というわけで、たしかにさっぱりしてしまいましたね。
ネットというのは、基本が匿名の世界だから、あたしなんて、最初は実在の人間だと思われていなかったのではないかというか・・・つまりは、ネット人格とかね、その手の類の人間だと思われていたらしい。それこそネット演劇論ではないけれど、男なのに女になりきってしまうとか、複数の人格を演じていたり、どうもその手の類の人間もいる。理解に苦しむけど、その人格になっているのが癒しなのかもしれないし、それとも単に手頃なコミュニケーション・ツールにしているだけなのかもしれないし、臨床系は特に多い。
孤独と絶望の世界の住人だから、そうなると諦めるしかない。でも、歌人などは、そういう孤独と絶望を備えているくらいのほうがよい歌が詠めるような気がするけど、もしかするとそれは錯覚なのだろうか。これまたよくわからない。でも、寂しいから歌を詠む人が多いと、これまた昔誰かが言っていた。

『時空短歌』の前身は、たしか『宇宙時計短歌』と言っていたような気がする。どうしてそういうことになったのか、何度か説明してもらったけど、今でもよくわかっていないかもしれない。登場人物がいささかややこしいからでもある。いずれにせよ、誰がやっていたにせよ、短歌を宇宙(ウェブ)にあげようというシンプルな試み。それと同時に、ハンガーサイトなどのクリック募金サイトをアピールする。
これはね、よいことだと思ったわけ。クリックするだけで寄付になる。それだけで、飢餓の子どもたちが助かるなら素晴らしい。たまには国連もまともな提案をすると思ってしまう。つまりは、インターネットの普及に伴い、世の中が動き出したということなのかも。
『宇宙時計』は、9.11テロより前からやっていたから、テロの影響をモロに被ってしまった。あたしのささやかなサイトでさえ、結構、嫌がらせがあった。テロが発生してね、もうそれだけで、募金サイトを見るのがいやになってしまうらしい。気分の問題なんだろうな。TBSなどで地雷撤去のキャンペーンなどをしていて、それにより少し状況が変わったと思う。坂本龍一さんの活動もそれを支えていたのでしょうし、いざとなるとアートの世界の住人はパワーがある。
というわけで、テロとは何の関係もないままに、「みんなで戦争を無くそう、飢餓の子どもたちを助けてあげよう、愛と平和」。それがどうして恋の短歌になってしまうのかそこがまたよくわからないけど、要するに誰でもいいわけさ、素人でも歌人でない人でも、みんなで歌を詠んで、それをコンテンツにする。そこにクリック募金のバナーを貼ってお配りするだけ、という活動は続いていた。ほとんどが自分でサイトのつくりかたも知らない人たちが多かったから、それだけでも自分のサイトのコンテンツになるし、どんな歌でもそれが綺麗なイラストと共にアップしてあると、それなりに見えるからうれしい。
それがどうして『時空短歌』になってしまったのかも、実はいまいちよくわかっていないけど、一つにはテロが発生したために、そういう活動そのものに対して圧力があったこと、クリック募金というシステムが単なる広告であるために、広告収入に依存している無料サーバの場合、利害関係の不一致があるということ、それに対しての嫌がらせが発生していたこと、ジャンキーが暴れていたこと、その他・・・いろいろあらーな、という理由があって、名称が変化したのかもしれない。(もしかすると違うかもしれないけど)
あたしが有料サーバを借りるきっかけになったのも、実はクリック募金の問題がきっかけ。だって、いきなり違反行為と言われてサイトが見えなくなったり・・・有料サーバを借りる金で募金をするほうが合理的かもしれないけど、ウェブには普及効果があるし、それと意地かな。

まあ、このようにして考えると、実は短歌でなくてもよかったのかもしれない。でも、矛盾はなかった。短歌というのは実は誰にでも詠めるものであり、いわば千羽鶴のようなものだ。みんなの願いを乗せて飛ぶ。上手な人もいれば、あたしみたいに初めて歌を詠む人もいる。それを、宇宙にあげる。平素は恋の歌でも何でもいい。でも、いざテロだの戦争だのとなると、ダ〜ッとそういう歌が多くなる。がんがんに連歌ではないけれど、それこそみんなの歌が集まる。個々人の間でもそういう歌が詠み交わされる。

それがいつしか変化した。その理由も、実はあたしにはよくわからない。歌人リストをつくるようになってしまったかもしれないし、匿名ながらも本格的に歌を詠んでいる人の投稿なども雑じってきていたのかもしれないし、自分のように歌壇や結社のことをまるで知らないと裏事情にも詳しくない。ただ、あれこれあって、うちのサイトにもどこかの結社の人から嫌がらせがあり、しかも『時空短歌』からの流れの人だと知る。実際問題、『時空短歌』にどのような歌人がいたのかよく知らない。その中でごく少数の人たちとお付き合いしていただけだからだ。だから、もともとが歌人ではないし、知らない人ともお友達と思われてしまうことが苦痛だったために、歌人リストからは外してもらった。結社みたいに最初から組織化されている世界だという認識があれば違うのかもしれないけど、そういう帰属意識は持っていなかったし、単なるサイトのコンテンツくらいにしか考えていなかったから。ちょこんと交じっている分にはかまわないんだけど、リスト化された中は困る。
こう、あらし騒動が勃発して、次々と膿が出る。自分が結社へ行こうと思ったのは、そういう騒動がめんどーだったのが一つと、匿名ということにうんざりしていたのと、選者さんのところに歌を送ってみたかったのと、歌の数が増えたから少しは本格的な歌を詠んでみたいと思っている頃だったのと、単なる流れ。が、しかし、実際に『時空短歌』の膿は、そういう結社関係のしきたりみたいなところから出ていたような気がする。なんせ、歌を発表するという意識がメインになってしまうと、名前を売るとかさ、インターネットがメディアとして話題になっているとかさ、「はあ?」という・・・・
あっさり語れば、活動のテーマや本質が変化してしまっているという事実に、主催者側の人間ではなかったあたしには理解できなかった次第。付き合いは長いのだけど、そういうふうに主催に回るのは好きではないために、逃げモードだからね。そんなの知ったこっちゃねーという。無責任。だから言われるわけですよ・・・何もしないって。だって関係ないから。
もちろん、派手なコンテンツをつくるより、テキスト系の歌のサイトのほうが自分の好みには合っていたし、短歌だけ詠んでいるほうが気楽だから、というのが大きな理由。ところが、主催者に言わせると、短歌は、単なる「短歌部門」らしい。「はあ?」これにも悩んだ。つまり、根底に、最初の理念というものが失われ、歌人に活動をのっとられるのがいやだったのかも。
どうしてそういう流れになるのか理解に苦しんでいるところに、いきなり主催者が亡くなる。「はあ?」(なんで、「はあ?」なのかはともかく・・・・)

とりあえず、神父さんのサイトへ行ったら、短歌関係は、2001年のコンテンツだけリンクしてあるので、つまりは2002年以降の活動は無視してもかまわないのかもしれない。神父さんの場合は、常に隊長は神さまなので、2001年はよく、それ以降はダメということになる。2002年以降に、実際にどういう裏事情があったのかあたしは知らない。いいよ、シンプルで。他人のことをまるで考えないというのは。目標は、Solitude with Godなのだろう。一人にならないと神さまは見えないらしい。だから、一日一時間でも一人で歌を詠んで神さまとお話する。

投稿者 Blue Wind : 07:00 AM | コメント (0)

フィリピの信徒への手紙 2. 25-30

  ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さなければならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけではなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。

投稿者 Blue Wind : 02:27 AM | コメント (0)

あの月がとても遠いと思うくらいとても近いと不思議に思う

ブルガリのシンプルゆえのかおりにはシンプルゆえのこだわりがある
感性はうつろいやすく不確かで不確かなまま確実となる
迷い道いくつあるかな人生は不確かゆえの確実はある
たぐりよす迷いの糸は真実の切れそうなまま確実となる
不確かな迷いの中に不安げにふわふわとするわたぼうしかな
公園の桜咲いたと摘んで来る吾子には桜公園の花
雨の日は何気ないまま咲いている水仙の花雨宿りする
あまぞらをみあげるように群れなしてお話してる水仙の花
ピシャピシャと音を立てたる雨降りは静かな夜を引き伸ばしてる
都合などまるで気にせず雨脚はてるてるぼうずビニールにする
はるちゃんの柴犬ちーた放し飼い泥を気にせず戯れてくる
この街でいったいなにを見ているかとまどいのなか宇宙と月は
ロケットは宇宙へ飛ばすためにある。あの白い月、浮かんでいるが。
遠い空近い月まで遠い空近くて遠い宇宙をながむ
あの月は子どもの頃から変わらない。どこか遠くで輝いている。
あの月がとても遠いと思うくらいとても近いと不思議に思う

フィリピの信徒への手紙 2. 25-30

投稿者 Blue Wind : 02:05 AM | コメント (0)

March 30, 2004

ルカによる福音書 16. 1-18

  「不正な管理人」のたとえ
  イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分の家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎えて入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

  律法と神の国
  金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

投稿者 Blue Wind : 07:20 AM | コメント (0)

マタイによる福音書 26. 47-56 裏切られ、逮捕される

  イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐにイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群集に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

投稿者 Blue Wind : 06:59 AM | コメント (0)

輝きを生きるよろこび大地には輝きを知る純粋な水

サバンナを見つめるように淡々と生きゆくさまを思い起こせり
草原を生きるキリンは草を食む草を育む天の恵みよ
立ち向かう?サバンナはむり。獅子からは逃げることしかできないキリン
天からのめぐみをうけて草原を駆けるキリンの愛嬌を思う
ジーザスは獅子を相手に逃げ出さぬわたしはキリン逃げるしかない
憐れみをそなえたキリンかんむりはめだたぬようにつのにも似たり
サバンナを見つめるように淡々とわがこさしだす、いきにえとする
そうぜつなくるしみおもうわたしには愛とはいかになやんでもみる
サバンナのキリンは走る子キリンは憐れなるかな獅子につかまる
淡々とまた淡々と考えてなお壮絶な草原の陽よ

マタイによる福音書 26. 47-56 裏切られ、逮捕される

ユダだけではなく、ほかの弟子たちでさえ逃げてしまった・・・なんか、わかるな・・・
でも、なんでひつじだとわからなくて、キリンだとわかるんだろう・・・牧場とサバンナの違いかな、いや、動物園か、いや、テレビか、アニメか。

食肉に慣れてしまった文化にはもはやいけにえ憐れみもなく
いのちおもうサバンナに住む生きしもの生きることさえ自然のままに
儚さをつたう大地のありようは輝きの中生きものとなる
与われて生き抜くものの輝きは草原という木の葉のめぐみよ
ひとひらの木の葉ゆらるる草原はただ生きるのみ天与の園よ
生きる意味おもわぬ世界浸りては生きることさえ人為的なり
いのちとは憐れみのなかはぐくみておもくもなりしかろくもなりし
輝きを生きるよろこび大地には輝きを知る純粋な水

ルカによる福音書 16. 1-18

ここ大事かも。どうしてあれがエゴで、これが愛なのか、おなじいのちでも意味がちがう。いのちは大切でしょ?でも、それに値段をつけているからわからないのかも。お金かけたら大事にしているっておもうらしい。よーわからんわ、世の中は。

投稿者 Blue Wind : 06:44 AM | コメント (0)

March 29, 2004

キリンの夢

弱肉強食社会をどうやって生き延びるか?
簡単だ。キリンのように逃げる。
アフリカのサバンナの写真を眺めながら、午前中を過ごす。サバンナの中には肉食獣だけが暮らしているわけではなく、草食動物も多い。もしかすると、草食動物のほうが種類は多い?ライオンみたいに肉食だと、結局、狩りをしないと飢える。でも、草食だと天が養ってくれる。
朝、いきなりキリンの夢で起こされる。このため、ヒマジンはこのことで悟りをひらく。
こーね、『パッション』ではないけれど、ジーザスの受難を考えると、ムカムカするし、胸が痛む。なんて酷いことをするのだろう、人間なんていつの時代も変わらない、とかね。ローマ人兵士の姿を見たら、ペチペチやりたくなってしまう。つまりは、ゆるせない気持ちでいっぱいになる。そして、憐れみの歌を詠いたくなる。
ロッシーニの世界ではないけれど、どうしても自分にはそういう感覚がインプットされているのかもしれない。茨の冠、鞭、血まみれのジーザス、磔刑。恐怖すらある。でも、それをそのままでは、うまく説明できないけど、おそらくは旧約聖書の世界になってしまうのだと思う。とにかく、戦争や飢餓や病気、憐れみの世界。ヨブ記などを読んだら、サタンにはムカムカしてしまう。この世から消えてなくなれって思う。でも、これではダメだ。どうしてダメなのかというと、やっつけたくなっているから。暴力に暴力で報いていては、いつまで経っても同じことの繰り返し。だから、癒しが必要となる。

臨床というか、カウンセリングの世界は、それこそ極悪非道の世界というか、根底に誰かを恨んだり憎んだり、愛の欠如した世界がある。誰かが簡単に言う、「何らかの理由で子どもの頃に親の愛が足りなかったんだよ」と。大抵はそうなんだよね。足りないだけならともかくDVとか、幼児虐待とか、それこそ親のエゴにより弱い者が犠牲になる。そういう肉食獣のような弱肉強食的躾を受けると、それが当たり前だと思ってしまう。実際に暴力を使うかどうかより、ある意味、力により無理やり子どもを自分の思い通りにしようとか、思い通りにならない子どもに暴力をふるうとか、それでも子どもは親に愛を求めるし、少しでも親に愛されたいとかね・・・正しい愛を知らずに育つ。
こういう人たちを相手にしていると、こころが殺伐としてしまうし、精神が枯渇してくる。
憐れみ・・・
が、しかし、癒しを求められるのもいやになる。癒しがほしいのはあたしのほうだと逃げる。だって、だんだん自分のほうがヘンになってしまいそうで。弱肉強食が当たり前なんでしょうし、ライオンにキリンが説教しても無駄だから。つまりは生きる世界が違うのだろう。同じ大地に住みながら、世界観が違う。

というわけで、キリン。なんか、すっきりしてしまった。ライオンに同情するより、ライオンを見たら逃げないと。天敵だ。しかも、キリンは武力を持たないし、食われて怒っても無意味。たまたま描かれていたジーザスのイラストがキリンに似ていると思っただけなのかもしれないし、この平和な感覚を「麒麟」にしてはいけないのだと思う。あれは伝説の動物だ。本物のキリンはアフリカで草を食みながら生きている。全然イメージが違うよね。
肉食獣に生まれてしまったらそのように生きるしかないのだろうし、弱い者は逃げるしかない。敷地の狭い動物園では、獰猛な動物は檻に入れられているし、今は知らないけど札幌の円山動物園では、キリンや象に動物せんべいをあげても怒られなかった。それくらい違うよね。子象となると、タイだとホテルの中を散歩している。触ったら黒い髭のような体毛に覆われていて驚いた。ああなると、毎日子どもたちと記念撮影だもんね。

サバンナの生態系を眺めるように、人間を眺めると、すでに怒りというものは消える。どうして世の中には悪いヤツがいるのだろうとか、戦争はなくならないのだろうとか、あれにこれにと考えても意味ないのかも。キリンは逃げるしかない。サバンナにはいろいろな動物がいる。そのように地球を眺めると、雑食だからね・・人間は。いろいろなヤツがいるのだろう。それが善か悪かは人間が決めることではなく、人間が決められるのはルールだけだ。ルールを超越して、どのような生き方を選択するかは人それぞれなんでしょうし、一つわかっているのは、生き残るために肉食獣のような生き方をしなければならないというのは嘘だということ。いきなりベジタリアンになろうという気はないけれど、サバンナを思わなければならないのかもしれない。サバンナの動物たちがどのように生きているのか。
血まみれの残虐性を眺めるように聖書を眺めるべきではなく、キリストの受難を考えるときも肉食獣のようではなく、静かなキリンとして眺めなければならないのかもしれない。キリンなら高い木の葉も食べられるし、食べつくさなければまた自然と与えられる。与えられる生き様。獰猛に狩りをしないと生きていけない生き様もあれば、与えられる生き様もある。与えられながら生きる。そして、逃げる。

投稿者 Blue Wind : 06:07 PM | コメント (0)

ペトロの手紙 二 1. 16-21 キリストの栄光、預言の言葉

  わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

投稿者 Blue Wind : 06:53 AM | コメント (0)

キリンさん目は大きくて面長で麒麟麦酒のようではないわ

キリンさん目は大きくて面長で麒麟麦酒のようではないわ
局所的悪には悪の華の咲きサバンナに住むキリンは走る
草原の息づく大地内陸は暗黒のままいのち育む
海岸線のんびりつづく明かりかな街は輝き人はゆきかい
透明な水に浮く舟水の道島から島へわたりゆくなり
平和なら平和を維持する同盟のなぜになかりし20世紀よ

キリンの夢に起こされた。

ペトロの手紙 二 1. 16-21 キリストの栄光、預言の言葉

投稿者 Blue Wind : 06:44 AM | コメント (0)

March 28, 2004

題詠マラソン2004, 031-036

031:肌
肌いろは輝度のちがいと知りてやも黒くもならず白くもならず
032:薬
薬ゆび少しだけ長いゆびさきはやけにみじかい小ゆびとならぶ
033:半
半分はあなたのために半分はだれかのためにわたしはきえる
034:ゴンドラ
森のうえしずかに浮かぶみかづきをゴンドラにして星はかがやき
035:二重
愛と欲二重螺旋の構造は男と女ややこしくする
036:流
激流をおそるるような渦巻きをもう見ることはない ドラム式

投稿者 Blue Wind : 06:43 PM | コメント (0)

マイペースを維持するのもたいへん

久しぶりにシャーデーなどを聴きながら、のんびりした午後。おちびが春休みに入ってしまったために、パタパタしている。そのくせ、朝早く起きなくてもよくなったせいか、どうしても生活のリズムが狂ってしまう。もともとヘンと言われるとそれまでなんだけど。
夜、家族が寝てから歌を詠む。このところ皆まとめて夜更かしなものだから、だんだん時間が遅くなる。どうも午後を過ぎないと起きているという気がしないくらいぼーっとしているかもしれない。それでもぼーっとしているくらいのほうが歌を詠もうという気にもなれるために、そちらのほうがよいかもしれないし、それでいて、案外詠んでいるときにはぼーっとしていないのかもしれないし、歌を詠んだ後に聖書を開き、それをアップする頃には半分寝ている。半分寝ていながらも、パチパチ打てるというのも慣れなのかもしれない。もう4年もキーボードに向かっているわけだから、それもまた一つの生活なのかも。
たしかに、キーボードに慣れていなかったら、キーボードで歌を詠むのは難しいかもしれない。これって習慣なんだろうな。手書きに慣れていたら、それこそ手に馴染んだペンではないと何となく書く気になれないとか、その手の習慣に近いかもしれない。学生時代にもそういうことってあったし・・・どうしても手に馴染んだペンでないと書けないというか・・・こういう感覚は誰にでもあるような気がするんだけど、どうなんだろう。手書き用に、それを持てば歌を詠みたくなるというようなペンや紙など、あれこれ工夫すれば手書きでも大丈夫になるかもしれない。気分屋って、どこかそういう気分に左右されてしまう。

どんなことでも自然体のほうがいい。
ある日突然、インスパイアされて気がつけば歌人になってしまったということを誰かに理解してもらおうとしても無理だ。無理は無理なりにそういう誰かに理解してもらおうというのを諦めている部分というものをためしにサイトに書いておくと、世の中には自分と同じような人がいるらしい。忘れた頃に、記事にコメントが入っている。Blue Windさんと呼ばれて、そういえば、投稿者の欄がめんどーだからそのままサイト名になっていることを思い出す。投稿者を設定することにより解決するはずなんだけど、一人でサイトを管理しているわけだから、あえてそういうのもめんどーなような・・・というわけで、いきなり検索で記事に飛んで、という来訪者の人にとっては、あたしはBlue Windさんなんだろう。CGIとはいえ、記事ごとに検索に引っかかることもあるために、Blogは便利なのかも。たしかにネットはトップページから来訪してくれる人なんて稀だし、とりあえずHOMEというものをつくってはいるのに、実際にはTanka Blogがメイン。検索ロボットくんにどうしてなのか教えてほしいけど。
今、かなり自由だ。毎日、歌を詠んで、聖書をひらく。それだけ。そうすると、聖書のひらいたページがまるで神さまからのお手紙のような気がしてしまう。ああ、これが神さまとだけお話せよという感覚なのだということを知る。おそらくは、自分のようにウダウダをキーボードに乗せるわけでもなかったら、神父さまなどは一人でそういうことをお続けになっていらっしゃるのだろう。何気なくひらいたページに、メッセを感じるという感覚。おそらくは、こういうのは本当に一人でやることなのでしょうし、あたしのように正々堂々とサイトのコンテンツにしているというのはどうかと思うんだけど、それはそれで今の生活になってしまっているし、あっさり語れば、自分が単なる歌詠みだからそれでもかまわないような気がする。
何かのレスがほしいだけなら、考えてみたら聖書とお話しているほうが気楽なのかも。一生懸命に理解を求めて何かを書く必要もない。訴える必要性もない。議論すらない。淡々と一人のペースで続く。特に、人生や宗教や世界のことなどは、そういうものなのかもしれない。一人で考えても行動しても無駄なことならなおさら。淡々と聖書とお話しているほうがいい。

歌もね、ようやく結社アレルギーというものが薄くなってきたかも。どうしても徒弟社会というのは疲れる。どっぷりと浸かってしまうか、逆にほどほどに距離を置くかのどちらかしかない。歌を送るのは強制ではないし、基本的に無償の世界だから、それこそ個人契約の社会なのかもしれない。特に何かの見返りを期待しないかぎり、誰も何も言わないだろう。まあ、力社会だから、上の先生の引きがあって初めて何かができるということもあるのかもしれないし、歌人として有名になりたいとか、上のほうに上りたいなどを期待すればそういう関係性も当たり前なのかもしれない。賞を取るときにも、それなりにあるんだなーなどと眺めてみたりもする。自分のやりたいことと完璧なる方向性の一致があればそれはとても有効な関係性のような気もするし、それでいてあくまでも自分のペースを守りたいと思えばストレスとなる。
どちらかというと、隅っこのほうにちょこんといるほうがショウにあっている。こう、がんがんに行きそうでしょ?ぜんぜん。マイペース。何となくノラクラノラクラしながら、ちょこんといるほうが気楽で気楽で。そういう自分のペースをいかにして守ろうかということの戦いな気がする。一度、どっぷり浸かってしまったら、なかなかそこから外へ出るのは気を使いそうだし、かといって今さら無責任に選者欄を浮遊することは可能なのだろうか?悩む。人間関係が想像以上にややこしそうで、それでいてちんぷんかんぷんだし、『未来』の場合、会則としては会員が自由に選者欄を選べることにはなっている。自由に選べと言われても、知らんのよ。もともと歌の世界の人ではないというか、あまり興味もなかったのに、いきなり歌人になってしまったがゆえに何も知らない。困った。
考えるのやめよう。そのうちまた気まぐれに何かを思いつくかもしれないし・・・何もなかったら、ミーハー的に岡井先生のところに歌を送っていただけなんだろうな。そういうスタンスに戻しますと言われても、本当にそれでかまわないのだろうか?
思いつく理由としては、「すみませ〜ん、やっぱり手書きでは歌が浮かばないんです。だから、サイトにアップしてあるとかしてないとかまるで関係のない選者さんのところのほうが気楽なんです」とかね・・・(本音) でも、加藤先生自身はあまり言わないんだけど、どうしても兼ね合いというものがあるから難しい。だって、自分で歌集出したり、賞を取ったり、あれこれ活動している人たちからすれば、どうでもいいような話なんだと思うよ。実際、自分がほかの人たちに対してどう思うかに対しては、単に、個人の勝手だろうとしか思えない。だったら、何か言われても無視したらいいでしょ?あっさり無視するのは簡単なんだけど、あまりにも簡単に無視するほどの確執もないわけで、自分という人はあっさり怒るとまさにそれを実行する。が、しかし・・・そこまで強硬な姿勢を貫くほどの理由が浮かばない。明々白々に、あんたなんか嫌いよ、ということになれば話は早い。でもさ・・・実際には、ほとんど知らない人なわけで、だからこそ余計に悩む。もっとズバズバやって、ライバル意識むきだしにがんばるとか?ハア・・・・無意味。そういう余裕があるなら、もっと違うことにそのエネルギーを費やしたほうが生産的かもしれない。
それでもアレルギーは緩和しつつある。そういう世界を横目でちらりと眺めながら、淡々とマイペース。あーなんかあたしっぽい。
まあ、まだ作歌も浅いし、勉強しようと思ったら山のようだし、いまだに聖書を読破していない。もう少し、今の生活に慣れて、自分の歌が詠えるようになったら次には歌評とか?歌評を書くのは、ある程度慣れてからかな。今はまだ距離感がつかめない。ほかの誰が何を言っても、「これ!」というか、そういうワガママさも必要なのかもしれないけど、あっさり語れば、あたしがいいなーって思う歌は誰が読んでもいい歌らしい。ということは、あえて一生懸命にはなれない。酷評というものがあり、それに対していちゃもんをつけるというのは得意な気がするけど、今のところ酷評というものには出会えない。言われることはあっても言うものではないせいからかもしれないけど。そうなんだよね・・・いや、もしかするとあるのかもしれないけど、それに対してはいささか無責任でもあり、他人に何か言われても淡々と一人のことをしている分には何も困らないし・・・今はまだ、個人のことで精一杯なんだろう。歌、浅いから。歌壇のこともよく知らない。単なるミーハーですな。最初の1年は、そんなものなんじゃないの?知らん。

投稿者 Blue Wind : 05:47 PM | コメント (0)

