March 26, 2004

21世紀の霧の中

今月はすでに400首近く詠んでいる。これが多いのか少ないのか、実は皆目検討もつかない。ただ、昔の歌人のことを考えれば勢いとしては多いほうなのかもしれない。でも、1日で100首くらい詠んでしまう人たちもいるのだから、それを考えると決して多いほうではないのかもしれない。詠むネタがないと思ったら、時事短歌でもなんでもありいなんだから気楽。
想念というのは不思議なもので、18年前のパリの歌から始まり、毎日聖書を詠んでいるうちにどうしても旧約聖書の世界が理解できない。その世界をどうにかして理解しようと思っているうちに時事短歌へ走る。これはごく自然な行動であり、毎日詠んでいればそういう時もある。かなり本人にとってはおおまじなのよ。報道などからイメージして、イラクの歌でも詠むわけでしょ?そうなると実際にイラクには行ったこともないのに詠む。アフガンにしても然り。歌壇では新聞に投稿するような歌は嫌われるのかもしれないけど、実際に投稿はしないまでもある程度歌にして自分の意見を発信していくことはそれなりに意義があると思う。つまりは、長々とした解説文などを詠むよりストレートだからかも。歌のインパクトを練習する上ではなかなかの効果があるような気がするけどどうだろう。できればパッと見てなかなか意味が理解できない歌よりも、一瞬のうちにこころに引っかかるような歌のほうが面白い気がするのは、あたしが歌のことをよく知らないせいかもしれない。
でも、難解な歌なら歌なりにどこか存在感があったりして、佐藤春夫さんの言葉を借りると、語感というものなのだろう。つまりは、現代詩を難解にしているのは、詩を語意で捉えようとしているのが原因だという。詩人は語意ではなく語感を大切にする。だから、読者が、語感ではなく、語意でその意味を理解しようとしても理解できないのが当たり前らしい。まあ、詩人は実用書を書くわけではないから、その語意に深く留意する必要もないわけで、それよりも語感を大切にするという気持ちは歌も一緒。だから、新聞などに投稿する歌はどちらかといえば語感よりも語意が大切であり、内容重視型なんだろう。だから、詩ではないかもしれない。だから、歌でもないらしい。でも、語意を伝えるだけでは詩や歌にならないという気持ちは、誰でも根底にあるのではないだろうか。
自分としては、もはや詩と歌を特に分けようという気持ちはない。
万葉集の写真集を買った。英訳がついている。
英訳を読むと、なるほどたしかに万葉集というのは日本最古の詩集であり、いかに詩情にあふれた世界なのか今さらながらに目からウロコ。歌は、どうしても語数律だから、リズムや語調が大切になる。だから、そのリズムに乗って詠っている分にはとりあえずはどんなふうに詠おうとも短歌らしい。逆に、万葉の詩情をこめて詩を詠っても歌にはならない。つまりは、語数律ではないからだ。ただそれだけのことなんだけど、日本語のもつリズムというのがそもそもが8分の5拍子なのだから仕方がない。

一つ気がついたんだけどね、もしかすると間違っているかもしれないけれども、今の歌壇を引っ張っていっている高齢の人たちの時代は、どこか破壊の世代であり、常に新しい形を模索しながら今の形態をつくってきたのではないかという・・・気のせいかな。自分にはもはやそういうこともよくわからない。逆に、「ネット短歌」と表現されると残念でたまらない。そういうつもりはまったくないからだ。もしかすると、ほかの人たちは、ネットにありがちな歌の世界が非常にめずらしいだけなのかも。なんか、いつも視点がずれてしまう。つまりは、自分は古い歌をあまりにも知らなさすぎなのかもしれないし、それでいて何も困らない。
ただ、歌くらい好きに詠っていたってよいのではないかと思っただけ。
今から半世紀くらい前に、学生がアパートで静かに歌っていたのがボサノバ。つまりは、そうやってブルーノートは広がっていったわけであり、自分はどこかその流れの中にいたいと思っている。静かな反戦というか・・・反戦デモにも興味ないし、いわば暴力そのものを否定するべきではないかと思う。声を大にして語ることも諦めて、静かなつまびらやかな世界。明るくもあり暗くもあり、自然があり愛や恋がある。好きなものだけを詠う。どこかそういう世界の流れの中にいたいという気持ちはある。R&Bは好きではない。でも、軽いノリであれこれ社会派のサウンドも面白いような気もする。
あっさり語るけど、あたしは21世紀の歌人だ。だって、初詠みが2001年2月5日だ。サイトのコンテンツにしていたから記録も残っている。2001年のお正月に初めてサイトをつくり、単なる流れだったんだけど、今にして思うと21世紀になったとたんにいきなり歌人になってしまった。それがまさか今日まで続いてしまうなんて当時は思っていない。ついこの間のことのような気がするし、ずいぶん前のことのような気がするし、自分のことに没頭しながら歌を詠む。
誰が厳しいと言って、自分が一番厳しいだろう。歌は正直だから。調子のよいときもわるいときもある。こーね、一人あつまり二人あつまり、という感覚は嫌いではない。来るもの拒まず去るもの追わず、みたいな。ゆるやかな関係性。実際にはどうだったのかはわからないけど、自分的にはそういう感覚のほうが好きだ。気を遣いながら歌を詠んでいて何が楽しいのかよくわからない。いささか競争心をむき出しにして歌を詠むのも趣味ではない。あっさり語れば、自分はもともとバトル系だ。もしかすると論客かもしれない。でも、なんで歌を詠むくらいで大騒ぎしないといけないのかよくわからない。
ジョアン・ジルベルトが最初にボサノバを歌い始めた頃の流行歌の主流は、もっと大袈裟で感情をこめて歌うとか?つまりは、劇場歌手の世界だったのだろう。あんな小声でぼそぼそ歌っていたら声が後ろの席まで届かないではないか。たぶん。でも、時代はどんどん変化する。
今の自分の心境としては、あれはダメこれはダメと言われていることをどんどんためしてみたい。破壊するのが目的ではなく、歌は写実が基本と言われれば、写実でない世界を詠んでみたいし、概念歌が古いと言われればそれも詠んでみたい。ニューウェーブが終わったと言われれば、ちょっと真似して詠ってみたい。万葉集が死んだと言われれば、英訳の万葉集でその時代を眺めてみる。だから、あれもダメこれもダメ、こうするべきああするべきという話にはなるべくたくさん目を通したい。それが自分の肥やしだからだ。一事が万事この調子だから歌の数は多い。だから、おそらくは自分で気に入るような歌が詠めるようになるためには2万首くらいが今の目安。最初の頃のピッチだとそこまで到達するまでに何年かかるのだろうと思っていたけど、毎日ポツリポツリ詠んでいるだけで、今月は一気に倍になっている。歌だけ詠んでいるわけではないんだけど、ペースの問題なんだろうな。
誰かがサイトにアップするのは発表だと騒いでいたけれども、あたしの歌はまだまだどこかに発表できるような歌ではない。それでいて、もう昔のように、軽いノリで詠いたいとも思わない。なんか、かったるい。今、すごく面白い。自分がどこへ向かっているのかわからないけど、要するに自分の世界へ向かって進んでいるような感覚はある。これが自分の世界というものをつくりだしたい。今はまだ霧の中。完成したら終わるのだろうか。そんな先のことまで考えても意味ないか・・・

投稿者 Blue Wind : March 26, 2004 05:16 AM
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