March 10, 2004

気づき

一度狂気の軸によって動かされてしまった行動様式をフィードバックすると、それがいかに奇妙なものであるか少しは理解できるようになるかもしれないと思う。たとえば、常識で考えて、よく知りもしないサイトへ来訪し、いきなり誹謗・中傷を書くという行為は異常だ。どうしてそれが異常と気がつかないのか不思議でしょ?つまりは、狂気により軸を狂わされているからだ。
ある、そういう行動をする人がいて、明らかに彼は異常だ。だから、彼の行動は異常であるとずっと語っているのに通じない。どうしてそういう誤差が生じたかというと、「喧嘩」という認識がある。誰かと誰かが喧嘩している。だから、誰かがそれを擁護しようと喧嘩に参加する。だから、本人にはそれが奇妙な行動には思えないらしい。
しかし、彼は一体誰と喧嘩しているのだろう?あたしだろうか?あたしは彼のことを知らない。なのに、どうして喧嘩を売られなければならないのだろう?そこにトリックがある。
つまりは、この奇妙な行動を「狂気」と語るから怒り心頭になる。最初に狂気がある。それに巻き込まれた人たちはすでにそれを狂気とは感じられなくなるらしい。それで、「そういう人を相手にするときにはこうしてああして」といい加減なアドバイスを受ける。そのアドバイスをしている人もヘンだ。つまりは、自分のほうが幾分マシだと思うから、どうにかしてあげようという親切心かららしい。つまりは、一般社会における常識が通じなくなる。
こうなると、傍から見たらただの喧嘩となる。
つまりは、最初はまったく通り雨のような殴り込みが、いきなり殴られて頭に来たほうが殴り返す。その結果、最初の意味のない殴りかかりがそもそもヘンなものであるという認識が消えてしまう。殴られ損かもしれないけど、もしも本当にやばい人にいきなり殴られたとしたら、悔しくても大抵の人は逃げ出すだろう。だって危ないし・・・できれば係わり合いになりたくないと思うほうが普通ではないだろうか?
それがそのうち誰かが警察へ訴える。ところが証人がいるだのいないだの、軽いとか重いとか、悪気があったとかないとか、殴り返されたとか、あれにこれに長引くほどに警察も介入しにくくなる。だって殴り返した時点で双方に言い分が発生するし・・・でも、本当にやばいのは、最初に殴った人が誰かを殴るだけの明確な理由がないということ。つまりは殴られたほうはどうして殴られたのかわかっていない。だけど、殴られた悔しさで一杯になるから、本質的なことを見失ってしまう。(被害妄想による暴力の発生だろう。)
最初に意味不明に殴ったほうは、どんどん敵という認識の下に集まってきた人たちを殴りつける。こうなると集団になってしまう。だから、理由もなく殴ったほうはあたかも集団リンチを受けているような錯覚に陥る。が、しかし・・・・もともとは自分の撒いた種。一生懸命にあいつが殴ったとか蹴ったとか言う。それも事実かもしれない。でも、問題は原因がないことだ。殴られたと言うほうに先に殴るだけの言い分がそもそも無い。だから、無関係の人たちを巻き込む。
その輪の中でやっている分には気がつかないかもしれないけど、そもそもが輪の外側に出て、もしそれをやれば、誰がやっても狂気だ。いきなり知らない人を殴りつけるわけだから。しかも相手が女性だったらどうだろう?

明らかに単なる暴行だ。

どうしてこんな簡単なことに気がつかないのだろう?そこが不思議でしょ?
だから、一番常識的な解決法は、そういうトラブルを無視することであり、すべてまとめて狂っていると決め付けてしまう。事実ヘンだからだ。それがヘンであるという自覚がないということがすでにおかしい。「あの人たちはおかしい人たちなのだから、憐れに思おう。」それだけで、一気に平和になった。

それとも別の要因が作用したのだろうか・・・
ローマは一日にしてならず。

イザヤ書 30. 15-17

投稿者 Blue Wind : March 10, 2004 03:55 PM
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?