イザヤ書 30. 18-26 救いのとき

それゆえ、主は恵みを与えようとして
    あなたたちを待ち
それゆえ、主は哀れみを与えようとして
    立ち上がられる。
まことに、主は正義の神。
なんと幸いなことか、すべての主を待ち望む人は。
まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ
もはや泣くことはない。
主はあなたの呼ぶ声に答えて
必ず恵みを与えられる。
主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。
わが主はあなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えた。
あなたを導かれる方は
    もはや隠れておられることなく
あなたの目は常に
    あなたを導かれる方を見る。
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
「これが行くべき道だ、ここを歩け
右に行け、左に行け」と。
そのとき、あなたは銀で覆った像と
金をはり付けた像を汚し
それを汚れたもののようにまき散らし
「消えうせよ」と言う。
主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。
地の産み出す穀物は豊かに実る。
その日には
あなたの家畜は広い牧場で草をはみ
地を耕す牛やろばは
ふるいや箕でえり分け
発酵させた飼葉を食べる。
大いなる殺戮の日、塔の倒れるとき
そびえ立つすべての山、高い丘の上に
水路が造られて、水を運ぶ。
主が民の傷を包み
重い打ち傷をいやされる日
月の光は太陽の光になり
太陽の光は七倍になり
七つの日の光となる。

投稿者 Blue Wind : 02:39 AM | コメント (0)

ペトロの手紙 一 1. 22-25

  あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。
  「人は皆、草のようで、
  その華やかさはすべて、草の花のようだ。
  草は枯れ、
  花は散る。
  しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

投稿者 Blue Wind : 02:29 AM | コメント (0)

明日までの希望を胸に太陽はわたらせゆくもまたしずみゆく

日日ゆかば憂きことすぎゆ憂きことも忘れてすごす犬の話題か
震災に小学生だったあの子らもいつしか荷物詰めて旅立つ
いつの日かオトくん連れて旅立ちぬ吾子の部屋までついてゆくかも
学生の減った街には桜花咲くのを待ちつ子らの遊べり
憂鬱な若葉マークの季節には運転するもひかうるが花
うつうつと桜ブルーに突入すなさけなきわれやはり今年も
四月には学生たちで溢れいづ店も五月は閑散とする
春の日は出会いと別れの交差する街並みみつめ日日を過ごさぬ

ペトロの手紙 一 1. 22-25

   「草は枯れ、
   花は散る。
   しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

永遠にうつろいゆかむ運命を咲いては散りぬ花は咲きたる
明日までの希望を胸に太陽はわたらせゆくもまたしずみゆく
ゆっくりとオゾンホールのとどまりぬ青いうら空水面のごとく
みことばはいつの時代も変わらない変わらないから永遠となる
栄光の立ちゆかせども変わらぬは枯れて散るらむまた咲く花ありき
めぐりゆく季節の中はいろどりに溢れいづ野はよみがえりたる

イザヤ書 30. 18-26 救いのとき

投稿者 Blue Wind : 02:18 AM | コメント (0)

March 27, 2004

コリントの信徒への手紙 2. 6-16 神の霊による啓示

  しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、
  「目が見もせず、耳が聞きもせず、
  人の心に思い浮かびもしなかったことを、
  神は御自分の愛する者たちに準備された」
と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
  「だれが主の思いを知り、
  主を教えるというのか。」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

投稿者 Blue Wind : 03:11 AM | コメント (0)

イザヤ書 31. 1-3 エジプトに頼るな

  災いだ、助けを求めてエジプトに下り
  馬を支えとする者は。
  彼らは戦車の数が多く
  騎兵の数がおびただしいことを頼りとし
  イスラエルの聖なる方を仰がず
  主を尋ね求めようともしない。
  しかし、主は知恵に富む方。
  災いをもたらし
  御言葉を無に帰されることはない。
  立って、災いをもたらす者の家
  悪を行う者に味方する者を攻められる。
  エジプト人は人であって、神ではない。
  その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。
  主が御手を伸ばされると
  助けを与える者はつまずき
  助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。

投稿者 Blue Wind : 03:00 AM | コメント (0)

箴言 29. 1-27

  懲らしめられることが多いと人は頑固になる。
  彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。
  神に従う人が大いになると民は喜び
  神に逆らう人が支配すると民は嘆く。
  知恵を愛する人は父を喜ばせる。
  遊女を友とする者は財産を失う。
  王が正しい裁きによって国を安定させても
  貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。
  友にへつらう者は
  彼の一歩一歩に網を仕掛ける者。
  悪を行う者は罪の罠にかかる。
  神に従う人は喜びの叫びをあげる。
  神に従う人は弱者の訴えを認める。
  神に逆らう者はそれを認めず、理解しない。
  不遜な者らが町に騒動を起こす。
  知恵のある人々は怒りを静める。
  知恵のある人が無知な者と裁きの座で対すると
  無知な者は怒り、嘲笑い、静まることがない。
  無垢な人を憎み、その血を流そうとする者がある。
  正しい人々はその命を助けようとする。
  愚かな者は自分の感情をさらけ出す。
  知恵ある人はそれを制し静める。
  支配者の偽りの言葉に耳を貸すなら
  仕える人は皆、逆らう者となる。
  貧しい人と虐げる者とが出会う。
  主はどちらの目にも光を与えておられる。
  弱い人にも忠実な裁きをする王。
  その王座はとこしえに堅く立つ。
  懲らしめの杖は知恵を与える。
  放任されていた子は母の恥となる。
  神に逆らう者が多くなると罪も増す。
  神に従う人は彼らの滅びるさまを見るであろう。
  あなたの子を諭すなら、安心していられる。
  彼はあなたの魂に楽しみを与える。
  幻がなければ民は堕落する。
  教えを守る者は幸いである。
  僕を言葉で諭すことはできない。
  理解したとしても、答えないであろう。
  軽率に話す者を見たか。
  彼よりは愚か者にはまだ望みがある。
  僕を幼いときから甘やかしていると
  後には手のつけられないものとなる。
  怒りやすい人はいさかいを引き起こし
  激しやすい人は多くの罪を犯す。
  驕る者は低くされ
  心の低い人は誉れを受けるようになる。
  盗人にくみする者は自分の魂を憎む者
  呪いが聞こえても黙っている。
  人は恐怖の罠にかかる。
  主を信頼する者は高い所に置かれる。
  支配者の御機嫌をうかがう者は多い。
  しかし、人を裁くのは主である。
  神に従う人は悪を行う者を憎む。
  神に逆らう者は正しく歩む人を憎む。

投稿者 Blue Wind : 02:52 AM | コメント (0)

おびただしひかりのいぶきくうはくに黄紫のひかりのように

マタイによる福音書 20の途中から終わりまで

聖書は読むものではなく、見るものなのかもしれない。
それでいて見えるものは少ない。

ぽっかりとなにかがくうに浮かびゆくくうはくのなかてんはちじょうに
おびただしひかりのいぶきくうはくに黄紫のひかりのように
かこまれしひかりのいろもきがつかぬわれらの生きるひかりありしも

箴言 29. 1-27

あった・・

イザヤ書 31. 1-3 エジプトに頼るな

おなじことなおくりかえし今日もまたプラモデルすら売れない時代
端末を操作しながらうたを詠むみゃあびなネット今日もつづきぬ
なおそれが愚かなことに見えるだけ二重螺旋はうつろうもがな
終焉はこだちにきゆる満月の三日月となりほそぼそと浮く
十六夜はためらいがちに出る月のゆきももどりもできぬ磁石か
まだ明日があると思えば不如帰神戸の冬を知らずに鳴かめ

コリントの信徒への手紙 2. 6-16 神の霊による啓示

投稿者 Blue Wind : 02:00 AM | コメント (0)

March 26, 2004

題詠マラソン2004, 021-030

021:胃
キャベジンの匂いなつかし胃腸薬緑のカエル今もあるかな
022:上野
地下鉄の階段下りる上野駅コインロッカー空間にあり
023:望
ありふれた虹さえ見えぬ希望とは雨のない国ふと思い出す
024:ミニ
ミニ・ピンのステッカー貼るクルマには首輪もしないオトを乗せたる
025:怪談
今は春今宵はさむく十六夜へば真冬の夜の怪談のやう
026:芝
荒れ果てた庭にしたるは芝の種うっかり撒いたあの夏の日か
027:天国
階段をゆっくりのぼる海のうえ逆巻くような天国の音
028:着
棘棘と棘の服を着るように薔薇の木の棘チクチクと刺す
029:太鼓
テンツクテンツクテンツクテン飛び交えば太鼓のリズム錯乱の耳
030:捨て台詞
えいままよかっこよくなど言えないわ言わないでみて捨てゼリフなら

030:捨て台詞(再投稿)
えいままよかっこよくなど言えないわ言わないでみて捨て台詞なら

投稿者 Blue Wind : 11:05 PM | コメント (0)

21世紀の霧の中

今月はすでに400首近く詠んでいる。これが多いのか少ないのか、実は皆目検討もつかない。ただ、昔の歌人のことを考えれば勢いとしては多いほうなのかもしれない。でも、1日で100首くらい詠んでしまう人たちもいるのだから、それを考えると決して多いほうではないのかもしれない。詠むネタがないと思ったら、時事短歌でもなんでもありいなんだから気楽。
想念というのは不思議なもので、18年前のパリの歌から始まり、毎日聖書を詠んでいるうちにどうしても旧約聖書の世界が理解できない。その世界をどうにかして理解しようと思っているうちに時事短歌へ走る。これはごく自然な行動であり、毎日詠んでいればそういう時もある。かなり本人にとってはおおまじなのよ。報道などからイメージして、イラクの歌でも詠むわけでしょ?そうなると実際にイラクには行ったこともないのに詠む。アフガンにしても然り。歌壇では新聞に投稿するような歌は嫌われるのかもしれないけど、実際に投稿はしないまでもある程度歌にして自分の意見を発信していくことはそれなりに意義があると思う。つまりは、長々とした解説文などを詠むよりストレートだからかも。歌のインパクトを練習する上ではなかなかの効果があるような気がするけどどうだろう。できればパッと見てなかなか意味が理解できない歌よりも、一瞬のうちにこころに引っかかるような歌のほうが面白い気がするのは、あたしが歌のことをよく知らないせいかもしれない。
でも、難解な歌なら歌なりにどこか存在感があったりして、佐藤春夫さんの言葉を借りると、語感というものなのだろう。つまりは、現代詩を難解にしているのは、詩を語意で捉えようとしているのが原因だという。詩人は語意ではなく語感を大切にする。だから、読者が、語感ではなく、語意でその意味を理解しようとしても理解できないのが当たり前らしい。まあ、詩人は実用書を書くわけではないから、その語意に深く留意する必要もないわけで、それよりも語感を大切にするという気持ちは歌も一緒。だから、新聞などに投稿する歌はどちらかといえば語感よりも語意が大切であり、内容重視型なんだろう。だから、詩ではないかもしれない。だから、歌でもないらしい。でも、語意を伝えるだけでは詩や歌にならないという気持ちは、誰でも根底にあるのではないだろうか。
自分としては、もはや詩と歌を特に分けようという気持ちはない。
万葉集の写真集を買った。英訳がついている。
英訳を読むと、なるほどたしかに万葉集というのは日本最古の詩集であり、いかに詩情にあふれた世界なのか今さらながらに目からウロコ。歌は、どうしても語数律だから、リズムや語調が大切になる。だから、そのリズムに乗って詠っている分にはとりあえずはどんなふうに詠おうとも短歌らしい。逆に、万葉の詩情をこめて詩を詠っても歌にはならない。つまりは、語数律ではないからだ。ただそれだけのことなんだけど、日本語のもつリズムというのがそもそもが8分の5拍子なのだから仕方がない。

一つ気がついたんだけどね、もしかすると間違っているかもしれないけれども、今の歌壇を引っ張っていっている高齢の人たちの時代は、どこか破壊の世代であり、常に新しい形を模索しながら今の形態をつくってきたのではないかという・・・気のせいかな。自分にはもはやそういうこともよくわからない。逆に、「ネット短歌」と表現されると残念でたまらない。そういうつもりはまったくないからだ。もしかすると、ほかの人たちは、ネットにありがちな歌の世界が非常にめずらしいだけなのかも。なんか、いつも視点がずれてしまう。つまりは、自分は古い歌をあまりにも知らなさすぎなのかもしれないし、それでいて何も困らない。
ただ、歌くらい好きに詠っていたってよいのではないかと思っただけ。
今から半世紀くらい前に、学生がアパートで静かに歌っていたのがボサノバ。つまりは、そうやってブルーノートは広がっていったわけであり、自分はどこかその流れの中にいたいと思っている。静かな反戦というか・・・反戦デモにも興味ないし、いわば暴力そのものを否定するべきではないかと思う。声を大にして語ることも諦めて、静かなつまびらやかな世界。明るくもあり暗くもあり、自然があり愛や恋がある。好きなものだけを詠う。どこかそういう世界の流れの中にいたいという気持ちはある。R&Bは好きではない。でも、軽いノリであれこれ社会派のサウンドも面白いような気もする。
あっさり語るけど、あたしは21世紀の歌人だ。だって、初詠みが2001年2月5日だ。サイトのコンテンツにしていたから記録も残っている。2001年のお正月に初めてサイトをつくり、単なる流れだったんだけど、今にして思うと21世紀になったとたんにいきなり歌人になってしまった。それがまさか今日まで続いてしまうなんて当時は思っていない。ついこの間のことのような気がするし、ずいぶん前のことのような気がするし、自分のことに没頭しながら歌を詠む。
誰が厳しいと言って、自分が一番厳しいだろう。歌は正直だから。調子のよいときもわるいときもある。こーね、一人あつまり二人あつまり、という感覚は嫌いではない。来るもの拒まず去るもの追わず、みたいな。ゆるやかな関係性。実際にはどうだったのかはわからないけど、自分的にはそういう感覚のほうが好きだ。気を遣いながら歌を詠んでいて何が楽しいのかよくわからない。いささか競争心をむき出しにして歌を詠むのも趣味ではない。あっさり語れば、自分はもともとバトル系だ。もしかすると論客かもしれない。でも、なんで歌を詠むくらいで大騒ぎしないといけないのかよくわからない。
ジョアン・ジルベルトが最初にボサノバを歌い始めた頃の流行歌の主流は、もっと大袈裟で感情をこめて歌うとか?つまりは、劇場歌手の世界だったのだろう。あんな小声でぼそぼそ歌っていたら声が後ろの席まで届かないではないか。たぶん。でも、時代はどんどん変化する。
今の自分の心境としては、あれはダメこれはダメと言われていることをどんどんためしてみたい。破壊するのが目的ではなく、歌は写実が基本と言われれば、写実でない世界を詠んでみたいし、概念歌が古いと言われればそれも詠んでみたい。ニューウェーブが終わったと言われれば、ちょっと真似して詠ってみたい。万葉集が死んだと言われれば、英訳の万葉集でその時代を眺めてみる。だから、あれもダメこれもダメ、こうするべきああするべきという話にはなるべくたくさん目を通したい。それが自分の肥やしだからだ。一事が万事この調子だから歌の数は多い。だから、おそらくは自分で気に入るような歌が詠めるようになるためには2万首くらいが今の目安。最初の頃のピッチだとそこまで到達するまでに何年かかるのだろうと思っていたけど、毎日ポツリポツリ詠んでいるだけで、今月は一気に倍になっている。歌だけ詠んでいるわけではないんだけど、ペースの問題なんだろうな。
誰かがサイトにアップするのは発表だと騒いでいたけれども、あたしの歌はまだまだどこかに発表できるような歌ではない。それでいて、もう昔のように、軽いノリで詠いたいとも思わない。なんか、かったるい。今、すごく面白い。自分がどこへ向かっているのかわからないけど、要するに自分の世界へ向かって進んでいるような感覚はある。これが自分の世界というものをつくりだしたい。今はまだ霧の中。完成したら終わるのだろうか。そんな先のことまで考えても意味ないか・・・

投稿者 Blue Wind : 05:16 AM | コメント (0)

コリントの信徒への手紙 1. 18-31 神の力、神の知恵であるキリスト

  十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。
  「わたしは知恵のある者の知恵を滅ぼし、
  賢い者の賢さを意味のないものにする。」
  知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣ベ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
  兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選びました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることができないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

投稿者 Blue Wind : 12:22 AM | コメント (0)

March 25, 2004

オトくんがギャンギャンと吠えたとてボサノバ聴いて今日も歌詠む

吾子の弾くピアノを聞きて眠れるは夫とオトと空の月かな
今宵には雨がしとしと降りつづく桜の花の芽吹くのを待ち

昨晩ですな、すでに。

シーア派とスンニー派との戦いは今日もつづきぬ歌詠みとても
うさんくさいメルマガを読む木曜日煙にまかるるここちするかな
うたことばあっけらかんと使いては語句をえらばぬ怠け者なり
伝統は伝統なるが美しく完成という終わりをむかえ
現代が美しいとは言えなくもふと見る夢は茜に染まる
オトくんがギャンギャンと吠えたとてボサノバ聴いて今日も歌詠む
アメリカの大失態を知りてやも庇い立てする政府がかなし

地に這いて桜の木木を避けゆかば憂鬱な雨しとしとと降る

歌詠みのナショナリズム感じてはカオスの中へ直走りたい
飛び出せばグレーの瞳をながむよう飛び込めばなおねずみとり思う

コリントの信徒への手紙 1. 18-31 神の力、神の知恵であるキリスト

投稿者 Blue Wind : 06:22 PM | コメント (0)

テロより目先の歌

どうやって考えても、スペイン人の決定のほうが普通のような気がしてしまう。独裁者に抵抗する手段として、テロはスペインのお家芸のようなものだから、今さらアルカイダが消えたからといって、テロ行為そのものが消えるわけではないことは明白なのかもしれないし、今度は一体誰がアメリカに大量破壊兵器を破棄しろと言うのだろう?
テロは、昔からある。日本だと、百姓一揆、米騒動、学生運動など、どちらかというと民衆の暴動という形で施政者への不満が爆発する。だから、テロ組織というのはめずらしいかもしれないけど、常に独裁者を念頭におけば、それに対抗する手段としてのテロ活動というのは驚くに値しない。
だから、テロを撲滅しようと政府が躍起になるのはいつの時代も当たり前の話であり、それが原因で戦争に巻き込まれたり、治安が悪くなったりするほうが困る。
このようにテロは昔からあるにもかかわらず、それが原因でどうして戦争になるんだ?
だから、ブッシュは暴君だと言われてしまう。
事実、自分もそのように思っている。
テロを撲滅したいのであれば、彼らの声を聞いたらどうだろう?つまりは、今回のスペインへのテロは、明らかにイラク戦争への抗議だ。しかも、国民の9割が戦争には反対していたというのに、それを無視して政府は軍を派兵した。つまりは、テロリストの抗議と国民の抗議が一体化した。
イスラエルのテロ。
さすが、ブッシュ。
としか語れない。
テロを撲滅しようと訴えていたのに、どうして抗議しないんだ?
自分は基本的にはイラク派兵には反対だ。でも、侵略的意味をもたず、日本は首相が靖国参拝をしているようなローカルな宗教の国だし、歴史的確執には関係ないがゆえに、ジハードの効果は薄い等の利点を考慮すれば、自衛隊が行くしかないのかもしれないという諦めはある。日本の軍事力がどの程度の代物かはわからないけど、宇宙から監視できる時代だし、日本の科学技術をもってすれば最強の軍隊が組織できる可能性はある。でも、今のところ組織する予定はないらしい。
日本はアメリカが守ってくれているから北朝鮮が攻めて来ないというのは本当なのだろうか?北朝鮮が核開発に成功したとか、テポドンとかって言っているけど、だったら宇宙から監視できるようなシステムが完成するまでに、一体、どれくらいの年月がかかるのだろうと言いたい。バカにするわけじゃないけど、つくばにいたらそれこそ小学校の隣にロケットがあり、ローカルな街の写真が宇宙から撮影されたものとして広報に載っている。世界中から技術者や研究者が研修にやって来ている。阿見のほうへ行けば武器補給所があり、たまに通りっ端に戦車が並んでいる。初めて見たときには驚いたけど、あまりにも無防備というか、なんというか・・・オウムでさえ、サリンをつくってしまう。
あまりにも無防備で、研究所の敷地内に子どもたちが紛れ込んでしまう。そこのグランドで幼稚園の運動会とか・・・一般開放している研究所も多いし、遊びに行ってパズルをもらってきたり、遊園地や図書館に行くのと変わらない感覚で家族連れが遊びに行く。
一つわかっているのは、もしも研究所が一般開放をやめて、有事に備えるようになったら、あたしもかなり緊迫感というものをもってあれこれ眺めるかもしれない。でも、今は交通事故のこととか、子どもを変質者や誘拐から守るとか、そちらのほうに危機意識を持っている。
それでいて平和な午後。
そんなことより、どうやったらもう少し歌が上手に詠えるのか誰か教えてください。

投稿者 Blue Wind : 04:04 PM | コメント (0)

ルカによる福音書 6. 20-36

  幸いと不幸
  さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
  「貧しい人々は、幸いである、
  神の国はあなたがたのものである。
  今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。
  人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
  しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
  あなたがたはもう慰めを受けている。
  今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
  あなたがたは飢えるようになる。
  今笑っている人々は、不幸である、
  あなたがたは悲しみ泣くようになる。
  すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

  敵を愛しなさい
  「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着を拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい。」

投稿者 Blue Wind : 02:10 AM | コメント (0)

コロサイ信徒への手紙 1. 3-8 神への感謝

  わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、”霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。

投稿者 Blue Wind : 01:50 AM | コメント (0)

聖霊のかくもさわさわうごきたる雲間の虹もあわただしきかな

あたらしき時代の春はすぐそこに来ては戻りぬ新世紀かな
雨は降る。ポツポツと降る。枯れ枝の軒を通ればザアザアと降る。
アラビア語読めないまでもクリックするCNNの写真をながむ
戦争は間違いだったと言っちまえそうすりゃ明日の選挙に勝てる
政府から税と軍とを取り上げて民間委託請負にする
セールスは毒を浴びたる電話口包帯巻いて電話をかける
あんたとは話したくないと思われてなお電話する給料のため
税金を遣ってむなしプラモデル戦車はどこへ払い下げるの
金出して武器を買われるくらいなら派兵したほうが活気もありぬ
紛争に巻き込まれしを協調と呼ぶなら花は風に運ばる
春休みパタパタドタバタ賑々し通信簿みてふつうがかなし
神さまがいるならお願いまほちゃんの成績すこしあげてほしいの
現実はかくもむなしき春は来て水仙の花木蔭に咲きぬ
子といればテロの心配減少す彼らは子らを巻き込みはせず

紀元前歴史はつづく今もなお万葉集のあたらしきこと
風は吹く大地を遊(すさ)び夕暮れも朝もやのなか光をもとめ

「後の者が先になり先の者が後になる」というおみくじをお寺で引いたことがあるんです。これって聖書の中の言葉だったんですね。

かわりゆく人のうつろうよのなかでかわらぬ文字のつたえられゆく
いつのまに大陸走ってみことばはひっそりとした印刷物に
球根は一人歩きはしないけどブルーサルビアおすそわけされ
知らないって素晴らしいと思うんです。すごいことだとただおどろきぬ
なるほどとおもえば三つの子どもさえうらおぼえする意味は知らねど
うらうらと霞たる月雲のなか浮かぶと知るや雨の野うさぎ

雲間よりシルクロードの山並みをながむるように都会をながむ
かけあしでとおりゆきたるうつすてば都会の過疎におきみやげする
こわしてはつくられつづく街並みをやまやまとみてテロはつづきぬ

コロサイ信徒への手紙 1. 3-8 神への感謝

聖霊のかくもさわさわうごきたる雲間の虹もあわただしきかな
雨降らぬ大地に虹はかからぬと不意に思いぬ雨の降る日は
落ちつかぬ。なんだかとても落ちつかぬ。胸騒ぎする杞憂をわらう
明日にはなにかよいことあるような霧につつまるるここちするかな

ルカによる福音書 6. 20-36

投稿者 Blue Wind : 01:17 AM | コメント (0)

