March 03, 2004

脱ドグマ

題詠には、言葉の借り着をしているような違和感がある。たとえば、「空」などは自分の好きなタームだから、それを過去ログの検索をすればおそろしいほどの数の歌が出てくるようにも思う。ところが、いきなりぽんと出されると、どこかごつごつとした異物のようで、それがなかなか自分のものにはならない。でも、異物により押し出されてくる歌というのもあるのかもしれないし、手探りながらもぽつりぽつり詠んでいる。慣れるとこれがおもしろいと語っていた人もいるくらいだから、そういうものなのかもしれない。
自分の場合は、毎日気楽に詠んでいるだけだから、言葉の異物感というものが欠如しているような気がする。3000首を超えたあたりから、少しは気のきいた言葉を捜そうという気持ちにもなったけど、題詠をこころみることにより、逆にそういうものがす〜っと消えていく。それより逆に小野小町の偉大さを知った。
つまりは、何もむずかしい言葉などを使っていないのに、実に奥深い。少しは自分も歌のおもしろさがわかってきたのかもしれない。どうしてパリサイ人なのかということも、どうしてジーザスなのかということも、どうして子どもにお話するように詠わなければならないのかということも、なんとなく見えてきた気がする。ジーザスが現れる以前の人たちは、いわばあたしの題詠の歌みたいなもので、言葉の借り着だ。言わんとしている意味が通じない。だから、書かれている通りをいかにきちんと実行しているかどうかを競っているような雰囲気。つまりは、戦争に負けたのは誰かが安息日を守らなかったからではないかとか、そういう教条主義的な世界。
ジーザスはメタファー・オンリー。歌も。ストレートに詠むと怒る人がいる。そこを何となくメタファーで詠む。概念などは特にそうかもしれない。子どもに大切な話をしようとすればするほど、そこはメタファーのオンパレードになってしまう。だって、最初からなかなか理解してくれないのがわかっているから、なるべくわかりやすいようにたとえ話で語る。話の内容がむずかしくなればなるほどたとえ話が多くなる。
たったこれだけのことを悟るまでに、どれほどの言の葉が必要だったのかと思うと情けなくなる。ネットだと誰か教えてくれる。いや、もしかするとそれが普通なのかもしれない。仕事だったら、とりあえず先輩にあれこれ教えてもらいながら自分の仕事をやるのかもしれないし、そのほうが効率的なのかも。ところが研究室みたいなところだったら、まずは誰も教えてくれないと思ったほうがよい。パソコンの使い方がわからなければ、最小限度のことは近くに座っている誰かが教えてくれたりするけど、めんどーだとマニュアルのある場所を教えてくれるだけとか。つまりは、自分でやるのが当たり前という暗黙のルールがあり、自分は私学だからこれでもまだマシなのだそう。東大から来た先生だと、いきなり面食らうらしい。つまりは、学生が何かを教えてもらえると勘違いしているからだそう。
自分は、もう、極端に親切な人たちか、極端に冷淡な人たちしか知らないのかも。たまにそうやって思う。どちらも性格から来るものというより、環境因子のほうが大きい気がする。つまり、それぞれの当たり前が違うから。
それにしても、どうなのだろう・・・
逆に語れば、ネットだと、「りんちゅあん、わっかんな〜い」という世界なので、なるべくわかりやすく書こうという努力を重ねている。それこそ、本当はうちの娘でもわかるように書かなければならないのかもしれない。でも、幼稚に語ったからといって伝わるわけでもないらしい。それこそ絵でも描ければまた違うのかもしれないけど、自分の場合、そちらの才能はない。だいいち、自分でさえ、わっかんな〜いんだから、それをどやって他人に語ったらよいのかだってわかるはずもない。やっぱ、聖書を読まないとダメなのかも。メタファーの世界をふわふわと浮遊する。あまりにも深すぎて、自分のキャパを超えてしまっているような気がする。
言葉って、かなりこむずかしい道具だ。発信する側と受信する側がいて、なおかつそれぞれのレセプターにバイアスがあるために、何かがそのまま伝わるなどということはありえない。もっともあらゆるものがそういうものなのかもしれないけど。
それにしても、お題が完璧に自分のものになっている歌はすごいと思ってしまう。詠いたい世界があるんだろうな。ただし、DIDIのベクトルだけど。マライア・キャリーへ進むか、DIDIへ進むか迷う。

投稿者 Blue Wind : March 3, 2004 12:34 AM
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