March 17, 2004

トラ歌人

十代の頃から親の葬式を心配しながら生きてくると、30歳を超えたら自然と自分の葬式のことを考えるようになる。年寄りっ子でもあり、短命の家系だとそれが普通だ。それでも、自分の場合は父に比べればまだマシではないかと思う。彼の場合は、長男が40代で代々亡くなってきたために、戦争という暗い時代背景もあっただろうけど、自分もまた40代で亡くなるかもしれないという破瓜的なところがあり、その後も鬱々と弱い心臓を抱えていたせいか、あたしも子どもの頃は学校を休まされて突然旅行に連れ出されたり、ちょっと変わったところのある親だったかもしれない。母も祖母も65歳の手前で脳出血だから、いずれにせよ、元気なうちに精一杯やりたいことをしておこうというか、母もかなり身勝手な人だった。そういう親たちに振り回されながら、子ども時代を過ごしてきたんだなーと、娘を育てながら感じたりする。
ダンナもあたしも共に年寄りっ子だけど、まだうちのダンナのほうが生産的に育てられている。将来的には誰が親の世話をしてとか、たしかに姑さんのところは長生きの家系だから、いっつもボケや寝たきりを心配しながら健康管理には人一倍という性格だし、よく考えればそれが普通なのかもしれないとワイドショーを眺めたりすると思ったりする。あたしの場合は、個人年金でもすでに自分が受け取れないような気がするから、損しないように娘が受け取れるような形にしてあるし、万が一生きていたとしても介護や医療費にあてるくらいの考えしか持てない。

よく考えたら、これは鬱なのかもしれない。でも、病気ではないらしい。というのは、子どもの頃からそういう親に育てられると、そういうのが当たり前なのですでに終わっている。病気になったりとか、災難に遭遇したらとか、明日がどうなるのかわからないとか、すでに終わっている。ダンナにも検診に行けなどと言われるけれど、いささかそういうことにもうんざりなのです。明日死ぬなら死ぬでそれまではやりたいことをさせてくれというのほうが当たり前のメンタリティなので、うちの娘などはそういう理屈を凌駕した部分をうすうすは感じとってはいるだろうけど、幼稚園の頃には、一日早くダンナが香港へ行くのを見送っただけで、「お父さんが心配」と空港で泣いていたし、母が脳出血で倒れた姿をみて、あたしがあんなふうになったらどうしようかといきなり泣き出したり、そういう意味では感受性のつよい子かもしれない。
まだ小さいのに気の毒なやっちゃと思うけど、オトくんが来た日に、「お父さんもお母さんもいなくなるかもしれないけど、そのときにはオトくんと生きろ」と言ってある。『フランダースの犬』ではないけれども、いつそうなるかもわからない。そうならないように、とは思っているけれども、こればかりはわからない。ふつうだったら、子どもにそういうことを言っても説得力がないのかもしれないけど、そういうのがみょうに説得力のある家庭環境というところがなんともはや。
でも、何の免疫もなく不幸に遭遇するよりも、ある程度、そういうストレッサーに対する免疫はあったほうがいいような気がする。諦めがよくなるからかな。泣いても怒ってもどうにもならないことのほうが多いと思っていると諦めがよくなる。諦めがよいほうが自分を救いやすい。いつまでもあーだこーだと怒っているヒマがあれば、もっと違うことをしようとか、切り替えが早い。あまりにも早すぎて、他人には冷たい人間だと思われてしまうのだろう。たまに、うちのダンナに対してもそのように思ったりするから、おそらくは他人からみれば、自分もまたそのように映るのだろうとはたまに思ったりすることもある。が、しかし・・・・そうなると、すでに他人のことはどうでもいいような気がしてしまう。
一番の悩みの種は、他人に癒しを求められたくないということかも。

鬱々している部分というのは、弱点なのだそう。弱点なら弱点でそれはそれでかまわない。それでどこか弱く見えてしまうのは仕方がない。でも、実際には全然弱くないと思う。鬱々とぶっつぶれているくらいがちょうどいい。なぜかというと、そういうときには少なくても癒しは求められないからだと思う。鬱の人を励ますと、猛烈に怒ったりするでしょ?つまりはそういうことなのよ。だから、本当は猛烈に怒る権利があるのだと思ったりする。それでいて、いちいち怒るほどには鬱々していないらしくて、逆に他人が猛烈に怒ったりする。どうして怒るのかというと、弱点だかららしい。
そういう鬱同士のあほらしい中にいるより、あっけらかんとマンガを読んだり、ゲームをしているほうが生産的なのかも。それでいて、そういうのにも飽きる。
オトくんはうれしそうに寝ているし、ダンナは夕飯のことしか考えないし、おちびはマイペースだし、あたしはのんきに歌でも詠む。静かに詠んでいるのではなく、なんと言うか、いわば鬱捨て場だ。なんか、鬱々と鬱を捨てるとすっきりしてしまう。もともとあってないような幻の鬱だから尚更かも。内心はぎゃーぎゃー喚きながら詠んでいる。「ばかやろ、歌くらい好きに詠ませろ」とか。いわば、タイガース・ファンの心境に近いのかも。あのように、大虎をかましながら詠んでいる。それが行き過ぎないように、自制の意味で、神父さんのサイトや聖書を読んでいるのかもしれない。それが外れると、どんどん毒々しくなっていってしまう。自分ではネコ歌人だと思っていたけど、もしかするとトラ歌人かもしれない。やば。

投稿者 Blue Wind : March 17, 2004 11:07 AM
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