March 24, 2004

詩情と市場

パリから始まった歌の旅は、いつの間にか聖書を通して中東へ飛び、旧約聖書の世界を理解できないためにアフガニスタンへ飛んだ。そして、アデンで暮らすランボーを思い浮かべながら、シルクロードを通り、帰国する。英訳つきの万葉集の写真集を買った。写真が美しい。そして、詩情にあふれた世界でもある。
自分には旧約聖書の世界が理解できない。戦争や飢饉の話など、少しも癒しがないような気がしてしまう。そして、その世界に思いを馳せていたら、自然と思いはアフガンへ飛んだ気がする。ソ連の侵攻から始まり、その後の内紛、ようやく平和を取り戻したと思ったら旱魃。あまりにも踏んだり蹴ったりで、いまだに電気もないような生活。自然と旧約聖書の世界を想い描いたとしても不思議はないような気がする。修道院のシスターたちの服は、おそらくは聖書の時代の人たちが普通に着ていた服なのかもしれないし、今でもアラビア半島の女性たちは似たような服装をしている。
そして、どうしてローマなのかなって思った。もちろん、すべての道がローマへ続いていたからローマなのかもしれないし、今でもローマ・カトリックはその伝統を受継いでいる。カトリックが国教のフランスの詩人ランボーは、とても信仰心の厚い少年だったのだそう。それがいつしかその反動があり、彼の詩へと続いて行ったのかもしれないし、それでいて詩を捨ててアデンで暮らす。いきなり有名な詩人が、シルクロードの入り口で隊商相手の商売を始める。そのニュアンスが自分にはよく理解できなかったのだけど、何となく中東の雰囲気を感じると、どうして彼がアデンへ行ったのか少し理解できたような気がした。つまりは、聖書の時代のなごりがたくさんあるのはフランスよりも中東だろう。イスラム教もキリスト教も、同じ神さまを信仰しており、問題は預言者の問題らしい。キリスト教はイエスを神として崇める。イスラム教でも敬っているけれども、あくまでもマホメッドに次ぐ預言者の扱いになっている。おそらくは、ここが大きな違いなんでしょうし、シルクロードを経て、万葉の時代にまでタイムスリップすると、ギリシャ正教はロシアの国教であり、そして仏教は南を伝わり日本にも伝えられた。でも、日蓮宗などでは、ヒンズー教の神さまと同一神と言われる祭神も祭ってあり、こうなると非常にややこしくて、自分などにはよくわからない。
一つわかったのは、あまり深く考えないほうがいいかもしれないということかも。新約聖書の世界は、関東平野くらいの広さの中の出来事であり、サマリア人というのもその地域内に住んでいる。つまりは、おらが村というか、もしもその時代にタイムスリップしたら、あたしにはユダヤ人とサマリア人の区別はつかないだろう。茨城村の人たちが千葉村の人たちをヨソモノと言って排除しているようなものなのかもしれない。日本だって戦国時代を考えれば、狭い国内でよくもまあという具合に戦争をしていたわけだから、それもわからなくもないけれど、そのおらが村の守り神がいつの間にか、世界の神さまになっている。しかも、こう考えたらどうだろう。たとえば、筑波神社の神さまをお祭していたら、いきなり預言者が現れ、彼を信仰する人たちが着物を着て礼拝をしている。たしかに、筑波山にもなると日本全国から参拝の人たちがあるからさほど不思議でもないのかもしれないけど、お護りしている人たちがいきなりローマ人となり着物を着ていたら悩む。でも、どうやらそういうことらしい。
そうやって考えると、キリスト教というのはあまりにも超現実的な宗教のような気がする。あまりにも現実離れした世界であり、太古へというか、聖書の中の世界へ突き進むほどにシュールな感覚へ陥ってしまう。こーね、白人の伝道師がやってきて、それを伝える。そういうことを不思議に思う人たちは少ないだろう。少なくても、国教としている国はたくさんあるのだから。でも、伝わり方や広がり方がそもそもがユニークすぎる。だって、旧約聖書にはイスラエルの神であると書いてある。
自分などは、キリスト教といえば、すでにラテンを切り離しては考えられない。でも、そもそもがどうしてラテンなのかそこのところが不思議な宗教としか語れない。歴史的に語ればもっともらしい理由もあるだろうけど、イスラム教みたいに国教として周辺国の制圧と共に広がったわけではない。むしろ、ローマは迫害している側であり、それがいつの間にか総本山がローマ・・つまり、バチカンにあること自体が不思議。
自分は、基本的に宗教の人間ではないので、そういうところは極めてラフに考えている。どうしても、というこだわりはない。ただ、ジーザスが好きなのです。どうして好きかという理由は、昔から好き嫌いに理由はないために、今でもうまく説明できそうにない。
それにしても、パリから、中東、アフガニスタンを経て、シルクロードを通って帰国する。単なる想念の世界なんだけど、その世界には、今でも日本がどこにあるのかも知らない人たちが多い。もしかすると、アメリカがどこにあるのかも知らないだろう。日本はまだマシだ。少なくても大陸の隣にある。でも、その想念の旅の中にはアメリカ大陸は存在せず、逆に、広島・長崎、朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタン、中東など、アメリカに爆弾を落とされた国は多い。あっさり語るけど、これでどうやってアメリカ人に好印象を持てと言うわけ?
もちろん、アフガンでもお金持ちは扁桃腺が腫れただけで、ニューヨークやらロンドンへ行くらしい。それを考えると、一部の人たちは飛行機にも乗り、アメリカがどこにあるかくらいは知っているだろう。でも、大多数の人たちに川や山の向こうに何があり、どんな国があるのか、その隣の国へ行くには、とか、そういうことを訊いても無駄だ。昔、プーランの本を読んだとき、しみじみインド人ってやつはって思った。嫁に行くときくらいしか、村から出ることもないのだろう。文字も読めない。地球が丸いということもおそらくは知らないのだろう。だって、川の向こう側の世界も知らないくらいなのだから。
と、一気に書いてはみたものの、自分にはすでに戦争をイメージすることができない。事故ってしまって、いきなり「殴ってやろうか」というのは酷くガラが悪いような気がしたけど、とりあえずはいきなりピストルで撃たれるとは思わないもの。だから、夜、一人でクルマを運転してスーパーにも行ける。世の中の治安が悪く、いつそういう凶悪な人に出くわすかわからなかったら、うっかり一人でクルマにも乗れない。まあ、24時間営業の自動販売機があるということだけでも驚く人たちが多いらしいから、それを考えたら日本は暮らしやすいところなのだろう。まだ。
日本はまだアメリカの言い分を聞けるだけマシかもしれない。ピンポイント攻撃がどうたらこうたらとか、自分の国に爆弾を落とされるとは思っていないせいか、冷静なのかも。もっとも内紛の激しいところならば、それこそもっと戦争は身近なのかもしれないし、ロケット弾、ピストル、地雷、この手の代物が徘徊しているのだろう。その手の人たちがウロチョロしていたら、いくら学校があってもうっかり子どもを家から出せない。今でもかなり物騒だと思っているくらいなのに。
旧約聖書の世界は、戦争が当たり前で、しかも水が貴重な国。洗礼。水の持つ重みが違う。そういう国の人たちが水洗トイレを見たら泣くだろうなという気がする。うちの娘に限っては、どうして水道がないのか訊く。アフガンの子どもたちが汲んでいる水を見て、それを飲むのかと訊く。日本の水道水はマシでしょ?それでも、学校の水が飲めない子どももいる。汚いと思っているのだろう。そうやって感じているのならそれはそれで仕方がない。学校の設備が古いために、水道管が錆びていたのだろう。赤い水が出てきたのに驚き、それですっかり飲めなくなってしまったらしい。サビは特に有害というわけではないだろうけど、そうなると大騒ぎになるのが小学校。
でも、あれこれ考えると、テロリストとはエリートなのだということが何となくわかる。外国語が話せて、飛行機まで操縦できる。その親分がビン・ラーディン。壮絶。憎いアメリカへの報復?誰でも外国語が話せて、自分で飛行機へ乗れるようになったら、おそらくはビン・ラーディンは単なるテロリストにしか見えなくなるのかもしれない。アメリカはかなりアジアを虐めすぎたね。反論があるなら自分でなどと言っても、外国語も話せない、それどころか自分の国の言葉すら読み書きできないかもしれない。そういう人たち相手に何をしているのか、わかっていないのかも。これは、反米感情ではなく、呆れているのです。アメリカにせめて武士道というものがあって、ソ連が崩壊した今、いかに情けない行動をしているのか反省してほしいような気がする。イラクでさえ、あのような始末。なんでその後始末を日本がやらないとダメなんだ?まあ、これでまた日本製品を買ってもらえるならそれも意味があるのかも。マーケットか。

投稿者 Blue Wind : 03:54 AM | コメント (0)

ダニエル書 3. 31-33 大きな木の夢

  ネブカドネツァル王は、全世界の諸国、諸族、諸言語の住民に、いっそうの繁栄を願って挨拶を送る。
  さて、わたしはいと高き神がわたしになさったしるしと不思議な御業を知らせる。
  この神のしるしは、いかに偉大であり
  不思議な御業は、いかに力あることか。
  その御国は永遠の御国であり、支配は代々に及ぶ。

投稿者 Blue Wind : 01:27 AM | コメント (0)

太古へとすすみたるほど現実は超現実へと消えてゆきたる

雪の降る大地は遥か春を待つ冬はつづきぬいやおうなしに
緑地にはホルシュタインの横たわる。内地の牛はなぜに赤いか

娘にはここが田舎と語りしも都会と言われつくばは狭し
サンダルをひっかけ成田を飛び立てばアジアの海はなお輝けり
つくばにはあらゆる国の人つどう言われてみれば都会なのかも
想念は世界をまわり帰国する海彼の人のゆきかう街へ
阿見町の道端にある戦車などうららにながむ田舎のどけき
自衛官仕事さぼって仮病かなお得意さまなり大学病院
日本海テポドンゆきて迷惑な国境線の緊迫はあり
つましくもつくばで暮らすブラジル人帰国したなら家を買うらし
姿勢よく背筋伸ばして中国人自転車をこぐ遠目にわかり
アフリカのインテリジェンスの機関銃勢いのある日本語話す
万葉を理解できぬと言われては写真集見て英訳を読む
海彼等と話して気づくわたくしは日本のことを皆目知らぬ
カラオケも演歌も知らぬひねもすを歌人と言うがせつなくおもう
諦めよう。パスポートなら国籍が書かれているし歌詠めるから
顔見てもどこの国から来た人かわからないのがふつうなのかも
つくばには日本かぶれの外国人そぞろ歩きぬTシャツを着て
テクノロジーすすみてゆけば宗教はオウムのビラに皆さわぎたる
街のなか無人の社ひっそりと埋もれるままにつくられたまま
大地への愛着なくば神さまはおとづるる人待つしづかな街よ

みこころは天にとどまり大地にはうららな花のうつろう季節
咲く花の根づかぬとてを嘆いても季節めぐれば咲く花のあり
着物着て海彼の人らつどいてはむらの神をとあがめたてれば
人生はなるようにしかならないと地球をながむ海彼をながむ
ジーザスの超現実的な現実はアジアの百合を世界につたう
太古へとすすみたるほど現実は超現実へと消えてゆきたる

ダニエル書 3. 31-33

投稿者 Blue Wind : 01:19 AM | コメント (0)

March 23, 2004

コリント信徒への手紙 5. 1-13 不道徳な人々との交際

  現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものにしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊はそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の子羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
  わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、とうことではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」

投稿者 Blue Wind : 09:28 AM | コメント (0)

エゼキエル書 39. 1-8

  人の子よ、あなたはゴグに向かい預言をして言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ。わたしはお前に立ち向かう。わたしはお前を立ち帰らせ、お前を導いて北の果てから連れ上り、イスラエルの山々に来させる。そして、お前の左手から弓を叩き落とし、右手から矢を落とさせる。お前とそのすべての軍隊も、共にいる民も、イスラエルの山の上で倒れる。わたしはお前をあらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食として与える。お前は野の上に倒れる。まことにわたしがこれを語った、と主なる神は言われる。わたしは、火をマゴグと海岸地方に安らかに住む者たちに送る。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。このことは到来し、実現する、と主なる神は言われる。それは、わたしが語った日である。

投稿者 Blue Wind : 09:14 AM | コメント (0)

一粒の砂のゆくえを海風に問うもむなしきシルクロードは地を走りたる

花おちてつぼみつけたる水仙はいまからのときつぎつぎと咲く
いにしえに未知なる国のいまもなお未知なる国は人をのこせり

幻(まぼろし)   神の霊感を受けた人に示される異象。現実に存在しない動物や、異常な現象を通して与えられる神の啓示。
(用語解説より)

げにあらや砂漠の民のゆきかいしシルクロードのまたゆきかいし
げにあらやわれには区別つかぬなり聖書に書かるる人らの暮らし
悠久にふりかえりてはローマには赤い薔薇咲く砂漠のいかに

ランボーの砂漠住まへる暮らしにはいにしえ人の隊商を組む
いにしえの世界のありし世界には神には遠く神には近く
ラテンにはラテンの神の住まいたる宮殿のごと世はあはれなり

エゼキエル書 39. 1-8

故郷捨て砂漠の民の暮らしたる砂漠の町で言の葉を捨て
みぬ海を詠える彼のみる夢は幻のごと砂漠をながむ
あはれなる風かなしみて吹く砂はいずこの地へとすすみつづかぬ
一粒の砂のゆくえを海風に問うもむなしきシルクロードは地を走りたる

コリント信徒への手紙 5. 1-13 不道徳な人々との交際

投稿者 Blue Wind : 12:53 AM | コメント (0)

March 22, 2004

テンション

どうして急にアフガニスタンの話題になってしまったのかというと、アクセス解析を見ていたとき、検索から来た人のログからgoogleを開き、どういう言葉で検索してうちのサイトへ来訪したのか調べるでしょ?で、そこのページを開いたら、「マスコミでは報道されないアフガンの実情」というページを見つけて、飛んだのがきっかけだ。たぶん、聖書の中の言葉が検索に引っかかったのだろう。検索で飛んできたくださった人たちにはいつも申し訳なく思う。おそらくは、サイト内検索をしないとすでに目当てのページにはたどりつけない。それでいて、「細木数子」で検索してうちのサイトに来た人にはもっと申し訳ないと思ってしまう。
という具合に、検索のキーワードを見るのが楽しみになってしまっている。それで何気なく中村哲さんの講演の記録を見つけた。そのまま記事をリンクし、読んでしまった。
一番興味深かったのは、250円の薬が買えないで亡くなるのに、弾丸が8円で買えるという記述だろう。つまりは、ソ連が撤退した後の内紛を支えていたのが、アフガン難民を救うために各国から援助された数百億円だったのかも。なんというわかりやすさ。実際には、アフガンの中でも比較的裕福な人たちが難民となる。神戸の震災のときでも裕福な人たちは落ち着くまでのんびり温泉や大阪のホテルにいた人たちが多かった。それと比較してはいけないのかもしれないけど、戦争が勃発すれば、危険だから疎開するのは当たり前の話であり、イランへ行く人たちが多かったから、アフガン難民というと黒い装束のイメージがある。つまりは、イラン人の服装を真似している。実際のアフガンの人たちはもっとおしゃれでカラフルだ。難民というとどうしても暗いイメージがあるけど、戦地では暮らせない。
そして、アフガニスタンに残ったのは兵士や貧しい人たちだ。そして、金が入る。そうなると、次の戦いに備えて武器を買うのはごく自然の成り行きだったのかもしれないし、どうして薬も買えない人たちがロケット弾を持っているのか不思議でしょ?で、外国が撤退し、母国に金がなくなったのを見て、ようやく難民たちは故郷へ戻り始めた。
こう、すべてをマスコミのせいにしてしまうわけではないけれども、どうしても日本のマスコミなどは親米感情のほうが強いために、一方的になりがちだ。テロはたしかに悪だけれども、薬がなく、水もないところでは、100万人がパタパタ亡くなる。日本だったら抗生物質だけで助かるような病気で亡くなる。下痢や肺炎でも死ぬ。それで、診察所はいっぱいになり、あまりにも患者さんの数が多いために、診てくれないとか、イライラした人たちが怒ってロケット弾を打ち込む。スタッフが亡くなる。まあ、日本でも日本刀を振り回しちゃうような人もいるわけだし、それと似たような感覚なのかもしれない。自分が助からないとなったら、何をするかわからないような人たちはどこの世界にも存在する。
が、しかし・・・・・ロケット弾・・・・・・・・
日本人だったら、とりあえず精神科のほうへ入院というケースだろう。
でも、それが日常であり、そういう人たちだからこそ、お金が入ったら武器を買い、部族間抗争が終結しない。同じアフガンなのに、部族が違うと思えば敵だ。自分が死にそうになるとロケット弾。そういう人たちを誰が制圧するか?結局、タリバンが台頭した事情には、こういう治安の悪化があり、そういう人たちを武力により抑える。それにより、どうにか治安が保たれる。
こうした過酷な現実の中で、明るい・・・
そりゃそうだよね、ようやく戦争が終わって、家族が揃って暮らせる。次々に襲いかかる不幸。戦争や病気で家族を失った人たちも多い。自分だっていつ死ぬかわからない。そして、希望に向かって歩き始める。子どもたちに平和をたくす。荒野の祈りかあ・・・あまりにも美しく、尊厳に満ち溢れている。ただ単に生きているというだけなのに、すべてに明るさと尊厳がある。
が、しかし・・・・日本にだっていまだに無医村はたくさんあり、こんな茨城でさえ大きな病院ができればあちこちからやって来る。80歳の女医さんが、自分が死んだら医者がいなくなるからと、今でもせっせと勉強会に参加している。ついこの間まで、僻地、だったわけだから。自分的には今でも僻地だと思っているけど、どこも赤字のために、いつの間にかここも僻地ではなくなったそう。自宅は東京で、勤務や開業だけ茨城という医者も多い。都内では儲からないから、父さんだけ山梨という人もいたなあ・・・
まあ、なんでもいいや。うちはうちなりに、そういう僻地の中で、全教科100点が当たり前の学校へ娘を通わせいている。80点とか90点なら悪い方じゃないよね?本気で悩む。なのに、うちみたいなぼーっとした娘は学校のレベルを下げているのだそう。本気でそうやって思っているんだから、話しても無駄。100点取らなくても気にしないのが、うちの娘とはるちゃんとか・・・癒し系だ。どこかの女子校にでも入れて100点取らなくても叱られないとか、寄宿舎へ入れたら9時消灯だから夜は勉強してはいけないとかね、それが普通じゃないか?学校から戻ってきてから3時間は勉強するとかさ、夜遅くまで子どもが塾へ通うとかさ、それって子どもに夜中に水汲みをさせているようなものではないだろうか?
言っても無駄だから諦めよう。それでもつくばはマシなのだそうだから。実際には、そういう家庭が少ないところが値打ちなのだそう。親がガツガツしていない。子どももうららか。それでも、100点が当たり前らしい。うぅ。
アフガンの子どもたちの水汲みの写真を見て和む。小さいポットとかね、ジョウロの水を運んでいるような感じ。子どもたちが遊びながらみんなで汲みに行く。汲んで来ると、お父さんやお母さんに褒められる。「まほちゃん、ありがと〜〜」って言ったら、うちのちびなどは単純だから毎日でも汲みに行くだろう。なんも考えとらんから、素直っていいなーって思う。
なんか、こう、悩む。
シスター新庄は寄宿舎だったから9時以降は消灯でトイレの中で勉強していたという・・・アメリカの家庭だと子どもは家では勉強しないのが普通らしいし、あたしもあまり親から勉強のことをガツガツ言われたことはない。逆に、親と遊びに行って、退屈して本を読んでいたら叱られたことは数多ある。つまりは、遊ぶときには真剣に、というか、カード一つにしてもそっちのほうが気合が入る。
悩む。
80点とか、90点くらいだったら、「間違えたところを見直しておきなさい」が普通だよね?うちの娘、頭悪いの?悩む・・・・
アフガンの医学部の講義の写真。机がすでにノートを載せられる程度の大きさしかないもの。だって、要らないから。ペンも紙も貴重品。本がないからメモを取らなくてはならない。それでいて、金がないとその場で覚えるしかない。だから、机の上が落書きだらけ。ちなみに、娘に言ったら、机の上に落書きすると先生に叱られるらしい。当たり前か・・・・自分の学生時代と比較して悩む。たまに出席しても、友達と忍者のように抜け出す。私語が当たり前のうるささの中では、そっちのほうがマシなような気がするけど・・・詭弁だろう。医学部みたいに、留年、放校が当たり前で、国試があったりするとまだ緊迫感はあるかもしれないけど、私立の女子大だとそういう緊迫感もない。
マスコミ報道のイメージ、活字からのイメージ、写真からのイメージ・・・アフガンのイメージもくるくる変わる。未知なる世界をイメージするのは困難だ。逆に語ると、一生懸命に何かを説明しようとしても、それが正確に相手に伝わるなんてことはありえない。
こう、行き過ぎたテンション過多というのも困るけど、平凡な日常の中である程度テンションをキープする作業というのも難しい。戦争の社会というのも困るけど、倦んだ社会というのも困る。がんばろ。

投稿者 Blue Wind : 04:07 PM | コメント (0)

使徒言行録 9. 1-19 サウロの回心

  さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫して、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえていても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
  ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり目が見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。

投稿者 Blue Wind : 02:06 AM | コメント (0)

アフガンの無邪気な笑顔よろこびははしがころんでなおおかしくて

果てしなく広がる空はどこまでも雲をしたため無限を語る
黙々と歩きつづける人々は美しき山みちしるべにして
そらとやまながむみちすじさびしけれ見知らぬ人のなつかしきかな
アフガンの無邪気な笑顔よろこびははしがころんでなおおかしくて

週末をアフガニスタン写真集ながめて話す教育のこと
こうやってつよくあかるくたくましくいろどりのなかみつめるひとみ

使徒言行録 9. 1-19 サウロの回心

______________________

『彼女の夢みたアフガニスタン』山本敏晴 マガジンハウス

明るい・・・笑顔が。
壮大・・・山が。
美しい・・・荒れ野の祈り人。

旧約聖書の世界も、こんな目で眺められたら、きっと同じ文章を読んでいても浮かぶ画像が違うのかもしれないと思い、かなり癒されました。

水仙・・・枯れた。

投稿者 Blue Wind : 01:36 AM | コメント (0)

March 21, 2004

士師記 8. 1-3

  エフライムの人々はギデオンに、「あなたはミディアンとの戦いに行くとき、わたしたちを呼ばなかったが、それはどういうことか」と言って、激しく彼を責めた。ギデオンは答えた。「あなたたちと比べて、わたしが特に何をしたというのか。エフライムに残ったぶどうは、アビエゼルが取ったぶどうより良かったではないか。神はミディアンの将軍オレブとゼエブをあなたたちの手に、お渡しになったのだ。あなたたちと比べて、わたしに特に何ができたというのか。」彼がこう語ったので、彼らの憤りは和らいだ。

投稿者 Blue Wind : 12:57 PM | コメント (0)

使徒言行録 8. 26-40 フィリポとエチオピアの高官

  さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐに出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、”霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。フィリポが走り寄ると、預言者のイザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。
  「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。
  毛を刈る者の前で黙している子羊のように、口を開かない。
  卑しめられて、その裁きも行われなかった。
  だれが、その子孫について語れるだろう。
  彼の命は地上から取り去られるからだ。」
  宦官は、フィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何が妨げがあるでしょうか。」そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。

投稿者 Blue Wind : 12:48 PM | コメント (0)

March 20, 2004

視点

何がよくて、何がダメということはないでしょうけど、視点だ・・・
どうして視点なのかといえば、閉ざしてはいけないということなのかもしれない。
歌詠みの世界は、いつも歌詠みのことだけを考えて詠んでいる人たちが多い気がする。そういう瞬間、自分は窒息しそうになり、歌が出なくなった。自分がもともと歌詠みではないせいかもしれないし、そこにはもはや自由はない。なのに、どうして神父さんのサイトだと歌が出るのだろう?おそらくは、信者さんやほかの神父さまやシスターが来訪するのかもしれないし、そうなると歌よりも神さまとの対話を読みにいらっしゃる。中には、日本語のわからない人たちも多いかもしれない。だけど、一生懸命に、なにかをキャッチしようとなさる。自分はもはや赤裸々だ。毎日のうだうだ鬱々・・・まずいなーと思いながらも詠む。何がまずいかといえば、非常にまずい。でも、それはそれで叱られながらも詠む。

村松恒平さんのメルマガを詠む。最初に黙読の実験。つまりは、黙読するだけで何を読んでいるのかほかの人たちにイメージが伝わるというもの。変わっているけど、そういうこともありえる。娘が教科書を読んでいるのか、マンガを読んでいるのか、顔を見たら何となくわかるではないか。でも、言葉なき世界で言葉を伝えるということは、案外、ごくありふれたことなのかもしれない。ということは、黙読した瞬間、もうすでにそれを読んでいる人の中にはイメージが広がるわけであり、おそらくはそういうことを語りたかったのだろう。
目があって何も見ず、耳があって何も聞かず、そのようにインプットされた情報は自動的に処理される。無意識の中に蓄積されていくもの、選択的注意の中で知識として蓄積されていくもの、おそらくは自分が気がついている以上の情報が文字により与えられているはずだ。
もしかすると、何も与えられないテキストもあるかもしれないし、与えようとして何も与えず、通り過ぎようとしてこころに引っかかるテキストもあるかもしれない。

編集者というのはおもしろい。自分でも当然記事を書いたり、編集するわけだから、常に文字に埋もれている生活だ。そこからどうやって自分を救っているのかわからない。つまりは、夥しくも与えられてしまうものから常に自分を救わなければならない。それと同時に、常に書くという作業を見つめている。そこがすごいような気がした。ある意味、作家以上に書くことを熟知している。自分が書くためではなく、自分を救うためにだ。
村松さんクラスになると、あれだけ世に送り出しヒットした出版物は数限りないのにもかかわらず、自分自身の著作物も結構たくさんあるにもかかわらず、自分で書いたものは案外ヒットしない。それでいて、作家に対しては絶対的な権限を持つ。つまりは、誰かが文章を書いて持って行く。その時に編集者の意見が聞き入れられなければ出版されない。ということは、編集者は自分の目に絶対的な自信を持っているということになる。
文章が上手になりたければ、森鴎外を読めとかね・・・まさしくそういうことなのだろう。つまりは、そうやって無意識に何かを蓄積しなければならないのかもしれない。それを考えると自分は怠け者だ。夥しい歌集を読むよりも、詩集や入門書、聖書を読みながら詠んでいる。
だから、自分の歌はいつまでも下手なのかもしれないと思う。それでいて人生は短い。

魂というものがどこに存在するのかわからないけれども、おそらくは、言の葉の中にもその片鱗があったとしても不思議はない。つまりは、つたえあうもの、だからだ。それでいて、それはどこか無意識の中に響かなければならないらしい。自分には何があるのだろう。夥しくも舞い散る言の葉の中で、いつも原風景がある。自分が表現したい世界が一体どこから来たものか、自分ではすでに忘れてしまっている。
でも、一つ発見したのは、おちゆく感覚というのは雪の上に寝ている感覚なのだろう。
あまりにもあたたかく気持ちがよい。空を見ながら雪の上に寝る。あまりにも気持ちがよいので、そのまま眠くなる。そして、母に叱られる。
雪の上で眠ったら死んでしまうらしい。だから、雪の中に閉じ込められた時には、眠らないことが生存の秘訣なのだそう。だから、逆に語れば、雪の中で静かに眠れば、そのまま気持ちよく死んでいくのかもしれないと子どもの頃に思った。まだ、死が遠いところにあるために実感はない。でも、まずいと思って、ひょっこり立ち上がる。家の中に入ったとたん、自分が冷え切っていたということを知る。いきなり血が回り出した時の手のかじかむような感覚から、自分が冷えていたことを知る。

空を眺めながら、地球の中に落ちていくような感覚は、おそらくはその時のものなのだろう。

どうして旅へ出るかというと、目を補給するためなのだろう。自分の潜在意識の中に何かを埋め込む。だから、うすらぼんやり歩いているだけでおもしろい。何気ない生活の中に驚きがある。だから、旅は面白い。知らない街を歩いているとおもしろいのは、そういう何気ない驚きがあるからだろう。
アインシュタインが来日した時に彼が写した写真。赤ちゃんをおんぶした若いお母さんが、近所のおばさんと赤ちゃんをあやしながら立ち話をしている。ただそれだけの写真。昔はめずらしくも何ともない光景だったような気がする。土浦が好きだったのは、ベビーカーを押していると、それだけで知らないお婆さんが赤ちゃんを見て話しかけてくるところかも。都会だったら考えられない。赤ちゃんを抱っこしていても、目の前で座っている人たちは寝ている。それが電車の中であり、混んでいると、子どもを乗せて乗るなんて不可能だ。押しつぶされてしまいそうな恐怖がある。でも、それが当たり前の社会では、どうして子どもがそんなところにいるのだ思ってしまう。どちらが当たり前なのか悩む。そして、何となくアインシュタインの写真を思い出す。ああ、彼が日本に見たのはそういうことだったのかと。
だから、何気ない日常を当たり前に詠むと、おそらくは未知なる世界の人たちはそれを好奇心に満ちて眺めるのだろう。赤裸々だ。ごく当たり前の日常だ。少なくても、日本人なら驚かないだろう。お母さんがパートしてどうして受験塾や私立中学なのか、おそらくは誰が彼らに説明するのだろう。ビートたけしのお母さんは偉かったと思う。でも、形だけ真似しても意味がないような気がする。
それでいて、クルマの接触事故。どこか他人事であり、彼は敵として出没してくれたからまだ救われる。つまりは、いきなり、「殴ってやろうか」とクルマから降りてきた人だから悪くも書ける。だけど、もっと近所の人で、子どもが同じ学校に通っている人だったらどうだろう。たまたま隣の小学校だったから知らん顔もできる。
あっさり語るけど、口もききたくない。
でも、言えないよなあ・・・・言えない。おそらくは、知り合いなら、道で会えば挨拶をし、世間話をし、子どもの受験の話をし、「大変だけど、がんばってくださいね」としか言えないではないか。少なくても、母親がパートをして、という部分と、受験塾ということは、まったく別個の話題として語られるだけだ。あたしなどは調子がよいから、「偉いですねー」って言ってしまいそうだ。実際に偉いと思うよ。そうやって苦労して子育てしているのだから。家でぼーっとしているあたしは少しも偉くない。
でも、いきなり敵として現れた。交通事故の当事者同士。そうなると赤裸々だ。
現実はさ、わずか1万、2万を損したくないから、「殴ってやろうか」と血相を変えて脅迫してくる。人身の扱いにするぞ、とか、いろいろ。考えていることがあまりにもわかりやすい。ほんで、そういう人とは話したくないし、携帯も貸してくれそうにないので、ディーラーへ行き、そこから家と警察に電話する。警察が来た頃には少し落ち着き、そこにうちのダンナとディーラーの人がやってきたとたん敵はへいこらしている。あたし一人の時には、いきなり脅迫めいたことを言っていたというのに。
つまりは、あまりにも小心者で、わずかの出費のことや子どもの塾のことや勤め先のことしか頭に浮かばない。そういう人が、つまりはそういうガラのわるい人がいないようにと、私立の中学にでも入れようかと思っていた。でも、現実は厳しいな。かすかすぎりぎりの生活の中でのステータスだから。
そういう人をあっさりバカにしているうちの近所の人のほうが清々しい気がすることもある。子どもの出来がよいとそういうものなのかもしれない。私立へ行かなくても土浦一高に当たり前のように通り、自転車で通学している。息子がそういうふうだと、あくせく塾へと血相変えて送っている人たちをバカにしている。そうやってバカにしてみたいものだけど、うちの娘は癒し系だし・・・
すっかり話がずれてしまった。狭い受験の話でもね、もともとの地元の人たちは高校に学閥があり、公立の中学から県立の名門校へ進学するほうが、新設の私立へ通わせるよりも値打ちがある、という家庭もあれば、何がなんでも私立中学へ受験させてという家庭もあるし、あたしはいつもノラクラしている。視点が違うからさ・・・学校一つ取っても。フラフラしない母親になりたいけど、どうもノラクラしてしまう。誰を気にしているわけでもなく、それでいて何かを気にしているのかもしれないし、自分なんかは普通だもの・・・

目を補給し、かつ、自分のうだうだを詠む。知り合いなら、「大変ですね」って言う。見て見ないふりをする。でも、敵だから赤裸々にも詠んでしまえるのかも。いや、敵でなくても、なんというか・・・事象だから詠めるのかも。村松さんは自分のことをライターとは言わない。

投稿者 Blue Wind : 06:02 PM | コメント (0)

島国はまだらもようの鬱空に降る霙にしおれる水仙

歴代誌上 14. 13-17
歴代誌上 15. 16-24

目覚めれば霙降る朝暗き部屋暗き庭には水仙の花

雨が降る雪にもなれず霙降る重く切なく軽くもなれず
水仙の一輪咲きて霙降るしおれてたおれ明日を待ちたる
水仙にささえつけても無駄なこと朝から暗い霙降る日は

プーケット黒雲ゆくもかけあしでとおりすぎたる南国の海
透明なみどりの水に舟の浮く海がしづかに光受く島
島さえも隠してしまう黒雲は海さえ闇に沈めてしまう

さんご礁ひかりの海をつくりだす空へ空へと海にしずみて
白砂は焼けることなくつづきゆく冷んやりとして陽は輝けり
海のなかぽっかり浮かんでいる島は灼熱という冷蔵庫もつ

雨の日は南の島をおもいだす晴れた春には冷たい大地
わがままにわけしり顔に沈みたる逆さの世界おもう午後には
オトくんは言葉もたずにうずくまる歌人の吾をふしぎにながめ

霙降る暗い部屋には冷んやりと吾には見えぬ真冬のありき
寒い日は小さな蜜柑暑い日は大きな蜜柑食べていた父
寒い日は弱々しげにうずくまりうららな日には駆けまわるオト
冷んやりと日日をすごせばながもちに生きられなくに熱帯を思う

ランダムにりんご切たる皿の上プラスティックのナイフ置かるる

アフガンの実情を読む深夜には「ワーカー求む、男性」とあり
なに怒りなにを怒らぬ異邦人黒きベールはよそゆきの服
内戦のつづきぬ国はジーザスを預言者として今もうやまう
もどかしく言葉つうじぬ自爆テロ激しき怒りいずこへと消ゆ

黙読の実験をする編集者無意識のなか毒を飲む職

使徒言行録 8. 26-40 フィリポとエチオピアの高官

アフガンの山並みを背につどう人時代はもどり新約の時
大国の攻め込む国の内戦をかいくぐりては爆弾の降る
旱魃のつづきぬ国は地球泣く悲鳴をかぶり平和をもとむ

士師記 8. 1-3

霙の日水なき国の子ども等は歩いてここへ来たいと語る
あの山を越えればニッポンがちょこんとあると描きたる夢
今もなおロシアたおしたちっぽけな島国を思うアフガンの人
島国はどこかにあると知りてやも日本人見てハザラと思う

島国はまだらもようの鬱空に降る霙にしおれる水仙

使徒言行録 8. 32

投稿者 Blue Wind : 03:16 PM | コメント (0)

歴代誌上 15. 16-24

  ダビデはレビ人の長たちに命じて、詠唱者であるその兄弟たちを任務に就かせ、琴、竪琴、シンバルなどの楽器を奏で、声を張り上げ、喜び祝うようにさせた。レビ人たちはヨエルの子ヘマン、その兄弟の一人ベレクヤの子アサフ、その兄弟であるメラリの一族の一人クシャヤの子エタンを任務に就かせた。また彼らと共に、彼らの第二の兄弟、ゼカルヤ、ベン、ヤアジエル、シェミラモト、エヒエル、ウンニ、エリアブ、ベナヤ、マアセヤ、マティトヤ、エリフェレフ、ミクネヤ、オベド・エドム、エイエルを任務に就かせた。彼らは門衛であった。詠唱者ヘマン、アサフ、エタンは青銅のシンバルを鳴らし、ゼカルヤ、アジエル、シェミラモト、エヒエル、ウンニ、エリアブ、マアセヤ、ベナヤは琴をアラモト調で奏で、マティトヤ、エリフェレフ、ミクネヤ、オベド・エドム、エイエル、アザズヤは竪琴を第八調で奏でて歌を導いた。レビ人の長ケナンヤは、運搬に当たり、運搬を指揮した。彼はそれを専門としていた。ベレクヤとエルカナは門衛として神の箱を守り、祭司たちシェバンヤ、ヨシャファト、ネタンエル、アマサイ、ゼカルヤ、ベナヤ、エリエゼルは、神の箱の前でラッパを鳴らした。オベド・エドムとエヒヤも門衛として神の箱を守った。

投稿者 Blue Wind : 02:58 AM | コメント (0)

歴代誌上 14. 13-17

  ペリシテ人は再び谷に侵入した。ダビデが再び神に託宣を求めると、神は次のように答えられた。「彼らを追って攻め上らず、彼らを避けて回り込め。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。茂み越しに行軍の音を聞いたら、そのとき出て行って戦え。神がペリシテの陣営を討つために、あなたに先んじて出陣されているのだ。」ダビデは神の命じられたとおりに行動し、彼らはギブオンからゲゼルに至るまで、ペリシテ人の陣営を討ち滅ぼした。こうしてダビデの名声はすべての国々に及んだ。主は諸国の民が皆、彼を恐れるようにされた。

投稿者 Blue Wind : 02:46 AM | コメント (0)

コリントの信徒への手紙 4. 14-21

  こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから。あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところに鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。

投稿者 Blue Wind : 02:39 AM | コメント (0)

ぬくもりはゆきのやさしさつめたさをそらにつたえしゆきのぬくもり

神さまに叱られながら詠むうたをたれかいっしょに叱られまほし
あたしだけ?おまぬけなのは本当に?そうかもしれぬ、あきらめまほし
はるかぜはだいちのうえにくもまにもわが頬うっていたずらに吹く
神さまに好かれるうたを詠みたしもちょっといいたい訊いてみたいこと
楽園はどこにあるのと思いせば世の終わりにて咲く花のゆめ
あれもだめこれもだめだと思いつつだめだと思い無駄だと思う
おさなき日少女マンガに描かれたちっぽけな詩のなほなつかしき
『スヌーピー』ころがる屋根をながめつつ谷川俊太郎なにおもいせし
蒲公英の無限に広がる大地にはおさなき日日のわれがねむれり
ゆきのうえ空をあおぎてねころびておさなきわれのねあとをながむ
ぬくもりはゆきのやさしさつめたさをそらにつたえしゆきのぬくもり
しづしづとゆきのだいちにねころべば母は叱れり死んでしまうと
死は遠くちかきにありしゆきのうえおちゆくなかに起き上がるわれ
生きるのに必要ないと言われても不必要なる純水のあり

コリントの信徒への手紙 4. 14-21

トラブル続きだったんですけど、クルマもあっという間に修理が終わるそうです。何もしないと言われても、自分では直せない。でも、下手な歌を詠んでいる間に終わる。なんか、こう、なんというか、なにがトラブルでなにが災難でなにがわざわいなのかわかりそうでわからないし、なにもこまらないままに暮れてゆく。
犯罪者や事故がなければ警察もいらない。事故がなければ修理屋さんやクルマ屋さんは儲からない。病気や怪我がなければ医者もいらないし、受験がなければ塾も儲からない。雨が降らなければ傘もいらないし、外出しなければもっとあれこれ必要なくなる。
社会とは悪をはらみながら存在しているものなのだそうです。ということは、悪が消えると社会は存続しなくなるということで、世の終わり・・・かー。

投稿者 Blue Wind : 02:26 AM | コメント (0)

March 19, 2004

使徒言行録 8. 9-25

  ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
  エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、”霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前で正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
  このようにペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。

投稿者 Blue Wind : 02:52 AM | コメント (0)

あれこれとおとづる不幸さざなみの春の雨にも傘を忘れし

大地には風に運ばる花花の贖いのなか芽は育ちゆく
アカシアのワトルとなるかミモザかは風のゆくえを雲にゆだねる
あれこれとおとづる不幸さざなみの春の雨にも傘を忘れし
あれこれと失うもののつづきゆきまたつくられしあらたなるもの
日は昇り今日も今日とて消えゆかむひとつこわれて日はうつりゆく
いのちなきあるがままにぞこわれゆくいのちなきものまたそこにある

使徒言行録 8. 9-25

投稿者 Blue Wind : 01:55 AM | コメント (0)

民数記 12. 2-8 ミリアムとアロン

  彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。「あなたたちは三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。」彼ら三人はそこに出た。主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、「アロン、ミリアム」と呼ばれた。二人が進み出ると、主はこう言われた。
  「聞け、わたしの言葉を。
  あなたたちの間に預言者がいれば
  主なるわたしは幻によって自らを示し
  夢によって彼に語る。
  わたしの僕モーセはそうではない。
  彼はわたしの家のすべての者に信頼されている。
  口から口へ、わたしは彼と語り合う
  あらわに、謎によらずに。
  主の姿を彼は仰ぎ見る。
  あなたたちは何故、畏れもせず
    わたしの僕モーセを非難するのか。」

投稿者 Blue Wind : 01:36 AM | コメント (0)

民数記 11. 24-25

  モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。

投稿者 Blue Wind : 01:35 AM | コメント (0)

詩篇 119. 97-104

     (メム)
わたしはあなたの律法を
  どれほど愛していることでしょう。
わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。
あなたの戒めは
  わたしを敵よりも知恵のある者とします。
それはとこしえにわたしのものです。
わたしはあらゆる師にまさって目覚めた者です。
あなたの定めに心を砕いているからです。
長老たちにまさる英知を得させてください。
わたしはあなたの命令を守ります。
どのような悪の道にも足を踏み入れません。
御言葉を守らせてください。
あなたの裁きから離れません。
あなたがわたしを教えてくださるからです。
あなたの仰せを味わえば
わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。
あなたの命令から英知を得たわたしは
どのような偽りの道も憎みます。

投稿者 Blue Wind : 01:31 AM | コメント (0)

March 18, 2004

保護という名目のもと暴君は咲かれる花を野に選びたる

奔放に咲き乱れてもかまわない野に咲く花の咲く程度には
ネイティブが絶滅しては大変と野のフリージア何故に抜かれる
保護という名目のもと暴君は咲かれる花を野に選びたる
ワトルというアカシアの木の生い茂るブッシュの中にミモザ植えたし

民数記 11. 24-25
民数記 12. 2-8

雨の日は接触事故の交差点うすぼんやりとクルマを停める
わざわいは不意におとづる思学舎へ吾子を入れるか迷った春に
めのまえのヒステリックな暴走に踏みそこなった重いブレーキ

なんだかなガラの悪さに驚きぬ子どもの塾を気にする事故車
父親の血相変えて塾送る剣幕を知る交差点かな
母親のパート勤めで通いたる私立中学・受験塾なり
のんびりとデッサン科へと通いたる吾子の姿を想い癒さる

おとなしきひとの整えるなりわいをうつろにながむここちするなり
ストレスを詠みこむ歌のなげかわしうららな春も生活はあり

詩篇 119. 97-104

投稿者 Blue Wind : 11:03 PM | コメント (0)

あまのじゃく

オトがまた本を襲撃している。カバーが剥がされ、床の上。一体、なんの本かと思ったら、黒田三郎さんの『詩の作り方』。いつの間にこんな本を買ったのだろうと思うのだけれど、おそらくは詩関係の本を買ったときになんとなく選んでいたのだろう。すでにあることも忘れていた。
ネットを始めて以来、あまり本屋にも行かなくなっていたのだけれど、今年に入ってから行く回数が増えている。このため、未読本の上にさらに未読本が積まれるためにはやくこれをなんとかせねばとは思うのだけれど、毎日違った本を選んでいる。だって、パラパラとめくるだけでも一冊のページ数が多い。
それにしてもよい本だなーと感心してしまった。あたしは実は入門書が好きだ。心理学関係の入門書ならそれこそあらゆる種類の入門書を買ったような記憶がある。どうして好きかというと、実に個性的だからだ。大体が、入門書を書くのはその道の御大と言われるような人たちであり、かつその人たちがビギナーに対して書いているわけで、そのセンスの違いによって同じ内容でもこれだけインパクトが違うのだと比較するのが好きだったりする。しかも、長い間、閉じられた世界にいると、すでにビギがどういうものかを忘れてしまうのが世の常であり、ま〜ったくちんぷんかんぷんな人たちに何かを説明することほど、根気とセンスの要ることはないと思えるほどだ。中途半端だと、逆にツウぶってわざとビギが知らないであろうことを語りたがる。そういったものをすべて排除して自分の言葉で書かれていると、センスがいいなーって感心してしまう。
黒田氏のご本の中で、いささか戸惑ったのはまえがきだ。なるほどなーって感じた。日本だと詩の歴史が浅いから、それこそ金子光晴さんではないけれど、日本語で詩が書けるのかどうか悩んでいた時代というのがさほど昔の話ではないことを思い出した。そういう中で、昭和40年頃から詩がブームになっていったとある。つまりはそれ以前は短歌や俳句、漢詩などが当たり前で、現代詩というものにまるで興味のない人たちにどうやってそれを語ったらよいのか、極めて慎重で謙虚な姿勢で書き始められている。自分などは逆に詩が当たり前で、どこで最初にそういう詩心を学んだのかといえば、少女マンガではないかと思ってしまう。小学生のときに、初めて週刊マーガレットを見たときに、西谷祥子の美しいイラストとすでにテキストの内容は覚えていないけれども、詩や散文詩を思わせるような世界。ニンフやオリンポスの神々の話、どこか空想的で幻想的な世界があったような記憶がある。今は、娘が毎月買っている『ちゃお』を眺めてもどこが面白いのかわからないけど、すでに・・・
おそらくは、『スヌーピー』の訳者が谷川俊太郎さんだったり、少女マンガのほんわかした世界の中に、実は自分のイメージする詩の世界があったりして、そういう世界はどこか教科書などで習うような詩や短歌の世界とは隔絶して存在を認識していたのだろう。ほんわかした詩の世界は、そういう隔絶した子どもの世界に存在し、詩的感性やイマジネーションはそちらの世界に属していたような気さえする。そういう世界から札幌のポプラ並木や巨大蒲公英畑を眺めていたわけで、それはとても幻想的で、今ではすっかりそういう世界も消失してしまったけれども、自分の記憶の中では懐かしい思い出としていつまでも残っている。

何気ない日常を眺める目。新鮮な驚き。それが詩となる・・・
???

ヘンだ。何かヘン。もしかするとヘンではないのかもしれない。黒田さんのご本を読んでいると、これはもしかすると短歌の入門書ではないかという気がしてくるから不思議だ。つまりは、写実とはどういうことか、短歌とはどういうものか、という説明を読んでいるような気がしてくるから不思議。そして、詩の作法のあるまじきとして、まさしく彼が語っているのは短歌や俳句の弱点ではないかと思ってしまう。そうなんだよね・・・つまりは、すぐに習い事というとお手本どおりとかね・・・すぐに手本を求める傾向がある。そうやって形式を真似したり定番の美辞麗句を並べても詩にはならない。どうして詩にならないのかということを読んでいくうちに、まさにこれこそが短歌をつまらなくしている弱点を暗に示唆しているような気がしてきてしまう。つまりは、すでにまえがきの段階から万葉からの伝統を否定するものではないと書きながら、それでいて暗黙のうちにそれらと対比させることにより、現代詩のよさを説明しているのではないかとすら疑ってしまう。
逆に語れば、もっともなことしか書かれていないために、そういう弱点があるにもかかわらず、どうして自分が短歌という定型詩を詠んでいるのかといえば、単に自分のあまのじゃく的性質から来ているのかもしれないと思っていたら、実は自由詩が難しいから定型詩を書いているだけなのかもしれないとすら思ってしまう。それでいて、戦後の現代詩より実は戦前の詩人のほうがいまだに人気がある詩人が多いという・・・だったら素直に明治の頃のように七五調でも日本語の詩はかまわないのではないかとすら、あまのじゃく的に斜めに考えてみる。
つまりは、形を破壊しても根底の姿勢が変わらなければ意味がないし、形を踏襲しても詩の本質を見失えば短歌も俳句も本来の旨味を失ってしまうのではないかと、ぼっけーっと思ったりして。
あっさり語ると、日本の現代詩は、文語定型詩が嫌いな人が、口語自由詩を求めているだけなのかもしれないし、定型詩が主流の中で、コソコソと自由詩を書いていた人たち・・・それでいてヨーロッパの詩人などは定型詩から書く人が多いということと日本の詩事情というものを対比させているのかもしれないし、自分などは詩はあまりにも自由すぎるような気がして、かえって難しく感じる。だから、短歌と比較するとあまりにも遅筆。つまりは、自由詩が主流の中で、コソコソと定型詩を書いている・・・

投稿者 Blue Wind : 11:37 AM | コメント (0)

わわんわん(おかあさん)、ううー、わわんわん(おかあさん)、階下からサンバのリズムでわれを呼ぶオト

わわんわん(おかあさん)、ううー、わわんわん(おかあさん)、階下からサンバのリズムでわれを呼ぶオト
弧を描く空の広さを思うとき十勝平野のでこぼこなみち
気がつけば自由だったし時間とは静止するため過去に止まる。

投稿者 Blue Wind : 04:11 AM | コメント (0)

詩篇 73. 13-28

わたしは心を清く保ち
手を洗って潔白を示したが、むなしかった。
日ごと、わたしは病に打たれ
朝ごとに凝らしめを受ける。
  「彼らのように語ろう」と望んだなら
  見よ、あなたの子らの代を
  裏切ることになっていたであろう。
わたしの目に労苦と映ることの意味を
知りたいと思い計り
ついに、わたしは神の聖所を訪れ
彼らの行く末を見分けた
あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え
彼らを迷いに落とされるのを
彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし
災難によって滅ぼし尽くされるのを
わが主よ、あなたが目覚め
眠りから覚めた人が夢を侮るように
  彼らの偶像を侮られるのを。

わたしは心が騒ぎ
はらわたの裂ける思いがする。
わたしは愚かで知識がなく
あなたに対して獣のようにふるまっていた。
あなたがわたしの右の手を取ってくださるので
常にわたしは御もとにとどまることができる。
あなたは御計らいに従ってわたしを導き
後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。
地上であなたを愛していなければ
天で誰がわたしを助けてくれようか。
わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが
神はとこしえにわたしの心の岩
  わたしに与えられた分。
見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。
御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。
わたしは、神に近くあることを幸いとし
主なる神に避けどころを置く。
わたしは御業をことごとく語り伝えよう。

投稿者 Blue Wind : 01:18 AM | コメント (0)

サフィニアの時期まで待とうプランターしだれる花のこぼれるほどに

マタイによる福音書 20の途中

サフィニアの時期まで待とうプランターしだれる花のこぼれるほどに
春の庭巨大蒲公英咲きたるは光然したる北の大地萌え
木蔭には蕾つけたる水仙のあおあおとした葉を伸ばしたり
高麗の芝の足らぬを西洋の芝のたね撒き雑草のごと
アカシアは黄黄の花花しだらせてしなりゆく枝窓辺をゆらす
わが家を忘れてくださいファミレスの駐車場から眺める人よ
さんぽみちぎこぎこ鳴るは白ポスト蓋のねじさえ草の中消ゆ

詩篇 73. 13-28

は〜、なごむ。
壮絶な旧約聖書から新約聖書へ飛ぶと、なんで癒しなのか少し理解できるようになるという。しかも関東平野くらいの広さの中の出来事だと思うと広いのか狭いのか狭いのか広いのか、異邦人。

投稿者 Blue Wind : 01:04 AM | コメント (0)

March 17, 2004

トラ歌人

十代の頃から親の葬式を心配しながら生きてくると、30歳を超えたら自然と自分の葬式のことを考えるようになる。年寄りっ子でもあり、短命の家系だとそれが普通だ。それでも、自分の場合は父に比べればまだマシではないかと思う。彼の場合は、長男が40代で代々亡くなってきたために、戦争という暗い時代背景もあっただろうけど、自分もまた40代で亡くなるかもしれないという破瓜的なところがあり、その後も鬱々と弱い心臓を抱えていたせいか、あたしも子どもの頃は学校を休まされて突然旅行に連れ出されたり、ちょっと変わったところのある親だったかもしれない。母も祖母も65歳の手前で脳出血だから、いずれにせよ、元気なうちに精一杯やりたいことをしておこうというか、母もかなり身勝手な人だった。そういう親たちに振り回されながら、子ども時代を過ごしてきたんだなーと、娘を育てながら感じたりする。
ダンナもあたしも共に年寄りっ子だけど、まだうちのダンナのほうが生産的に育てられている。将来的には誰が親の世話をしてとか、たしかに姑さんのところは長生きの家系だから、いっつもボケや寝たきりを心配しながら健康管理には人一倍という性格だし、よく考えればそれが普通なのかもしれないとワイドショーを眺めたりすると思ったりする。あたしの場合は、個人年金でもすでに自分が受け取れないような気がするから、損しないように娘が受け取れるような形にしてあるし、万が一生きていたとしても介護や医療費にあてるくらいの考えしか持てない。

よく考えたら、これは鬱なのかもしれない。でも、病気ではないらしい。というのは、子どもの頃からそういう親に育てられると、そういうのが当たり前なのですでに終わっている。病気になったりとか、災難に遭遇したらとか、明日がどうなるのかわからないとか、すでに終わっている。ダンナにも検診に行けなどと言われるけれど、いささかそういうことにもうんざりなのです。明日死ぬなら死ぬでそれまではやりたいことをさせてくれというのほうが当たり前のメンタリティなので、うちの娘などはそういう理屈を凌駕した部分をうすうすは感じとってはいるだろうけど、幼稚園の頃には、一日早くダンナが香港へ行くのを見送っただけで、「お父さんが心配」と空港で泣いていたし、母が脳出血で倒れた姿をみて、あたしがあんなふうになったらどうしようかといきなり泣き出したり、そういう意味では感受性のつよい子かもしれない。
まだ小さいのに気の毒なやっちゃと思うけど、オトくんが来た日に、「お父さんもお母さんもいなくなるかもしれないけど、そのときにはオトくんと生きろ」と言ってある。『フランダースの犬』ではないけれども、いつそうなるかもわからない。そうならないように、とは思っているけれども、こればかりはわからない。ふつうだったら、子どもにそういうことを言っても説得力がないのかもしれないけど、そういうのがみょうに説得力のある家庭環境というところがなんともはや。
でも、何の免疫もなく不幸に遭遇するよりも、ある程度、そういうストレッサーに対する免疫はあったほうがいいような気がする。諦めがよくなるからかな。泣いても怒ってもどうにもならないことのほうが多いと思っていると諦めがよくなる。諦めがよいほうが自分を救いやすい。いつまでもあーだこーだと怒っているヒマがあれば、もっと違うことをしようとか、切り替えが早い。あまりにも早すぎて、他人には冷たい人間だと思われてしまうのだろう。たまに、うちのダンナに対してもそのように思ったりするから、おそらくは他人からみれば、自分もまたそのように映るのだろうとはたまに思ったりすることもある。が、しかし・・・・そうなると、すでに他人のことはどうでもいいような気がしてしまう。
一番の悩みの種は、他人に癒しを求められたくないということかも。

鬱々している部分というのは、弱点なのだそう。弱点なら弱点でそれはそれでかまわない。それでどこか弱く見えてしまうのは仕方がない。でも、実際には全然弱くないと思う。鬱々とぶっつぶれているくらいがちょうどいい。なぜかというと、そういうときには少なくても癒しは求められないからだと思う。鬱の人を励ますと、猛烈に怒ったりするでしょ?つまりはそういうことなのよ。だから、本当は猛烈に怒る権利があるのだと思ったりする。それでいて、いちいち怒るほどには鬱々していないらしくて、逆に他人が猛烈に怒ったりする。どうして怒るのかというと、弱点だかららしい。
そういう鬱同士のあほらしい中にいるより、あっけらかんとマンガを読んだり、ゲームをしているほうが生産的なのかも。それでいて、そういうのにも飽きる。
オトくんはうれしそうに寝ているし、ダンナは夕飯のことしか考えないし、おちびはマイペースだし、あたしはのんきに歌でも詠む。静かに詠んでいるのではなく、なんと言うか、いわば鬱捨て場だ。なんか、鬱々と鬱を捨てるとすっきりしてしまう。もともとあってないような幻の鬱だから尚更かも。内心はぎゃーぎゃー喚きながら詠んでいる。「ばかやろ、歌くらい好きに詠ませろ」とか。いわば、タイガース・ファンの心境に近いのかも。あのように、大虎をかましながら詠んでいる。それが行き過ぎないように、自制の意味で、神父さんのサイトや聖書を読んでいるのかもしれない。それが外れると、どんどん毒々しくなっていってしまう。自分ではネコ歌人だと思っていたけど、もしかするとトラ歌人かもしれない。やば。

投稿者 Blue Wind : 11:07 AM | コメント (0)

ヨブ記 40. 1-5

ヨブに答えて、主は仰せになった。

全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
神を責めたてる者よ、答えるがよい。

ヨブは主に答えて言った。

わたしは軽々しくものを申しました。
どうしてあなたに反論などできましょう。
わたしはこの口に手を置きます。
ひと言語りましたが、もう主張しません。
ふた言申しましたが、もう繰り返しません。

投稿者 Blue Wind : 12:42 AM | コメント (0)

March 16, 2004

歌詠みの現実を知る春の日は弱小企業のぼやきにも似て

ヨブ記を通読しました

ヨブ記などしんみりと読む昼下がりサタンと話すジーザスを思ふ
あんたとはもう話などしたくないって思うときにはサタンの来る
サタンとはあなりこうなり願わくば向こう岸へと俯きわたる
こころなど止まっちまえば春風は光のなかでぱあっと駆け抜け
不幸かと問われたならば幸せとこたえてしまうサウンドを聴く
あらばこそサタンの来る世の中はなにが餌かと考えてみる
ああそうか愛に飢えたる堕天使は愛をもとめて愛を引き裂く
オトくんはサタンのような耳をして笑みを浮かべてちんまり眠る
オトくんは黒黒とした艶やかな毛並みを讃え愛をいっぱい
番犬の朝の6時にやってくる新聞配達目覚ましとなる
忠犬のオトは朝から吠えまくり雨でも降れば「あと少しだけ」
コミックを買えるようなお値段で売られる歌集なら買う歌集
パトリシア・コーンウェルがこの値段斉藤茂吉でもあの値段
医療費の点数制度思い出す平等という不平等あり
歌詠みの現実を知る春の日は弱小企業のぼやきにも似て
銭金を考えぬから詠めるなど言われてむなし元手なきうた
鬱々と一人で詠んでいるのなら金もかからずカラオケもなく
あの人がうざいと思うその理由サタンと話すここちするかな
オトくんが平和に眠る湯たんぽはサタンを癒す特効薬かな

ヨブ記 40. 1-5

投稿者 Blue Wind : 11:49 PM | コメント (0)

ホームメイドかオリエンタルか

短歌系のメルマガを読む。「いまどき短歌」・・・・・
きゃーーーーーー、やめてぇーーーーーーーーー!!
っと思ってしまった。
かっこわるくてかっこわるくて。
「ネット短歌」という表現もやめてほしい。
あたしは、ネット歌人であるけれども、ネット短歌をアップしているわけではない。(つもり)
どうしてネット歌人かというと、CGI歌人だからだ。どうもいまだにペンやメモではなかなかスラ〜っと歌が出ない。それよりも大真面目にBBSなどで歌をやりとりしていたのが事始だから、パソコンの画面を眺めながらそれを初めて手書きに置き換えたときの不思議な感覚は言いようがない。今は、知り合いのサイトか、神父さんのサイトでくらいでしか、めったに歌を詠まなくなってしまったけれども、そもそもが歌人は一人の世界と言ってきたし、傍若無人な歌のほうが好きなために本当は酒でも飲みながらぶつくさ言っているのを歌にするくらいがちょうどいいのかもしれないと思うくらいだ。そういうわけで、八木重吉のように、神さまとだけお話せよ?つまりは、歌を詠んで、あーでもないこーでもないとうつうつうつうつしたとともに聖書を開く。気がつけばこれが日課になってしまった。駄文のほうは、以前からサイトのネタのつもりでアップしてきたし、何か書かないことにはテキストサイトにはならないではないか。
「いまどき」ってことはさ、つまりはいまどきではないうたを念頭に置いているから、そういう発想が浮かぶわけで、いまどきではないうたを知らないあたしにはそういう発想自体がイカメシすぎる。ひ孫のいる年寄りが子ども子どもと話しているのと似たような気分というか、あなたのお子さまはもうおじいさまなのですと言っても無駄なことにも似ている。
あっさり言うけど、歌はつぶやきだ。詩とはそこが違うような気がする。少なくても、単なるつぶやきを定型で落書きしているようなものであり、うちの娘があたしが学生時代から使っているカントリー調のおはりばこ・・・つまりは、ソーイング・ボックスと言ったほうがイメージしやすい代物の中から勝手につくりそこねたクリスマス用パッチワークの切れ端を見つけてちくちくやり方も知らずに縫っているのと変わらない。何を始めたかと思ったらオトくんのおもちゃをつくっているらしい。これはオトくんのバッグだとか、首輪だとか、パンヤを詰めて噛み噛み用に細長いやつ、小さいやつなど、あれこれつくって遊んでいる。要するに、紙を切って遊んでいたり、ダンボールでオトくんの犬小屋をつくってみたり、工作ごっこをして遊んでいる延長線上にある。ちゃんとそれらしく完成しているので感心してしまうけど、売り物にはならないだろう。だって、材料費タダだし、遊びだし、てきとーだし・・・
でも、自家製ならそれでもかまわない。
「ホームメイド短歌」のほうが、まだ「いまどき短歌」より、雰囲気がいい。第一、あたしはいまどきのひとじゃないわよ、すでに。いまどきのひとたちを理解できないし、それでいて、リブ・ゴーシュやミュグレやいちの服を着ていて遊んでいた時代の自分とは違う。当時はそれが普通だったと言っても、もうすでに同年代の人たちじゃないと理解してくれないだろうけど。今は、平気で20年前のセーターでも着たきりすずめでも平気だもんね、なんたる違い!クルマしか乗らない生活だからかもしれないけど。サンダルひっかけてリゾートへ直行という時代。
が、しかし・・・・3年の間でバリ島があまりにも変化していたために、それも考え直したほうがいいかもしれない。アジアン・ビーチに未来はあるのか?落陽の美しさだけは変わらないだろうけど、人間次第なような気がするし、旅とは。それよりもドンとしたふるきなかへ今年はすすみたい。いまどきのひとの考え方よりいにしえのひとの考え方へ旅してみたい。めんめんとみゃくみゃくと変わらずに、在る。そういう存在感に圧倒されたい気分でもある。もっと突きつめると、それこそ文化ではなく、文明を感じてみたい。
詩は少なくても短歌ができる前からあったわけだし、日本が消えても詩は消えない。
ところで、短歌って、日本が消えたら消えちゃうわけ?
魂は永遠・・・のはず・・・・・なんだけど。

投稿者 Blue Wind : 10:21 AM | コメント (0)

歴代誌下 7. 1-3

  ソロモンが祈りを終えると、天から火が降って焼き尽くす献げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちた。祭司たちは、主の栄光が神殿に満ちたので、神殿に入ることができなかった。イスラエル人は皆、火と主の栄光が神殿に降るのを見て、ひざまずいて敷石の上に顔を伏せ、礼拝をして、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美した。

投稿者 Blue Wind : 07:31 AM | コメント (0)

ランボーがどうして癒し詩のうくし愛のなきことうつくしきかな

諦めよう。もともとあたまわるいから。もうときすでに弧を描きたる
いくばくの糧を得たりも税務署は時間と金を搾取するだに
幼子のうたよむ日々を不思議がる。未来のときに今があるだに
周辺視ながむるようにときすでに鹿の子のようにみちなるうくし
ランボーがどうして癒し詩のうくし愛のなきことうつくしきかな

歴代誌下 7. 1-3

投稿者 Blue Wind : 07:30 AM | コメント (0)

ルカによる福音書 17.

  赦し、信仰、奉仕
  イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
  使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
  あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐに来て食事の席に着きなさい』という者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕をしてくれ。お前はその後で食事をしないさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

  重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
  イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガラリヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らはそこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

  神の国が来る
  ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるものだ。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。一人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

投稿者 Blue Wind : 07:28 AM | コメント (0)

どちらがどちらなのか

毎日聖書を読んでいるうちに、といっても開いているだけなんですけど、来る日も来る日も明るい話がない。やれ戦争だの飢饉だの滅ぶだの絶望だの暗い話ばかり。癒しを求めているんですけど、ま〜ったく逆です。癒しを求められるのがいやで聖書を鬱々読んでいるほうがマシだと思ったんですけど、聖書のほうが遥かに暗い。暗い人の話よりもまだ暗い。よく考えたら、上は下になり下は上。つまりは地球はまるいから、上は下で下は上なんです。ピラミッドですら、実はあれは地球を支えようとして誰かがつくったのではないかと疑っているという。つまりは、星、だから。いつも上が上だと思っているから勘違いするけど、実は垂直方向というのは特殊な方向なんです。垂直を感知するというのはあまりにも個人差が大きい。目で感知するか、体勢バランスで感知するかの違いなんでしょうけど。途中で研究をやめてしまったので、よくわかりません。おそらくはやっていてもよくわからないだけなのかもしれませんけど。頭わるいのかも。だんだんわからなくなってきた。
そだそだ・・・その垂直方向の知覚がどうして重要かというと、それこそパーソナリティから知能、さまざまな人の特徴と相関関係があるということだからだったような。つまりは外界との関わり方が人によって違う。思考の柔軟性から権威主義的尺度、フォビアと周辺視、知覚は実は判断であるという発想。
なんで、天、というのはいつも垂直なんでしょうね。上ってことは垂直に存在するというだけのことなんです。そこがわからん。
大体、十字架というのはヘンなんです。同じ長さでもそれを縦にするか横にするかでまったく長さが違って感じられるものなんです。だから、同じ長さでクロスをつくると違った長さに知覚されるはずなんだけど、クロスというのはヘンだ。つまりは、その存在自体が知覚の恒常性を破壊しているんです、すでに。
あれ?
あなたはあなた、わたしはわたし、だから、もしかすると違うのかも。
いずれにせよ、最初に精神物理学を思いついた人は尊敬します。どうやってもあなたはあなたわたしはわたしの世界に尺度というものを持ち込んだわけですから。

ルカによる福音書 17

投稿者 Blue Wind : 07:27 AM | コメント (0)

エレミヤ書 5. 15

「見よ、わたしは遠くから一つの国を
お前たちの上に襲いかからせる。
イスラエルの家よ、と主は言われる。
それは絶えることのない国、古くからの国
その言葉は理解し難く
その言うことは聞き取れない。」

投稿者 Blue Wind : 12:49 AM | コメント (0)

March 15, 2004

誰だってしあわせもとむ愛もとむケンタウロスは夢のなか住む

誰だってしあわせもとむ愛もとむケンタウロスは夢のなか住む
オリンポス西谷祥子マーガレット 少女マンガ読んでいた日々
歳月は少女漫画の瞳さえ巨大化しては豪華な付録

聖書には張り裂けそうな叫び声木霊するようみことばをうく
冷えかけた春の陽射しはうららかでトワイライトを彩る夕陽
安らぎを求めて聖書ひらけども苦しみのないみことばのなく
メタファーのちりばめられし新約は永久の契りを言の葉にする
世の終わり。どこかどうでもいいような春はおとづる。水仙を待つ

聖書より癒しもとむを諦めた。その時うたはrejoiceを聴く。
世の終わり。春うららかでほがらかで夢見がちなる人らの声する。
幾重にも苦しみばかり書かれたるみことばのない聖書のなくば
あきらめた絶望の果て浮遊するみずのうたごえ光のなかへ
どこまでもおちゆくそこは裏側の地球のうえはそらがひろがり

エレミヤ書 5. 15

投稿者 Blue Wind : 11:53 PM | コメント (0)

ヨブ記 6. 14-23

絶望している者にこそ
  友は忠実であるべきだ。
さもないと
  全能者への畏敬を失わせることになる。
わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。
流れが去った川床のように。
流れは氷に暗く覆われることもあり
雪が解けて流れることもある。
季節が変わればその流れも絶え
炎暑にあえば、どこかへ消えてしまう。
そのために隊商は道に迷い
混沌と踏み込んで道を失う。
テマの隊商はその流れを目当てにし
シェバの旅人はそれに望みをかけて来るが
確信していたのに、裏切られ
そこまで来て、うろたえる。
今や、あなたたちもそのようになった。
破滅を見て、恐れている。
わたしが言ったことがあろうか
「頼む、わたしのために
  あなたたちの財産を割いて
苦しめる者の手から救い出し
暴虐な者の手からわたしを贖ってくれ」と。

投稿者 Blue Wind : 04:27 AM | コメント (0)

こころには垣根のありし寒つばき風に吹かれて季節の終わる

訃報にも虚無を知るべし長電話かなしくもなくあはれでもなく
訃報よりわが子案ずる母なれば鬱にしずむをなほ案じたる
もうなにも傷以外には見つからぬひからびた死の報せのむなし
ぬくぬくと陽だまりのなか犬を抱くかわりなき夫の日課というもの
諦めよう。従兄の死より吾子の手の傷を案ずる夫という人は
失つて悲しきいのちいくつあるかぞえてむなし愛というもの
こころには垣根のありし寒つばき風に吹かれて季節の終わる
悲しみにくるる人らのなかりせば死はあらねと悲しくもなく

ヨブ記 6. 14-23

投稿者 Blue Wind : 04:00 AM | コメント (0)

舞い散るほうが美しい?

それにしても父系社会というのは他人の集合体のような気がしてしまう。叔母さんたちが集まっても全部他人だし・・・つまりは、長男の嫁、次男の嫁、妹という関係はとりあえず義理の姉妹であってもすべてが他人だ。年寄りが長生きする時代ゆえ、母親一人が残ったりするとどう考えても他人となるらしい。完全に他人ならまだしも、それまでの生きてきた確執などがあったりすると、本当に他人同士のほうがマシであるということを学ぶ。そういう中で、うちのダンナなどは末っ子だし、年も離れているために従兄とは言っても一回り違う。それでも50代で亡くなったのだからまだお若いとしか言えない。お子さんもいらっしゃらないし・・・
姑さんが、子ども子どもと騒いでも皆おじさんおばさんであり、末っ子に近い姑さんの場合、姉と言っても一回りくらい上だったりする。そうなると、ひ孫がいる。それでも、いまだに子ども子どもと子どもの話をする。もうそうなると子どもとは言ってもおじいさんだろうってあたしなどは思うんだけど、そこで比較されても非常に感性が違うために困る。
このように、年上の人たちとお付き合いすることが非常に苦痛であるために、特に子どもの話をされて、そのお子さまが自分などより遥かに年上だった日には、どうやって話を逸らそうかと思ってしまう。それでもなかなか逸れないのは、共通の話題が子育てのことだったりするからであり、それ以外に何を話せと言うのだろう?
世紀末とか、世の終わりなどと言っても、なんかどうでもいい気になってしまうのは、ひ孫までいる人たちがいつまでも子ども子どもと老いた子どもの話をリアルタイムのように語っているからかもしれないし、年を取るとどういうわけかその日の出来事は忘れてしまうけれども、過去の出来事などは鮮明にお話をされるという奇妙な事実があるからかもしれないし、そうなると、仮に短命の家系のあたしが長生きしてしまったとしても、あたしはおそらくは今の日の出来事をせっせと語る年寄りになっている確率が高い。
今でさえ、過去の出来事などを語ると燃えカスと言われてしまうというのに、これ以上ババアになったらせめて腐葉土と呼ばれていたいなどと勝手に考えている。
昨日の夕方、サイトを更新した。でも、ボツにした。
うたことばのことについて書いたような記憶がある。つまりは、『NHK歌壇』の3月号を何となく読んでいたら、俗語についての話が書かれており、なるほどなるほどと思う反面、あまりにもおおげさだったからだ。それと夕飯前だったので、あれにこれにと途中で邪魔されて、何が書きたいのかわからないようなテキストになってしまったせいでもある。
なんと言ったらよいのだろう・・・・短歌というのは、元来俗語は使わず、うたことばや雅な言葉だけで詠わなければならないものであり、だからこそ俗語の入った歌などを眺めるとひたすらこういう言葉を使ってもよいものかと思ったという記述を発見し、俗語を知らない人であればそういう言葉を使えと言われてもどうせ使えないに決まっているし、知っているならどんどん使ってもよいのではないかと勝手に思ったりして・・・かつ、俗語を知っているのにわざわざ使わないようにしたい人はそのようにすればよいし、そういう人たちがいるから下手な歌を詠む張り合いがあるのではないかという・・・
世の中には、本当に俗語というものを知らない人たちが存在しているわけであり、自分でもずいぶんネットをするようになってから覚えた単語もあるような気がする。だから、インターネットに発信するとどうしても毒々しくなってしまう。なんで、あほなジャンキーに襲撃されるんだろうと言えば、”あほなジャンキー”って書くからだと言われてしまう。・・・・・・おっしゃるとおり。
それでもそうやって書きたいのだからあたしのことは放っておいてほしいと思う。

----りんさん、もう少し上品なうたが詠めませんか?
----う〜ん・・・・・そういううたを詠みたいのならうたなど詠んでいないと思います。

それでいて、これが自分の歌集であると名刺代わりに配るためには少々勇気が必要かもしれないなどと思いながらそれでも詠んでいる。少しは世間体などというものを考えたら、うたらしいうたを詠まないとというプレッシャーもあるんだけど、娘の担任の先生が、あたしが短歌を詠んでいると娘が言っても本気にしてくれなかったそうなのでやめた。大体がアメリカ製の家に住んで、ボサノバやロックなどを聴いている。詩を書いているというのであればまだしも、”短歌”だから本気にしないような担任なのである。つまりは、あたしのことを表面的にしか知らないわけであり、それが世間なんだなーとチラッと考える。ちなみにうちの姑さんのほうがマシだ。少なくても驚かないもの。
本当は、雅な言葉などを使いながら、みことばなどをうたにしていくことが理想なのかもしれないけど、どうしてもそれでは物足りなくなってしまう。それこそエミリー・ブロンテではないけれども毒々しくなってしまうのは仕方がないような気さえする。たまに必要以上の猛毒を発していることに気がつくこともあるけれど、それが癒しなんだから諦めてほしい。(誰に向かって言っているのかわからん・・)
それと、歌評などを読んでいると、いやになってきてしまう。つまりは、この人はこういう身の上で、こういう事情があってこの歌を詠んだなどと書いてあると、しみじみつくづくいやになってきてしまう。まあ、死んだ後なら何を言われてもかまわないのかもしれないけど、こう、他人に仮に自分のことを書かれたとしてね、その時にこの人は自分のことをこういうふうに考えていたのだと思ったりすると、それが仮に素晴らしい内容だったとしてもかたはらいたくなってしまうし、言い返せない苛立ちが残る。それが文学だと言われてしまうとそういう世界なのかもしれないし、何か書くなら実験したり実証したりする世界のほうがまだ救われる。
もともとが自分のことは客観的には見ない。それでいて勝手にあれこれイメージされているのだと思うとつらい。ならば自分のことをせっせと書く?そこまではちょっと。
いずれにせよ、なんと言うか、舞い散る言の葉。
派手に詠もうと思ったら、言葉の大盤振る舞いというか・・・
でも、そうならないように詠む。
でも、わからんのよ。
これは、本気でわからないのだと思う。
本気の本気でわからない。

投稿者 Blue Wind : 03:21 AM | コメント (0)

マタイによる福音書 24. 3-14 終末の徴

  イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

投稿者 Blue Wind : 01:24 AM | コメント (0)

March 14, 2004

親の死に間に合ふ人のなかりせば誰そみおくる日々の流るる

歴史とのつきあい方が下手なのと不意に気がつくうたことばかな
京の町唐の時代の模倣品ならべてうれしやまと魂
すごろくを自分でつくる落書き帳伝統文化テトラゴンなり
ヘキサゴンいきなり吾子に問われてもオクタゴンとの区別もつかぬ
ラテンからギリシャをつたふ言の葉をカタカナ表記吾子に問はれり
商社からアメリカ製の家を買ふ日本人の普通の文化
お針箱切れ端見つけオトくんのおもちゃをつくる器用な娘

年ゆきた人と話すは今の吾の年頃のことそは誰のこと
親の死に間に合ふ人のなかりせば誰そみおくる日々の流るる
吾知らぬ数十年の年月は過ぎ去りしごと反復となる
あの世まで時効の無きを不可思議に生きた月日の終焉は亡き
今もなほかごとの渦のそらたかく墓石のなかもちてゆくらむ
今の日をゆくりゆくりと過ごすべく長生きの日におのはさがせぬ

母系ゆえつたわるうたの詠い方つどえる人の父系のごとく
母親の一人残れる世の中は濃くなりつつも淡く消え去る
親よりも子の先立つ世の中は今がまほろと儚くも思ふ

マタイによる福音書 24. 3-14 終末の徴

どうして長生きするとその日の出来事を思い出せなくなるのでしょう。姑さんに、先代の姑さんが亡くなったとき、あたしは中学生だったんですけど、って言っても通じない。理屈では通じるんですけど、話しているうちに忘れてしまう。会ったこともないんですけど、身内なんでしょうね。なんでそれが自分と関係があるのかよくわからなくなることのほうが多いのです。話せばわかるというのは嘘です。だってわからないから。知らないし・・・もとをただせば全部他人。あの叔母さんもあの叔母さんも全部まとめて実は全部他人であることに気がついた。だって、嫁さんだもの。よーわからん。自分から見ても他人だけど、あの人たちが集まっていても他人同士らしい。他人にもなりきれない他人同士というのが一番不可解な気がする。

世の終わりかー、などと言われても、なんかどーでもいい気分になってしまいます。ひ孫までいる人がまだ子ども子どもと話している時代だからかも。

投稿者 Blue Wind : 10:47 PM | コメント (0)

ルカによる福音書 18. 9-14 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ

  自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のようにたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

投稿者 Blue Wind : 01:18 AM | コメント (0)

安住の地は安らかに生きたまま幌を被りて身を寄せおうて

明日の日の天国までの階段をかろくあがるる束の間の幌
子のいては孫のいるとき幻は老いたる母を一人になさる
壮絶なさびしさおもう年寄りはほのぐらき鬱わずかにかろく
安住の地は安らかに生きたまま幌を被りて身を寄せおうて
「白石は」と語る義母の話にはどこか見知らぬ声のまじりぬ
 

 
主人の従兄が亡くなったそうです。まだお若いのに。
ご冥福をお祈り申します。

ルカによる福音書 18. 9-14 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ

投稿者 Blue Wind : 12:52 AM | コメント (0)

March 13, 2004

列王記上 20. 1-21 イスラエルとアラムの戦い

  アラムの王ベン・ハダドは全軍を集めた。三十二人の王侯、軍馬と戦車をそろえてサマリアに軍を進め、これを包囲し、攻撃を加えた。彼はこの町にいるイスラエルの王アハブに使者を送り、こう言わせた。「ベン・ハダドはこう言う。あなたの銀と金はわたしのもの、あなたの美しい妻子たちもわたしのものである。」イスラエルの王は答えた。「わが主君、王よ、あなたのお言葉どおりです。わたしも、わたしの持ち物もすべてあなたのものです。」使者は再び来て言った。「ベン・ハダドはこう言う。わたしはあなたに使者を送って、銀と金、妻子たちを差し出すようにと言った。明日のこの時刻に、わたしは家臣をあなたに遣わす。彼らはあなたの家、あなたの家臣の家の中を探し、あなたの目が喜びとしているものをすべて手に入れ、奪い取る。」イスラエルの王は、国中のすべての長老を召集して言った。「この男が、困ったことを要求しているのをよく知ってもらいたい。彼は使者をよこして、わたしの妻子と、銀と金を求めてきた。わたしはそれを断り切れなかった。」長老と民は皆、王に言った。「求めを聞き入れないでください。承諾しないでください。」こうして王はベン・ハダドの使者に言った。「わが主君、王にこう伝えよ。『使者を送ってあなたが僕になさったさきの要求にはすべて従います。しかし、この度の要求には従えません。』」使者は帰ってこの返答を伝えた。ベン・ハダドは使者をアハブに送って、こう言わせた。「もしサマリアに残る塵がわたしと行を共にするすべての民の手のひらを満たすことができるなら、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」イスラエルの王は答えた。「こう伝えよ。『武具を帯びようとする者が、武具を解く者と同じように勝ち誇ることはできない』と。」ベン・ハダドは、ほかの王侯たちと共に仮小屋で酒盛りをしているときにこの言葉を聞いて、家臣たちに、「配置につけ」と命令した。彼らは町に向かって戦闘配置についた。
  見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいてこう言った。「主はこう言われる。『この大軍をよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」アハブが、「誰を用いてそうなさるのか」と尋ねると、預言者は、「主はこう言われる。『諸州の知事に属する若者たちである』」と答えた。王が、「誰が戦いを始めるのか」と尋ねると、彼は、「あなたです」と答えた。そこでアハブが、諸州の知事に属する若者たちを召集すると、その数は二百三十二名であった。続いてすべての民すなわちイスラエル人七千人を召集した。彼らが出陣したのは正午であったが、ベン・ハダドと援護に来た三十二人の王侯たちは仮小屋で酒を飲んで酔っていた。諸州の知事に属する若者たちがまず出て行った。ベン・ハダドは、サマリアから人々が出て来るとの知らせを、遣わした者から受けると、「彼らが和平のために出て来たとしても生かしたまま捕虜にし、戦いのために出て来たとしても、生かしたまま捕虜にせよ」と命じた。諸州の知事に属する若者たち、更に後続部隊が町から出て来た。それぞれがその相手を打ち、アラム軍は敗走した。イスラエルの人々は追い打ちをかけたが、アラムの王ベン・ハダドは馬に乗り、騎兵を伴って逃げ去った。イスラエルの王も出陣して、軍馬や戦車を撃ち、アラムに大損害を与えた。

投稿者 Blue Wind : 06:02 PM | コメント (0)

愛がないんだよね・・・

まとめて歌集を買ってみた。どれもおもしろくない。おそらくは有名な歌人の歌ばかりなんでしょうけど、自分から見て魅力がない。簡単に言うと、愛がないから。宗左近さんの歌集というか、詩集のほうが魅力がある。
なんでなんだろう?
短歌だけではなく詩を書いている人は歌人というよりも詩人というジャンルに含まれるせいか、歌集というのは何となく人気がなく書店の書棚に並んでいる。歌集よりも句集のほうが数が多いのも特徴。短歌と俳句は同じ書棚にあり、詩はまったく別の書棚に並んでいる。
うちの近所の本屋がたまたまそうなのだろうか?
でも、雑誌の類の配置を考えても、詩と短歌はまったく区分が違うらしい。
カエルおやじに、世の中の人が皆、川崎さんだったら、日本の現状もあっという間に解決すると思うんですけど、などと言っても無意味なことにも似ている。親のために家を売って臓器移植をするのが愛だと勘違いしている時代だ。どうにもならん。実際にはボツになったその話も裏を返せば、相続でもめるのがいやだからそれならば母親のために、といういささか屈折した事情があるらしい。まあ、なんていうか、嫁いびりではないけれども、核家族で共稼ぎの家庭が多くなった裏側には一人でも生きていけるような強さが要求されるような背景文脈があるのかもしれないと、チラッと思うこともある。そういうつまらない事情も、自分の家庭の中だけならあほらしくて話にもならない。姑さんと話していると、話しても無駄なことがあまりにも多いことにも似ている。
長子相続という発想があるから、いつまでも本家とか分家とか古臭い世界などではややこしい。まあ、困れば兄を頼るとかそういう伝統なのだろう。うちのダンナみたいに無責任だと、相続を放棄して知らん顔している。めんどーなことは母親に押し付けようという発想なのかもしれないし、自分の家庭のことだけ考えている分には何も困らない。要するに、皆のことを考えるからややこしくなるわけで、責任が発生する。そのツケがあたしにまわってくる。それがあまりにもかったるいから、嫁さん辞めると宣言した。嫁さん辞めても妻だからね、何も困らなかった。そうなると何もしてやらないとかあれこれ思うんでしょうけど、あたしにはあたしの家族がいる。だから、ダンナの家族は要らない。なんでそこまで自分が強いのか不思議だったけど、要するに、あたしの家族は仲が良い。従妹たちでも姉妹のように育ってきた。だから、本当に困れば、金はくれないかもしれないけど愛はくれるだろう。今の日本の社会は、寡婦や母子家庭になったとしても遺族年金とかね・・・とりあえず、家があって、ささやかなる生命保険と遺族年金で、あたしが食べるだけ働けば娘くらいは育てていけるのではないかという甘えもあるかもしれない。そうなると、金よりも愛がほしい。大変だろうなーって思ってくれるだけで救われる。
簡単に言うと、こころのつながりがあるらしい。
ある程度、親などを見送ってきたり、災難などに遭遇したり、過酷な状況を経験すると、最終的には人柄ということが見えてくる。特に何をしてもらおうとも思わない。実際にはもっと大変な人たちもいるわけだし、それを考えると恵まれているよね。でも、叔母さんなどが、まあちゃんのところも大変なことになってとおろおろおろおろしてくれると、何となく救われる。
友達でも、女同士のほうが気楽だ。困っても何もしてくれないことはわかっている。それぞれに自分の家庭や都合というものがあるし、それはこちらも一緒。だから、つまらないグチでも話せるような気がするし・・・ネットの友達が気楽なのも、生きるに必要なつながりではないせいかもしれない。
まあ、たしかにお金があれば生きていけるのかもしれないけど、ダンナのお姉さんに結核の話をしたら、いきなり、「貯金ないの?」と言われた。「は?」 いや、そうではなく、弟が結核になったんだからいくらか心配したりおろおろしてくれてもよいのではないかと内心思ったけど、話すのをやめた。もしかすると、愛に飢えているから、癒しを求められるのがいやなのかもしれないと思ったし、金のことしか考えないから。よく考えたらそれが普通なのかもしれないし、まだうちの弟のほうがやさしい気がしたけど、比較しても意味ない。悪い人ではないのだけれど、愛がないのよね。
かく言う自分も、もはや他人に癒しを求められるのがいやだ。それなら、娘やオトと遊んでいるほうがマシ。可愛い。家で聖書読んで、下手な歌を詠っているほうがマシ。いや、本気になればこんな自分でももっとはマシな人間になれるような気がすることもあるけれど、そうなるとまたあーだこーだうるさい。あーだこーだとうるさい人たちと付き合うより、のんきに歌を詠む。平和。しかも、カエルに言っても無駄だとわかっていることをちまちま詠む。癒し。おらおらおら、カエルの代わりにやったうちのダンナの講義、めちゃくちゃ評判がよかったらしいではないか。今年もリクエスト。無視。なんで医者が必要なのかとかね、そういうささやかなるつまらない話のほうがカエルの講義より学生には受ける。素直なんだろうな、学生は。だったら、自分でがんばる?やだ。もう話しても無駄だもの。愛のない世界には戻りたくない。ガツガツ生きるより、たまには哲学やら詩やら。そういうほうがいいような気がする。それでいて、なんか、本屋で買ってきた歌集には愛がないような気がする。時代なのかな。

列王記上 20. 1-21 イスラエルとアラムの戦い

投稿者 Blue Wind : 04:16 PM | コメント (0)

歴代誌下 36. 1-4 ユダの王ヨアハズ

  国の民はヨシヤの子ヨアハズを選び、エルサレムで父の代わりに王とした。ヨアハズは二十三歳で王となり、三か月間エルサレムで王位にあった。しかし、エジプトの王はエルサレムで彼を退位させ、その国には科料として銀キカル、金一キカルを課した。他方、エジプトの王はヨアハズの兄弟エルヤキムをユダとエルサレムの王とし、その名をヨヤキムと改めさせた。兄弟のヨアハズはネコに捕らえられ、エジプトに連れて行かれた。

投稿者 Blue Wind : 01:32 AM | コメント (0)

つくばにはあらゆるものをふふみたる踏みこえられぬ並木がつづく

おサルさん、あちらのほうがごちそうよ。あっちへ行って。どうして来るの?
明日からはオトが王さま人類の消えうせた日をほくそえむ吾
あれこれとヒトを思うて悩んでもつなぐ者なき土は塵積む
赤土の腐葉土となる冬の日は黄花の季節うららに俟ちぬ

おもむろに歌集まとめて鷲掴み閉店まぎわ混みあうレジへ
塵積もる知識の渦へまた高く積まれる歌の何のためにか
オトちゃんの眠れる横で宿題をフロアの上で舞帆はコツコツ
100点が当たり前なのあのクラスいつまでたっても癒し系なり
諦めた。あっさり春はお絵かきを2倍に増やす癒し系かな
意味のない歌詠みつづく春の日はうららうららと犬も走れり

歴代誌下 36. 1-4

そういえば喧嘩していたあの人にスーパーで遭い挨拶される
そういえば田舎の街はすえながくおつきあいするしきたりがある
そういえばハワイの移住計画は計画のままお絵かき教室
そういえば山をいくつか持っている農家の人ら筑波嶺に住む
そういえば職住接近研究者駅を好まず群れて住まへる
つくばにはあらゆるものをふふみたる踏みこえられぬ並木がつづく

投稿者 Blue Wind : 01:23 AM | コメント (0)

March 12, 2004

ルツ記 4. 11-17 人々の祝福と神の祝福

  門のところにいたすべての民と長老たちは言った。
「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」
  ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。
「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」
  ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。

投稿者 Blue Wind : 01:58 PM | コメント (0)

傷跡は切り傷擦り傷擦過傷心の傷は春にも癒えぬ

悲しみは過去の記憶の灯火を今にてらすとかがやきを増す
今はもう忘れていたと思っても電話の声に虚ろはひびく
明るい日暗い日もある春の陽はほのぼのとした欝をしのばせ
傷跡は切り傷擦り傷擦過傷心の傷は春にも癒えぬ
鬱の街逃げ出すように電車乗る流るる景色安堵を運ぶ
明日もまた凶事と呼ぶが出来事の待つ電話には感情もなく

ルツ記 4. 11-17 人々の祝福と神の祝福

投稿者 Blue Wind : 02:17 AM | コメント (0)

March 11, 2004

破壊せし空の鉢など散らばりし部屋の中には犯犬のオト

春の日はウッドデッキに風の吹くオトはサンダル咥えて走る
破壊せし空の鉢など散らばりし部屋の中には犯犬のオト
人は皆いつしか消えて夢の跡黄色い花の咲く春の街
終戦と言えるのならば戦争は終わるものだと気がついてみる
ちっぽけな対立はまたおおげさに国を隔てる鶏冠となりぬ

投稿者 Blue Wind : 06:38 PM | コメント (0)

ミモザとの会話

とりあえず、目標の歌人とか好きな歌人と問われた場合、小野小町と答えることにした。これは愛読書と問われて聖書と答えるようなものかもしれない。これだけ乱読していると、すでに何を読んだかも忘れていることが多いし、ましてや小説の類となるとタイトルすら忘れているから、間違えて読んだ本を買ってしまうこともある。かといって、今は昔ほどその手の類の本は読まなくなった。
好きなアーティストと訊かれれば、それこそおそろしいほどCDを聴いているわけだから、あれもこれもとなってしまうわりにはいちいちライナーノーツを眺める習慣がないために、毎日聴いている曲の名前すら知らない。要するに気分屋というのはそういうものであり、そのときの気分次第でジャケットを選ぶだけだから、いちいち曲名なども眺めない。たまにライナーノーツを覗いて、初めてそれがそういう意味だったのかと知る。その瞬間に、なんと、あの意味不明な言語がアフリカ語だったのかということに気がついたりして・・・言葉がわからないほうが音楽はすっきりしていていいなーという気もする。
それにしても、エブリシング・バット・ザ・ガールは好きだ。トレイシー・ソーンのアルトボイスが好きなのかも。憧れに近い。メゾソプラノのあたしは完璧なアルトボイスや完璧なソプラノというものにはどこか憧憬に近いものがあるのかも。なかなかそういう完璧なまでにアルトやソプラノという声はめずらしい。
だったら素直にトレイシー・ソーンが好きだと答えればよいのに、その瞬間ほかにもあれにこれにと浮かんでしまうからつい億劫になる。EBTGの雰囲気が好きでもあるし、個々の曲が好きというわけでもないのかもしれないし、どこが好きと問われれば、声。だからもしかすると、ほかの人がEBTGの歌を歌ったとしても好きにはならないかもしれない。だったら、曲が好きというわけではないのだから、相手の問いの要求の矛先の判断が難しいためになかなか素直に答えることができなくなる。ためしに誰かがEBTGの歌を歌っていて、それを聴いたあたしがどう思うかを知りたいのだけれど、いまだにそういう機会には恵まれていない。

大体ねー、短歌。歌くらい好きに詠っていたって罰は当たらないのではないだろうか?うちの庭のアカシアが実はアカシアではなく銀葉アカシア、つまりはミモザだったからといってそれがどうだというのだろう?苗で買ってきた。あっという間に育つ。ガーデンセンターにはアカシアと書いてあった。つまりはそれだけのことだ。ただし、黄色い花が咲く。葉の色が違う。でも、アカシアと書いてあったから、あたしはこれがアカシアだと信じていた。それだけのことだ。
短歌も元はと言えば、こんなものは誰でも詠めるという独自の判断によりサイトのネタの1つとして詠んできた。これは短歌ではないなどと言いがかりをつけられれば、雑誌に投稿。入選すれば誰も文句は言えない。自分の歌をアップしてサイトをつくる。結社でもリンクしてくれるし、短歌系のウェブリングでも短歌でないなどとは言われたことはない。なのに、どうしてそういうつまらないいちゃもんを言いたがる人がいるのだろう?

結社。
「どんな歌を送ったらいいのでしょう?」
「いや、そのままでいいです」
「・・・・・・・・」

これにはさすがに悩んだ。
何を悩んだかというと、”そのまま”と言われる意味がわからなかったからだ。とりあえずいろいろな種類の歌を詠んでいるために、その中から送るわけでしょ?自分は自分なりにいくつものパターンで詠んでいるつもり。漢語調もあるかもしれないし、概念歌もあるかもしれないし、それこそ花の歌から日常の歌。とにかくなんでもありいで下手は下手なりに歌にしている。全部自己流。あまりにも自己流なので、逆に結社に歌を送ってみようという気になった。そこを逆にそのままでよいと言われると逆に悩んでしまう。
大きく考えれば、ニューウェーブがどうたらこうたらとか、うたがどうたらこうたらとか、あれこれそれはそれなりにあるのかもしれないけれど、ささやかな日常的楽しみで詠んでいる分にはそういうことが逆にどうでもよいことのような気さえする。つまりは、好きに詠んでいるだけのどこが悪いのかよくわからない。
よく、ネットだと自己満足だとか、ニューウェーブは終わったとか言う人たちがいる。あっさり言えば、自分には何のことかよくわからない。その時々で、気まぐれに詠んでいるだけの歌に学名は要らないような気がする。梨園の超めずらしい花も結局名前がわからなかった。詳しく調べればわかるのかもしれないけど、実際のところ単に咲いているだけなら名前は要らないらしい。
最初の頃、庭の蒲公英が小さくて、北海道の蒲公英とは違う蒲公英なのかもしれないと諦めた。ところが根が残っているのだろう・・・そうすると毎年蒲公英の花が巨大化する。まずは茎の長さが違う。かくして、うちの庭の蒲公英はどこか北海道に咲いていたような蒲公英となった。ということは、同じ蒲公英なんだろうと勝手に決めている。

というわけで、好き勝手に詠むということは破壊活動なのだろうか?
いや、違う。
というわけで、目標とする歌人を小野小町にした。
問題は、「小野小町のどこが好きか?」ということの違いにあるから。古語で詠むとかそれを現代語で詠むとか、そういうことではなく、平明な言葉しか使わないのに実に奥深い歌人だからとしか語れない。あの独特の鬱々した雰囲気も好きだし、飾らない言葉の中に歌がある。技法は遊びだ。だからといって、十二単を着てしまおうという悪趣味さはない。恋歌もあれば、普通の歌もある。数は少ないけれどもエッセンスがある。
キーボードで歌を詠っていても手書きでも何でもいいでしょ?歌は歌にすぎない。
誰に師事していたかと問われれば小野小町?
さすがにそれはないだろうけど、ある意味、すごい師匠でもある。
ベクトルの違いなんだろうな・・・古来の歌を伝えることが狙いではない。新しい形をつくることが狙いなのでもない。むしろ、混沌とした時代の中へ突き進む。つまりは、古ければ古いほど混沌としているのが当たり前だから。そういう混沌とした時代には整然とは語れない世界がある。
考えすぎなんだろうか?
そうかもしれない。それに、あたしが機関銃のように小野小町に質問したとしても、果たして彼女が理路整然とあたしの問いに答えてくれるとは思えない。そこがわからないし伝えられないから歌を詠む。だから、とても奥深い。

そういえば、近頃、歌も自問自答の世界に入ってきてしまった。そういうことなんだろう。よくわからないけど。鬱々しながらわからないから歌を詠む。そして聖書を開く。すると、それがまるで神さまからの手紙のような気がしてしまう。よくわからないけど、おそらくはそれが歌なのかもしれない。なんかね・・・なんなのだろう・・・・なんだかよくわからない。1つわかったのは、うちのアカシアがミモザだということかも。東のミモザ。

投稿者 Blue Wind : 05:37 PM | コメント (0)

ヨブ記 7. 17-21

人間とは何なのか。
なぜあなたはこれを大いなるものとし
これに心を向けられるのか。
朝ごとに訪れて確かめ
絶え間なく調べられる。
いつまでもわたしから目をそらされない。
唾を飲み込む間すらも
   ほうっておいてはくださらない。
人を見張っている方よ
わたしが過ちを犯したとしても
あなたにとってそれが何だというのでしょう。
なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
なぜ、わたしを負担とされるのですか。
なぜ、わたしの罪を赦さず
悪を取り除いてくださらないのですか。
今や、わたしは横たわって塵に返る。
あなたが探し求めても
   わたしはもういないでしょう。

投稿者 Blue Wind : 03:14 PM | コメント (0)

イラクには裸足であるく子らのあり幼稚園ではわざわざ裸足

麗らかにのどけき春の訪れをあるく野原のつれゆくひとら
いやし人ゆきてとおれる白内障いやされゆくは青き視界よ
いのり人つどいてゆくをさまたげるマーケットとは極限の極
ちいさきもおおきくもするおおげさな人のこころのまよへる丘よ
イラクには裸足であるく子らのあり幼稚園ではわざわざ裸足
おおげさなメルマガを読む木曜日武器庫にならぶ無人の戦車
虚無のなかうたかたの夢真実はとおまわりしてすぎゆく眩暈
神経の伝達物質つたわりのスピードの中真実はある

ヨブ記 7. 17-21

投稿者 Blue Wind : 02:33 PM | コメント (0)

March 10, 2004

イザヤ書 30. 15-17

まことに、イスラエルの聖なる方
わが主なる神は、こう言われた。
「お前たちは、立ち帰って
静かにしているならば救われる。
安らかに信頼していることにこそ力がある」と。
しかし、お前たちはそれを望まなかった。
お前たちは言った。
「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。
それゆえ、お前たちは逃げなければならない。
また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに
あなたたちを追う者は速いであろう。
一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ、
五人の威嚇によって、お前たちは逃れる。
残る者があっても、山頂の旗竿のように
丘の上の旗のようになる。

投稿者 Blue Wind : 11:56 PM | コメント (0)

気づき

一度狂気の軸によって動かされてしまった行動様式をフィードバックすると、それがいかに奇妙なものであるか少しは理解できるようになるかもしれないと思う。たとえば、常識で考えて、よく知りもしないサイトへ来訪し、いきなり誹謗・中傷を書くという行為は異常だ。どうしてそれが異常と気がつかないのか不思議でしょ?つまりは、狂気により軸を狂わされているからだ。
ある、そういう行動をする人がいて、明らかに彼は異常だ。だから、彼の行動は異常であるとずっと語っているのに通じない。どうしてそういう誤差が生じたかというと、「喧嘩」という認識がある。誰かと誰かが喧嘩している。だから、誰かがそれを擁護しようと喧嘩に参加する。だから、本人にはそれが奇妙な行動には思えないらしい。
しかし、彼は一体誰と喧嘩しているのだろう?あたしだろうか?あたしは彼のことを知らない。なのに、どうして喧嘩を売られなければならないのだろう?そこにトリックがある。
つまりは、この奇妙な行動を「狂気」と語るから怒り心頭になる。最初に狂気がある。それに巻き込まれた人たちはすでにそれを狂気とは感じられなくなるらしい。それで、「そういう人を相手にするときにはこうしてああして」といい加減なアドバイスを受ける。そのアドバイスをしている人もヘンだ。つまりは、自分のほうが幾分マシだと思うから、どうにかしてあげようという親切心かららしい。つまりは、一般社会における常識が通じなくなる。
こうなると、傍から見たらただの喧嘩となる。
つまりは、最初はまったく通り雨のような殴り込みが、いきなり殴られて頭に来たほうが殴り返す。その結果、最初の意味のない殴りかかりがそもそもヘンなものであるという認識が消えてしまう。殴られ損かもしれないけど、もしも本当にやばい人にいきなり殴られたとしたら、悔しくても大抵の人は逃げ出すだろう。だって危ないし・・・できれば係わり合いになりたくないと思うほうが普通ではないだろうか?
それがそのうち誰かが警察へ訴える。ところが証人がいるだのいないだの、軽いとか重いとか、悪気があったとかないとか、殴り返されたとか、あれにこれに長引くほどに警察も介入しにくくなる。だって殴り返した時点で双方に言い分が発生するし・・・でも、本当にやばいのは、最初に殴った人が誰かを殴るだけの明確な理由がないということ。つまりは殴られたほうはどうして殴られたのかわかっていない。だけど、殴られた悔しさで一杯になるから、本質的なことを見失ってしまう。(被害妄想による暴力の発生だろう。)
最初に意味不明に殴ったほうは、どんどん敵という認識の下に集まってきた人たちを殴りつける。こうなると集団になってしまう。だから、理由もなく殴ったほうはあたかも集団リンチを受けているような錯覚に陥る。が、しかし・・・・もともとは自分の撒いた種。一生懸命にあいつが殴ったとか蹴ったとか言う。それも事実かもしれない。でも、問題は原因がないことだ。殴られたと言うほうに先に殴るだけの言い分がそもそも無い。だから、無関係の人たちを巻き込む。
その輪の中でやっている分には気がつかないかもしれないけど、そもそもが輪の外側に出て、もしそれをやれば、誰がやっても狂気だ。いきなり知らない人を殴りつけるわけだから。しかも相手が女性だったらどうだろう?

明らかに単なる暴行だ。

どうしてこんな簡単なことに気がつかないのだろう?そこが不思議でしょ?
だから、一番常識的な解決法は、そういうトラブルを無視することであり、すべてまとめて狂っていると決め付けてしまう。事実ヘンだからだ。それがヘンであるという自覚がないということがすでにおかしい。「あの人たちはおかしい人たちなのだから、憐れに思おう。」それだけで、一気に平和になった。

それとも別の要因が作用したのだろうか・・・
ローマは一日にしてならず。

イザヤ書 30. 15-17

投稿者 Blue Wind : 03:55 PM | コメント (0)

申命記 33. 1-6 モーセの祝福

  これは神の人モーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの人々に与えた祝福の言葉である。
  主はシナイより来り
  セイルから人々の上に輝き昇り
  パランの山から顕現される。
  主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。
  その右の手には燃える炎がある。

  あなたは民らを慈しみ
  すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。
  彼らはあなたの足もとにひれ伏し
  あなたの御告げを受ける。
  モーセは我らに教えを授け
  ヤコブの会衆を受け継ぐべきものとした。
  民の長たちがイスラエルの諸族と共に集うとき
  主はエシュルンの王として臨まれる。
  ルベンを生かし、滅ぼさないでください。
  たとえその数が少なくなるとしても。

投稿者 Blue Wind : 02:08 PM | コメント (0)

一葉のミモザの苗の育ちゆく速さにかわる木洩れ日の朝

巨視的にながむるクセのなかりせば事細かにもなれないミモザ
磔刑は政治犯という犯罪に相当すると今さら気づく
虚無もなお空たかくあり十字架は大きくもなり小さくもなる
ちっぽけに歌など詠うひねもすを大袈裟にする古典芸能
銀葉の花に埋もる三月は桜ブルーを隠す東雲
巨視的に世界平和を語るより小さな庭の平安をみる
一葉のミモザの苗の育ちゆく速さにかわる木洩れ日の朝

申命記 33. 1-6 モーセの祝福

投稿者 Blue Wind : 12:58 PM | コメント (0)

March 09, 2004

足止めにタイヤのパンク春うらら家の前なら何もかわらず

グルポッポ謎は深まるグルポッポ波止場のカモメパリの鳩らか
ウイルスも静かに広がる春の街炎症の中ビデオ観る吾子
足止めにタイヤのパンク春うらら家の前なら何もかわらず
運命か知りてすすめるゴルゴダは人というもの試験紙にする

ローマの信徒への手紙 16. 1-5 個人的な挨拶

投稿者 Blue Wind : 02:20 PM | コメント (0)

ローマの信徒への手紙 16. 1-5 個人的な挨拶

  ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェペを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
  キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。

投稿者 Blue Wind : 01:55 PM | コメント (0)

いみふめい釈然とせぬ歓迎はあいまいなままたいしつとなる

おぼろ夜に結社誌ふたつ並べてはかろき鈴音に日本語訊く
満月の大きく見える季節には枯れ草の色はやうつりゆく
ジャポップを和歌と呼んではいけないの?これも和歌なり日本の歌さ
演歌なら南米もようボッサならブラジルよりもパステルな日々
いみふめい釈然とせぬ歓迎はあいまいなままたいしつとなる

投稿者 Blue Wind : 01:21 AM | コメント (0)

ノーマルモードと歌モードの違い

どういう歌が好きかというと、ひたすら傍若無人な歌。石川啄木も好きだし、小野小町の辞世の歌などは惚れ惚れしてしまう。

いつとなくかへさはやなんかりの身のいつつのいろもかはりゆくなり

もしかすると、歌に詳しい人ならば解説してくださるのかもしれないけど、自分にはできそうにない。いつとなくかへさはやなんかりの身、いつのまにかすぎゆく日々といつかは土に帰るかりの身、そして、いつつのいろもかわりゆくなりとあるけれど、いつつのいろってなんのことだろう?そこがまたご本人に尋ねてみたいところだけど、誰かが代わって解説してくれるのだろうか。自分的には、傍若無人な歌だと解釈しているけどどうなんだろう。はなのいろ、いつつのいろ、そういう分類があったのかもしれないし、それこそ色彩などは色相環で眺めたり、色の番号などで色を呼んだりしているとそういう大雑把さというものがすでに理解できない。理解できないからこそ惚れ惚れしてしまうのかも。現代語に置き換えても理解できない。つまりは、すでに他人に何かを理解してもらおうという部分が欠如した歌が好きなのかも。そこのところに、当時はいつつのいろを使っていたと解説されると、何となくつまらなさを感じてしまう。そんなことはどうでもいいような・・・つまりは、いろのなかになにかをたとえているわけで、その部分がすでに本人にしかわからない世界。しかも、かはりゆくなり。なにに変わるのかそこのところがまた謎めいていてわからない。わからないところをわからないままにあの世に旅立つというところが好きだ。

村松恒平さんのメルマガを読んでいて、作家になりたいと思って小説を書いている人の小説が一番つまらないとあった。要するに、文章を書くには2つのベクトルしかないらしい。1つは他人のために書く。つまりすでに実用書を含めてわかりやすく簡潔にということなんだろう。他人のために書くってそういうこと。もう1つは自分のため。ひたすら自分のために書く。要するに書くことにより、自分を救う。そのどちらにもあてはまらない中途半端な文章が実は一番多いらしい。
歌もあまりにも説明的でわかりやすい歌だと歌になってないなーとはよく思う。他人にはわからない要素で曖昧模糊としたまま詠んだ歌のほうが印象に残るらしい。そういう歌は最初から理解を求めていないからかもしれない。理解を求めて詠んでいるわけではないと思いながらもこころのどこかで他人に理解されたいと思うからこそ今日も誰かがせっせと歌を詠んでいる気がするし、詩を書いているのかもしれない。もちろん、その他諸々いかに他人に自分を理解してもらおうかという努力は人間ならごく当たり前の行為。それがいきすぎるとうざいだけだ。それがどこまでうざいものかは、他人のグチの相手をしたことがある人ならわかるかもしれない。しかもね、あれな人たちを相手にしていたら、理解されないというだけで怒りまくって暴力とかね、言葉も含めて。そういう理解されないのが当たり前の人たちの一方通行にも慣れてしまったりすると、理解されないのが当たり前であると達観している人の文章などは清々しい。

理解しあえないほうが当たり前。
逆に語ると、何を言っても無意味な人たちに対して書く。無意味だと思っているから書けるのかもしれないと思う。話せばわかるというのも大嘘だし、辞書的な定義を読んだだけで何かを知ったと誤解する人たち。メタ認知というわけではないけれども、自分が何を知らないかに気がついた瞬間ようやく何かを理解する。それが普通だ。
にもかかわらず、傍若無人。
言葉ってね、そもそもがコミュニケーション・ツールなんだと思う。が、しかし、傍若無人。思考や感情の発露。自己満足などというなまやさしい世界ではない。傍若無人。なんか、そういう傍若無人さが好きだ。通常のコミュニケーション世界では無理。無理だからこそ、書く。無理だからこそ歌を詠む。なんでそういう発露が必要なのか、そこのところはあまり深く考えたくない。つまりは、一切合財の説明的要素を排除し、傍若無人に詠うことで自分を救う。
やはり、日常が通常のコミュニケーション世界だからこそ、傍若無人な世界が必要になるという・・・

文学・・・
アート・・・・
あーあ。

投稿者 Blue Wind : 12:50 AM | コメント (0)

March 08, 2004

ヒマつぶし

今日こそはっきり書いてしまおう。ハゲ。ハゲハゲハゲ〜♪
実はハゲが嫌いだ。
それとは別に、いきなりサイトに誹謗・中傷を書きに来たハゲ。自分のやっていることがわからないのだろう。全然知らない人なのよ、何もなければ。付き合いないし、うちのBBSにもそれまでカキコしたこともなかったのではないかな。ましてや、こちらはサイトに1、2度来訪したことがあるだけ。本人らしきスキンヘッドの写真があった。その程度の記憶しかない。なのに、なれなれしいでしょ?これがネットなのでございます。
ほんで、歌壇から消えろとかわけのわからん中傷。
これが知っている人というのであればともかく、じぇんじぇん知らん人。そこが怖い。某サイトのあらし騒動の余波なんだろう。そもそもがその張本人のあらしでさえ、もはやうちのサイトには来ないって言っているのにしつこい。ハゲ。あのマックの足跡はハゲでしょ?かんちがいだったら失礼〜♪(って、これくらい書いても平気なくらいの誹謗・中傷を書かれているからいいのよ、別に。ハゲ嫌いだし)

それにしても、よくも女性のサイトにずうずうしくやって来れるよね。しかも喧嘩売りに。まだ作歌歴も浅いし、結社に入ったばかりなのに、そういう人を相手に何をうだうだクダをまいているのか不思議だ。自分がいかにみっともないか気がついていないのかも。お気の毒。みつばち、ひよこ相手に大のおっさんがあらし。情けない。日本も落ちたものだ。つまりは、そうやって自分の格を落としているだけということに気がつかない。
なんかね・・・・男女平等な世の中は結構なんだけど、それにしてもそうなると平気で女性にも暴言を吐く。これでいいのだろうか?「そういう人は相手にしません」と書くのは正当防衛だろう。

アメリカ製の頑丈なドアにイスラエル製の鍵。番犬オトちゃんとボサノバ聴いて聖書。平和。
よくわからないけど、そういう時代なのね。
それにしても、サイトで塩を撒くって、どうやったらよいのだろう。

くわばらくわばら。早く成仏してくれ。

____________

うざいから、サイトへ来ないでよ。
というだけのことなのに、なんでそれくらいのネチケットが守れないのだろう。
あっちもこっちもあらしだらけ。

投稿者 Blue Wind : 02:55 PM | コメント (0)

あきらめよう。時間の無駄と聖書読む。陽だまりの中オトも昼寝す

風遥か向こうの岸の浜辺へとまわり道する森林散歩
近頃は女性相手に喧嘩することさえ平気プライドもなく
アフガンを女性蔑視と言うけれど喧嘩売られて喜ぶべきか
あきらめよう。時間の無駄と聖書読む。陽だまりの中オトも昼寝す

ミカ書 4. 4-8

投稿者 Blue Wind : 12:15 PM | コメント (0)

ミカ書 4. 4-8

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。
その日が来れば、と主は言われる。
わたしは足の萎えた者を集め
追いやられた者を呼び寄せる。
わたしは彼らを災いに遭わせた。
しかし、わたしは足の萎えた者を
残りの民としていたわり
遠く連れ去られた者を強い国とする。
シオンの山で、今よりとこしえに
主が彼らの上に王となられる。
羊の群れを見張る塔よ、娘シオンの砦よ
かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が
お前のもとに再び返って来る。

投稿者 Blue Wind : 11:20 AM | コメント (0)

生と死に雁字搦めに括られて幻というリードは繋ぐ

現実はブルドーザーの走るよう瞑想おしのけ平らな道路
愛憎は天秤のうえ載せられた重石のように分けられていく
生と死に雁字搦めに括られて幻というリードは繋ぐ
歌くらい好きにさせろと言ったって罰は当たらぬ癒しなき夜は

投稿者 Blue Wind : 01:00 AM | コメント (0)

癒しのない時代

いつだったか忘れた。政治家の生体肝移植の話題だったかなぁ・・・いきなりそのニュースを見た娘さんがお母さんに肝臓を移植したいとの申し出があったらしい。それで、患者さんからの申し出なので、移植のほうに連絡を取る。すると、コーディネーターが遠路はるばるやって来る。いきなり2000万円。家を売ってでもやるとがんばっていたらしいけど、結局は通常通りの治療ということで落ち着いたはず。
テレビでは美談ということで取り扱っていたけれど、具体的な予算とか手順とかどの程度順番待ちしているのか、など、あれこれ考えると移植手術がどれほどの頻度で行われるのかいささか懐疑的。数が増えたらまた保険屋が儲かるのだろう。
癌でも、保険外だと毎月100万円は安いほうだと言うし、そうなったらダンナと顔を見合わせ、互いに死ぬことにしている。これが娘のためとなると話が違うのかもしれないけど。
なんか、いろいろあるから。
その、母親に肝臓を差し出そうという娘さんの場合、家庭環境が複雑で、相続でもめるなら肝移植に使ったほうがという気持ちと、愛に飢えたる者の世界というか、母親に対する愛情の見せしめというか、とにかくいろいろあらーなだから世の中はますますややこしい。美談の裏側にはいつも愛憎劇があるのではないかと、いささか醒めた目で見てしまう悪い癖のある自分としては、何もかもがうんざりに感じられる瞬間でもある。

が、しかし・・・世の中どうして医者が必要かというと、そうやって病気を治したいとか、長生きしたいとか、そういう人たちとその家族がいて成り立つ商売であり、世の中の人たちすべてが諦めがよいと医者など必要ないのではないかと思ってしまう。現にあたしはめったに薬も飲まないし、医者にも行かない。ダンナが医者だからというわけではない。(と思う) もともと嫌いだから。どこも悪いところもないのに、いまだにあちこちへ検査へ行きまくっている姑さんとは正反対だろう。そろそろ癌の検査を、と言われても無視、無視。病気であることに気がつかないまま、ぽっくりというほうが幸せな気がするから。癌の患者がどうしてわざわざ自殺したくなるのかと思うとうんざりだ。どうせ死ぬんだったら、治療をサボればよいだけのことなのに、それが出来ないんだよね。それで鬱々と死にたくなるらしい。そんな話ばかりを聞いていると、知らないほうが救われるような気がするけど。
永遠の魂を信じている人たちは幸せだ。
かといって、天国への階段イラストを病室に貼っている人はいないだろう。
なんだか2000年も前の出来事が原因で、今度は差別だの迫害だの、聖地だシオンだテロだと世の中はきな臭い。20年前にはまだ日本がテロの標的にされるという発想すらなかった気がする。それが次第に現実味を帯びてきている。イラクへの派兵。イラクの復興支援ということで、イラクでは問題はないかもしれない。でも、テロってそういうものではないということを不意に思い出す。18年前のパリもちょうどパリでテロがあったばかりでデパートへ入るにも荷物チェックしていたことを何となく思い出す。でも、当時はフリーパスよ。だって日本人だから。テロには無関係。今でもそうあってほしいけど。
アメリカ。イスラエル。
こうなると、日本も知らん顔というわけにはいかない時代。
テロ。
日本でテロが発生し、アメリカに背中押されたら、あかん。
テロが発生しただけで、募金バナーを見ると鬱々するから嫌だという人が多いという事実。飢餓の子どもを支援するのとテロとはまた次元が違うような気がしたけど、そういうものにアレルギーが発生するとすべてが嫌になるから。ムスリムというだけでテロリストではないかという疑いがかけられる。それが社会。
個人的には何もなくても、そうやってグルーピングが発生するとにっちもさっちもいかなくなる。国だの組織だのなんだかすべてが必要ないような気がする。だから、アメリカ人みたいにいくつもの組織に帰属しているほうが安全なのかもしれないなとも思う。宗教、学校、ボーイスカウト、その他諸々あれにこれに。そうやって社会的自己を広げていく。そうやって複雑に入り組んでいくと逆にそれが網の目のように構成されて、集団間の争いには巻き込まれにくくなるのかも。
紛争はパーシャルなものにしなければならない。
それか、あたしみたいに嫌なものはポイっと捨てて、気楽にしているか?好きな人としか付き合わない、めんどーなことはすべてパス、好きなものに囲まれて暮らす。平和。それでも何も困らない。むしろ、このほうが何も困らない。ネガティブなものを受け入れないほうが静かだからかも。真面目に考えてもどうにもならないことのほうが多いからね。歌でも詠んで気楽に過ごす。(え?)
いずれにせよ、鍵は取り替えるみたいだし、防犯は大切かも。世の中、テロリストだけではないのです。近くの空き巣狙いのほうが。それにしても大きく見ても小さく見ても物騒な世の中になってきた。昔からかもしれないけど、近頃ますますそういう気がするのは気のせいだろうか・・・

投稿者 Blue Wind : 12:08 AM | コメント (0)

March 07, 2004

家の鍵が壊れる。以前から調子が悪かったのだけど、今度もだましだまし使おうと思えば使える。でも、取り替えることにする。材料がアメリカ製の家なので、ドアの鍵を取り替えるのでも、アメリカ製の鍵かイスラエル製の鍵しか合わないらしい。ピッキング防止機能付はイスラエル製。最新式。少々価格は高いけど、実際に例のシールが貼られていたので、うちも泥棒にマークされているのだろう。だから、イスラエル製の鍵を頼んだ。
スイスの風景を眺めて、あまり実感がわかない。それと同時にアメリカ製のドアにイスラエル製の鍵か・・などと現実を知る。これが現実だ。中東戦争やユダヤ人問題には詳しくない。でも、20世紀はまだ終わっていないような気がした。

投稿者 Blue Wind : 04:49 PM | コメント (0)

マタイによる福音書 9. 18-26 指導者の娘とイエスの服に触れる女

  イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる。」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群集を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群集を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。

投稿者 Blue Wind : 02:33 PM | コメント (0)

たおれそうソフト・クリームくるくるとてっぺん気になる空洞のうえ

たおれそうソフト・クリームくるくるとてっぺん気になる空洞のうえ
病みあがる病んだ音だよロックとはそれが明るいなんてかなりヘン
少しだけやけに明るい庭の中春・春・春と木木がささやく
明日には新しい鍵やってくるイスラエル製最新式か

マタイによる福音書 9. 18-26 指導者の娘とイエスの服に触れる女

投稿者 Blue Wind : 11:58 AM | コメント (0)

March 06, 2004

極限は夕暮れのなかあらわるる巨大な虹をみおくる夕陽

極限は夕暮れのなかあらわるる巨大な虹をみおくる夕陽
鬱々と楽しくないけど詠んでいるそういう気がする歌をみつける
春の日に朦朧とする風邪もある熱はないけど耳が遠のく
枯れ歌をのんびり詠んでいくことが矢のような日日しなりゆく弓

二時間の延命のため血まみれになるより楽に家族のもとで
数ヶ月延命のため家を売る二千万円移植の費用
ひとことを言いたいけれど言葉呑むいのちの代価時価ともいう
風邪という病気はないというけれど炎症まみれ朦朧の渦
棘棘にこちらへ来るなと訴える声も虚しく空回りする
エゴというベールの影でのぞきこむ楽園はそこカーテンコール
出産を汚れと呼んだ旧約と死は最大の凶と呼ぶ常
乖離する世界の果ては概念の深き向こうに覆われたまま

投稿者 Blue Wind : 11:38 PM | コメント (0)

レビ記 12.1-5 出産についての規定

  主はモーセに仰せになった。
  イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。
  妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なるものに触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。
  女児を出産したとき、産婦は月経による汚れの場合に準じて、十四日間汚れている。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な六十六日の間、家にとどまる。

汚れているかどうかは別として、安静にしていたいよね。

投稿者 Blue Wind : 02:18 PM | コメント (0)

風邪

すっかり風邪を引いてしまった。毎度おなじみ、「風邪という病気はありません」というセリフの中、平穏な生活は続いている。逆に、「世の中は風邪が流行っただけで学級閉鎖になるのが普通なんだから」というセリフを言っても無駄なのもわかっているために、また鬱々しながらサイトを更新している。要するに、ダンナが外来をやり始めたために、風邪が移り、それがまたあたしに移る。だから、外来は嫌いだ。
いずれにせよ、結核に感染していない呼吸器の医者はいないと、呼吸器の先生にも説明受けたし、世の中の当たり前がまるで通用しない世界もあるのだというか。したがって、うちのダンナも39度の熱を出しながら平然とした顔をして働いている。もう、めちゃくちゃ。
ある女医さんは怒った。「あたしは風邪の患者を診るために、ここに来たんではありません」と。たしかに、腕もあるし、キャリアもある。それでいて外来などで風邪の患者を診ていると、それだけで虚しい気持ちになるらしい。逆に語ると、それはあんただけではないと思っている人の多い中、彼女はほかの病院へ移っていったらしい。たしかに最先端の医療現場を見せられたら、開業なんてバカらしくてやっていられないという気持ちもわからなくない。が、しかし・・・・風邪の季節、開業医は儲かる。

可哀想なのは娘だ。風邪を引く。でも、この程度なら大丈夫と思って学校へ行かせる。すると、学校からお迎えに来てくださいという連絡がある。自分としても、とりあえず熱があるわけではないし、逆に、保健の先生にどの程度だったら休ませたらよいのか訊く。担任の先生の判断だと、顔色が悪いとか、元気がないとか、もうその程度だったら休ませてほしいらしい。あまりにも大袈裟なため、なぜか娘のクラスだけはいつも欠席が多い。それがわかっていて、何も言わない保健の先生。まあ、いろいろあらーなということでそのまま連れて戻る。学校というところは、そういう専制君主社会。医者が言っても、親が言っても無駄だということは知っている。田舎ほどそういう傾向が強い。

あっこちゃんくらいタフだと、登校拒否、保健室へ直行、何を言われても担任の先生が気に食わないと知らん顔している。そのくせ、今度は絵が入選、童話が入選、という具合に実績が違う。ああなるとね・・・どうなんだろう。今は、普通に通学しているみたいだけど、家庭の中ではあっこちゃんが正しいということになっているために、何も困らないみたい。
うちの娘はおとなしいので、せいぜい逃げる程度か?あ、来るな、と思ったら逃げるらしい。それが困ると担任の先生に言われてもこちらも困るという・・・専制君主に何か言っても無駄でしょ?そういうことを娘に言ったことは一度もないのだけど、どうもそういう風潮があるらしく、それが担任を鬱地獄へと陥れるような・・・母さん同士が集まれば、学校の先生の話題は共通タームだから、そういう話題も多いかもしれないけど、このところ自分はまったくそういうものには興味がない。
あたしってね、喧嘩しないから。いきなり扉をピシャリと閉めるタイプなんだと思う。たとえば、風邪で子どもが熱を出しておろおろしている母親がいるとするでしょ?もちろん、あたしなどもそうだったし、子どもの飲めないような薬を出すなと医者に文句を言ったこともある。だからといって、ほかの人に言われても迷惑という・・・そうやって思うんだったら、そうやって自分で言えばいい。文句ついでに、単なる風邪ならば近所の医者へ行って、飲みやすい薬を買う。だから、文句は言うけど、単なる風邪の子を大学病院へ連れて行った自分がおバカだったと反省する。でも、その前に気管支炎で入院したことがあるから、風邪でも心配になったというだけのことだ。つまりは、行動にわかりやすい整合性があるために、喧嘩にはならない。

短歌も、競技会が始まったと神父さんのサイトに書いたら、いきなりパリの写真。18年前に一度行ったきりの街だけど、その瞬間にいろいろなことがフラッシュバックされる。そこから派生して、また歌が出る。そうなると、題詠マラソンのことは忘れてしまう。忘れているわけではないんだけど、10月までに詠めばいいわけでしょ?つまりは、何となく今日は歌のネタが見つからないと思ったときにでものんびり詠んでいても充分間に合う。(たぶん)
神父さんに、「題詠マラソンがプレッシャーでリタイアしてしまう人などもいるんですよ」などと書いても無駄だと知っている。つまりは、医者に、風邪で学級閉鎖になるのが普通だと語るようなものだからかも。
パリはおもしろい街だ。それこそあの人もこの人も、という街だ。パリのアーティストは歴史を相手に戦わなければならない。そして、その向こうにラテン。部屋の中は暗い。そして、窓の外を眺めると、あらゆる角度でそこはアートの世界だ。空も建物も、窓は1枚の絵となる。歩いていても、あらゆるものが美しい。そして、美味しい。自分もまたその中の一部であり、空と風と街と歴史に埋もれながら、人がうつろいゆくことを感じたりする。それでも変わらず伝えゆくものかぁ・・・などとうすらぼんやり。
ランボーが生きていればまた違ったかもしれないけど、彼はアデンへ逃げてしまった。そして、37歳で病気になり38歳で亡くなったんだっけ?つまりは、ランボーが元気であれば、それでよかった。でも、その後、彼はいない。いないから、今度は一人で鬱々と歌を詠むようになってしまっただけなのかも。小学生の頃、初めて彼の詩を読んだとき、彼がいるから自分は救われたと思った。彼がいるから自分が救われたということをあえて説明する必要があるのだろうか?誰に?
こうさあ・・・科学者の街がどういうことなのかというと、娘の一番最初の友達がなさとくん。つまりは、NASAに研修に行っていたときに生まれたからなんだそう。それをほかの地域の人に言うと驚くから、結局は研究者は研究者のブロックに住むしかない。

つまり・・・・風邪で学級閉鎖になるとういう事情を理解するのと、風邪という病気はないという事情を理解するのとどちらが説明しやすいだろう?両方の事情を理解した上で、学校へ行かなければならないのはあたしなんですよー、いつも。
めんどーだから、歌を詠んでいるのかも。
誰でも自分を救う権利はあると思う。

投稿者 Blue Wind : 01:00 PM | コメント (0)

March 05, 2004

静けさはしづもる夕陽輝きはイルカの跳ねる海の上にも

リブゴーシュ吐息の中の緑青フォルムの耽美海に熔けいり
美に耽るそぞろ歩きも夕暮れはカーラジオ聴き夜を待ちゆく
紺碧の壁紙の中窓の外ながむもパリは入り口狭く
六本木パリの耽美は消えたかと風の便りに閉店を知る
あの店は街に合わぬと怒り出す人に囲まれ平穏を得る
緑緑と目にやさしき街並みはコンビニ一つ最初にありき

りんさんは何もしないと問われれば耽美にしずむ舟の浮く海
リブゴーシュ耽美の息にほぐ時代(とき)は終わりて今は好奇のむなし
明るさは過去に咲く花むなしきは明日なろとするあさましさ知る
ベクトルは二重奏のまま天か地か花を咲かすも地にそそぐ陽に
静けさはしづもる夕陽輝きはイルカの跳ねる海の上にも
ランボーの奇妙な帽子ながめては耽美すぎゆく少年の色
わがこころ砂漠アデンへすすみたる今はなほ陽はのぼりゆく

老人の明日なろとする夢かなし正直すぎるわが手が罪か
あれこれと「若かったなら」と言われてもあなたはあなたわたしはわたし
どぞどぞとお好きなことをやっていてあたしはあたし忙しいから
明日のことどうなるのかもわからない老いも若きも平等な今
重圧だ。あなたがそこにいることが、さらなる重圧。時は過ぎゆく。

レビ記 12.1-5 出産についての規定

投稿者 Blue Wind : 10:52 AM | コメント (0)

エゼキエル書 1. 1-14 エゼキエルの召命

  第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それはヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司のブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
  わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれの顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。顔はそのようになっていた。翼は上に向かって広げられ、二つは互いに触れ合い、ほかの二つは体を覆っていた。それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。

投稿者 Blue Wind : 09:42 AM | コメント (0)

March 04, 2004

一本のサン・マドレーヌのロウソクが見知らぬパリをわが街にする

一本のサン・マドレーヌのロウソクが見知らぬパリをわが街にする
回廊はロウソク色に輝けりほの明るきを人すれ違う
おとづれる人波のなかゆらるるを軽やかに参る祈る人避け
下町の寺にも似たりブティックの並びに扉お入りと語る
燃えつきるロウソクを待ちわがロウをともせば炎わがうちに射る
そらまでとはしる炎でないけれどますぐにのびる人のなかへと
煌々と煌々とまた煌々と火はともさるる天がける箱
ラ・セーヌが隅田川となるパリの街エッフェル塔も東京タワー
中型のタクシードライバー高速を飛ばしつつ訊くわれの行き先
売店のパンとチーズとぶどう酒がスナックとなるルーブルの前
シャンゼリゼではなくション・ゼ・リ・ゼ、はは?カタカナなまりちょうどいい音
芸術はヌードにあるとルーブルはモナリザだけをケースにいれる
フルコースディナーを食べにディスコへとフロアはフロア学生は床

エゼキエル書 1. 1-14 エゼキエルの召命

○たった4日間しか滞在したことのない街なんですけど、その瞬間異国の街が子どもの頃から住んでいるような街へと変貌してしまったんです。歩いていても、店に入っても、あちこちで声を掛けてくれる人や、オファーがあったり、フランス人というのは実に気さくで素朴な人たちなのだと思いました。

○ちなみに、サン・マドレーヌは、地図には聖マドレーヌ寺院と書いてあったような気がするんですけど、まさしく寺院。日本のカトリック教会のイメージではなくて、それこそ教会の中でロウソクが売られていて、それを参拝者が次々とロウソクを立てていく。わさわさとしていて出入りが多く、お祈りというより、お参りなんです。病気が治ることをお願いしたり、軽くは縁結びではないでしょうけど、神社やお寺を参拝しているのと同じような雰囲気で、わさわさしています。そういう庶民的感覚を一気に感じ取ったのかもしれないです。雰囲気がまるで違うから、としか語れないです。まるで違う。パリを理解しようと思ったら、こちらの雰囲気かもしれないですね。

○お参りとお祈りはまったく違います。もしかすると違った定義があるのかもしれませんけど、自分の中ではきっちりわかれています。お参りというのはお願いごとをするためにお祈りにお出かけすることで、お祈りというのは不特定多数のためですから、もしかすると神さまへの感謝ということなのかもしれないです。こう、成功を夢見てパリへ、そして祈る。その姿を客観的に見ると、お参りしている、という風に感じる。それが普通のような気もするし、それではダメだと講義を受けているし、サン・マドレーヌは想い出の深い場所です。

投稿者 Blue Wind : 08:55 PM | コメント (0)

200℃あとから沸沸沸いてくる怒りのキャパの沸騰点かも

200℃あとから沸沸沸いてくる怒りのキャパの沸騰点かも
我慢にも限界のある沸騰点全部まとめて流しに捨てる
話しても無駄だと知って話すのは年寄り相手の宿命なるやも
未来なき年寄りゆえにゆるせよと言われてもなほ先に死にそだ
怒りすら伝わりゆくがこころなら壁をうちたて落書きをせよ

投稿者 Blue Wind : 05:55 PM | コメント (0)

うやむやな今は昔

あっさり書くと、実生活上で主婦をしていてバカにされたことはないです。とりあえず、今のところ。それよりもいつもやる気がないとか思われてしまうので困ります。いや、もしかするとやる気がないのかもしれません。
おちびが幼稚園の頃が一番やる気があったかもしれない。ようやく手が離れて、少しは自分のことができるのではないかという・・・それで、地元紙を眺めて、近所の研究所でアルバイトの募集があったので、応募した。その結果、斉藤先生とあれこれ研究の話をして、実験装置を見せてもらって帰ってきただけ。あっさり言われたもん。「お嬢さん、5歳でしょ?子どもが風邪引いて、今日は休みますというのが一番困るんだよ」と。その後、市内でも管轄省庁の違う3つの研究所で同じような研究をしてノルマを競い合っていること、これに負けると来年の保障(予算のことさ)はない、とか、本気でやるなら総合プロジェクトとして学際的にあちこちから人を集めているから、とか、いろいろ。その時はそれで採用にはならなかったけれど、それこそ大学院に復活して、一つのタダ働き、あるいは安月給でもかまわないということであれば、いくらでも仕事はありそうだった。
大学時代の先生に相談したら、いきなり本を送ってきて、この中からテーマを拾えと言われてしまった。その瞬間、これは主婦のパートの世界ではないことを思い出し、弱気になる。そこへ母がくも膜下出血でオペ。何かやろうとすると、このように災難に見舞われるために、その後すっかりネットに潜伏している状況が続いている。
大体、富家先生、野澤先生、瀬谷先生について研究していたというだけで、”お代官さま”だもの。(お、おちびがお花を摘んで帰ってきた。母のためにですよー(笑)。)工学部の人たちみたいにとんてんかんと装置を組み立てたりするような真似はできないけど、それこそ感情やらパーソナリティやら高次の精神機能の話になるとまるでちんぷんかんぷんらしいので、それなりにお仕事はあるらしい。つまり、人工知能の研究は飽和しているために、今度はそちらであれこれやっていかなければならないというお話でした。
ババアなんだけど、今でも学生に間違えられてしまうという・・・要するに、どうやっても軽く見られるのは運命のように避けられないのかもしれない。でも、そのおかげで、ダンナの友達が集まっても、”奥さん”じゃないんだよね。今でもラフにあーでもないこーでもないと盛り上がる。いわば気楽な仲間うちの世界。奥さん同士が集まって、子どもの教育のことやら家庭のことやら定番の話題でも大丈夫だし、研究の話題でもその他の話題でも大丈夫だし、とにかく話題は多いと思う。
ほんで今、何をやっているのかと問われれば、ネットと短歌。またテリトリーが増えた。なんでも自分でやってみて苦労してからではないと話題にはならない。テレビやワイドショーのネタなどは詳しくないけど、それで何か困るということもない。

でも、ネットで、普通の主婦です、と語ると、とにかく扱いが酷い。リアルとバーチャルを分けすぎと言われたこともある。単に、バーチャルだと割り切っているから、BBSに順番にレスを書いていられたのかもしれないし、話をするのもうんざりな人にでもとりあえずレスは書く。そういう世界から逃げるために、短歌オンリーのサイトをつくったのかもしれない。「心理学の専門家ならどうたらこうたら」と書かれてね、いささかうんざり。相手にするのも嫌になるのが普通だと思うよ。いきなり首根っこ掴んで学会へ放り込んでやろうと思ったけど、無視することにした。
つまりは、あっちが言いたいのもそういうことだと知っているから。歌壇ってどこか学会に近いからね。だから、歌評を書いたり、評論を書いて投稿するとか、やりようによってはそういう道もあるということで、ただ違うのは、そういう中での短歌ってどういう意味合いがあるのかなーとちらっと思った。通常なら、データに相当するのだろうか・・・などと。つまりは、研究テーマがあって、そのテーマの一つとして、短歌の形が存在しているのかな・・・というか。う〜ん・・・・・研究するために詠んでいるのかと問われれば、それはまったく違うわけで、歌が最初だから、この辺がね・・・・・・ニュアンスとして戸惑うことしきりなのかも。
一つテーマとして眺めている人たちにすれば、インターネットの活用とか、古来からの歌のやりとりとか、そういう原初的な世界の流れの中で、自分は歌を詠んでいるから、ものめずらしいと言われればそうかもしれない。いかん、いかん、あたしが普通だ。つまりは、詠うだけなら先生も要らないし、知識も要らない。平明な言葉で、素直に詠む。なぜそういうことをやっているのかというと、そちらのほうが理屈で語るより伝わりやすいからとしか語れなかった。
一つの視点から眺めると、どうしてうちのサイトのBBSに嫌がらせが入るのかというと、ほかのネット歌人に対する嫌がらせだ。自分に対する嫌がらせもあるでしょうけど、”偉い先生”に見てもらいたいわけさ・・・そうやって結社などに長い人たちは。だから、うちのサイトの場合、結社や短歌専門のサイトにリンクされているために、僅かながらでもそういうところからの来訪者があるから、そういう人たちからほかのネット歌人の歌の発表の場を奪いたいという・・・いささか情けないような気がするけど。かといって、自分で自分のサイトを実名できちんとつくって、そこを結社などのサイトにリンクしてもらって、ということは考えていないらしい。そこがいまいち理解に苦しむんだけど、結社への発表と、遊びの歌を分けているのかもしれないし、それ以上に、「自分が誰なのか知られたくない」らしい。自分だとバレて何が困るのかよくわからないけど、要するにあれよ、あれ。リアルとバーチャルをわけて遊んでいるから、そういうジャンキー系のどこのだれかわからない世界を破壊されたくないのかも。
ネットもいい加減に4年以上やっているからね。そうなると、友達と幽霊の違いは厳然としてあるわけで、気の合う人たちとだけお付き合いしております。どこが違うかというと、サイトがあってもなくても関係ない人と、サイトが消えたらどこのだれかわからない人との違いとだけ言っておきましょう。
とにかく、ネットの世界では蝶でも妖精でも男でも女でもなんでもありいでネット人格をつくっているような人たちを相手にしているから悪いのだそうですけど。自分的には、すでにそういうややこしい世界からはおさらばいたしました。ジャンキー・ネタはしばらく書けないかな。(というだけのことかもしれん。)ジャンキー・ネタもご奉仕ですから。(言っても無駄だろう。)
医者の奥さんがどうたらこうたらとか、そーいうくだらないお話しか思いつかない人はなおさらにうんざりなのでございます。リアルでもバーチャルでも一緒さ。

えっとー・・・何を書きたかったのかな・・・
そだそだ、視点ね、視点。要するに、自分は毎日歌を詠んでそれをサイトにアップしている。そして、新作にこだわるところのためにはサイト以外の作業場としてパスワード付BBSなどを活用中。慣れないと雰囲気が違うと思いながらもそのようにしています。検索にも引っかからないよ。自分のハンドル名やキーワードになりそうな言葉は使わないから。かつ、パスワードをつけて、自分のサイトにはリンクしない。それとは別に、これまで通りの歌ライフを続ける。どうしてそういうことをしているのかというと、視点の問題なんだと思う。
単に、サイトを発表の場として考えているか、文化の一つの形態として活用していくかの違いかな。自分としても、ある意味、実験的試みなのです。(にしても邪魔が多い・・)

投稿者 Blue Wind : 04:18 PM | コメント (0)

サムエル記上 4. 10-11, 5. 1-5

  こうしてペリシテ軍は戦い、イスラエル軍は打ち負かされて、それぞれの天幕に逃げ帰った。打撃は非常に大きく、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニとピネハスは死んだ。

  ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ。ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前にうつ伏せに倒れていた。そかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。

投稿者 Blue Wind : 02:51 PM | コメント (0)

なつかしきサン・マドレーヌ蝋燭の炎ゆらゆらお参りするジャン

散策に訪れたる街の旧きかほりの黒ショルダーをメトロで買ふ
リターン・チケット売らるるをあたりまえだと椅子に座って思ふ
パリジェンヌ、シックで地味で質素なり。目がイタリアン・カラーに押され
頑固かなオシャレかな決まりかなゆれうごかないアートの国よ
店じまい時間どおりのお姉さん時間ないのはあたくしだった
灰色の空の記憶の広がるもかどのない街目にはやさしき
なつかしきサン・マドレーヌ蝋燭の炎ゆらゆらお参りするジャン
ディスコのジャン、寺院のジャン、母は呼ぶ、「じゃあんかーろー」、電話の向こう
パリ6区、エコノミー・スクール、ジャン・カルロ、パリにはパリの生活ありき

◇家で子育てしていると馬鹿にされるような国に将来はあるのだろうか・・・

保育所を増やしてみても子は増えずはたらく母が増えるばかりか
微熱でもおむかえ電話保健室はたらく母は虐げらるる
個人主義友より親を優先すヴァカンスのなか違いを思う
子育てをしてる女はのうなしと呼ばれてしまうリストラの世は
軽やかにラテンのノリでのりきれと言われてみてもうれしくもなく
「あんたとは話したくない」それだけでうだうだうるさいセクハラおやじ
リストラに同情よりも当然と感じてしまう本音とどかぬ
地位あれば部下ありき頃おもいだし嘆いてみては嫌がらせする
歌うように子を呼ぶ母のなつかしき記憶のなかの拍子抜けかな

サムエル記上 4. 10-11, 5. 1-5

投稿者 Blue Wind : 11:06 AM | コメント (0)

March 03, 2004

使徒言行録 10. 44-48 異邦人も聖霊を受ける

ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

投稿者 Blue Wind : 05:28 PM | コメント (0)

オトちゃんは番犬なのですとりあえず。寝てるときにも吠えているけど

平日の寝すごした朝オトくんは金属質の声で吠えてる
夢の中わかりかけたら朝だったあたまの疲れめざめすっきり
世の中が大袈裟すぎてけだるくてふつうの主婦は微笑んでいる

◇ご返歌
遠まわり散歩するよに公園の三角歩きを楽しんでいる
泣き面にしかめた春の食卓に枝豆のせてごまかしてみる
オトちゃんは番犬なのですとりあえず。寝てるときにも吠えているけど
ゆるやかな日差しのかなし着膨れに慣れてしまった季節のおわる
地の果てへ斜めにすすむおそろしさ月をめがけて谷の向こうへ
ヘルメットかぶっているのに目線とは気づきも合図信号は青
いろあせた季節の日焼けなさけなくシミと呼ばれるお年頃かな
昼寝どき寂しがり屋のオトちゃんは甘えた声でうんちと呼ぶの
郷愁はかおりやすらかレコードの赤ちゃん抱くよな気のつかいかた
白猫のいきなり太る春の庭気をつけようと警告を受く
招き猫貯金箱にして置くよりもビッグサイズのPEKE猫さまか

使徒言行録 10. 44-48 異邦人も聖霊を受ける

投稿者 Blue Wind : 01:45 PM | コメント (0)

脱ドグマ

題詠には、言葉の借り着をしているような違和感がある。たとえば、「空」などは自分の好きなタームだから、それを過去ログの検索をすればおそろしいほどの数の歌が出てくるようにも思う。ところが、いきなりぽんと出されると、どこかごつごつとした異物のようで、それがなかなか自分のものにはならない。でも、異物により押し出されてくる歌というのもあるのかもしれないし、手探りながらもぽつりぽつり詠んでいる。慣れるとこれがおもしろいと語っていた人もいるくらいだから、そういうものなのかもしれない。
自分の場合は、毎日気楽に詠んでいるだけだから、言葉の異物感というものが欠如しているような気がする。3000首を超えたあたりから、少しは気のきいた言葉を捜そうという気持ちにもなったけど、題詠をこころみることにより、逆にそういうものがす〜っと消えていく。それより逆に小野小町の偉大さを知った。
つまりは、何もむずかしい言葉などを使っていないのに、実に奥深い。少しは自分も歌のおもしろさがわかってきたのかもしれない。どうしてパリサイ人なのかということも、どうしてジーザスなのかということも、どうして子どもにお話するように詠わなければならないのかということも、なんとなく見えてきた気がする。ジーザスが現れる以前の人たちは、いわばあたしの題詠の歌みたいなもので、言葉の借り着だ。言わんとしている意味が通じない。だから、書かれている通りをいかにきちんと実行しているかどうかを競っているような雰囲気。つまりは、戦争に負けたのは誰かが安息日を守らなかったからではないかとか、そういう教条主義的な世界。
ジーザスはメタファー・オンリー。歌も。ストレートに詠むと怒る人がいる。そこを何となくメタファーで詠む。概念などは特にそうかもしれない。子どもに大切な話をしようとすればするほど、そこはメタファーのオンパレードになってしまう。だって、最初からなかなか理解してくれないのがわかっているから、なるべくわかりやすいようにたとえ話で語る。話の内容がむずかしくなればなるほどたとえ話が多くなる。
たったこれだけのことを悟るまでに、どれほどの言の葉が必要だったのかと思うと情けなくなる。ネットだと誰か教えてくれる。いや、もしかするとそれが普通なのかもしれない。仕事だったら、とりあえず先輩にあれこれ教えてもらいながら自分の仕事をやるのかもしれないし、そのほうが効率的なのかも。ところが研究室みたいなところだったら、まずは誰も教えてくれないと思ったほうがよい。パソコンの使い方がわからなければ、最小限度のことは近くに座っている誰かが教えてくれたりするけど、めんどーだとマニュアルのある場所を教えてくれるだけとか。つまりは、自分でやるのが当たり前という暗黙のルールがあり、自分は私学だからこれでもまだマシなのだそう。東大から来た先生だと、いきなり面食らうらしい。つまりは、学生が何かを教えてもらえると勘違いしているからだそう。
自分は、もう、極端に親切な人たちか、極端に冷淡な人たちしか知らないのかも。たまにそうやって思う。どちらも性格から来るものというより、環境因子のほうが大きい気がする。つまり、それぞれの当たり前が違うから。
それにしても、どうなのだろう・・・
逆に語れば、ネットだと、「りんちゅあん、わっかんな〜い」という世界なので、なるべくわかりやすく書こうという努力を重ねている。それこそ、本当はうちの娘でもわかるように書かなければならないのかもしれない。でも、幼稚に語ったからといって伝わるわけでもないらしい。それこそ絵でも描ければまた違うのかもしれないけど、自分の場合、そちらの才能はない。だいいち、自分でさえ、わっかんな〜いんだから、それをどやって他人に語ったらよいのかだってわかるはずもない。やっぱ、聖書を読まないとダメなのかも。メタファーの世界をふわふわと浮遊する。あまりにも深すぎて、自分のキャパを超えてしまっているような気がする。
言葉って、かなりこむずかしい道具だ。発信する側と受信する側がいて、なおかつそれぞれのレセプターにバイアスがあるために、何かがそのまま伝わるなどということはありえない。もっともあらゆるものがそういうものなのかもしれないけど。
それにしても、お題が完璧に自分のものになっている歌はすごいと思ってしまう。詠いたい世界があるんだろうな。ただし、DIDIのベクトルだけど。マライア・キャリーへ進むか、DIDIへ進むか迷う。

投稿者 Blue Wind : 12:34 AM | コメント (0)

March 02, 2004

士師記 20. 36-42

イスラエル人はギブアに対して配置した伏兵を信頼していたので、ベニヤミンに戦場を明け渡した。その伏兵がギブアを急襲した。伏兵は突入し、町をくまなく剣をもって撃った。イスラエル人と伏兵との間に打ち合わせがあって、町からのろしの煙が高々と揚がると、イスラエル人は戦線に復帰することになっていた。ベニヤミンは、イスラエル人に死傷者が出始め、約三十人の兵を打ち倒したとき、「初戦と同様に、敵を打ち負かした」と思ったが、雲の柱のようなのろしが町から揚がり始め、ベニヤミンが振り返ると、町全体が火に包まれ天に燃え上がっていた。そこへイスラエル人が引き返して来たので、ベニヤミン人は、自分たちに不幸な結末が訪れるのを知ってうろたえた。彼らはイスラエル人を見て荒れ野の方に向かったが、戦いを逃れることができなかった。町々から出て来た人々も加わって彼らを屠り去った。

投稿者 Blue Wind : 11:34 AM | コメント (0)

つぶやきのなかうたわるるみことばのつたわりゆくも雲のかたちも

澄み切った空さがすはず歌詠みはくねくね曲がるやみ路へ落つる
ぎりぎりの精神の中すれすれに飛ぶ綿帽子蒲公英の春
短歌とは漬物石をよっこらしょ糠を落として包丁で切る
つぶやきのなかうたわるるみことばのつたわりゆくも雲のかたちも

士師記 20. 36-42

投稿者 Blue Wind : 11:04 AM | コメント (0)

題詠マラソン2004, 009-020

009:圏外
受信機は大気圏外お話中留守電いれて60億人
010:チーズ
パイの中細切りチーズ散らしては味が違うと意味なく思う
011:犬
雨の日は犬さえ眠る朝の部屋うすぐらき中寝息を膝に
012:裸足
ガラス片裸足のままに突き刺さる小さな粒を投げ捨ててみる
013:彩
藍色を無彩色より透明に溶かしてみたいバケツの中で
014:オルゴール
オルゴールメランコリック踊る服汚れたピエロ買った日から
015:蜜柑
冷凍の蜜柑を買って旅立とう汽車は遠のき駅のない街
016:乱
乱気流シートベルトを締める音カチカチ鳴って眠れない夜
017:免許
初運転国際免許のなつかしき戻せと言われそのままにする
018:ロビー
ロビーでは潮風の吹くテラスへととけこむように座っていたい
019:沸
沸沸と浮かぶ雲さえ虚ろげにまぶしき陽浴び夕暮るるまで
020:遊
くすくすと笑い転げてみたけれどちょっと遊んであかんべをする

おかしいなぁ・・・・・なんで、題詠マラソンとなると悪魔の歌を放り込んでしまうのだろう。
破壊衝動に駆られている気がしてならない。
これが、自分の歌と思われてしまうわけ?
いいけど、別に。

投稿者 Blue Wind : 08:50 AM | コメント (0)

レトロの形象

短歌の弱点は、あまりにもストラテジーがはっきりしすぎていることかもしれない。つまりは、方略というものが明確に存在し、しかも定型詩。しかも、詩と言ってもよいのかたまに酷く迷ったりする。思考を柔軟にあろうと努力をすると、常にそれとは別のベクトルにより押し留められてしまう。つまり、何となくでしょうけど、短歌とはこうあるべき、みたいな型があるのだと思う。それを破壊するためには、あまりにも壁が大きすぎかな。だから、一般的に人気のある歌人だと詩のほうが有名だったりする。寺山修司や北原白秋が歌を詠んでいたということも知らなかったくらいだから・・・中原中也の短歌をこの前発見して、驚いた。彼が中学を落第したのは、短歌ばかり詠んでいたかららしい。
これだけ文学について無知な自分がどうしてアート云々について語れるかというと、おそらくは大学から”アートの親方”という証書をもらっているからだろうし、文系は博士号が極めて取得が困難な状況にあるために、とりあえず、どうしてこういう分類になるのか知らんけど、とりあえずはM.A.がある以上、あれこれ能書きを言っても今まで文句を言われたことはない。ところが、短歌のこととなるといささか事情が異なる。それくらい特殊化された世界。近頃、ようやくそれが少し見えてきた。
つまりは、支えすぎているんだろうな・・・あまりにも支えようとするベクトルが強すぎて、過保護な文学とも言える。やけに過保護。詩ならあれこれ言われないようなことでも短歌となると、「これは短歌ではない」などと平気で言う人たちがいる。ならば、「短歌とはなに?」と訊いても、これまで納得するような回答を発見できたようにも思えない。(河野裕子さんの説明が何となく一番好きだったけど・・・)
もしかすると、いわゆる”格上”の人たちなら、まったく逆のことを考えているようにも思えるんだけど、末端になると型から出るにはあまりにも重石が重すぎ。これを跳ね除けるには詩を書けと言われる。ヘンだ・・・なんで短歌ではダメなんだろう?
自分は短歌はセカンドアートでよいと思っている。何気ない日常や歌のやりとり。たくさんの言葉で語るよりも少ない言葉のほうが気持ちが伝わることもある。携帯にさりげなく57577を放り込む人たちもオシャレな気がするし、そういうさりげなさが短歌のよさだと思っていたんだけど、それではいかんらしい。どのようにいかんかというと、短歌はアートでなければならないらしい。アニメも文化なのだから、短歌がアートでもかまわないと言うと、また叱られそうだ。このように叱られながらも歌を詠む。叱られるところが短歌のおもしろさなのかもしれないし、そこをまた観察すると、さらにおもしろい。
現代短歌とか、ニューウェーブとか、あれこれ古めかしい言葉もある。現代と言われて眺めれば、著作権切れしている歌も多い・・・それでも近代短歌ではないらしい。短歌にはレトロなよさがある。古めかしいよさというか、古今東西人間なんて変わらないから文学などと思ってきたけれど、そういう中で現代を詠めという・・・現代を詠めと言われること自体が古めかしい・・・どこまでもレトロな世界。詩の定義を借りることにより短歌をアートと定めるならば、結局、詩を書いたほうが早い。

はなのいろはうつりにけりないたずらにわがみよにふるながめせしまに

小野小町は偉大だ。なぜかと言えば、自分が暗記している和歌はこれだけだからだ。暗記しようと思ってしたわけではなく、何となく覚えていただけ。あとは、もしかすると覚えているのかもしれないけど、辞書から暗記のために暗記した英単語のようで必要にならないと浮かばないらしい。この前、サイトで聖書ストーリーを眺めていたけど、聖書を読んだこともないのに知っている話ばかり。ジーザスのセリフすら残らず知っている。いつのまに・・・
株も雑誌を眺めてから売買したのでは損するばかりらしいし、ふわふわと飛んでいるのはむずかしい。

投稿者 Blue Wind : 12:42 AM | コメント (0)

March 01, 2004

短歌とは美しいなど言っていたその人は今詩を書いている

乱気流ワイハ航路を飛行機は台風きても飛び立っている
生きることことほぐもよしノースへと渋滞の中走るのもよし
真夜中の霊安室の赤ランプ点る廊下も近道なりき
煌煌と深夜の窓のあかり点き無人の部屋は誰を待つべし
不安げに話し相手を待つ人のソファの前を夜の退院
短歌とは美しいなど言っていたその人は今詩を書いている

投稿者 Blue Wind : 11:29 PM | コメント (0)

コロサイの信徒への手紙 2. 6-19 キリストに結ばれた生活

  あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
  だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長していくのです。

投稿者 Blue Wind : 01:51 PM | コメント (0)

ちぐはぐ感

この題詠マラソンのちぐはぐとした雰囲気・・・
そのように感じているのはあたしだけかもしれないけど、所属を書こうかなーっとか書くのやめよかなーっとかそういうささやかなネットの聖域が破壊されつつある。いきなり猛ダッシュをかける人、それにストップをかける人、あたしのようなどーでもいいと思っている人。イベントだから、それなりにそういう人も出没する。短歌を始めたばかりのビギから、なんとか先生が見たとか見ないとか、そういうことしか思いつかない人まで、それこそいろいろな人たちが集まっているのだろう。要するに、気合が違う。
というわけで、あっちには悪魔の歌を放り込んでしまっている。これって無意識なのよね・・・一種の使い分けかもしれない。オトくんでもおとなしいときもあれば、ぺたぺた歩き回って吠えているときもあるし、次第に精神が乾燥していってしまう。

こう、少しずつ何かを思い出しつつある。もう、すべてを忘れてしまっていた。なぜかといえば、家で子育てをしているだけであり、生活の糧はダンナがてきとーに運んでくる。子煩悩なよい父親でしょう。あたしにも特にこうるさいことも言わないし、お昼に時間があけば、家に戻ってきて、オトくんを抱っこして昼寝している。まだ、体調が本調子ではないのかもしれないし、そういうことは何も言わないからわからない。

神父さんのお母さんの写真を見て、なにを癒されているのだろう・・・あたし。亡くなってまだ誰かにご奉仕している。その誰かのうちの一人があたしだろうな。アングラ汚染というわけではないけれど、次第に精神がドライになっていってしまう。それをかろうじて小指一本引っ掛けて留まる。結社誌へ投稿するより、婦人雑誌へ、か。その気持ちはわかるのだけど、今は短歌は流行っていないらしくって、一部の人たちが読むようなものしかない。ヴァン・サン・カンあたりで、短歌のコーナーをつくってくれないかしら・・・ELLEとか。

ネットは今、眼に見えない垣根のようなものがあって、アングラを極端に嫌う人たちと、完璧にアングラ志向の人たちと、中途半端で迷っている人たちとが入り乱れている。それにしても中途半端になってしまったよなぁ・・・一生懸命に歌壇向けの歌を詠むのも退屈だし、それでいておバカなスタンスで詠んでいるとそれはそれで何か言われるらしい。直接言われているわけではないけれど。
どこかにあたし向きの歌の世界がないかしらん?

投稿者 Blue Wind : 01:07 PM | コメント (0)

題詠マラソン2004, 001-008

001:空
あの空はいつも変わらず浮かんでる地球の色か青蒼き空
002:安心
まどろみにうつらうつらと安心を手探りする枕の匂い
003:運
幸運と好運ってのは違うよと教えてくれた不運な女
004:ぬくもり
ぬくもりのとどかぬ土にしづもれる水仙はまだ春を告げずに
005:名前
名前すらわすれてしまうときどきに浮かぶ過去よりおとづるる人
006:土
赤土に覆われし地もはらはらと生きし枯れしと黒土となる
007:数学
数学のテキスト文字のうすらわらい問題集のせせらわらう声
008:姫
”姫”という隠語をながむネットかな悪魔がわらう親父がわらう

投稿者 Blue Wind : 10:02 AM | コメント (0)

桃の花目にうつりては緑緑と遠くの森は深くしづもり

桜樹に新芽ふくらむ雨の中旗をとどけに公園散歩
はまぐりの中くらいになる季節かな巨大はまぐりしばしお休み
桃の花目にうつりては緑緑と遠くの森は深くしづもり
ミモザには黄色い花の昇りたる春はおとづる枯れ草のなか

コロサイの信徒への手紙 2. 6-19 キリストに結ばれた生活

投稿者 Blue Wind : 09:41 AM | コメント (0)